[303]
那千夫さんの「こんな古い話」は楽しかった。
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From:B-flat Clarinet
> クネクネと曲がる重いピックアップアーム(スピーカも兼ねていた)に鉄針をつけて聴きました。 那千夫さんは「蓄音機」のお話をなさっているのでしょう。懐かしいですな。 レコードが機械式録音から電気式録音に代わった後も、家庭用の再生装置は依然として機械式の「蓄音機」が主流で、ラジオと蓄音機が一体化した「電蓄」を持っているような家庭は、よほどの金持ちだけでした。 「蓄音機」では、針がレコードの溝から拾った振動を金属板に伝えて音に変換するサウンドボックスと、この音を室内に効率良く放射するためのホーンとが重要な役割を演じていました。ピックアップや増幅器やスピーカーなどの電気的装置を一切使わずに、機械式に再生するのですから、それはそれで中々高度な技術を必要としたのです。レコードを回転させるのも電気モーターではなく、ゼンマイモーターが使われていました。レコードをかけている途中でゼンマイが弛んで音が低くなってきたものです。懐かしいですな。 手許にある昭和12年版のビクターレコードのカタログの広告を見ると、卓上型のビクトロラ1-90型蓄音機が150円、コンソール型のビクトロラ4-3型蓄音機が260円なのに対して、マイクロ・シンクロナス新ビクター・ラジオ・エレクトロラRE45型電蓄は1,075円です。因にこのカタログに出ているリストの『ハンガリイ狂想曲第2番』(ストコフスキイ指揮、フィラデルフィア交響管弦団)の12インチ赤盤1枚の価格が4円です。 何故か貧乏なわが家にもビクターのコンソール型電蓄がありました。父はきっとどこかの古道具屋で見つけて来たのでしょう。レコードはベートーベンの「田園」と「第九」、シューベルトの「未完成」、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、ショパンの「軍隊ポロネーズ」、レハールの「金と銀」、ロッシーニの「ウィリアムテル序曲」なんかがあったのを覚えています。それから「軍艦マーチ」とドイツのマーチも何枚かありましたが、残念ながらスーザのマーチはなかったですな。わたしは小学校へ上がる前から、「第九」終楽章のバリトン・ソロが好きで、「大きなおじちゃん」と呼んでいました。可愛いもんですな。
2002年09月17日 (火) 22時35分
[308]
Re:那千夫さんの「こんな古い話」は楽しかった。
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From:pupila
B-flat Clarinetさん、お詳しいですね〜。 蓄音機はさすがにテレビドラマの中でしか見た事がありません。 震災前ぐらいまで、ビクターのわんちゃん(名前何でしたっけ)の置物が家にあった記憶はありますけど。
2002年09月17日 (火) 23時40分
[309]
Re:那千夫さんの「こんな古い話」は楽しかった。
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From:polk
ビクトロラ蓄音機って、いわゆる朝顔と呼ばれるホーンがついたものでしょうか? アメリカのflea market(蚤の市)やアンティークショップに行けば、骨董品のビクトローラはゴロゴロあります。実は私も、というか、オーディオ好きの主人がそれを買いたくて、2人でflea marketに通っては、いつもビクトローラを眺めていました。それらの値段は、現物の状態によってピンからキリまであるのですが、8年位前で、卓上用が100ドル位、コンソール型が300ドル位していたかと思います。 買ったところで置き場にも困るし・・という理由で、結局、買わなかったのですが、帰国してから今でも、「やっぱり、買っていればよかったかな?」なんて、主人と話したりすることがあります。 話は逸れますが、flea marketで“made in occupied Japan”の伊万里焼のお皿を見たことがあります。戦後、進駐軍がいた頃の日本は、アメリカでは“occupied Japan”と呼ばれていたのですね・・
2002年09月17日 (火) 23時52分
[312]
Re:那千夫さんの「こんな古い話」は楽しかった。
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From:B-flat Clarinet
初期の蓄音機から聞こえるご主人の声に耳を傾けているあのフォックステリアの名前はニッパーです。世界で最も古い最も有名になったトレードマークの一つと言われています。原画はイギリスの画家フランシス・バラウドが描いた"His Master's Voice"です。興味ある詳しい話が山川正光『オーディオの一世紀』(誠文堂新光社、1992)に出ています。
2002年09月18日 (水) 10時03分
[313]
Re:那千夫さんの「こんな古い話」は楽しかった。
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From:B-flat Clarinet
> ビクトロラ蓄音機って、いわゆる朝顔と呼ばれるホーンがついたものでしょうか? 「ビクトロラ」という名称はビクター・トーキングマシン社製の蓄音機の登録商標名で、朝顔付蓄音機はもちろんのこと、後のRCAビクター社(RCAがビクター・トーキングマシン社を吸収)が製造した高級電蓄も「ビクトロラ」と呼ばれていました。
2002年09月18日 (水) 10時31分
[314]
Re:那千夫さんの「こんな古い話」は楽しかった。
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From:polk
>B-flat Clarinetさんへ ご回答ありがとうございます♪ 本当に、お詳しいですネ〜☆ このほか、また、いろいろ教えて頂けると嬉しく思いマス(^^) そうそう、私の疑問なのですが、戦時中、ドイツやイタリアの音楽はご法度の対象ではなかったのですか? まあ、そんな折に、そもそも音楽を聴く心の余裕は持てなかったかとは思うのですが・・
2002年09月18日 (水) 11時19分
[315]
Re:那千夫さんの「こんな古い話」は楽しかった。
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From:みなもと
蓄音機のことはB-flat Clarinetさんの詳しい説明がありましたが 少し補足します。 当時のSPレコードの回転数は78回転または80回転であったと記憶しす。 ビクターとコロンビアで回転数が異なっていました。回転数を合わせるには白黒縞の円形のストロボ(紙製)をターンテーブルに乗せて電灯の 光のもとで回転させ白黒の縞が停止して見えると回転数が合っているわけです。ストロボには外側と内側と二種類の縞が印刷されている。 78回転用と80回転用です。 また当然それは60サイクル地帯専用のもので、もし関東に引っ越せば 50サイクル用のストロボが必要となります。この方法は現代の蛍光灯 時代には使えません。白熱灯に限るわけです。 次に、針は鉄製でレコード一面ごとに交換しますが戦時中には竹針も 使っていました。資材不足で鉄針が入手できないことと,また竹針の 方がレコード盤をいためないということもありました。音は竹針の方 がやわらかいというかちょっと頼りない音でした。 竹針には専用の カッターがあり一面かけるごとに先をカットします。 また「20回針」という鉄製の針もありました。これは交換せずに20面かけられます。これも使っていましたが果たしてレコード盤のために よかったのか今では疑問です。 レコードの値段、ビクターの赤ラベル(洋楽クラシック)は一枚5円と 記憶します。(昭和10年代戦争激化まで。)ベートーベン第5運命は確か5枚、第九は7枚か8枚であったように思います。当時の生活から するとべらぼうに高価なものです。 戦争中敵性音楽は禁止でした。しかしベートーベンは友邦ドイツですからOK。メンデルスゾーン、ドヴォルザークなどは禁止のほうであったと 思います。戦局の推移によって昨日までの友邦が今日から敵性国になったりします。禁止音楽の範囲が変わる。今日では想像もつかないでしょう。
2002年09月18日 (水) 13時29分
[316]
Re:那千夫さんの「こんな古い話」は楽しかった。
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From:polk
みなもとさん、[314]や以前からの私の疑問にご回答くださったのですね? ありがとうございます☆ ベートーヴェンがOKでメンデルスゾーンやドヴォルザークはダメという詳細な選別があったのですね? メンデルスゾーンはドイツ人でも、当時の敵国イギリスで活躍したからなのでしょうか? ドヴォルザーク(チェコ人)は、新世界、つまり、アメリカで活躍したからでしょうね? レコードの回転数のストロボのことは、そういえば、子供の頃、そんな話を父から聞いたような気になってきました。でも、レコード針のことは、竹針があったということをどこかで聞いてはいましたが、音色のことやカッターのことは、全く知りませんでした。 私の感想は尽きませんが、掲示板で次から次へと、 実に、溜息が出るような貴重なお話を伺うことができて、改めて、インターネットはスゴイなあと、「NetぴかろBBS」は知識の宝庫だと感激しております♪
2002年09月18日 (水) 14時40分
[317]
Re:那千夫さんの「こんな古い話」は楽しかった。
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From:B-flat Clarinet
> 回転数を合わせるには白黒縞の円形のストロボ(紙製)をターンテーブルに乗せて電灯の光のもとで回転させ白黒の縞が停止して見えると回転数が合っているわけです。この方法は現代の蛍光灯時代には使えません。白熱灯に限るわけです。 ストロボスコープで回転数を調節するには、白熱灯よりも蛍光灯の方が適しています。白熱灯は蛍光灯よりもチラツキが少ないため、ストロボスコープの縞模様が全体に灰色がかって見えてしまうためです。 > 戦争中敵性音楽は禁止でした。 小学校で愛唱されていた『螢の光』の原曲はスコットランド民謡のために禁止、『ローレライ』の作曲家ジルヒャーはユダヤ人だから禁止、メンデルスゾーンもユダヤ人だから禁止されました。ドイツでユダヤ人作曲家の作品が禁止されたことに倣った措置で、「音楽之友」の昭和17年1月号に堀内敬三が書いた「大東亜戦争に処する音楽文化の針路」と題する激烈な文章の中で、ユダヤ音楽の追放を主張しているのです。 これに似たことは第1次大戦中の反ドイツ感情が強かった時期のアメリカでもあったようで、メンデルスゾーンとワーグナーの結婚行進曲の演奏を避けるために、アメリカ救済軍に依頼されたマーチ王・スーザは1918年に『アメリカの結婚行進曲』を作曲しています。しかし、戦争が終わるとスーザの作品は忘れられてしまいました。
2002年09月18日 (水) 22時43分
[323]
Re:那千夫さんの「こんな古い話」は楽しかった。
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From:みなもと
ストロボで回転を合わせるのに白熱灯でないとだめ、としたのは私の 誤りです。B−flat Clarinetさんのおっしゃるとおり蛍光灯の方が 適しています。お詫びして訂正します。 敵性音楽のレコードを聞くときは今のように電気的にヴォリュームを コントロールできないから蓄音機の前の開閉式扉を閉めてこっそり 聞いたものです。押入れの中で聞いたこともあったと思います。
2002年09月19日 (木) 12時53分
[324]
Re:那千夫さんの「こんな古い話」は楽しかった。
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From:polk
あぁ、やはり、禁止されていても、聴きたい曲を苦労して聴いておられたのですネ・・・このことが聞きたかったのです! そのときのご心境は、先が見えない不安や恐怖、辛く切ないものが多々おありだったことと想像します・・・
2002年09月19日 (木) 13時54分