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大念処経の「外の心」について - 智之


質問事項=『BさんがAさんを観察しているとき、「Aさんは怒っているのか」それとも「Aさんは怒っているように見えるだけなのか」を、Bさんが事実を「まのあたり」に知ることはできますか?』

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これは、大念処経の記述を読み解いてゆくうえで、自分にとって、とても悩ましいテーマです。 

法友たちに問いかけても、答えを得ることができていないため、お問い合わせします。

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大念処経の「出息・入息」の部に、「内の身において身を観つづけて住みます。あるいは、外の身において身をつづけて住みます」という記載があります。片山一良訳の「パーリ仏典、長部・大篇U、第22経 大念処経」の213ページの脚注によると、「自己の出入息の身において、他者の出入息の身において」とあり、「外の身」とは「他者の身」という意味であることが分かります。

次に、同じ大念処経の「心の随観」の部に、「怒りのある心を、怒りのある心であると知ります」と書かれ、さらに、「内の心において心を観つづけて住みます。あるいは、外の心において心を観つづけて住みます」と記載されています。

前述の「出息・入息」の部の片山先生の脚注にならえば、「外の心」とは「他者の心」という意味であることに思い当ります。

してみると、「心」として「怒りのある心」を観察対象にした場合には、「自己の怒りの心」のみならず「他者の怒りの心」の生・滅を観察してみることも、お釈迦様が大念処経で語られた修行課題の一つである、と読めてしまいます。

ところで、「自己の心に生滅する怒りの感情、そのもの」を自らが観察するのであれば、いつものようにビパッサナ瞑想で自分の心身を観察して、「怒りの感情の生成(生)、怒りの感情の生滅(滅)」をまのあたりに見つづければよいのだ、ということは分かります。

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さて、ここでいつも首をひねってしまうのですが、大念処経の記載を文字通り愚直に実践しようとして、たとえば「他者の心に生滅する怒りの感情、そのものの生・滅」を観察するのは妥当でしょうか? もし妥当なら、どうしたらよいのでしょうか?

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もちろん、「Aさんの心に生滅する怒りの感情、そのもの」を、本人であるAさん自身がビパッサナ瞑想で観察することは、いつも通りの普通の手順で可能です。

しかし、「Aさんの心に生滅する怒りの感情、そのもの」は、他人であるBさんにしてみれば、初心者コースで習う(Bさん自身の心を観察する)ビパッサナ瞑想では観察することができそうにありません。

BさんがBさん自身の心を観察するのであれば、Bさんの五感は「Aさんが怒っている(とBさんが判断するに足る)兆候の情報を感受」し、その感受して得た情報を用いて、推論によって「Aさんが怒っているにちがいないと推測」することになります。

しかし、こうして得られた観察結果は、ビパッサナ瞑想のサティで取得した直接知覚(現量)ではなく、推論して得られた推論知識(比量)です。

それともこの場合は、第6・意識(いーしき)にサティを飛ばして推論知識(比量)をゲットすることになるのですが、それでよいのでしょうか? 

でも、第6・意識(いーしき)にサティを飛ばすのは身・受・心・法のうち自分の心と法を観察する時の瞑想作業のような気もするので。。。

あれ? 「他人の心を観察する」場合にもこれでいいのでしょうか?

1秒よりもはるかに短い時間で、高速に、サティを第6・意識(いーしき)に飛ばして推論知識(比量)をゲットしたとして、でも、それは果たして正しい知識を得ることが保障されるんでしょうか?

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してみると、「Aさんは怒っているのか?」それとも「Aさんは怒っているように見えるだけなのか?」。 

どうすればこの課題について、「あるがままの事実」を「まのあたり」に観察できるのでしょうか?

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この質問は、「外の心において心を観つづけて住みます」の「外の心」の部分の語句の理解を間違えていて、「質問自体が誤りである」のかもしれません。

大念処経の「外の心」については、読み飛ばすべき無意味な記述なんでしょうか? しかし、無意味なことをお釈迦様がおっしゃるとは考えにくいのです。

たぶん、「ビパッサナ瞑想の初心者は、この記載は読み飛ばして、自分の心を観察することにのみ精進すべきである」という回答がとりあえずは妥当なのだろう、と予想しております。

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できれば、皆さんの主観的な意見や助言ではなく、スマナサーラ長老から、テーラワーダ仏教における大念処経のこの部分に関する正しい解釈をご教示いただけませんでしょうか。

あるいは、スマナサーラ長老によってこの課題について解説された文献等がすでにありましたら、どなたでも構いませんので、ご教示いただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。


智之 拝  m(_ _)m





2018年06月27日 (水) 12時23分 No.3987
今回追記した予想回答 - 智之
自己レスで申し訳ありません。

この日本テーラワーダ仏教協会の質問&議論BBSに書き込んだことが縁になって頭が整理できたのかもしれず、「ひょっとして、こういうことなのかもしれない」と気がついたので、追記させていただきます。

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質問事項=『BさんがAさんを観察しているとき、「Aさんは怒っているのか」それとも「Aさんは怒っているように見えるだけなのか」を、Bさんが事実を「まのあたり」に知ることはできますか?』

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前回の予想回答=『ビパッサナ瞑想の初心者は、この記載は読み飛ばして、自分の心を観察することにのみ精進すべきである』


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今回追記した予想回答

1)ほぼ全てのビパッサナ瞑想者は、この記載は読み飛ばして、自分の心を観察することに精進すべきである

2)大念処経は、八正道を歩む全ての有学と善趣の凡夫が、阿羅漢果もしくは不還果を得るまでの修行課題を、お釈迦様ご本人が説明して列挙した内容になっている。

3)初期仏教教団では、ビパッサナ瞑想の初心者や経験者や熟練者だけでなく、「サマタ瞑想で色界第五禅の定力が強くなって神通の段階」に達したごく少数の有学らもまた、お釈迦様の指導を受けている。

4)「外の心」だけでなく「外のもろもろの受」というのは、サマタ瞑想の高度な熟練者であって、神通の段階に達して他心知(paracitta-vijanana)を獲得した(きわめて稀な)実践者に対しても、もれなく、きちんと課題を示したものであるにすぎない。

それ故に、

ほぼ全ての実践者については、『ビパッサナ瞑想の初心者は、この記載は読み飛ばして、自分の心を観察することに精進すべきである』が回答となる。

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この予想回答の誤りも含め、スマナサーラ長老にご教示いただければ幸いです。 

さらに、質問自体の誤りも含め、ボロクソに指摘されるとは思いますが、自分自身の学びに資するものと存じますので、よろしくお願い申し上げます。

智之 拝  m(_ _)m


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参考資料: 「アビダンマッタサンガハ―南方仏教哲学教義概説」監修:水野弘元, 訳註:ウ・ウエッブッラ、戸田忠、
2018年07月01日 (日) 16時37分 No.3989
RE:大念処経の「外の心」について - naagita(admin) MAIL
スマナサーラ長老『大念処経 ヴィパッサナー瞑想の全貌を解き明かす最重要経典を読む』サンガ,2016より引用します。
https://www.amazon.co.jp/dp/4865640363/

(経典該当箇所の引用に続けて)
引用開始>>>
そのように自分の心の色んな波を観るのです。色んな波ですが、一応十六種類ぐらいに分けておいたほうがやりやすくなります。「いま包丁を見ている心だ」「いま烏の声を聴いている心だ」と確認していたら、瞑想になりません。あるいは、ただ「知っている、知っている」と確認してしまったら、マントラ(呪文)と同じになってしまうので、何にもなりません。どちらも取らないで、きちんと分けてみようと。分ける場合でも、やはり人間に扱いやすい種類に分けて、この経典では十六種類に分けています。

それから、自分の心だけ観るのではだめで、色んな人の心も同じように観察するのです。他人の心を観察し続けると、抜群の能力が生まれてきます。自分も他人も、心は同じ「知るという機能」なのです。自分の萎縮している心を一回観たのならば、「いまこの人の心が萎縮している」「いまは萎縮していない」という具合に他人の心も観えるようになります。

心が変化していくプロセスを観られると、人の心もきちんと読める、分かるようになるのです。瞑想によって自分の心、他人の心、その両方の心の変化を観たならば、心とは単に「知るという機能」であって、働いている過程であって、別に絶対的な何かがあるわけではないと分かります。その知る機能も様々であって、時には散乱して知ったり、時には巨大化して知ったり、萎縮して何となく知ったり、また集中して禅定で知ったりする。ときどきは欲が生まれたり、ときどきは怒りが起こったり、また欲が消えたり、怒りがなくなったりもする。いくら観察しても、見つかるのはすごい勢いでどんどん変化している機能だけですから、「なぁんだ、こんなものか」という気持ちになって、心に対する執着は消えてしまうのです。
<<<引用終了 P175-176

要するに、スマナサーラ長老の解説では「自分の心を観察し続けることで、他の心もきちんと観れるようになります。自他の心を観察して、心は同じ『知るという機能』だとわかって、心に対する執着が消えればOKです」ということだと思います。

参考まで。
2018年07月01日 (日) 17時04分 No.3992
まことに有り難うございました。 - 智之
>>要するに、スマナサーラ長老の解説では「自分の心を観察し続けることで、他の心もきちんと観れるようになります。自他の心を観察して、心は同じ『知るという機能』だとわかって、心に対する執着が消えればOKです」ということだと思います。


BBS事務局からご丁寧なご意見を賜りました。

ご多忙のところ、わざわざスマナサーラ長老の解説図書の文面を書き写していただき、恐縮しております。

ご指摘の点は『観察して、わかって、執着が消えればOK』というところがポイントかと存じます。

おかげさまでビッパサナ瞑想の本質に関わる奥深い話である、ということを理解できました。

今回の学びを糧として、今後とも、さらに学びを続けてまいります。

このたびは、まことに有り難うございました。

智之 拝  m(_ _)m


2018年07月02日 (月) 09時19分 No.3993
慈悲喜 捨で、能力が上がります。 - tamotsu
理屈としては、
自分であると思うことが本来、錯覚なのですから、
内部を見ることも、自分を、見ている訳でなく、
内部に生じた自分でない対象を見ているわけです。

とすると、自分でない外の対象も
把握するのもできないわけでもないかな
と推測できるわけです。
あくまで理屈ですが。

実際の感覚的な話で、話をすると、
共感能力を増大した感じです。

他人なんでどうでもいいという心では、
他人の気持ちを理解できません。
逆に、思いやりや労りの気持ちが多いほど、
他人の心を正確に感じとれますので、

慈悲の瞑想で四無量の慈悲喜捨が増えていくほど、
外(そと)で生じる心的現象を把握しやすくなるのです。

それなので、
ヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想をセットでやっていくうちに
ああ、あそこで、怒りが発生しているなあ。
慈しみが発生しているなあと分かってきます。

最初は、怒りのようなもの慈しみのようなもの程度ですが、
段々と、正確に怒りです、慈しみですと精度が上がっていきます。

と、ここまで書いて、上記の回答で十分だと分かりました。
でも、もったいないので残していきます。

では、ご参考まで。

2018年07月03日 (火) 13時53分 No.3994
tamotsu様へ - 智之
tamotsu様

いつもながら穏やかで懇切丁寧な助言等を投稿され、尊敬申し上げております。

この投稿については、はたして送信するべきかどうか迷いましたが、スマナサーラ長老が解き明かしてくださっているお釈迦様の教えのスケールの大きさの一端だけでも皆様と共に確認する機会になればと存じ、お届けさせていただきます。

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>慈悲の瞑想で四無量の慈悲喜捨が増えていくほど、
>外(そと)で生じる心的現象を把握しやすくなるのです。

しかし、このご意見を読むと、「外(そと)で生じる心的現象を把握」することが『大念処経』などの必修の修習項目であるように読めてしまいます。

それは、本当に、そうでしょうか?

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そのご意見は、「涅槃に至る確かな知識」(量,プラマーナ,pramāṇa)と言える情報でしょうか? それは聖典に記載された教え(聖教量)でしょうか? それともビパッサナ瞑想実践者としてのtamotsu様が「まのあたり」に観察なさった直接知覚(現量)でしょうか、あるいはビパッサナ瞑想を実践し終えた後のtamotsu様の推論知識(比量)を書いておられるのでしょうか?

「まのあたりに観察する」とは、あたかも水面に落下した水滴によって水面から上がる水しぶきの詳しい形状の変化のありさまを高速度カメラを用いて高い周波数で撮影してスローモーションで観察するが如く、光の速度(正しくは周波数というべきかも)で変化する心(ナーマ)と物質(ルーパ)が生滅変化するありさまをビパッサナ瞑想によって観察してゆくもののようです。

その実例をあげるならば、「心の変化は光の速度よりも早い」と語るスマナサーラ長老によれば、1秒24コマの映画のコマ撮りが見えたり、蛍光灯の明滅が見えたりすることもあると語っておられたのを聞いたことがあります。確かに、歩行中や座禅中に1秒間に5回、10回、さらに桁違いに多数のサティを(まずは)身と受に高速に飛ばし続けるビパッサナ瞑想の実践によって、(同一ではないものの)そのような見え方がたまに起きることは私も経験しました。でもこれは決して特別な能力というわけではなく、練習と実戦によって精進を重ねた野球選手やボクシング選手らが、ボールや試合相手の挙動を高速度カメラで撮影したスローモーションのように観察できる能力を身につけるのと同じようなもののようです。

お釈迦様の教えの根本は、お釈迦様ご自身が「比丘たちよ、そななたちにあらゆる法の根本法門を説くことにします、それを聞き、良く考えなさい。話しましょう」と説かれた中部経典の第1経である「根本法門経」にあると考えております。(もし私の誤解や妄想であれば、遠慮なくご指摘ください)

つまり「根本法門経」によれば(「私」や「私のもの」を含め)「まのあたり」に知悉した者こそ、阿羅漢として煩悩を捨て去って涅槃に達した者です。

そして「まのあたりに」知悉する為の手段として、長部経典の第22経である『大念処経』においては、戒による防護を備えた比丘たちに向けて、心の集中力を鍛え上げるサマタ瞑想と、集中した心で身・受・心・法を観察するビッパサナ瞑想の修習を続けることにより、最終的には五蓋・五取蘊・六の内所と六の外処・七覚支・四諦(苦集滅道)を観察し続けて生活し、ついには阿羅漢果もしくは不還果に悟る道が示されています。しかしここには、法を観察する段階では「外(そと)で生じる心的現象」を観察することが修習の前提になっているとは記載されていないようにも見えます。

してみると、「外(そと)で生じる心的現象」なるものは、「サマタ瞑想で色界第五禅の定力が強くなって神通の段階」に達して研ぎ澄まされた直接知覚(ヨーギンの現量)を獲得した少数の実践者を除き、ほぼ全ての実践者については『ビパッサナ瞑想の初心者は、この他人の心を観察する記載は読み飛ばして、自分の心を観察することに精進すべきである』と割り切ってよいのではないでしょうか?

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であるとすれば、ほぼ全ての在家の実践者については下記のように述べるのが妥当ではありますまいか。

「(五戒や八戒によって心を防護したうえで)慈悲の瞑想と呼ばれる「四無量(アッパマンニャ、appamaññā つまり慈悲喜捨)を業処とするサマタ瞑想」によって集中力を高めるほど、内(うち)で生じる心的現象をビッパサナ瞑想によって把握しやすくなるのです。」

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【結論】

いずれにしても、結局のところ、BBS事務局からのご回答に含まれた「自分の心を観察し続けることで、心は同じ『知るという機能』だと「わかって」、心に対する執着が消えればOKです」ということで十分なのではないでしょうか。
2018年07月06日 (金) 16時15分 No.3997
必修ではないのでご安心を。但し、釈尊の言葉は変更不可能です。 - tamotsu
>>慈悲の瞑想で四無量の慈悲喜捨が増えていくほど、
>>外(そと)で生じる心的現象を把握しやすくなるのです。

>しかし、このご意見を読むと、「外(そと)で生じる心>的現象を把握」することが『大念処経』などの必修の修習項目であるように読めてしまいます。

>それは、本当に、そうでしょうか?

ここは、
「Aになると自然とBになる。」
と読んでいただければ、大丈夫です。

身に付けないといけない技能ではなくて、
自然と身に付いていく技能です。
能力の大小は、その人のやってきた行為で決まるのは、
いつもの通りです。

でも、人に述べるときは、
外の対象の心を直接知覚できる他心通を持つ人や
過去世で持っていたかしてうっすら他心通を持っている人、
ただ単に人の目が気になる人に対しては、
ビンとくるところなので、
お釈迦様の説法されている通りに述べるのが親切なうえ、
内部の観察をやり続けて飽きた人が、
そこで修行をストップしてしまう事故も防げます。

歩く瞑想などで
足の裏の感触がこうで、
筋がこう動いて曲がっているから
上げる上げる上げるだけでは、
正確に把握してないのでちゃんと瞑想できていない、
駄目なのだと思って
歩く瞑想ができなくなるという
障害が出てくることがありますが、

その対処法は、ただ簡単で大雑把に
上げる上げる上げる
と観察をしつづけることなります。

これは、
言葉や概念に耽溺して疑によって瞑想が進まなくなる障害に対しては
下手でもいいからやりつづけるが1番いいということです。

ですので、智之さんの書いている通り、
「外の対象の心を目の当たりに知覚できない場合は、
内の把握ができてればオッケーでよい。」
が一番正しい姿勢で一番正しいやり方です。

そしてそれに追加として
「でもお釈迦様の言っていることだから変えずに
横に置いておこう、
できるようになったときのために。
(できるとは思えないけど。)」
とするのがよいのです。

真似して結論。
「智之さんのやり方と姿勢で十分正解です。
しかし、お釈迦様の話した内容はそのままにしてとっておいてお願い。
そのうち役に立つから。」
2018年07月13日 (金) 23時24分 No.4006
その「Aになると自然とBになる」はお釈迦様の言葉ではありませんね? - 智之
>ここは、
>「Aになると自然とBになる。」
>と読んでいただければ、大丈夫です。

そうでしょうか?

くどういようですが、事務局からの回答を詳細に箇条書きにしてみると、

1)前記された16種類の心を自分内部で観察し、外部の他人の心も16種類を見てみなさい。
2)他心通があるのなら他人の16種類の心についても、自分内部と同様に正確に読めます。
3)他心通がなくても『知るという機能』だとわかって、心に対する執着が消えればOK。

という意味であると理解しております。
2018年07月16日 (月) 17時33分 No.4009


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