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福島に行ってきました |
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ヤマユリ
(2067)投稿日:2011年10月15日 (土) 20時34分
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10月7日金曜日に仕事を終えてから東京に向かい、同志会の東京支部の皆さんと5人で、朝5時半に新宿事務所を出発して福島に行ってきました。 3日間に7人の方と会って話を聞くという、とても中身の濃い取材でした。その中で、行政の説明会に立ち会うという機会にも恵まれ、福島に行ってこそわかったことがいっぱいで、とても勉強になりました。
8日、Kさん(東京の小学校の3年担任)のクラスに4月〜7月避難して来ていた子どもとお母さんに会いに南相馬市に行きました。途中飯舘村を通って。放射能は臭いも色もなく、のどかな農村風景なのに誰も住んでいないというのが信じられませんでした。福島市に戻り、「子どもを放射能から守る福島ネットワーク」の高校の男の先生と小学校の養護教諭の先生と会いました。学校で、放射能については一切触れてはいけないというのが実情でした。「危険はない」とウソを言わなければならないのです。小学校に行き、設置されたばかりの10分ごとに測定されるという放射能測定器や表土入れ替えをした場所を見ました。一応運動場は除染されても、体育の授業に5〜6人しか参加しないという状況です。中庭にある校舎の雨樋の下の排水溝のふたの上では2.0マイクロシーベルト毎時という高線量でした。福島市内の通学路で150を超えるところもあると聞きました。
夜は、福島市の住民説明会に参加。線量の高い地域なのに子どもを避難させないで除染で済まそうという提案に住民が猛反対する様子を見ました。その除染の方法もずさんで、1日2軒ずつで2〜5年かかるとか、住民も協力せよというものでした。 歴史的な説明会だと聞いていましたが、すごかったです。国や福島市の答弁のひどさにみんな怒っていましたが、必死で意見を言っても言ってものらりくらりとかわされて、住民が諦めてしまうのを待っていると思えました。500人近くが小学校の体育館に集まり、午後7時開始で、終わったのが12時だったそうです(私たちは10時に出ましたが…最後までいたのが50人くらい)。線量の比較的低い会津若松市のホテル到着は12時前。そこで2泊。 9日、会津若松市で、警戒区域(楢葉町)に住んでいたSさん(子どものいる方)と有機農業をしていたWさん(田村市都路)、もともと原発反対の運動をされているハイロアクションのOさん(警戒区域の大熊町)に会いました。(心に残るお話でしたが、割愛…) 10日、福島市で、「子どもを放射能から守る福島ネットワーク」のプロジェクトで、『子どもの声を届けよう』の推進担当のNさんに、子どもたちの作文を見せてもらいました。8月、作文を持って直接子どもたちの代表が政府に訴えました。 行ってよく分かったのは、「除染ではダメだ」ということです。「除染は大雪の中で雪かきをするようなもの」とお母さんが言われました。地形を見ればわかるのです。子どもや妊婦は、いてはいけない高い線量の福島市や郡山市が避難でなくまず除染なのです。なぜかと言うと、この2市は、福島で最も人口の多い市であり、新幹線や高速道路の通っている所で、「特定避難勧奨地点」に指定したくないのです。「命より金儲け」という構図の中で住民が分断され、正しい情報が入らない(安全神話に汚染されている)ために子どもや若者の未来が非常に危険な状態に置かれているのでした。
「地産地消」は悲し過ぎました。「ふくしまがんばれ!」のポスターは「みんな地元ふくしまの野菜を食べて、放射能に負けないようにがんばれ!」なんです。県外の食べ物を手に入れるのは困難で、食べないと「安全なのにどうして?」と周りから非難され、孤立するのです。春休みなどに一時子どもと県外へ避難し戻ってきた方が「逃げた」と周りから非難された話も聞き、まるで戦時中のようでした。 携帯線量計(1ヶ月で回収、累積線量を通知)が県内の子どもに配布されましたが、こういうものをつけないといけないところに子どもは入れてはいけないのです。0.6マイクロシーベルト/毎時は放射能管理区域の基準で、18才以下は入ってはいけないと法律で決まっています。累積線量が高過ぎたら?その時はもう手遅れ、低くてもデーターをごまかしているのではと疑いたくなります。出会った7人の方皆さんが大変な中で一生懸命頑張っておられる姿に元気づけられ、大阪の子どもたちにしっかり伝えたいと思いました。
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