[3199] 題名:2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。 名前:2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。 しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。 オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。 しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。 画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。 その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。 「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。 「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。 その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。 神父の言葉と、悪夢の深化 あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。 耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。 「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」 俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」 聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。 翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。 再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。 「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」 しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」 その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」 神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」 警官の訪問と、もう一人の犠牲者 神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。 「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」 怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」 俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか? 「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」 俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。 「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」 警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。 「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」 警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。 最後 その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。 夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。 「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。 俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。 「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。 俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。 俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。 ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。 投稿日:2025年07月05日 (土) 09時33分
2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。
しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。
オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。
しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。
画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。
その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。
「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。
「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。
その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。
神父の言葉と、悪夢の深化
あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。
耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。
「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」
俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」
聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。
翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。
再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。
「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」
しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」
その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」
神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」
警官の訪問と、もう一人の犠牲者
神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。
「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」
俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか?
「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」
俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。
「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」
警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。
「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」
警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。
最後
その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。
夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。
「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。
俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。
「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。
俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。
俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。
ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。
しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。
オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。
しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。
画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。
その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。
「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。
「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。
その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。
神父の言葉と、悪夢の深化
あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。
耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。
「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」
俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」
聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。
翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。
再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。
「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」
しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」
その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」
神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」
警官の訪問と、もう一人の犠牲者
神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。
「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」
俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか?
「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」
俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。
「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」
警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。
「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」
警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。
最後
その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。
夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。
「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。
俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。
「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。
俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。
俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。
ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。
しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。
オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。
しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。
画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。
その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。
「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。
「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。
その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。
神父の言葉と、悪夢の深化
あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。
耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。
「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」
俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」
聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。
翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。
再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。
「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」
しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」
その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」
神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」
警官の訪問と、もう一人の犠牲者
神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。
「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」
俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか?
「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」
俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。
「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」
警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。
「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」
警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。
最後
その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。
夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。
「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。
俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。
「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。
俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。
俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。
ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。
しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。
オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。
しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。
画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。
その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。
「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。
「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。
その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。
神父の言葉と、悪夢の深化
あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。
耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。
「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」
俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」
聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。
翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。
再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。
「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」
しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」
その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」
神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」
警官の訪問と、もう一人の犠牲者
神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。
「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」
俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか?
「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」
俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。
「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」
警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。
「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」
警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。
最後
その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。
夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。
「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。
俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。
「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。
俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。
俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。
ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。
しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。
オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。
しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。
画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。
その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。
「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。
「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。
その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。
神父の言葉と、悪夢の深化
あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。
耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。
「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」
俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」
聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。
翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。
再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。
「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」
しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」
その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」
神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」
警官の訪問と、もう一人の犠牲者
神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。
「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」
俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか?
「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」
俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。
「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」
警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。
「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」
警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。
最後
その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。
夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。
「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。
俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。
「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。
俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。
俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。
ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。
しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。
オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。
しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。
画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。
その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。
「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。
「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。
その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。
神父の言葉と、悪夢の深化
あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。
耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。
「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」
俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」
聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。
翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。
再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。
「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」
しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」
その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」
神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」
警官の訪問と、もう一人の犠牲者
神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。
「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」
俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか?
「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」
俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。
「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」
警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。
「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」
警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。
最後
その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。
夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。
「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。
俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。
「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。
俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。
俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。
ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。
しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。
オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。
しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。
画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。
その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。
「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。
「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。
その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。
神父の言葉と、悪夢の深化
あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。
耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。
「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」
俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」
聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。
翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。
再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。
「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」
しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」
その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」
神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」
警官の訪問と、もう一人の犠牲者
神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。
「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」
俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか?
「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」
俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。
「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」
警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。
「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」
警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。
最後
その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。
夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。
「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。
俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。
「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。
俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。
俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。
ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。
しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。
オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。
しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。
画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。
その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。
「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。
「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。
その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。
神父の言葉と、悪夢の深化
あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。
耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。
「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」
俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」
聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。
翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。
再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。
「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」
しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」
その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」
神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」
警官の訪問と、もう一人の犠牲者
神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。
「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」
俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか?
「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」
俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。
「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」
警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。
「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」
警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。
最後
その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。
夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。
「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。
俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。
「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。
俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。
俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。
ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。
しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。
オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。
しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。
画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。
その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。
「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。
「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。
その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。
神父の言葉と、悪夢の深化
あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。
耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。
「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」
俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」
聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。
翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。
再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。
「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」
しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」
その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」
神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」
警官の訪問と、もう一人の犠牲者
神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。
「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」
俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか?
「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」
俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。
「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」
警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。
「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」
警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。
最後
その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。
夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。
「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。
俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。
「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。
俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。
俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。
ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。2001年3月、俺が物心ついた頃から慣れ親しんだこの小さな集落でも、子供たちが目を輝かせながら見ていた自然教育番組は最終回を迎えた。地球上の多様な生命の営みを追うその番組は、毎週異なる動植物を特集し、画面を通して私たちに遠い世界の驚きを届けてくれた。最終回は、広大な熱帯雨林の生態系を描き、そこで生きる命のつながりを感動的に締めくくった。それから2年、番組の話題も、テーマソングも、すっかり過去のものとなっていた。俺は成人してからも一人暮らしで、静かな生活を送っていた。
しかし、2003年5月15日、水曜日の午後6時30分。俺は一人、慣れたはずのこの部屋で夕食の支度をしていた。ふと、付けっぱなしにしていたテレビから、あの懐かしいオープニングが流れ始めた。チャンネルは、かつてその番組を放送していた民放局だ。思わず手を止めた。再放送にしてはあまりにも唐突で、現地の番組表にも載っていない。インターネットなど無縁のこの集落では、SNSで騒がれることもないが、俺一人の空間で、異様な感覚が募る。
オープニングが終わり、本編が始まった。その日のテーマは「深海の生命」。真っ暗な深海を漂う奇妙な生物たちの姿が、最新の水中カメラで捉えられていた。淡い光を放つ魚、巨大なイカ、そして海底をゆっくりと這う生物たち。神秘的で、どこか不気味な深海の光景が、俺を釘付けにした。
しかし、番組が始まって数分経った頃、異変は起きた。
画面の右下隅、深海の暗闇のわずかな隙間に、小さく、しかし確実に、不気味な赤色の光景が映り込み始めたのだ。それはまさに**「茹でられた者」**だった。
その姿は、黒く縦に長くささくれのようなものが何本も生えた、歪んだ丸太のような身体をしていた。その真ん中には、赤い心臓のようなものが脈打っているのが見える。身体の上には、赤く沸騰しているかのように変形した、肉片のような人間の顔があった。その顔の鼻はただの穴のようで、目はまっっ黒だった。頭からは、細長いものが何本も生え、うねるように蠢いている。全身が赤く熱を帯び、ぶくぶくと泡立つ溶岩のようにも見える。時折、その表面から水蒸気のようなものが立ち上り、見る者の視覚を歪ませる。
「茹でられた者」は口らしきものを開閉しているように見えたが、そこから発せられる音は、単なるノイズと不快な摩擦音の集合体でしかなかった。声と呼べるものではなく、意味のある言葉として聞き取れるものは一切なかった。だが、その得体の知れない音の羅列が、直接俺の脳に響くような、形容しがたい不快感を与えた。
「茹でられた者」は、画面の隅でただそこに「いる」だけだった。その姿は、一瞬たりとも変わらなかった。にもかかわらず、その沸騰した顔に備わったまっっ黒な目が、ぎょろりと俺を見据えているように感じられた。画面右下の小さな異物が、深海の神秘的な光景と不釣り合いなほどに、見る者の意識を支配していく。
その瞬間、放送は途絶えた。画面は砂嵐になり、やがて通常の番組に戻った。わずか数分間の出来事だった。
神父の言葉と、悪夢の深化
あの夜以来、俺の生活は一変した。最初は、ただの夢だと思っていた。しかし、夜中に何度も目が覚め、あの「茹でられた者」の出す不快な音が頭の中に響き渡る。耳を塞いでも、集落の静寂の中にその音がこだまする。眠りにつこうとすると、脳裏にあの赤い肉塊が浮かび上がり、まぶたの裏で蠢く。視界の端には常に赤い残像がちらつき、畑の植物も、道端の石も、集落の人々の顔でさえ、あの肉塊に見えることがある。体調も悪化し、全身を覆う悪寒と倦怠感、皮膚の言いようのない痒みに苦しめられた。
耐えきれなくなった俺は、集落にある小さな教会の神父に相談することにした。年老いた神父は、俺の話を真剣な表情で聞いてくれた。
「それは……厄介なものに取り憑かれたのかもしれん。すぐにでもお祓いをしたいところだが、準備に時間がかかる。一週間は見てほしい」
俺が眉をひそめると、神父は続けた。「それまでは、聖書を枕元に置いておくのだ。そして、常に警戒を怠るな。決して、安易にそれに触れようとするな。」
聖書を抱えて家に帰った夜。夢の中にあいつが現れた。「茹でられた者」が、部屋の隅ではなく、俺の目の前に、大きく、大きく、膨れ上がって迫ってくる。あの不快な音を撒き散らしながら。俺は身動きが取れない。全身が金縛りにあったように麻痺し、ただその肉塊が迫りくるのを感じるだけだった。飛び起きると、心臓が激しく脈打っていた。体は冷や汗でぐっしょり濡れている。
翌日も、その翌日も、状況は悪化の一途を辿った。幻覚だと思っていたものが、現実の光景に重なるようになった。壁にぼんやりと「茹でられた者」の影が浮かび上がったり、窓の外に一瞬、あの赤い塊が過ぎ去るのを見たりした。もはや、あれは幻覚ではなかった。本当に「いる」のだ。そして、夢の中では毎晩のように金縛りに遭い、あの肉塊の存在に全身を拘束される。体調もさらに悪くなり、吐き気と食欲不振で、もう何日もまともに食事をしていない。
再び教会へ駆け込んだ。神父に、事態が悪化していることを必死に訴えた。
「神父様!状況が悪化しています!幻覚だけじゃない!夢で麻痺して、あいつが本当にそこにいるんだ!すぐにでもお祓いを!」
しかし、神父は困ったように首を振るだけだった。「だから言っただろう?準備には一週間ほどかかると。生半可な気持ちでできることではないのだ。」
その言葉に、俺は怒りがこみ上げた。「一週間だと!?このままでは俺の命が持たない!すぐに、今すぐどうにかしてくれ!」
神父は、俺の剣幕に驚きながらも、ただ静かに言った。「私も最善を尽くしている。もう少し、耐えるのだ。」
警官の訪問と、もう一人の犠牲者
神父の言葉に絶望し、部屋に戻った翌日の昼下がり。家のドアを叩く音があった。珍しいことだ。ドアを開けると、見慣れない制服を着た男が二人立っていた。この集落では滅多に見ない警察官だ。
「少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
怪訝に思いながらも中に招き入れると、警察官は真剣な顔で尋ねた。「最近、この辺りで何か変わったものを見ませんでしたか?具体的に、テレビに関することで。」
俺ははっとした。まさか、あの番組のことだろうか?
「……ええ、見ました。あの昔の自然番組の続きが突然流れて、その、画面の片隅に、赤い肉片のようなものが映り込んでいたんです。それで、それを見てから、どうも体調が悪いし、幻覚を見たり、夜中に金縛りに遭ったり……」
俺が話している間、警察官たちは互いに顔を見合わせた。そして、一人が深いため息をついた。
「やはり、あなたもでしたか。実は、あなたの隣人、██(隣人の名前)さんが……」
警察官の口から出た言葉に、俺は血の気が引いた。隣人は、数日前に倒れて病院に運ばれたと聞いていた。
「彼も、同じ番組を見たそうです。そして、我々が到着した時には、すでに意識がありませんでした。脳波はかろうじて出ているが、植物状態だと言われています。医師団も原因が分からないと……。非常に警戒してください。彼のように、襲われる可能性もあります。」
警察官はそう言い残し、帰っていった。隣人が「茹でられた者」に襲われた?植物人間になった?俺は、あの不快な音が聞こえる幻聴と、肉塊の幻覚に加えて、今度は明確な恐怖と、現実の脅威に直面することになった。神父は一週間かかるという。その間に、俺も隣人のようにされてしまうのだろうか。
最後
その夜、恐怖に震えながら聖書を抱きしめ、毛布にくるまっていた。微かな物音にもびくつき、部屋の隅から目が離せない。電気は付けっぱなしだ。
夜中、体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。部屋の隅で、闇が蠢いている。いや、それは闇ではない。**赤い、巨大な「茹でられた者」**が、ぼんやりと、しかし確実に形を成していた。それは幻覚ではない。俺は確信した。あれは、本当にそこにいる。
「茹でられた者」はゆっくりと、しかし信じられない速さで俺に迫ってきた。その身体からは、ぶくぶくと泡が立ち、得体の知れない液体が滴り落ちている。顔の肉片が大きく開き、意味のない不快な音が、鼓膜ではなく脳を直接揺さぶった。そのまっっ黒な目が、俺を捕らえて離さない。
俺は叫ぼうとした。逃げようとした。だが、体は麻痺して動かない。あの夢の中と同じだ。全身が金縛りに遭ったように、何もできない。恐怖で心臓がはち切れそうになる。
「茹でられた者」は、俺の顔のすぐそこまで迫っていた。腐敗した、熱を帯びた生臭い匂いが、鼻腔を襲う。そして、そのまっっ黒な目が、俺の瞳に吸い込まれるように、深く、深く、入り込んできた。
俺の意識は、真っ赤な闇の中へと引きずり込まれていく。五感が、思考が、感情が、すべてが煮詰められていくような感覚。抗う術もなく、俺はただ、その圧倒的な存在に飲み込まれていった。
俺は、もう喋らない。笑わない。泣かない。
ただ、意識の奥底で、永遠に沸騰し続ける「茹でられた者」の音を聞きながら、廃人として、この生ける屍の器の中で、存在し続けるだろう。