[650] 君を乞いせば |
- かえる - 2004年07月29日 (木) 02時27分
窓から入ってくる夜風が気持ちいい。黄色いカーテンがひらひらとゆれて伸びた髪が首筋をくすぐった。部屋の主が戻ってきたので笑顔を向けて左手を上げた。風呂上りの少年は口をぽかんとあけたまま扉の前で立ち尽くしていた。 「葵、なにやってんだよ」 非難めいた目を向けてくる少年にかまわず、葵はキレイに整えられたベッドに腰をかける。そうして柔らかい感触にそのまますいこまれるように背を預けた。陽によく干された布団が葵を包み込む。息を吸い込むと、求めていた香りが葵を満たした。 「葵、だからお前どっから入ってきたんだよ」 とがった口調が上から降ってくる。隣に腰をかけた少年が覗き込んでくる。迷惑だといわんばかりの目線が責めている。葵は息を吐くと勢いをつけて起き上がった。 「宿題だよ。智に教えてもらいたいからきたんじゃなか」 智の腕を引いて唇が触れるほどの位置で耳元に囁いてやる。智の腕が思わず葵を押し返した。二人の距離が空く。そうしてそ知らぬ顔で濡れた髪をタオルで拭き、智は葵から視線を逸らした。 「だからって窓から入ってくることないじゃないか」 「こっちの方が近いんだよ。それに、開いてたから」 葵はそういって窓を指差した。黄色いカーテンがひらひらと風で揺れている。葵の家はすぐ隣だ。ベランダに出ればたいした間隔もない隣の家への侵入はたやすいことだった。 「窓を開けっぱなしにしておくなんて無用心だよ。そのうちどろぼうにでもはいられるよ」 他人のベッドのうえで足を投げ出す。ハーフパンツからでたむき出しのひざをわざと智の目の前に向ける。 「どろぼうがはいるようになったのはお前が隣に越してきてからだよ」 智がいやみのようにそんなことを返してくる。
全くよくゆう。どろぼうはお前のくせに。奪われたのはこっちのほうだ。口の中で小さく舌打ちをして天井を仰ぐ。白い天井が眩しすぎると思った。 越してきたのは4か月前。中学三年の春に転校なんて気が進まなかった。
どうせすぐに卒業だ。
適当に過ごそうと思っていたのに。
体を支える手に力を込める。自然と握った白い掛け布団のカバーに皺がよった。
彼はきっと思っているんだろう。
葵は意地悪なヤツだ、と。離れようとすればするほど近づいてきて、捉えようとすれば今度は逃げていく。猫より質が悪い、と。
そうだよ。わざとやってるんだよ。お前の気持ちを知っていてそれでやってるんだ。かまってくれないからかまってやってるんじゃないか。勝手に奪ったのはお前の方のくせに。 それなのにこっちの気も知らないで、こっちがどんな思いをしてるかなんて考えやしないで。
側にいるだけでこんなに心臓がうるさいのに、 触れられるだけで泣きそうなぐらい顔が熱くなるのに、
「智、背中。傷みせろよ」 顔をあげると気まずそうな智の視線とぶつかった。側の勉強机の上に転がっていたクリームを手に取る。 「薬、塗ってやるよ」 言うとあわてて智はいいよ、と断ったが無理やり座らせてTシャツをめくり彼の背をむきだしにした。そこには小さな傷が未だくっきりと残っていた。葵のつけた傷だ。いきなりキスをされてびっくりして思わずその背につめを立てたのは三週間前のことだ。指で赤く残った傷跡をなぞりながる。
「これじゃあ今年の夏は海にもいけないな」 「受験生が海になんかいってられないさ」 「じゃあプールの授業は」 「飼い猫に引っ掻かれたって言うさ」 「飼い猫ねぇ、」
葵はおかしくて声をたてて笑った。外の風の音と重なって笑い声が奇妙に響く。葵はつめたい指先を彼の背から離し、かわりに唇を傷跡にもっていった。途端に智の体がふるえ、葵が唇を離すと同時に彼は振り返った。
「何やってんだよ」
その表情に葵は満足して目を細めた。
「だったらみんなの前でいえよ。僕はその猫が大好きです、ってね。そうじゃなければキスもさせてやらないから」
言っている側から腕をぐいと引かれる。その手に身を任せながら葵は智の唇の感触を思い出してまぶたをとじた。
窓の外からは相変わらず心地よい風が入ってきていた。
了

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