日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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文化の存在意義 - ボン
こちらの文章に基づいて質問します。
http://www.j-theravada.net/howa/howa3.html

私は美術館を巡るのが好きで、スポーツの試合をテレビで見るのも好きです。この掲示板がきっかけで交流を持てた人もアーティストだったりします。

仏教は、芸術もスポーツも苦の産物でしかないという立場のようです。

私は、芸術は人の心の栄養だと思います。
スポーツは見るものに勇気を与えると思います。

率直にそう思います。
私のような受け取り方をする人間にとっても、芸術やスポーツは無駄で意味のないものなのでしょうか。

私がおかしいのでしょうか。この掲示板を読んだり書き込んでいる人のほとんどが、私と同じ気持ちのような気がしてなりません。

回答お待ちしています。
2018年06月05日 (火) 13時32分 No.3969
歴史 - でんき
こんにちは。

気持ちは理解できます。
ただし、私はスポーツに勇気等をみいだしています。
もし、勇気を与えられているならば
それは操作される可能性もあるということです。
2018年06月09日 (土) 00時35分 No.3970
RE:文化の存在意義 - とこ
 「観察」という本で、映画監督の想田和弘さんが、スマナサーラ長観察老に「芸術は仏教的にOKか」と、質問されています。この問答を読まれるのが、一番わかりやすいと私は思います。
 このHPのパーリ仏典を読む→沙門果経第三章出家の論理的な生き方《中戒》→「仏教の出家者は娯楽から離れている」と趣旨は同じだと思いますが、羽生選手の例え話などがあり、在家と出家の違いがとてもわかりやすかったです。
2018年06月09日 (土) 00時35分 No.3971
良い事だけではない - 匿名希望
こちらに目を通してみてはいかがでしょう。

【79】趣味を楽しむことは良いか悪いか
http://www.j-theravada.net/qa/gimon79.html

Q 無価値論について。の項
http://gotami.j-theravada.net/2008/07/dhammacast-67.html

Q: 本を読んだり映画を観たり〜の項
http://www.j-theravada.net/qa/gimon26.html



要は過度に楽しむのがいけないのでは無いでしょうか。

俗世で生きる我々にとっては容易く捨て去れるものではないですし、スポーツや芸術も、心や体に良いこともあります。
周りの人々との話のネタなど人間関係の潤滑油にもなりえますし。


しかし良い側面もあるのでしょうが結局の所、我々はこういったもので日々の退屈や欲を満たしているのだろうと私も思います。

すべての文化がすべての人にいい結果をもたらすわけではないですし。

例えばスポーツであっても入れ込みすぎれば違うチーム、好きなチームの違いと言うだけでいざこざもあるでしょう、
プロともなれば楽しいだけでは済まないでしょう、事故もあるでしょう、国を巻き込んでの騒動だってあります。
芸術も感性の違いや好み、創作活動の障害や難航、盗難、盗作、様々なトラブルがあります。

芸術とはちょっと違いますが私は良く不快な創作物を見て、嫌な気分になります、しかしそれを嬉々として見る人達もいます。

表面上、楽しいものでも其れ等はやはり苦と表裏一体なのだと思います。


我々仏教徒は少なくともその事を忘れず、心の片隅にとどめておく事が必要なのではないかと思います。


ボンさんにとって楽しいものならそれはそれでいいと思います。
が、それが原因で怒ったり、悲しんだり、入れ込みすぎたりしないようには気をつけるべきなのではないでしょうか。
2018年06月09日 (土) 00時35分 No.3973
無知の状態が普通なので、大多数の人の見解は、そうなっていて当たり前なのです。 - tamotsu
そうですね。
阿羅漢さんが、本当に稀な存在なのですから、
そう思う人がほとんどだという感想は、当たっています。

充分な収入があって、困窮がない、病もないし、
職場での人間関係も良好、
そんなときに日常が単調で何かつまらないなあと感じる。
この「つまらないなあ」こそが、生の苦なんです。

そんなときに、
耳を楽しませたり(音楽)、
目を楽しませたり(絵画観賞)、
身体を動かすことで身体を楽しませたり(スポーツ)
して気を晴らすことで、
また頑張ろうと明日への糧を得ます。

この気晴らしの娯楽をしたいという気持ちが、
五欲への渇愛です。

生は、退屈(苦)だから、何か楽しいことをしたい(渇愛)。
そして楽しむ行為をして、
少し経ったら、
またつまらなくなって何か楽しいことを探して、する。

楽しいことといっても、
同じ事をしてるとつまらなくなって、
度が過ぎたり、細かなことで優劣をつけたりして、それで通(つう)ぶったりします。
自分よりも知らなかったりした人を見下して慢心を強めたり、
この道こそが私の人生だとか自我をだんだん強化します。

こんなことを繰り返して生きています。

ずっと繰り返しているからでしょうね。

「生きること」の見方が、

生きることは楽しくないから楽しいことを見つけて、
それをしていたのが、

楽しいことを、するために生きているんだ、
楽しむことが生なのだ、

とひっくり返しになってしまっているんです。

生は、楽しくない→だから娯楽をする。
生は、楽しい←娯楽ができるのだから。

真理の見方が逆なんです。

あれを楽しみたいこれを楽しみたいと
誘惑にかられて生きているうちに、
わからなくなってしまっているのです。

だから、
八戒のうち、

ネッサ ギタ ワティカ ウィツカ ダサナ マラーガンダ
ウィレパナ ダラーナ マンダナ ウィプサナ ターナ
ウェラマニ シッカーパダンサマーディアーニ
(香ばしいものを使用せず 遊び事をしない、
化粧着飾ることをしない
という戒めをうけて守ります。)

という戒律を守って、
簡単に五欲にかられないようにして、
その間に瞑想修行をして、

「生きてることは6つの感官で刺激を認識しているだけで、
時々、過去になした善業で楽を感じて、
その楽しさを求めて、生き続けているんたな。」

と自然と洞察が生まれてくるようにしてるのです。

欲や怒りや無知で見えにくくなった真理を見やすくして、
心が真理を完全に分かるように訓練してるのですね。

これが完全にわかると阿羅漢さんです。

娯楽は、くわっと覚醒させてくれ、元気付けてくれるから、
のめり込み、執着するのですが、
執着することが減れば減るほど楽になるんです。

これは、
戒律を守ってヴィパッサナー瞑想をすることで、
生じてくる状態と知覚なので、
普通の人はわからないし、
好きなことを否定されて、怒ってしまうんですね。

まだ、うーん、わからないなあ、と思うときは、
解けない問題の解説を読んでもまだ解けないようなものなので、
頭の片隅に置いておいて、
また少し修行をし続けると、またふと分かるときか
くるでしょう。



2018年06月09日 (土) 00時35分 No.3974


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