いや、開こうとした。
その瞬間、チャイムが鳴った。荘厳極まるこのロイヤル・スイートにふさわしい、教会の鐘が鳴り響くような優雅な音色だった。渉は顔を上げ、来客かと連想した自分に呆れた。ここはいったい、どこだというのだ。
「Hello,this is c-c-operator speaking.」だが、続けて聞こえたその声に渉は目を見開いた。鮮やかな英語のイントネーション。「Welcome aboard.How nice to see you here.」歯切れの良い、どちらかと言えば……そう、年若な女性の声である。だがその言い回しには、どこか人間的な抑揚がこもっていなかった。「Mr.Wataru Kiryu,there's a call for you.Please......」
「あ、はい……!」渉はようやくアナウンスの意味を理解して声をあげた。「い、いや、了解、イエスです。すぐ行きます。あ、英語で言わないと駄目なのか。えーっと、ジャスト・モーメント……」
「桐生渉様。基本言語設定を日本語へと変更しますか?」渉は再び目を見開いた。今とまったく同じ女性……いや、女声による歯切れの良いアナウンス。
「あ、はい……イエス。ええ、そうして下さい。日本語に、基本設定を日本語に。」馬鹿のように繰り返してしまう自分に、むしろ語意が伝わらないのではと少し焦る。
「了解しました。しばらくお待ち下さい。」再び響いたそれに、渉は安堵してソファに身を沈めた。
だがしかし、これは……今のは、何だ。渉は再び混乱しかけた思考を必死に整理しようと努めた。誰かが俺を呼んだ。いや、誰かではない。これはおそらく……
「変更が終了しました。」三十秒もかからずに女声が告げた。「以後、桐生渉様に対する通話は日本語によるそれを優先します。それでよろしいですね?」渉は頷いた。だがそこで気が付き、声をあげる。
「はい。そうです。日本語でお願いします。」そして、黙した。
「了解しました。」返事にはほとんどタイムラグがない。渉は驚きに満ちた視線を書斎の天井へと向けた。どこに、何があるのだろう。照明とスプリンクラーの間に眼をこらすが、それらしき何かは見つからない。
「えーっと、君は……」そう言って、渉はその先の言葉を用意していない自分に気付いた。
「桐生渉様に、再度御連絡を致します。船外より、長距離電話サービスが入っております。お受けになりますか?」
「えっ……電話?」そういえば、さっき英語のアナウンスで俺を呼んでいた気がする。「誰からですか?」思わずそう聞き返して、渉はさらに混乱した。はたして、聞いていいのだろうか。
「長距離電話サービスはコレクトコールです。料金は先方がその100%を支払うことになります。発信者のお名前は、ニシノソノモエさんとなっております。桐生渉様、お受けになりますか?」流暢だがやはりどこか抑揚のないアナウンス。その中に現出した人物の名前が、混乱極まりかけた渉の思考を正常のそれに……いや、正常に近い場所へ引き戻してくれた。そう、聞き慣れた名前。
「西之園さんが?あ、はい。お願いします。受けます……って、どうすればいいのかな。」渉は部屋を見回した。電話のようなものはこの部屋にはない。隣の広間にあったかなと渉はソファから立ち上がり、そして声が響いた。
「いずれかの通信機器を使用する以外に、当オペレーティング・システムを利用して会話する方法も可能です。桐生渉様、いかがいたしましょうか?」渉は告げられたその意味を考え、そして首を振って隣の部屋に戻った。考えるより、行動……そう、電話を探した方が早い。
運のいいことに、それはすぐに見つかった。広間の窓際近くにあるスタンドの上に乗せられた、パネルと液晶表示のついたメカニカルな電話。それが赤く明滅し、何か文字盤に表示もされている。だが渉は、とりあえずそれらを読む前に受話器を取ってみた。
「はい、もしもし……桐生ですが?」
「あ、桐生さん!よかった!待っても出ないので、心配しました。よかった……!」それは確かに西之園萌絵の声だった。
「ごめん。でも、心配したのはこっちだよ。」そう、安堵感が津波のように押し寄せてくる。まるで親とはぐれていた子供のようだと渉は思った。「どうしたの?高速道路……車の運転は大丈夫だった?事故とか、あったんじゃないよね?」諏訪野老のことを思い出す。別れて一時間やそこらしか経っていないはずだが、もうあれが遠い昔のことのようだ。今、そばにいてくれたらどれだけ落ち着くだろう。
「はい、それは大丈夫です。」萌絵は早口でそう言った。「ごめんなさい、心配をかけてしまって……」
「いいよ。それより今どこ?もう、横浜についた?」渉ははやる気持ちを抑えた。どうしてか、無性に心配になる。「そろそろ……確か、二時だっけな。出航だからさ。西之園さんも、早く乗船しないとね。」それについて、スケジュール表を見せられた気がする。あの紙はどうしたのだろう。「そうそう。それで、部屋なんだけどさ……」
「桐生さん、あの……今、船の中ですよね?」萌絵の口調は何か含みかあり、渉は怪訝に思った。
「あ、ああ。勿論だよ。船室にいる。出航……じゃない、乗船は十一時だったから。」渉は時計を探した。すぐに、博物館に置かれていそうな巨大な置き時計があるのに気付く。そう、今は十二時十九分。「それより、どうかしたの?西之園さん?」昼食はどうするんだろうか、と渉はなんとはなしに思った。
「そうですか。それで、あの……桐生さん?」実に西之園萌絵らしくない言い方だった。何か、そう、まるで何かを告げるのをためらっているような、そんな口ぶり。
「西之園さん?」渉は呼びかけた。「どうかしたの?誰か、そこにいるの?」
渉の発言は根拠もないただの憶測……いや、実際にはただの思いつきの如きそれだったが、それを聞いた萌絵の反応は尋常ではなかった。「え……!そ、そんなことありません!誰もいません……いませんよ、桐生さん!」初めてかもしれないと渉は思う。これほど動揺を顕にする西之園萌絵の声を聞くのは。
いや、初めてではないかもしれない。今とはまったく違うが、だがしかし同じように違和感のある環境の中で……
「西之園君?」突然聞こえた声に、渉は耳を疑った。誰かがいる。「何?どうかした?」受話器の向こうだった。萌絵はどうやら一人ではないらしい。いや、だがしかし、これは……
「な、何でもありません!先生!すぐ戻りますから!」その必死な萌絵の声を聞いた瞬間、渉の思考は再び凍りついた。
そして、弾ける。「先生!?西之園さん、そこに誰か……先生が、犀川先生がいるの!?」きつめの……そう、怒鳴り声と形容するのがふさわしいかもしれない、渉の叫び。
萌絵の返事はしばらくした後だった。「はい……」渉の中で、思考が渦巻のように混沌としている。「……その、桐生さん。今から私の言うことを、冷静に聞いてくれますか?」萌絵の口調は、先程の取り乱した様子から豹変していた。その口調が、渉の千々に乱れた感覚を元に戻す。
「あ、ああ……いいよ。西之園さん、説明してくれる?」
「はい。」萌絵は素直にそう言った。「あの……実は私、今、先生と一緒にいるんです。その……犀川先生と。」犀川創平、N大学助教授。やはりさっきの声は、まぎれもない先生だったのか。
「それって……つまり、先生も一緒に来るってこと?」渉は最も可能性の高そうな推測を萌絵にぶつけてみた。
「いいえ。違います。先生は学会で、出張に出られていて……」そういえば、渉もその話を聞いていた。渉が萌絵につきあって(とは、まさか言っていないが)、七泊八日の旅行に出ることにしたと告げた日。ただ、その際に友人のつてで高名な学者に面会できるかもしれないので、戻ってくるまでに卒論の草稿は必ずまとめる、そう渉は犀川に約束したのだ。それに対して犀川は憮然としたように頷き、ちょうど自分も週明けから出張なんだよねと渉に言った。
「本当は行きたくもないんだけどね。しかも、今回はよりによって……いや、失敬。それはこっちの話だった。」どこかいらついたように犀川は煙草に火をつけ、ほとんど吸わずにそれをもみ消した。「とにかく、その高名な学者とやらに会って、君のインスピレーションが刺激されることを期待しているよ。まあ結局は、桐生君自身の人生だからね。」犀川は新たな煙草に火をつけて、ブラインドの先に広がる冬の迫るキャンパスを眺めていた。その背中を見ていた渉は、何故か見捨てられたような気分になって気が滅入ったものだ。
だが今、渉の脳裏に閃いたのは犀川助教授の最後の言葉ではなく、憮然とした彼の表情だった。ただでさえ嫌な学会への出席に、そう、さらに何か……拒否したくとも拒否できない何かが加わってしまったかのような態度。「まさか……西之園さん……」声が出なかった。絶句、である。
渉の思考がたどりついた結論。それは恐るべき内容であり、もしもそれが真実だとすれば、さらに別の真実が顔を出す、まるでマトリョーシカ……露西亜の細工人形を開けていくようなそれだった。次々に広がっていく『それ』を渉は驚愕のままに一つに繋ぎ合わせ、そしてそれは受話器の向こうで萌絵が小さな声を発するまで延々と続いた。
だが、まさか、そんな馬鹿な。
「ごめんなさい、桐生さん。でも……お願いです。どうか、船を降りないで下さい。」萌絵の真摯な口調には独特の悲壮感があった。そう、悲愴ではない。「桐生さん、一生のお願いです。私……」
渉は目を閉じた。信じられないことをする奴、という煮えたぎるような感情が、心を完全に支配しかける。いや、支配していたであろうその一瞬を越えて、まさに次の瞬間、渉はその発散を食い止めた。それは桐生渉という人間にとって最大限の精神力を必要としたが、どうにかして彼はそれに……言わば『自制』に成功した。
「わかった……」だがしかし、それだけ言うのが精一杯だった。
「桐生さん、ありがとうございます。戻ってきたら、この埋め合わせは必ずします。約束します。私、その……こんな機会、もう二度とない気がして……」萌絵の声は今にも泣き出しそうに聞こえた。
「いいよ。気にしないで……もう、俺は大丈夫。」本当だろうか。渉はめまいに似た感覚に息を吸った。そして、吐く。それでも状況を判然とするには足りない。もう一度、いや二度、それが必要だった。
渉がそうしている間、萌絵は言葉を発しなかった。渉は目と、そして口を開く。「とにかく……だったら、西之園さんにあらかじめ聞いておくことが……」
「あ!だめ……先生!ごめんなさい桐生さん、もう行かなきゃ!」萌絵が突然、焦ったように告げた。
「えっ?西之園さん?」渉は面食らって問い返す。
「また連絡します!」次の瞬間、鈍い音が響いた。明らかに、先方の通話が切れる音。
渉は呆然とそのまま立っていた。放心、という形容は今の俺のためにある。そう漫然と考えられてしまうほど、惚けた無限の時間。
「長距離電話が終了しました。今の会話時間は、六分十九秒です。」落ち着き払った女声が響くが、渉の耳にはまったく届かない。
呆れる程に長い時間が経って、渉は動き出した。首を振って、手にしたままの受話器を戻す。そして、部屋を眺めた。これ以上はない程に豪華絢爛な、ロイヤルスイート・ルーム。
渉は目を閉じた。そして開く。だがそれは消えなかった。そう、消えるはずもない。
今や本当に彼のものになった船室で、渉は長いため息をついた。思考は未だ混乱し、やり場のない……そう、行き場を失った感情が、激しく五体を駆け巡っている。
嘆息。そしてまた、嘆息。重ね続ける、リフレイン。
意を決して渉が向かったのは、バー・コーナーだった。どうやら、それしかなさそうだ。