「なぁ……飽きないか?」
暖かな布団の中でほんの少し両足を曲げたまま、左京葉野香は言った。
それを聞いて、彼女の対面で寝そべっていた青年がわずかに身じろぎをする。
……何が?
気のない返事。葉野香にとっては予想通りの答えだった。何しろ葉野香自身、今の自分の問いの真意を掴みかねていたのだ。
「いや……なに、って言うわけでもないけどさ……」
言葉を濁して、葉野香は両腕を組んだ。目の前には、何冊かの参考書や辞書が置かれている。それを見て、葉野香は今日の集まりは期末レポートのための勉強会が名目だったと思い出した。もっとも、集まりというのは大げさだった。何しろ、参加者は彼だけである。
じゃ、外でも出る?
また、くぐもった……丸めたざぶとんに顔を押しつけたままの彼の声。それを聞いて、葉野香は長く整った眉をひそめた。
「外って……大学の図書館とかは寒いからやめようって言ったの、そっちじゃないか。あたしは全然構わなかったのに。」
……あれ、そうだっけ?
間延びした声。その無責任さに、葉野香は呆れた。
「なに言ってんだ……ったく、これだからぬるい内地育ちは……」
あたしが買ったコタツを、自分のものみたいに占領しやがって、と葉野香は心の中で付け加えた。あたしは北国育ちだから、この程度の寒さじゃ……
悪かったな、どうせ体力も根性もない都会育ちだよ。
卑下めいた言い返しに葉野香はフン、と鼻を鳴らした。さらに、青年が続ける。
誰かさんみたいに、ヤクザも凹ます片目のスケバンしてたわけでもないしね……
カチン、と何かが突っかかった。葉野香の目が吊り上がる。
「なんか言った?あたしが何だって?あァ、もう一度言ってみろよ!」
本気で怒鳴って……言い終えた途端、唖然とする。自分の行為に。
寝返りを打つようにして身を起こし、葉野香を見る青年。枕代わりの座布団から離れたその顔は、少しこわばっている。葉野香は、声を失った。
まじまじと、こちらを見る視線。その表情。
何かの感覚を呑み込む。コクッ、と小さく葉野香の喉が鳴った。と、彼の表情がもう元に戻っているのに気付く。険しさが消え、呆れたような、苦笑めいた顔がそこにあった。いつもの、彼らしい態度。
ごめん。
それが聞こえたのか、心の中で思ったのか、わからなかった。
でも、そう言いたかった。すぐに謝りたかった。だけど、今垣間見た彼の顔が、葉野香にそれを口にさせなかった。
驚きと、焦りと、そして……恐怖。憤るそれもあっただろうか。複雑な、否定的なそれらが入り混じったような顔。
それが、葉野香の記憶の中からある情景を呼び覚ました。かつて、彼女にとって当り前だった世界。葉野香の何もかもを勝手に決め付け、蔑視する社会そのもの。
もう、そうでなくなったはずの……
そうだと信じていた、世界だった。
葉野香の中で、波紋のように情念が散った。
「……帰れよ。」
顔を背けて、告げる。
言ってしまった、と思った。何か、今の一言で大切な何かをなくしたような気がした。
沈黙が、部屋に満ちる。
葉野香の指先まで、神経が張りつめた。彼はどうするだろう、と思った。怒ってくれればいい。怒鳴ってくれたらいい。何か言って欲しかった。殴り飛ばされてもいい、と心底思った。
だが、それは叶わなかった。無言で身を起こすと、青年は持って来た荷物を手早く片付けた。葉野香はまともにその顔が見れなかった。きっと、見たらまた余計なことを言ってしまう。自分の気持ちと裏腹に、叫んでしまう。
でも……
言いたかった。ひき止めたかった。口にするべき言葉は何かわかっていて、それでも……
それを、言えなかった。
いや、口を開いてそう言えるかどうか、自信がなかった。自分が怖くて、口にできなかった。
ドアが閉まる。残される言葉はなかった。ドアのバタンという音と、かすかに聞こえる歩み去る靴音。身動き一つできなかった葉野香は、今更のように玄関に視線を向けた。
誰も、いない。小さな、猫の額ほどの玄関には、もう誰もいなかった。
行ってしまった。帰ってしまった。私に怒って。
葉野香の肩が、震えた。
無言で、立ち上がる。コタツ布団の重さに苛立ち、それを蹴り飛ばした。赤外線の暖かい光が漏れる。つい一、二時間ほど前、それに潜って子供みたいにはしゃいでいた青年を思い出した。
葉野香はぼうっと辺りを見回した。1Kのアパートだ。玄関から部屋の奥まで、どこからでも一望にできる。狭いが、それでも大切な葉野香の住居だった。ようやく手に入れた、自分だけの空間。家賃は相応で、古いし交通の便もよくなかったが、葉野香はとても気に入っていた。大学四年の間、ここで頑張ろうと思った。
それが今、本当にただのぼろアパートになってしまったように見える。
もう一度、葉野香は玄関を見た。半歩、踏み出す。今なら間に合う、と思った。
「あたしが……」
声が出る。それが、口にするべき言葉だった。このドアを開けて、追い付いて、続きを叫べばいい。アイツはきっと許してくれる。今までもずっとそうだった。どんなに喧嘩をしても、必ず許してくれたじゃないか。
だけど……
「……あたしが、悪いってのかよ!」
身動きしないまま、叫びだけが響いていく。
玄関から顔を背けて、葉野香は唇を噛んだ。
バカ野郎。人の気も知らないで。触れられたくないことに触れやがって。何てデリカシーのないヤツ。あたしが怒るの当り前じゃないか。そっちが謝れよ。今すぐ土下座して謝れ。そしたら許してやるよ。なんだよ、人の家に来るたび、寒い寒いってわめくアンタのために、わざわざ買ってやったコタツじゃないか。安くなかった。電気代だってかかるんだぞ。それなのに……
「ちきしょう!」
自分に嫌気がさして、葉野香は激しく首を振った。黒髪が舞い散って、一瞬、彼女の視界を覆い尽くす。それがまるで、何かを失った葉野香を嘲笑する世界のように見えた。
バカなヤツ。
せせら笑う、誰かの声がした。
ホント、飽きもせずよく喧嘩ばかり。こんなこと、何回繰り返すんだ?何度、アイツを怒らせりゃ気が済むんだ?いくら底抜けのお人好しだからって、こんなこと延々と繰り返してたら、いつか愛想をつかされるに決まってるじゃないか。たたでさえ、可愛げなんて全然ない女なんだぜ?あんな奇特なヤツ、もう絶対に見つからないよ。それを、アイツに気遣いもできずに、そばにいるのが当り前って顔して。何かあるたびカンシャク起こして、文句なんて言いたい放題じゃないか?
葉野香は目を見開いた。
グリーンのブレザーを着た少女。眼帯をした少女が、肩をすくめていた。
鋭くて、冷たくて、そして……寂しそうな隻眼。
葉野香は息を呑んだ。背筋が震えた。
素直になりたいだって?
少女が、冷ややかに言い放つ。
いつ、どこで素直になった?一度でも、正直になったことあるのか?
結局、何も変わってない。突っ張って、人との距離ばかり気にして、遠ざかれば寂しいってグチって、近付いてくればうっとうしいって怒鳴りつける。ホント、あの頃と全然変わってない。彼氏?恋人?喧嘩ばっかりしてさ、バカみたいだね。結局、何一つできやしないじゃないか。それで、どこが素直になってんのさ?ちゃんちゃらおかしいね。
「うるさい!」
葉野香は叫んだ。叫ぶことで、聞こえてくる声を断ち切りたかった。
「あ……あんなヤツ、もう関係ない!あたしはもう、一人でやっていける!」
そうだ。葉野香はきっぱりとそう断じた。孤独なんて慣れっこだ。あたしはあたし、誰にも頼る必要なんてない。元からずっと、そうしてきた。アイツなんていなくたって、一人で何もかもできるんだ。
目を閉じる。固く、固く閉じた。
全てから目を背けるように。声から耳を塞ぐように。
そうだ。あたしは一人でいい。一人がいい。今までも、ずっとそうだった。親に先立たれ、兄に裏切られ、世間に嘲られた。誰一人頼りにならず、話を聞こうとすらしてくれない、そんな中でたった一人で生きるしかなかった。もがき、苛立ち、その果てに……
ようやく、手に入れた自由。自分の力で手に入れた、生活だった。
確かに、親が残した金で通えた高校かもしれない。入れた大学かもしれない。でも、それ以外のことは全部自分でやった。猛勉強して、それなりの大学に入学できた。今だって、バイトで生活費はまかなってる。仕送りなんて、そのまま送り返してやってるじゃないか。入学費とかは、卒業して就職したら倍にして返してやればいい。
笑って、葉野香は胸を張った。そうだ、一人でずっとやってこれた。一人が最高なんだ。もう、何がどうとか余計な気を使う必要もない。もともと面倒だったんだ。自分のことで手いっぱいだし、それでいい。そうだ。それこそ素直なあたしじゃないか。
「あーあ、せいせいした!」
声を出すと、笑い出したいほど楽しい気分になった。何て気持ちがいいんだろうと思う。もう、誰にも束縛されない。あたしは自由だ。次のデートには何を着ていこうとか、化粧やアクセサリがどうとか、あれこれ悩む必要なんてない。あんなヤツのことも、キャンパスの華やかな女生徒たちのことも、気にしなくていい。だって、これからは自分だけなんだから。自分一人で、何でも決められる。凄い、どうしてこんなに気が軽くて、愉快なんだろう。ホント、夢みたいだ。
葉野香はどっかと畳張りの床に腰を下ろした。目の前に置かれている参考書やノートを横に払い、コタツに肘をついてフフンと鼻を鳴らす。
あーあ、もっと早く気が付けばよかった。あたしはもう自由だ。自由になったんだ。バカな兄貴も、今は遥かな北海道で嫁さんと仲良くやってる。私を不良の妹だって知ってるヤツは、ここには一人もいない。念願の大学にも入れたし、今までのことを気にする必要なんてないんだ。何を肩肘張って、真面目につきあおうと苦労してたんだろう。あんな努力、一銭にもなりゃしない。まったく、バカみたいだ。もっと早く、素直になってればよかった。
せせら笑って、葉野香はバタンと大の字に倒れた。古びたアパートの天井と、そこで輝く明るいライトが目に入る。
そういえばこのライト、この部屋借りた時はもの凄く暗かったんだよな。葉野香は、ふと思った。
このままじゃ目が悪くなるよ、ってアイツが言って、二人で家電屋に蛍光灯を買いに行ったっけ。色々探して、暖かくて電気代もかからない奴にしようって……でも、蛍光灯の値段そのものが他より少し高くて、どっちが得なのかってアイツともめたっけ。結局、あたしは押し切られちまって……一人暮らしのお祝いだって、アイツがプレゼントしてくれたんだっけ。その後で……!
葉野香は天井から顔を背けた。
ふざけるな。どうして、アイツのこと考えなきゃならないんだ。もう、別れたんだろ?だったら、アイツとは何でもないんだ。明日からは自由。あたしは自由だ。一人で大学に行って、バイトして、勉強してりゃいい。休みには、何をしようかな……
不意に、ブルッと葉野香は震えた。
そんなの、何が楽しいんだろう。一人の街。一人の大学。一人のアパート。一人の休日。一人の時間。
どれもこれも、まったく面白くないような気がした。
どうしてだろう。
どうして……
寝返りを打つ。と、そこで、何かが視界の隅に捉えられた。差し向かいのコタツの脇……布団に挟まるように落ちていた。何か。
ぼうっとそれを見つめて、葉野香の瞳がかすかに揺れた。身を起こして手を伸ばす。長い何か。葉野香は、それをゆっくりと引き上げた。
マフラーだった。一本の、それほど新しくはないが……暖かそうな、毛糸のマフラー。
葉野香の両眼が見開かれた。
アイツのマフラー。
でもそれは、葉野香のマフラーでもあった。葉野香が編んだ、マフラー。
編みもの。母から教わった、数少ない思い出。
でも、家族以外の誰かに、何かを作ってあげたことなんてなかった。あげようと思ったこともなかった。
それを、初めてしてみたいと……したいと思った相手。
あの夏。
別れの前夜。プールでくたくたになるまで遊んだ後に、二人で見た綺麗な夜景。そこで、それとなく彼の好きな色を聞いた。
そして、待った。また、逢える日を。いつになるかわからない、その日を。
長かった。期待と不安がせめぎあって、落ち着かなくなる時、黙々と編み針を回した。目の前で少しずつ出来ていくそれを見ていると、何かを信じられる気がした。慰められる気がした。
きっと、逢える。ううん、逢いたい。
そう、思い続けた。願い続けた。
そして、それが叶った。
あの、冬の日。一つの季節を越えた彼は、どうしてかとてもまぶしく、たくましく見えた。
葉野香の想いが弾けた。たった二日で、今までの全部を取り戻せた気がした。楽しくて、嬉しくて、だけど、心の奥では不安だった。笑っていながら、どこかで怯えていた。
次は、いつ逢えるんだろう。
彼は、私の何なんだろう。
札幌に親戚がいるから、学校の休みに遊びに来てるだけ。夏に色々あったから、私と記念に再会しただけ。
もしも、そうだったら。あたしと、アイツの気持ちが違っていたら。
楽しければ楽しいだけ、葉野香の中でそんな不安が募った。
そして、だから……
あの電話を受けた時、何も答えられなかった。ちゃんと、言葉にならなかった。嘘じゃないかと思った。冗談で言ってるのかと思った。それほど、それだけ……
涙。
葉野香の頬に、一筋の涙が流れ落ちた。
大晦日。
白い光に照らされて、降り積もる粉雪。
その中で、彼を捜した。
テレビ塔の回りは人がたくさんいて、全然見つからなかった。どうしてこんなわかりにくい場所を指定したんだろうと、呪った。文句を言ってやりたかった。
間に合わなかったら、誘いを断ったと思われる。私が、拒絶したと思われる。
そんなことないのに。電話を貰って、あんなに嬉しかったのに。涙が出そうになって、店の中だからって、必死に我慢したのに。
雪の札幌を走った。大通り公園、テレビ塔の下。
でも、見つからなかった。時間が迫った。諦めかけた。私には、無理なのかもしれないと思った。ドラマみたいな幸せを手にすることなんて、できないのかもしれない。今まで信じていたいくつものそれみたいに、この想いも、私を置いて消えていくのかもしれない。
泣き出しそうだった。怖くて、悲しくて、悔しくて。
その時、葉野香の目に飛び込んで来たのが……
この、マフラーだった。
彼の好きな色。
忘れるはずがなかった。夏から冬まで、どれだけそれを見つめただろう。渡す時のことを楽しみにして、いつ渡せるのかと悩んだだろう。嬉しくて、悲しくて、苦しくて、どうしたらいいかもわからなくて、そんな自分の想いが……葉野香の心がすべて、その中にこめられていた。
そのマフラーが、想いで紡がれたその色が、彼を教えてくれた。私に、ここにいるよと報せてくれた。
そして……
二年が、過ぎようとしている。
その間、二人で、ここまで来た。
そうだ、一人じゃない。二人で。あたしとアイツで。
アパートの一室。葉野香は、マフラーを抱き締めてすすり上げた。何て子供なんだろうと思った。でも、涙は止められなかった。
残されたマフラー。彼が、置いていったマフラー。別れを告げるように。それが、自分で編んだその色が、葉野香自身をあざ笑っているような気がした。本当にバカだ、と思った。
嫌だ。忘れたくない。一人なんて嫌だ。そんなの、全然楽しくない。つまらない。もう二度と、あの頃に戻りたくない。あんな気持ちになりたくない。アイツといたい。ずっと……
その時、ドアがノックされた。
秋も暮れ行く、都会の一角。
「あ……アンタか。な、何の用だよ……」
どんよりと曇った、灰色の空。
「え?忘れ物って……これ、か……?」
季節外れの冷たい風に、誘われたように。
「あ、おい……あっ……バ、バカ……ん……っ……!」
ひとひらの雪が、ゆっくりと舞い降りていた。