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和田絵画教室

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吉住美昭・写真展

1336:和田千秋 (2018年01月26日 (金) 19時48分)

私の展覧会の記録写真を撮っていただいている、写真家・吉住美昭さんの写真展〜潜伏キリシタンの雫〜も開催中です(26日から31日迄)。

潜伏キリシタンの流れをくむ奥様を、ゆかりの地で撮影されたシリーズ作品だと思われます。この展覧会も私はまだ見に行けてないので、、。

場所は、福岡市博多区住吉3−1−1の「富士フィルムフォトサロン」です。お近くの方は、この展覧会も是非!

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九州古陶磁と伊藤明美展

1335:和田千秋 (2018年01月26日 (金) 19時35分)

私が係わっている「障碍の茶室」で、いつも使用している耳付きのお茶碗を作っていただいた、陶芸家・伊藤明美さんの展覧会が開催中です(24日から28日迄)。

私はまだ見に行けてないのですが、場所は福岡市のホテルオークラの東隣にある古美術店「天平堂」です。伊藤さんコレクションの九州古陶磁と伊藤さんの陶芸作品を同時に展示されるようです。古美術店は敷居が高いなどと言わずに、お近くの方は是非どうぞ!

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「サンシャワー」展

1334:和田千秋 (2017年12月01日 (金) 20時56分)

先日、福岡アジア美術館で開催中の「サンシャワー」展に行ってきました。それと、「アジア太平洋におけるソーシャリー・エンゲイジド・アート」という事例報告&ディスカッションも、併せて聞いてきました(展覧会は25日迄)。

展覧会は、以前アジ美で見た作品が全体の何分の一かを占めていました。展覧会におけるアーカイヴィングの問題も孕んでいるため、今は上手くまとめられないので今回は割愛。イベントのほうだけ簡単な感想を述べます。

さて、ソーシャリー・エンゲイジド・アート(長いので以下SEA)については、私がかかわっている「障碍の茶室」と共通する部分が多いので、以前から気になっていました。また、SEA以前からあるリレーショナル・アートについては、クレア・ビショップなどから、美術愛好家などの内輪の世界の関係にとどまっているというような批判があることも知っていました。

そんなこともあってか、アジ美学芸員の中尾さんが「リレーショナル・アートは主に美術館内で発表されるのに対し、SEAは美術館外で主に実践される」旨、解説されていました。そうだとすれば、リレーショナル・アートの問題点を克服する形で、SEAが出てきたのかもしれませんね。

しかし、もっと気になることが私にはありました。それは、今月号の美術手帳を読んでいた時、批評家の沢山遼が「SEAを歴史的な様式に当てはめてみると、社会主義リアリズムと言える」と発言していたことでした。このことをどう考えるかはとても難しい問題です。

この発言が出てくる文脈を私なりに考えてみますと、デュシャン以後、再帰的にしか成立しなくなった美術の問題があります。再帰的というのは社会学の用語で、作品が物理的に成立するのではなく、人々の認識によって成立するようになったということです。

物理的な便器は、どうみても美術品じゃないですもんね。それに意味を感じる人にとってのみ、美術品と見なされるわけです。このデュシャンの考えを受け入れると、モナリザも便器と同じオブジェとなってしまいます。(時代を前後して、宗教、国家、あるいは人間も再帰的にしか成立しなくなっています)。

その後、デュシャンを受けて、大量消費時代の可能な表現として、コピーからコピーを作るウオーホルが現れ、デュシャンの反復としてのコンセプチュアルアート、ウオーホルの反復としてのシミュレーショニズムが出てきて再帰性が増大。再帰性は=無根拠です。

その後の幾何学的抽象などは、ゾンビ・フォーマリズムと揶揄されました(これらの流れは、現在、意味や内容が復活したことから、過去の美術史が再編成されるだろうとの予測の上に私が勝手に作ったものです)。

さて、本題に戻ります。100年以上続いたフォーマリズム時代が終わり、マルチカルチャリズム、ポストコロニアリズム、フェミニズムの影響もあって、90年代からは現代美術が大きく変わってきましたが、それらは、沢山さんの言われるようにリアリズムの復活と言えるのかもしれません(ゾンビ・リアリズム?)。

もちろん社会主義リアリズムの復活ではありませんが、以前アジア美術展で言われていたような「態度としての」リアリズム(写実のリアリズムではなくて、自分の切実な問題を扱うというリアリズム)、であることは間違いありません。

であるならば、表現としては危ないのかも? 今は権力批判的で、社会主義リアリズムとは逆向きですからいいのですが、右傾化しているような国では、全体主義に利用されないか心配です。

というようなことを考えながら、事例報告を聞いていましたが、そうならないためのヒントは、イベント参加者のジェームズさんが、おっしゃっていた「パーソナル・イズ・ポリティカル」という、フェミニズムでよく使われる言葉にあったのかもしれません。個人的なことは政治的であるということです。あるいは、個人的なことこそ、、。

そして、それに付け加えるなら、他者への共苦(シンパシー)、他者の苦しみを、自分の苦しみとして共にしていくということも必要かもしれませんね。いずれにしても、SEAは、これからも興味深く見守っていきたいと思ったしだいです(というか、お前がやれよ!という話ですが、、、)。

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「美つなぐ香椎宮2017」

1332:武内貴子 (2017年11月09日 (木) 01時50分)

残り1週間となりましたが、展覧会の案内をさせてください。
昨年に引き続き2回目です。

「美つなぐ香椎宮2017」

会期:11/4(土)〜11/15(水)
10:00〜16:30
会場:香椎宮 境内・勅使館
入場無料

香椎宮に於いて、福岡を拠点に活動する美術作家10名による現代美術の展覧会を開催中です。
神社空間を舞台として、新たな視点で作り出される彫刻 絵画 インスタレーションなど
多様な表現を是非ご覧ください。

参加アーティスト

木下英大
川崎優美
武内貴子
床田明夫
中西秀明
中村ケイ
浜地孝史
南健吾
ヤマウチ マサヒロ
久門裕子

よろしくお願いします。

1333:和田千秋 (2017年11月09日 (木) 23時20分)

武内さん、ご案内ありがとうございます。それに、ご結婚おめでとうございます。11月は私、忙しくてちょっと行けないのですが、生徒さんに紹介しときますね。奥村さんと浦さんは行かれるようです。

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「齋藤秀三郎銅版画集」

1331:和田千秋 (2017年09月08日 (金) 20時48分)

元九州派の、斎藤秀三郎さんの銅版画集が出版されました。今年で95歳になられますが、現在でも現役作家で、矍鑠(かくしゃく)としていらっしゃいます。

メゾチント技法を使った、深みのある闇のような空間の中に、キャベツと廃棄物の二つが組み合わせられています。といって、自然物と人工物を対比させた、単なる文明批評的な作品ではありません。キャベツが人間の脳にも見えてきて、理性を持った人間の、そしてその理性を統御できない人間の、心の闇のようにも見えてきます。

そして感じたのが、「様式」の強さでした。例えば江戸時代の浮世絵師の肉筆画は、とうてい彼らの浮世絵版画の強さに敵わない気がします。それは版画には様式性があるからで、言い方を変えれば制約です。制約の狭い範囲内で作るから、工夫し完成度が上がるのです。画家の言う「自分なりのスタイルもほぼ同じ意味でしょう。いかに範囲を限定し、そこを掘り下げていくか。昔、哲学で使われた「批判」も同じような意味だったですね。斎藤さんを見習っていきたいです。

そしてなによりすばらしいのは、斎藤さんが、60歳を過ぎて、定年後にこれら代表作を生み出されたこと。我ら後輩に、なによりの希望を与えてくださいました。お勧めの作品集です(なお、この「銅版画集」は、福岡市のアートスペース獏で取り扱っているそうです)。

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ラスコー展

1330:和田千秋 (2017年09月08日 (金) 20時05分)

先週、忙しくて書けなかったので、遅ればせながら「ラスコー展」(於:九博)の感想を書きます。

実際にフランスのラスコーに行っても、実物は見れないようなので、福岡でラスコーの洞窟壁画が見れたのは貴重な体験でした。レプリカとはいえ、実際の壁画をイメージすることができました。

なぜあんなにリアルな表現が出来たのかと、訝しがる人もいますが、動物や人間の赤ちゃんは基本的には写真型記憶なので(例えば、犬に石を投げて威嚇すると、いつまでもその人の顔を覚えていますし、言語脳が未発達な障碍者の中にもそのような人がいます。山下清は、旅先の風景を、数か月後に貼り絵にしたりしています。それに比べ、一般の大人は、言語で記憶しています)、表現の技術さえあれば、リアルな絵を描くのは簡単だったはずです。

また、何のために洞窟壁画は描かれたのか?と、夙に問題になってきましたが、もちろん本当のところは分かりません。私なりの解釈では、そもそもネアンデルタール人が、埋葬者に花を手向けたところから、人類の宗教儀礼と美術は始まっています。それは、「死」が我々に憑りつかないようにと、「生」の象徴である生殖器としての花を、対抗物として手向けたのだと解釈されています。

そこから類推すると、狩って殺してしまった動物の霊が、人間に悪さをしないようにと、霊的世界である洞窟の奥へ閉じ込めようとしたのではないかと思いました、、、というのは単なる思い付きですが、展覧会を見ながら別の感慨も沸いてきました。

ベンヤミンが、近代に複製技術が発達して写真や映画が登場し、また美術館が誕生すると、美術の価値が、礼拝的価値から展示的価値に変わってしまったと言ったのは有名ですが、ということはラスコー以来、およそ2万年間、美術の礼拝的価値が続いていたことになり、その悠久の流れに感動したのでした(そしてその終焉にも涙しました)。

そしてちょっぴり羨ましくもありました。ラスコー壁画を描いたのはヨーロッパ人の祖先のクロマニョン人ですが、そのころ我々東アジア人の祖先たちは壁画を残していません。土器は焼いていたでしょうが、やっぱり「美術」の始まりはヨーロッパからなのかな〜?。

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奥村順子展

1329:和田千秋 (2017年07月07日 (金) 19時19分)

この教室の生徒さんである奥村順子さんの個展が、福岡市のギャラリー「ヴァルト アート スタジオ」で開催中です(22日迄、日・月・火 休廊)。

奥村さんにとって3回目の個展(すべてヴァルトです)。これまでずっと、若い女性の不安や怖れをテーマとして制作してきています。

前回までは、不安や怖れを、闇を描くことで表現していましたが、今回は画面が以前より明るくなっていました。なにしろタイトルが「柔らかな障壁」。直接的なイメージを避け、より困難な表現を目指したのでしょう。

西洋の神話画で、登場人物を特定するための「持ち物」を、アトリビュートと言いますが、奥村さんの絵にも、人物解読のための物がちりばめられています。

前回の個展の際に、女性像の横に描かれていたのはゴミ袋でした。今回はなんと、蟹や空き缶です!より謎めいていますね。福岡にお住いの方は、是非足をお運びください。お勧めの展覧会です。

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「花の挽歌」

1328:和田千秋 (2017年04月07日 (金) 19時34分)

「花の挽歌」と題して、昨年90歳で亡くなられた、元九州派の尾花成春さんの遺作展が開催中です(於:アートスペース獏、16日迄)。

九州派といえば、コールタールで覆った抽象画が有名ですが、会場には九州派以後の、「花」を描いた具象画が並んでいました。それも、「成春」の名とはそぐわない枯れたヒマワリの絵。しかし尾花さんの「尾花」は、「枯れ尾花」の尾花でもあるので、きっとそちらのほうにより惹かれたのかもしれません。生け花作家の中川幸夫さんが、枯れた花に美を見出したように。確か中川さんは、俵屋宗達の「蓮池水禽図」から影響を受けたと言っていました。枯れた花に美を見出す思考の流れが、日本にあるのかもしれませんね。

また、可愛らしい花の小品も会場にありました。これなども、モンドリアンがこっそり描いていたユリの絵を思い出させます。生活のために描いていたのでしょうが、モンドリアンにとっては、彼の抽象と、キリスト教の象徴であるユリの絵は、神秘主義的思考の中で、矛盾するものではなかったのかもしれません。尾花さんにとっても、九州派時代の抽象と花の絵は、どこかでつながっていたのでしょう。

赤瀬川源平が、最後は普通の絵を描いて死にたいと、どこかで言っていました。そして晩年、印象派風の画学生のような絵を数点?残しています。その気持ち、分かるな〜。尾花さんの「普通の絵」は、どこか哀愁を帯びて、心に残る「花の挽歌」となっていましたよ。お勧めの展覧会です。

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片山攝三 肖像写真の軌跡

1327:和田千秋 (2017年02月10日 (金) 19時39分)

先週から始まった「片山攝三展」に行ってきました(於:福岡県美、3月20日迄)。県美としては、平成元年に続いて、2度目の片山さんの企画展になります。

福岡の方は皆ご存じと思いますが、片山さんは、市内で写真館を営みながら、著名人の肖像写真を撮り続けた写真家です。1914年生まれで、2005年にお亡くなりになりました。

会場には、鈴木大拙、柳田國男、志賀直哉といった、歴史に名を残す方々の肖像写真が並んでいました。

個人的には、良寛研究家であった安田靭彦が、良寛遺愛のものと思われる手毬を眺めている写真や、病気で半身マヒになった柳宗悦が、杖を突きながら階段を下りている写真が印象に残りました。柳は、病後の写真を取られるのを嫌ったそうで、信頼している片山さんにだけ取らせたのではないでしょうか。

片山さんの写真の特徴は、レンブラントから影響を受けたという、暗闇のなかに浮かび上がる人物像ですが、被写体となった方々のほとんどは、すでに物故者となっています。

オリジナルプリントゆえに、暗くライティングされた会場に立っていると、すでに歴史となり永遠化された死者(他者)からの、生者である我々への呼びかけを聞くような思いがしました。

我々の中に、このような「肖像写真」に写されるに値する人が、いったいどれだけいるのだろうと自問せざるを得ません。その意味で、すでに「肖像写真」の時代は、終わりを遂げたのかもしれませんね。お勧めの展覧会です。

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橋あさか展

1326:和田千秋 (2017年01月13日 (金) 19時27分)

まだ大学3年生という若い作家の初個展(於:アートスペース・テトラ、16日迄)。

年代によって、二つの絵画様式の作品が並んでいて、前半は、サブカルチャーから取られた少女像と春画から盗用されたパーツが併存する絵画。後半は、外国映画から取られた女性像と、その上から乱暴に塗られた文字からなる絵画。

手法は、80年代から90年代にかけての絵画に近似するが、作品の迫力はなかなかのものだった。前半、後半で共通するのは、背景の具体的な図像を、その上に塗られた平面的、記号的な面が打ち消しているところか。

特に後半の、死や暴力性を感じさせる連作絵画には、単にシミュレーショニズムと言って済ませられない切実さを感じた。お近くの方は是非!

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