[813] 愛しいひとが、いる(①) |
- 花酔 - 2004年12月28日 (火) 14時06分
愛しい、と。 たった一言だけを呟いて、親友は薄っすらと微笑んだ。 それは、大学受験の勉強の息抜きに出た他愛もない恋愛話。 友人同士で好きな子の話をしていて、誰かがあいつに恋しているかと尋ねた時のことだ。 長い付き合いの中で一度きり。 切ない……としか表現できないようにほんの一瞬、淡い茶の瞳を揺らめかせ――あいつは呟いた。 いるよ、泣きたくなるほど愛しいひとが、いる――と。 あの時、何人いたかは覚えてないけれど、全員思わず言葉を無くした。茶化すことも問い詰めることも誰一人できなかった。 愛しい…… その、「愛している」でもなく、「恋している」でもなく。まして、「好き」という言葉でもなく。 ひっそりと、控えめで。それでいて切ないほどの想い。 どんな気持ちなんだろうか? 欲望を変換したゲームみたいなお手軽な恋を繰り返してきた俺には、あいつの言葉がひどく羨ましかった。 切ないほどの「愛しさ」が――。 その感情を持つあいつと、その想いを向けられる誰かが。 羨ましくて、悔しくて。 だから―― 『うざってぇ。おまえに惚れられたらマジに鬱陶しい』 そんな台詞で傷つけていた。
運命は残酷だ。 俺、高洲陽一は、それはそれは冷ややかに俺を睨んでいる紫藤芳の、淡い茶の瞳を見返しながら思う。 残酷だろ? もう十五年は一緒にいる親友。もちろん同性。ずっと男と男の裸の付き合いってやつをしてきた相手に――― 「睨むなよ。仕方ないだろ、抱きたいって思ったんだから」 「僕は男だ」 「そんなの見なくてもわかる。何年の仲だっていうんだよ」 「なら、おまえはバカになったんだな。それとも節操無しに美味しく食べてきた女の子たちに食傷気味とでもいうつもり?」 視線に殺傷能力があるならば、間違いなく俺は即死している。そんな物騒な瞳をこいつを知っている連中が見たら何て言うか。 優しくて穏やかな芳の、マネキン級の無表情を見たら泣いて怖がるぞ。なにしろ元が男とは思えないほど透明感のある美形なものだから、その怖さは倍増だ。 ――しかし。 恋する男は無謀である。 「五回目」 俺は片手をパッと広げて見せた。 「何がだ……?」 芳の綺麗にアーチを形成する眉がグッと寄った。 「この問答も、本日たったの一時間で五回目だ!」 「それがどうした」 「なんでもいいけど、俺はおまえが抱きたい」 残酷な神はよりによって親友に欲情する不埒な気持ちを俺にくれちまったらしい。認めたら一直線しかないだろ。 そんな思いも込めて微笑んで見せる。 ―――しばし沈黙が落ちた。 「……不可、却下、おまえの全面敗訴。じゃ、仕事があるから」 一息に言い切る間に伝票を持って、止めるまもなく芳はさっさとレジへと歩いて行ってしまう。 「おい、芳ッ!」 またしても玉砕。 この恋心を打ち明けて一週間。 自他共に認める「家良し、金有り、顔と頭もレベル高し」な俺が、振られることは天変地異の確立よりも低かった――少なくとも今までは。ところが、この七日。来る日も来る日もあり得ないお断りを、よりによって同じ相手、しかも男、さらに親友にされなければならないのか…… 「芳ぅ~」 喫茶店の片隅でひとり唸る俺はものすごく切なかった。
愛しい。 そう言った芳の顔が声が、忘れられなくて。大学進学して、昔よりも多くの女の子たちと遊びながらも忘れることなんてできなくて。 傷つけた時の表情を何度も夢見た。 謝ることも出来ないまま、そのまま忘れたふりして来た。 それでも耳に蘇る。 愛しいひとが、いる―― それが誰なのかなんて聞けなかった。 あれから四年たち、気がつけばもう卒業間近。あいつは親戚の店でバーテンなんかになると言い、俺は親の会社に入社予定だ。 怖くなった。ずっと側にいたのに、手が届かなくなる。進路が違えば環境も変わる。そうしたら芳と縁が切れるかもしれない。 少なくとも、芳から縁を切られる可能性は大アリだった。 恋心をけなした日から、誰も気がつかないような微妙な距離を感じるようになっていた。 傷つけた。 時折その事実が胸を裂くことがあったけれど、無視した。 悔しくて。ただ羨ましく。 子供だったのだろう。本当の恋も知らない欲望に忠実なガキだった俺は、苛立つ気持ちの裏側にある芳への想いを認めたくなかっただけだった。 決定的に自覚したのは三年前。 旅行先で知り合った女の名前は薫だった。俺に抱かれて鳴く女の名を呼びながら。俺は思ってしまったのだ。 芳はもっと綺麗だ――と。 芳が欲しい――と。 俺は以前より輪をかけて遊ぶようになり、芳が叔父さんの店でバイトするようになってからはあまり一緒に行動しなくなっていった。 「愛しい……か。芳、俺もいるよ。愛しい奴がいる」 自嘲気味に呟いて、あいつの飲みかけのコーヒーを口に含む。 間接キッス。 「バカだな……俺」 前途多難で先の見えない恋だった。
続く

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