[552] コトダマ |
- ヒヅキ - 2004年05月27日 (木) 02時46分
恋をした。 味があるなら、砂糖も何も入れてない苦い珈琲みたいな恋。 でも別に後悔とか寂しいとか思ってるわけじゃない。 ただ、例えて言うならそんな感じのものだったんだと思う。 「先生はどう思う?」 「さぁねー……」 春と呼ぶにはまだ遠い、それでも桜の咲く季節。真っ直ぐで暖かな太陽の光は、冬の緊張を解かすように地上へと降り注ぎ、この教室を照らし出す。殺伐としたあまり使われない、旧館の第二音楽準備室は、何処か埃臭いけど、それよりも強い先生の煙草の匂いがここには染み付いていた。 ぼくは遣われたことのないような机に座って、黒板の前に形だけで置いてあるような教卓に座る先生を見た。彼はぼくに背を向ける形で、黒板に書かれている五線譜の線にラクガキをしている。 カッカッという音だけが、窓を締め切った静寂の部屋に響き、ぼくはただずっと先生の後姿を見ていた。 少し長めの茶髪。サイドを長くして隠してる右耳の三つのピアス。どの先生よりセンスの良い服装。細く見える割に、筋肉がちゃんとある身体。 ぼくはこの目に焼き付けるように先生を見つめた。 「みてみて、上手くね? 鳩」 くるりと振り返った先生は、にっこりと笑い、コンコンと黒板を叩く。五線譜を電線に見立てて、鳩の絵が三羽描かれている。――ぶっちゃけ、鳩と言われなければ、 「恐竜かと思った」 と言うほど、へたくそだ。鳩のくちばしってあんなに大きかったっけ。しかも羽が小さい……。何だコレ。 ぼくは噴出すのを我慢して先生に 「音楽はできても、絵はできないんだね」 と笑ってみせた。 「は~? できるっつーの。つーか、お前の目が節穴なんだよ。恐竜ってなによ、恐竜って。シツレイな子だな」 ぼくの返答に眉間を寄せ、先生は教卓を降りると、その恐竜みたいな鳩を消した。黒板消しに擦れて形を失っていく鳩。ぼくはなんだかそれが自分みたいで、少し悲しくなった。心の端が、カッターで傷つけられたみたいに。 ぼくもあんなふうに消えていくのかな。 先生の記憶の中で。 「なんつーか、あれだな」 突然間を埋めるように先生が呟く。ぼくは伏せそうになった顔を上げて彼の背中を見た。 「卒業オメデトウ」 卒業。 その言葉に、ぼくは胸が締め付けられるような気がした。 今日は卒業式だった。今日でこの学校を去らなければならない。次、学校と言うところに向かうとき、ぼくはここじゃない、他の学校へと向かわなくてはならない。先生のそばには、もういけないのだ。 「お別れだね」 ぽつんと言葉を落とすと、先生は低く「うん」と言って黙り込む。その間も煙草の煙は教室の天井をふわふわと舞い、ぼくは目を伏せた。見ていられなかった。先生の匂いが天井に逃げていく気がして。 「ありがと」 何かを言わなくちゃ。そう思って出てきたありふれた言葉に、ぼくは唇を噛み締める。 こんなことが言いたいんじゃないのに、これじゃあぼくの気持ちの十パーセントだって届いてないのに。 言葉が思い浮かばなかった。 「こちらこそ」 先生の言葉が終止符を打つ。でも――、 「先生に会えて良かったな」 終りにしたくなくて言葉を続けた。 「初めて誰かとイったのが先生で良かった」 言葉と感情は共に溢れる。まるで心と身体が繫がってるという風に、とめどなく自然と、ぼくの中でゆらゆらしている先生への気持ちに任せて溢れていく。 「初めてキスしたのが先生で良かったよ」 ぼくは過去を思い出して、いつの間にか流れていた涙を拭った。 この教室で初めてしたキスが、苦かったこと。初めて先生の家に行った時見たプライベートの顔。セックスした時、痛くて痛くて泣いたこと。先生と繫がったまま、そっと後ろから抱きしめてもらっていたこと。ぼくがつまらない意地で先生を怒らせ、悲しませ、またぼくが泣いたこと。 もっといい恋をした方がいいと言い切った、先生の横顔。 全部がまるで生きてるように、頭の中を交錯する。 「先生には分からないかもしれないけど」 涙を全部拭いて、ぼくは顔を上げた。先生はようやくぼくの方をじっと見つめてくれている。まっすぐな、それしかまるで知らないような、誰よりも無垢な双眸。 「こんな恋、もう一生ない。もっといい恋なんかない。こんな最高なことなんて、ない」 言い切れる。 だって先生は一人なんだ。目の前にいる人との恋は、誰ともできない。良いとか悪いとか、そんなの知らないし、知りたいとも思わない。ただ、先生を好きになって、一緒にいれて、最高に嬉しかったのは、疑いようのない事実だ。 「先生を愛してる」 何度も何度も呟いた。 心臓が腐るほど、虫が湧くほどになっても、ぼくはこうやって先生を呼んでいた。 今もそうだ。 前もそう。 「大丈夫か?」 先生の手がぼくの肩に触れる。それだけでドキドキしてることをきっと彼は知らない。こんなに近くにいるのに、何度も交わったのに、先生はきっと知らない。 「平気」 ぼくは呟いた。 「ごめんな」 「うん」 何に対してのゴメンなのか、誰に対してのゴメンなのか。ぼくには分からなかった。混乱しているのかもしれない。 でも、それでもいい。 「先生はぼくを愛してた?」 肩に触れた手に手を乗せて、ぼくは訊いた。 「――愛してるよ」 先生はぼくの目を見つめながら答えてくれた。真っ直ぐでそらされることのない双眸が、その言葉の命の光を見せてくれる。 「あんたが好き」 ぼくは呟いた。最後だと呟いた。 「俺もだよ」
恋をした。 味があるなら、砂糖も何も入れてない苦い珈琲みたいな恋。 でもそれは、二度と戻らないきっと永遠に近い恋だった。 終わらない、生き続ける恋だった。
終り。

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