[688] ソフトクレーム |
- siz - 2004年08月17日 (火) 18時56分
『高野主任のことが好きになりました』 三日前、向かいに座る崎山陽一に言われた言葉を思い返していた。 彼の頑張りは認めていたし、好ましくも思っている。 今やってる、朝の勉強会を提案したのは僕だし。彼があんまり熱心に勉強しているから、それなら朝三十分早く来ないかと確かに誘った。 だが。 それはあくまで上司として。外注業者からの出向社員を教育する立場として申し出ただけなのだ。 それなのに、目の前で澄まして座る男はよりによって社内で、男の、しかもじき三十になろうとする僕に向かって告白してきたのだ。 僕は色白で男にしては細いせいか歳よりは若く見える、とはよく言われる。それでも決して女性的ではないはず。なのにだ。 考えごとしていたらいつの間にか崎山の髪の流れをぼうっと見ていて。彼が目を上げたとたんに視線がぶつかり、相手が口角を上げるものだから、慌てて書類に目を戻す。 「それで、この仕様書だけど……」 「はい」 彼も普通にまた手元の部材資料に目を落とした。 現在勤めているS工業は主に橋梁やプラントなど大型構造物から産業機械なんかの設計、施工を行う会社で、僕は構造設計部に所属している。 崎山は三週間ほど前アウトソーシング会社を通して入ってきた人間で、今はいわば試用期間にあたる。 彼はもともと設計は経験者だったのだが、多少分野が違ったため戸惑うことや知らないことも多いらしい。 それでもこの二ヶ月間で彼はみるまに業務を習得していったし、一見キツそうな外見から最初は遠巻きに見ていた人間にも自ら話しかけていって彼は周りとも急速になじんでいった。 彼と同じ歳の親会社の人間も同じ部署に一名出向してきているが、そいつなんか最初から三ヶ月の予定で来ているからと、その期限が過ぎればいいやというような悠長な構えでいるのが見え見えだった。 比べれば崎山はキャリアはあっても、その社員のように一流大学を出ているわけではない、だが仕事に対する努力は人一倍なのは感じられた。 現に今も僕のいうことを一言も漏らすまいと耳を傾けている。 でもやっぱりおかしなヤツだ。 端整で派手な顔立ちをして、身長も百七十五センチの僕よりも少なくとも十センチは高いように思う。モテないはずはないのだが、ならどうして四歳も上の僕になんか興味を持つんだろう。 表情がなければぶっきらぼうにも聞こえる口調が、あのとき思いがけない柔らかさを出した。 『こんなことを言うべきでないのはわかってます。でも毎日主任を見てたら堪えきれなくなりました。考えてみてください』 彼に目をやったのと同時に、向こうも目を上げた。すると屈託ない笑みを投げかけてくる。 ……だから。目が合うとにっこりするのはやめてくれ。 崎山は鋭い顔をしている分、微笑むとそれが崩れ一気に空気が和らぐ。 それで皆、ホッとする。 設計部の女の子達の間でもかっこいいと評判になってるのも知ってる。 僕はまた、すばやく目を他所へ向けた。 たった毎日三十分のことだがほとんどの社員は十分前以降にしかこない。今はまったくの二人きり。 そんな状況は避けたほうがいい。そう思った。 いくら彼がいい男だといっても、僕が告白にうんというわけにもいかないんだから――
暑気払いは毎年社内のリフレッシュルームを使って行われる。 立食形式の簡単なものだが、場所は広いし、ビルの大きな開口から見える暮れゆく風景は抜群にいい雰囲気を出していた。 しばらく部長と話しながら、窓の外の濃くなってゆくブルーのグラデーションを眺めていたら、向かいの窓際で同じ部署の女性社員、大野と親しげに話している崎山の姿が目に入った。
あの日、時間がくると僕は彼に切り出した。 『もう勉強会は終わりにしようか』 『なぜです?』 『最近身体の調子がよくないんだ。朝早く出てくるのがつらいし、崎山君もかなり覚えてきたからもう必要ないだろ』 適当な嘘をついた。彼は不審げに眉を寄せた。 『…わかりました。身体、大丈夫ですか?』 心配する声色の裏に冷えた感情を感じる。 僕は口がうまくない。嘘なんかすぐに見破れらていることだろう。 無言で頷くと彼は言葉を継いだ。 『お大事になさってください。これまで朝早くのご指導ありがとうございました』 何でもないように言っていつものようにフッと微笑み、彼は自分のデスクに戻って行った。 文句の一言でも言われるか、嫌な顔でもされるかと思ったのにひょうし抜け。 立場上何かを言えないのはわかるが、僕の意図はきっと見抜いていたはずだ。
崎山と初めて会った日のことはよく覚えている。 面接を行った前原部長が『今度来るエンジニアはものすごく美人だぞぉ』なんて期待させるから、どんな美しい才女が入ってくるのかと胸ときめかせてたら、来たのは彼だった。 目にした瞬間、部長に担がれたと思って苦笑いしたのだが。 今こうして見ると『美形』となら言っておかしくもないのか、と思う。まぁどっちにしてもそう呼ぶにはガタイがよくて男っぽ過ぎる。 けれどこうしてたくさんの社員の中にいても、垢抜けた派手さで浮いて見える彼には自然と目がいってしまう。 大野はまだ崎山の隣にいてずっとはしゃいで笑顔をふりまいていた。 僕と話しているときとえらい違いじゃないか、と大野の笑顔を見て思う。 崎山が急に遠い存在に感じて、胸の奥底に暗いものが浮いてくる気がした。どうかしてる。 ――ここのところ彼と仕事の用件以外で口をきいていない。 僕が避けたからだ。 なるべく余計な口を利かないようにしていた。 一度そうしてしまうと、会ったときに気軽に声の出せない空気となってしまう。 自分がしたことなのに彼を遠目で見てると息が詰まってくる……。
やがて場はお開きとなり、皆が廊下へと移動し始めたとき。 「高野主任」 ふいに背後から追ってくる声にギクリと肩を震わせた。 振り返るとやはり崎山だ。 こちらが言葉を出すより速く、彼が口を開いた。 「こっち来てもらえませんか、話がしたいんです」 と有無を言わせぬ口調で言い、僕は大きな手を背中から腰にかけてを軽く添えられ、部屋を出ていこうとする皆と逆方向に誘導される。 あ、と思ったときには腕を引かれ、すぐ横の小会議室に放り入れられていた。 入るとすぐに崎山はドアを閉めた。 すでに他の部屋では人の声もしない。皆出てしまった。 「主任」 「何だ」 声は何とか平静を装ったが、心臓は激しく鳴りだした。 「俺を避けてますよね」 張り詰めた空気に鼓動は余計に速まった。 彼が遠慮なく大股で足を進め、近づいてくるから僕は壁際まで追い詰められる。 「いや」 「そうですか? 最近話しかけても必要事項しか返してくれないですよね。残業のときも晩飯を皆と一緒にとるのをやめたみたいだし。避けられているとしか思えません」 淡々とした口調だが、含みは十分感じられて、無意識に後ずさろうとしてもう一歩も下がれないことに気づいた。 背中が壁についてしまってる、逃げ場がない。 もう触れるほど彼の身体が近い。 「気のせいだ」にわかに冷や汗が噴き出してくる。 「そんなに俺が嫌ですか」 「そんなことはない」 彼は目を細め、薄く微笑んだ。 「なら意識、してくれてるんですか?」 「……してない」 「うそつきですね」 強く言うなり温いものが唇に押し当てられた。 勢いよく押しつけられた彼の唇は、一瞬離されたあと、すぐまた覆いかぶさってきた。 とたんにこんなに寄るまで気づかなかった彼の体温の高さを感じてしまう。 熱をこめて二、三度深くついばまれ、何もできずに身体の芯から震えが来るほどの衝撃を感じていた。 待っていたかのように応えようとする自分の唇を、僕は必死で抑えている。 荒い動作で探られて、混乱は増す。 とふいに唇は離され、自由になった口から何とか言葉を搾り出した。 「乱暴だな……っ」 荒くなっていた息のせいで声は上ずってしまった。 「じゃ、もっとやさしくします」 言葉と同時に再び唇がゆっくりと降りてくる。 蕩けるような穏やかさで唇を吸われ、思わずん、と声がもれてしまう。 さっきまで保っていた自制心もこれまで。 ぬるい心地良さについ唇を開くと、すかさずすっとざらつくものが侵入してくる。 じっくりと味わうように舌が絡み合い、お互いの熱を上げていく……夢中になってしまっていた。 身体を離すと、陶然とした僕の様子に満足そうに微笑んだ彼は、手馴れた動作で僕のワイシャツのボタンをはずし始めた。 まるで当然のことのようにボトムからシャツを引き抜こうとする。 「こんなことして…いいと思ってんのか」 彼は手を止めた。 「いいえ。クビ覚悟です……俺のことを切りますか?」 ハッとした。 崎山は半年契約ののちに双方合意ならうちの正社員となれるというシステムで入ってきていた。 社のほうで判断を下すのはきっと僕になる。 目を合わすと、深い色の眼は真剣だった。 「あなたが『あいつは能力がないからだめだ』とでも一言言えば俺は即元会社に戻されます。切りますか? そして誰か他の人間とトレード申請しますか?」 切羽詰った表情なのに。言葉は抑揚なく発せられた。 言葉に詰まった隙にすばやくまた唇を合わされ、彼の手はするりとワイシャツの隙間から入ってきた。 唇を動かしながら、彼の手は胸の先をやさしく撫でてくる。そっとつままれたら身体はビクリとはねて愛撫に応えようとする。 「ふ……」 言おうとした声も言葉にならない。心の中まで引っかきまわされ、朦朧としてくる。 「本当は――ちゃんと社員になってから、アプローチすべきだと思ってました。でも主任があんまり可愛いから、勉強会しようなんていうから耐え切れなくなったんです」 勉強会、何でしようなんて言ったのか。 あぁそうだ。彼が来たばかりの頃。 ふと目にした彼の書く文字が際立ってとまではいかなくても、ちょっと幼稚に見えたので思わず『それ何とかしたほうがいいんじゃないか』とからかい半分で指摘した。 普段手で書くことはあまりないせいかも知れない。客前で字を書くことなどめったにないこの仕事では必要ないといえばそれまで。 ただ外見とあまりにアンバランスなのがおかしくて言ってみただけだ。 なのに、一週間ほどして見た彼の字は同じ人物のものと思えないくらい美しかった。 たまたま以前見たとき荒い字を書いていたのか? いやきっと矯正したんだろう。 遅くまでの残業当たり前、下手したら土日も仕事だ。いつやったんだろう。 そう思ったが彼が何も言わないから訊かずにいた。 そのときにふと提案してしまったのだ。 彼の力になれたらとそう思った―― 「僕が、そんなに好きなのか?」 「はい」 揺ぎない声。見つめてくる瞳。 彼の手は愛撫をやめない。僕の背中からわき腹にかけてをやさしく往復していた。 「何で、僕なんだ……。お前みたいにきれいな顔してたら、いくらでも寄ってくるだろう」 僕の発言に彼はクスリと笑う。 「きれいなのは主任でしょ? 俺ずっと思ってましたよ」 「は……」 彼がまた胸に手を戻したので僕は息を飲んだ。 「出社初日のことです。遅れちゃいけないと早め出てきたせいでかなり早く最寄駅に着いたんですよ。こんなオフィス街では皆慌しく前方をばかりを見て足早に抜けていくだけで。けれどあなたはゆっくりのんきに歩いてた。朝日できらめく街路樹を眺めてた。まるでそこだけ空気が違うみたいに」 見られていた。 ぼうっとしていると思われるのが嫌で会社では出さないようにしていたのだが、本来は景色を見たり、ぼんやり過ごすことが好きなんだ。 朝はいつも早めに出て、公園を回ってみたり、景色を眺めながらゆっくりと出社していた。 「そんなことくらい……」 「まぶしかったんです。こんな純粋な目をした人がいるなんてと」 はぁと息を吐いて、彼はまたそっと一瞬のキスをする。 「俺のことも見てましたよね」 「……」 「主任は外の緑を眺めるのと同じように俺を見てる。…それもいいけど。もっと違う目で見て欲しい」 そうだろうか。 彼のことを景色を眺めるように? 遠い存在として傍観していた? 夢中になる相手じゃない。そう抑制して。 いや、これまでも誰かに我を忘れて夢中になったりしたことなんかないじゃないか。 恋人は過去にいたがちっとも長続きはしなかったんだ。 誰かとのキスにこんなにはまり込んだことはないくせに。 「崎山……僕は」 「あなたに避けられたり無視されるのは耐えられません。このまま進めますか? 選んでください。ダメなら今すぐはね除けて出向元に戻してください」 訴える温い声。 混乱する。 しかし、崎山を返すというのは絶対にしたくないということだけは確かな気持ちだった。 崎山は無抵抗な僕の、ボトムのベルトに手をかけた。続いてファスナーの下ろされる音がする。 彼の口からは熱い言葉が流れた。 「……好きです」
崎山はその後、週一の割合で僕の部屋を訪れて泊まっていく。 僕からのちゃんとした言葉もなく始まった関係はもう三ヶ月になろうとしていた。 朝の柔らかい光が流れ込むベッドで、彼は裸のまま腹ばいの格好で何やら熱心に書いている。もう服を着終わった僕は、そばに寄ってベッドの端にそっと腰掛け、覗き込むと。 昨夜行きたいから教えてくれと訊いた店の内容を詳しくメモに書いてくれているようだった。 そこに書かれているのはやっぱりきれいな字で。 彼がはいっと渡してくれた紙をじっと見て、やはりあのとき字を直したのかと訊いてみると彼は肩をすくめた。 「そりゃ滅茶苦茶努力しましたよ。もう絶対にあなたを抱きたいと思ってましたから」 そうしれっと言ってのける男はフッと顔を緩ませた。 「そんなことのために努力したのか?」 「『そんなこと』じゃありません。それに悔しかったんですよ。皆思ってるだろうなとは自覚してたけど、ズバッと指摘されたことなくて。しかも憧れの人に言われたから」 呆れ顔の僕を見て彼は笑った。 「で、どうですか? もう恋人と呼んでもいいですか?」 今更だろうと言う言葉に僕も「もちろん」と笑った。
僕は彼の恋人になり、しばらくして崎山陽一は我社の社員となった。

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