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Hungle

之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず
「論語」

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[4306] サルサ場 ありえない場所
big - 2012年07月08日 (日) 12時37分

ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記

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宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に関しては柳下毅一郎の対談本『映画欠席裁判』その他で書いてきたとおり、娼館を舞台にした物語である。

しかし、そう指摘されると怒る人が多いんだ、これがまた。

 主人公は「湯女」として働かされるのだが、国語辞典でも百科事典でも何でもいい。「湯女」という言葉を引いて欲しい。

たとえば『日本大百科全書』にはこうある。

「温泉場や風呂屋にいて浴客の世話をした女性のこと。一部は私娼(ししよう)化して売春した」

『大辞林』にはこうある。

「江戸時代、市中の湯屋にいた遊女」、

『岩波古語辞典』だと「風呂屋に奉公し、客の身体を洗い、また色を売った女」。

「そういう見方もある」だの「そういう解釈もある」だのというレベルではなく、「湯女」とは「娼婦」を意味する名詞なのだ。

ただし、昔から風俗においては初潮前の少女は見習い(半玉という)として下働きをさせられる。千尋の場合はまだ、その段階だ。公衆浴場には銭湯と湯女風呂の二種類があり、銭湯の客は男女両方で、背中を流すのは三助という男だが、湯女のいる湯女風呂の客は男だけである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%A5%B3

「湯女」で検索すれば、いろいろと湯女風呂の解説や図版が出てくる。

 これで明らかなように、湯女は基本的に娼婦である。

http://www.wind.ne.jp/asakusau/asakusa/ukiyoe/ukiyoe7.htm

http://www5.ocn.ne.jp/~ukiyo26/yuya11.html

http://www.c-c.co.jp/huzokusi4.htm

http://homepage1.nifty.com/shincoo/m124-2furo-nihon.html

http://www.1010.or.jp/menu/history/rekishi04.html

http://1010.or.jp/sento/history/04.php

 ダメ押しで言っておくと、トルコ風呂がトルコ人からの抗議でソープランドに改名された時、最後まで残った有力候補は「湯女風呂」だった。もし、湯女風呂になっていればソープ嬢は「湯女」と呼ばれていたはずだ。




『千と千尋』ほど数多くの映画評や新聞記事で取り上げられた映画はなかった。なにしろ「国民的大ヒット」だから。

 ところが何一つ「なぜ湯女なのか」ということに触れはしなかった。

 たとえば渋谷陽一は宮崎駿に何時間もインタビューしながら一度も湯女の意味に触れなかった。まあ、彼は単に知らないだけだろうが、『ユリイカ』の「千と千尋特集」では何十人もの学者や「インテリ」に論じさせながら、「なぜ湯女なのか」誰も触れていない。売春の「ば」の字も出てこない。

 かくしてオイラと柳下だけが「国民的名作をいやらしい目で観るヒネクレ者」ということにされてしまった。

なかには「風俗と結び付けるいやらしい見方は許さない」と怒る連中も多かった。



実は風俗うんぬんはオイラたちが最初に指摘したわけではない。

最初に言ったのは、宮崎監督本人である。

日本版『プレミア』の2001年6月21日号での『千と千尋』についてのインタビューで、どうして今回はこういう話にしたのかと質問された監督はこう答えている。

「今の世界として描くには何がいちばんふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいな社会になってるじゃないですか」

 以下、宮崎監督はえんえんと日本の性風俗について語るのだが、要約すると、『千と千尋』は、現代の少女をとりまく現実をアニメで象徴させようとしたので、性風俗産業の話になった、と監督は言っている。




風俗産業で働く少女を主人公にするというアイデアを出したのは鈴木敏夫プロデューサーで、「人とちゃんと挨拶ができないような女の子がキャバクラで働くことで、心を開く訓練になることがあるそうですよ」というようなことを宮崎監督に話したら、「それだ!」とアニメの発想がひらめいたそうだ。

ちなみに「プレミア」誌のインタビューで鈴木プロデューサーは「カオナシは宮崎監督だ」と言っている。







奇妙なのは、この『プレミア』の聞き手は、宮崎監督が性風俗について熱心に説明しているというのに、それを『千と千尋』と一切結びつけずに聞き流してしまうのだ。子供向けアニメが性風俗を扱うはずがない、と思って監督の一生懸命な説明も理解できなかったようである。




人は、たとえ監督本人が作品のテーマを説明しても、それが自分の考えていたものと違っていれば、受け入れないものなのだ。




 湯女風呂の歴史的事実と『千と千尋』をしっかり結びつけた評論は日本では見当たらない。恥ずかしいことにアメリカにはちゃんとある。

 ウィスコンシン大学のボブ(18)とUSCのミンク(20)という日本語を学ぶ学生が運営するサイトだ。

http://www.bobmink.com

『千と千尋』に関するQ&Aで「湯女」の語義を解説したり『プレミア』の宮崎駿インタビューを引用して、湯屋は娼館であることを説明している。まあ、アメリカ人でも見ればわかるのだ。だって湯婆々の服装は19世紀欧米の娼館の女主人(マダム)そのものだから。




ちなみに、少女が娼婦に身を落として、自分や親の罪を贖うという物語は実は世界中のあちこちにある。お姫様や絶世の美女が苦界に落ち、我が身を男たちに与えていくが、本当の優しさにめぐり合った時、天女になって天に召されるという草紙だ。

この映画の場合、両親が犯したのは飽食の罪だ。オイラはこれは、89年まで続いた戦後日本の高度経済成長と飽食、享楽主義のツケが、90年代から続く底なしの不況として返ってきたこと、それが女性の就職難につながり、風俗産業という苦界に身を投じる必要性が増している状況を象徴していると思う。「プレミア」のインタビューで宮崎監督は現代日本の女の子が性風俗のあふれる社会で生きていかねばならない現状を語っている。

また千と千尋の客が神様(全員男)なのは、古来、神に仕えるものと娼婦は同一視されていたからだ。

古代から、世界各地の神殿の巫女は売春もしていた。

最も聖なる者と最も下賎なる者は同じと考えられていた。

日本に限らず、世界中で神に仕える女性は同時に娼婦でもあった。




神に身を捧げることと、誰にも分け隔てなく我が身を与えることは、同じことだからだ。

タルコフスキーの『サクリファイス』に、主人公が世界への祈りとして魔女と性交するシーンがあるが、

キリスト教以前の社会では、巫女との性行為を通じて人は神と対話した(ギリシアの巫女の例がよく知られている)。

民俗社会においては、巫女は、神の妻であり、人間にとっては**であり(誰の妻でもなく)、、同時に娼婦でもある(誰の妻でもある)。

だから湯女たちは巫女の衣装を着ている。

性職者は聖職者だった。古今東西。



また、中世のキリスト教教会は娼館を認可し、必要なものとしていた。

http://www.medievalsociety.org/2008/02/21/brothels-and-prostitutes/

中世の「聖なる娼婦」の伝説。

http://www.jstor.org/discover/10.2307/3704459?uid=3739256&uid=2129&uid=2&uid=70&uid=4&sid=47699119792967


性風俗と国民的アニメを結びつけるなんて!

と怒った宮崎ファンはもういちど『プレミア』の監督インタビューを読むべきだろう。

そこで宮崎監督は、性風俗を悪いことと決め付けるのは、キリスト教的倫理の押し付けのせいだ、と怒っていらっしゃいます。

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サルセーラとのダンスを通じて、人は神と対話する。
サルサ場においては、サルセーラは、神の妻であり、人間にとっては**であり(誰の妻でもなく)、、同時に娼婦でもある(誰の妻でもある)。

サルセーロとのダンスを通じて人は神と対話する。
サルサ場においては、サルセロは、神の夫であり、人間にとってはだれの夫でもなく、同時に誰の夫でもある。
(千尋を助けるハクは男なのに巫女の衣装)

と読み替えることができるなら、サルサ場で、聖なるものと俗なるものが表裏一体にくるくるとめくるめく展開していく男女の対話の場なのではないか。


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