日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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スマナサーラ長老著「執着しないこと」(中教出版)からの質問です。 - sin
本文引用(P33)

 肉体の感覚は、バラバラに起こります。眼の感覚、耳の感覚、鼻の感覚、舌の感覚、身体の感覚、それぞれ互い違いでバラバラに起きます。
 脳の成長とともに、互い違いでバラバラに起こる感覚を、ひとまとめにしたいという執着が生まれます。
 そこではじめて、「私」という概念が現れます。


質問は、二行目のところです。
「ひとまとめにしたい」という点です。

「ひとまとめにしたい」というのは、どういう理由で起こるのでしょうか?
2017年05月08日 (月) 14時42分 No.3699
参考になるかどうかわかりませんが。 - inayoshi MAIL
こんにちは。

 長老の文章を私なりに解釈してみますね。

ーーーーーーー
 「肉体の感覚はバラバラに起こります。」

 ご存知の通り肉体には5門があります。

 目に色が触れると、色と形という感覚が生まれます。
 耳に音が触れると、音という感覚が生まれます。
 鼻に香りが触れると、匂いという感覚が生まれます。
 舌に味が触れると、味という感覚が生まれます。
 身体に触が触れると、温度と固さという感覚が生まれます。

ーーーーーーーーー
 「それぞれ互い違いでバラバラに起きます。」
  
 色や形を認識するには目に色が触れる必要があり、お互いが触れる事によって「見えました」という感覚が生まれます。

 同じように耳に音が触れる事によって「聞こえた」という感覚が生まれます。

 それぞれの五つの場所(五感)で、それぞれ(バラバラに)に感覚が生まれます。

 触れたという時点ではまだそれが「何か」判断されていない状態です。

 触れる事によって生まれた感覚は情報として(神経を通り)脳に伝わります。
 
 伝わってきた情報は心(脳)の中にある記憶によってそれが何かを判断します。(過去の経験に照らし合わせるという働き)

ーーーーーーーーーー
 「脳の成長とともに」

 乳児期から幼児期に移り変わる時と私は解釈します。

 知性というものが発達してくると自我意識が芽生えてきます。
 心に外の状況を判断する能力がついてきます。 

 心は体の中にあるので、判断、解釈する事によって自分という主体(感覚)が生まれ、主体が生まれると自動的に客体(私以外の人やもの)も生まれてしまいます。

ーーーーーーーー
 「バラバラに起こる感覚をひとまとめ」

 この文章は私なりに解釈すると「入ってくる情報が何かを判断する」

 バラバラに起こる感覚=入ってくる情報
 ひとまとめ=判断する

 「ひとまとめにしたいという執着」と読んでしまうと分かりにくくなるのではないかと思います。

ーーーーーーーー
 「ひとまとめにしたい」というのは、どういいう理由で起こるのでしょうか?」

 
 ひとまとめにする=判断する働き(過去の経験に照らし合せてそれが何かを判断する働き、解釈する働き)

 色受想の流れです。
 
 「どういう理由」というより「どういう仕組みで」と捉えるとどうでしょう。
ーーーーーー

 脳の成長とともに、互い違いでバラバラに起こる感覚を、それが何かを判断する働きによって情報がまとめられる。

 過去の経験によって解釈されるから「私」という感覚(概念)が現れます。

ーーーーーーーーー

 人の数だけ解釈はありますのでその中の一つだと考えて読んでください。

 生意気なことを書いてすみません。
2017年05月22日 (月) 14時27分 No.3708
ひとまとめにする「時期」と「タイミング」は? - sin
inayoshi様

ご返信ありがとうございます。

ひとまとめにする「時期」と「タイミング」について、inayoshi様に質問があります。

本文のほうは、『入ってきた情報』についての判断が始まる前の状態、そこまで成長する前の段階でひとまとめが行われる、という意味に読み取れました。
『入ってきた情報』がどうこうなる以前に、情報が入ってきている『経路』自体をひとまとめにしたい、そのように書かれているように思います。

inayoshi様は、この点どう思われますか?
2017年05月27日 (土) 14時40分 No.3713
部分と全体と意図 - inayoshi MAIL
こんにちは。

 「この点どう思われますか?」という質問ですが、

 長老の「執着しないこと」という本を読んでいないので部分的な文章を抜き出してどう思うかという質問をされても、情報が少なすぎて少し回答に困ります。  スミマセン。

ーーーーーーーー

 直接的な回答ではなく、私の今までの経験と知識をsinさんに書いてみます。

 何かしらのヒントになれば幸いです。

ーーーーーーーーー

 長老も色々な本を出して私たちに何かを伝えようとしています。

 伝える道具として「言葉(文字)」を使います。

 我々がそれを読んで内容を解釈します。

 言葉一つ一つに意味がありそれを組み合わせて文章として成り立ち、
色々な文章の組み合わせをまとめて「本」として出版されます。

 適当な言葉を組み合わせているわけではなく、「何かを伝える」という
意図があります。

 長老はこの本の中で何を私たちに伝えたいのかを読み解く能力が必要になります。

ーーーーーーーー
 
 以前キリスト系の本で学んできたことでこんな言葉がありました。

 「あなた方は、言葉につまずくであろう」

 我々は何かを伝えるために言葉を使います。
 
 しかし言葉にする前の心の中の感覚(感じ)は言葉だけでは全てを伝えられない。

 だから例え話や様々な言葉の表現を使って、この感覚を伝えるしかない。

 だから相手が伝えたいことを、こちらが読み解く力が必要になります。

ーーーーーーーーーーー

  もう一つ私が学んできたことの中で

「学び方を学ぶ」ということを学びました。

 ちょっとややっこしいですが、
 少し説明すると人間の学びとはどのようにして起こるのか、どうすれば学びが加速するのか論理的に知識を体系化したもの。

 
 sinさんの中でこのような質問(問い)が起こるのは学んでいる証拠です。
 
 学んでいく中で解らない所が出てくる。どうにかして解ろうと努力する。(回答を探す)
学習の良いサイクルです。

 どうしても解らなところは「保留しておく」という方法があります。

 色々な知識を取り入れて知識というパズルのピースを組み立てて行きます。

 知識はある程度まとまっていて(信念体系)、ある知識とある知識が組み合わさって、「なるほどそういうことか」と理解できたり、新しい見方が出来たりします。

 あのとき解らなかった事が、後になって解るという事があります。

ーーーーーーーーーーーー

 「執着しない」という長老の本は解脱を目的にした仏教の教えの
一部(部分)であり、パズルのピースの一部です。

 もっと他の部分(全体)を学ぶことで、後から今の疑問が解けたりするかもしれませんよ。


  
 
2017年05月28日 (日) 17時47分 No.3714
RE:スマナサーラ長老著「執着しないこと」(中教出版)からの質問です。 - naagita(admin) MAIL
以下、スマナサーラ長老の回答を代理投稿します。

 認識作用に「こころ」というのです。要するに、こころという実体はないのです。こころと名づけられているのは、認識作用の流れです。その理解のうえで、こころという言葉を使って説明します。なんでも「ひとまとめ」にしたがるのは、こころの本質です。日常的に起こることなので、理解は簡単です。このたとえを考えてください。ひとが冷奴を食べようとします。冷奴にかける薬味の主役は醤油です。そのやり方をやめて、まず豆腐を食べる。それから、醤油を二三滴、舐めてみる。いかがでしょうか? やりたくないでしょう。やっぱり冷奴に醤油をかけて、まとめた味をあじわいたいでしょう。生きることに関わるすべての行為は、このように「ひとまとめ」にしたものになります。

「冷奴がおいしい」とひとまとめにするが、豆腐はこの味、それぞれの薬味はこれこれの味、と区別して理解したくはないのです。花を見たら、「きれい」とひとまとめにしてしまいます。「きれい」という主観的な判断に至るために、たくさんの作業が起こりますが、それに気づかないのです。こころは物事を精密に区別して、分析して理解したくはないのです。

 ひとまとめにする作業で、こころに現象・幻覚が起こります。ゆえにデータではなく幻覚が事実であると、間違った判断をして生きているのです。現象・幻覚の親分は、「自我」です。ひとまとめにしたら、好き/嫌い・良し/悪しの判断ができます。執着したり、嫌になったりすることもできます。そのようにして、貪瞋痴の感情が、あらゆる煩悩が起こるのです。生命は貪瞋痴の感情に指令されて、貪瞋痴の感情を増やすために、生きるという作業をしています。感情がなければ生きていられないと誤解しているのです。ですから、ブッダが何を言おうとも、生命はすべての認識作用をひとまとめにしたいのです。要するに、ひとまとめにする理由は、貪瞋痴・喜怒哀楽の感情を大事にしたいからであり、自分という錯覚を大事にしたいからなのです。これがこころの性質です。この性質を直さなくてはいけないので、お釈迦様は、ひとまとめにする理由を「無明avijjā」としているのです。

スマナサーラ
2017年06月01日 (木) 14時24分 No.3718
RE:部分と全体と意図 - sin
inayoshi様

ご返信ありがとうございます。

自分とは違う視点から読み解いていただき、掲示板の良さを実感させていただきました。
ありがとうございます。

「執着しないこと」は読まれていないとのことでしたので、直接的なやりとりにはなりませんでした。
もし、読まれていたら、inayoshi様とのやりとりは、また違った展開になっていたかもしれません。

また機会がございましたら、そのときは、直接的なやりとりができればと思います。

ありがとうございました。
2017年06月04日 (日) 12時55分 No.3719
蛇足ですが。 - tamotsu
多分、「ひとまとめ」という言葉の意味を、
一つ一つの部品を組み合わせて1つにまとめあげるというニュアンスではなく、
何かと何かを混ぜると違うものが出来上がるときの混ぜる
という感じで受け取っているのかと思うのですがどうでしょうか?


スマナサーラ長老が、お豆腐を例の中にあげているので、
せっかくなので、それを使いますと、
まず、お豆腐ってどんなもの?という質問に答えてみてください。

見た目は?
味は?
触った感じは?
匂いは?
(無理やりだけれど)落としたときの音は?

一つ一つを白くて、こんな味がして、ぷよんと柔らかくて、とか出てきますが、
これらの刺激を瞬時に組み合わせて(これが「ひとまとめにする」という意味です。)
これは豆腐だ!豆腐が目の前にあるんだ!!と我々は思っているわけです。

例えば自動車をつくるとき、
タイヤをつけて、車軸をつけて、エンジンをつけて、
ハンドルをつけて、椅子をつけて、と組み上げていって、
部品を「ひとまとめに」組み上げて自動車を作るように、
我々は、視覚や聴覚などの感覚で感じた光や音を頼りに
ある刺激の集合体を作り上げてしまうのです。

一つ一つの刺激の経路はちゃんと独立し、交わらずに
刺激を感じ取っいます。
その刺激の一つ一つの経験を総合して
何か物体があると思うのです。

決して刺激の経路は、ひとまとめにはできません。

刺激の認識経路は、

あれ?何か音がした?
そちらを見たら何かが動いている。
なんだろう?猫かな?
近付いてみると、ああ犬だ。

というような2,3秒くらいののんびりとした
長時間の認識ではなく、
10億分の1秒といわれる一刹那で数えると
17刹那(それより短いときもあり)とかいわれる
極々短時間の間で起こる話なのです。

これだけ短い時間の間に起こるので、
例えばテレビを見ながら本を読むができていると勘違いしてしまうように
見たことを感じきる前に聞くことができると思ってしまうのです。

1つの時にできることは1つだけ

とスマナサーラ長老も言っていますが、
1つの刺激を認識しているときは他の刺激は認識できません。
1つの刺激の認識が完全に終わったあとに
違う刺激を認識を始めるのです。

ですから交わらない刺激というパーツを組み上げて、
人間や、私という存在を作りあげているのです。

(ここからが、本当に蛇足ですが……。)
そのまとめるようと(組み上げようと)する理由は、
快不快の感覚からくる渇愛によって作り上げられる執着
の為です。
この執着の元の渇愛の元の感覚が生まれる元の最終的な大元が、無明になります。

とスマナサーラ長老が、
仏教の理論にまだ慣れていない方にも分かるように
上記に書かれています。

第一の設問に答えてないといけないかと
変な義務感が働きまして、失礼しました。
2017年06月04日 (日) 12時55分 No.3721
ご回答ありがとうございます。 - sin
スマナサーラ長老

ご返信ありがとうございます。

ひとまとめにしたいという思いがどこから生まれているのか分からなかったのですが、スマナサーラ長老から「こころの本質です」「無明です」とのご回答をいただき、疑問を解消することができました。ありがとうございました。

先日、日本テーラワーダ仏教協会から頂いた『ブッダと脳』の冊子に、無明についての説明がありました。


本文引用(P125)
「生きることは何か?」と発見しないことが無明です。生きるとは何かとわかってもいないのに、必死で生きようとしているのです。それに必要な感情が無明によって現れます。


ひとまとめにするという作業は、生きるとは何かとわかっていないのに、必死で生きようとする試みの一つとして行われているものだと理解しました。

頭の中だけの理解ではなく、ありのままに観察する能力を育てて、実際にこのからくりを破れるように挑戦していきます。

ありがとうございました。
2017年06月04日 (日) 12時56分 No.3723
RE:蛇足ですが。 - sin
tamotsu 様

ご返信ありがとうございます。

こちらの2番目の投稿(5月27日)で、「情報が入ってきている『経路』自体をひとまとめにしたい」と書いてしまったことが、誤解を引き起こしてしまったかもしれません。
「何かと何かを混ぜる」というような受け止め方ではありませんでした。

一番最初に質問を投稿した段階では、次のように考えていました。

------------------

外界からの刺激に対して、眼の感覚、耳の感覚、鼻の感覚、舌の感覚、身体の感覚が、それぞれ互い違いでバラバラに起こる。
そして、次のステップで行われる『ひとまとめ』の作業については

 眼の感覚を担当する人
 耳の感覚を担当する人
 鼻の感覚を担当する人
 舌の感覚を担当する人
 身体の感覚を担当する人
 それぞれ全く違うタイプの刺激を受け取る人が5人います。

という発達の仕方をするのではなく、

 それぞれ全く違うタイプの刺激が来ていますが、受け取っているのは1人です。
 という結論に持って行こうとする。
 その1人として浮かび上がったものが、「私」になっていく。

------------------

本文はそのように書かれているのではないかと思いました。

生まれたときにせっかくバラバラだった感覚を、ひとまとめにしようという方向性に持っていってしまうのはなぜか?というのが今回質問しようとしていた内容でした。
2017年06月09日 (金) 14時20分 No.3727


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