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岸嶽城 |
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なか●し
(2822)投稿日:2011年01月09日 (日) 05時22分
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安楽平城はいかがでしたか(微笑)
岸嶽城ですが、アレは寺沢広高さんが関ヶ原合戦以降に唐津入部前に大改修して構えたものです。 文献史料や伝承では文禄年間の波多氏改易で廃城となっているとあるようですが、城跡をみれば一目瞭然の間違いです。
古唐津の研究では、岸嶽城が波多氏の段階で廃城になったという「岸嶽崩れ」を根拠に文禄期以前に岸嶽城麓で古唐津生産が始まっていたということになっています。 でも、城郭研究では、岸嶽城が秀吉配下だった寺沢氏に関ヶ原以後に大改修されたことが明らかになっています。 だとすると、遺跡として残る麓の窯は寺沢時代に開かせた可能性が高くなります。改修した岸嶽城から古唐津が表採されること、麓の戦国期の様相を残す波多城からは出ない。このことも勘案すれば、古唐津の生産開始年代は関ヶ原以後に下る可能性が高いというのが城郭研究からの見立て。 という案配に、岸嶽城は城から陶器の年代観をひっくり返す記念碑的な遺跡でもあります。
そちらの研究者にとっては、岸嶽城は心霊スポットかもしれませんな。
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□すごい石垣/うきき
(2825)投稿日 : 2011年01月09日 (日) 20時26分
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昨日はお世話になりました。 おかげ様で、安楽平城石垣を見つけ出す事ができましたが、なんて気づきにくい場所にあるんでしょ。 あと、他の方のサイトで、鉄塔のある出丸から小田部氏の自害の場所に下る道の途中にも石垣があるということでした。その石垣とやらは前回も気づいてましたが、あれって当時の石垣なんでしょか?(^^;; 毎回、なか●しさんに質問攻めですね、私。(^^;;
岸嶽城と古唐津についてのまたまた興味深いお話をありがとうございました。当地の看板に古唐津のキャッチフレーズが書いた看板があるのは読みましたが、なるほどですね。(^^;どちらにしても、九州の焼物ブームは朝鮮出兵後と認識してたので、古唐津もそこに括ってました。 それにしても、岸嶽城の桝形、立派なもんですね。
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□大友…/ARI
(2828)投稿日 : 2011年01月09日 (日) 23時47分
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安楽平城、極寒の中、行かれてあったのですね。 私も何度も登りましたが、その所以は… 安楽平城は、私自身が10余年程前、山頂(本丸跡)に ある説明看板を設置する際に関わりがあったのみなら ず、私の母方の先祖は、小田部鎮道(元)公の長男と次男 が落ち延びた地の次男の系統にあたる様です。 その後に現職に至ったのも大友家臣に関係がある様で、 意識の外で不思議と大友氏に関わっている人生の様です。 |
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□/なか●し
(2830)投稿日 : 2011年01月12日 (水) 23時32分
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九電の作業道な南からの登山道の途中の斜面にあるヤツですよね。 あれは、多分山仕事のものと思います。 九州北部はけっこう多いんですよ。 あと、主郭と対岸の土塁ラインの間の谷にも、炭焼き窯っぽい石垣があります。
昔は小田部氏の城跡かなあと思っていましたが、最近は筑紫氏がかなり改修したのなあと思うようになっています。 今年中に調査に行きます。 |
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□安楽平城のなぞ/うきき
(2832)投稿日 : 2011年01月15日 (土) 21時33分
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風邪と残業とギブスでレスが遅くなってしまいました、すみません。(^_^;)
■ARIさま: 2度目の安楽平城登山でした。雪が残っていましたよ。 今回の目的は石垣を見に行くためにですが、何とか見つけ出せました。 見つける前は「石垣を示す看板も立ててくれればいいのに!」といいながら探していたのですが、 うっかり死人が出そうなガケだったので、なるほど、看板なんて出せないな…と納得しました。
■なか●し様: 早くご回答くださっていたのに、お礼が遅れてすみません。 ご返信ありがとうございます。 >九電の作業道な南からの登山道の途中の斜面にあるヤツですよね。 それです。やはり違うのですね。あまり近くによれず遠目にしか見れておりませんが、 炭焼き窯然り、現代のものか当時のものか、素人では判断しにくい紛らわしい罠が多くて迷ってしまいます。
>最近は筑紫氏がかなり改修 またしても筑紫氏の名を聴くことになろうとは。 結局、城はその時々の有力者にリサイクルされてゆくものなのですね。 どのような結論がでるのでしょうか、ご研究、ぜひ頑張ってください。 |