1
「ちょっと待ちな。」
ライラックの淡紫色が咲き乱れる、うららかな午後。
道内の乙女が集う聖北海女学園の一年生、春野琴梨ちゃんはピタリと足を止めました。
聞き違いかな、と少女は思います。そう、ここは清廉潔白な乙女が集う女学校の敷地内。そこには純と雅な校風が漂い、粗暴や粗野などという言葉とはこの北の大地……いえ、日本国内においても指折りに疎遠な場所のはずです。自分のことは別にしても、ここに通っているのはほとんどが未来を約束された良家の息女ですし、つまるところこのような……そう、口にするのはおろか考えることもはばかられるような「よくない言葉遣い」が聞こえていい場所ではありません。
ああ、前置きが長くなってしまいました。とにかく琴梨ちゃんは、振り向く前に自分の耳を疑います。そう、よく耳を澄ませてみても、聞こえてくるのは大通り公園から流れてくる、涼やかな札幌の風の音だけではありませんか。そのそよ風は、琴梨ちゃんが大好きな香りを運んできます。ふっと、焼きもろこしが食べたくなったりするのは、済ませたばかりのお昼が足りなかったのでしょうか。
「おい、そこのアンタだよ。聞いてんのか?」
短い北海道の夏が終わった九月。新学期が始まって、もう三週間。すっかり秋めいて来たというのに、琴梨ちゃんの額に円らな汗がぽっと浮かびます。
ど、どうしよう……
誰かがいるのは間違いありません。しかも、これも間違いないことに、決してこの学園にふさわしい人物ではなさそうです。声は太くていかにも粗野で、琴梨ちゃんはテレビで見たことのある恐いお兄さん達を思い浮かべてしまいました。大きな紳士服のお店をすみからすみまで探しても売っていないような派手な色の背広を着て、腕や首にこれも派手派手な金色のチェーンを巻いていたりするのです。ああ、どうして聖なる学び舎にそんな怖い人が入ってきたのでしょうか。しかもよりによって、今は仲良しの鮎ちゃんどころか、見える範囲に他の生徒は一人もいません。
どうしよう、私、このまま……
琴梨ちゃんの膝が、小さく震え出します。
と、その瞬間でした。
「……ったく、なに聞こえないフリしてんだよ!こっち向け!」
舞い散る、漆黒。
何が起こったのか、琴梨ちゃんには理解できません。
ただ、涙でにじみはじめた視界がグルッと回って……そこに、真っ黒な世界が現れたのです。
悲鳴をあげて、琴梨ちゃんは目を閉じました。
「ご、ごめんなさい!ごめんなさい……!」
身をこわばらせて、じっと堪えます。そうしないとすぐにでも泣き出してしまいそうでした。
ごめんなさい、ごめんなさい。お母さん、昨日のお夕飯、スープの味が薄すぎてごめんなさい。鮎ちゃん、部活があるからって掃除当番替わってもらってごめんなさい。お父さん、琴梨はもう……
「……は?おい、しっかりしろよ……な、なに泣いてるんだ?お、おい!アンタ!」
ゆさゆさゆさ。揺さぶられる琴梨ちゃんですが、そうなると余計に小さな胸の奥から悲しさがあふれて来てしまいます。さめざめと、遂に涙がこぼれました。何が原因で悲しいのか、自分でもわからなくなってしまうほどです。
「な……!お、おい!どうした?どこかぶつけたか?ちっ、なんだよ……お、おい!お前ら……ああ、ちきしょう!見世物じゃねぇっての!く、くそっ……!」
長い独り台詞の果てに、琴梨ちゃんは不意に浮遊感に捉われます。
「えっ……きゃっ!」
「まったく、なんだよこの学校は……ちきしょう!」
駆ける音。
空を飛ぶような、そんな感覚。
やるせない気持ちで 電話を切って
ごめんね忘れて 僕も忘れるから……♪
ひこうき雲、という琴梨ちゃんが大好きな歌が聞こえて来そうなほどです。
な、なに……?
琴梨ちゃん、そんな中で……思わず、こわごわとながら、薄目を開けてみました。
流れていく景色。校舎を抜け、生垣を飛び越え……るのは少し無理があるので、とにかく驚くほどの速度。鮎ちゃんと行った、遊園地の絶叫マシン、スーパートマホークのようです。
ど、どうして私、動いてるの……?
ふと見上げたそこで、琴梨ちゃんの大きな瞳が見開かれました。
風にたなびく、黒曜石のような艶やかな黒髪。
長い睫毛の下の真剣なまなざし。白い肌に、とても流麗な鼻孔から口許への繋がりと、それ以上に整った頬から顎にかけてのライン。
まさに混乱の極致にあった琴梨ちゃんの意識に喝を……いえ、戸惑っていたその心を覚ますに足る、黒髪の美少女がそこにいました。
わぁ、奇麗な人……!
まさにそのままの形容で、琴梨ちゃんは半ば呆然とします。
平謝り、というさっきまでの意識もどこへやら。
と、そこで、黒髪の少女の視線が琴梨ちゃんに向きました。
髪の毛の色と同じ、黒い視線。
途端、琴梨ちゃんの飛行が……いえ、浮遊していく感覚が止まります。
「おい、大丈夫か?立てるか?どこか、怪我してるんじゃないのか?」
「は、はい……大丈夫です……」
「そうか、よかった。まったく、さっきは驚いたよ。アンタ、いきなり半べそかいてるからさ。どうしたのかって思って……」
あ……!
琴梨ちゃんの頬が、かあっと染まりました。
そうか……この人が、助けてくれたんだ!
悪い人に、からまれてる私を見かねて……通りすがりのこの人が……
「あ、ありがとうございます……」
感激のあまり、思わず涙ぐんでしまう琴梨ちゃんです。
「あ、こら、泣くなよ。何もしない……いや、何もしてないって。だからさ……ほら、立てる?」
「あ、はい……」
目尻をキュッと拭いて立ち上がる……いえ、降り立つ琴梨ちゃんです。この時になってようやく、目の前の黒髪の少女に抱えられて……そう、世に言う「お姫様だっこ」をされてここまで運ばれてきたことを知ります。
琴梨ちゃん、ただでさえ赤かった頬がさらに染まりました。
「まあ、いいや。怪我がないなら……大丈夫?アンタ、一人で戻れる?」
「あ、はい。平気です。本当に、ありがとうございました……」
そこで、ふと相手の服装に気付く琴梨ちゃんです。この学園の制服はセーラー服なのですが、目の前の少女はグリーンのブレザー。琴梨ちゃんが見たことがない制服です。
「そう。ま、よかったな。じゃあ、あたしは行くからさ……って、そうだ。校長……じゃないか、学園長室ってどこかわかる?この学校、広いからさ……よくわかんなくって。」
「えっ……あ、はい。えっと、園長様の部屋は……下駄箱から入って、正面の階段を上がった赤い絨毯敷きの廊下の先にあります。あっ、よかったら私が、案内……」
「ん、いや、それはいいよ。じゃな。呼び止めたりして悪かったね。」
少し焦ったように話を切って、黒髪の少女は身を翻します。散って遠ざかるのは、漆黒の髪。琴梨ちゃん、再びその光景に目を奪われかけ……そして、はたと気が付きます。
「あ、あのっ!」
ギク、という感じで、歩き出しかけた少女が立ち止まります。
「な、なに……?」
「あ、あの、私……一年の、春野琴梨って言います。あの……よろしかったら、貴方のお名前を……」
ピク、という感じで、眉が軽くはじけます。ですが、琴梨ちゃんの真摯な瞳を受けて……黒髪の少女は、再び身を翻しました。
「左京葉野香。クラスはまだないよ。あたし、転校生だから……じゃ、ばいばい。」
そのまま、早歩きで去っていきます。
後には、クラーク博士の像のように立ち尽くす琴梨ちゃんが残りました。
その頬を、紅に染めて。
2
「サキョウ・ハヤカぁ……?」
発音にたっぷりとこめられたのは、当惑よりむしろ悲嘆の響きでしょうか。
「うん、そうだよ。とってもかっこいい人だったんだ。あーあ、私もいつか、あんな素敵な女の人になりたいな……」
夕日の学園。陽光に彩られた校庭に、運動部に青春をかける乙女達のはつらつとした声が響きます。
それを見下ろす、真っ赤に染まった校舎の窓の一つで……琴梨ちゃんの親友である川原鮎ちゃんは、嘆くように天を仰ぎました。
「あれ……どうしたの、鮎ちゃん?」
細い首筋をさらしたショートカットの鮎ちゃんは、見るからに快活そうな、喜怒哀楽のはっきりした少女です。その鮎ちゃんは、どこか惚けたような琴梨ちゃんの様子をじっと見て、今度は首を左右に大きく振りました。ぶんぶん。
「うう、よりによって左京が……転校してくるって噂、本当だったんだ。あちゃー、こりゃ大変なことに……」
「なに?鮎ちゃん、ねぇ、あの人のこと……知ってるの?」
「知ってるも何も……いい、琴梨?左京葉野香って言ったら、泣く子も黙る、あの猪狩商業高校の女……」
「左京さん……そうか、あの人、前は猪狩商業高校っていう学校にいたんだ。泣く子も黙るなんて……うん、そんな感じだよね……左京、葉野香さん、か……」
「な……こ、琴梨……?」
あらあらあら、うっとりとした表情で窓の外を眺める琴梨ちゃん。その目には夕日でなく、別の何かが映っているのでしょうか。鮎ちゃんは、なんというか絶句です。
「ち、ちょっと琴梨!いい、あんたは彼女の前歴を知らないかもしれないけど、もし本当なら、そんな相手と話を交わしたってだけで……」
と、そこへ。
「フフフフフフフ……」
不気味……いえ、何だか身の毛もよだつ笑い声が。
「な、何?誰かいるの?」
トリップ状態の琴梨ちゃんはさておき、思わず怯んで周囲を見回す鮎ちゃんです。
放課後も、既にかなり遅く。二人以外に誰もいない教室……その、後ろのドアにスッと人影が。
「やっほー、二人とも。ゆきちゃん先輩ですよー!」
「さ、里中先輩……!ど、どうしてここに?」
「あっ、梢先輩……こんにちは。」
何だか妙に取り乱す鮎ちゃんをよそに、琴梨ちゃんは普通の笑顔。
二人にまぁまぁと手を振って現れたのは、編んだ後ろ髪を不思議な形にまとめ上げた眼鏡の二年生、里中梢さんでした。
「やっほー、鮎ちゃんに琴梨ちゃん。今日も二人して可愛いわねー。はい、そこを一枚!」
パシャリと、手にしたデジカメが一閃。とてつもなく逆光な気がしますが、いいのでしょうか。
「い、いきなり撮らないで下さい!」
「まぁまぁ、鮎ちゃん。怒ると可愛い顔がだいなしだぞー?ふふ、琴梨ちゃんもこんにちは。今日も楽しくテニスしてる?」
「あっ、はーい。先輩はテニス部、戻ってこないんですか?」
「あ、そうだねー。色々とかけ持ちしてると、やっぱ大変なのよ。テニスもしてみたいけど……今は、やっぱりパソコン関係に超熱中大暴走状態かな?」
「あっ、学校のホームページ、私も見せてもらったけど……とっても奇麗ですね!お母さんも、センスのいいデザインだって言ってました!」
「おっ、ホント?うーん、琴梨ちゃんのお母さんの目は確かだからなぁ。ありがとー!もうダブリューと顔文字で喜んじゃうよー!」
なごやかな会話をする二人の前で、鮎ちゃんはどこか疑わしそうに先輩の眼鏡の奥を見つめます。
「あの、里中先輩……何か、私達に御用があるんじゃないですか?」
嬉々として話し合う二人の仲を裂くように、鮎ちゃんが口を挟みます。
梢さん、それを聞いて、フフンと小悪魔のような微笑を。
「アハ、やっぱりわかる?」
「わかります!先輩が私達の前に現れるのって、決まって何か企んでる時だから……」
「あら、企んでるなんてひっどーい!せっかく、今日はすっごいスクープを教えてあげようと思って来たのに……」
「スクープ?」
「スープ?」
鮎ちゃんが正解ですね。とにかく、梢さんは腕を組んで、手にしたデジカメのボタンをポチポチと押します。
「そう、これがもうビッグでグレートショッキングなスーパー・スクープなのよ!ね、噂には聞いてると思うんだけど、うちの学校にとんでもない生徒が転校してくるって話、聞いてる?」
ピク。鮎ちゃんの顔がかすかにケイレンします。
「さ、左京葉野香さんの話ですね?確か、里中先輩と同じ二年生ですか?ふーん、本当だったんですね?」
二年生の人なんだ……とか頬を染めて言いかける琴梨ちゃんをどすっと肘で小突いて、鮎ちゃんは両肩をすくめて見せます。
「フフフ、それがホントのホントなの。しかも今日、その左京葉野香が編入の挨拶のために、我が学園を訪れたらしいのよ!」
「へ、へえー。そうなんですね?さっすが、学園一の情報通の里中先輩。あ、でも私達、そろそろ戻らないといけないんです。」
あからさまな応対はさておき、さほど狼狽せずに接客スマイルの鮎ちゃん、さすが老舗のお寿司屋さんの一人娘です。
「さ、琴梨。そろそろ帰ろっか……って!」
ですが接客モードの鮎ちゃんの表情が、そこでこわばります。
梢さんの持っていたデジカメを手にして、歓喜の表情の琴梨ちゃん。
「わぁ!これ、お昼の時の写真だ……!梢先輩が撮ったんですか?」
「そうよー。うふふっ、なかなかよく撮れてるでしょ?ほら、そのボタン押して……そう、その次のヤツなんて、もうすっごいフライデー状態なんだから。」
「わ、わあ……な、なんだか恥ずかしいな……私、葉野香さんにしがみついちゃってる……」
鮎ちゃんの顎が、カターンという擬音がしそうなほど大きく開きました。
「なっ……!せ、先輩……?」
うっとりとデジカメの映像……昼下がり、自分を抱き抱えて走っていく黒髪の少女、左京葉野香さんとの激写映像……それを見つめる琴梨ちゃん。
それを愕然と見つめる鮎ちゃんに、梢さん、とってもヨコシマな笑みを浮かべました。
気のせいか、眼鏡が夕日に燦然と輝いたような気がします。
3
「ね、ねぇ、鮎ちゃん。やっぱり、帰ろうよ……」
「バカ!やらなきゃならないでしょ!だいたい琴梨、誰のせいであたし達がこんなことしなきゃならなくなったって思ってんの?」
「えー、だって……」
「琴梨があんな写真撮られちゃうからでしょ!そりゃ里中先輩の脅迫じみた要求に屈するのは悔しいけど、いい、琴梨?あの写真を先輩が学校のホームページに載っけたら、あんたはおしまいよ?問題児の転校生に抱きかかえられて、頬染めて目まで潤ませちゃって……もう明日から、クラスの誰もあんたと口もきいてくれなくなるんだからね!二年や三年の先輩だってそうだよ!それでいいの?」
「だ、だって……でも、鮎ちゃん。私、そんな悪い人に……」
「悪い人なの!左京葉野香、北海道にその名を知らない高校生は一人もいない、伝説の不良の妹なの!彼女の兄は道南最大最凶最悪の暴走族のリーダーで、借金持ちで女たらしでその他諸々諸行無常で……泣く子も黙る史上最強無敵不敗の不良なの!彼女自身も、猪狩商の総番として一年の頃から君臨してた、札付きのスケバンなんだから!」
「で、でも……」
「と・に・か・く!そんな奴がこの学園に入ってくるなんて、ホント信じられないけど……だからこそ、琴梨?そういう人がいたら、どれだけ大変になるかわかる?きっと、赤とか金色とか茶色とか、虹みたいな色の髪した仲間とかたくさん連れ込んできて……学園支配の野望に燃えてたりして!ああ、そんな奴と関わりがあるなんて知れたら、あんた、この学校にいられなくなるかもしれないんだよ?」
「う……」
何やら鬼気迫る鮎ちゃんの物言いに、琴梨ちゃんは少ししょげた顔。
「それにね、あの写真のことだけじゃなくて……私も、どうしてそんな奴がこの学校に転校して来たのか知りたいんだ。だから、琴梨も協力してよ。あんた、生徒会とか……先輩に、受けがいいからさ。」
「そ、そんなことないよぉ……でも、鮎ちゃん。さっきから何だか、言葉がお下品だよ……」
「あ……そ、それは、そのね、ノリというかさ。まあいいわ。さ、行くよ琴梨。」
鮎ちゃんと琴梨ちゃん、忍び足で校舎の廊下を進み、階段を上って……通路の曲がり角に至ります。
見定めるのは、廊下の先の立派な扉。
上のプレートには「生徒会室」とあります。
「里中先輩の情報だと、生徒会の会議がそろそろ終わるはずだから。そしたら、帰る先輩の中で誰かを捕まえて、話を聞くのよ?琴梨、あんたが先に行くの。いい?」
「え、う、うん……」
「しっかりしてよね!あんたのためにしてるんだから……!」
その時、でした。
ガラガッシャーン!というとんでもない轟音が、生徒会室のドアの向こうから。
廊下の角に隠れて見守る二人は、顔を見合わせます。
さらに、聞こえてくる叫び声……いえ、絹を引き裂くような悲鳴。
ドッタンバッタンと、続け様に派手な音が聞こえて……
「……ざけんな!」
ドアが、なんと向こう側から蹴り飛ばされるようにして、外れて倒れます。
もうもうとほこり……というのはオーバーですが、沸き立つ喧騒の中に仁王立ちしているのは……
「さ、左京……葉野香さん……!」
肩ではぁはぁと息をしながら、ドアを蹴り破ったのは、腰までも届きそうな長い黒髪の少女。
怒り……そう、まさに憤怒に満ちたその表情は、見る者を凍りつかせるほど恐ろしい形相です。
「何が、釈明だ!確認だ!審査だ!オマエら、何様のつもりだ!そろいもそろって、お姫様みたいにおたかく止まりやがって……人を見下すのもいいかげんにしやがれ!こんな最低の学校、こっちから願い下げだ!」
怒鳴り散らすと、そのままつかつかと……二人に向かって大股で歩いてくる葉野香さん。
廊下の角……あまりの出来事に身動き一つできない二人の前まで来て、ようやく二人の存在に気付いたのでしょうか。葉野香さんの視線が、クワッと放たれました。
冷たい、まさに氷のような冷ややかな眼光。
「どきな……」
鮎ちゃん、いくら生っ粋の道産子とはいえ、その迫力にはとてもかないません。ササッと廊下の隅に。
ですが……
「なんだよ、お前。どかないと、踏み殺すよ?」
確かにあのキック力ならできるかもしれない、とか鮎ちゃんが無責任にも心のどこかで思ったかどうかはわかりませんが、とにかく目の前にいる琴梨ちゃん……自分を見上げるか弱い少女を睨み付ける葉野香さん。
ですが、琴梨ちゃんはなんと、そこで立ち上がり……
「こんにちは、葉野香さん。あの、お昼はどうもありがとうございました。私が危ないところを……本当に、助かりました!」
にっこりとほほえんで、大きくお辞儀をする琴梨ちゃん。
震えるように、細められるのは鋭い切れ長の瞳。
鮎ちゃんがあわあわと見守る先で、二人の間に沈黙が流れます。
「ああ……そうか、あの時の……アンタか。」
「あ、おぼえていてくれたんですね?わあー、嬉しいな……私、印象薄いってよく言われるんです。あんまり話すの得意じゃないから……」
「ヘンな名前だから、覚えてただけさ。コトリ、だっけ?フン、名前つけた奴、よっぽど物好きだったんだろうな。」
温度調節を間違えたクーラーのように冷たく言い放つ葉野香さんですが、琴梨ちゃんはまさに石油ファンヒーターのように暖かく、無邪気に笑います。
「あ、はい!字は違うけど、元気に空を翔び回るような子供になれって、死んだお父さんがつけてくれた名前なんです。だから、私、自分の名前がとっても好きなんです。」
葉野香さんの目が、驚きに見開かれました。
「死んだ……父……?」
聞いてなお朗らかな琴梨ちゃんの笑顔を、まじまじと見つめる葉野香さん。
と、そこで……背後からりんとした声が。
「左京葉野香さん!」
キッとして、振り向く葉野香さん。黒髪が三度舞い、どうしてか、琴梨ちゃんはまた頬を染めます。
「葉野香さん。この場で起こった出来事のすべてが、貴方に非……いえ、要因があるとは私達も思いません。ですが、貴方が今行った器物破損の罪を別にしても……貴方の立ち振る舞いが私達の許容する風紀の範疇を遥かに越えてしまっていることは、否定できません。ここで貴方の生徒資格を承認しないことも可能ですが……」
「うるせぇ!これだけやられて、まだ御託を並べるつもりでいやがるのか!?いいか、あたしはこんな学校には入らない!金輪際、ごめんだ!だからいいか、あたしは生徒でもなんでもない!勝手に裁判ごっこでもして、他人を有罪にして喜んでりゃいいだろ!じゃあな!」
「お待ちなさい!貴方は既にここの生徒として……」
「知るか!」
「あ、あの、葉野香さん……」
「どけっ!」
勢い任せでしょうか、ドン!と突き飛ばされる琴梨ちゃん。思わずよろめいて……そのまま壁に、したたかに体を打ち付けてしまいます。
「キャッ……!」
「こ、琴梨!」
琴梨ちゃん、かすかな悲鳴と共に視線がうわついて……そのまま、力なく壁際に崩れ落ちます。鮎ちゃんが真っ青になって駆けより、さらに生徒会室から出て来た大勢の女生徒達が、一斉に悲鳴を。
「こ、琴梨!しっかり……あんた、何するのさ!琴梨はあんたのこと……」
葉野香さん、驚きの表情で琴梨ちゃんを見つめて……そして、鮎ちゃんの怒りの叫びを受けてでしょうか、それがぶるっと震え……
そして、駆け出しました。階段から、下へと走り去ります。
「に、逃げた!お姉さま、逃げました!」
「は、春野さん?」
「大変、早く!薫さま、こちらに……!」
「川原さん、落ち着いて……」
「由子先輩、ど、どうしたら……」
「どいて!あたしが保健室に運ぶ!薫、準備して!」
大騒ぎの中、鮎ちゃんに抱き抱えられた琴梨ちゃんは、眠るように目を閉じていました。