【広告】AMAZONからG.W.に向けてスマイルセール!4月22日まで開催

中央合唱団 掲示板

中央合唱団とうたごえの情報交換・交流の場です。
みなさまの書き込みをお待ちしています。
ネチケットを守って楽しく交流しましょう♪

中央合唱団ホームページへ

名前
メール
件名
メッセージ
ホームページ

アイコン /
アイコンのURL

(リスト)  /
削除キー COOKIE
文字色
背景色



No.496 中央合唱団(1948年2月10日-1973年5月3日)紹介
NAME:日本のうたごえ実行委員会

中央合唱団(ちゅうおうがっしょうだん)は、うたごえ運動の創始者である関鑑子が、日本共産党員として同党の方針に従い、1948年に創立した合唱団である。

■ 特色

中央合唱団は、うたごえ運動の首都圏における中心合唱団(センター合唱団)として、「赤旗まつり」をはじめとする日本共産党主催行事や「日本のうたごえ祭典」に出演し、関連楽曲のレコード録音を行った。創立時より一貫して、関鑑子の監督・指導のもとで活動を展開した。

1960年末、「アカハタ」紙上に発表された日本共産党公式見解では、中央合唱団が果たした役割は「特筆すべきものがある」として、次のごとく述べられている。

『...[中央合唱]団は、現代の社会情勢を踏まえて、戦前のプロレタリア音楽運動の遺産を勤労人民大衆の中に継承し、発展させることを目標に普及と創造活動を行い、これが『うたごえ運動』の核になり、今日の発展の原動力となった。[...]日本のうたごえ運動はいま、新しい発展の段階にある。当面の課題は、日本人民の巨大な運動の前進とともに、これからのうたごえ運動をどのように進めていくか、ということである。人民の諸闘争と結合し、発展させることと、諸闘争に奉仕することは、先進的な活動家の主要な任務である。未組織労働者の中へうたごえを拡大することは、うたごえ運動の発展における新しい威力となる。[...]無数のうたごえ活動家を思想的、政治的、芸術的に高め、職場、地域に育てあげることは、今日実際的に必要に迫られている。[...]さらに新しいうたごえ活動家の育成は、党の文化活動、大衆活動の発展にとってきわめて重要である』

■ 歴史

・1948年2月10日:関鑑子日本共産党の要請に応え、日本青年共産同盟の「中央コーラス隊」を母体として、中央合唱団を組織。この日、日本青年共産同盟創立二周年記念集会(神田共立講堂)で約40名での合唱演奏を行ったことから、以後は2月10日が同団の創立記念日と定められた。

・1948年8月、中央合唱団、関西・中部公演(大阪・京都・神戸・奈良・名古屋)。中央合唱団の専従者を各地に派遣し、京都ひまわり合唱団、関西合唱団(大阪)、神戸青年合唱団など、中央合唱団と活動趣旨を同じくする「センター合唱団」を各地の主要都市に設立した。

・1949年6月、中央合唱団機関紙「うたごえ」創刊。

・1951年8月、東京都新宿区の音楽センターが落成。以後、中央合唱団の主要拠点となる。

・1960年4月17日、日本共産党主催「安保阻止総決起大会」(日比谷野外音楽堂)で演奏。

・1967年7月17日、「日本共産党創立45周年を祝う記念の夕べ」(東京都体育館)で、杉本信夫 作曲「われらその道を行く」(日本共産党創立45周年記念作品・入選作)を演奏。

・1969年12月10日、歌劇「沖縄」全幕初演に参加。

・1970年4月14日、「日本共産党機関紙『赤旗』創刊7000号記念 春の音楽祭」(東京都体育館)で、歌劇「沖縄」を抜粋演奏。

・1970年4月〜10月、歌劇「沖縄」第1次全国ツアー公演に参加。

・1972年3月〜6月、歌劇「沖縄」第2次全国ツアー公演に参加。

・1973年5月2日、関鑑子、東京都内の病院で死去。

・1973年5月4日、関鑑子告別式(新宿区・音楽センター)。中央合唱団の渡辺一利団長が弔辞の中で、この日から同団を「関鑑子記念・中央合唱団」と改称すると発表。

日本共産党中央委員会制作レコード録音

・「日本共産党創立45周年記念≪入選歌≫ われらその道を行く」(EP盤 A面 杉本信夫 作・編曲「われらその道を行く」、B面「歌唱指導・われらその道を行く」)井上頼豊指揮、音楽センター・オーケストラ(1967年)
https://www.youtube.com/watch?v=htwcKujxohU
 
・「ひとすじの道−日本共産党創立50周年記念『党を主題とする歌』入選曲」(コンパクト盤 A面 相馬公信 作曲「ひとすじの道」・杉本信夫 作曲「われらその道を行く」)守屋博之 指揮、新星日本交響楽団(1972年)
https://www.youtube.com/watch?v=lHcVQPv-tWY

■ 中央合唱団機関紙と「うたごえ」の平仮名表記

うたごえ運動では、「うたごえ」と平仮名表記が用いられることが多い。理由は一説によれば、中央合唱団の機関紙「うたごえ」(1949年6月創刊)で、表題に平仮名が用られたためとされる。中央合唱団創立メンバーの一人である清宮正光は、平仮名で命名した経緯を次のように語っている。  

『...合唱団の機関紙をつくろうという話になって、私に編集がまかされました。タイトルを「うたごえ」としたのは私の案で、当時「うたごえ」はまだ一般的な呼称になっていない時期ですから、私の仕事の中でいちばん意義のある仕事だったのかもしれません。平仮名にしたのは、当時まだ中学も出られなかったような労働者を広く対象にして運動する目的からです』

ただし、中央合唱団機関紙「うたごえ」の創刊後も、運動関係者の書物や論説では「歌声」、「歌ごえ」、「うたごえ」などの表記が自在に用いられ、平仮名がうたごえ運動の組織により公式化された形跡は認められない。顕著な例として、日本のうたごえ実行委員長の関鑑子は、1962年12月の「第10回記念−日本のうたごえ祭典」に際して揮毫した運動スローガンを、「歌こえは平和の力」(ママ)と記している。

■「関鑑子記念・中央合唱団」

1973年、関鑑子の死去に際して、中央合唱団の既存団員を受け継ぐ形で「関鑑子記念・中央合唱団」が発足し、引き続き通称として「中央合唱団」を用いている。

しかし、日本のうたごえ実行委員会の「日本のうたごえ全国協議会」への改組(1973年)や、同協議会第7回総会・規約改定による政治運動方針の転換、指導者の変遷などを経た結果、かつての関鑑子指導下の中央合唱団とは活動方針、実体ともに非常に異なるものとなっている。

2016年11月18日 (金) 23時21分

No.495 関鑑子(日本のうたごえ運動創始者)紹介
NAME:日本のうたごえ実行委員会

関鑑子(せき あきこ、1899年9月8日 - 1973年5月2日)。声楽家、音楽教育者、音楽評論家。

第二次世界大戦後、日本共産党員として同党の文化政策に基づく実践活動を行い、国内外において、日本のうたごえ運動の創始者と見なされるようになった。

■ 経歴

父 関厳二郎(美術評論家。雅号 "関如来")、母 トヨの長女として、東京都本郷区龍岡町(当時)に生まれる。

1921年、東京音楽学校本科声楽科卒業。ソプラノ歌手となるが、大正末期からプロレタリア芸術運動に参加。

1926年、新劇俳優の小野宮吉と結婚。以後、本名は小野鑑子。

1929年4月26日、プロレタリア音楽家同盟(PM)創立に参加。音楽家同盟は、全日本無産者芸術団体協議会に加盟。

1934年3月、プロレタリア音楽家同盟、解散声明を発表。

1946年5月1日、第17回メーデー(東京・宮城前広場)で、「赤旗の歌」「インターナショナル」を指揮。その経験から、うたごえ運動の構想を抱きはじめる。

1948年2月10日、日本共産党の方針に従い、日本青年共産同盟中央合唱団を創立。

1951年、音楽センターの主宰者となり、この頃から「うたごえ運動」の実践活動を本格的に展開。運動は、職場・学園・居住地域における合唱サークル組織を通じた、労働者階級の政治・平和運動として発展した。1954年(昭和29年)には、参加者3万人規模での「日本のうたごえ祭典」を実現するにいたった。

1955年12月9日、スターリン平和賞受賞が決定。

1956年5月31日、スターリン平和賞授与式(モスクワ、クレムリン、閣僚会議館[現 ロシア連邦大統領官邸]にて)。D.V. スコベリツィン[Дмитрий Владимирович Скобельцын]同賞選考委員会議長より記念メダルを贈呈。関は答辞として、「この光栄ある受賞は私個人でなく、平和を愛する日本人全体に与えられたものです。日本人は平和な、明るい歌を好む国民であります。10年前に始めたうたごえ運動は、日本中のあらゆる職場、農村、学校、家庭に広がっています」と述べ、合唱曲「東京−モスクワ」(小林はじめ作詞、藤本洋作曲)の日本語歌詞を朗読した。授与式に同席した日本の著名人は、村松梢風、石川達三、淡徳三郎、杉村春子、岡田嘉子、芥川也寸志、木下恵介、松岡洋子、片山やす(片山潜の娘)、小野光子(関鑑子の娘・声楽家)など。

1973年5月1日、第44回中央メーデー(代々木公園)で、参加者約50万人の全員合唱「世界をつなげ花の輪に」(箕作秋吉作曲)を指揮。その直後に壇上で倒れ、虎の門病院に入院。翌2日14時20分、くも膜下出血のため死去。

1973年5月4日、東京都新宿区の音楽センターにて告別式。参列者は、日本共産党中央委員会から蔵原惟人(常任幹部会委員)、春日正一、紺野与次郎(幹部会委員)、須藤五郎(中央委員)、山下文男(文化部長)ほか多数。著名人では、山根銀二、清瀬保二、外山雄三、中沢桂、井上頼豊、千田是也、村山知義、宇野重吉、南原繁、井口基成、久板栄二郎、松田解子、松本正雄、風早八十二など。中央合唱団の渡辺一利団長は弔辞の中で、この日から同団を「関鑑子記念・中央合唱団」と改称すると発表した。

1973年5月23日、神田共立講堂にて「音楽葬」。葬儀委員長は太田薫。参列者は、紺野与次郎、須藤五郎、河原崎國太郎、村山知義、櫛田ふき、オレグ・アレクサンドル・トロヤノフスキー(駐日ソ連大使)などを含めて約1500名。新星日本交響楽団、アルトゥール・エイゼン、「関鑑子記念・中央合唱団」のほか、複数の楽器奏者や声楽家が演奏。参列者による追悼演奏として、故人が最後に指揮した曲である「世界をつなげ花の輪に」の全員合唱が行われた。

■ 日本のうたごえ実行委員長としての海外渡航歴

1955年2月〜9月、ドイツ民主共和国、ソビエト連邦、中華人民共和国、オーストリア、ポーランド(ワルシャワ「世界青年学生祭典」に出席)
1956年5月〜9月、ソビエト連邦(スターリン平和賞授与式に出席)
1962年4月〜5月、ソビエト連邦(第2回 チャイコフスキー国際コンクール来賓)
1962年7月〜8月、ソビエト連邦(モスクワ「全面軍縮と平和のための世界大会」に出席)
1964年5月〜6月、ソビエト連邦(日本のうたごえ合唱団ソ連ツアー公演、連邦各地で23回開催)
1966年6月〜7月、ソビエト連邦(第3回 チャイコフスキー国際コンクール、当年度に新設された声楽部門の審査員)
1970年6月〜7月、ソビエト連邦(第4回 チャイコフスキー国際コンクール、声楽部門審査員)

■ エピソード

宮本百合子は1921年10月7日、東京都内の演奏会で関鑑子の独唱を聴き、翌日の日記に、「まだまだ。それをはっきりあの人に云い、もっともっと努力、ほんとうに自分のものを見出すだけの努力をさせないのは気の毒だと思う。まるでペツォールドの小さいひな型だ」と記している。ハンカ・シェルデルップ・ペツォルト(Hanka Schjelderup Petzold)はノルウェーの声楽家で、関が師事した東京音楽学校の教員。

1926年末、関は音楽会のアンコール曲として、「赤旗の歌」を警察の事前許可なしに演奏したため、警視庁での取り調べを受けた。その際に、同庁の「外事掛長」が発した言葉を、関は次のように記している。
「あなたのような一流の音楽家には美しい歌や曲が沢山あるはずだ。なにも書生に担がれてつまらぬ物を歌わんでもええじゃろうに。俺も二三度、あなたの歌われるのを聴いて感心しとったもんだが、どうも人というものは解らないものだ。あなたがそんな人とは思わなかった。今後改めれば良し、もし改めなければ、自分はあなたが音楽家として再びステージに立っていけんようにする。自分らとしては、そういうことも出来るのだし。とにかく今のところ、自分はあなたを共産主義者として見ているから、そう思いなさい」

1956年1月11日、関鑑子は東京・銀座のレストランで美空ひばりと対談し、「日本的な情緒の豊かな美空ひばりさんの歌がとても好きになった」との旨を語った。

作曲家 芥川也寸志は、モスクワでショスタコーヴィチに出会った際に、「運転手になりたいのか」と訊かれて驚いた。芥川はかつて、自分が関鑑子に「ショスタコビッチの運転手をやってもいいから彼のところで勉強したい」と打ち明けた。それをショスタコーヴィチ本人が、関から聞いてすでに知っていたのだと、芥川に話してくれたという。

■ 著述

『苦い涙の試練を越えて』(講談社、月刊「婦人倶楽部」1924年1月号所載)
『地声を朗らかに感じよくするには』(同上、1926年5月号所載)
『実際にあった会話』(「文芸戦線」1927年1月号所載)
『懐かしき母校の想い出−恩師を偲びて』(「婦人倶楽部」1927年4月号所載)
『結婚当時意外に感じたこと・嬉しかったこと』(同上、同号所載)
『検閲−音楽−プロレタリア』(マルクス書房、月刊「プロレタリア芸術」1927年9月号所載)
『闘争歌のうたい方』(秋田雨雀、江口渙 監修「綜合プロレタリア芸術講座 第2巻」[内外社、1931年]所収)
『音楽家生活』(新知社、月刊「婦人文芸」1934年12月号所載)
『女性の考え方』(労働文化社、月刊「労働文化」1947年1月号所載)
『私の夢・古い新人』(「人民戦線」1947年6月号所載)
『歌の「味」』(音楽の友社、月刊「音楽芸術」1947年10月号所載)
『研究生終了演奏会(声楽)評」』(同上、1947年11月号所載)
『歌唱指導』(「婦人文化講座 第3巻」[ナウカ社、1948年]所収)
『働く人々の音楽報告』(毎日新聞社、月刊「労働評論」1948年8月号所載)
『恋愛以前』(伊藤書店、「人民評論」1949年1月号所載)
『コンクールの声楽』(「音楽芸術」1949年2月号所載)
『哀れな娘』(民主青年合同委員会出版部、「われらの仲間」1949年4月号所載)
『進むうたごえ』(中国留日同学総会編、半月刊「中国留日学生報」1949年5月15日号所載)
『思い出』(「労働評論」1949年6月号所載)
『自立楽団協議会について』(日本民主主義文化連盟 編「文化年鑑」1949年所収)
『私のコンクール考』(同上、1950年5月号所載)
『「おゝカリーナの花が咲く」 』(世界映画社、月刊「ソヴェト映画」1951年2月号所載)
『プロコフィエフの声楽作品とその思想』(月刊「音楽芸術」1953年5月号所載)
『国民音楽について』(日本共産党中央委員会理論政治誌「前衛」1953年6月号所載)
『「音楽運動」発刊のことば』(音楽センター、月刊「音楽運動」1953年6月号所載)
『内灘の闘いと音楽運動』(同上、1953年7月号所載)
『世界青年祭各地のうたごえを「日本のうたごえ」に』(同上、1953年10月号所載)
『うたごえ運動はさらに発展する』(同上、1954年2月号所載)
『平和のうたごえをメーデーへ』(同上、1954年4月号所載)
『高まるうたごえとさしせまる任務』(同上、1954年5月号所載)
『八月十五日』(同上、1954年7月号所載)
『婦人代表としての光栄と責任』(新女性社、月刊「新女性」1954年9月号所載)
『日本と中国の平和のうたごえをよびかわそう』(「音楽運動」1954年10月号所載)
『日本のうたごえは国民の運動−合唱団の任務のために−』(同上、1954年11月号所載)
『世界の青春』(「新女性」1955年3月号所載)
『愛する街−歌い方と楽典』(同上、1955年4月号所載)
『ウィーン・アピールにこたえて−解説と体験記と署名用紙』(同上、1955年6月号所載)
『平和と友情の旅から−ベルリンからウィーンへ』(同上、同号所載)
『世界のうたごえは起っている』(知性社、月刊「知性」1955年9月号所載)
『ワルシャワのうたごえ』(同上、1955年10月号所載)
『世界のうたごえの旅』(「音楽運動」1955年11月号所載)
『私が思うこと−藤井さんにお答えする』(「知性」1956年1月号所載)
『国際列車』(「新女性」1956年3月号所載)
『私のみた中国の演劇』(新読書社、「新読書」1956年4月17日号所載)
『うたごえ運動の理論−音楽とは何か−』(音楽センター芸術局 編「知性」増刊号[河出書房、1956年]所載)
『余談』(大山郁夫記念事業会 編「大山郁夫伝 別冊付録−大山先生の思い出」[中央公論社、1956年]所収)
『友だち』(講談社、月刊「群像」1957年3月号所載)
『期待と少しの不安』(学習の友社、月刊「学習の友」1959年1月号所載)
『明るい楽しい思い出−本所のセツルメント』(福島正夫、川島武宜 編「穂積・末弘両先生とセツルメント」[東京大学セツルメント法律相談部、1963年]所収)
『心の泉をくみとろう』(「学習の友」1964年2月号所載)
『明るい思い出、ソ連楽旅』(音楽の友社、月刊「音楽の友」1964年8月号所載)
『関鑑子自伝』(音楽評論社、月刊「音楽」1965年6月号より1966年2月号まで連載)
『歌ごえを平和の力に』(日本平和委員会 編「平和運動20年記念論文集」[大月書店、1969年]所収)
『中央合唱団の今日の任務』(「季刊日本のうたごえ」1971年4月創刊号所載)
『歌ごえに魅せられて』(音楽センター、1971年)

■ 新聞・団体機関紙への寄稿
 
『歌をつくりましょう−やさしく誰にもできます』(「アカハタ」1946年9月23日付)
『諏訪根自子のクロイツェル・ソナタ』(「文化タイムス」1947年1月13日付)
『職場に合唱団をつくるために−勤労芸術の道しるべ』(「労働民報」1947年5月24日付)
『知恵も食べよう−働く若い人々へ−』(「労働民報」1947年9月3日付)
『新しい音楽創造のために−ふたたび「作曲のすすめ」−楽曲の分析』(「アカハタ」1947年5月29日付)
『私の青春時代』(日本青年共産同盟中央機関紙「青年の旗」1947年8月25日)
『先生−今日の感想』(「東京民報」1947年8月27日付)
『甘いもの好き』(「アカハタ」1947年10月21日付)
『東西音楽家の提携−大阪文化会議所感』(「文化タイムス」1947年12月1日付)
『たくましいコーラス』(「アカハタ」1948年3月23日付)
『示威行進にスクラムを』(民主婦人連盟機関紙「民主婦人」1948年3月25日付)
『みんなうたう会を』(「全逓新聞」1948年11月6日付)
『損保従連・秋の文化祭−音楽コンクール評』(損害保険従業員組合連合会 東京支部機関紙「さけび」1948年12月24日付)
『成長のために』(「青年の旗」1949年1月2日付)
『音楽の大衆化』(善隣専門学校 編「善隣新聞」1949年2月20日付)
『常磐炭鉱の青年の音楽』(日本民主青年団編、週刊「民主青年」1949年6月26日付)
『みんなが生き生きとした歌をうたうためには』(婦人民主クラブ編、週刊「婦人民主新聞」1949年7月9日付)
『青年の熱き心もて』(「民主青年」1954年1月26日付)
『中央合唱団創立2周年を迎えて』(中央合唱団機関紙「うたごえ」1950年2月号)
『具体的な詩音楽』(「アカハタ」1950年2月5日付)
『世界の人々が無罪釈放運動を−民衆歌手ポール・ロブソンに訴える』(「うたごえ」1950年6月3日付)
『平和署名を戦争を憎むすべての人たちに』(「うたごえ」1950年8月25日付)
『中央合唱団16期生の入団に際して』(「うたごえ」1953年10月12日付)
『ひとり思うこと』(「うたごえ」1954年1月7日付)
『船出』(「うたごえ」1954年1月24日付)
『国際婦人デーを迎えて』(「うたごえ」1954年2月25日付)
『外人演奏家の来日と日本人−民族音楽への気運・萌芽はもうそこに』(「立命館学園新聞」1954年10月11日付)
『進む平和! 高まる歌ごえ』(「婦人民主新聞」1954年10月30日付)
『世界にひびけ平和のうたごえ−うたごえの発展は国民の力−』(日本のうたごえ実行委員会中央機関紙 共同デスク「うたごえ新聞」1954年12月15日付)
『国際スターリン平和賞授賞式における挨拶』(日本のうたごえ実行委員会中央機関紙「うたごえ新聞」1956年8月20日付)
『世紀の歌姫 三浦環夫人』(「婦人民主新聞」1954年8月26日付)
『唇に歌 心に誇り』(「北國新聞」1955年12月18日付)
『中国の音楽界−民族にも素晴らしい未来−』(「朝日新聞」1955年12月22日付)
『生活とうたごえ』(日本民主青年同盟中央機関紙「民主青年新聞」1956年4月15日付)

2016年11月17日 (木) 23時39分

No.493 歌劇『沖縄』上演のための実技講習会(9/24 大阪市内)
NAME::歌劇「沖縄」演奏団

【合唱・独唱・聴講 参加者募集のご案内】

◆開催日時・場所
9月24日(木)17:30〜21:30 大阪市淀川区の練習会場(阪急「十三」下車すぐ。詳しくは参加者にお知らせします)

◆内容
歌劇『沖縄』(1972年全国公演版)を教材とした合唱・独唱の実技レッスン。

◆受講の特典
適格と認められた方は、本人の希望に応じて、原編成管弦楽による『沖縄』全曲演奏の出演者に起用します。

◆教材曲(末尾、返信欄をご覧ください)

◆受講料(講習会1回受講、1名あたり。受講申し込み後、指定の方法にて前納)
1.合唱 3,000円(教材楽譜料金込み)
2.独唱 5,000円
3.聴講 2,000円

◆募集定員
1.合唱:ソプラノ・アルト・テノール・バス 各声部10名まで
2.独唱:若干名
3.聴講:20名(聴講者は、講習会全体を通して見学できます)
*受講希望者に関して、年齢・性別・『沖縄』の演奏経験の有無は問いません。

◆講師
-大前努(日本イタリア・オペラ座総監督、同所属歌手養成所 声楽実技講師)

◆募集期限
9月23日(水)申し込みメール必着。ただしそれ以前でも募集定員に達した時点で締め切ります。

◆注記
合唱の教材楽譜は、受講を申し込まれた方にあらかじめお渡しします。

◆お申し込み・お問い合わせは、歌劇「沖縄」演奏団HP(下記、リンク先お問い合わせフォーム)より。

2015年07月21日 (火) 21時25分

No.492 歌劇『沖縄』上演のための実技講習会(5/1 大阪市内)
NAME:歌劇「沖縄」演奏団

【合唱・独唱・聴講 参加者募集のご案内】

◆開催日時・場所
5月1日(金)17:30〜21:30 大阪市淀川区の練習会場(阪急「十三」下車すぐ。詳しくは参加者にお知らせします)

◆内容
歌劇『沖縄』(1972年全国公演版)を教材とした合唱・独唱の実技レッスン。

◆受講の特典
適格と認められた方は、本人の希望に応じて、原編成管弦楽による『沖縄』全曲演奏の出演者に起用します。

◆教材曲(末尾、返信欄をご覧ください)

◆受講料(講習会1回受講、1名あたり。受講申し込み後、指定の方法にて前納)
1.合唱 3,000円(教材楽譜料金込み)
2.独唱 5,000円
3.聴講 2,000円

◆募集定員
1.合唱:ソプラノ・アルト・テノール・バス 各声部10名まで
2.独唱:若干名
3.聴講:20名(聴講者は、講習会全体を通して見学できます)
*受講希望者に関して、年齢・性別・『沖縄』の演奏経験の有無は問いません。

◆講師
-大前努(日本イタリア・オペラ座総監督、同所属歌手養成所 声楽実技講師)

◆募集期限
4月30日(木)申し込みメール必着。ただしそれ以前でも募集定員に達した時点で締め切ります。

◆注記
合唱の教材楽譜は、受講を申し込まれた方にあらかじめお渡しします。

◆お申し込み・お問い合わせは、歌劇「沖縄」演奏団HP(下記、リンク先お問い合わせフォーム)より。

2014年12月27日 (土) 15時39分

No.470 歌劇『沖縄』上演のための実技講習会(12/25 大阪市内)
NAME:歌劇「沖縄」演奏団

【合唱・独唱・聴講 参加者募集のご案内】

◆開催日時・場所
12月25日(木)17:30〜21:30 大阪市淀川区の練習会場(阪急「十三」下車すぐ。詳しくは参加者にお知らせします)

◆内容
歌劇『沖縄』(1972年全国公演版)を教材とした合唱・独唱の実技レッスン。

◆受講の特典
適格と認められた方は、本人の希望に応じて、原編成管弦楽による『沖縄』全曲演奏の出演者に起用します。

◆教材曲(末尾、返信欄をご覧ください)

◆受講料(講習会1回受講、1名あたり。受講申し込み後、指定の方法にて前納)
1.合唱 3,000円(教材楽譜料金込み)
2.独唱 5,000円
3.聴講 2,000円

◆募集定員
1.合唱:ソプラノ・アルト・テノール・バス 各声部10名まで
2.独唱:若干名
3.聴講:20名(聴講者は、講習会全体を通して見学できます)
*受講希望者に関して、年齢・性別・『沖縄』の演奏経験の有無は問いません。

◆講師
-大前努(日本イタリア・オペラ座総監督、同所属歌手養成所 声楽実技講師)

◆募集期限
12月24日(水)申し込みメール必着。ただしそれ以前でも募集定員に達した時点で締め切ります。

◆注記
合唱の教材楽譜は、受講を申し込まれた方にあらかじめお渡しします。

◆お申し込み・お問い合わせは、歌劇「沖縄」演奏団HP(下記、リンク先お問い合わせフォーム)より。

2014年06月16日 (月) 20時41分


No.471
NAME:歌劇「沖縄」演奏団

◆歌劇『沖縄』実技講習会
 教材曲(講習会の各回ごとに、下記のいくつかを取り上げます)

混声合唱
@ああ、豊かに波打つ黒潮よ
A金を受け取ったのか、島を出るのか
Bさてもめでたや新玉の春は
Cさぁさ、買いなさいよ
Dたとえ火あぶりの憂き目またみちん
E一坪一坪、耕して必ずこの島を
Fこの島はわしらの島だ

男声合唱
@ユイシイユイシイ、サーハリガユイシイ
A俺たちの土地、俺たちの空と海

女声合唱
@眠れ、正輝、伊江島の土に

ソプラノ独唱
@坊やは、ヨーラ、ねんねんヨーラ
A私は那覇へ行こう
Bなつかしや、沖縄はいくさばになって

アルト独唱
@くがね土地とらり

テノール独唱
@なんと寂しい夜だ
Aさても世の中、浅ましや
B畜生、アメリカをのさばらせるだけじゃないか
Cお前はそんなに自分の畑が欲しいのか
Dなんという静けさだ、潮騒の歌がきこえる
E正輝、なんということだ、お前は俺をかばって

バリトン独唱
@私の畑はあの海のそば
A主席に会うたびに分からなくなる
B俺も元は百姓

バス独唱
@もう随分と昔のことじゃ

2014年06月16日 (月) 20時43分


No.491 歌劇『沖縄』制作・上演の歴史的背景について
NAME:歌劇「沖縄」演奏団

関忠亮 "70年をたたかう働くものの創作曲−歌劇「沖縄」によせて"(「赤旗」1969年12月24日付 第8面)より抜粋

「...この作品は、1955年以来の米軍の土地強制接収に抗する、伊江島の農民の土地を守るたたかいに取材して、いまに引きつがれる沖縄県民の柔軟で原則的なたたかいのすがたと、(革新)統一戦線の思想を、歌劇としてつたえよう、と制作されたものです...

...この歌劇の制作には...各界を代表するひとたちの直接援助、またさらに広範な芸術家、知識人の支持、加えて、民主的な青年音楽家の力で結成された新星日本交響楽団などの協力があり、じつに広範な階層にわたるたたかいが安保廃棄と沖縄全面返還を中心としてたかまり、(1969年12月27日・衆議院)総選挙を勝利へ、と大きく結集するなかで、その結集を基礎とし、その結節点ともなって実現されたものです。

これは歌劇の制作史上でも、解放闘争の歴史の上でも、前例がなく、貴重です...」

2014年11月28日 (金) 16時36分






Number Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】AMAZONからG.W.に向けてスマイルセール!4月22日まで開催
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
この掲示板をサポートする このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板