[673] 王子様はトラクターにのって |
- 稲葉 恵 - 2004年08月12日 (木) 01時44分
「なんにもないんだな……ほんと……冗談みてぇ」 窓の外を流れてゆく、あおあおとしたたんぼだらけののどかすぎるぐらい、のどかな景色に遼は思わず呆れと感嘆の声をあげた。 親の転勤という、ありがちな理由で彼、柴崎遼は転校を余儀なくされたのだった。 二学期始まりからの転校生などワケアリっぽくて嫌だとごね、一人で東京に残ると言い張ったが、もちろんその願いは聞き入れられなかった。 ほとんど強制送還もいいところで今にいたる。 で、今日は初めての登校だ。 編入試験は東京で受けたからどんな土地なのか、遼は知らなかった。 こっちに着いたのは昨日の夜で、景色など全く見えなかったから今見ているものがはじめて見るものだ。 そう、全く見えなかった。 どこも漆黒の闇に包まれていたのだ。 たかが九時で。 「ハンパじゃねー田舎だな…」 「そう言うな。空気はいいし、食べ物もおいしい。いいことずくめじゃないか」 「そりゃ…親父にしてみればいいだろうよ。昇進するわ、給料上がるわ」 「そう腐るなって。住めば都と言うだろう?」 にこやかに言ってのける父に、遼は呟く。 だめだこりゃ…。
「さぁ、着いたよ、遼。今日からおまえの通う高校だよ。ほら、降りた降りた」 父の楽観思考にぶちぶち文句をいっているうちに車は遼の編入先、興譲館高校へと到着していた。
「初めまして、柴崎遼くん、だね。私は担任の色部です。よろしく」 さわやか優男風の担任、色部は遼の前を歩きながら学校説明を始めた。 「この興譲館高校は、藩校を源流とした高校でね。男女共学には違いないんだけど、男女七歳にして席同じゅうせずという教えで、クラスは別々なんだ。校舎は一緒なんだけどね。ああ、クラスは違っても男女交際禁止なんて古くさい校則はないから安心して」 「は……はぁ……」 空気の抜けたような返事を返す遼に、それでも色部は笑顔を崩さない。 「このへん、なんにもなくてびっくりしたでしょう? そのせいかどうかはわからないけど、校舎がやたら広くて……迷子よくいるんだ。かくいう私も…よく迷子になりました」 確かにこの学校は広い。敷地も広いが(なんてったってグランド三つにテニスコート弓道、柔道、剣道場が武家屋敷よろしく建ってる)そして校舎も五棟ある。 この調子だと、移動教室のたびに迷子になる可能性は大だ。 「だからね……あー…着いてしまった…まぁ…おいおい説明するよ」 のんきだ。のんきすぎるくらいに。 田舎の人間という者はみんなこうなのだろうか……? 一抹の不安を感じる遼を置いて色部はさっさと教室に入ってしまった。 「ホームルーム始めるぞー座れー。 今日は転校生を紹介するぞ。 柴崎遼くんだ。あー…みんな仲良くしてやるように。そうだな…学級委員の司、席も隣だし、面倒見てやってくれるか? じゃ授業始めるぞー」
「よろしくお願いしマス……」 色部に示された、インテリジェンスなオーラ発射しまくりな、メタルフレームの学級委員殿の隣に座る。 で、おっかなびっくり挨拶して。 きみ、授業中に話しかけないでくれたまえ! なんて言われたらどうしよう、とか思いつつ。 でも、返ってきた返事は無愛想だけれど、つんけんした態度ではなかった。 「はじめまして、柴崎…でいいか? わからないことがあったら遠慮なく聞いてくれ。 おまえ、ここまで何で通うつもりだ? 電車か? じゃあ帰りは一緒に」 司は、淡々とした口調で、さくさく物事を決めてゆく。 遼の返事も聞かずに、だ。 「そこまで心配してもらわなくても一人ででも帰れると思う…けど…」 確かに自分はここには慣れていない。 けれど、一人で帰れないほど、子供ではない。 顔にでかでかとクエスチョンマークをはりつけた遼に、司は教師に気を使った小声で応える。 「危ないんだ。出るぞ、ここ」 「えっ!? な…なにが…? お…お化け…?」 来たばかりでなんだが、即行で東京に帰りたくなってしまった。 そりゃそうだろう。 ここは藩校を源流とした学校、鎧武者の一人や二人、出てもおかしくない雰囲気を持っているのだから。 「違う違う。部員欠乏の部による部活勧誘の野郎どもだよ。あと不埒な輩」 本気で顔色をなくしていた遼に、司が笑いながら否定する。 ふっと見せた司の笑顔は、冷たいイメージのメタルフレームとはとても釣り合わないくらい人なつっこいもので、失礼にも遼は驚いてしまった。 イメージ的に笑わないか、それでなければ皮肉っぽく冷たく笑うものと思ったから。 「ただし、荒っぽい体育会系の部ばっかりな。間違いなくケガするぞ。一人で帰ると。 俺と一緒の方がまだ、安全だと思うけど」 「そ……そう…か? じゃよろしくお願いします…え……えと……なにくん?」 思わず遼は指先マイクを司に向けた。 仲よさげな会話をしておいて、まだ遼は彼の名を知らなかった。 昨日考えた、よろしく××君にっこり、で完璧にさわやか転校生してやろう計画は脆くも崩れ去ったのだった。 別に崩れても大したことはないが。いじめられるわけじゃなし。 「あれ? まだ自己紹介してなかったか。 司桐人です。姓名どちらもファーストネームぽいから好きな方で呼んでくれて構わないから。まだ教科書、もらってないだろう? 見せてやるからもっとこっち寄れよ」 ちょいちょい、と手招きすると、ずり落ちてもいないシルバーフレームのメガネを押し上げた。 これでいて、実は照れているのかも知れない。遼は心の中で密かにかわいいと思ってしまった。
「このちはやぶるはー…」 黒板前で必死に授業している教師そっちのけで、遼はお隣さん、司の顔を見ていた。 すっと通った鼻筋、メガネの奥に隠された涼しげな目元、黒々としたストレートの髪、どれをとっても若武者みたいでりりしい。 同姓の目から見てもこれだけかっこいいとすれば、女の子にしてみれば超絶かっこいいことになるだろう。 彼女さんになりたい女の子は引く手あまたで、などと遼は勝手な想像を膨らませてていた。 「柴崎、教師がかわいそうだ、俺のツラじゃなく黒板を見てやれよ」 「えっ? ああ、わりぃ」 指摘されるまでずっと遼は司を見つめ続けていたのだ。 いくら授業に集中しているとはいえ、人の視線というものはあんがい気になるものだ。 内心、気を悪くしていたとしても頭ごなしではなくやんわりと注意するそのそつの無さに『大人だなー』と遼は感心する。 これが「じろじろ見んじゃねぇよ。やんのかコラ」などといいがちな前のクラスメートとは大きな違いだ。 「ごめん。じろじろ見て。悪気があるわけじゃないんだ。その…かっこいいなぁと思って」 もちろんこのセリフだってからかってやろうとかそんなつもりは遼には全くない。 本当にそう思ったから言っただけなのに、司は瞬時に顔を赤くして。 「ばかなこというなよなっ」 小声で怒鳴ったつもりでも静まり返った教室にはけっこうなボリュームで響き教師からチョークを飛ばされたのだった。 「くそっいらん恥かかせて…。帰り撒いてやる」 「うわ…そんなつもりじゃ…ごめんっ」 あせる遼のうしろで平和に授業終了のチャ イムが鳴った 。
撒いてやるなどと司は言ったが、幸いそんなこともなく、無事車中の人間になったのだった。 「うわー。線路一本しか無いっっ。 しかも二両!! すげーなんか、かわいい…」 がたんごとん、音を立てて野っ原の中を走ってゆく電車内での会話。 怪訝そうに眉間に皺を寄せた司に遼は気分を害したとでも思ったか、慌てて言いつのる。 「あっ別にこれ、バカにしての発言じゃないぜ。こう、なんて言えばいいのかな、風情があるっていうか、趣?があるじゃん」 そう言って遼は真横に立っていた司を見上げた。 司の方が遼よりも十センチ強、背が高いので、どうしても見上げる形になってしまう。 勉強バカは身長平均を下回るもの、という先入観を持っていた遼としては、内心ジェラシーでいっぱいだ。 それでもそのまま感情を露わにするほど、遼は子供じゃない。 ひゅーやるじゃんオレもー、そう心の中で思ってたとしても。 「司達にとってはさ、見慣れてありふれたものなのかも知れないけど、ビルの乱立する東京砂漠しか知らないオレにとってはきれいだよ。見渡す限り緑の海でー。いいなぁ。 でさ、この緑のぼうぼう生えてんの……豆?」 そんなセリフが遼の口元からこぼれ落ちた瞬間。 電車内の空気が一瞬にして凍りついた。 にぎやかだった車内がしーんと静まり返って、無機質な空調の音だけが響く。 遼はこのおかしな雰囲気に気付きもしない。 耐えられないのは司である。 「柴崎……もうちょっと声のトーン…落としてくれ……。恥ずかしい」 周りの乗客の、しらーっとした視線をものともしない遼は鈍いのかド鈍いのか。 「なにがさ? なんかここ雰囲気悪くね?」 やっぱり気付いていない………。 この空気を作り出したのは自分だというのに、だ。 「柴崎……わざと、か? どこをどう見たら豆に見えるんだ?! 稲だろ、稲! いっつも食ってるだろう!?」 「へぇー…米ってこんななんだぁ…初めて見た。なんか…普通の草なんだな。 てっきり木になると思ってた」 このセリフにまた周りの空気の温度が下がったのは決して気のせいではない。 「もういい……」 がくりと肩を落とした端正な顔立ちの青年に周りの視線は、温かかった…。
「どうしよう……」 カンペキに迷ってしまった。 きょろきょろ辺りを見回すが同じような校舎に似たような階段、現在位置さえもわからない。 転校してきてからもう一週間。 それでもやっぱり校内の全貌を把握することはできず遼は校内で迷っていた。 頼みの綱の司も今はいない……。
「どうかしたのか? あと五、六分で授業開始だぜ。あ、迷ったとか?」 「はぁ……」 途方に暮れる遼に、にこやかに話しかけてくる人がいた。 学ランのボタンを上三つまでもはずして、頭もひよこ色三歩手前の軟派っぽい雰囲気の人物だ。 襟元につけられた学年章から三年だというのがわかる。 「あれ? でも二年だろ、その学年章だと。ああこの前の転入生な」 「はぁ。あのー、生物室ってどこすか?」 人を見かけで判断してはいけないと思うが、 こういったガラ悪めのにいちゃんに深入りしていいことはないと遼は経験上知っていた。 さっさとこの場を立ち去りたくて話をまとめにかかる。 「生物室な…けっこう遠いぜ。こっからダッシュで行っても間に合うか……口で説明するよか案内した方が早いな。こっちだ」 すでに案内する気まんまんの彼に、遼は心の中でだけ困った顔をした。 「いやーでも先輩こそ授業遅れますよ」 気遣うフリして撒こう作戦を発動させるが、ナンパ男は気がついたものが気付かぬものかぬけぬけとこう、言ってのけた。 「サボリ。古文のじーさんの話なんか聞いてたら寝ちまうもん」 「あはは…そーすか」 力無く遼は笑うだけだった。
「なんか……道、違うくありません? オレ、行きたいの生物室で体育館じゃないんすけど……」 いくら遼がこの学校の地理に疎いとはいってもここまで派手に違うとわかる。 生物室は体育館そばになどはないのだ。 「いいんだよ、こっちで」 遼の声に振り向いた三年の顔にはさっきまでのにこやかさはなく、欲望にぎらつく下卑た笑いが張りついていた。 「な………に…ちょっ!!」 身の危険を感じ逃げようとしたが軟派三年の方が一瞬早かった。 遼の腕をひっつかみ、部室もどきのような部屋に引きずり込まれた。 入った瞬間に汗と煙草のいがらっぽい臭いが強く鼻をつく。 「遅かったじゃん、カワシマ。おや、今日はカワイコちゃんと一緒かよ」 ぎゃはは、と野卑な声が中からかかる。 明るいところから突如、暗いところに入ったせいで目が慣れず、まだよくものが見えないが、声から察するに数人はいるようだ。 「おまえは落ちてるものなんでも拾うからなぁ、今度は人間かよ」 「ちげーよ、校内で迷ってたから案内してんの」 ガラの悪い輩が数人、案内された人のこなそうな部室。 中の様子を見た瞬間に遼の身体から、一気に血の気が引く。 (ヤベ……ボコられる……ッオレ、目立つようなことなにもしてねーのにっ) 無意識のうちに後ずさるが、戸にぶち当たって終わり。 逃げようにも戸口には川島、奥に出口はない、絶体絶命の大ピンチだ。 「なーに青くなってるんだぁ? ちょーっとオニィさんたちと遊ぼうかぁ?」 気持ちの悪い猫なで声で近づいてくる川島たちから身を守るように、生物の教科セットを抱きしめた。 遼の全身を恐怖が満たす。 「おい、暴れられねぇようにそっち押さえとけ。口にタオルでもかませてな」 川島は顎をしゃくって舌なめずりせんばかりの仲間に指示を出す。 それにほかの奴らは無言でうなずき、強い力で遼をほこりまみれの床にひき倒した。 殴り返そうにも腕は頭の上にホールドされ動くことも叶わない。 もし腕が自由だったとしても、持っていたのは教科書類だけ、それでは小学生の武器にもなりはしない。 その教科書でさえひき倒された段階でどこかにばらまかれ手元にはない。 「大人しくしてればイーキモチにさせてやるからよ。あばれんじゃねぇぞ」 煙草臭い息をはきながら囁かれ、やっと遼は気付く。 これがただの喧嘩、いちゃもん付けではなかったということ。 自分がそういう、性欲の対象としてみられていることに。 自分が想像していたのは肉体的暴力で。 だが、実際はボコボコにされるよりも精神的にキツい暴力だった。 のしかかる男共を遼はまなじりが切れるほどに目を見開き、睨みつけた。 なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか、わからない。 なぜ男の自分が男に押し倒され、なおかつこんな辱めを受けなけばならないのか。 肉体的暴力の方がまだマシだ。 身体の痛みならば我慢すればいい。それに傷だっていつかは治る。 だが精神的苦痛は…心に大きな傷を残す。 そしてその傷は目に見えないだけにやっかいだ。 抵抗らしい抵抗もできないままワイシャツを開かれて胸元があらわになる。 暑いから、という理由でTシャツを着てこなかったことを遼は後悔した。しかしこんな状況で布一枚がなんの役に立っただろうか。 ちぎれたボタンが飛び散るさまがまるでスローモーションのようにみえた。 ゴツゴツした男の手がワイシャツの合わせから忍び込み胸元をなでまわす。 あまりの気色悪さに口の中が苦い唾でいっぱいになり吐き気がする。 叫ぼうにも口の中にタオルが詰められているため、くぐもった声にしかならなかった。 「叫んでも無駄だよ。疲れるだけだからおとなしくしとけって。オレら、うまいよ」 わざとらしいくらいに優しげに囁くから、逆にムカつく。 足の方にいたヤツを蹴飛ばしてやろうとして逆に押さえこまれてしまった。 万事休す、もうだめだと絶望にも似た思いが身体を満たす。 悔しさと屈辱に涙がこぼれた。 「あらら泣いちゃったー、手荒なことすんなっていっただろ」 「おめーのツラこそ暴力だぜ。あまりにもマズイっつーの」 ぎゃははと野卑な笑いが起こったが、遼はもう抵抗する力さえなかった。 絶望すると力が抜けるものだと身をもって知った。 それをいいことに川島たちは手早くズボンを脱がせにかかる。 と、そのとき。 突如、激しい音を立てて扉が内側に倒れ込んできた。 ちなみにこのドアはけっして内開きではない。引いて開けるもので蹴破るものではもちろん、ない。 その場にいた全員が身体を竦ませ、後ろを振り返ると、そこには少し息を乱した司の姿があった。 戸口に仁王立ちになった司は言葉を失っている川島たちをみわたし、ほんの少しだけ目を見開く。 あからさまではないが、少なからず度肝を抜かれているらしい司に遼は焦った。 自分で脱いだのでしないにしても、ワイシャツははだけ、ズボンはひざあたりに引っかかっているだけというかなり淫らチックな格好になっていたからだ。 「つ……かさ……っ」 弁解しようと口を開くが、出たのはひきつった掠れ声だった。 そんな弱った声で名を呼ばれた瞬間、司の身体から紅蓮のオーラが立ち上った、ように見えた。 今まではっきり感情を表すところを見たことのなかった遼はそんな司の様子に目を見張る。 怒りにらんらんと目を見開き、遼の上にのしかかる川島を鋭く一瞥し、まわりに立っていた外野をも息の根を止められそうな殺人光線で睨みつけた。 「先輩方……こんなところで、なにしてらっしゃるんです? ずいぶんと楽しそうじゃありませんか」 口調も丁寧で声も静かなものだ。だがその静けさが逆に怖い。 「先輩がどんな趣味を持ってようと自由ですが…もちろん、合意の上なんでしょうねぇ?柴崎は半泣きのようですが」 「あっ…あああ当たり前だろ。そっちの方から声かけてきたんだからな…っ」 川島がとんでもないことを言い出す。 遼の方から誘ったなどと、これでは自分が淫乱あばずれみたいではないか。 あわてて遼は腕を高速ワイパーさながらに振って否定する。 「違う! 違うぞ、ただ道聞いただけじゃん。いい加減なこと言うなよ」 かみつく遼に司はまるでわかっているとでもいうようにうなずき、川島の方に向き直った。 「 そう柴崎は言ってますが。 さて僕はどうしたらいいと思います? 一、このまま問答無用でボコボコにする。二、先生を呼んで引き渡す。三、柴崎と同じように辱めを受けてもらう。どれがいいですか?」 穏やかな口調に似合わない非情な内容に遼は哀れんでしまう。が、止めようとは思わない。 「どれも嫌、そうですか。じゃあさっさと僕らの前から消えて下さい!!」 すさまじいばかりの怒気を滲ませて司は戸口を指さした。 「ちくしょう!! 覚えてろよっ」 負け犬の捨てぜりふを吐いて川島たちは転がるように出ていった。 「そんなことに脳のメモリーさくなんて、もったいないことするか、ばーか」 べろべろべーと舌を出す遼に司は咳払いを一つ。 「それはそうと……ずいぶんと刺激的な格好だな」 頭のてっぺんからつま先まで舐めるように一瞥され、遼は自分が今どんな格好なのか思い出した。 「わぁぁぁっっ」 あわてて襟元をかきあわせてしまうほど、司の視線がいつもと違って思えた。 川島たちが見せた視線とほんのとちょっと、ほんのちょっとだけ似た、熱を帯びた視線。 このとき感じた視線の意味をまだ二人はわからない。 無意識のうちに遼に目を奪われてしまった司でさえ、未だ気付いていない。 心の奥にいつの間にか芽生えた、小さな恋心が大きく育とうしていることに。
三時間目も半ばをすぎて、しんと静まり返った廊下を二人並んで歩く。 「よくオレがあそこにいるってわかったなあ。司が助けてくれなきゃ今頃どうなってたか」 正面きって礼を言うのが恥ずかしい遼は足元を見たまま、てくてく。 「保健室の窓からおまえが連れ込まれるとこが見えたんだ。うっかり試験管壊しちゃって、片づけるときに手ぇ切っちゃってさ。 道に迷うのは仕方ないとしても、道を聞くときはもっと人を選んで聞くべきだ」 たまに一人で移動させるとこれだ……などと小さな舌打ち付きでこぼされる。 「わーかったよ。じゃあさぁ…今度から司がオレ専属のツアコンになってくれる? 移動教室のたびにオレを目的教室まで安全かつ迅速にご案内、してくれるか?」 邪気のない笑みを向けられ、らしくなく司はどぎまぎしてしまう。 「そそそそんな、いいに決まってるだろ。 いちいちおまえのこと探し回るのも面倒だしなっ」 どもりつつの返事に司は内心舌打ちした。 近ごろ調子を狂わされる事が多い。 遼が転校してくる前までは冷静を装うことなど造作もないことだったのに。 今では遼のちょっとしたしぐさや表情に翻弄され前のように冷静でいられない。 どことなく据わりの悪い、この気持ちの悪さ、なぜ据わりが悪いのか、その理由もわからぬ気持ちの悪さ。 自分のことが一番わからないのは、誰しも一緒のようだ。
「え? 日給一万のバイト? やるやる!」 一も二もなく立候補する遼に司は密かにうっすらと笑んだ。 確かにバイトも捜していた。が、それを遼に打診したのは別のところにある本来の目的のためだ。 なぜに遼にだけこんなに心みだされるのか、その理由を一日かけて解明しようという算段である。 そんな司の裏の思惑など知るよしもない遼は、諭吉さんを思い描いてはニヤついていた。 「立候補ありがとう。日にちはあさって連休の初日。仕事内容は畑作業の補助、作業時間は九時から昼休みをはさみ三時まで。 朝八時におまえんちに迎えに行くからな」 司はてきぱき連絡事項を伝える。 「げぇ……はちじって…やたら早いな……」 寝起きの悪いらしい遼は時間を聞いて顔を歪めた。 「農家の朝は早いものと相場が決まっている。 そもそも八時は少しも早くない。 ちゃんと起きてろよ」 しっかりとくぎをさされ、遼はまたもや諭吉さんを頭に思い描き大人しくうなずくのだった。
連休初日の朝 「おはよう。ちゃんと朝ご飯は食べたか?」 学校の時そのままのさわやかな笑みを浮かべた司はきっかり八時に遼の家に現れた。 制服を見慣れた遼に私服の司は目新しい。 まだ目が覚めきっていない遼はぼんやりした視線を司に向け、そして彼の後ろにとまっているものに目を奪われた。 迎えに来るとは聞いていたが、その乗り物が自転車でも軽トラでもなく、ぴかぴかに磨かれた真っ赤なトラクターだとは思いもよらなかった。 しかも半端な大きさではない。 まるで小山のような立派すぎるボディに遼は度肝を抜かれ、あっという間に眠気が吹っ飛んでしまった、 「なんだよ……それ………」 「トラクターでしょ。消防車に見える?」 「いや、そうじゃなくて……」 何か言いたげにもごもごしている遼の後ろに立つ人影。朝からパワフルな彼の母親だ。 「まったくこの子はっ。司くんをお待たせするんじゃないのっ」 その後ころりとトーンを変えて「たいして役にはたたないでしょうけど、こき使ってやってね」と微笑まれ送りだされたのだった。
ばばばばば …… 快調なエンジン音を響かせトラクターは朝の農道を走ってゆく。 「なあ、トラクターってさ、免許必要じゃなかったっけ? 司は免許持ってるのか?」 もともと一人乗りのところにむりやり二人で乗っているため、遼の体勢は多少アクロバティックだ。 身体が半分以上、外に出ている。いうなれば変形ハコ乗りというところだろうか。 そんな乗り方ではいくら免許を持っていても警察に止められるだろう。 「あー、免許? 持ってない。無免だもん。 いいのいいの。忙しい時期は警察も大目に見てくれるから。そもそも校則にもあるだろ。耕運機トラクターなどで登校してはならないって。ま、そんなもんだよ」 「へえ……そういうもんなんだ…。 アバウトなんだね……」 おもわずチャリならぬ耕運機で通学するクラスメートの姿を脳裏に描いてしまい、遼は引きつった笑いを浮かべたのだった。
「はい、到着と。父さん、トラクター持ってきたよ」 こちらに背を向けて何事か作業をしていた男性に司は声をかけた。 「おう、来たか。じゃあトラクタはもっていくぞ。まさかとは思うが…どこかぶつけたり擦ったりしてないだろうな? 高いんだから気をつけてくれよ」 きりりと眉間にしわを寄せ司をにらむ。 司の父親というだけあって顔立ちかよく似ている。

|
|