日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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意とはなんでしょうか? - とこ
眼耳鼻舌身意の中で、意だけ実感が持てません。
「六処の観察」でも、法・意の感覚・意識・意識から生じる煩悩は理解できますが、意はわかりません。
結果として「『我=意』なのでは?」と思ってしまいます。

意はどう観察すればよいのでしょうか?
2018年07月20日 (金) 15時42分 No.4013
列挙することはできますが、まずは。 - tamotsu
とこさんの知りたいという気持ちを差し置いて
答えますと、

これは、可能な限りの戒律を守って、
ヴッパサナー瞑想をし続けてください。
それによって自然と分かります。

理由を説明せずにこう言うのは、
この方法が1番の近道だからです。

西洋近代化の現在、
日本では、西洋医術や物理学など、体(物質)と心を分けて見るのが、当たり前になっています。

すると、体や体の感覚は、自分ではないよと言われても
なんとなく概念として理解できます。

しかし、
そうすると私というのは、心のことだろうという推測が起こったり、
心を突き放して見る考えがなかったりします。

すると、
心をわたしのものでないと見ることが、
大変、難しくなります。

無知、無明のため心を観察する能力が弱いということですが、
この状態でいくら頑張って考えても心が自分だという
結論からは逃れることができません。

ですから、ヴッパサナー瞑想をしてもらって、
いくらか無知、無明をなくし、
無知、無明という偏光ガラスをとり除いてから
心を観察してもらうと、
どんどん心(=意)とはこれだなあれだなと分かる
という手はずになるからです。

いまは、心(=意)とは、
イメージや感情、知覚など心的なものの総称のこと、
これが意だなくらいの理解で
膨らみ縮み、妄想などおおざっぱに観察を続けると
段々つかめるようになると思います。




2018年07月23日 (月) 17時33分 No.4015
意とは - koji
意とは色に対する眼のように、
法という物質的な対象以外の
対象に対する感覚器官に意と呼称しているわけです。

心というのは認識する機能の事で
認識する働きを認識する事は出来ないので
意自体を認識する事は出来ません。

認識する事は色受想行識の中で識に当たります。
この五つの塊に五蘊と呼び、
それぞれの塊が自己ではないかと思う疑いが
あるのですが、その疑いが誤りであると気付く事が
難しく、解れば預流果なので解らなくても普通です。
意は自己という疑が
無くなるように努める事も修行です。

2018年07月28日 (土) 13時54分 No.4016
ご質問の趣旨や引用文などを確認させていただけませんでしょうか? - 智之
>「六処の観察」でも、法・意の感覚・意識・意識から生じる煩悩は理解できますが、意はわかりません。
>結果として「『我=意』なのでは?」と思ってしまいます。


可能な限り、ご質問をきちんと理解し、よく考えてから、力及ぶ範囲で、ストレートに意見等を申し述べたく存じます。

つきましては、まず、ご質問の趣旨や引用文などを確認させていただけませんでしょうか?

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確認1:【 「六処の観察」でも】とは?

この「六処の観察」とは、パティパダー2016年8月号掲載の記事『自我の錯覚を破る「六処の世界」の観察』の「■実践編」の部分に掲載された「六処の観察」という文章のことでしょうか?
https://www.facebook.com/notes/japan-theravada-buddhist-association/jtba自我の錯覚を破る六処の世界の観察/1185495248179009/

あるいは、もし、別の出典(図書や解説記事など)に基づいてのお問い合わせであれば、できれば、出典の書誌事項をご提示いただけませんか?

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確認2:【法・意の感覚・意識・意識から生じる煩悩】とは?

この、「法・意の感覚・意識・意識から生じる煩悩」とは、いずれかの出典に記載された「文言(何ページから何ページまで)をそのまま書き写したもの」でしょうか?

あるいは、いずれかの出典に記載された文章(何ページから何ページまで)を、質問者様の判断で要約したもの、などでしょうか? 

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確認3:【法・意の感覚・意識・意識から生じる煩悩は理解できますが】とは?

この、「理解できます」とは、具体的に、「どのように理解できる」と仰っているのでしょうか?

例えば、もし、「出典に記載された解説文そのものに同意する」という意味であれば、「出典の解説文(何ページから何ページまで)に記載された通りに理解している」とお答えいただければ十分です。


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確認4:【『我=意』なのでは?】とは?

ご質問に記載された単語のうち、「我」と「意」とは、上座部仏教の仏教専門用語としての「無我」や「意処」あるいは「名(ナーマ)」や「心(チッタ)」までを考慮あるいは包含したうえで質問しておられますでしょうか?

それとも、特に深い意味はなく、一般的な(あるいは文学的、情緒的)意味での「自分という感じ」や「意識するという感じ」など、通常の会話で使う意味合いでしょうか?

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煩雑な確認内容で申し訳ございませんが、きちんとした回答の準備に努めたいと存じます。

つきましては、数行の短文ではなく、できるかぎり長文にて記述いただければヒントが多くなりますので、助かります。

よろしくお願い申し上げます。

2018年07月28日 (土) 13時54分 No.4018
tamotsu様 - とこ
お返事ありがとうございます。
「心を突き放して見る考え」と「おおざっぱに観察」が特に興味深く感じました。
なぜか、tamotsuさんの文を読みながら「意は耳と同じでいつも法に対して解放したままなんだ」と思いました。
それまでなんとなく「意は(本当はいないけれど)私が意識して対象にむけるものだ」と思っていました。今、こうやって文章にしてみると、全く論理的ではないことに気付いて呆れています。(意識は意の感覚の結果として現れるのだから、意識して意を使えるはずがない(笑))
そこまで考えたら、残りの五感の誤解にも気づきました。「耳はふさげないよね」と思ってましたが、目耳鼻舌身意はどれも色声香味触法があれば触れてしまう(意識的に動かせない)のだと、今は認識しています。また違っているのかもしれませんが、正しいか否か観察してみます。
一人の時間がほとんどとれずさぼっていた瞑想も、3分ずつでも続けていこうと思います。
ありがとうございます。
2018年07月30日 (月) 14時21分 No.4021
Koji様 - とこ
 仏教を学び始めた頃、五蘊の説明を読んでも、数学か物理の理論を聞いているかのようにわけがわかりませんでした。
 六処の観察は「これなら理解できるかも」と思って唱え続けてきましたが、五蘊とも繋がっていたんですね。さすが仏陀の教えは完璧な教えなんだなぁと感心しています。
 六処の観察で、識のパート(眼識耳識鼻識舌識身識)だけ唱え忘れることが多いんです。識を観察する力が特に弱いのだろうと思います。
 でも、解れば預流果とのことなので、気長に、疑がなくなるように努めていこうと思います。
 ありがとうございます。
2018年07月30日 (月) 14時21分 No.4022
智之様 - とこ
確認1:【 「六処の観察」でも】とは?

パティパダー2016年8月号掲載の記事のことです。

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確認2:【法・意の感覚・意識・意識から生じる煩悩】とは?

上記の「意の世界の観察」で観察する対象です。

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確認3:【法・意の感覚・意識・意識から生じる煩悩は理解できますが】とは?

日々の暮らしの中で「これかな?」と実感することがあるということです。実際に「これ」が正しいかは疑問ですが(笑)。

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確認4:【『我=意』なのでは?】とは?

一般的な感じでThis is me.程度の意味です。
 意は、六処の観察の文言にある「認識機能」と言葉では理解していますが実感はありません。
 我は、六処の観察の文言どおり私でもいいです。

 私は仏教を学び始めた頃は理論的な本も読みました。でも、あまり理解できませんでした。
 六処の観察を知ってからは、パティパダーと編集後記に載った本をたまに読むくらいで、理論的なことは「ブッダの日常読経典」に載っている経典(と、その施本)に頼っています。
 今回は、六処の観察を続けるなかで「どうしたら実感をもって『この意という認識機能は、私ではありません。』と言えるのか」、先輩方のお知恵を拝借したくて質問しました。
よろしくお願いします。
2018年07月30日 (月) 14時21分 No.4023
<誤記訂正> ストレートな助言 - 智之
事務局殿 さきほど送った文章末に大きな誤記を発見。おそれいりますが、差し替えをお願いします。

(誤)質問するときは、「北伝・大乗仏教」用語とその文脈で
 ↓
(正)質問するときは、「南伝・上座仏教」用語とその文脈で

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ご質問内容の確認について、

1)パティパダー2016年8月号掲載の記事にある『六処の観察』ですね。
2)「法・意の感覚・意識・意識から生じる煩悩」とは、上記の『六処の観察』の「意の世界の観察」で観察する対象ですね。
3)法・意の感覚・意識・意識から生じる煩悩は「理解できます」とは、日々の暮らしの中で「これかな?」と実感することがある、と。しかし、実際に「これ」が正しいかは疑問なのですね(笑)。
4)意は「六処の観察の文言にある「認識機能」と言葉では理解していますが『実感はない』」、我は「六処の観察の文言どおり『私』でもいいです」という意味ですね。

以上、承りました。

なお、とこ様が長文の読み書きが可能な通信環境をお持ちであることが確認できましたので、今回は遠慮なく長文にてお答えいたします。

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>仏教を学び始めた頃、五蘊の説明を読んでも、数学か物理の理論を聞いているかのようにわけがわかりませんでした。

なるほど、大変鋭い感性をお持ちのようです。

ただ、「数学か物理の理論を聞いているかのようにわけがわかりません」とのことなので、電気・機械・制御系の技術者向けの、あまり工学的すぎる説明の仕方は避けるようにいたしましょうか?

であるとしても、例えば生活に密着した実用品の「スマホ」や「自動車」を事例にした「たとえ話」ぐらいであれば、イメージが沸きやすいと思いますので、あとでお話しします。

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【「お釈迦様の仏教」と、「よく見かける仏教」の違い】

現在、日本で目にすることができる伝統的な仏教の教えには2つの系統があります。どちらも「お釈迦様」が説かれた教えを起源としているのですが、明治以降に南回りルートで伝来した「南伝・上座仏教」と、聖徳太子以前に北回りルートで伝来した「北伝・大乗仏教」です。

歴史上実在した「お釈迦様」の教えには、「『釈尊がこう教えた!』と誰かが言ったとしても、その内容を直ちに妄信してはならない。必ず、その内容が真実であるかどうか検証して納得できたら、採用しなさい」と、お釈迦様ご本人の指示がございます。

したがって、歴史上初期の段階では、「お釈迦様」の教えに従う出家も在家も、「妄信することは禁止!、検証することは必須!」と努力せよ、いうご指示を守り、瞑想による「直接知覚」と、妄想を離れた思考による「検証の思考」によって、「お釈迦様の教え」と伝承される内容をよく学び、よく考え、実践することにつとめてきました。

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(1)「南伝・上座仏教」

約2500年前に実在したお釈迦様の問題解決の事例集のような、あるいは説法の言行録のような記録を、「議事録」の如くに経典として伝承しています。また、お釈迦様の話された内容や、弟子たちがそれを瞑想によって検証する際に必要な知識をまとめ上げた「理論書」の如き教義集(アビダンマ)も伝承しています。

「南伝・上座仏教」では、お釈迦様の教えを、出家・在家らが検証して身につけることが容易なように、長老(=上座に座る人)が説いて聞かせる説法もアビダンマも、「ストレート」に「論理的」に書かれています。いはば、スマホや自動車の取扱説明書のような感じです。

したがって、とこ様がご質問の、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識などのそれぞれの用語についても、スマホなら電子工学用語、自動車なら自動車工学用語で取扱説明書が書かれているように、明確な意味づけが与えられています。

用語をまとめて学びたければアビダンマを学ぶことが早道ですが、重要な用語や概念がわかったら、「マイ経典」(=自分に向けてお釈迦様が体機説法してくれたような、ピッタリと来る経典)を探して経典を読み漁るのも上手いやりかたです。

もちろん、徹底して八正道の道を進むべく、瞑想に努めるのも上手いやり方です。どれが良いかは各自の個性や事情によります。

-------
(2)「北伝・大乗仏教」

同様に約2500年前に実在したお釈迦様が「話して聞かせて瞑想指導した」教えが源流です。しかし、伝承される途中で、古代インドで開発された人工文法に立脚した「サンスクリット語」に翻訳してしまったため検証作業に必要な、瞑想による「直接知覚」と、妄想を離れた思考による「検証の思考」が致命的に欠落してしまいました。

そのため、残念ながら、検証作業の伝統を失い、検証できない概念を組み合わせて教えを「妄信」する、いわゆる「宗教」になってしまいました。もはや検証を行わないので、「南伝・上座仏教」での「取扱説明書のようなストレートな用語定義」ができません。

おまけに、民衆への「判りやすさ」を重視して、概念の上に概念を積み上げる作業を行った結果、例えば、「南伝・上座仏教」では因果法則(因縁:原因から結果が生ずる)としてストレートに説明するところを、「北伝・大乗仏教」では、直感に訴えやすく「阿弥陀如来」と擬人化して庶民の信仰の対象にした事例などがあります。

「北伝・大乗仏教」でも基本的な教義書(アビダルマ)はあるのですが、上記のような事情によって、仏教用語もスマホや自動車の取扱説明書というよりも、小説「ハリーポッタ」や漫画「どらえもん」の魔法道具のような空想上の概念で、検証できませんから、出家・在家それぞれがイメージを熱く語るだけに終わります。

---------------
【ストレートな助言】

おそらく、とこ様は「南伝・上座仏教」の専門用語を、日常会話の用語や「北伝・大乗仏教」の用語で理解しようとしておられるようです。

専門用語の意味内容を勘違いしたら、スマホも自動車も使えませんし、取扱説明書や整備マニュアルや設計標準書を読みこなすことができません。

鋭い感性をお持ちのとこ様の場合、まずは「南伝・上座仏教」で使われる(基本的にはパーリ語で解説された)専門用語を学ぶことが早道かと存じます。

特に、「南伝・上座仏教」の仏教用語は、「北伝・大乗仏教」の仏教用語と違うコンセプトや定義がたくさんありますので、重々、ご注意願います。

まずは用語定義をしっかりなさると、「南伝・上座仏教」の説法も教義もディスカッションも、驚くほどシンプルに理解できるようになります。

まずは、テーラワーダ仏教協会が配信している下記のサイトをご一読なさるのが早道かと。


たとえば、下記のサイトには「PAÑCAKKHANDHA(パンチャッカンダ) :五蘊(ごうん)」の説明がございます。

■心を育てるキーワード集 〜言葉から見るテーラワーダ仏教〜
http://www.j-theravada.net/pali/index.html

また、下記のサイトには「根本仏教講義」として「四諦」から始まって様々な「南伝・上座仏教」の基礎知識が満載です。

■根本仏教講義
http://www.j-theravada.net/kogi/index.html

-------------
【余計なお世話】

たぶん、とこ様の場合、用語そのものを学ぶ時間が必要と思われますので、『六処の観察』よりも、テーラワーダ仏教協会で標準的に行っている『慈悲の瞑想 +ビパッサナ瞑想』を歩行瞑想あるいは座禅瞑想で実践したほうが、効率的ではないかと。

そのほうが、リアルの講演会・瞑想会やネット上のBBSなどで疑問点を質問したときに、経験を話せる先生や経験者が得やすいように思います。

また、質問するときは、「南伝・上座仏教」用語とその文脈で質問すると、行き違いが少なく、欲しい回答を効率的に得られるかと。

以上です。

2018年07月31日 (火) 13時07分 No.4024
ちょっと追加します - 智之
> 今回は、六処の観察を続けるなかで「どうしたら実感をもって『この意という認識機能は、私ではありません。』と言えるのか」、先輩方のお知恵を拝借したくて質問しました。
よろしくお願いします。

先にお届けした「ストレートな助言」では、上記の問いかけに答えていなかったので、ちょっと追加します。

そもそも、実感をもって『この意という認識機能は、私ではありません。』と言うためには、『意』とはどういう意味をさしているのか、『私』とはとはどういう意味をさしているのか。それがわかったうえでなければ『実感をもって』つまり、ありのままの姿を看破するのは「夢のまた夢」になってしまいます。

文学的・叙情的な説明で満足できる人であれば、巷の仏教本でも読み漁って満足すればよいのでしょうが、おそらく、とこ様はきちんとした論理的な説明でなければ満足できないから質問しておられるのだと拝察します。

とはいえ、「南伝・上座仏教」の専門用語の知識なしに以下の文章を読んでも混乱・誤解するばかりだと思ってちょっと気が引けるのですが、ともかくもお問い合わせに対して、自分にできる範囲でお答えさせていただきます。

そこで、以下、「南伝・上座仏教」の専門用語であることを明示する表記法で書くことを試みます。文章がくどくなってしまいますが、ご容赦下さい。

例えば「こころ」という日本語の単語は、日常会話や「北伝・大乗仏教」では文学的・叙情的な表現等で使います。一方、「南伝・上座仏教」では(1)専門用語「心(citta、チッタ)」や名(nama、ナーマ)などとして、あるいは(2)文学的・叙情的などの普通の意味として、の2通りの使い方を、文脈に応じて使い分けています。

以下では、「南伝・上座仏教」の専門用語であることを示すため、「心(citta、チッタ)」のように、パーリ語のアルファベット表記とその日本語での発音を添えるか、煩雑すぎる場合は「心(チッタ)」と書きます。

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1.人間の「こころ」と「からだ」

これは日本語の日常会話で使う用語です。したがって、使う場面に応じて、文学的・叙情的にも医学的にも宗教的にも勝手に意味をつけて、各自の意見を述べる(多くの場合は感想文を書く)ことができます。

しかし、「南伝・上座仏教」の専門用語としては、下記のようにきちんと使い分けられます。
----------------
(1)人間を、名(nama、ナーマ)と色(rupa、ルーパ)に分解して観察する方法

名(nama、ナーマ)とは「こころ」のことです。スマホや自動車に例えれば、ソフトウエアのようなものです。なぜ名(nama、ナーマ)と呼ぶかといえば、名前しかないため目には見えないからです。つまり、鏡に映る自分の姿を見たときに、名(nama、ナーマ)を目で見ることはできません。

色(rupa、ルーパ)とは「からだ」のことです。スマホや自動車に例えれば、ハードウエアのようなものです。なぜ色(rupa、ルーパ)と呼ぶかといえば、目で見ることができるためかと。つまり、鏡に映る自分の姿を見たときに、色(rupa、ルーパ)の一部、つまり鏡に対向した体表面の一部を目で見ることができます。

なお、名(nama、ナーマ)と色(rupa、ルーパ)の詳細な用語定義は、図書「アビダンマッタサンガハ、南方仏教哲学教義概説」訳注:ウ・ウエーブッラほか(発行:中山書房)を参照下さい。

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(2)人間を、五蘊(pancakkhandha、パンチャッカンダ)に分解して観察する方法

これは、下記のサイトに詳述されていますので、ご参照下さい
http://www.j-theravada.net/pali/key-pancakkandha.html

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(3)人間のソフトウエア、つまり名(nama、ナーマ)を、心(チッタ)と心所(チェータシカ)に分解する

これは、スマホに例えれば、ソフトウエア(ナーマに相当)をアプリ(チッタに相当)とアプリのパラメータ(チェータシカに相当)に分解して観察しているようなものです。

上記のたとえ話は、「スマホ世代」の方であればピンと来ると思いますが、「ガラケー(旧式の携帯電話)」好きな旧世代の技術屋向けに説明するなら、ソフトウエア(ナーマに相当)をオブジェクト(チッタに相当)とオブジェクトの変数(チェータシカに相当)に分解して観察しているようなものです。

ますますわかにくくなったのであれば、図書「アビダンマッタサンガハ、南方仏教哲学教義概説」訳注:ウ・ウエーブッラほか(発行:中山書房)のきちんとした解説をご参照下さい。

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(4)その認識機能の心(チッタ)は、さらに目耳鼻舌身意という門(dvara、ドワーラ)で分類される。

たとえて言えば、「目耳鼻舌身」というセンサに起因した情報を処理する認識機能と、記憶情報や推論情報も加味する認識機能の「意(manas、マナス)」です

正確に理解するには、図書「アビダンマッタサンガハ、南方仏教哲学教義概説」訳注:ウ・ウエーブッラほか(発行:中山書房)のきちんとした解説をご参照下さい。

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(5)その認識機能の一要素としての意(manas、マナス)は、様々な機能別の心(チッタ)として名称を付与されて分類される

正確に理解するには、図書「アビダンマッタサンガハ、南方仏教哲学教義概説」訳注:ウ・ウエーブッラほか(発行:中山書房)のきちんとした解説をご参照下さい。

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【1の、まとめ】

いずれにせよ、『意』とはどういう意味をさしているのか?、という疑問にきちんと論理的に答えるには、「南伝・上座仏教」の専門用語の意(manas、マナス)の意味と、他の類似の専門用語と区別してきちんと理解できるよう、ご自身で勉強してください。

これは不親切な意地悪で言っているのではなく、「南伝・上座仏教」の専門用語の体系の全体像や概要を、ある程度でも理解しておかないと、会話が通じないのです。スマホや自動車の取扱説明書の専門用語をでたらめに解釈して、あるいは他人の説明を勘違いしたまま鵜呑みにして、スマホや自動車を実際に運転・操作したらどんな混乱が起きるか想像できると思います。




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2.「私の銀行口座」や「私の頭痛、腰痛」はありますよね?

もし、誰かが、「あなたの銀行口座も頭痛、腰痛も存在しません!」なんて言ったら、どうします? 「冗談じゃない! ふざけんな!」って怒りますよね?

でも、仏教では、「私は存在しない」「私のもの、も、存在しない」と言います。これって、どうなってるんですかね?

それを解決するには「世俗諦」と「勝義諦」という、2種類の「会話の前提」があることを知っておく必要があります

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(1)世俗諦

人間世界の“決まり ・約束 "としての“真理"です。時代によって、状況によって変わります。銀行口座がなければ普通に社会生活を送るには不便ですし、実際に頭痛、腰痛に悩むときには医師に相談するなどで対処しなければなりません。

ですから、いきなり誰かに「あなたの銀行口座も頭痛、腰痛も本当は存在しません!」と言われても、それはおかしいだろ? と、納得しがたいものがあります。

何しろ、人間世界では銀行口座を実際に利用しますし、頭痛、腰痛も実際に感じるのですから。

世俗諦でいう「私」とは、「人類の全体集合から他人を除いた残り=私」であり、「五感の刺激と思考活動を経て自覚が生じた自意識=私」というくらいの意味になります。

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(2)勝義諦

「すべて、生ずる性質のものは、滅する性質のものである」と、この着眼点が重要です。

「すべての現象は、無常・苦(ドゥッカ)であって、実体がない(=無我)」という観点から見た世界です。

つまり「人間として生まれた私は、今ここに生きてはいるが、生まれたからには滅する性質のものである」ということになります。つまり、永続的ではなく、一時的な現象でしかない。例えば台風や竜巻や雨や雲と同じです。それゆえに「(永続的な実体は)ない」、ということです。

もちろん、解剖学的にも、量子力学的にも、「私」と呼べるような「永続的な」ハードウエア要素もソフトウエア要素もありません。

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すると、「死んだら来世があると言うじゃないか! あれは嘘なのか?」と思うかもしれませんね。

「南伝・上座仏教」では、「生きて様々な行為を行って死んだなら(原因)、その結果として、過去の行為にふさわしい別の生命体として生れる」というのであって、「私そのもの」が「そのまま」生まれ変わるのではありません。

で、その肝心の「私」ですが、生きようと死のうと来世で生れようと、「すべて、生ずる性質のものは、滅する性質のものである」という事実から逃れることはできない。これもまた、我々に宿題として与えられた「仮説」であると思ってください。
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それら多数の「仮説」が本当なのかどうか、各人それぞれが、観瞑想(簡易版はヴィパッサナ瞑想)と呼ばれる観察実験を行って実験的に検証してみる必要があります。だから「宿題」なのです。この「宿題」を解くには、「八正道(Ariya atthangika magga、アリヤ・アッタンギカ・マッガ)」を自分で実践せねばならないのです。

■心を育てるキーワード集、ARIYA ATTANGIKA MAGGA:八正道
http://www.j-theravada.net/pali/key-ariya-attangika-magga.html

すくなくとも、約2500年前にお釈迦様が「これらの教説を妄信せず、きちんと検証しなさい」と教えてから、幾多の出家・在家が念(サティ)を用いる観瞑想(その簡易版がヴィパッサナ瞑想です)によって、観測装置としての自分の心身がもっと高性能になるよう精進して訓練を積み、雑音低減と、感度向上と、分解能向上と、応答周波数の向上などにつとめながら、上記の「仮説」を含む多数の「お釈迦様の教え」を検証する実験をくり返してきました。

現時点までに、多数の「仮説」を実験的に「追試」することに成功して、その結果、阿羅漢の悟りを獲得した人物は多数います。しかし、逆に、この「仮説」の不備を見出せた人物はいない状況です。

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【2の、まとめ】

世俗諦では、「私」も「私のもの」も、あることにしなければ社会生活は営めません。

勝義諦では、「(永続的な実体は)ない」、ということです。

2018年08月01日 (水) 15時21分 No.4025
智之様 - とこ
 お返事ありがとうございます。
 「アビダンマ講義シリーズ・ブッダの実践心理学」は、なんとか読み通したことがあります。読むだけだと全く理解できないだろうと思ったので、学生のようにノートにまとめながら読みました。でも、はっきりと覚えられたのは「渇愛は簡単にコントロールできる」ことと「渇愛を消せば十二支のシステムが全部壊れて消える」ことだけです。
 仏教を論理的に理解したいと思ってはいますが、アビダンマを読むと、数Vの教科書を見るような気持ちになってしまいます。今のところ、理論的なことは「因縁の教え」を理解できたらいいな、と思っています。
 とはいえ、この文を書くためにブッダの実践心理学をぱらぱらと読んでみると、発見がいくつもありました。
 アビダンマッタサンガハのAmazonカスタマーレビューによると、私が悪戦苦闘している実践心理学は初心者向けらしいですね。高等な内容についていける日が来るのかわかりませんが、まずは実践心理学を時間をつくって読み返してみようと思います。
2018年08月02日 (木) 10時10分 No.4027


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