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高橋さんと野嵜さんの間で現在繰り広げられている論争ですが、佛教の話が出てきた辺りから気になって読んでます。佛教に対する認識はどちらかというと野嵜さんの方が正しいかと。
佛教の究極の目的は「抜苦与楽」です。「生老病死」の一切が苦であると正しく認識し(苦諦)、苦の原因が人間の煩悩と現世の無常にある事を明らかにし(集諦)、苦を取り除くには執着を断ち現世の無常から逃れるしかないと説き(滅諦)、その為に「八正道」を実践する(道諦)という「四聖諦」の考え方は全ての佛教宗派の根本にあります。「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三法印も全ての佛教宗派共通の考えです。逆にこれが無いと佛教ではありません。ただ、釈尊はまず相手の持っている信仰や信条を受容し理解して相手の存在を認めた上で、徐々に教え導く対機説法の立場をとり、信仰の体系や思想を説くことはありませんでした。ですから、教えを聴いた人によってその捉え方が違うのも当然です。つまり、釈尊入滅後に作られた各経典はその一面を具体化したものに過ぎません。これは極論ですが、「悟り」とは我々衆生が全てを論理的に体系立てて理解できる物ではないのです。その事は釈尊も認識されていましたから、入滅後は 正法→像法→末法→法滅 という道を辿ると予言されています。佛教が論理的に体系立てられたものであえば、時代を経ても正しく伝わるはずだと思いませんか?
それから禅宗についてですが、拘らず、拘りを捨てる事にも拘らない、簡単に言うと思考を停止する訳ですから、非論理的なのは当然ですよ。言葉に書くと訳がわからないところに禅はあるのです。それが「不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)」です。臨済宗では公案(禅問答)も坐禅と同様に大切なものとして用いますが、曹洞宗では「只管打坐(しかんたざ)」です。そこには理屈の入る余地はありません。巷の禅文化の解説書に書いてる程度の知識
しかないのならこの辺りの事は解らなくて当然ですが……。哲学性という言葉を「訳の解らないもの」と言う意味で使っているのなら、哲学性という意味なら仏教も相当なもんです
という感想を持たれるのも理解できますよ。でも、禅宗とキリスト教を比較するのは無理があるのではないでしょうか?
佛教、特に禅宗は明治以前の日本文化に大きな影響を与えてきましたし、空海、道元、親鸞は、日本人の思想に大きな影響を与えたと思います。佛教の中道の精神は、よく言えばあらゆる状況の変化に柔軟に対応できる文化を生みましたが、悪く言えば主体性がなく流されやすい気質を作りかねません。もし、佛教が論理的で筋の通ったものであれば、明治以降の急速な西欧化は無かったのではないでしょうか。
日本に限っても、仏教宗派はたくさんある。(中略)真言宗と浄土真宗とで比較すると、同じ仏教だからと簡単に割り切ってしまえるものではない。本尊も違えば価値観も違うし、風習もいろいろ違う。やはり違う宗派であり、個別に学ばないと難しいと思う。
先にも述べた通り、釈尊は対機説法を行いましたから、それこそ八万四千の法門があると言われています。しかし、これも先に述べましたが、究極においては共通しています。大胆に喩えるなら佛教は富士山のようなものです。見る角度によって形や印象は違いますし、登山道や登山方法によっても印象は変わります。それに、別に登る事に拘らなくても楽しめますし、忙しく働いている時はその存在も気になりません。でも、そこに富士山はあるのです。宗派の分裂と言うのは、新しい登山道や、山の楽しみ方を発見するような物で、元々その山に含まれていたけど気が付かなかった(または忘れていた)だけのものに似ていると言えるでしょう。
真言宗(密教)の本尊は大日如来、禅宗の本尊は釈迦如来、浄土真宗の本尊は阿弥陀如来です。確かにこれだけを見ても別の佛様を信仰しているように見えますよね。でも、それぞれの経典が釈尊の悟りの一面を捉えたものであるように、それぞれの佛様も一面を具体化したものですから、本質は同じ物です。ただ、同じでありながら互いに独立して存在するので、唯一絶対の存在ではありません。(論理的に説明できないものだから、この辺りが上手く伝えられないのですが……)
- 平成十六年二月十三日
鎌倉新仏教は既存仏教への批判から始まったのだし、旧勢力から危険視され、時には迫害もされたのだが。- 法然・親鸞・日蓮が例外だつたと言へます。
例外だったのかな? 鎌倉仏教の宗祖は天台宗出身です。天台宗は法華経を中心とした顕教と密教を含む大乗佛教の総合大学のようなところで、禅も浄土も全てを内包した宗派であり、当時は、朝廷の庇護下で国家鎮護と貴族階級の救済を目的として発展していました。鎌倉新佛教の宗祖たちは天台宗の教義を批判したのではなく、比叡山の僧侶の堕落と朝廷との癒着体質を批判し、国家権力とは無縁の一般庶民に広めたのです。その事が、旧勢力から危険視され弾圧された原因じゃないですか。教義による対立ではなく、世俗的な権力争いに巻き込まれただけですから、例外でもなんでもないと思いますよ。
これが各宗派の違いで、根本的な佛教の教義に関わる分裂ではありませんから、自分に合った宗派を選択すればいいという選択肢が増えただけです。(宗学論争の多くは、世俗的な勢力争いであり、どちらが勝っても釈尊に恥をかかせる行為でしかありません)
- 平成十六年二月十四日
即身成仏と他力本願じゃ方向性としてカトリックとプロテスタントの違いに劣らず違う教えだろうに。- 「即身成仏」の意味をわかつて言つてゐるのかねえ。
- 現代人が常識的に考へると、即身成仏なんて無理に決つてゐるんだが。
- けれども、そもそも「佛樣には簡單になれる」んだよ、特に日本の佛教では。
真言宗に「即身成仏」という言葉があります。野嵜さんも現代人が常識的に考へると、即身成仏なんて無理に決つてゐる
と書いていらっしゃいますよね。これは後で述べる「他力本願」同様、よく誤解される佛教用語の一つです。
初発心時便成正覚
(初めて発心を起こした時、すでに悟りを得ているという意味)という考えが大乗佛教の根底にあります。(ここが判り難い所ですが、一歩を踏み出せば、どれだけ時間が掛かろうと必ずゴールにたどり着く事が約束されていますから、この場合、時間は意味をなさないのです) これを突き詰めると、佛教に帰依した時、この身このままで佛に成るという「即身成仏」は完成しているのです。その後は佛である自分をより佛として高める為に「三蜜加持」を行うわけです。(そういう意味においてはそもそも「佛樣には簡單になれる」んだよ
というのも間違いではありません)
禅の修業も同じです。坐禅は佛に成る為の修業ではなく、佛だからこそできる修業なのです。最初の坐禅は最初の坐佛ですから、極論を言うと、密教の「身密」と同じと言えます。さらに、法然の念佛や日蓮の題目も、真言・陀羅尼に相当する「口蜜」と言えるのではないでしょうか。
親鸞の念佛は阿弥陀佛への信心により、阿弥陀佛が称えさせて下さると考えましたから信心第一の「意蜜」と言えなくもありません。ただ、親鸞は信心を起こす事さえ出来ない凡夫である我々に、阿弥陀佛が働きかけて下さる事で念佛が称えられると考えました。阿弥陀佛の誓願による働きかけがまずあり、極楽往生を信じさせて頂き、念仏を称えさせて頂こうと思い立ったその瞬間に、我々はもれなく浄土に救いとって頂いているのですから、ここには自力の計らいは何一つ無く、その上で最初に称える念佛は報恩感謝の念佛となります。これが親鸞の説く絶対他力の他力本願で、ここでも信心が起きた時には既に成仏しているという即身成仏の考えが生きています。
自ら一歩を踏み出す事が「自力」、その一歩も踏み出す事が出来ない我々のような凡夫に信心を与えて下さるのが阿弥陀佛の「他力」。一歩を踏み出した瞬間からは「自力」も「他力」も同じで、佛様の力(他力)で必ず悟りに到達できるのです(本願成就)。従って、全ての佛教が「他力本願」であるとも言えるのです。
まあ、お二人の論争の本筋には関係の無い事だと思う(というか、本筋は何?)ので、後はお好きなだけ仲良くお続け下さい。(u_u)
今日の日記、もしかしたら今までで最長かも。文字を見ただけで読む気を無くしそうですね。
世間はバレンタインだ何だと浮かれているようですが、今日は平常通り仕事をしていました。うちの店は家族経営ですから、同僚からチョコレートを貰うようなサプライズは起こるはずもなく。仕事の後は佛教についてつらつらと……。(笑)
ええねん、どうせ佛教徒やし。(T_T) ←ならなぜ泣く?
そうそう、明日は涅槃会(ねはんえ)ですよ。