[792] 風と桜と恋の季節 |
- オオシロイツキ - 2004年11月14日 (日) 01時20分
「あーあ、春だねぇ」 水野が遠く窓の向こうを眺めやる仕種で呟く。 日誌を書きながら姫野は笑う。 「じじむさっ」 「笑うな。姫野の心中を代弁してやったんだろが」 「僕そんなこと考えてないし」 憤慨したようにノートで頭をはたくフリ。 水野は頭を逸らして逃れ、席を立つと窓枠に腰掛ける。 おとといまで咲き誇っていた桜は、昨夜の雨でほとんどが地に落ちてしまった。 芽吹き始めた枝は柔らかな緑色で、宿した雫に春ののどかな陽射しを映している。 校庭からは、水溜りに悲鳴を上げながら部活動中の生徒が走りまわっている声が聞こえる。久しぶりの晴れ間とこの陽気に、皆浮かれていた。 「いいよな、姫野は」 しかし。切ったばかりの髪を風に揺らした水野は、少し憂鬱そうな顔をしていた。 「和志とは、うまくいきそうなんだろ?」 「わ、わかんないよそんなこと。……返事もまだだし」 そう言いながらも姫野は頬を赤く染めた。照れを隠すように日誌を乱暴に閉じた。 「いきそうなんだな」 窓辺から手を伸ばせば、校舎近くに生えた桜に手が届く。 水野が引き寄せた枝には、まだ数輪の花が残っていた。 しなった枝からぱたぱたと雫が落ちていき、残りは枝を捕らえた指を伝った。 「別にどっちだっていいじゃん。水野には関係ない」 「そっか。関係ない、か……」 その口調にひっかかるものを感じ、姫野は幼馴染の顔を見た。 笑っている顔も、泣いている顔も、怒っている顔も。水野のどんな表情も、姫野は知っていた。 どんな時にどんな事を思い、どんな顔をするのかを知っていた。 それだけの時を一緒に過ごしてきた。 なのに今、姫野には彼のカオがわからない。 「どう、したの?」 「姫野」 不安になった姫野の言葉を遮って、水野はのろのろと口を開く。 「もしも俺が」 掠れた声は辛そうにさえ聞こえる。 春風にのって届く声。 「姫野を……お前を、好きだと言ってもか?」 無理やりに笑おうとした水野の横顔は、むしろ悲しそうに歪んでいた。 今まで知り合った誰よりも親しいはずの彼が、姫野にはなぜか遠く感じられる。 耳に入った言葉を理解するのが難しい。 「でも、水野は男は趣味じゃないって」 必でセリフを押し出す。 頭の中で記憶と思考が絡まり解けない。 それ以上何も言えず1人で姫野が慌てているのをよそに、窓枠から降りた水野は自分の鞄を取り、すれ違いざまにくしゃりと姫野の髪をかき混ぜる。 「冗談だって、そんな気にするな。姫野は友達だよ」 頬をかいて笑う水野は、いつもの顔に戻っていた。 先帰る、と片手をあげた彼はすぐに教室から姿を消した。
「あーあ、春だねぇ」 再び、今度は1人きりで呟いてみる。 笑おうとしたのだが、胸の中が水っぽくて笑えなかった。 見上げた桜に花はない。桜餅を連想させる甘い葉の匂いが漂っていた。 「玉砕しちまったさ」 聞いてくれる者はいない。当てなく空をさ迷った言葉は、やがて諦めたように消えてしまった。 正門脇に停めてある車の窓ガラスに映った自分をみると、頬が濡れていた。 さっき濡れた手で触れたからだろう。 泣いた後の涙の跡に似ている。 「つまんねー冗談だったな」 自嘲の笑みは引きつった。よけいに泣き顔に見えた。 握っていた掌を開く。 春を宿した薄桃色の花びらが1枚、ひらひらと舞い落ちた。 淡い色の欠片を春風がさらい、彼方へと運び去る……。

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