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ダレモイナイ コウシンスルナラ イマノウチ(ペ∀゚)ヘ
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[221]まえがき: 武蔵小金井 2003年01月20日 (月) 21時52分 Mail


 
 えーっと、何から記せばいいのか。
 お待たせしました、というのはそれを待っている人がいるから意味を持つ言葉であって、この場合はおそらくそうではありません。
 ですから、今から始めることについては……つまるところ、やらせていただきます、というお断りの言葉がふさわしいのかもしれません。

 今から私は文を書きます。
 たぶんきっと、長い物語です。
 そして、連載です。
 今現在、終わりはまだ見えていません。
 ですが、きっと終わらせます。

 これが今言える全てでしょうか。
 具体的な話になると、もう三つほどおしらせしておかなければなりません。

 まず、これはいつも(というかここに投稿した)の私の作品と同系列の創作文であり、
 『二次創作』に類するものであるということ。
 そして、KIDさん制作のプレイステーション用ゲームソフト、
 『すべてがFになる』をそのベースとしていること。
 さらには、その本編中で分岐するストーリーの一遍たる、
 『ミチル編』に対する限りないオマージュより生まれたものであるということです。

 読まれる方につきましては、以上を前提の上でお願いしたいと思う次第です。

 非常に堅苦しくなってしまいました。
 本来ならあとがきで記すべき事柄が多くて困りますが、ここであと一つだけ。

 今回、生まれて初めてミステリィを書くつもりです。

 それでは。
 
 


[222]長編連載『M:西海航路 序章』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月20日 (月) 22時08分 Mail

 
 
   序章


 その部屋は純白だった。
 周囲の景色は抜けるように白い。だがそれは、決して広がりを有する光景ではなかった。目を凝らせば、そこにあるのはコンクリートの壁面だとわかる。たった一つの扉を除いて、すべてがそれによって仕切られていた。
 季節も、時間すら忘れたような、閉鎖された空間。
 その向こうに何があるのか。
 今自分が踏みしめてきた大地。通り抜けて来た世界がある。
 いや、あるはずだった。
 部屋には一人の女性がいた。
 黒く艶やかな長い髪を持った彼女は、まだ少女と呼んで差し支えない年頃に見える。鍔広の帽子を深くかぶっており、その表情は量れない。だが時折、幼さを覗かせる口元がかすかに震えた。
 不安そうに、辺りを気にする仕草。
 この白い室内に少女が入ってから、長い時間がたっていた。
 そう、一体どれほどの時間がたったのだろう。今ではその時間が、もう何日、何年にも思える。少女は不意に、今すぐ鏡で自分の顔を確かめたくなった。自分は今、どんな顔をしているのだろう。もしかすれば本で読んだ童話のように、自分で気付かぬ内に老婆に変貌してしまっているのではないか。
 少女は不安げに辺りを見回したが、飾り気一つない無色の部屋に目的のものはない。いたたまれなくなり、少女はその場から立ち上がりかけた。
 だが、どこに行こうというのか。どこにも行けなかった。行ってはいけないのだ。
 扉は堅く閉ざされている。
 そう、閉ざされた世界。閉塞した空間。扉を開いたその先には、未知があった。
 いや、あるはずだった。少女はそう信じている。
 それを知りたい。
 それが彼女の望みだった。
 渇望。原始的といってもいい、精神の飢え。
 それを満たすために、自分は今、ここにいなければならない。
 少女は待った。信じ難いほどの忍耐を以って。
 かすかな音が鳴った。
 それが現れる。
 待ち望んだ存在。少女は思わず立ち上がった。注ぎ込んで来た自制の思いとあべこべに。
 部屋の空気が動いた。
 黒髪が散る。見開かれていく薄茶色の瞳。
 その美しさに、少女は息を呑んだ。
 詞は一言も出なかった。頭頂から爪先まで、すべてを圧倒するような何かが走り抜けていく。
「こんにちは。お名前は何というの?」
 彼女は、
 そう、
 尋ねた。
 
 
 


[223]長編連載『M:西海航路 第一章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月20日 (月) 23時01分 Mail

 
 
   M:西海航路


   第一章 Misery

   「165に3367をかけるといくつかしら?」


 秋も暮れようとする十一月の始め。
 那古野市にあるN大学工学部建築学科に在籍する桐生渉にとって、この秋は試練の連続であった。
 まず、卒論の提出である。渉にとって今年の卒業は言わば最後のチャンスだった。既に同輩に相当の遅れを取っている彼は、今やゼミの中ですらかなり浮いた存在になっている。元より学部内でも変わり種扱いされている彼の研究室だったが、それでも一応は学内に対する立場と面目というものがあり、今年春に彼に与えられた恩赦が二度も続くものではないということは渉も理解していた。担当である助教授にも顔を合わせるたびに叱咤(もちろん実際に怒鳴られているわけではないが)されているのだが、どうしてか渉の作業は遅々として進まず、十一月になってなお卒論の草稿すらままならないという惨憺たる有様だった。
 そして次が、引っ越しである。渉の住居であった大学の男子寮が火事になり、必然的に引っ越さなくてはならなかったということがそのきっかけなのだが、それについては少しばかり奇異な顛末があった。
 寮の火事自体はボヤ程度で済んだのだが、誰が言い出したのか、これはいい機会だと老朽化していた学生寮を建て直す計画が持ち上がり、彼を含めた男子学生すべてが寮の部屋から追い出されたのだ。この忙しい時期に……と渉を含め寮に愛着を持つ生徒達は反論したが、まことしやかに囁かれた新築される寮のハイテクシステムに、若い学生たちはこぞって反対派を裏切り建て直しに賛同した。勿論代用の寮としての建物は大学から紹介されたが、そこはもよりの駅から遠く不便であり、卒論で日々大学との往復に忙しい渉にとってはとても住んでいられない場所であった。結果、渉はこんな時期にも関わらず新居を探して大学近郊の不動産屋を巡らなければならなくなる。運良く、というか数日後にその問題は解決するのだが、それは続く第三の試練を呼び込む結果となった。
 三つ目のそれは、二つ目と同様に渉の新居に関する問題である。部屋を追い出されることが決まって数日、渉は決まらない新居にほとほと参りながら大学の研究室に戻って来ていた。卒論の草稿がまとまりかけてきたので意見を聞こうと、渉はゼミの助教授である犀川創平の元を訪れたのだ。ところがその日に限って犀川は妙に機嫌が悪く、渉が必死でまとめた草稿をほとんど飛ばし読みで乱読すると突き返した。もちろん犀川なりのコメントはあったのだが、部屋のこともあり気が急いていた渉はそんな指導教官の態度に立腹し、礼も言わずに部屋を出た。キャンパスを出た所で渉は自分の態度を後悔し、今から戻って謝るべきかと迷うのだが、そこに偶然西之園萌絵が通りかかったのである。
「あら、桐生さん!お久しぶりです!」燦々とした笑顔で彼女は手を振った。ジーンズにシャツ・ブラウスというタイトでカジュアルなファッションは相変わらずだったが、言われて渉は西之園萌絵とは久しく会っていなかったことに気が付いた。おそらく半年はたっているだろうか。最後に会ったのは……渉の記憶が正しければ、今年始めに行われたミステリィ研の新歓コンパである。
「やあ、西之園さん。どう、大学にも慣れた?二年になって講義も難しくなったんじゃない?」挨拶の言葉を適当に探してそう言ってから、渉はまた後悔した。案の定、目の前の萌絵は目を瞬かせ、そしてすぐさまにこやかな表情となる。
「いえ、そんなことありませんよ。講義は面白いです……犀川先生のは、特に。」赤いスポーツカーの運転席についたまま、萌絵は窓越しにそう答える。渉は自分が低能だと萌絵に認めさせる結果を呼び込んだことに呆れた。だが、それはもう既に彼女に対して諦めた事柄の一つでもある。「桐生さんこそ、今年は卒業するんでしょう?」
 今年に入ってから何度こういう痛みを受けたかわからないが、とにかく渉は怯みそうになる自己を懸命に奮い立たせた。目の前の彼女は決して悪気があってそう言っているのではなく、純粋に、ただ素直な好奇心からそう聞いているのだ。
「ああ……勿論、俺もそのつもりだよ。一応は、ね。」渉は控えめな言葉を選んだ。「でも、卒論はなかなか進まないんだ。今も、犀川先生に駄目出しされちゃってさ。」
「先生に?」萌絵は目を輝かせて聞き返した。「先生、どうでしたか?やっぱり不機嫌でしたか?」渉が頷こうとする前に続けてくる。「少しいらついて……そうですね、煙草をたくさん吹かしていた。もしかしたら、コーラを飲んでいたかも……そうじゃありません?」
「不機嫌だったけど……どうして知ってるの?」確かに犀川は缶のコーラを飲んでいた気がする。
「それは秘密です。」萌絵はきっぱりと言い切った。「それより桐生さん、よかったら乗りませんか?寮に戻るなら、私が送りますけど?」
 N大の元総長を父に持ち、二度の夏を経てキャンパスの伝説になりつつある西之園萌絵にエスコートしてもらう、か。渉は何となくそう思った。以前……去年、彼女と知り合ってからしばらくは考えもしなかった問題だった。だが今現在に至り、渉はようやく西之園萌絵の存在の特異さを理解していた。それでも他の学生達のように一歩身を引くようなことはしない。だが、今この場だけはそう思った自分に苦笑した。犀川の言い様ではないが、どうやら自分もかなり俗物になってきたらしい。
「ありがとう。でも寮にはもう用がないから、できれば駅前がいいんだけど。」萌絵が頷いて、渉は赤いスポーツカーの助手席に腰掛けた。途端にエンジンが爆音を響かせ車が急発進する。渉はつんのめりそうになり、片手でグレーのダッシュボードを押さえた。
「シートベルトはして下さいね!」楽しそうに萌絵が言う。そうしようと試みながら、渉は凄まじい勢いで流れていく左右の光景にわずかばかりおののいていた。「桐生さん、本当に駅まででいいんですか?よろしければ、どこにでもお送りしますけど?」
「いや……そうだね。駅というか、不動産屋があればどこでもいいんだけど。」彼女なら本当に、世界のどこを指定しても連れていきそうだ。渉は冗談でなく真剣にそう思った。
「不動産?桐生さん、寮を出るんですか?」間髪入れずに萌絵が聞き返す。「まさか、留年して同室の人に気まずくなったからですか?」
「そんなことはないよ。」渉は落ちついて答えた。そう、そんなことはない。「大学で留年は珍しいことじゃない。」自分に何度も言い聞かせた言葉だった。今年の春から、ずっと。「むしろ、教授達の講義を繰り返し受けられて、ためになるよ。理解も深まるしね。」問題は、いつになってもそれが負け惜しみにしか聞こえないことだった。
「それは名案ですね!私も、卒業が近くなったらそうしようかしら?」萌絵の嬉しそうな声が、渉のかすかな自尊心にとどめを刺した。「そうすれば、先生とずっと一緒にいられるもの……うん、名案!」渉は心中でため息をついた。萌絵の嬉々とした横顔には、一片の曇りもない。「あ、でも大学院に進む方が楽かしら?博士課程に進めば、さらに六年も一緒にいられますよ、桐生さん!」
 彼女が一緒にいたいのは俺じゃなくて犀川先生だ、と渉は胸に言い含めた。元よりそういう気持ちがある訳ではなかったが、萌絵の様子は果てしなく無邪気で明るい。「西之園さんなら、その方がいいだろうね。大学院の試験も楽勝だろうし……」自分を卑下するような気分になって、渉は発言を後悔した。今日はまったく、後悔ばかりだ。
「あら、桐生さんだって成績は良いのでしょう?」あっけらかんとして萌絵は言った。「先生、よく桐生さんのことを誉めているもの。」それは初耳だった。だが、西之園萌絵の言うことである。「桐生君の卒論は二年がかりの超大作だから、読むのも一苦労だよ、って。」まったくその通りだ。渉は先見の明を有していた自分自身に拍手を贈った。情けなさで心が一杯になる。
「ありがとう……」窓の外を流れる風に囁くように渉は言った。車内の暖かさが身にしみる。
「なら、どうして引っ越しなさるんですか?」
 突如として萌絵が話題を戻す。渉は小さく頷いた。「ああ……それはね。西之園さん、N大の男子寮で火事があった話は聞いてない?」
「初耳です。そんなことがあったんですか?」萌絵はハンドルを大きく切りながら渉を見た。頼むから前を見てくれ、というポーズを彼がすると、視線が戻って魅力的な口元が少しだけ持ち上がる。「どれくらい燃えたんですか?もしかすると放火とか……事件ですか?」
「まさか。ただの火の不始末だよ。講義に遅刻しそうになった一年が、ストーブつけっぱなしで部屋から出ていって、それがカーテンに引火したんだ。ボヤで終わったよ。」
「そうですか……」萌絵は残念そうだった。不謹慎な、と渉は少し思ったが、そういった方面の彼女の性格を理解していたので言葉にはしない。「……でも、もしかすると不始末に見せかけた放火という可能性もあるんじゃないですか?その一年生の人は、つけたままだったと認めたんですか?」
「どうだったかな。」少し考えて、渉はそれを思い出した。「あぁ、確かに認めていなかった。ちゃんと消したとか発言して、寮生の掲示板で皆に叩かれてたよ。そいつ、前から物忘れとかポカが多い奴らしくてさ。みんな笑ってた。」
「でも本人は、ストーブを消していったと証言したのでしょう?」萌絵は食い下がった。「だったら、他の人の言葉はそれほど参考にならないわ。当事者の証言の方が重要です。憶測に基づく噂なら、余計にあてにならないもの。」
 渉は笑った。「でも西之園さん、事件だとしてもどういう目的があるの?そいつに恨みがあって、部屋を燃やそうとした?でも現場は、学校のボロ施設だよ?」
「その人は利用されただけかもしれない。」萌絵は真剣な顔で道路の先を見つめていた。「火をつけた犯人は、もっと別の狙いがあったんです。例えば……」
「寮で寝ていた別の学生の命を狙っていた、とか?」渉は仕方なく萌絵の話につきあうことにした。この女性はこの手の話に一度興味を持つと、半端な結論付けでは納得しない。「でも残念。火が出たのは最上階の四階だし、しかも真っ先に燃えたのが窓際のカーテンだったから、すぐに外を通りかかった学生に見つかって消し止められたんだ。もし誰かの仕業だとしたら、ドジな犯人だね。」 
「それも計算の内かもしれないわ。」萌絵は即座に反論した。「ボヤになること自体が狙いだったんです。寮全体を燃やすつもりはなかった。当然、人を殺めるつもりもなかったんだわ。ただ、学生寮で火事が起こった、その事実が欲しかったんじゃないかしら。」
「それにどんな意味があるんだい?」渉は窓の外の景色がさらに早くなっていくのを見つめて尋ねた。「まさか、建て直しを狙って騒ぎを起こした、とか?」不思議と信号で止められないな、とふと思う。
「そう、そうです!きっとそうだわ!」萌絵は興奮気味に言った。「桐生さん、冴えてますね!」渉は半ば呆れた。冗談だとしても……と思い、相手が西之園萌絵だと気が付く。
「じゃあ犯人は、今の寮のオンボロぶりに嫌気がさした寮生の一人、と……」確かにそれも可能性がない訳じゃないな、と渉は半ば同意するように思った。事実、建て直しが決まった後で反対派に属していた一年の一部はそちらに賛同したではないか。フォーラムの論議もかなり白熱し、普段はにぎやかで和気藹々とした寮内の雰囲気も刺々しくなりかけた程だ。もし、あの中に犯人がいるとすれば……
「まさか、桐生さんじゃないですよね?」突然の萌絵の言葉に、渉は思わず吹き出した。「あ、ごめんなさい。でも以前に桐生さん、寮の部屋は防音もなってないし隙間風は吹くし……って言っていたじゃないですか。だから、って思って。」
 いつそんなことを言っただろう。渉の記憶にはなかった。「そんなこと言ったかな……」萌絵がチラと彼を見る。渉は観念して頷いた。「ごめん、忘れてるよ。でも確かに、寮はそんなにいい建物じゃない。部屋も狭いし、老朽化は激しいし、窓も小さいし。建て直しはいい機会だったかもしれないな。新しいデザインは、正直あまり好きになれなかったけど。」どんなデザインかを萌絵が聞いて来たので、渉は噂を含めて知っている限りの情報を伝えた。双方とも犀川の……というより建築学科に属する大学生である。建物についての会話はしばらく続き、そしてそれが終わった頃に車は止まった。
「あれ?」ツーシーターのドアを開けて降りようとして渉は戸惑った。大学からさほど遠くない、ファミレスの駐車場である。萌絵や犀川とも幾度か訪れたことのある、馴染みの全国チェーン店だった。
「お腹がすいちゃって……桐生さん、つきあってくれますよね?」すらりとした足をシートから滑り落として萌絵が笑った。ここまで来て、彼女の誘いを断れる者がいるだろうか、と渉は思う。おそらく犀川助教授でも不可能だろう。なんとなく渉はそう確信し、肩をすくめて萌絵に同意する。萌絵は嬉々としてレストランに向かった。
 
 


[224]長編連載『M:西海航路 第一章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月21日 (火) 00時18分 Mail

 
 
「でも私、建て直しが目的じゃないかもしれないって思うんです。」食前のコーヒーが運ばれて来ないうちに、萌絵はいきなり切り出した。何のことかと渉は思い、それにたどりつくまで数秒。「だって、建て直すには最低でも半年以上かかるでしょう?建て直しが目的だとすれば、犯人は寮に住んでいる学生ということになりますよね。だったらその間、桐生さんのように新しい住居を探さないといけないじゃないですか。それは面倒ですし、お金もかかる。引っ越し自体も大変だわ。それだけのリスクを負ってまで建て直しをしたいとは、正直思えないし。」その数秒に、萌絵はこれだけのことを語った。
「一年生かもしれないよ。入学して寮に入って、あまりのボロさに呆れて、この犯行に及んだのかもしれない。火が出たのも同じ一年の部屋だし。そいつと犯人は実は顔見知りで、相手の素行を知っていたから楽に火がつけられたんだ。半年ぐらいは、再建後のことを考えれば何とか我慢できるだろうしね。」
「でも火事は少しだけで終わったんでしょう?」萌絵はエプロン姿のウェイトレスから受け取ったコーヒーを口に運びながら言った。彼女はブラック党で、渉もそうである。「その騒ぎで建て直しが決まるかどうか、入学したばかりの一年生に予測がつくかしら。部屋に不満があって建て直しさせることが目的なら、もっと派手に……そう、いっそのこと寮を全焼させるくらいの火事を起こすんじゃないでしょうか。」
「それじゃ怪我人が出るよ。いや、死人だって出るかもしれない。そうしたら大変だよ。調べて放火だってわかったら、警察が動くし。放火は重罪だからね。」
「犯人の部屋も燃えてなくなってしまいますね。それを防ぐにはあらかじめ荷物を持ち出しておかなければならないし、だとすればすぐに容疑者として浮かび上がってしまうわ。」萌絵の目はあくまで真剣だった。「だから私、建て直しが犯人の目的とは思えないんです。」
「わかったよ。じゃあ何だろうね。嫌がらせ、かな?それとも気まぐれかな?」少し疲れてきた渉は、適当なことを口にする。「放火なんて、だいたいそんな所だろうしね。人が火事だー!って叫んで慌てるのを見るのが何より好きでストレス発散になる、そういう連中の仕業なんだよ。」
 萌絵はコーヒーカップを置くと、首を振った。「それは状況と矛盾しています。快楽犯行で火をつけるのに、どうして四階の、しかも他人の部屋を選ぶんですか。上の階であるほど誰かに出入りを見られてしまう確率は増えるし、私は寮の見取り図は知りませんけど、もっと簡単で誰にも気付かれない着火場所がいくらでもあるでしょう?」
「だとすれば、俺にはもうお手あげだよ。」渉は本当に両手をあげた。正直、色々あった挙げ句のこの問答に疲れているのも事実だった。
「もう、桐生さん!」案の定、萌絵は非難たっぷりの視線を渉に向けた。「ミステリィ研の最上級生がそんな嘆かわしい発言をしないで下さい!何のこともなさそうな小さな事件が、実は大きな策謀の一片、氷山の一角だった……よくある話じゃないですか!」
「ごめんごめん。」よくある話、というのは物語、としての意味のそれだろうと渉は思った。思いはしたが、ここでそれを口に出すほど彼はむきになる性格ではない。相手が西之園萌絵である場合は尚更である。「そうだね。確かに疑いの余地があることは認めるよ。色々あって、疲れてるんだ。こういう話、好きなんだけどね。」萌絵がほほえむ。
 ちょうどそこへ料理が運ばれて来た。二人が注文したのは軽食をいくらかで、どちらがどうという指定はさほどない。フレンチトーストやボウルサラダの類だった。
 しばらくの間、二人は食事に熱中した。萌絵は本当にお腹がすいていたようで、渉の記憶にある彼女の食べっぷりのイメージを更新するほど食欲が旺盛だった。一方の渉はというと、目の前の料理と同じく山積みされた問題の数々に食欲などある訳もなく、コンソメスープを少しと、フレンチドレッシングのかかったレタスをかじる程度だった。
「おいしかったですね。ここの料理長、腕が上がったみたい。それとも人が変わったのかしら?」ナプキンで口元を拭きながら、萌絵は満足そうに言った。彼女のその仕草を待っていたかのようにウェイトレスが現れ、空になった皿を運んでいく。渉は自分の前にある、まだ料理が残っている皿も下げてくれるように頼んだ。
「桐生さん、どうしたんですか?食欲、あまりありませんね?」コーヒーのお代わりの誘いを、萌絵はにこやかにほほえんで了承する。
「西之園さんは、今日はとても機嫌がいいみたいだね。」
「ええ!今日は素敵なことがあったんです。」本当に嬉しそうに萌絵は言った。「あ、ですけど、その内容は秘密ですよ。桐生さんでも、教えられませんから。」
「いいよ。どうせ俺には関係のないことだろうし。」運ばれてきた新しいコーヒーを含み、渉は心中で息を吐いた。西之園萌絵が『秘密』にする『素敵なこと』など、想像もつかない。興味がない訳ではなかったが、知った所で一介の学生である自分に関係がないことだけは間違いないだろう。
「そうですね。」あっけらかんとして萌絵は同意した。ゼミの仲間は天然、というが、渉にとっては彼女の自己と人ごとの切り替えの早さは時としてうらやましい限りである。それは超然、という表現では追いつけない何かに思えて、渉は人をわける目に見えないラインのようなものがどこかにあるのだろうと、心中でもう一つため息をついた。
 その後は単なる雑談で終始した。コーヒーをさらに一杯飲み終えると、萌絵は一度手洗いに立ち、しばらくして戻ってくるとにこやかに言った。「お待たせしました。それじゃ桐生さん、そろそろ行きましょうか。」
 会計を済ませると、渉は駐車場の車の近くに来た所で萌絵を呼び止めた。「西之園さん、それじゃ。」予想通りというか、萌絵が意外そうな顔になる。「ここからなら駅も近いし。俺、歩いていくよ。不動産屋を回らなきゃならないしね。送ってくれてありがとう。」西之園萌絵の誘いを断ることのできる奴、という院生の先輩連からの奇異の目差しを想像して、渉は軽く首を振った。
 だが、これ以上お嬢様の暇潰しにつきあっている暇がないのも事実……いや、現実である。卒論と、新たな部屋。頭を痛くする二つの問題を胸に刻んで、渉は萌絵に構わずその場から歩き出そうとした。
「待って下さい、桐生さん。」呼び止められては、振り向かない訳にはいかない。
「ん、どうしたの?」渉はなるべく自然なふりを装う。「何か、忘れていたかな?」
「桐生さん、その……もう少しだけ、つきあって下さい。」萌絵の表情は、いきなりの別れに不満、というよりむしろ困惑しているそれだった。それが、渉にとっては意外でもある。
「どうしたの?西之園さん。何か、俺に用事がある、とか?」そんなはずはない。あまりにも久しぶりに彼女と会ったのだ。
「とにかく、車に乗って下さい!」萌絵はきつめの口調でそう言い、シートについた。一秒も立たないうちに、エンジンがかかる。4000ccの回転音。
 渉は今日これからの時間をすべて諦めた。無言で数回頷き、座席につく。元々、西之園萌絵に出会ったのが不運だったのだ。いや、それ以前に何やら不機嫌な様子の犀川……いや、彼の態度に自分が腹を立てたからだろうか。いや、それを言うならそもそもは自分の卒論が遅れに遅れているためだし、その理由の一つは今回の寮の建て直し……つまる所、ボヤ騒ぎが原因だった。
 いや、それもまた違う、か。走り始めた車の中で渉は苦笑した。過去に現状の要因を求めるのなら、寮の建て直しに巻き込まれたのは大学の卒業が遅れたからだ。卒論の不備や就職活動の難航を含めた昨年末よりの留年騒ぎがすべての原因だろう。そしてそうなれば究極的には、渉が肉体的及び精神的にそうなった最大の理由に行きつく。
 去年の夏のゼミ旅行。今年の旅行には彼は参加しなかった。皆はどこへ行ったんだっけな……と漠然と思いながら、渉は忘れたり薄れたりするというカテゴリーには決して、いやおそらく永遠に含まれないであろう、あの夏の体験を思い出していた。
「桐生さん、やっぱり桐生さんが原因じゃないんですか?」萌絵の突然の台詞は、深い記憶の底に沈みかけていた渉を心底驚愕させた。この女性には読心術、いやテレパシーのようなものがあるのかと疑う、そんな瞬間。「今回のボヤ騒ぎは……桐生さん、どうかしましたか?」
「い、いや。どうもしないよ。」渉は止まっていた呼吸を再開し、それを繰り返して首を振った。「それより西之園さん、俺がどうしたの?ボヤ騒ぎと、俺が、関係してる?」言葉を並べる。萌絵に対してというより、むしろ自分に対してごまかしている、そんな気分だった。
「そうです。あくまで仮説ですけど……例えば、卒論で忙しい桐生さんをさらに困らせて、卒業できないようにさせたい第三者の仕業、とか。」渉は呆れた。張っていた肩の力が一気に落ちる。「ほら桐生さん、一度留年してるじゃないですか。二年続けては留年できないんでしょう?」
「できないというか、するつもりはないけどさ。」そう、そんなことがあってはならない。「第一、その計画が本当だとしても、それだけで俺が留年するとは限らないよ。俺に怪我をさせたりするならともかく、他に住む場所がない訳じゃない。別の寮だってあるし、推理に無理がありすぎるんじゃないかな。」語尾が強まる。
「いえ、ところが犯人の計画はこれで終わりじゃないんです。これから桐生さんが手頃な部屋を探そうとしても、それはすべて徒労に終わるんですよ。」まるで必ずそうであるかのように萌絵は言った。「犯人は裏から手を回していて、桐生さんが勝手のいい不動産を得られないように、ブラックリストに桐生さんの名前を載せているんです。結果、桐生さんはどこか辺鄙な場所に住まざるを得なくなって……卒論の提出にも失敗してしまうんです。この辺りは少し飛躍しすぎていますから、確実なものにするためには、あと一度くらいは何かを起こさないといけないでしょうけど。」
「西之園さん、それで一体誰が得をする訳?」さすがの渉も気分が悪くなっていた。人ごとだと思って……という感覚だ。「俺に大学を辞めさせることが犯人の目的?」馬鹿馬鹿しい、とは言わなかったが、そう言っているも同じ口ぶりになっている。「それほど俺を怨んでいる奴がいるってことかな。そいつに何をしたんだろう、俺。」
「たぶん……」萌絵はそこで口篭った。渉にとっては気になるというより、果てしなく広がる憶測の翼がそこで止まったように思える。
「もういいよ、西之園さん。だったら尚更、犯人の目的とやらをくじくつもりになったからさ。留年はしないよ。絶対、卒業する。」
「そうですか?そうですよね、さすがは桐生さん!」萌絵は何やら嬉しそうに言った。
 渉は用意していた続きの台詞を口にした。「それじゃ、今から不動産屋に行ってくるよ。謎の犯人にブラックリストに載せられないうちに、急がないとね。」皮肉っぽく笑う。「西之園さん、そこらで適当に降ろしてくれないかな?」
「それは駄目です。」萌絵は即答した。「もうすぐですから、少し待って下さい。」気のせいか、かなり速度が出ている。この辺りの制限速度はいくらだったかなと、渉は思った。
「どこに向かってるの?」萌絵は答えなかった。渉は肩をすくめて窓の外を見た。流れる景色の先に夕暮れの空がある。秋も終わろうとする空の変わり身は、いつも早い。
 それから十分ほどたって、赤いスポーツカーは大きなマンションの前で止まった。見上げるほどの高層マンションで、周辺は緑の多い住宅街。キャンパスからそれほど遠くないはずだったが、渉は来たことのない場所である。
「桐生さん、降りて下さい。私、車を入れてきますから。」萌絵はそう言い、渉はとりあえずその言葉に従って降車した。途端に萌絵がアクセルを踏み込んでタイヤを鳴らし、少し先に見える地下へのスロープに突入していく。見えなくなった後でさらに数度、タイヤの擦れる派手な音が聞こえた。
 渉はため息をついて空を見上げた。もう日が落ちている。目の前のマンションはライトに照らされて明るかった。二十階以上はありそうな、一級品のマンションだ。周囲を見回すが、コンビニのような建築物も見当たらない。バスの停留所も手近に見えず、戻るにはタクシーを呼ぶしかなさそうだった。
「お待たせしました、桐生さん。」戻って来た萌絵は、晴れやかに渉に笑いかけた。「さあ、行きましょう。」身を翻して、さっさと歩き出す。マンションの玄関へ。
 面食らった渉は、その後に続きながら問いかけた。「西之園さん、もしかしてここは……」萌絵がどこからか取り出したカードを使って、さらに奥へのガラス扉が開く。その行為で、渉は自分の推測が正しいことを悟った。
「ここ、私の部屋もあるんです。どうぞ、こっちですよ桐生さん。」エレベータの前に立って、萌絵が手招きする。渉は仕方なくそちらに向かった。情けない気持ちが次第に増していく。
「あのさ、西之園さん……そろそろ、何をしようとしているのか説明してくれないかな。」
 エレベータが音もなく到着し、二人は乗り込んだ。無音で扉が閉まり、不快感のない軽い揺れと共に立方体が動き出す。その内装の小綺麗さに、渉はここが真の意味での高級マンションであると理解した。
「当ててみて下さい。」萌絵が言う。
「ここは西之園さんのマンションだ。」萌絵は目を少し見開いて、そして満足したように頷いた。
「そうです。よくわかりましたね?」
「すると、俺を招待してくれたことになるのかな?」おどけてみせる余裕が自分にあるとは、正直思っていなかった渉である。「いいの、西之園さん?犀川先生に知られたら。」
「あら、どうしてそうなるんですか?」可愛らしく首を傾げて萌絵は笑った。「それに、犀川先生はもう何度か御招待したことがあります。それに私、一人暮らしじゃないんですよ。残念ですけど。」小さな音が鳴って、扉が開いた。十階。このマンションの中腹だろう。萌絵が降り、渉もそれに続く。「えっと……あ、こっちですよ、桐生さん。」
 歩いた先にある扉の一つで萌絵は足を止めた。1008号室。十階の八番目の部屋だからだ、と渉は漠然と自分の心に言い聞かせた。その前で萌絵がノブに手をかけ、それが開いているのを確かめる。その仕草を見る限り、確かに彼女は一人暮らしではないようだ。「西之園さん、あのさ……」
 渉の呼びかけを無視して、萌絵は中を覗き込むとそのまま入っていった。靴を脱いで、部屋に入っていく。続こうとして、渉は面食らった。
 家財道具その他が一つもない、白い部屋だった。塗料の匂いこそしないものの、壁紙も真新しい。このマンションが新築とも思えないので、おそらく最近になってリフォームしたのだろう。
「家具も何もないんですね。うーん、いきなり使うのは無理があるかな……」萌絵はまさに人ごとのように言った。「どうですか、桐生さん。十階ですけれど、眺めはそこそこいいと思います。あっ、大学も見えますよ!ほら、あっちあっち!」やってきた渉に、萌絵ははしゃいで彼方を指差した。確かに緑の丘に囲まれた、広大なN大学の敷地が見える。意外というか、ここはキャンパスに近い。
「西之園さん。この部屋は西之園さんの部屋じゃないの?」渉の問いに、萌絵は不機嫌そうな顔になった。
「もう、桐生さん……わざととぼけてるんですか?そういう言い方、桐生さんらしくないです。」俺らしい、とはどういう反応を指すのだろう。渉は考えたが、どうしてか思いつかない。他人のことならいざしらず、自分のことを客観的に考えるのは簡単ではなかった。
「そう言われてもな……」例えば……そう、西之園萌絵らしい、というカテゴリーならば、渉にもある程度推察できる。お嬢様で、好奇心旺盛で、ミステリィ好きで、天然という表現はともかく、世間ずれしていないがゆえの突飛で奇抜な行動。常人に量りがたいそれが、時として法外な……!
 渉は心に冷や汗を感じた。まさか、という思いが背筋から脳へと抜けてくる。だが、いや、そんな馬鹿な。「西之園さん、あのさ……」
 西之園萌絵はにっこりと笑った。無邪気、というより無頓着に属しそうな笑いだった。小悪魔的、という表現はこういう表情のことを指すのだろうか。とどのつまり、男に……いや、他人に有無を言わせない、真に彼女らしい笑い。
「遠慮しないで下さい。この部屋、余ってしまっているんです。詳しくは私も知らないんですけど、空き部屋の維持費って、相応にかかるんですよ。だから私的には、全然オッケーなんです。」
「駄目だ。」渉は強い口調で断言した。「西之園さんにしてみれば、マンションの一つぐらいポケットマネーで買えるのかも知れないけど……」それでは漫画のようだ、と渉は思い、それが現実になりかけている今の状況に深呼吸をした。そう、現実かもしれないが、事実にしてはいけない。「俺には、君からそれを受け取る理由がないからね。逆に、西之園さんに一生返せない借りを作るつもりもない。ひどい言い方かもしれないけど、それだけは譲れないよ。」
「わかりました。なら、桐生さんが卒業するまでにしましょう。来年卒業なさるのなら、その間だけはここを使って下さい。三ヶ月足らずなら、構わないでしょう?」譲歩したつもりなのかもしれないが、渉にとってはまったく意味がなかった。「それに私、いくらなんでもポケットマネーでマンションを買ったりしません。私にだって、ちゃんとした分別ぐらいあります。いくら桐生さんが困っているからって、そんなプレゼントをできる訳がないじゃないですか。」
「でも……西之園さんは今、この部屋を使ってくれって。」
「だから、この部屋は空き部屋なんです。買い手の見つかっていない部屋がこうして余っているんですから、桐生さんがそれを使っても私には特に関係ありません。このタイプのマンションだと、年間の維持費は利用の可否にはそれほど関係ないんです。あ、もちろん光熱費や水道代は別で、桐生さんが払うんですよ?勿論、お食事とかもそうです。私は、あくまでも空いている部屋を自由にどうぞと言っているだけですから。同じサークルのお友達ですし、それぐらいはいいんじゃないですか?桐生さんだって、男友達の部屋にしばらく泊まったりすることはあるでしょう?私の屋敷の部屋の一つに、短期間だけ宿泊するだけだ、そう思っては下さいません?」萌絵の口調はビジネスライクというより、お嬢様のそれだった。
「ち、ちょっと待って。だからつまり、この部屋は……」
「空き部屋です。」萌絵はきっぱりと宣言した。「私もつい最近まで知らなかったんです。このマンションの部屋はすべて売買契約が済んでいると思っていましたから。」
「それじゃ、このマンションは……」
「はい。私のマンションですけど。さっき、そう言いましたよね?」
 にこやかな笑み。渉は呼吸を止めた。
 これがこの秋に渉を襲った、三つ目の試練だった。
 程なくして、彼にとって四つ目の……
 最大級のそれが訪れることになる。
 
 
 


[225]長編連載『M:西海航路 第二章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月21日 (火) 00時38分 Mail

 
 
   第二章 Matter

   「だって、そんなものないから」


 その日は珍しく暖かかった。
 桐生渉は冬が好きである。夏が嫌いだという訳ではないが、夏と冬のどちらかを選べと言われたら迷わず冬を選んだだろう。気温が上昇し汗をかき肌を刺す虫がはびこる夏よりは、霜が降り指がかじかみ生命ならぬ寒さに肌を刺される方が彼の好む所であった。もっともどちらの季節であろうと大学構内はそこかしこでエアコンがフル稼動し続けており、季節感のない格好をした教授達がそこで暮らしている事実に変わりはない。
 季節感がないと言えば、彼の師である犀川創平助教授の右に出る者はおそらく皆無であっだたろう。犀川が自身の生活とその環境というものに自らの知識に比して1%も構うつもりが無いのは渉を含めたゼミの学生のほとんどが理解していたことだったが、それでもやはり現実として犀川の前に立つと『もう少しどうにかならないものか』と呆れてしまう生徒は多い。犀川は閉鎖空間における人の精神の変化について本を出すほどのエキスパートであったが、名が体を表すという言葉が人の姓名に当てはまらない現代の如く、その論説に感心して訪れた相手を初対面の時点で落胆させることこの上なかった。だがもちろん当の犀川自身はそんなことを気にするほどの人格者……否、俗人ではない。そしてそれはまた渉もある意味で同じである。だが既に大学の助教授として安穏とした(そう見える)状態に身を置く犀川と、卒論という難題を目の前にし、さらにはその先の就職なりを思案する渉とは、現状にかなりの差異があった。
 まさにその日、卒論の草稿の再々提出を行った『焦る』渉に対し、『余裕のある』犀川はいつもの白シャツにジーンズの格好で辛辣な診断を下した。「これでは意味が無い。結論もそうだけど、これを元にして詳しく書こうとすればするほど迷走するよ。」昨晩半ば徹夜状態で書き上げた物をポン、と放られるのを渉は見つめた。「テーマが悪いんだ。桐生君、どうしてこんな曖昧な問題に取り組む気になったんだい?前のテーマの方がましだったよ。」
「すみません、先生。」渉はげんなりとして言った。薄々予想はしていたのだが、それがあまりにそのままだったために、反論する気持ちすら起こらない。「ですけど、前のテーマも題材が悪いって……」子供のように相手の揚げ足を取ろうとする気持ちだけは残っていたらしい。渉はそれを本当に口にしてしまった自分に呆れた。
「これに比べれば千倍はましだね。」犀川は抑揚のない声で言った。「減少剛性解析法の適用に関する付加変位分布測定と理想環境の考察なんて、言葉遊びみたいなタイトルをよく思いつくよ。」専門家でない限り舌を噛みそうになるであろうその語句をさらりと並べ、犀川は首を振った。「いいかい桐生君。僕たちはタイトルに従って研究をするんじゃない。確認すべき目標に向かい研究と実験を重ねた結果に、仕方なくタイトルをつけるんだ。どのみち、端からそんなものに意味なんてない。格好がいいからとか、図書室の目録で分類がしやすいとか、そういう理由だよ。」犀川は煙草に火をつけると、それを含む前に続けた。「タイトルなんて、読む人に対し文章の中身を曲解させることこの上ないじゃないか。もしタイトルでその本の意味する所を表せるというのなら、そんな文章なんて始めから書く必要はない。タイトルだけの一言で掲示すればいいんだ。そうすれば資源の浪費にもならない。」犀川はそこで煙草をくゆらせると、もう一度首を振った。「資源だけじゃない。今までいったい何人の研究者たちが、いいかげんにつけられたタイトルに惑わされて記事や論文を読み、無駄な時間を浪費しただろう。その方が何十、いや何百倍ももったいないことだ。」犀川はそこで口を閉じた。
 渉は黙っていた。少しの沈黙があって、犀川が新たな煙草に火をつける。「桐生君、どうして前のテーマじゃいけないんだい?」
「えっ?」渉は思わず聞き返した。「でも先生、前のは難しすぎるからやめた方がいいって……」
「難しすぎるとは言っていない。」犀川は煙草を吹かして言った。「面倒だとは言ったけどね。今の君の学力では、おそらく来年までに完成しない。僕が言っているのは去年のテーマのことだよ。あれはどうしてやめてしまったんだい?」
 去年の卒論テーマ。渉が留年をすることになった直接の原因はまさにそれだった。「あれは、去年さんざんな目に遭ったから……結局、まとめきれませんでしたし。」それこそ、今の自分の学力では完成しないものだ、と渉は心中で自嘲した。それ以外の感覚や思いは無理矢理に忘れる。
「いや、いい線までは行っていたと思うよ……僕はともかく、教授は気に入らなかったみたいだけど。」犀川は煙草を消して立ち上がった。散らかった部屋の奥にあるキャビネットを開けると、そこを探し始める。「えっと……どこだったかな。去年の……」しばらくして、彼は子供のような歓声をあげた。「あったあった!これだ。」
 犀川が取り出したのは何なのか、渉はすぐに理解した。「バーチャルリアリティが今後の都市計画に及ぼす影響への考察。」重々しくタイトルを読み上げると、犀川は彼のデスクに戻ってそれをめくった。しばらく黙して、それを読んでいく。
 犀川が去年渉の提出した卒論を検分している間、渉はじっと待っていた。彼にとっての最優先事項は卒論をまとめることであり、そのための指導教官は目の前の犀川助教授である。だからここにいなければならない。そんなつまらない思考が渉の心に浮かび、そして消えた。どこからか、間欠泉が噴出する如くに頭を満たそうとしてくる、ある事件の追憶に対して。
「いいと思うけど。」最後の数ページをパラパラと流し読みして犀川は言った。「もう少し結論のバリエーションを狭くして、一つ一つを細かく分析してみたらどうかな。真賀田四季博士の著書なら、この部屋にも何冊か残っているし。持っていくといい。」
 犀川の口をついてあっさりと出て来た名前に渉は総毛立った。座ったまま近くのブックスタンドを軽く指で押すようにして犀川が一冊の本を抜き取り、厚手の表紙の下に今の卒論のレポートを挟むようにしてこちらに差し出す。「これも読んでみるといい。タイトルはともかく、中身は難しすぎるだろうけど。序文と……そうだね、第七章の前半だったかな。その辺りは題材に関してかなり役に立つと思う。少なくとも、読むのに費やす時間に見合う価値は有しているよ。」犀川は眼鏡の奥の瞳をわずかに見開いた。「桐生君?」
 渉は何度か目を瞬かせて、そしてそれを受け取った。「あ、はい。ありがとうございます。」手が少しだけ震えている。エアコンが効いているので、寒さのせいではない。
「どうしたんだい?気分が悪くなった?」犀川はらしくない物言いをした。「うーん、とにかくまだ時間はあるんだ。焦ることはないよ。」渉は頷き、礼を言って研究室を出た。
 
 


[226]長編連載『M:西海航路 第二章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月21日 (火) 01時13分 Mail

 
 
 構内の広い廊下は、夕方の西日を受けて茜色に染まっていた。この時間にしては珍しく、通り過ぎる者はまばらだ。もっとも、歩いている渉自身は周囲の状況になどまったく無関心だった。いや、関心など持てるような心境ではなかった、と言った方が正しいだろう。
 手にした書物。無造作に自分のレポートが挟まったそれに目を落として、渉はぞっとした。
 真賀田四季。
 はっきりと書かれた五文字の漢字。それは著者の名前だった。この本は英文ではない。これを書いた人物の著書はその多くが英文であり、日本語のそれと同じく極めて難解だった。渉は英語が不得手という程でもなかったが、この著者の場合は文面の意味する所、それ自体が極めて難解なのである。渉もかつてはそれに悩まされていたものだ。だからといってこの人物による日本語の著書が難解ではないかというと、それはまったく違う。最低限の理系の知識を有していなければ、一行目から読むことのできない文章。読むことができたとしても、書かれていることを理解するには並外れた知識と読解力が必要だった。いや、中身を理解するためにではなく、何が書かれているかを自分の頭で考える段階に進むために、それが必要なのだ。もしこれを文系の大学生が目にすることがあれば、おそらくほとんどの者が理系に進まなかった自らを先見の明があったと安堵したに違いない。いや、あるいは逆に、真の叡智を以って記された文には修飾や韻律などの存在がなくとも芸術としての文学になり得る、と感服し自らの今の道を後悔したかもしれない。
 だが今、渉の心胆を寒からしめた理由は、決してこの本の至難な文面にではなかった。それを記した存在、この世に表すべき賛辞の形容は数あれど、ふさわしいそれを決して持つことのできない存在に対しての、いわば無限の畏れとでもいうべき感情だった。
 そう、彼女を語るに過剰な尊称はない。同等のそれすらも。あらゆるすべてが未満なのである。だから彼女を知る者の多くが、最も一般的な、誰でも知っている一つの語句を以って彼女を形容する。
 天才。
 これ以上の言葉がないのではない。
 もう一度言おう、すべてが未満なのだ。
 その点で、言語学はまだ彼女の存在に追い付いていないと言える。
 真賀田四季博士が近代日本人史上唯一と言っていい天才なのはまぎれもない事実である。生まれ出でて数年で発現したと言う彼女の才知は、十代に届く前に博士号を授与され、一般的な日本人の少女が小学校を卒業するころ、世界に名だたる巨大企業の主任エンジニアとして招かれ、コンピュータ・プログラミングの世界においてその頂点を極めていた。以後、彼女が十四歳になるまでに築き、あるいは遂げた栄光の足跡は、とてもこのような短い文面では紹介することができない。
 そして生まれてのち十四年、恐るべき事件により日本、いや世界中が震撼することになったあの日、世界中のマスコミが連日蜂の巣をひっくり返した如く騒ぎ、ありとあらゆる憶測とゴシップが飛びかい、それは裁判が行われ判決の下される数年後まで延々と続いた。その時期をして、進歩の停滞と呼ぶ批評家がいたという。数学的分野において人類にとり最高の叡智たる彼女を、つまらぬ……そう、まさにつまらぬ人間的解釈と価値感で量ろうとしている、嘆かわしいことだ、と。それは当時多くの学者たちが思ったことでもあったが、彼女が実の両親に対して犯した凄惨な行為からすれば、一般の市民にとってあまりに理解されにくいことでもあった。
 だが一般という言葉がこの世に創造された理由と同じく、ほとんどの者は自分と直接関わることのない話題について忘却するという性質を持つ。たとえ世界最大級の殺人事件と謡われようとその例外に漏れることはなく、人々はいつしかその事件だけでなく、真賀田四季という超兆の存在自体を忘れていった。それは彼女が世界に成したことに比してあまりにも短い時間のことであったが、その現実はむしろ彼ら大衆にとり幸いだったのかもしれない。なぜなら人々が忘れかけた頃、真賀田四季は再びその数学分野における天才的活動を再開していたからである。
 ここに、Mという文字が刻印された小さな電子機器がある。どのようなものだろうか?例えばガスレンジの制御装置、あるいは車のギアチェンジャー、さらには携帯用ゲーム機の小型ICの裏側でも構わない。ある日偶然それを見た者が、遥か一世代を越えた昔に時の人であった一人の天才少女のことを連想するだろうか。無論そんなことはない。万が一にもそれを調べようと考えメーカーなり文献なりを参照した者がいたとして、彼らがたどり着くのは(製造元や大手の販売社を経て)『Magata Research Institute』という主にコンピュータ・プログラムの研究開発を専門とする施設の名称であっただろう。そしてさらに調査を続ければ、日本の一地方にあるというその施設の所長が『新藤清二』という名前の男だと知らされ、彼のキャリアと親族関係まで遡った時点で、ようやくそのたった一つのアルファベットの由来を理解するのだ。
 愛知県三河湾の沖合いにある真賀田研究所は、その世界的なスケールの貢献からはあまりにマイナーな存在であった。それに関して天と地、という表現がこれほどふさわしい施設もなかったであろう。所員はいずれもコンピュータ・サイエンスにおける一流の技術者、研究者であり、先の例を挙げるでもなく、この施設がこなしてきた仕事はそれこそ軍事から育児までありとあらゆる分野に及んでいた。だが、その存在を知るものはほとんどいない。秘密研究所、などというスパイ映画のような呼び名がふさわしいほどにその存在は無名だった。勿論それは『衆目』としての人々の感覚に対するもので、研究所の受容する分野に関して少なからずの知識を持つ人間ならばその存在は認知すべき度合にあり、また知らない訳にも済まされなかった。
 なぜならそこに、『彼女』がいるのだから。
 だが、その一般的な無名さも、昨年発生した一つの事件で終幕を迎えた。研究所の所長、そしてもう一人、世界にとって最も優れた存在の『死』を引き金にして真賀田研究所の名は世俗に轟くことになる。それはまた、殺人事件という世の人々にとってエキセントリックな単語によって形容された、血なまぐさいものでもあった。
 真賀田四季博士が研究所の所長である新藤清二を殺害し、自らも自殺した。
 それがすべてである。もちろんこれは事実ではない。だが世間の多く……そう、『大衆』と評される人々の総意として存在する無数のマス・コミュニケーションの報道によって大多数の存在がそう認知してしまった今となっては、事件の真相を知っている者でさえそれが正しいことのように思える程だ。第一、否定しようにも物的証拠は何もない。残されたすべてがデジタルのそれであり、改竄されているかどうかを判断することは現代の科学捜査では不可能だった。結果、人々はメディアが大々的に報道したその凄惨な事件を知るや驚愕し、多くの学者は再び起こった天才による近親者への惨劇に呆然とし、そして誰もが悲嘆の涙に暮れた。今度こそ間違いなく、真賀田四季という存在はいなくなったのである。
 だが。
 桐生渉が身震いしたのはそれが理由だった。
 それが違うことを、俺だけが知っている。
 いや、正確には彼自身だけではない。あの事件に関わった多くの者……特にその中枢に存在し、四季博士自身が創造した仮想空間において女史の告白を聞いた者は、それが間違っていることを知っていた。だが、声高らかに世間に広めようとする者はいない。それが徒労に終わることを……言わば燃え盛る恒星に向けて水滴を投げ込むようなものであることを、誰もが理解していたからである。
 真賀田四季博士は生きている!
 それは事実だった。だが、現実ではない。
 事実は、果敢ない。現実は、一部しか見せてくれない。
 その言葉を、渉は今更ながらに再認識していた。確信と言ってもいい。一部の存在にとっては、事実を歪ませ現実を移し替えることなどたやすいのだ。確かにそれはあくまでも例外的で、百万分の一以下の確率でのみ成功できるものなのかもしれない。だが、そういったすべてを以って必ずや100%の結果として為し得てしまうことのできる存在にとり、事実や現実という概念など何の意味もないのだろう。それら現実に起こり得る事象すべての最終段階を『たった一つの真実』という詞で表すのであれば、それはまさにただ一言、この一句で足りた。
 真賀田四季博士は天才である。
 それが真実だった。そして事実であり、現実なのだ。
 渉はもう一度手にした本を見た。著者の名前はくっきりと漢字五文字で印刷されており、消えることはない。この本は現代の文明が存在する限り永遠に残るだろうと渉は思う。本自体は汚れ損壊しても、この中身はデジタルあるいはもっと優れた何かの記録媒体によって残されて行くに違いない。その内容が価値を失う時は、自分を含めた今現在生きている人々がすべて死に絶えたさらにその先、何世代も後であろう。あるいは、とてもそんなことが起こるとは思えないが、さらに優れた何者かによって否定される時か。だがそれには天文学的というより、この宇宙が再び創世されるためのビッグバンを待つほどの途方もない時間が必要に思える。
 渉はそこで歩みを止め、両目を閉じた。
 彼女ならば何と言うだろう。これを読んだ彼女は、何と言うのだろう。
 一瞬、渉の五体のすべてが動きを止めた。魂ごと飛翔するような、それでいて胸の奥に歪みが穿たれるような、鈍く重苦しい高揚の感覚だけが残る。それは一瞬にして彼の思考力をも奪い、次に目を開ける時まで決して消えることはなかった。
 長い時間がたった後、渉はようやく体を……手を動かした。本に挟まれたレポート用紙の束をずるずると引き出す。そこに印刷されているのは角張ったプリンターの文字だが、書かれているのは彼自身の手による文章だった。稚拙な、その下の書物と比べて、あまりにも違いがありすぎる内容。同列に並べようとすること自体が、愚かな行為に思える。並んだリンゴで初めて数というものを学ぶ幼児と、リンゴの遺伝子配列を操作して品種改良を重ねている老科学者。そんな幼稚な比喩が渉の胸に去来し、彼はレポート用紙の束を丸めると、廊下隅のゴミ箱に無造作に投げ込んだ。
 そう、事実は果敢ない。現実は一部しか見せてくれない。
 渉は本を持ったまま校舎を出た。暖かかったはずの空が曇り、見慣れた十一月の寒空が戻って来ようとしている。それを見上げて、渉は三度、先程の語句を胸によみがえらせた。
 事実は、果敢ない。現実は、一部しか見せてくれない。
 それを告げた人物は、真賀田四季博士だった。
 
 
 


[227]長編連載『M:西海航路 第三章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月21日 (火) 02時03分 Mail

 
 
   第三章 Mail
 
   「そのままの意味だよ」


 桐生渉が自分の部屋に戻って来たのは、夜遅くになってからだった。
 何をするでもない、地元の繁華街をぶらついていたのだ。CD屋にビデオ店、アミューズメントセンターなどを冷やかし、書店で最新の雑誌を立ち読みする。途中で腹が減ったので牛丼屋にも入った。最後には映画でも見るかと思ったのだが、映画館まで行って既に最終の上映が終わっていることを知ったのである。そう、今日は週末ではない。
 どうしようもない奴だな、俺は。渉はそう思う。卒業間近のはずが、就職活動はおろか卒論すら満足にできていない。そのくせ、こんな無駄な時間を過ごしている。まったく、どうしようもない。
 どうしようもないといえば、この住居もそうだ。渉は巨大なマンションの入り口をくぐりながら独りごちた。不釣り合いもはなはだしい、最高級のマンション。どうしてかその一室に、今自分は逗留している。逗留、という言い回しは渉にとって最後の自尊心……というより、防波堤だった。現実に自分の住民票がどうなっているのか、想像したくはない。そう、すべては……
「桐生さんじゃありませんか?」突然横合いから声がかかり、そして、そこに西之園萌絵がいた。「こんばんは。今日は、随分遅いんですね?」
 鳩に豆鉄砲、とはこの時の渉のためにある言葉だったろう。そんなこととは知らない萌絵は、シックなダークブルーのスーツ姿だった。彼女とすれば控え目、な方である。
「ああ。そうだね。今日はけっこう遅くなったかな。」渉はとりあえず、笑って頷いた。
 萌絵がしたり顔で続ける。「桐生さん、卒論で頑張っているんですものね。私、応援してますよ。」
「ありがとう。」二人は並んで同じエレベータに乗り込んだ。いつか、こんな日があったことを渉は思い出す。そうだ。このマンションを借りた……いや、住むことになってしまった日。「西之園さんには感謝してるよ。俺なんかが住めるはずも無い、こんなとんでもないマンションの部屋を貸してくれて……」それが感謝なのか婉曲な愚痴なのか、渉自身もわかっていなかった。
「いいえ。お安い御用ですよ。」一方の萌絵はけろっとして言った。「桐生さんには、ミステリィ研でお世話になっていますから。」自分が何かしただろうか、渉には思いつけなかった。どう頭をひねっても、このマンションを借りられることと同等の何かを西之園萌絵にしたとは思えない。「それ、何の本ですか?」
 萌絵に聞かれて渉はそれを見せた。持っていることすら忘れていた本だった。「犀川先生に借りたんだ。」
「本当ですか?見せてくれます?」萌絵の目が輝き、渉は思わず苦笑した。犀川マニア。ゼミの先輩たちが噂する、彼女のあだ名の一つを思い出す。「桐生さん、どうかしたんですか?」
 渉は首を振って、本を差し出した。「いいけど、難しい本だよ。西之園さんにも、まだちょっと早いんじゃないかな。」
 萌絵は片方の眉をあげて渉を見た。「難しい本、ですか。」そして、挑戦的に見下ろす。「都市工学について……」そこで、萌絵の瞳がかすかに、しかし、はっきりと揺れた。
「真賀田四季……」彼女の沈黙は数秒だった。それと同時に、エレベータが止まる。渉の部屋のある十階だった。
「西之園さん。俺、降りるからさ。それじゃ。」扉から出ると、渉は軽く手を上げた。まだ本を見つめている萌絵が、ワンテンポ遅れて顔を起こす。彼女にしては珍しい、渉はそう思った。
「あ、桐生さん……これ!」萌絵が本をかざしてみせる。彼女は降りていない。萌絵の部屋はもっと上だと渉は聞かされていた。
「いいよ。それ、西之園さんに貸してあげる。」扉が閉まり始める。渉は無気力に笑った。「俺には必要ないから。今度、先生に返しておいてよ。」それは彼女にとって格好の口実になるだろうな、と渉は思う。十分の……いや、百分の一にも満たないかもしれないが、賃貸の借りを返せた気がする。
「えっ……」エレベータの入り口が閉じた。明滅するデジタルの数字が、音もなく上昇していく。11、12、13、14……
 15。
 番号は変わり続けたが、渉はその15という数字を脳裏に焼きつけていた。
 15。Fifteen。十六進数のF。
 そして……
 渉は堅く目を閉じて、首を振った。いつの間にか、拳を握っている。それを気持ちのままに持ち上げ、表現できない思いに任せて目の前の壁に叩きつけようとして……
 そして、寸前で彼はそれを止めた。
 できないのだ。
 してはいけない。
 渉は深呼吸をした。今日の午後犀川と会ってからずっと抱いている、悶々とした気分を晴らすように。その程度で重苦しい気分が消えるはずも無かったが、何もしないよりはましだった。
 と、隣の別のエレベータの扉が開き、同じフロアの住人らしき人物が現れた。中年の夫婦で、食事でもしてきたのだろうか。にこやかな表情で夫婦は頭を下げ、渉も思わず一礼する。
 去っていく夫婦を見て、渉は自分を恥じた。本当に、俺はどうしようもない奴だ。
 これ以上の醜態は重ねまいと、早足で部屋に戻る。パスケースからカードキーを出して、部屋に入った。壁のスイッチで電気がつき、低すぎる室温にエアコンが自動的に動き出す。
 まばゆい照明に目を瞬かせながら、渉は調度品と呼べるものが何もない応接間を見渡した。
 入居して二週間、そろそろここにも慣れてきた。だが肝心の家財はほとんどない。元々、前にいた大学の学生寮は狭いことこの上なく、持ち込める物自体が少なかった。備え付けの二段ベッドは論外として、テレビやステレオなどは寮生に代々受け継がれてきたものであり、今回の寮の引き払い時に渉はそれらを一つも……いや、気に入っていた机一つだけしかもらわなかった。結果、この四年間の大学生活で得た持ち物は、衣服や学科の資料、ありきたりの筆記用具類を除くと、それこそ気に入りのミステリィの蔵書が少しと、二台のコンピュータぐらいしかない。そのコンピュータも決して高いものではなく、一つは先輩のお下がりの中古デスクトップ、もう一つは家電屋のセールで友人達と早朝から並んで買ったノートだった。
 とにかく渉は今の自分同様にくたびれたコートを脱いで玄関脇のハンガーにかけると、何もない応接間を抜けて寝室に入った。寝室、と言っても実際この部屋は書斎扱いの洋室である。ただこの広大な3LDKに引っ越して来た際に、渉が運び込んだ物のあまりの少なさに呆れた引っ越し業者に頼んで、洗いざらい自分の荷物をこの一部屋に詰め込んでもらったのだ。ベッドも、別の部屋に設置してあった物をわざわざ動かしてもらった。結果、この広いマンションで渉が使用しているのはこの部屋だけ、ということになっている。萌絵を含めて他の誰かがそれを知っている訳ではなかったが(無論、友人連にこの現状を教えるほど渉は奇特な性格でもなかった)、それは先に挙げた如く渉の自尊心、と言うかプライドだった。考えれば、粗末なことこの上なかったが。
 とにかく部屋に入ると、渉は机の上のコンピュータのスイッチを入れごろりとベッドに横になった。弾力のある上品なベッドが、心身共に困憊している身に心地いい。このまま着替えもせず眠ってしまおうかと渉は考えたが、そこでパソコンから短いメロディが鳴った。
 メールの着信を知らせる音楽。渉は気怠い気分のまま起き上がった。椅子を引いて斜めに腰掛けると、マウスでメーラーをクリックする。六つほどの新メールが届いていることがわかった。
 始めの二つはどこにでもある広告メールだった。タイトルでそれがわかるので、渉は開きもせずにそのまま抹消をクリックした。三番目のそれは建築学科の学生に対する講座の時間修正を知らせるもので、渉は中身を開いて自分の受講している教授の時間を確認した。幸いというか、渉には関係のないことだった。四番目のそれはゼミの仲間で行われる電子会議の開催告知で、確か今夜開かれるはずである。だが卒論のこともあり渉はあらかじめ欠席することを伝えていたので無視する。五番目のそれは『怒』というタイトルがついており、ウイルスかとも思ったが一応チェッカーも起動しているので、渉はクリックして開いてみることにした。

> 国枝桃子
>
> 桐生、ゴミ箱に去年の卒論捨てたね
> 私の所に下級生が持って来たよ
> 馬鹿じゃないの
> シュレッダーくらいかけなさいよ

 正直ショックは大きかった。クリックした手がそのまま強ばってしまったほどだ。国枝桃子は犀川助教授の助手で、それこそ女っ気というものから地上でもっとも縁遠い(と、噂される)女性だった。その彼女が突然に華燭の典を迎え、ゼミの全学生を驚愕の坩堝に叩き込んだのが先月のことになる。式は身内だけでひっそりと行われたらしいが、渉を含めた犀川研のメンバーは相手がどんな男なのか尋常ならざる興味を示し、一時期はネットの掲示板等でさんざんに議論をしたものだった。
 反面、研究室助手としての国枝は辛辣極まりない性格で、見方によってはマイペースの極致である犀川とはいいコンビだった。また国枝は研究室でナンバーワンのハッカーで、タイプ速度も含めてその腕はN大の中でも一二を争う程である。桐生もそこそこコンピュータはいじる方だが、その彼の師こそ、誰あろう国枝桃子自身だった。
 とにかく、ある意味最もやっかいな相手に自分の不始末を目撃……いや、証拠を掴まれてしまったことになる。渉は即座にメールの返信をクリックし、キーボードを打った。

> 本当にすみません
> 明日取りに行きます
> 犀川先生には

 黙っていて下さい、と打とうとして、渉は国枝がそんな容赦をするような人間ではないことを思い返した。むしろこんなことを書けば、万が一(本当に万に一つ、だろうが)犀川に卒論を捨てたことを話していなかった場合、逆に即座にそれを報告されてしまうだろう。渉は少しの間悩んで、最初の二行だけで返信することにした。
 国枝へのメール送信を確認すると、渉は大きく伸びをした。机の横、窓際の時計に目をやると、もう既に十二時を回っている。まだ早いとはいえ、よく考えれば今朝は新しい卒論の草稿をまとめていてほとんど眠っていない。今日はもう寝てしまおうと、渉はコンピュータの電源を落とそうとして……そして、未開封のメールがまだ一通残っていることに気付いた。
 そのメールには題名がなかった。しかも、差し出し人のアドレスすらない。手の込んだ悪戯かウイルスかもしれないが、とりあえず渉は開封をクリックしてみた。どうせウイルスチェッカーが常時作動しているのだ。
 開封までに一瞬の間があった。サイズが大きいのかもしれない。しまった、引っ掛かったかなと渉は内心で舌打ちしかけたが、次の瞬間画面にテキストが表示された。
 それは簡潔な内容だった。 

> help
>
> from
>
> M.M.

 他には何もない。その後には、ただ無意味な改行だけが延々と続いていた。
 文頭の文字を見つめて、渉はため息をついた。誰かの悪戯、いや、出し間違いか途中送信の類だろう。そもそも文として成り立っていない……と言うより、意味不明だ。
 眠たかったこともあり、渉はそのままそのメールを削除しようとした。だがそこで、末尾の一行に目をやる。この文の中で唯一の大文字であり、ピリオドも使ってある。要するに、それだけなら何かのイニシャルのようだ。いや、行間が空白とすれば、

> help from M.M.

 と読むこともできる。そうなれば意味が通じないこともない。『M.M.より助けを乞う』である。
 渉は削除をクリックしそうになる手を止めて、それについて考えた。M.M.のイニシャルを持つ人物。名前でMと言えば真っ先に思いつくのは西之園萌絵のMoeである。続けて先のメールの国枝桃子のMomoko。だが両者のセカンド・イニシャルはNとKで、Mではない。国枝の結婚相手の名字は知らなかったが、それこそこんなメールを国枝が出すとは思えなかった。
 ならば誰だろう。渉は友人を含めたゼミの先輩、あるいは教授の名をピックアップしてみたが、M.M.のイニシャルに該当する者はいなかった。続けて家族の名前と親戚を当たってみるが、そもそも彼の名字は桐生でKである。目立った親族にもMのつく名は思い当たらない。
 渉は一息ついて、そして再びマウスに手をかけた。仮にこれを真剣なメールとしても、ここまで考えて思いつかない名前の相手が助けてくれというのも不可解である。これは99%間違いメールであろうと渉はマウスでポイントし、削除しようとした所で……重苦しいチャイムの音が応接間から聞こえて来た。
 
 


[228]長編連載『M:西海航路 第三章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月21日 (火) 02時19分 Mail

 
 
 どうやら来客らしい。しかもこの鳴り方はマンション一階の玄関口でなく、直接ドアの向こうにいる場合のそれである。誰だろうと渉は立ち上がって部屋を出、廊下に設置されたTVドアフォンのスイッチを入れた。誰かはすぐにわかった。西之園萌絵が、こちら……カメラに向かって手を振っている。
「西之園さん?」渉はドアフォンのスイッチを押して聞き返した。「どうしたの、こんな遅くに?」
「ごめんなさい。さっきの本のことで、桐生さんに少しお話があって……よろしかったら、中に入れてもらえませんか?」このマンションのオーナーである西之園萌絵の来訪を断るべき理由を渉は持っていなかった。頷き、スイッチを切るとすぐそこの玄関に小走りで向かう。
「どうぞ。」萌絵は可愛らしいピンクのパジャマ姿で現れた。その上に、ボリュームのあるナイトガウンを羽織っている。カメラ越しにはわからなかったが、かなりきわどい……いや、外をうろついていい格好ではない。「ちょ、ちょっと待って、西之園さん。そのさ、こんな遅くに俺の部屋に……いいの?」さすがの渉も、少し焦る。
「何がですか?」萌絵は首を傾げて渉の横をすり抜けると、下ろしたてのような真新しいサンダルを脱いだ。まるで自分の家の(実際そうであるのかもしれなかったが)如くマンションの室内に入り、ドアが開いたままの応接間を覗き込む。渉は玄関の扉を締めると慌ててその後に続いた。「うわあ、何もないですよ?桐生さん、本当に使っているんですか?」呆れ顔の萌絵が振り返る。
「平凡な一学生の持ち物なんて、こんなものさ。それに、向こうの部屋に全部入れてあるんだ。あくまでも一時的に借りてる部屋だから、奇麗にしとかないとね。」あくまでも、に渉はアクセントをつけた。それに気付いているのかいないのか、萌絵はリビングを見回して何か考えている。
「でもこれじゃ、あんまり……」
「いいんだよ。俺さ、何もないのが好きなんだ。解放感があっていいだろ。」渉は素早く萌絵の言葉を遮った。明日帰宅したら、ここにブランド物の家具や調度品が並んで輝きを放っている、そんな昔見た映画のようなことは勘弁願いたかった。今目の前にいる女性は、ほんの気まぐれでそれをしかねない。「ほら、ここで大の字になってね。向こうのフローリングまで一気に転がるんだ。ストレス発散になって、面白いよ。」適当なことを口にする。
「桐生さん、本当にそんなことをしているんですか!?」萌絵が目を見張って渉を見る。渉は肩をすくめてそっぽを向いた。
「それより西之園さん、話ってなに?その本は貸してあげるって言ったでしょ?」萌絵は小脇に渉が犀川から借りた本を抱えていた。真賀田四季博士の著書。
「ええ、それはそうですけど……あの、桐生さん。どこかに座る場所とかないんでしょうか。桐生さんって、お客さんとかいらっしゃらないんですか?」萌絵の口調は心持ち丁寧だった。何か、お嬢様のようだ。
「いないよ。」いや、この女性はお嬢様だった。しかも、ある意味で筋金入りだ。「この部屋を借りてからは、西之園さんが初めての来客かな。椅子は……うーん、俺の部屋にしかないかな。来る?」俺の部屋、という言い方は少しおかしいかもしれない、と渉は思う。
「いいんですか?桐生さんのプライベートなこととか……」渉は笑って首を振った。萌絵が興味を引かれた顔で頷く。「それなら、お邪魔します。」
 渉は書斎に入った。八畳ほどの床面積の半分がベッドと机、その他の荷物で埋まっている。素早く見回して、西之園萌絵……というより年頃の女性が見て問題のあるものがないことを確かめた。「どうぞ。散らかってるけど……」萌絵が入って来て、目を瞬かせて部屋を見回す。
「なんだ、結構色々とあるじゃないですか。」渉はまだコンピュータが動いている机の前から椅子を引き、180度回転させて萌絵に転がした。「あれ、ベッドはどうしたんですか?」
 ベッドに腰掛けようとして、渉は萌絵の言葉の意味に気が付いた。「ああ、あっちの寝室から運び込んだんだ。ここ、ベッドだけは備え置きされてるんだね。でもこんな大きなベッドが二つ並んでても、俺には使いようがないからさ。動かせるみたいだし、どうせなら全部一つの部屋にまとめようと思って。」萌絵が信じられない、という顔で渉を見る。「あ、でもやっぱりこれはまずいか。夜遅く、男の部屋に一人で。どうしようか、西之園さん?」
「大丈夫です。桐生さんのこと、信用してますから。」それほど信用されるとは、見方を変えれば自分は男としてまったく甲斐性がないということだろうか。ある意味それは不本意に思うべきなのかもしれなかったが、何しろ相手は西之園萌絵である。常識的な判断は禁物だった。
「犀川先生なら警戒する?」なんとなくそう言うと、萌絵がじとっとした目で渉を見た。
「桐生さんって、そういう話題を不用意に口にしない人だって思ってました。」
「買いかぶりだよ。俺だって健康な二十二歳の男なんだからさ。」
「年齢は関係ありません。私だって健康な二十一歳の女だわ。それでも、マナーやエチケットは守っています。紳士的な態度を要求します。」こんな夜更けに寝巻きにガウンで男の部屋を訪れることは淑女のマナーとしてどうなのかとやり返したかったが、やはり根本的に部屋を借りているという追い目がある。渉は頭をかいて頷いてみせた。萌絵が椅子の上を軽く払って、優雅に腰掛ける。「犀川先生だって、健康な三十三歳の男なのに……」その先は聞き取れなかった。
「とにかくさ、何か飲む?炭酸とか……インスタントでいいなら、コーヒーもあるよ?」萌絵がコーヒー、と指定した。頷き、立ち上がる。眠気はまだ少し残っていたが、どうやらもう少し起きていなければならないようだ。
「いだだきます。」渉が入れて来たブラックコーヒーのマグカップを両手で受け取って、萌絵はおいしそうにそれを飲んだ。渉も同じように口に含む。熱くはないが、少し苦い。
「それで、話っていうのは?」しばらくして渉が切り出すと、萌絵は微妙に視線を泳がせてから笑った。「ええ。実は、本の間にレポート用紙が挟まっていて。これ、卒論の一部ですよね?」萌絵は表紙を開くと、そこから一枚のレポート用紙を取り出した。端で綴じた部分が破れてしまっている。「桐生さん、きっと困っているんじゃないかと思って……だから私、すぐ持って行かなきゃって思ったんです。」
「あ、それはどうも、ありがとう……」渉はぎこちない動作でそれを受け取った。ラストの……そう、最後の一ページだった。犀川からこの本と共に渡された、去年の卒論の末尾の一枚。構内でゴミ箱に捨てた時、一枚だけ残っていたのだろう。「悪いね。わざわざ……」渉は自分のドジ加減に呆れた。先程の国枝からのメールといい、まさに続け様の大失態だ。
「どういたしまして。同じ屋根の下に住んでいるんですもの。これくらい当然です。」萌絵は魅力的な微笑を浮かべてそう言ったが、渉はそれこそ彼女の執事が何かを危惧しなかったのだろうかと思った。最近になって知ったのだが、萌絵はこのマンションの上層で執事と共に暮らしているらしい。渉は以前何度か目にしたことのある、年老いた執事の姿を思い浮かべた。そういえばゼミ内の噂によると、家事はすべて執事がやってくれるとか……「桐生さん、それより一つ、お話があるんですけれど……」
「ん?何かな?」萌絵の日常を想像していた渉は、慌ててその邪念に満ちた光景を振り捨てた。「俺に関係したこと?それとも、西之園さんの話?」コーヒーを含む。
「両方、かな……」これも珍しいことに、萌絵は話し辛そうだ。渉はにこやかに笑った。
「いいよ。この部屋を借りてるお礼は、できる限りしなきゃって思ってるからさ。何なりと相談に乗るよ。大学の話?」
 萌絵は首を振った。「違います。どちらかと言えば、私個人のプライベートに関することで……」萌絵は少しだけ身を乗り出した。渉もそうする。自然と、二人は小声になった。
「いいよ。誰にも話さないから。ここだけの話にしよう。それで?」萌絵が再びチャーミングに頷く。風呂上がりなのだろうか、うなじに小さな水滴が残っていた。
「あのですね……実は、結婚することになったんです。」瞬間、渉の思考が停止した。脳内に伝達される情報が、メインのデータバンクのそれと激しく交錯し、処理が間に合わずエラーで満たされたような眩い感覚。
「け、結婚……!?」言えたのはそれだけだった。西之園さんが、や、犀川先生と、など、ふさわしい語彙が出てこない。
「はい。古くからのお友達で、最近はずっと会っていなかったんですけど。久しぶりに連絡を取る機会があって……その、近々結婚するって聞かされて。」
 渉の喉が鳴った。「あれ?結婚するって……聞かされて?」
「はい。私昔、その方ととても親しくさせていただいていたんです。ですけど、向こうが海外に留学してしまって……私の方も色々とあって、互いに疎遠になってしまって。でも、最近また手紙を受け取って。」萌絵はクスッと笑った。「彼女、久しぶりなのに全然変わっていなくて……何だか、嬉しかった。」幸せそうにそう言うと、萌絵はまだかすかに湯気の立っているマグカップを両手で押さえた。エアコンが動き続けているとはいえ、やはり少しばかり室温は低めである。
「手紙はわかるけど……彼女?あれ、西之園さんが結婚するんじゃないの?」
「どうして私が結婚するんですか?結婚するのは私の友達です。やっぱり幼なじみ、って言うのかしら?とにかく、同い年なんですけど……うーん、ちょっぴり悔しいな。こういうのって、どうしても先を越されたみたいな気分になっちゃうんですね。」
 渉の全身から一気に力が抜けた。張りつめていた神経とパニックに陥りかけていた思考とが、渾然一体となって一気に正常へと流れ出す。結果、判断力と理性を取り戻すのに幾許かの時間が必要になった。
「えーっと、つまり……西之園さんの、友人の、女性が、結婚することになったんだね?」ゆっくりと、渉は確かめるように言った。
「そうですよ。さっきからそう言ってるじゃないですか。」萌絵は笑った。渉が長い息を吐く。
「それが、どうして俺に関係あるの?」
「ええ、ですから……肝心な話はこれからなんです。」萌絵は再び身構えるようにして声を落とした。「桐生さん、ちゃんと聞いて下さいね。」
 渉は頷いた。疲れが一気に出て、コーヒーのお代わりが欲しくなる。今度は熱い方がいい。
「彼女……あ、瑞樹って言うのですけれど。彼女、結婚式を船上で行うことに決めたらしいんです。まあ、それほど珍しくもないんですけど。ブライダル・クルーズで。横浜からハワイまで、七日間のクルージングなんです。それで私、それにぜひ来てくれって招待されちゃって……」萌絵はそこで、意味ありげに言葉を切った。
 ほんのわずかな沈黙。そして、萌絵が渉の目をじっと見つめる。
「それで、桐生さん……一緒に来てくれませんか?」
 今度こそ、渉の時間は止まった。
 
 
 


[229]長編連載『M:西海航路 第四章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月22日 (水) 00時40分 Mail

 
 
   第四章 Midnight

   「ふーん、それから?」


 時間は既に深夜の二時近くだった。
「それで、彼女の相手の人が、とてもかっこいい人で……ほら、何て言うのかしら。ブラッド・ピットみたいなタイプ?とにかく彼女、彼に夢中で……手紙の中でたっぷりのろけるんです。私、当てられちゃって。それで、思わず……」西之園萌絵は、そこで大袈裟に肩をすくめた。「……私にも、つきあっている素敵な彼氏がいる、そう書いちゃったんです。」
 三杯目のコーヒーを喉に流し込んで、桐生渉は頷いた。その顔には深刻さと興味深さと、そして困惑とがありありと同居している。「うん、それで……?」
「そうしたら、彼女がとっても驚いて。嬉しがって、って言うんでしょうか……とにかく、私にその人のことを教えて、是非紹介してって、もうびっくりするくらいに興味を示したんです。私、勢いで書いたことだから、どうしようかって思って……でも、下手な話をしてしまったら、それがこちらに戻って来た時、まずいことになるかもしれないでしょう?決して良くは思ってくれないだろうし、それだけは避けないと。だから私、悩んで……」主語のない萌絵の言葉が、逆にそれか作用するであろう対象を明確に渉に連想させた。確かに、あの人物ならばそういう話を聞かされれば不快に思うであろう。いや、思うかどうかはわからないが、不快そうな態度を示してみせる、であろう。それは渉にもよく理解できた。ならは自分ならぬ萌絵には、もっと細やかな意味で推察できるに違いない。まったく別の見地としても。
「確かに、犀川先生ならそう思うだろうね。」
「もう、桐生さん!あからさまに言わないで下さい!」膨れっつらの萌絵の非難に渉は慌てて謝った。萌絵がころりと表情を戻して頷く。「でも、やっぱりそうですよね。先生、人に干渉されるのが苦手だから……」大嫌い、と言った方がいいと渉は思ったが、口には出さなかった。
「それで?」話の続きを促す。
「それで、実は私……」ふっと、嫌な予感がした。「……その、桐生さんの名前を使ってしまったんです。」渉の予感は的中した。しかも、最も危険な方向にである。
「えっと、俺の名を……?」理解していない様子を装う。それがわかっているのだろう、萌絵が非難がましい視線を向けた。だが、こうするぐらいのことはしてもいいはずだ。渉は息を吸って、首を振った。「いいよ、わかった。続きを聞かせて。」
「はい。桐生さんっていう……いえ、桐生さんですね。桐生さんと私が、その、つきあっているって……彼女に教えてしまって。本当にごめんなさい。実は、写真とかも送ってしまったんです。」
 渉は驚いた。「写真?写真って俺の?西之園さん、そんなもの持っていたの?」
「はい。ゼミ旅行の時の写真です。桐生さんと私で、並んで写っているのがあったから……」萌絵は親に悪ふざけを見つかった子供のように下を向いて告げた。
 渉は萌絵と逆に、天井を仰いだ。高くて広い、まるで一軒家のような天井。「そんな写真、あったっけ……」心中と裏腹の言葉が出る。それでも心の動揺は消えなかった。「とにかく、それで?」
「はい。そうしたら彼女、その人にぜひ会ってみたい、私に紹介して欲しい、今度の結婚式に、絶対に一緒に連れて来て、って……もうっ、彼女がこういう話に興味があるなんて、全然知りませんでした。それともやっぱり、自分が恋をしているから、人のことも放っておけないのかしら?」萌絵の口ぶりはその『友人』に責任転嫁を狙っていた。
 渉は肩をすくめた。「それで、まさか西之園さん……俺を連れていくって約束したの?」自分で自分に刑の宣告をするような気分だった。だが、そうしないと話は進まなさそうである。
「ええ……まあ……そうです。ごめんなさい、桐生さん。」萌絵は何度目かの陳謝の仕草をした。夜の夜中に西之園家の令嬢に謝られている大学生など、世界中に俺一人だけだろう。渉はぼんやりとそう思った。だが、そう思うことがイコール、西之園萌絵が口にした約束の意義を……いや、重さを意味していた。そして、渉自身の行く末も。
「なるほど。だいたいわかったよ……つまり、西之園さんが俺を紹介するってその人に約束して……」萌絵はじっと渉を見つめていた。どこか、しおらしく見えるのは気のせいだろうか。「……だからその結婚式に、俺にも一緒に来て欲しいって言ってるんだね。その……なんだっけ?ハネムーン・クルーズ?」
 萌絵が頷いた。「ブライダル・クルーズです。ハワイまで、七日間の。」渉は再び天を仰いだ。
「西之園さんの……つまり、恋人役として?」萌絵が小さく頷く。「もちろん、見せかけだろうけど……でも、結婚式には、そのさ……大勢が来るんでしょ?西之園さんの親族とか。ちょっと、ごまかしきれないんじゃない?」もしも……である。ありとあらゆるトラブルとその顛末を想像し、渉は心底ぞっとした。
 萌絵は首を振った。「それは大丈夫です。私と彼女は、あくまでプライベートな友人で……その、今はそれほど家同士の親交はないんです。だから、私を……いえ、先生を知っている人はいないですから。だから、桐生さんを紹介してもまったく大丈夫なんです。それに、おおっぴらに告知する訳じゃないですよ。あくまでも彼女一人に、こっそりという話になっています。だから、そんなに大変じゃありません。」どこかぎこちない口調で萌絵は説明し、渉の不安はむしろ増した。
「でも、海の上でしょう?」
「はい。」
「七日間も、だよ?」
「たった168時間ですよ。10080分です。秒で数えれば604800カウントだわ。」萌絵がすらすらと並べていく数字で実感がわく訳ではなかったが、とにかく短くはないことは確かだった。
「あのさ、西之園さん。知ってると思うけど、俺……」
「桐生さんが卒論で忙しいことは知っています。そんな桐生さんを一週間も連れ出すんですから、本当に悪いことをするって思っています。」まるで、行くことが決めつけられているようだ。渉は漫然とそう思った。「でも、安心して下さい。桐生さんが航海の間、船内で卒論に励めるように、って、私とてもいいことを考えたんです。」いいこと、か。渉はまた嫌な予感がした。「桐生さんは、ホロウェイ博士を知っていますか?」
「勿論。」その名前を知らないはずはなかった。ジェームズ・ホロウェイ博士。建築学の分野では世界的な権威の一人だ。既に老齢のはずだが、彼の書いた本はゼミの教材にもなっている。犀川助教授が手放しで認める、数少ないドクターの一人。「それがどうしたの?」
「私、博士にその船に乗ってもらうように頼んだんです。」渉がその意味を理解する前に萌絵は続けた。「桐生さんの卒論を、教導して頂こうと思って。桐生さん、バーチャルリアリティが現代の都市建築に及ぼす影響についてまとめているんですよね?レポート用紙にもそう書いてあったし……あと、この本も。」萌絵は何時の間にか机に置いていた本を指し示した。
「あ、ああ……」決まった訳ではない、と言える余裕は渉になかった。
「流石に私も、真賀田四季博士を連れてくることは無理ですから……」萌絵はわずかに声のトーンを落とした。それが、渉の混乱していた思考を取り戻すきっかけになる。「でも、四季博士程ではなくても、ホロウェイ博士は立派な建築学者ですし。」そうですよね?とでも言いたげな萌絵の笑顔に、渉はめまいにも似た何かを感じた。
「あのさ、西之園さん。」それは例えば、中世ヨーロッパの小作民が『お城の王様にはさすがに及びませんが、王子様も立派な方です』と告げるのに近いだろうか。「立派とかそういう問題じゃなくて……」渉は余計な比喩を振り払って首を振った。四杯目のコーヒーが必要な気がする。覚醒の手段としてではなく、気をまぎらわせるためのそれとして。「でも、いったいどうやって博士を?それに今、西之園さん、頼んだ、って言わなかった?」
「はい。博士は、今ちょうど日本にいらしてるんです。東京で行われている学会の会議に出席なされていて……それで、帰国が少し早まることになったんですけど、楽しいパーティに参加できるならむしろ嬉しいって、喜んで下さったみたいです。」
 萌絵の言葉を理解するのは、渉にとって最終宣告に近かった。「つまり……ホロウェイ博士が、その一週間クルーズに同行するっていうこと?帰国のために?」萌絵が頷く。「しかも、俺の卒論……それを手伝ってくれるって?本当に?」萌絵は何と言っただろう。確か……教導?
「はい。快く承知して下さいました。」萌絵はにっこりと頷き、渉の思考は再び停止した。世界有数の建築学博士が、日本の一大学の、しかも大学院すら目指していない凡庸な大学生を……そう、留年した、というのも加えよう。その留年四年生の、卒論を……「マン・トゥ・マンで、一日何時間でもよろしいように、ですって。よかったですね、桐生さん!」マンツーマンで、教授……いや、何だっけ、教導?博士自身の手による論文が載った教本を持って、博士が……俺に?「意外に気さくな方みたいですよ、博士って。私も、先程初めてお話したんですけど。犀川先生が言っていた通りでした。」
 萌絵の言葉は渉にさらなる混乱を呼び込んだ。「ち、ちょっと待って。西之園さん。その、さっき話したって……?」
「ええ。博士と連絡を取ってもらって。私が、直接お話したんです。博士は英語だけでなく、日本語もお上手なんですよ。犀川先生は勿論だけど、大学にああいった教授がたくさんいると、もっと授業が面白くなりますよね。どうして、つまらない人が多いのかしら。意地悪な人も多いし。」萌絵は不満ありげにそう言った。
 それなら、西之園大学というのを作ればいいよ。犀川先生を学長にして、西之園さんが気に入った講師だけを世界中から呼び集めればいい。きっと日本でも最高水準の、しかも面白い私立大学になるんじゃないかな……
 渉がそれを口にしなかったのは、気力がなくなっていたからだった。決して、それを聞いた萌絵が万が一にも実行する可能性を危惧した訳ではない。今の彼に、そんな余裕があるはずもなかった。
 渉は息を吸った。そして、吐く。もう一度、それをした。「するとさ、西之園さん。もう既に、俺に選択の余地はないように思えるんだけど。もしも別の用事や何かで、俺がついていけなかったらどうするつもりだったの?」だったの、という言い回しを用いる自分は、既に諦めているのではないだろうか。渉はどこかでそう思った。
 そんな渉の目の前で、萌絵がほほえむ。「私、桐生さんを信頼していますから。」信用、が信頼、になった。二つの違いは何だろうか。言葉のままに、相手を用いるか、頼るかだろうか。なるほど、西之園萌絵は明晰な頭脳の持ち主である。彼女のような相手を前にした時、男性にとってどちらが有効かは明らかだ。
 
 


[230]長編連載『M:西海航路 第四章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月22日 (水) 00時53分 Mail

 
 
 渉は頷いた。頷かない方法が思いつけなかった。「わかったよ……断れそうにもないね。いいよ、西之園さん。」
「本当ですか!ありがとうございます!私、助かります!」萌絵の感激ぶりは半端ではなかった。それほど友人に彼氏を(偽りであろうと)紹介できることが嬉しいのだろうか。いや、紹介できないことが悔しかったのかもしれない。渉はまたどこかでそう思った。作り笑いではない、疲れた笑いがその顔に浮かぶ。
「いいよ。それに、ホロウェイ博士に会えるなら、一週間の旅なんて安いものさ。」無論、航海自体のそれが劣っているはずもないだろう。何しろ、西之園萌絵の友人である。しかも、七日間のブライダル・クルーズなど、決して……いや、絶対的に人並みの結婚式ではない。「博士のことがなくても、いい気晴らしにはなりそうだしね。正直、最近は卒論やら転居やらでかなり切羽詰まって、憂鬱だったからさ。」渉は笑った。乾いた笑いかもしれなかった。「冬の船旅か。少し早い卒業旅行というか……格好の気分転換になるよ。ありがとう。」
「うふふ。桐生さん、口が上手になりましたね。」さすがの萌絵も、素直には受け取らなかったようだった。確かに、彼女の洞察の方が正当かもしれない、と渉は思う。
「そりゃ、まあね。西之園さんには、ここのこともあるし……断れないよ。」素直に告白してしまって、渉は苦笑いを消すために首を振った。だがそこで、ふっとあることに気付く。
 渉は顔をあげて、まじまじと萌絵を見つめた。「どうかしましたか?」萌絵は、にこにことしながら首を傾けた。
「いや……何でもないよ。出発はいつ?」渉はわき上がった疑念を消そうと話の方向を変えた。そんな、いや、馬鹿な。
「はい。急なんですけど、実は来週の月曜からです。」今は水曜……いや、既に木曜だから、あと三日しかない計算になる。「午前十一時が出港ですって。横浜港ですから、朝の……そうですね、六時頃に迎えをやります。それで大丈夫ですよね?」渉は頷いた。目の前の女性をじっと見つめる。心に浮かんだ小さな何かはまだ消えていない。だがまさか、そこまでするだろうか。
 結局、渉がその疑念を口にすることはなかった。萌絵は最後のコーヒーを奇麗に飲み終えると、うーんと伸びをして、そして笑った。「それじゃ私、そろそろ部屋に戻りますね。もう寝ないと……」
「うん。気をつけてね。部屋まで送ろうか?」
「お気持ちだけ受け取っておきます。」萌絵は淑女らしくガウンの胸元を正した。「第一、同じマンションですし。エレベータまで行けばいいんですから。桐生さんは、これからまた勉強ですか?」
 渉は首を振った。「今日はもう寝るよ。実は西之園さんが来た時、もう寝ようとしてたんだ。」
「そうなんですか?でも、コンピュータがついているから……ごめんなさい。夜更けにお騒がせしてしまって。」
「いいよ。何というか……その、西之園さんと二人で話し込むのも久しぶりだったし。」去年は何度かそういうこともあった、と渉は回想した。話題のミステリィについて、カクテルバーで明け方まで論議を尽くしたこともある。どうしてか、そんな日々がなつかしかった。
「そうですね。これからも時々、お邪魔してもいいですか?」
 萌絵の悪戯っぽい顔に、考えもなしに渉は頷いた。「いいけど、犀川先生には内緒でね。ただでさえ卒論で絞られてるんだ。これ以上、やっかみ者と思われたらたまらないよ。」
 萌絵はきらきらと目を輝かせた。何事か……いやおそらく、渉には思いもつかないような策謀がそこを駆け巡っているように思える。「そうですね……いえ、きっと駄目だわ。先生なら、逆に桐生さんとの仲を誤解してしまいそう。むしろ逆効果だわ。」
「頑張ってね、西之園さん。」渉は思わずそう言っていた。心ならず、かどうかは彼のみぞ知る。
 萌絵の表情もまた窺えなかった。微笑して身を翻し、背を少し屈めると、コンピュータを覗き込む。「桐生さん、これ……消しておきましょうか?」話をそらすにしては、彼女らしくないほど露骨な仕草だった。
「あ、うん……いいよ。そのままシャットダウンして構わない。」
「あれ?」萌絵は赤い光の漏れる光学式のマウスを操作しようとして、そして声をあげた。「桐生さん、メールが表示されていますよ?これ、書きかけじゃないんですか?」
 そうだった。すっかり忘れていた。「あ、そうか。いいよ。そのまま消しておいて。下らないメールばかりだったし。」国枝桃子助手のメールには返事を書いた。あれだけは下らなくはなかった、が。他は別にどうでもいい。
「いいんですか?これ。助けを……M.M.より?って……何ですか、M.M.って?人の名前?」
 渉は苦笑した。「あ、それは間違いメールだよ。そのイニシャル含め、発信先のアドレスすらわからない。きっとサーバのトラブルか……そういうメールを出し続けるウイルスに感染した、誰かのせいじゃないかな。とにかく、意味ないよ。消していい。」
「ふぅん……」萌絵はモニターを見つめて相づちを打った。「M.M.ですか。真賀田未来さん、とか。なつかしいですね。桐生さん、思い出しません?」再び手にした本を軽く持ちあげて、横顔が小さく笑う。
 それからさらに少しの時間、萌絵はそのメールを見つめて考え込んだ。三つ四つほど、彼女が知る有名人の名前をあげてみる。だが、背後から返事はない。「……桐生さん?」
 西之園萌絵は怪訝な顔で振り向いた。そこに彼はいる。眠っているのかと思ったか、そういう訳ではない。
 彼は萌絵の顔を見つめていた。その目は見開かれ、そして、瞳だけでなく指先までもが、かすかに震えている。普通ではなかった。「どうしました、桐生さん?気分でも……」
 渉が動いた。黙して一歩を踏み出し、萌絵へと近付く。萌絵はまさかとの疑念を抱く。だが、渉の視線は彼女というよりも、むしろその背後に注がれているようだった。彼女は軽く身を退け、そして渉は食い入るようにデスクに歩み寄り、自分のデスクトップ・コンピュータのモニターを見つめた。今さっきまで、萌絵がそうしていたように。
「あの……桐生さん?」萌絵の呼びかけに、答えはない。
 渉の目は、ただじっと、その画面を見つめていた。
 そこに記された、メールの文面。

> help
>
> from
>
> M.M.

 末尾のイニシャルは、M.M.。
 頭文字がMのファーストネームと、頭文字がMのファミリーネーム。
 渉の中で、その同音同語の二文字がすべてを占有していく。
 そう。
 セカンドネームは、真賀田のM。
 もしそうであるならば、ファーストネームのMは何か。
 四季博士の妹である、未来。彼女の、MikiのM。今さっき、萌絵が何の気なしに口にした名。
 だが、それは絶対に違う。なぜならその人物は、既にこの世にいないのだから。
 死んだのだ。
 いや、正確には殺されたのだ。自分の……いや、自分の娘として育てた、一人の少女によって。
 真賀田の姓を持つもの。
 天才の血を引くもの。
 Mの名を持つ妹によって育てられたもの。
 Mの姓と、
 Mの名を持つもの。
 真賀田道流。
 否、
 真賀田ミチル。
 Michiru Magata。
 ミチル!
 
 
 


[231]長編連載『M:西海航路 第五章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月24日 (金) 01時40分 Mail

 
 
   第五章 Michiru

   「私のことは、私が一番よく知ってるよ」


 西之園萌絵がいつ帰ったのかはわからなかった。
 部屋の照明は暗い。それよりもむしろ、カーテンの隙間がほのかに白み始めていた。
 もう朝か。桐生渉は、この数時間で唯一の対外的思考を行った。
 そう、肉体と精神は別個のもの。心などどこにも存在しない。自己は確認できない。
 そのために、語りあう。言葉を交わしあう。
 それが、生きているということ。
 渉は視線を落とした。コンピュータの電源は入ったままになっている。それは、数時間前からずっと同じ状態だった。メーラーが開かれ、一通のメールが開封されたまま。そのまま、何も動いていない。マウスさえも。
 渉は黙って画面を見つめた。三つの単語。

> help
>
> from
>
> M.M.

 help、改行、from、改行、M、ピリオド、M、ピリオド。そして、無数の改行。
 渉はじっとそれを眺めた。繰り返し、繰り返し。飽きることなく、長い間。
 そして、意を決したようにマウスを操作する。まずメールの保存。重要物件のフォルダの中にこのメールを入れる。タイトルがないために一行の空白が空いた。到着日は昨日、保存期日はたった今。
 メールの本文を閉じて、渉は再びそのメールの受信時刻を見つめた。昨日の21時49分。渉は繁華街を歩いていた時間だ。タイトルはやはりない。発信者の名前もない。ありえない、という訳でもないメールだった。フリーメールやコンピュータウイルスに限らず、発信者を通知することをごまかすスクリプトを持つメーラーは存在する。そういうメールはさも別の人物から出されたように自らを改変し、送り主に誤解や混乱を促すのだ。悪用すれば犯罪となる手段である。そうなれば、ここに記載されている受信時間すら怪しい。
 とにかく、本文以外はすべて判断材料にならなさそうなメールだった。渉は次に自らのパソコンに在駐するウィルス検索ソフトを使ってメールをチェックした。数分経って、その結果が出る。このメールからウィルスは検出されない。
 渉は次に、自らのコンピュータのすべてをウィルス検索ソフトでチェックすることにした。データのあるハードディスクだけでなく、メインのOSからすべてをチェックさせる。ウィルスチェッカーが動き始めた。
 結果が出るまでには一時間以上かかるだろう。渉はシャワーを浴びに行った。熱いシャワーと冷たいそれを交互に浴びて、どろりとした肌に粘りつくような感触を洗い流す。心のそれは消えるはずもなかったが、感覚的に何かが戻って来た。湯気の中で、大きく息を吐き散らす。
 バスルームから出ると、渉は安物のガウンを羽織って自室に戻った。濡れた髪をバスタオルでくしゃくしゃと拭きながら、モニターを見る。まだ三十分以上はかかりそうだ。渉は着替えを持って部屋から出た。応接間からキッチンへと向かい、そこにある数少ない飲み物を探す。
 渉が取り出したのはウイスキーのボトルだった。彼は滅多に酒を飲まないが、弱い訳ではない。ただそういう機会に恵まれない……というより、飲酒という行為自体にあまり興味がないのだ。だが、それでも時折酒を飲みたくなる時はあった。ビール以外のそれを飲みたくなる時もある。今がまさにその時だった。
 友人からもらった安物のウイスキーを入れたグラスにパックの氷を数個入れて、水道からほんの少しだけ水を入れる。酒の飲み方としてどうかと思うが、今の渉には細かいマナーなどどうでもよかった。
 応接間まで来ると、唯一の備えつけの棚にグラスを置く。そして、先程持ち出した着替えを手早く羽織る。首を鳴らすと、小気味いい音が鳴った。グラスを取って、口に含む。
 しみわたっていくような強い蒸留酒の味が、渉の何かを覚醒させた。大きく息を吸って、吐く。ずっと、何か得体のしれない緊張感で全身が突っ張っていたようだ。シャワーで感覚が戻り、ウイスキーで感性が戻ったらしい。渉はもう一度酒を含んだ。今度は、飲んでいる、と言える程に。
 グラスを置く。外はもうかなり白くなっている。時刻はどれくらいだろうか。渉は腕時計を持っていなかった。とにかく、まだ六時は回っていないだろう。今日は講座もあるのだから少し眠るべきだとは思ったが、そのありきたりの連想を渉は笑って否定した。今の自分が眠れるはずがない。
 渉は部屋に戻った。ウイルスチェッカーはまだ動き続けている。今のところ、何も問題はない。きっと問題はないだろうな、と渉は思った。だが、それを確かめない訳にもいかない。そう、『何もない』という結果ですら、今の自分には必要なのだ。
 渉の中にまた何か、ふつふつと新たな思いが沸き上がって来た。そして、あることを思い付く。今すぐにコンピュータを使うべきだろう。だが、メインのコンピュータはウイルスを検索中であり、いじることはできない。渉は苛立ったように遅々として進まない画面の中の表示を睨み、そして別の手段に気が付いてベッドに腰掛けた。横合いから彼の持ち物であるもう一つのノート型コンピュータを引っ張り出す。一昨年の物で、もう既に時代遅れになりつつあるノートパソコンだったが、まだ使えないわけではない。渉は別の引き出しを開けてケーブルを取り出すと、ウイルスチェックを行っているパソコンとそのノートパソコンを繋いだ。ノートが外部接続を感知して自動的に動き出す。しばらく経って、使い慣れたOSのメニュー画面が現れた。
 渉はインターネットへの接続を開始した。このノートコンピュータ自体にその能力はないが、母機とも言えるデスクトップコンピュータにはそれがある。しばらくして母機を経由してインターネットのプロバイダに接続が完了した。ただちにN大学のホストコンピュータにログインする。その中からメインの校内掲示板を見た。おびただしい数の記事が掲載されている。それを流し読みして、次にウイルスメールに関する物を検索でチェックした。これもかなりのそれがある。送られた相手を名指しする激しい口調ものもあった。だが、ざっと見ても渉の興味を引くものはない。
 次に渉は彼の所属する建築科のドメインサーバに入った。犀川研で開かれているローカルネットがその中にあり、渉は自分のパスコードを入れてそこにログインした。伝言の通知に使われる掲示板は無視して、チャットルームを探す。記憶が正しければ、今夜はゼミの学生達によるチャットフォーラムが行われているはずだ。渉はそこに入った。
 人はほとんどいなかった。もう時間が時間だから、だろう。だがそれでも、何人かは残っている。
 調べるとFuchidaとHama、そしてKawaという三人の名前が確認できた。渉はすぐさま入室し、自分の存在を明らかにした。

> Kiryu:おはよう>all

 しばらくして返事がある。

> Kawa:びっくりしたぞ
> Fuchida:徹夜か?>Kiryu

 渉は返事をした。

> Kiryu:Yes ところで一つ質問 昨晩 変なメールが来ませんでした?

 胸を高鳴らせながら待つ。

> Fuchida:意味不明。説明しろ>変なメール
> Kawa:まいにち きとるぞ

 渉は息を吐いた。

> kiryu:差し出し人のアドレスも 題名もないメールです
> Kiryu:中身は英字で三行

 二行を連続で打って、そして待つ。

> Fuchida:知らん。ウイルスか?俺に転送するなよ(w >Kiryu
> Kawa:しんしゅ はっけんか? オレのメーラーは むてきだ てんそうしてみろ

 渉は深く息を吐いた。

> Kiryu:Hamanakaさんはどう?

 HamaというHN(ハンドルネーム)は渉にとって一年先輩の大学院生、浜中深志のことである。チャットルームにいるはずの彼は、さっきから何も発言していない。

> Fuchida:もう死んでいる>Hama
> Kawa:うごかない ただのしかばねのようだ

 渉は大きく心臓が跳ねるのがわかった。冗談以外の何物でもないだろうが、今はどうしてか笑えない。死んでいる、という一言が、妙に生々しく彼の目に映った。勿論それが比喩であり、おそらく寝落ちを示唆していることはわかる。つまり、パソコンを繋げたままキーボードの前で眠っているのだ。

> Kiryu:わかりました ありがとうございます
> Kiryu:もし そういうメールが来たり 話を聞いたら 俺に教えて下さい 

 しばらくたって、二人から茶化したような了解の返事。渉はチャットルームを出ることを告げてそこから離れた。ホストを経由し大学のメインフォーラムに戻って、深く息を吐く。
 とりあえず、あのメールは犀川研を含めた建築学科のサーバ内に適当にばらまかれたものではなさそうだ。もしも多数を目的にしたメールなら、同じ犀川研の学生である彼らにも届いていておかしくない。もっとも、もっと広い意味でのばらまき方をしていれば別だが。大学というものは閉鎖世界のようなものであり、その一員である渉一人に来たメールだとすれば、まさにその二通りしか考えられないだろう。
 つまり、どんな理由にしろ彼個人に宛てて送信されたか、それともそれこそ日本はおろか世界全体に広く拡散しているか、である。英文であることからもその可能性を捨てることはできなさそうだった。だとすれば、差出人など皆目見当もつかないどころか、こうして考えていること自体が滑稽だ。
 しかしまた、そういった悪戯に近い間違いメールという可能性も100%ではない。そしてそれが、たった一つのイニシャルを以って桐生渉をこうさせている原因だった。
 そう、1%もないかもしれない。それはわからない。だが、しかし、である。
 だがもし、これが彼に対するメールだとすれば?間違いメールという可能性が100%にならない以上、このメールが何らかの意味を持つ可能性も等しく存在するのだ。
 だから、それが欲しい。それは今までずっとくすぶっていた何かが再び燃え始めたような、いわば渇望とでも呼ぶべき渉の感情だった。
 何かないのだろうか。何か、何でもいい。何かが。
 そう、俺は手がかりが欲しいのだ。どこか冷静に渉はそれを認めた。何でもいい、何か情報が欲しい。あのメールが誰の手によるものか、どこから来たのか、何を意味しているのか。自分の中で風船のように膨らみ続けていく思惟に形を与えるために、それが欲しい。
 大学のフォーラムを少し回ると、渉は雑談用の掲示板に書き込みを始めた。

> 建築学科四年の桐生といいます
> 差し出し人不明のメールが届きました
> 英語の単語が二つ三つ並んでいる 意味不明のものです
> 何か心当たりのある方は メールでもいいので教えて下さい

 自分のメールアドレスを付記すると、渉は投稿をクリックして掲示板を更新した。彼の書き込みは雑談のトップに飾られている。大学の電子ネットワークは並外れて盛況だ。間違いなく明日……いや、今日の昼までには何らかの返事が書き込んであるだろう。
 と、そこでパソコンから小さな音が鳴った。渉は起き上がった。検索結果が出ている。
 『ウィルスは検出されませんでした。』その単純極まるメッセージを見て、渉は息を深く吐いた。結局、取り越し苦労……いや、また一つ、手がかりが消えたことになる。
 渉はデスクトップコンピュータをシャットダウンした。同様に、連結したノートコンピュータも消す。モニタの電源が切れる鈍い音と共に、部屋が一気に静かになった。コンピュータの作動音はそれほど大きかったのかと、少し驚く。そして、静寂に包まれた部屋……窓の外からの光で明るくなり始めている……の中で、ごろりとベッドに横になった。
 
 


[232]長編連載『M:西海航路 第五章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月24日 (金) 01時42分 Mail

 
 
 馬鹿馬鹿しい、とも思う。夜を徹して疲労した体で、お前は何をやっているのかと。可能性ならいくらでもあるではないか。手がかりは少なすぎ、そこから思索することは無意味を通り越している気がする。
 だが。
 渉の脳裏に、再びその文面が浮かんだ。
 help、from、そして、M.M.。
 違う、と思う。そもそも末尾のそれがイニシャル……そう、人の名前なのか。助けを求む、という読み方がはたして正しいのか。そこらの受験生がコピー&ペーストしたつづりを、間違って渉宛てにメールしてしまっただけなのではないか。それとも子供の悪戯か。渉は妥当そうな理由付けを挙げながら、そのどれもが、間違いなく彼自身が推察したメールの深意より遥かに可能性が高いだろうと思った。そう、例えば偶然起動していたパソコンに、その家のペットの猫が何かが飛び上がり、キーボードやファンクションを押してこのメールを送信した。しかもその飼い主がアドレスを隠すことのできる特殊なメーラーを使用していた。こんな、適当に思いついたような事柄でも、今彼が思っている……いや、可能性として決して捨てることのできないそれに比べれば、遥かに確率が高い。
 M.M.より助けを乞う。
 M.M.。
 Michiru Magata。
 真賀田ミチル。
 ミチル。
 渉は目を閉じた。そこに、鮮やかに浮かび上がってくるシルエット。
 白い服。そして、黒く艶やかな長い髪。淡く薄い……知的な色の瞳。
『絶対に信じられるものって、なに?』
 真摯な表情で、こちらに尋ねてくる少女。
『どうしたらいいの?』
 苦しみ、そして喘ぐ少女。
『私、気が変わった。』
 初めて見た、ぎこちない笑顔。
『じゃあ、今度は、そっちが決める番だね。』
 晴れやかな表情。
 そして。
 渉は瞳を見開いた。広い天井。全身から疲労感。だが、眠ることはできない。したい、したくないではない。それを受け付けないのだ。
 渉は起き上がった。机の引き出しを開く。一番下のそれ、その奥から、小さなフォトスタンドを取り出した。左右に観音開きになっている、割と高価なものだ。去年の秋、買ったもの。
 スタンドには金具の封がかかっている。渉は指先でそれを外した。そして、ゆっくりと開く。
 そこに、一枚の写真があった。縦長のそれで、決して写りのいいものではない。安い使い捨てカメラの写真だった。大きく写っているのは半裸で奇怪なポーズを取る二人の先輩で、先程のチャットルームにいた川端と淵田だった。もしも誰かがこれを見たら、こんな写真を後生大事に高価な額に入れている渉を、何か普通ではない感性の持ち主と思ったかもしれない。それ程その一枚は、笑うためだけの写真に見えた。
 だが。渉はじっと写真を見つめた。でかでかとそこにいる二人の先輩ではない。その間に挟まるようにして写っている、一人の少女。写真を撮られる二人の横を偶然通りかかったのであろう、船のへりにいる姿。
 彼女は、当惑するようにこちらを見ていた。
 白い服。そして、黒く長い髪。不安に満ちた、心細げな表情。
「ミチル……」渉はその名を呟いた。彼が、西之園萌絵が退出したこの数時間で、初めて口にした言葉だった。
『それ、私の名前じゃないよ。』
 どこからか、そんな声が聞こえた気がする。渉は写真に向かって笑いかけた。
 そう、これは君の名前じゃない。渉は思った。君が今、どう呼ばれているのか俺は知らない。君は、新しい名前を見つけたかい?それとも、まだ名前を名乗っていないのか?
 答えはなかった。航行する船上の少女は、渉を当惑した表情で見ているだけだ。
 停止した時間。瞬間の情景。彼女はここにいた。そして、今はもういない。それは当り前のことで、そうでないはずもない、当然の事実だった。
 人は過ぎ去る時間を忘れるために写真を残すのかもしれない。渉は思った。常に死に向けて歩んでいるからこそ、こうした写真によってそれを止めようと試みるのかもしれない。自分の若い頃、生まれた頃、過ぎた時間を懐かしんで、死へ向かう現在を忘れようと、あるいは今を納得させようとして。それは人という不死ならざる生き物が作り出した、死への……いや、生への抵抗ではないだろうか。生きているということは、いずれ死ぬということである。いずれ死ぬということは、今はまだ生きているということだ。その気の狂いそうになる輪廻の思考に対する恐怖をどうにかして拭うつもりで、そう、精一杯の抵抗として、人はこういう形ある記録を残し続けているのではないだろうか。
 いや、それは写真に限らないかもしれない。人は生きている限り何かを為していく。それが社会的にどうだ、他者にとってどうだということは、本来その者自身とは無関係だ。誰しも生きているから食物を摂取できる。本を書くこともできる。他人と対話することもできる。それが形になって残るか否かに関わらず、生きているということは何かを為し続けることだ。誰かを騙したこと、誰かを傷つけたこと、そして、誰かの命を奪ったこと。必要だからそうするのではない、それ以前に、生きているから、それが可能だからそうしているのだ。
 だとすれば、記憶すらもその一つなのかもしれない。渉が昨日、犀川創平に怒られたこと。国枝桃子から辛辣なメールを送られたこと。西之園萌絵と会話したこと。そのすべてを渉は覚えている。どうして覚えているかといえば、それを回想することによって今を忘れるためだ。死に向けて着実に進む自らの存在を、それでも間違っていないと自覚するためだ。買い物をするのも酒を飲むのも勉強をするのも働くのも、すべてが突き詰めればそのためではないのだろうか。自分はこれだけのことをしている。それができたということは生きているからで、だから生きていることは正しい。つまり、死ぬのはまだ早い。いつか必ず死ぬのだろうが、日々これだけのことをしているから、今はまだ死なない。まだ生きている、生きていられる。だから、さらに生きるために何かをしようと思う。いや、何かしなければならない。そうでなければ生きていけない。
 渉はフォトスタンドを閉じた。混乱が極まって、どうにかなりそうだった。
 いや、俺はとっくにどうかしている。ただの間違いメール一本から、ここまで思考を飛躍させるなど決して普通ではない。渉は首を振った。何度も、何度も。
 そうだ。ミチルが……真賀田の名が、これに関係のあるはずがない。下らない妄想だ。第一、彼女がミチルという名前である必然はどこにもない。ただ俺が、俺自身がそう呼んでいるだけだ。そして何より、彼女が真賀田という姓を使う理由もないじゃないか。それについて彼女がどう思っているかはとても想像できなかったが、どうしてか使わない、いや使う方がむしろ不自然だと渉には思えた。
 渉は棚に置いてあるグラスに気が付いた。そこにウイスキーが残っている。渉はそれを手にすると、ぐいと喉に流し込んだ。氷が溶け、薄まってもまだきつい感覚が喉から体の内奥に走った。焼けつくような、痛みにも似た感覚だった。
 音を立てるようにしてグラスを置くと、渉は陽光が差し始めた窓の隙間を見つめた。そうだ、もうやめよう。そんなことはありっこない。二度と、彼女と会えるはずもない。俺にはもう関係ない。あの事件は終わったんだ。真賀田四季博士はもういない。世界が認めたように、どこにもいないのだ。そして、彼女ももういない。世界が、元からその存在を知らなかったように。何もかも、すべてが終わったんだ。
 もう一度渉は繰り返した。
 すべてが終わった。それでいい。それでいいんだ。
 目覚まし時計が鳴り始めた。普段なら起床する時間だった。渉は手をふるってそのスイッチを押すと、何も考えずにベッドに潜り込んだ。今日しなければならないことも、しようと思っていたことも、何もかも無視した。
 幸い、眠気はあっという間に襲って来た。夢を見ることもなかった。
 
 
 


[233]長編連載『M:西海航路 第六章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月24日 (金) 01時44分 Mail

 
 
   第六章 Mystery  

   「話が見えてこないよ」

 
 週の明けた月曜日の午前六時。エレベータを降りてマンションから出た桐生渉の前に、茶色のセダンが停車していた。
 磨き抜かれた車体が織りなす滑らかなライン。車好きでなくとも、その美しい曲線美にしばし目を奪われることは間違いないであろう。最高級のジャガーであった。
「桐生様でございますね。おはようございます。私、お嬢様にお仕えさせていただいております、諏訪野と申します。」白い息をわずかに散らして、立っていた男が頭を下げる。体格のがっしりとしたその老人を、渉は以前に何度か見たことがあった。
「はじめまして、桐生渉です。今日は本当に、お世話になります。」渉も頭を下げた。諏訪野老人の整然とした仕草に比べて、まったく精彩がない。「それで……あの、西之園さんは?」
「はい。そのことなのですが……実はお嬢様は、昨晩よりお友達のお宅にお邪魔しておりまして……少しお遅れになるとのお話なので、私には先に桐生様を東京までお連れするようにと、仰せつかっております。」まさに御の字の羅列を重ねて、諏訪野老は申し訳なさそうに頭を下げた。渉はこちらが悪いような気分になる。「お嬢様はあとから御自分のお車でいらっしゃるとおっしゃっておられました。出立までには必ず間に合わせる、とのことで。」
 その光景を想像し、渉は今日の高速道路の利用者に同情した。「そうですか。じゃあ、俺は……」
「はい、どうぞ今日の所は、これを御自分の車と思ってお乗り下さい。お荷物はトランクへお入れします。」渉は大きめの旅行鞄を一つ用意していた。昨日、大学の友人から借りたハードキャリーである。中には衣類やデジタルカメラ、さらにはノートパソコンや参考書、資料などが厳選されて(という程彼に持ち物はないのだが)入っていた。
 諏訪野老人は慣れた手付きでその大きな鞄を持ち上げ、丁寧にトランクに押し込んだ。渉は開けられていた後部座席に入る。西之園萌絵のスポーツカーには幾度か相席したことがあるとはいえ、ジャガーのセダンの後部座席はそれとはまた違う、ある種の高揚感を彼に与えた。
「桐生様、よろしいでしょうか。」諏訪野老が運転席からこちらに微笑んだ。渉は少し表情を強ばらせて頷く。
「お願いします。」かしこまりました、と諏訪野老。そして車が動き出す。
「順調に行けば横浜までは四時間半程でしょうか。長旅ですが、どうかごゆっくりおくつろぎ下さい。」渉はバックミラーの老人に頷いた。
 景色は既に那古野市市街に移っていた。老人の運転は萌絵とは正反対だが、速度においてはそれ程の差はないかもしれない。どこか少し緊張しながら、渉は思った。だが正直なところ、本当に車で東京まで行くとは思っていなかったのが本音である。飛行機という手も予想したが、おそらく新幹線であろうと彼は思っていたのだ。だがやはり西之園萌絵というか、こういった長い距離を走ることを無上の喜びにしているのだろう。いや、速度を出せるチャンス、だろうか。
「諏訪野さんは、西之園さんを……」思い付くままそう口にしてしまい、渉は自分に焦った。今さっきの緊張はどうしたのか。「……その、昔から知っているんでしょうね。」当たり障りのない調子で言ってみる。
「それは勿論でございます。私は先々代の旦那様に見出されて以来、三代に渡り西之園家にお仕えさせていただいておりますから。」物語ではよく読むそんな話も、いざ目の前にいる老人の口から出ると重みが違う、と渉は人ごとのように感心した。渉は決して文学的な人間ではないが、それでも何か感慨深いものを覚えずにはいられない。「ですが、私ももう齢を重ねすぎてしまいました。今は萌絵お嬢様に精一杯お仕えさせていただいておりますが、これが最後の御奉公になるやもしれません。」
 老人の独白めいた言葉に、渉は思わず首を振った。「いえ、そんな。諏訪野さんは、まだまだ壮健そうですよ。」壮健そう、という言い方はとても正しいとは思えなかったが、老人はにこやかに笑ってくれた。
「ありがとうございます。萌絵お嬢様は本当に良いお友達をたくさんお持ちで、私も日々、お嬢様の御成長ぶりをとても嬉しく思っております。よろしければ桐生様、これからもどうかお嬢様の善きお友達でいらして下さいませ。」渉は背中にむずかゆさを感じた。今朝は早く起きてシャワーをたっぷり浴びて来たが、どうやらこの感覚はそれとは別のものらしい。
「できる限りのことは、したいと思っています。」それは間違いではない、と渉は思う。「でも、俺は逆に西之園さんにお世話になってばかりですよ。この旅行のことも、マンションのことも。」言ってしまって、渉は少し気になった。諏訪野老は、渉の部屋のことを知っているのだろうか。
「お部屋の件では、大変失礼致しました。」どうやら知っていたらしい。だが、失礼とはどういうことだろう。「前以て準備をする時間があればよかったのですが。何しろ急だったもので、私どもも荷物を運び出すのが精一杯で……」荷物を、運び出す?
「あの、どういうことでしょうか。」渉は心持ち抑えた声で聞き返してみた。「俺の使っているあの部屋は……もしかして、誰かが使っていたのですか?」いや、まさか。
 諏訪野老はバックミラー越しに優しい微笑を見せた。「お気遣いを感謝します。ですが御安心下さい。あの部屋はあくまで緊急の場合に備えて空けられていた部屋です。荷物とは言っても、折り畳みの寝台やテーブル程度のものですよ。」
「そんな……まさか、諏訪野さんの部屋だったんですか?」渉の声は大きくなった。
 諏訪野老が首を振った。「いいえ。私はお嬢様と共に住まわせていただいております。幸いながら、十分な大きさの一間もいただいております。」西之園萌絵の部屋が正確にどこにあるのか、渉は知らない。「あの部屋はあくまで……そう、非常用とでも申しましょうか。あちらのマンションはすべて分譲が終わっておりますので、もしお嬢様含め御親族の方に何かあっても、直ちに部屋を空けるという訳にも参りません。ですので、西之園グループではなく、しかる別名義によって一戸をあらかじめ買い取ってあるのです。」大きいマンションにはそういう部屋がある、と渉は友人から聞いたことがあった。急な引っ越しや転居手続きのミスの時に、高額の購入者を困らせないための一時的な処置に備えて……確か、そんな話だったろうか。
「そうだったんですか……」それ以上、何を言うべきか言葉が見つからない。渉の頭の中には、あの日の萌絵とのやり取りが反芻していた。「あの、俺、本当に来年の……いえ、卒業が決まり次第、すぐにマンションを出ますから。」旅行から戻り次第、と言いたかったが、それでは失礼かもしれないと渉は思う。もっとも、それこそ自分の奢りかもしれないが。
「いいえ。」諏訪野老は大袈裟に目を見開いて渉を見た。「どうか、桐生様のお気が済むまであの部屋をお使い下さい。萌絵お嬢様から聞いております。桐生様は犀川先生にも期待されている優秀な生徒様であるそうで。」犀川創平の名前が出て、渉は卒論の話を思い出した。「また、桐生様の御趣味はお嬢様の御嗜好ともよく合われるとか。その節は、大学校の倶楽部でとてもよくしていただいたと、この諏訪野も度々聞いております。」
 西之園萌絵と桐生渉の最初の出会いはN大のミステリィ研究会において発生したものである。昨年の春、ひっそりとしていたクラブの門戸を叩いた『とんでもなく派手』な新入生。当時の部長が勧誘して来たという話だったろうか。とにかく場違いな程に世間ずれした萌絵の出現に我と灰汁の強い部員達は揃って色めき立ったが、その手の情報筋から流れて来た彼女の家庭を含めた背後関係が伝わるや否や、誰一人として萌絵を進んで相手にしようとする者はいなくなった。いや、いるにはいたのだが、彼女が率先して興味を示す事柄に、望んで答える者がいなくなったのだ。
「いえ、たいしたことはしていませんよ。本当に。」その状況でたった一人新入生の萌絵の相手をしたのが、当時(今もだが)ミステリィ研の最上級生でもあった桐生渉である。下級生に懇願されて、というのも半分はあったのだが、N大学の前総長を父に持つ西之園萌絵のことを聞かされても、内心そこまでどうとは思わなかったのが大きい。それは渉に備わった天性の性癖とでも評すべきものだったが、結果、渉は萌絵と数日来ミステリィについて語り、そして意気投合することになる。
 
 


[234]長編連載『M:西海航路 第六章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月24日 (金) 01時45分 Mail

 
 
 車は高速に近付いていた。渉は窓の外の山々を見つめる。
 ミステリィ、か。渉はその単語の意味する所を考えた。Mystery。秘密、あるいは神秘とも訳すことができる。だが、その最たるものは『謎』であった。それについて書かれた物語を読むことは渉の昔からの趣味だった。だった、という過去形である理由は、彼がこの一年近くミステリィを読んでいないからである。以前は週に一冊どころではない、日に一冊に近いハイペースで読んでいたこともある。ミステリィについて解説されたホームページを片っ端から巡ったり、トリックや論述、あるいは登場人物についてクラブの仲間達と夜を徹して意見を戦わせたり、無名の創作者によるネットのミステリィ小説や同人誌を読み漁ったこともあった。
 だが、今はすっかりそういった活動もなりを潜めている。どうしてだろうか。やはり、卒業寸前で留年し、あとのない四年生を迎えてしまったからだろうか。考えると、今年はミステリィ研に顔を出したのも新人歓迎コンパの時だけだ。面白いと聞かされたミステリィを読んだ記憶も、その類のテレビドラマや映画を見たことも、今年に入ってからはまったくない。まるで院生というか、研究の虫のようだ。
 ふっと、渉は犀川助教授のことを思い出した。テレビも、いや新聞すらまったく見ないという犀川の私生活をゼミの先輩連から聞かされた時、渉はそんな馬鹿なと耳を疑ったものだ。だが、実際に犀川研に所属し、彼の授業を受けてしばらくすると、渉はその犀川の現実を不思議に思わなくなった。犀川創平とはそういった人間であり、彼にとってマスコミを含めた一般の情報など無意味で価値がないのだ。
 だが、桐生渉は犀川創平ではない。渉は新聞も読むし、テレビを見て笑うこともある。彼が興味を失ったのはミステリィに関してであり、それは極論、創作された存在に対してのそれと言えた。
 そう、理由はあった。そう帰結した瞬間、渉は胸の奥にずん、と響くような感覚を覚えて息を吐いた。
 それは簡単かつ明瞭な理屈だった。
 彼の遭遇した現実が、ミステリィを越えていたのだ。
 凄惨な連続殺人事件。物理的に、そして電子的に閉じられた完璧な密室。およそ常人には理解できない程の理論によって導き出された、遠大な目的と計画。
 この地上に存在する唯一の天才。彼女が用意したステージは、一介の平凡な大学生であった桐生渉の心身を徹底的に翻弄し、混乱させた。それは、共にいた西之園萌絵と犀川創平にとっても同じであったろう。三人は持てる知力を振り絞ってその謎に挑み、そして、まさに寸前のところで細い糸が繋がった。
 だが、それだけだった。物語に約束されているように犯人が捕まることも、平穏無事にすべてが元通りになることもなかった。事実は小説より奇なり、とはよく言ったものである。渉達はすべてにおいて後手に回り、与えられた報酬は真犯人の圧倒的な力を再認識する、その空虚とも呼べる途方もない時間だけだった。
 そう、まさに天才の手による舞台。それはひっそりと終幕し、とうに人々に忘れ去られている。
 だが。
 渉は瞳を閉じた。
 もしも、完璧かつ精巧緻密な犯人の手によるシナリオに手違いがあるなら。
 たった一つ、それがあったとすれば。
 それこそが、『彼女』の存在であったろう。
 おそらく唯一、そう、唯一……犯人の持つ天才に拮抗し得る可能性を持つ才知。
 それは未発達であり、幼く、偏ってはいた。
 だがそれでも、彼女もまた天才であった。
 ミチル。
 そう、あの夏の島での体験は確かに強烈だった。だが、桐生渉を真に変えてしまったのは、彼自身がそう認めるか否かに関係なく、間違いなくその一人の少女との出会いであっただろう。
 仮想空間で出会った存在。現実に邂逅した時、彼は血を流して床に倒れ、彼女はそれを為した鈍器を手にして彼を見下ろしていた。そして、『渉にとっての』事件の幕切れ。たった一人、彼だけが招待された仮想現実の空間。そこで少女は己の知るすべてを渉に告白し、渉は少女に求められたことを教えた。
 そして、夏が終わった日。
 最後の日。
 あの日の短い再会を、渉は今でも夏の白昼夢ではなかったかと思う時がある。あるいは本当にそうなのかもしれなかった。あの事件のことが頭から離れないままにゼミ旅行の写真を眺めていた彼が、その中のたった一枚に、偶然写っていた一人の少女を見つけた日。あの大学の庭で居眠りをしていた自分が、強烈なイメージから夢見た短い夢幻の時間。あるいは、刹那の安らぎだったのであろうか。そう思うたびに、渉は本当にそうなのかもしれないと自分の記憶を疑った。
 そう、そう思うに至る理由はまだある。別れた……いや、あの日の午後に目が覚めたあと、渉は西之園萌絵に頼んで警察方面の情報をそれとなく調べてもらったのだ。それはあの時少女が言い残した言葉がおそらくそうなのであろうと渉自身が帰結したためであった。だが、驚くべきことにそんな情報はまったく入らなかった。極秘とされている可能性もあるが、それを言うならばこちらは愛知県警本部長を父に持つ西之園萌絵による調査である。結果、渉は自分の認識が間違っていたと考えざるを得なくなり、それは転じてあの再会のすべてがまぼろしではなかったのかと疑う要因となった。
 そう、すべては夢だったのかもしれない。渉の願望が、若い想いが成した、晩夏の夢。
 だが。
 渉は目を開けた。そこには、自分の体が、腕がある。その片方の手のひらを、渉はじっと見つめた。
 ならば、どうしてなくなっているのか。
 そう、あれがなくなっているのはなぜなのか。それが、それこそが、あの夏の終わりの日に起こった出来事が、決して夢などでない証拠だった。唯一にして、無二の証拠。
 鎖のついた懐中時計。時を刻む、どこにでもあるアナログ式の時計。それは、渉が偶然に少女より手にしたものだった。そして、次に再会を果たした時、渉はそれを彼女の手に返したのだ。
 渉はゆっくりと手を握った。そう、あの懐中時計の感触を、重さを、俺はまだ覚えている。正確に、その所有者に時間を告げ続けたであろう小さな時計。あれこそがすべての鍵であり、所有者と、そしてその庇護にあった者が共に十五年の年月を刻んで来たことの、絶対の証だった。
 懐中時計。止まることなく時を量る、小さな現実。
 忘れもしない。
 その裏には、『M.M』のイニシャルが刻まれていた。
 
 
 


[235]長編連載『M:西海航路 第七章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月24日 (金) 01時48分 Mail

 
 

   第七章 Motorway

   「無茶苦茶な運転?」

 
 延々と走り続けた車が、サービスエリアに止まった。
 富士川のサービスエリアは、非常に見晴らしがいい。朝食はどうですかと運転手の諏訪野老人が言うので、桐生渉は喜んでパーキング近くのカフェに入った。だがしかし諏訪野老自身は来なかったため、渉は一人でモーニングセットを頼み、ざらっとした舌ざわりのサンドイッチを熱いコーヒーで流し込んだ。
 西之園萌絵の趣味に合わせて(と、渉は記憶している)、ジャガーにはCDやカーナビ、果てはラジオすらついていなかった。灰皿もないかもしれない、と渉は思い、犀川創平助教授のことを思い出してそれはないなと苦笑する。とにかく機能的な車だ。走るための車。そのための機能しか備わっていない点で、まさにそうだ。
 だが渉が退屈していたかと問われれば、それはまったく逆だった。諏訪野老の運転する快適な車内で流れる景色を見ている渉の胸中には、ここ数日で思い浸った様々な事柄が去来していた。事実、そういう時には余計な音楽やサービスなどない方がありがたかった。その点では、車の持ち主である西之園萌絵の選択は決して間違っていない。
 それにしても、と渉は思った。
 M.M.。
 そう、M.M.だった。二つの英字とそこに添えられた二つのピリオド。たったそれだけで、この数日来渉の世界は一変していた。もしもこれが悪戯だとすれば、自分を混乱させるにこれ以上効果的なものはなかっただろうと渉は思う。それ以上でも、それ以下でも、ここまで思い悩むことはなかったに違いない。そのメッセージは渉の心を揺さぶるに足る最高度の段階に達しており、同時にその意味を突き止めねばと渉に何もかも捨てて熱望させる程の内容ではなかった。そういう意味では、まさに恐るべき究極の一言だったと断じることができる。
 だが。渉は香りの薄いコーヒーを含んで苦笑した。もう、いい。
 そう、できる限りのことはした。そして、そのすべてが徒労に終わった。徒労、という言い方をよしとしないのならば、あのメールが無意味なそれだという確信がより強まった、と評すればいいだろうか。手がかりを求めて情報が得られないということをそういった見地から示すのならば、それはまさにその通りだった。
 大学のネットワークに関して、渉の受け取った件のメールについての情報はなかった。ゼミ仲間も同じであったし、フォーラムの掲示板でもそうだった。ウイルスメールはそれこそ未だにあらゆる種類のものが活動し、日々うかつな学生がそれに引っ掛かり悲鳴をあげていたが、渉が受け取ったような発信者表示がなく本文も意味不明なメールを受け取った者はいなかった。あるいは受け取ったとしても、それを気にして渉に接触してくる者は一人も。
 転じて、この件に関して渉が相談するべき二人の人物がいた。一人は勿論、西之園萌絵である。だが西之園萌絵はあの夜の訪問以来、渉の前に姿を見せていない。もっとも渉は彼女に関してはさほど心配していなかった。相談するにしろしないにしろ、これから一週間萌絵と共に行動するのだ。機会はいくらでもあるだろう。
 尋ねるべきもう一人は、渉、萌絵と共にあの事件に直接遭遇した人物である、犀川創平助教授である。だが、渉はまだ犀川にこの件を打ち明けてはいなかった。犀川の意見が聞きたかったのは勿論であるが、その思いと正比例する如く、どこかでそれをためらう気持ちが渉の中にあったのである。その理由は明白だった。
 ミチルの存在。
 そう、渉がその名で呼ぶ少女の存在を、犀川は認知していない。少なくとも、渉以上には、決して。無論、真賀田四季博士の娘がまだ生きており、彼女こそが昨年妃真加島で発生した連続殺人事件の実行犯であることは犀川の頭の中にあっただろう。そして今現在、その少女が行方不明なことも。だが犀川はあの事件のしばらく後で、渉と少女が彼の勤めるN大のキャンパスで再会したことを知らない。
 そして渉は、それを誰にも知らせるつもりがなかった。今まで、あの夏の日の出来事を誰かに話したことはない。
 だから俺は、と渉は思う。だから俺は、犀川先生にこの話を相談できないのだ。犀川先生ならば、メールの件を俺が話しただけで、すぐに『M.M』のイニシャルを持つ者……真賀田ミチルの存在に気付いてしまうに違いない。
 そしてその時、ミチルとの再会の事実を隠しておける自信が渉にはなかった。確かにあの事件……最終的に、真賀田研究所で発生した殺人事件の根元のトリックを解明したのは渉だった。それはコンピュータシステムに隠された四季女史によるトリックに気付いた犀川も認めていた。だが渉がそれに至るまでの経緯には、ほとんど偶然と言ってもいい事柄が二つ三つ作用している。ミチルの存在を知っている者は渉と西之園萌絵だけであったし、さらにミチルと実際に(現実世界で)対面したことがあるのは、彼女に刺されて重態に陥っていた副所長の山根幸宏を除けば、桐生渉ただ一人だけだった。もしも犀川が渉と同じ情報を得、同じ体験をしていたならば、きっと自分より遥かに早く結論へと達していたに違いない。そう渉は思って……いや、確信していた。
 そうなれば、ミチルはどうなっていただろうか。渉は思いを巡らせ、そしてかすかに身を震わせた。店内のそこかしこでスチームが派手な音を立てているとはいえ、冷えたアスファルトから湯気の立つ高速道路の朝は寒い。
 そう、俺は彼女を守ろうとしている。渉は漠然と、どこかでそう理解した。だから、俺は犀川先生にあのメールの件を話すことをためらっているのだ。先生には、真賀田四季博士の娘に対する個人的感情はない。真賀田四季博士個人に対してはその天才を手放しで誉めそやすことこの上ないが、それ以外の……例えば、真賀田四季博士の妹であった人物に対してすら、先生の興味はまったくないのだ。
 真賀田未来。真賀田四季の三歳違いの妹。姉とは違い、凡庸な知性しか持たなかった『ただの』人。
 だが、それは違う。渉は最後のコーヒーを喉に流して、紙コップを握り潰した。
 彼方に富士山が見える。冬の大気の中で、山は白かった。その姿を遠くに見つめて、渉はもう一度ゆっくりと息を吐いた。
 違う。違うのだ。間違いなく真賀田未来もまた、優れた人物であった。そう、一般の見地からすれば、彼女もまたまぎれもなき『天才』であったのだ。無論、姉の四季に比して遥かに及びもつかなかったであろうことは事実だろう。だがそれでも、彼女はいかなる凡人よりも優れた知性を有していた。それは、それだけは間違いない。絶対に。
 そうでなければ、誰にも疑われることなく十五年もの歳月を、あの地下の空間で生きてこられたはずがない。想像を絶する忍耐と、それを遥かに上回る姉への想い。そう、真賀田四季の裁判の際に二人の入れ替わりが行われたのであるとすれば、その時分、妹である真賀田未来はまだ十三歳足らずであったはずだ。そんな年齢の少女が、姉の犯した殺人の意義とその目的を真の意味で理解し、その姉の身代わりとなり、さらには姉が産み落とした赤子を自らの手で育てようと決意できるだろうか。あの、永遠の牢獄とも呼べる白い世界で。
 渉は瞳を閉じ、昨年黄色いドアの向こうで目撃した無機質な光景を回想した。そう、あれはすべて真賀田未来が利用していたものなのだ。決して真賀田四季ではない。そして、あの研究所において日々の活動と研究を重ねていたのも、他ならぬ未来自身である。無論、最も重要な研究とそれに関する判断は姉である四季の手に委ねられていた。だが、現実に所員の一部と直接、あるいは電子的なメッセージにおいて頻繁に対話し、細かい指示の一つ一つを下していたのはまぎれもない彼女……真賀田未来なのである。それは、あの研究所の内部状況と姉妹が遇された密室とも言える環境に照らして、100%確実なことだった。
 そう。姉だけではない。その妹である真賀田未来もまた、非凡な存在であった。
 未来の才能がいつ開花したのかは誰にもわからない。だが、姉の四季が三歳違いの妹のそれに早くから気付いていたことに疑いはなかった。そして(だからこそ)、四季は妹のふりをしてみせることを周囲に行ったのだ、と渉は推測していた。自分と違って平凡な妹。神童と呼ばれ、マスコミに連日連夜騒がれ続ける自分とは対照的に、心身の弱い、どこにでもいるであろう凡庸な妹。その姿を周囲にあからさまにアピールしてみせることで、四季は妹の持っていた天賦の才を誰にも知られることなく隠蔽していたのではないか。そして同様に妹の未来もまた、姉である四季の指示に従い、平凡で病弱な自分をことさら強調し、演出した。
 真賀田姉妹。
 身を震わせる何かに、渉は黙して立ち上がった。もう、車に戻らなければならない。トレーを戻すと、渉は自動販売機でホットの缶コーヒーを二つ購入して車に戻った。
 
 


[236]長編連載『M:西海航路 第七章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月24日 (金) 01時51分 Mail

 
 
 そこには諏訪野老人がおり、驚いたことに車内電話で何かを話していた。「……ですがお嬢様。いえ。はい、わかっております……」諏訪野老の視線が、ちらと車外の渉に向けられる。渉はにこやかな表情で明後日の方角を向いた。車内電話があったとは驚きだが、それよりも電話の中身が気になった。西之園萌絵からのようだが、何の連絡だろう。「はい、いらっしゃいますが……わかりました。しばらくお待ち下さい。」諏訪野老が受話器に手を当てて、渉に顔を向ける。「桐生様。萌絵お嬢様が電話でお話したいと申しておられます。」
 渉は頷いた。ドアを開けて後部座席に入り、うやうやしく差し出された受話器を手に取る。「もしもし、桐生です。西之園さん?」車内電話のコードが長く伸びた。
「あっ、桐生さん!」萌絵の声は妙にハイテンションだった。「どうですか?出発には間に合いそうですか?」
「ああ。今富士川のサービスエリアだよ。今日は道も空いてるから、かなり早めに横浜につくんじゃないかな。諏訪野さんの運転も快適だし。朝早く出て正解だったよ。」運転席の諏訪野老は身動き一つしない。
「そうですか。よかった!あの、桐生さん。実は私、昨夜は友達の家に泊まっていて、少し遅れてしまって……」しおらしい声が聞こえてくる。「今からそちらに向かいますから、諏訪野にも安心なさいって伝えて下さい。さっきから、私の荷物とか運転とか、心配しちゃって仕方ないんです。」渉は苦笑した。諏訪野老がそう心配する理由には至極納得がいく。「その……絶対に間に合わせますから、桐生さんは安心して、先に船に乗っていて下さいね?」
「ああ、横浜で待ってるよ。でも、飛ばし過ぎないようにね。平日だからそこそこすいてるけど、運転には気をつけて。」とはいえ、こんなことを言ったら彼女は逆に飛ばすだろうなと思う。「遅れそうなら、新幹線か飛行機を使えばいいよ。早いし。」それができるのならば、最初からそうしているかもしれないが。
「え……ええ。そうですね!それもそうだわ。わかりました、間に合いそうになかったら、電車か飛行機で行きますって、諏訪野に伝えて下さい。それじゃ桐生さん、急ぎますからこれで。シャワー浴びなきゃ。」
 渉は笑った。「了解。それじゃ、また後で。」萌絵が同意して、電話が切れる。
「どうも桐生様、お嬢様が大変に御迷惑を……」諏訪野老に受話器を返しながら、渉は首を振った。
「いいえ。西之園さん、必ず間に合わせるからって言ってました。電車か飛行機を使ってでも、必ず、って。」諏訪野老が片眉を持ち上げる。渉が初めて見る、老人の驚いた仕草だった。「あの……何か?」
「いえ。それでは参りましょうか。お手洗いなどはよろしいですかな?」控え目な問いに渉は頷いた。そこで思い出したように、ジャケットのポケットから缶コーヒーを取り出す。
「あの……諏訪野さん、これ、どうぞ。寒いので。」この老人はコーヒーが好きだろうか。渉はそれを失念していた。「あ、コーヒーでよかったですか?」
 再び、諏訪野老人は眉を上げて渉を見た。次の瞬間、その顔に好々爺の如き穏やかな柔らかい笑みが浮かぶ。「これはこれは、結構なものを。はい、ありがたく頂戴致します。」頭を下げる老人。渉は何だか気恥ずかしくなった。
 車が発進する。再び高速へ。そして、変わらぬスピードと、完璧なまでの安全運転。
「私もお嬢様におつきあいして、色々とハイカラな思いをさせていただきました。缶珈琲、という飲み物を初めて飲んだのも、お嬢様に教えられたことが始まりでしたな。」渉が缶のプルトップを開けていると、諏訪野老がそう語った。
「そうですか。そういえば西之園さんは、昔から頭がよかったと聞きましたが。」誰だろう、その話を教えてくれたのは。萌絵自身ではなかった気がする。
「はい……いえ、それはもう、とても聡明な方で。失礼ながら、長年西之園家に勤めさせていただいております私でも、お嬢様ほど明晰な知慮に恵まれた方をお見かけしたことはございません。そう、強いて言えば……先代の恭輔様があのような御様子でありましたか。」萌絵の父である西之園恭輔博士は犀川創平助教授の恩師であり、N大学の元総長でもあった人物である。既に逝去した彼に限らず、西之園家は代々才人に恵まれており、その一族は那古野市だけでなく全国各地で様々な分野の頂点を極めているという話だった。その中でも屈指ということは……渉は西之園萌絵の姿を記憶の中から引き出すと、少々そのシルエットを修正した。「勿論、亡くなられた恭輔様も奥様も、それはもうとても素晴らしい方でいらっしゃいました。一粒種の萌絵様も、幼い頃から優秀極まる才をお持ちで。不肖私めなど、お嬢様が三つになる頃にはもう、愚か者の老爺扱いをされてしまっていた程です。」
「なるほど……」ほほえむ諏訪野老の言葉にはいくらかの愛慕の曇りがあるのでは、と渉は推察したが、それでもあの西之園萌絵の言動と能力を見る限り、それがまったくの真実であるという可能性も捨てきれないと認めた。
 と、そこであることを思い出す。見方によっては、これからの渉にとり最も重要であるかもしれぬ事柄。「そういえば、今回の旅行……船で結婚式をあげるという人ですが、西之園さんの友達……確か、幼馴染みとか聞きましたが。」
 諏訪野老はバックミラー越しに頷いた。「はい、その通りです。九条院瑞樹様と申しまして……」うわ、と渉は反射的に思った。ニシノソノモエ、に優るとも劣らない名前だ。クジョウインミズキ、とは。「お嬢様と同い年になるお方でございます。お二人は幼き頃に、ほんの偶然でお知り合いになられまして……その頃はまだ、西之園家と九条院家は正式な交流がありませんでした。ですがお嬢様方のめぐりあいによって両家に親交が生まれ、亡き旦那様も奥様も、あちらの祖父方とお近付きになられた……と、存じております。」諏訪野老は物々しくそう告げた。
「どんな方なのですか?その……九条院、瑞樹さんという方は。」舌を噛む、という程ではなかったが、まさに仰々しい名前だった。そう、深窓の令嬢を字で表したような、そんな名前だ。
「はい。ですが私の存じ上げる瑞樹様は、萌絵お嬢様とお知り合いになられてしばらくまでの御様子だけで……現在の瑞樹様がどのようにお成りになっていらっしゃるかは、とても量りかねます。」残念そうに、それでも確かなそれを信じているように、諏訪野老人は語った。「ですが幼き頃の瑞樹様は、それはもうはつらつとした可愛らしいお方で……萌絵お嬢様とお二人で、よく探検ごっこをなさっておりました。私どもも、お二人には始終振り回されるばかりで……今となっては、とても懐かしい思い出でございます。」探検ごっこ、という子供っぽい響きの言葉に、渉も思わず微笑んでいた。
「仲がよろしかったようですね。」渉の口調も思わず敬語調になる。諏訪野老が微笑んだ。
「はい、それはもう。私は偶然、お二人の出会いの場に居合わせたのですが、互いにそれはもう花のようで……あの日のことは、未だによく覚えております。」懐かしむように諏訪野老は評する。この人程こんな台詞が似合う人もいないのではないか、と渉は思った。
「そうですか。」コーヒーを少し飲むと、渉はそれを備えつけのホルダーに入れた。「どんな出会いだったのですか?あ、差し支えなければでいいんですが。」
 諏訪野老は目を細めて、そして頷いた。「桐生様にこのことを語ったと知られたら、萌絵お嬢様よりお小言をいただくかもしれませんな。」だが、それはためらいというより、嬉しがっているようにも見える口振りだった。「よろしい、一つお話しましょう。ですが年寄りの思い出話です、かなり退屈かもしれませんぞ。」
 渉は首を振った。諏訪野老が微笑み、ゆっくりと語り始める。「そう、あれは今より十と……そう、五年近くは前になりますか……」
 窓の外に流れる東海道。彼方に見える富士山。
 平均で三桁に至るであろう速度を維持しつつも、ジャガーのセダンはあくまで安全運転だった。
 
 
 


[237]長編連載『M:西海航路 第八章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月24日 (金) 01時54分 Mail

 
 
   第八章 Memory

   「私のことは、私が知ってるだけで充分でしょう?」


 のどかな光景だった。
 朗らかな春暖の風。木漏れ日が注ぐ一本の長い道の先に、荘厳な邸宅があった。
 周囲に他の家屋は見えない。塀や垣根すらも。広大な緑の中に古びた作りの大きな母屋があり、渡り廊下でそれと繋がる三つばかりの別棟のみが存在している。その光景は、まさに深き森の中にひっそりと聳える古城のようであった。
 だが、実のところその印象から来る認識はかなり間違っている。ここは雄大なる山の麓に位置する日本有数の避暑地であり、遥か高処より見下ろせば、この邸宅を含め辺りに点在する別荘や家屋敷の数々と、さらにはさほど遠くない場所に位置する観光客でにぎわう街並みすら見定めることができただろう。結果、そういった周囲の現実を忘れさせる程の静けさに包まれたこの屋敷とその周辺は、察するに何か途方もない価値を有する空間であり、転じてそれを保有する何者かの存在を気付かせぬ訳にはいかなかった。
 だが、そういった俗世の事情を我関せずとする存在もいるものだ。
 木々の間を走り抜けていく子供達。年の頃は違えども、どの子も総じて小学生程度の年齢であろうか。男子も女子も含んだ十人前後の少年少女らは、身に付けた小奇麗な洋服が汚れるのも構わずに、一流の庭師によって手入れされた庭園の中で楽しそうに遊んでいる。
 そして目を移せば、その子供達を見守り、あるいは眺めて談笑する大人達がいた。邸宅の母屋、そこにある広々とした庭続きのベランダ。そこには白い足長の丸テーブルが幾つも並び、ワインやシャンパン、あるいは立食用の料理のたぐいが豊富に並べられていた。そこで大人達は駆けまわる子供達を見ながら笑い、あるいは互いの話に熱中している。それぞれに夜会……いや、燕尾服やドレス等を身にまとった、どうひいき目に見ても『経済的に貧しくはない』であろう人々。
 そんな大人達の中央に、車椅子に腰掛けた一人の老人がいた。彫りも深い面立ちの彼は眼光も極めて鋭く、一種独特の近寄り難い雰囲気を以って周囲の大人達からある種の……そう、畏敬と呼ぶにふさわしい目差しで遇されている。宴席にあたりその老人に自ら話しかけようとする者はおらず、そして老人もまたほとんど語り食することはないようだった。ただ、執事風の身なりをした中年の男が一人、その老人の背後に影のように付き添い、時折その車椅子を動かしている。
 そんな中、大人達が談笑する一角から一組の夫婦が現れ、車椅子の老人の前に進み出た。二人とも壮年期を過ぎてなお健勝といった風貌で、それでいて且つ優美で知的な物腰も確かな夫婦である。二人は老人に何か用件でもあるのか、その前で一礼して何事かを述べ始めた。老人もまた二人に軽く手を上げて答え、周囲はそんな三人のやりとりを奇異や畏敬、または敵意すらこもった視線で窺った。
 しばらく経つと、老人と夫婦の話は終わった。にこやかな態度で踵を返す夫婦と、その洗練された仕草を強烈な眼光でじっと見送る老人。周囲の人々は無事に終わった会談に安堵したのか、再びそれぞれにぎやかに話し始め、各々の話題に熱中した。だがやはり彼彼女らにとりそれが気になるのか、車椅子の老人と先程の夫婦を見比べ、あるいは小声でその話をしている。
 何にせよ、緑に囲まれた屋敷で行われている午後の立食会はたけなわだった。
 そんな中、先程の夫婦に一人の男が歩み寄った。がっしりとした体躯の彼は、少々窮屈そうに小綺麗な燕尾服をまとっている。小脇には黒い鳥打ち帽を挟んでいた。男は夫婦の前でうやうやしく頭を下げると、その一人……夫人の耳元に何事かを囁いた。と、夫人が余裕のある仕草で彼に微笑し、静かに、しかしはっきりと首を振る。燕尾服の男は意外そうに表情をしかめかけたが、すぐに敬意を以て首を垂れその場を立ち去った。
 さて、ここに陽光の下で行われている宴をじっと見つめている小さな瞳があった。遥かなる高処からのそれは、だがしかしベランダから見上げる者がいたとしても誰一人気付かなかったであろう小窓のさらにその陰、しかも閉じられたレースのカーテンの隙間からであった。
 そこからじっと、立食会とそこにいる人々の様子を観察していた円らな瞳が、二度、三度と瞬きをし、そっと窓際から離れる。まるで覗いていたことを誰かに知られるのが死ぬ程恐ろしいかのように、小さな目差しはおどおどとした様子で背後の長い廊下を見渡した。
「そこから、何が見えるの?」
 驚愕、という言葉がこれ程ふさわしい状態もなかったであろう。窓から下を覗いていた人物……背の低い、小柄な幼き姿のそれは、両手で口元を押さえて絶句した。円らな瞳がこれ以上はない程に大きく見開かれ、そしてわなわなと震えて目の前の……声を発した相手を見つめる。そこにそんな存在があるはずがない、いや、存在してはいけないのだと言わんばかりの眼の輝き。
 その小さな瞳に映っているのは、一人の少女であった。
 結果、幼き相手に声をかけた人物……『少女』は、戸惑い気味に首を傾げた。「ねぇ、貴方はどなた?今、そこから外を見ていたでしょう?どうしてみんなと遊ばないの?」質問、というよりむしろ詰問、という表現がふさわしいような調子で問いかけた相手に、驚愕に震える幼き姿がさらにその瞳孔を拡幅させた。
 そして刹那の瞬間、そこから駆け出す。長い廊下の曲がり角へ飛び込み、窓際の狭い回廊へと。
「あっ、待って!」その突発的な行動をまさか予測でもしていたのか、声をかけた少女はすぐさま幼き影を追いかけ始めた。「待って!」二度目の呼びかけでそれに気付き、振り向いた先の影が再び驚愕に満ちた視線を背に向ける。まるで、ジャングルで猛獣に追われているような、恐怖に満ち満ちた視線。
 長い黒髪が揺れ、そして、駆けた。
 二人の追いかけっこはすぐに終了した。それというのも、廊下を二度程曲がった所に白い扉があり、その中に先の人物が駆け込んだからである。扉は何故かわずかに開いており、その隙間に身を滑り込ませると、幼き影はそれを勢い良く閉じた。バタンという重い音が響き、そして追う少女がそにたどりついた途端、ガチャリと中から鍵の降りる音がする。
 追って来た少女はわずかな間だけその扉の前で立ち尽くしたが、すぐに憤慨したような表情を浮かべた。先の人物のそれにどこか似た、細い切れ長の瞳が見開かれる。そして優雅、というよりも大胆に扉が叩かれた。
「ごめんなさい。謝りたいのでここを開けてくれませんか?」何回かノックを繰り返して、ドアのこちら側の少女はそう告げた。だが、中からは何の応答もない。再びそうしようとして、少女は少し表情を変えるとその場から歩み去った。だが、その様子は立腹したようでもない。
 白い扉のある狭い回廊を静寂が支配したのは短い時間だけだった。ガタガタ、ゴトゴトというにぎやかな音が聞こえ、そしてその正体が曲がり角から姿を見せる。少女が、料理などを乗せて運ぶワゴンを転がして来たのだ。
 何も料理の乗っていないそれは大人にとっては容易に可動させられるものなのかもしれなかったが、あいにくこの少女にはそうでもなかったらしい。少女は苦労しつつもそれを白いドアの前まで運び、滑り止めのタイヤロックをきちんと止め、そして何のためらいもなくそのワゴンの上によじ登り始めた。小奇麗な衣服や華奢に見える外見に比べて実はそうでもないのだろうか、しばらくして少女は台座の上に立つことに成功した。そして、さらに上を見上げる。その目が捉えたのは、ドアの直上に位置する格子のはまった小窓だった。
 なる程換気のためだろうか、天頂近くに三角の小窓がある。だがそこには格子がはまり、猫ですら通り抜けられそうにない。加えてワゴンを踏み台に使ってなお、少女にその窓は遠かった。いや、それはここに大人が立ったとしても同じかもしれなかったが。
 だが、少女は不屈だった。まるであらかじめ届かないことがわかっていたかのように、その可愛らしい洋服のポケットから何かを取り出す。それはどうやら小さく畳んだ紙であり、ワゴン上の少女はその手を構えると、狙いすまして頭上の小窓にその紙を放った。目論見は成功し、格子の隙間に紙が消えて行く。少女はほんの少しだけ満足気に瞳を細めた。
「お嬢様!」突如として背後からかけられた叫びに、ワゴン上の少女は驚いて振り返った。と、まさにその動作を待っていたかのようにワゴンのタイヤを固定する止め金の一つが外れ、大きく足場が揺れ動く。バランスを崩した少女が大きく躯を泳がせて……そして、脱兎の如く駆け寄った燕尾服の男の腕の中に落ち込んだ。
「だ、大丈夫ですか?お嬢様……」燕尾服をまとい、鳥打ち帽を被ったその男は、腕の中に抱きかかえた少女を強ばった表情で見つめた。「あの、怪我は……どこにもありませんか?」驚きと心配と、わずかな憤慨が入り混じった彼の目差しに、少女が少し困ったように目を瞬かせる。
「私は大丈夫です。危ないところをありがとう。もう平気ですから、降ろして下さい。」うやうやしくそうする男に、少女は毅然と手をやって廊下に降り立った。軽く身を翻して自分の衣服を見定め、そこに汚れやしわがないのを安堵したように、にっこりと微笑む。「心配をかけましたか?このことは、お父様やお母様には秘密にしておいて下さいね。」それは少しばかり低めの声だったが、それでもどこか断固とした、優雅な響きを宿していた。
「いえ、お嬢様。その、それは、そういう訳にも……」難しい顔をした彼が頭をかき、続く言葉を探すまでにわずかな時間がかかった。
「勿論、お話になっても私個人は構いません。」件の少女がその間を見逃すことはなかった。「でも貴方がこのお話をお父様やお母様に告げられれば、きっとこの部屋にいる方にも御迷惑がかかります。それは私にとって、甚だ望む所ではありませんし、おそらくお父様やお母様にも同様でしょう。私の言う意味がわかりますか?」雄弁、というにふさわしい……だが決して自分の姿格好に似合いそうもない語り口で少女は続けた。「それに、私は別にやましいことを行っていた訳ではありません。この部屋にいる方に御挨拶をしたかったのです。でもそれは叶わないようなので、代わりにお手紙を届けました。手段に少しばかり問題があったかもしれませんが、他に穏便に済ませる方法は思いつきませんでした。」そこまで話すと、少女は肩にかかる長めの髪をパッと払った。
「お嬢様……」男の口から発せられたのはそれだけだった。観念したように首を垂れた彼は、それでも敬意をこめた仕草で少女へと手を差し述べ、ここから導こうとする。少女もそれには抵抗することもなく、二人はこの白いドアの前から立ち去ろうとした。
 
 


[238]長編連載『M:西海航路 第八章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月24日 (金) 01時55分 Mail

 
 
 だが。
 拍手、だった。まばらな……いや、ゆっくりとしたその拍手は、静けさに包まれた邸宅の上階、さらにその奥であるこの場所でなければ聞こえない程に小さなものだった。
 そして、ゆっくりと現れる姿。それは車椅子に腰掛けた、眼光も鋭いあの老人であった。燕尾服に身を包んだ中年の男……少女と共にいる鳥打ち帽の男とよく似た身なりの人物に車を押されながら出現した老人は、しわだらけの頬を歪めて、わずかに表情を変えた。それが、老人が微笑んでいるのだと気付ける者はほとんどいないであろうと思われたが、相対した人物……少女は、その数少ない例外であったらしい。
「はじめまして……」少女が進み出ようとした途端に、慌てたように『少女側の』燕尾服の男がそれを遮った。鳥打ち帽を外して、かなり取り乱したように車椅子の老人に幾度も頭を下げる。
「し、失礼しました。その、私めがつまり、お嬢様をこんな場所にまで連れて来てしまって……」この場に居合わせなかった者ですら、言い訳がましく聞こえるであろう物言い。焦る鳥打ち帽の男のそれは、さらに少しばかり続いた。
「結構。」老人が初めて口にした詞。重苦しく響いたそれは、目の前の鳥打ち帽の男の台詞を途切れさせるのに十分すぎる程の威厳を伴っていた。そして、彼の存在自体が邪魔であるとでも言いたげに老人が手の甲をわずかに持ち上げる。老人の背後で車椅子を押す男は身動き一つしなかったが、目の前の燕尾服の彼はまるで魔法にかかったかの如く、身を震わせて半歩後ずさった。
「私がお話します。貴方は下がっていなさい。」少女が静かにそう言った。冷や汗すら浮かべている鳥打ち帽の男の前を悠然と横切って、車椅子の老人の前へと進み出る。「はじめまして。」少女は小さく会釈するようにして身を屈めた。淡いピンクのスカートが地面に触れそうになるのを、細い指先で優雅に持ち上げて避ける。「私は……」
「自己紹介は無用じゃよ、お嬢さん。」老人の声は少女と対照的に低いそれであり、遥かに威圧に満ちた響きがあった。おそらく聞くほとんどの者が、畏怖もしくは畏敬めいた何かを感じずにはいられぬであろう、そんな声。「お前さんのことは、よく知っておる。わしの名は知っておるかの?」
「勿論です。」少女は即座に答えた。「九条院佐嘉光さんでいらっしゃるのでしょう?」
「うむ、よく知っておるの。漢字の書き取りは得意かね?」
「あまり得意とは思っていません。」少女は微笑して首を振った。「ですが貴方のお名前が本来は佐嘉光、ではなく仰がれるの嶝、であることは知っています。とても古い使い方ですね。」
「わしは外見以上に古い人間でな。」老人は目の前の相手をじっと見つめて言った。
「あら、そんなことはありませんわ。私の母方の祖父は貴方より四つも歳上ですけれど、決まって私の名を熟語ではなく単語として呼びますもの。私がそれについて指摘すると、いつも『口に出してしまえば同じだ』と反論されますの。」
 少しの間があり、そして老人は声を出さずに笑った。「なるほど、面白いお嬢さんじゃ。」しわに骨が浮かぶ手を少し持ち上げ、かすかに動かす。何かの合図だろうか、車椅子を持っていた男が少しだけ身を引いた。「それで、その愉快なお嬢さんがここで何をしていたのか、尋ねてもいいかね?」
「探検です。」少女は即答した。「私、大勢で遊ぶのは得意ではなくて……それで、とても広いお屋敷に興味があって。だから、一人で探検していたんです。」
「探検、とはの。」愉快そうに老人は言った。「それで、探検の収穫はあったかの?」
「勿論です。」一瞬、子供らしい笑顔が少女の中に垣間見える。「何よりも、九条院佐嘉光さんにお会いできましたわ。」
 老人は口元をほんのわずかに緩めた。「それは嬉しい言葉じゃ。それ以外はないのかの?」ますます愉快な様子で続ける。
「はい。このお部屋の扉だけが白いので不思議に思いました。」少女は片手を放って扉を指し示した。ワゴンが止まっている白い扉。
「そうじゃの。この部屋はちと特別製でな……」
「この部屋だけが内側だけでなく、外側からも鍵がかけられるようになっていますね。」老人の眉がほんの少しだけ持ち上がる。「それに、この階の部屋には全部天窓がついていますけど、格子があるのはこの部屋だけです。」
 老人の眼光は衰えを知らなかったが、先程より威力が弱まったように見えた。「それで、他には何かないかの?」
「はい。この部屋は最上階の、しかもどの階段からも一番奥に位置しています。私、ここに来るために三つの扉を抜けて来ましたわ。そのどれにも、向こう側……この部屋と逆の方向からしか鍵がかけられないようになっていました。」少女はすらすらと述べていった。「それに、この階には小さな厨房がありますね。洗面所は各階にありますけれど、この階だけにはそれが二つあります。しかも一つは、すぐそこにありますわ。あと……」
「いや、もう結構。」わずかに強い口調のそれが、少女の言葉を遮った。「もうよい。」明らかに気分を害したような顔になった老人は、小さな吐息と共に少女を見つめた。「それで、お嬢さんはどう思ったんじゃね?率直なところを聞かせて貰えぬか?」
 少女は老人の視線にまったく目を背けることなく、わずかな間を置いて……そして、返答した。「そちらの部屋には、とても恐ろしい何かがいるのだと思います。」少女は心持ち低い声で言った。「熊か、虎か……何かはわからないですけれど、とても恐ろしい、きっと……そう、獣です。」その口調には微塵も自らの見識を疑う様子はない。「そうだ……きっとライオンじゃないかしら?そうでしょう?」
 笑い声は、車椅子に腰掛けた老人から漏れていた。はっきりとした、愉快でたまらないという笑い声。その様子に、背の男が動揺した如く眉をひそめる。
「どうしてお笑いになるの?」少女はきっと口を結んで言った。ほっそりとした指が揺れ、その拳が心持ち握られる。「だって、それしか考えられないでしょう?こちらから鍵をかけるのは、獣が出てこないようにするためだわ。天窓の格子もそのためだし……扉が三つもあったのも、外に逃げ出さないようにするためでしょう?」
「厨房と、手洗いは何のためだね?」老人は愉快でたまらないという風に尋ねた。
「餌を調理するためです。こんなに危ない獣なんだもの。でも大切にしなきゃならないから、ちゃんとお料理はするのよ。コックさんがするのかしら?」少女は顎に指をあててそれを曲げた。初めて見せる、可愛らしい……そう、外見にふさわしい仕草だった。そして、頬を膨らませる。「お手洗いは、きっと夜はこのドアを見張っている人がいるからです。その人が洗面所を使いたくなって、それが遠くにあったら困るわ。いつ獣が逃げ出さないとも限らないんですもの。だから、すぐに戻って来れるようにお手洗いを作ったんです。」言い終えると、少女は余裕たっぷりの顔で何度も頷いた。「どう?間違っていないでしょう?もしも違っていたら、私、お夕食の人参だって全部食べちゃうわ。漢字の書き取りだって、毎日勉強しちゃう。」まさに子供が自慢するように、少女は腰に手を当てて胸を張った。
「ではお嬢さん、その予想が当たっていたら何が欲しいかね?」老人がまだかすかに肩を震わせながら言った。「何でもよいぞ。苦手な書き取りやお皿いっぱいの人参に釣り合うものは、何かね?」その口調には、明らかにこのやり取りを面白がっている響きがあった。
「えっ……」少女はあからさまに戸惑いを見せた。「当たっていたら……ということは、外れているかもしれないのかな?そんな……そんなはずないわ。」老人の顔をじっと見る。だが、彼は口を開かなかった。少女は心持ち目を丸くして、そして首を振った。大きく。「ううん、そんなはずない!この中には、ライオンがいるんだもの!あ、ううん……ライオンじゃなくて、虎なのかな。そう?」
「ずるはいけないの、お嬢さん。」老人は唇を軽く嘗めた。「だがそうじゃな、ひとからげで猛獣、でいいじゃろう。細かく当てることはさすがに無理じゃろうからな。ともかく、もしもそれが当たっていた時には、お嬢さんは何が欲しいかね?」
「それじゃ、私が断然有利だわ。」少女は偉ぶって言った。尊大にすら見える、そんな仕草。だが先程までとのそれと違い、妙に可愛らしい。「でも……うーんと、あの……本当に、私の欲しいものを下さるの?」
 老人が頷く。「わしにできることならばな。」その言葉の意味を真に理解している者は少なかったろう。だが、例外的にこの場にいるすべての者がそうであった。「さて、では何がよいのか?」
「じゃあ……私、ライオンに触ってみたい!」少女は無邪気に叫んだ。「あ、ライオンじゃなくてもいいから……この部屋にいる猛獣に触りたい!きっと、毛がふさふさしていて……とっても気持ちいいに違いないもの。」そこで、少しだけ表情が変わる。「怒らせないように、ちょっとだけ……駄目ですか?」
 笑い声が響いた。再び、老人のそれが。「これはまた、欲のないお嬢さんじゃの。」少女の目を見据えて、そして指が動く。「気付いておるかの?お嬢さんの願いは、謎かけが当たっておることを前提にしておる。」
「だって、当たっていないければお礼は貰えないんですもの。」少女はにっこりと笑い返した。「それなら、当たった時にしか貰えないものがいいって思ったんです。私のお父様もお母様も、こういう問題を私に出した時は、外れた場合でもプレゼントを下さるのよ。私、ずっと前からそういう取り引きはフェアじゃないって思っていたんです。だから……」
「うむ、そうか。ますます気に入った。ならば一つ、お嬢さんには正解を教えようかの。」老人は手を持ち上げた。と、背の男が初めてその定位置を離れ、白いドアの前に歩み寄る。そして、衣服の内ポケットから鍵の束を取り出した。その中から、小さな長細い一本の鍵を選び出す。
「あの……危なくはないのですか?」少女が少し不安げに尋ねる。老人は首を振った。
「案ずることはない。少なくとも、向こうから襲ってはこぬよ。」
「眠っている……のですか?」
 老人の目尻がかすかに細められた。「そうかもしれぬな。いや、だがな、起きていても大丈夫じゃ。巽也、もうよいぞ。」巽也、という名前に鍵を持った男性が反応し、うやうやしく一礼する。
 そして、扉が開かれた。「さて、それでは案内しようか。」再び定位置に戻った男……巽也に導かれて、老人の車椅子が白いドアの向こうの部屋へと入っていった。少女と、そして先刻よりずっと黙して不動の姿勢を取っていた鳥打ち帽の男が続こうとして、老人が思い出したように振り向く。「入るのは、こちらのお嬢さんだけにしてもらえぬかな。」そこには、初めて声を発した時と同じく、有無を言わせぬ響きが込められていた。
 少女が微笑する。「私は大丈夫ですから、ここで待っていて。ね?」男は観念したように首を垂れると、小脇に帽子を抱えたまま半歩下がった。
 老人とその車を押す巽也、そして少女の三人が入った部屋はとても広々としていた。輝くシャンデリアに照らされた室内には、背の低い丸テーブルが一つと、それに似合うアンティーク調の椅子がいくつか置かれている。床には明るいクリーム色の上質な絨毯が敷きつめられており、四角や丸型のクッションが大小様々、無造作にあちこちに転がっていた。そして、さらに奥まった部分に幾重ものドレープで囲まれている巨大なベッド。
 だが、そこには何ものもいなかった。
「出てきなさい。大丈夫、恐いものはおらぬ。お前にお友達を紹介しよう。」
「お友達……?」少女が驚いたように老人を見る。「あの……この、お部屋は?」
「出てきなさい。」老人はさらに部屋の奥に向かって声を放った。「恐いことはない。このお嬢さんが見えるだろう?」
 さらに少しばかり時間がたった。やがて部屋の奥、シャンデリアの光の死角にあたる暗がりがわずかに揺れる。そして、そこから何か……いや、何者かが、その姿を見せ始めた。
 少女は目を丸くした。口を押さえ、驚いたようにそれを見つめる。たっぷりと、どこか大袈裟に。
 現れたのは、円らな瞳の子供……純白のサテンのドレスを着た、幼い娘だった。艶やかな黒髪を腰近くにまで滑らせた、身に付けた可愛らしい服よりもさらに白い肌をした『もう一人の』少女。その幼き少女の口元には、絶えざる畏怖を宿す震えが走っている。その瞳に映る他者……老人と『入ってきた』少女への。
「こっちへ来なさい。安心してよい。このお嬢さんは恐くない。」
「あ、あの……」『入ってきた』少女は、戸惑ったように老人を見た。老人が頷く。
「残念だが、お嬢さんの負けじゃの。これからは漢字の書き取りや、人参も残さずに食べねばならぬようじゃ。もっとも、無理はしない方がよい。」老人は楽しげにそう言った。
「えっ、でも……あの……はい……」『入ってきた』少女が、神妙な顔で頷く。そして、老人が満足そうに瞳を閉じ、頷いた瞬間……『入ってきた』少女の瞳が、大きく閉じられ、開かれた。悪戯っぽく、目くばせをするように。
 部屋にいた『もう一人の』少女に向かって。
「これはの、お嬢さん。わしの孫娘なのじゃ。」それに気付かず、老人はそう告げた。「だが、の……瑞樹、こちらへ来なさい。」おずおずと、『もう一人の』少女……瑞樹と呼ばれた幼き娘が進み出る。老人は片手を少し持ち上げて差し伸べ、それに応じるようにして少女……瑞樹が手を差し出す。その手は青白く、そして抜けるように白かった。舞い積もった雪のように。
「あの……」幼き娘の白い手と老人のしわのある手が重なるのを、『入ってきた』少女はじっと見ていた。「……ですけど、私……」
「うむ。わしには孫娘などおらぬ、そう言いたいのじゃろう?」『入ってきた』少女はためらいがちにそれを認めた。「それはの、この子が特別な病を持って生まれてきたからじゃ。それはとても大変な病でな、人に知られるとそれこそ蜂の巣をつついたような騒ぎになってしまう。」『入ってきた』少女の瞳が驚きに揺れ、老人は首を振った。「勿論、一緒におって移るような病ではない。だが、人というものは偏見を捨てられぬものでな。なかんずく、わしのように大層な家の名をしょっておると、その偏った眼の大きさは常なるそれの何倍にも見開かれておる。」
「はい。」理解しているというように『入ってきた』少女が頷く。老人もまた頷いて続けた。
「だから、わしの娘夫婦……これの両親じゃが、それらもほとほと困り果ててな。幸いにというか、わしはこうして隠居の身になるところだったのでな。この子を預かり、ここに匿ってやることにしたのじゃよ。」
「えっ、あ……それじゃ、その……ごめんなさい。」少女は本当に……そう、真摯に頭を下げた。「あの、先程から失礼なことをたくさん言って……」
「いや、いいんじゃよ。」老人は、これもまた珍しい程優しげに首を振った。その手が震えるように持ち上がり、黙ったままの『もう一人の』少女の頭をゆっくりと撫でる。「それより、お嬢さんに一つ、お願いがあるんじゃが。」老人の指が触れる度に、『もう一人の』少女の肩がかすかに震えた。
「何ですか?」『入ってきた』少女は姿勢を正して聞き返した。「私、できることならします。あっ、勿論約束は守ります。人参も食べるし、漢字の書き取りもちゃんとするわ。」
「いや、それはお嬢さんの良心に任せよう。」老人は首を振った。「わしがお願いしたいのはじゃな、この子……瑞樹の友達になってくれぬか、ということじゃよ。」
「えっ……!」少女は心底驚いたように目を丸くした。だが、次の瞬間、それが元に戻る。「あの……はい!喜んで。嬉しいです。私で、いいのなら……」
「いや、へりくだることはない。」老人はまた首を振った。「お嬢さんは自分で思っておる以上に賢い。父君や母君や……そう、皆の評判通りにな。」少女がわずかに目を細める。戸惑ったような、可愛らしい表情。「それに、この娘には今さっきのような事情で、友達が一人もおらぬのだ。だから、ほんの時々でよい。ここに遊びに来てくれぬか。無論、手紙でもよいしな。この子はまだ字が書けぬが、言ったことを誰かに書かせれば返事もできよう。」うなじに触れる老人の指に、『もう一人の』少女……瑞樹が怯えるように身を縮めた。だがその瞳は先程から、『入ってきた』少女の方を見つめている。「贅沢は言わぬ。女同士でもあるし、時折のそれで十分じゃ。一つ、頼まれてはくれぬかの。」
「はい。」『入ってきた』少女は頷いた。「そのようなことなら、まったく構いませんわ。今も言いましたけど、とても嬉しいんです。だって、私にも、その……お友達は少ないですから。」『入ってきた』少女が柔らかく微笑んで、『もう一人の』少女に両手を差し出す。その白い両の手を、『もう一人の』少女は怯えるように……それでも、目をそらすことなく見つめた。
「こんにちは。」『入ってきた』少女は嬉しそうにそう言った。「お名前は何というの?」
 沈黙が訪れた。長い、長い沈黙だった。だが、『入ってきた』少女も車椅子の老人も、自分から痺れを切らすことはなかった。それには途方もない辛抱強さが必要だっただろう。だが、二人にはそれがあった。
 そして。
「わ、たし……」小波が砂浜に寄せるような……そう、夏の夕暮れの風鈴の音のような、かすかな声。「わた、し、は……」ゆっくりと、それが繰り返された。じっと見つめる、『入ってきた』少女の視線の中で。
「わたし、は……みず、き……です……」幼き身が翻り、黒髪と白い服の裾が散った。ベッドの脇、クローゼットの並んだ暗がりの中へと、逃げるように駆け込んでいく『もう一人の』少女。
 それを見送り、老人が……そして、『入ってきた』少女が、満足げに微笑んだ。
 宴席を遥か、二人の対面はこうして幕を迎えた。
 
 
 


[239]長編連載『M:西海航路 第九章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月24日 (金) 01時57分 Mail

 
 

   第九章 Marine

   「疲れたな……眠くなってきちゃった」
 
 
 車は高速を走り続けている。
「……その後、お嬢様は年に二度は、必ず九条院家の別荘を訪問なされるようになりました。」諏訪野老人が感慨深げにそう言い、桐生渉は頷いた。その胸中では、今伝え聞いた西之園萌絵の武勇伝が反芻している。
「なるほど……それは、確かにとても微笑ましい光景ですね。」諏訪野老の口元が和やかに緩み、渉は自分が考えていたよりも遥かに細やかな部分……そう、家族以上と評して差し支えないであろう度合いまで、この老人が西之園家に関わっているのだと認識した。
「ええ、それはもう。私めの存在など、まったくもって年寄りの冷や水とでも申しましょうか……」諏訪野老が照れたように口元の髭を震わせた。「萌絵お嬢様も瑞樹お嬢様もすくすくと御成長なされ、十を越える頃にはもう……そう、錦上花を添えるの如きとでも申しましょうか。お二方ともそれは可憐な麗しさを誇られまして……」句を詠むように諏訪野老は目許を細め、渉も微笑んだ。「……そのおかげでございましょうか、九条院家と西之園家の間の親交もしっかりと形作られ、一時は両家で縁結びの話すら持ち上がった程でございました。」
 諏訪野老が過去形のそれを口にしたことで、渉は思い出した。「あっ、そういえば……確か、西之園さんは最近まで……その、九条院瑞樹さんと会っていなかったと聞いたのですが。」この質問はまずいかもしれないと思いつつ、渉はやんわりとそう尋ねてみた。
「はい。実を申しますと、その通りです。」諏訪野老は軽くハンドルを切りながら頷いた。車が小さく揺れる。「あれは……そう、もう六、七年は前になるでしょうか。瑞樹様が、海外に留学なさいまして。なにぶん急なことでして、萌絵お嬢様に御連絡するお暇がなかったのでしょう。そのことで、萌絵お嬢様はたいそう悲しまれまして……のちに瑞樹様の留学先よりお手紙が届いたので、とりあえずは元気になられたのですが。」
 渉は悪いことを聞いたと後悔した。「すみません。何だか根掘り葉掘り。」諏訪野老が微笑する。人を安心させる表情、とはこういう仕草のことを言うのだろう。渉は自分が若輩者であることを、今更のように自覚していた。
「いえ、構いません。萌絵お嬢様には怒られるかもしれませんが、桐生様が知っておかれる方が後々のためになるかもしれないと思いますので。老境の身のあさはかなる企みとでも申しましょうか……いえ、それこそ単なる老婆心ですな。」老人の瞳に、初めて見る愉快めいた光があった。その言葉の意味を考えて、そして、渉はやはりこの老人が生半可な人生を送って来たのではないと察した。
 いや、それは老人ならば誰でもそうかもしれない。時間は各人にとって等価値だ。それを有効に活用できるかどうかが各々の……「おっと、ですがそろそろ、楽しいお話も終わりに近付きましたか。」
 渉はそこで初めて視線を窓の外に向けた。高速を出たのは知っていたが、気が付くと既に車は湾岸を走っている。通り過ぎる看板を見て、渉はここが横浜の市街だと知った。どうやら、この長いドライブも終了らしい。
「諏訪野さん、お疲れ様でした。本当に助かりました……西之園さん、大丈夫かな。」そう口にして、渉は今頃、物凄い速度で東名高速を疾走しているであろう一台の赤いスポーツカーを思い描いた。噂に聞く、西之園萌絵が最も喜ぶであろう状況。
「はい。私も心配でございます。」諏訪野老が同意した。もっとも、老人が心配しているのは萌絵の運転というより荷物やこれからの旅のことかもしれない、と渉はなんとなく思う。それ程……というか、自分には量り知れない部分で諏訪野老は萌絵の人となりを熟知しているのだろう。それが、渉がこのドライブで得た確信だった。
「そういえば……諏訪野さんは船には乗らないんですよね?」
 諏訪野老はバックミラーの中の口元を引き締めた。「はい。残念……と口にしてはお嬢様に叱られますな。普段ならお嬢様お一人でのこのような御旅行は、私めも御同行させていただくのが常なのでありますが。」独白するようにそう言って、老人は白い髭をたくわえた口元を緩めた。「この七日は、故郷に戻りゆっくり湯治でもして休むようにと、お嬢様より仰せつかっております。勿論、とても嬉しきことですが。」
「そうなんですか。諏訪野さんの御出身は?」慎み深い返答があり、渉は頷いた。「俺からもお願いします。どうか帰郷なさって、ゆっくり体を休めて来て下さい。毎日、大変でしょうから。」笑ってみせると、諏訪野老が大袈裟に首を振った。この老人は出来た人だ、と渉は心底思う。「俺も、こんな機会は滅多にありませんから。」滅多に、どころか一生ないだろうな、と渉は苦笑した。ブライダル・クルーズも勿論だが、執事を生業にしている老人に車を運転してもらうこと自体が、間違いなくそうだろう。「西之園さんには頼まれましたけど、俺にしてみれば特別な卒業旅行になりますよ。」にこにこと諏訪野老。
 しばらくして車は大きな通りを曲がった。周囲の光景に船やヨット、ボートや釣り具店などのマリンレジャーに関する店舗が多く見え始めている。そろそろ終着地点らしい。
 通り過ぎる車の流れを抜けて、ジャガーは巨大な駐車場に入った。その先に海が見える。埠頭には、見渡す限り大なり小なり、様々な船が停泊していた。クルーザーだろうか、波を受けて飛ばしていく船も見える。風は寒そうだが、かなりいい天気らしい。
 完璧な運転で車は駐車スペースに停車した。「桐生様、長旅大変お疲れ様でした。」諏訪野老がバスガイドのように歯切れよく告げる。「お嬢様とお二人、よい御旅行になることを祈っております。」
「ありがとうございます。」同時に扉が開けられ、渉は車から降りた。シートの心地は決して悪くなかったが、それでもやはり五時間近くのドライブで体が少し強ばっている。渉は大きく伸びをした。同時に、強烈な潮の匂いが肺を満たす。
 海、か。渉はどこかなつかしいように彼方のそれを見た。久しぶりのようで、それでいて妙に新鮮な、どちらとも言いかねる微妙な感覚。
「桐生様、よろしいですかな。」ふと見ると、諏訪野老が渉の荷物をトランクから降ろしていた。
「あ、すみません。」渉に頷き、諏訪野老が歩き出す。その手には渉のハードキャリーが下げられていた。「あ、俺が持ちますよ。」にこやかな表情で首を振る。
「せめて、この老人に見送らせて下さい。」乞われて無理強いは出来なかった。それに、元よりこの旅自体が西之園萌絵の招待であり、その旅における渉自身の立場というものもある。もっともそれは、渉が『そこで演じなければならない役割』であるのかもしれなかった。この先の旅路のことを思い、少しばかり気が重くなる。
 その後、渉と諏訪野老は三分の一も埋まっていない巨大な駐車場を横切り、埠頭の先にある建物へと入った。そこは外国行きの船に乗船するための出入国用チェックイン・カウンターであり、渉は諏訪野老に導かれるままそこで乗船手続きを済ませた。シーズンからは外れているとはいえ、やはり親子連れや老夫婦など大勢の人々でごったがえしている。だが、渉の出国審査は比較的手際よく進んでいった。
 
 


[240]長編連載『M:西海航路 第九章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年01月24日 (金) 02時00分 Mail

 
 
「桐生様。」荷物の検査を終えた大きなロビーで、渉は諏訪野老と再会した。飛行機程ではないとはいえ、さすがに出国のチェックは厳しい。「いよいよ御乗船ですな。道中、くれぐれもお気をつけて。」道中、といういかにも古風な言い回しは、それでもこの人物だからこそ似合いなのかもしれなかった。
「ありがとうございます。」渉はしっかりと頷いた。「本当に、お世話になりました。」こうして言葉を交わすようになってまだほんの数時間だというのに、渉はなぜかこの老人とずっと前から知り合いだったような気分になっていた。これが執事の術というのであれば、まさに諏訪野老こそはプロのそれであろう。「楽しませてもらいますよ。せっかくですしね。諏訪野さんも、休暇を楽しんで来て下さい。戻ってきたら、またお話でも。」諏訪野老が会釈する。そこで、渉はもう一つの現実を思い出した。「あの……西之園さんから連絡はありませんか?」
 諏訪野老は少し困った顔をした。「はい、それが……まだ、御連絡はありません。超特急で向かっていらっしゃるとは思うのですが……」もしも彼女がいなかったらどうなるのだろう。渉はそう思い、そして自分の考えに笑った。この旅……ブライダル・クルーズには、そもそも西之園萌絵その人が招待されているのだ。もしも彼女が来れなければ俺も行く必要はないし、行く意味もない。
 渉は表情に出して笑った。「まあ、西之園さんなら大丈夫だと思います。」そう、西之園萌絵ならば遅れてもどうにかしてしまうだろう。渉は本心からそう思った。例えば、ヘリコプターで船にやってくるとか、沿岸警備隊の快速艇で乗りつけてくるとか……「そういえば、俺の乗る、えっと……」渉は船客チケットを出して見た。「『月の貴婦人』号?どんな船なんでしょうね。やっぱり、それなりに大きなものなんでしょうか。」
 話の種にでもと口にした渉だったが、諏訪野老の表情は意外な程劇的に変化した。「桐生様は、御存じありませんでしたか。これは前以って説明が足らず、大変に失礼致しました。」何だろうと、渉は少し不安になる。「私も詳しくは存じておりませんが、何でも竣工したばかりのハイカラな船で、とても立派なものだとお嬢様が。」
 ハイカラ、か。渉は想像もつかないレトロな形容に頭をひねった。クルーザーより大きな……フェリーのようなものだろうか。渉は船に関する知識はほとんど持っていなかったが、冒険小説に出てくるような大きな帆を張ったスクーナーのようなものを想像して、そんな自分に呆れた。仮にも結婚式を船上で行うというのである。それなりの大きさであるはずだった。
 とそこへ、一人の係員が渉の名を呼んだ。渉が同意すると、係員がかしこまって一礼する。「九条院様の御招待客の方ですね。こちらへどうぞ。」港湾設備の係員とは思えないような仰々しい仕草に、渉は一抹の不安を覚えた。ちらと見ると、諏訪野老は黙して同様に頭を下げている。渉も思わず一礼し、その場から歩き出した。
「お客様のお荷物は、今船室に運ばせております。」係員はそう説明した。「おって詳しく説明をさせていただきますが、航海中、お客様のパスポートはこちらで預からせていただきます。これは紛失などがあった場合の用心のためで、もちろんお客様が必要とあらば直ちに返却させていただきます。」渉は頷いた。「あと、船内では一切の現金が使用できません。お客様がお持ちになられているクレジットカードが、すべての費用の支払い手段となります。これは念のためにお教えしておきますが、船内ではサービスに対してのチップは一切必要ありません。もっとも、日本人のお客様の多くはそのような習慣をお持ちにならないので、言っておくことではないかもしれませんが。」係員はにこやかに笑った。渉はそのへりくだりすぎない態度に少しばかり好感を覚える。
 係員と渉は建物を出た。再び、強烈な磯の香り。渉は目を細める。昼が近いはずだが、少し暗い。その理由は、すぐ近く……いや、真横に停泊している大型の……タンカーだろうか、巨大な船のせいだった。
「あと、最も重要な点として、お客様お一人毎にお渡しするゲストカードがあります。」日の当たらない埠頭を歩きながら、係員は再び話し始めた。「ゲストカードは、お客様の使用される船室のキーとしての役目を果たします。もちろんお客様毎に別の物を発行しておりますので、絶対に他の方のそれと誤作用することはありません。また、ゲストカードには先程お客様に記載、登録していただいた個人情報及びクレジットカードのデータもすべて組み込まれておりますので、クレジットカードやその他のファイナンスを携帯なされなくとも、ゲストカード一枚で船内すべての金銭的取り引きを行うことが可能です。加えて、ゲストカードは船内のエレベータを含めた多種多様な施設の稼動及び利用キーにもなっております。」
 なるほど、諏訪野老人の言っていたハイカラという意味が渉にも理解できた。「高級ホテル……いや、リゾート並のセキュリティですね。」渉は感心したよように言ったのだが、係員は目を丸くした。
「とんでもありません。本船のシステムにつきましては、従業する我々一同、世界のいかなる宿泊及び歓楽施設に劣ることは100%ないと自負させていただいております。」わずかながら挑戦的な物言いだった。渉は少し、この係員に対する見方を変える。
「だとすると、カードをなくした時は大変ですね。」嫌味のつもりではなかったが、渉はわざとそう聞いていた。
「大丈夫です。」自信たっぷりに係員が答える。「カードを紛失した際は、船内のモニタリングシステムで直ちに紛失したカードの利用を停止することが可能です。勿論即座に新しいカードを発行させていただきますので、古いカードは使用することができません。もしも不埒なことを画策する人物がいたとしても、ゲストカードの使用は船内のネットワークシステムにすべて記録されているので、セキュリティは不審人物を特定することが可能です。」
「複製の製造は可能ですか?」渉は少しばかり突っ込みを入れた。勿論、純粋な知的好奇心から……であろうとは思う。「紛失届けを出さずに、それと同じ物を偽造し……例えば、時間差もほとんどなく、二ヶ所で同時に同じカードを使用した場合などは?」それを利用した、クレジットカードを使う犯罪トリックのミステリィがあったことを渉は思い出す。
「船内のネットワークシステムは常時稼動しています。何か不審な物事が発生した場合は、直ちにセキュリティに警告が入るようになっています。お客様のたとえの場合、使用した二人の位置測定に基づいて直ちに船内の退路が断たれ、何らかの……そう、詰問が行われるでしょう。どちらか、もしくは両名がセキュリティの手によって連行されるという結果が有力です。」あっさりと係員は言ってのけ、渉はまじまじと相手の顔を見つめた。
「そんな高度なシステムが……」係員はにこやかな態度を崩していない。よく見ると、それ程歳を取っているようでもなかった。もちろん二十代ではなさそうだが、四十にも達していなさそうだ。おそらく日本人……悪くはない面立ちに、オールバックで清潔感のある黒髪の男。
「はい。現代における再先端の技術を以って完成されたものであると、船長以下乗組員一同も誇りにしております。どうかお客様も安心して、快適かつ安全な海の旅をお楽しみ下さい。」係員は微笑し、渉はどうしてか、何やら鋭い刃のようなものをその笑み……いや、男の雰囲気の中に感じた。不快感とまでは行かないが、油断ならぬ雰囲気のような、そんな……刺のある感覚。今さっきまでの、ボーイのようなかしこまった態度とは裏腹だった。
 やがて、係員は立ち止まった。そして、渉にかしこまってお辞儀をする。まだタンカーの陰で暗い場所だ。渉は怪訝に思ったが、男が示す少し先にタラップとそれに繋がる受付のようなアーチがある。そこには少なからずの人々が集まり、あるいはタラップを上っていた。
 上がる?渉は疑問を抱いた。だが、これはタンカーではないのか。「えっ……あの、船は……」渉は戸惑った。その前で、男がにこやかに会釈し、緩やかなタラップのさらに上を指し示す。
「はい。これが我がマイクロステート・インダストリーの構想による大型客船、『月の貴婦人』号でございます。」渉は見上げた。タンカー……ではない、『それ』を。
 そびえる巨大な姿。まるで大学の校舎のようだ。渉が立っている場所からですら、三十メートル以上の高さがある。これが船底からとすると、想像もできなかった。
 だがそれよりも、この横幅はどうしたことだ。渉は視線を巡らせてそれを見定めようとし、そして驚愕した。横幅……いや、全長なのか。どちらでもいいが、それはどう目算しても二百……いや、三百メートル近くはある。黒と青、そして赤のラインが滑らかに走るその巨大な客船は、純白の姿を渉の眼前に横たわらせていた。
 まばゆいばかりの、白き豪華客船。
 運命の船は、まさに今、桐生渉の目の前にあった。
 
 
 


[511]第一部総集編なあとがき: 武蔵小金井 2005年01月25日 (火) 00時15分 Mail

 
 
 
 
 こっそりと消した理由は、恥ずかしかったからです。
 そして、こっそりと再掲載する理由も同じです。

 これが、人の宿……輪廻ですね。



━━━━━ ☆☆☆ ━━━━━

 
 『 M:西海航路 』、第一章〜第九章をお届けしました。

 とはいえ、連載を固めただけのものです。一応、区割り的には第一部のつもりです。
 いや、まったくというか、あらゆる意味でアレですが、それでも!な感じですね。

 今回、誤字脱字文統の乱れにほとほと呆れました。急ぎ過ぎというか、準備足りなすぎです。
 年の功はなんとやらと言いますが、むしろボケ気味かもしれません(笑)。
 とにかく、時間が許す限り校正は続けます。あ、ですが加筆はなるべくしない方向で。
 いやその、はい、その、つまり、一応そういう内容ですから(爆汗

 あ、この形(第一部総集編)に再構成した説明を少しだけ。
 最初のあとがきで『ツリー乱立させます』と宣言したのですが、結局のところ見苦しさこの上ない現実にやはり@管理人でもある者として耐えきれず。このまま投稿を続け、一ページ総てがこのタイトルで埋まってしまったら、それはおそらくもう『お話投稿掲示板』ではないだろうと……そう思いまして、とりあえず一つに固めることにしました。
 とはいえ、第二部よりの各章の投稿は(たぶん)第一章と同じように章毎のツリーを並べてしまうと思います。いや、何というか絶対的に安心&校正しやすいので(笑)。この形式でのあとがきの不必要性は身にしみつつありますが、それでも何というかモノカキ心といいますか、しっくり来る方が好みなので。

 その意味も兼ねて、一章〜九章のあとがきもまとめてここに掲載しておきます。
 自虐的な感じですが、とりあえずデータ的に残しておこうと思いまして。

 それでは。
 読んで下さった方には、最大限の感謝を。


 武蔵小金井
 


━━━━━ ☆☆☆ ━━━━━


   はじめのあとがき【2002年12月12日(木)】


 『 M:西海航路 』、その序文及び第一章をお送りしました。

 とはいえ、内容(というかストーリー)に関してはこちらからは何も語れないのが実情ですね(笑
 実際は、考えると不安だらけです。でも約束通り、精一杯やります。
 いえ、やらせて下さい。

 本当に好きだから。
 書きたくてたまらないから。
 ずっと、ずっとそうだったから。

 だから、これはそういう文です。
 作者が、自分の読みたかったものを書いているだけ。
 今まで私がこの場に掲載した中で、おそらく一番わがままな文章です。
 そしてしかも、期間未定の不定期連載。

 掲載ペースは決まっていません。
 ですが、一週間以上は空けないようにします。
 終わるまでは、これに全力投球の方向で。

 題材や文体が気に入らない方や、意味不明な方につきましては本当にごめんなさい。
 ですがなんというか、前述した通りなのです。
 私は、ずっとこれが書きたかった。
 書いてみたかった。
 本当に、ただただ一人よがりのわがままです。

 あと、投稿の形に関しては、一章毎に別のツリーを用意するつもりです。
 読まれる方に関してはなはだ不都合とは思いますが、掲載する側(及び、管理する者)としてその形の方がなにかと便利(というか安全)でして。
 そのためというか何というか、何かありましたら本当にどんどこお願いします。
 大きな声では言えませんが、色々と不安でいっぱいなので。

 でも、今ははしゃいでいます。お祭りのようなものです。
 遂に始めてしまったというドキドキ感。そして、大きな嬉しさ。
 好きなことをしているという、幸せな気持ち。

 転じて終わった時、どう思っているのかはわかりません。
 今の気分と違っているかもしれません。
 でも、必ず終わらせます。 
 まだ見ぬ結末に向かって、頑張ります。

 それでは。お読み下さった方には、精一杯の感謝を。


 2002年 12月12日
 武蔵小金井
 

     ━━━━━ ☆☆☆ ━━━━━


   珈琲とあとがき 【2002年12月16日(月)】

 
 『 M:西海航路 』、第二章をお届けします。

 うーん、やっぱり色々な意味で語るべき事がないですね(笑)。いっその事あとがきをつけなければいいのかもしれませんが、やっぱり区切りとして一つ……というか、読む方が混乱する……うーん、というよりは、やはり私的に感じる見た目の問題が大なのでしょうか。
 とにかくお読み下さった方には、深くお礼を申し上げます。

 次は今週半ば辺りに……とか予告するだけ自分の首を締めている気がしますね(汗)。とにかくせっかくの機会ですから、色々とチャレンジしてみようとは思っています。
 あと、他に作品投稿を考えている方がいらっしゃいましたら、ツリーの並びなどまったくもって気にせずにどんどん投稿をお願いします……って、ここで言っても届きそうにないですね(笑)。

 それでは。
 

     ━━━━━ ☆☆☆ ━━━━━


   北風とあとがき [2002年12月19日(木)]


 『 M:西海航路 』、第三章をお送りしました。

 えーっと……とりあえず、ズザァー間に合ったということで(汗&笑)。
 いや、色々と焦りましたが。真ん中?いつ?みたいな。
 そういえば今回、ツリーをまとめようかと本気で思ってしまいました。よく考えたら、このまま続けていくととんでもなく読みにくい……ですが、やはりというか、

 本文
 あとがき
 本文
 あとがき

 とツリーが続くのも……あ、そうか!本文だけであとがきを置かなければいいんですね!
 ですが、やはりそれは……(悲哀
 ということで、これは次回までの宿題にします。<コラ

 あ、次回予告は金輪際やめとく方向で……今回、かなりアセだったので(笑)。
 とりあえず、待っていて下さいませ(あ、でも決まり事は守るつもりですっ

 それでは。読んでくれた方には最大限の感謝を。
 
 
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   メリー・クリスマスなあとがき [2002年12月23日(月)]

 
 『 M:西海航路 』、第四章をお届けします。

 今回は何と!ブラボー!本編とはまったく関係ないのですが!(コラ)

 今回の投稿で、200レス行きましたー!ひゃっほーい!

 どんどんぱふぱふ〜♪

 いや、以前どこかで語りましたが、200レスは個人的ななんとなくの大目標だったので(笑)。
 身勝手なそれですし、消滅したモノも(ぁ)少々ありますが、
 それでもやはりこれだけのレスに到達できたのは本当に嬉しいです。
 皆さんありがとうございます!
 記念に何か、書きたい……ってここで言っても(笑)。

 とにかく、聖夜も近いこの時期に、こうして到達できたのはとっても嬉しいことです。
 重ねて『自分にとってやりたかったこと』としての、今のこの長編。
 本当に、皆さんの暖かい御支援があってのことと思っています。

 それでは。お読みになって下さった方には、聖夜の祝福を。
 
 
     ━━━━━ ☆☆☆ ━━━━━


   2002年最後のあとがき [2002年12月28日(土)]
 
 
 『 M:西海航路 』、第五章をお届けします。

 いやあ、危なかったです(笑)。危うくお約束違反をする所でした。何を?と思う方がいらしたならばそれはそれでいいのですが(ぁ)、とにかく自分的に滑り込みセーフな感じです。油断って恐いですね(笑)。

 うーん、相変わらず語ることがない感じではありますが(何か語ってもいいことはないでしょうか?と思いつつ(?))、とりあえずこれが今年最後の投稿になると思います。次は新年元日にでも(コラ、また)……とか言いつつもこれから数日間で色々とあるような……ないような(汗&笑

 とにかく、皆さん今年一年のおつきあいを本当にありがとうございました。
 そしてよろしければ、来年も……変わる変わらないに関わらず、ほんの少しのお付き合いを。

 それでは。お読みになって下さった方には、行く年来る年な感謝を。


 2002年12/28
 武蔵小金井
 

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   あけましてのあとがき [2003年01月01日(水)]
 
 
 『 M:西海航路 』、第六章をお届けします。

 コホン。どうもこのたびは、あけましておめでとうございます。
 さて……

 ……っと、やっぱり語ることがないですね。あとがき的には次第に追い詰められていく感じがしてきますが、まぁとりあえず気にしないっ♪方向で(?)。だからといって、日々徒然な雑談をするのもなんですし……

 そういえば今回、新年のお祝いSSのようなものも考えてはみたのですが、今のところはちょっと手が回らないっぽいです(笑)。よくよくどうしてこういう時期にこういうものを始めるかな、とか思ったりもするのですが、やはりモノカキは時期を選ばず(謎)というか、『思いついたが吉日』なことは確かに自分の場合そうだったりするような感じなので。とりあえず、今のところ他には目もくれずこれを頑張りたい……とか。

 それでは。とりあえず今からほんの少し眠って、それからおとそで乾杯……というか、忙しい新年参りの始まりですね。

 わざわざ新年よりお読みになって下さっいる方がいらっしゃるとすれば……鏡餅に門松な感謝を。

 本年も、どうかまったりお願いします(ぺこりん)。


 2003年(平成15年) 元旦吉日
 武蔵小金井 
 
 
     ━━━━━ ☆☆☆ ━━━━━


   やぎさんとあとがき [2003年01月07日(火)]

 
 『 M:西海航路 』、第七章をお届けします。

 ……ごめんなさい(赤面)。第五章に続き、いやそれを上回るお約束ギリギリ投稿になってしまいました。
 あ、何のことかわからないという方がいらっしゃいましたら、なにとぞ気にしない方向でお願いします(汗&笑)。
 いや、正月で、もう色々と……とかまったくもって言い訳がましいですね。逆にペースアップをする予定ではあったのですが、災い転じて福と……いえ、それではまるきり逆ですか(爆汗)。つまるところ、いつもの私のクセという奴ですね。集中集中(笑)。

 とりあえず、今回で少しこりたので、次回は早めに……と予告するのも恐いので、ちょっと日帰り(?)で湯治にでも出かけてきます(笑)。戻ってからは本気の方向で(え?)。

 それでは。お読みになって下さった方には、いつもながらありったけの感謝を。
 
 

     ━━━━━ ☆☆☆ ━━━━━


   湯治とあとがき [2003年01月12日(日)]
 
 
 ぽっぽこぽー♪
 ぽっぽこぽー♪

 …………いえ(大赤面)。

 ちょっと昨年末より調子の悪いマイフィンガーの治療目的(を口実)に、某所にて空の大怪獣と大決戦をして参りました。<寒ゥ〜
 ううっ、何でもないです。正月明けてない目出鯛奴!とか言ってやって下さい。<極寒

 とにかく、おかげ様で指も全壊……いえ、全快っぽく素敵に回復の兆し。
 あぁ、好き放題にモノカキできるって素晴らしい〜(諸手でバンザイ

 …………イ、イエ(大赤面)。
 下らなさすぎて凍えてしまうので、ここからはいつものように。


 『 M:西海航路 』、その第八章をお届けしました。<白々し(以下略

 えーっと、とりあえず、その
 内容についてとはまた別ですが、ちょっぴり考える部分がありまして。
 いえ別に需要がどうとかソレがどうとかナニがこうとかそういうことではなく(微汗)、ある意味ソレには近いのですが(?)、やはり別の意味でこの状態はまずいのでは、とか思いまして……

 ……スミマセン。
 何を言っているのかさっぱりわかりませんね(汗)。

 とにかく、とりあえず……次です。次……うーん、次だと思います。たぶん次です。そのはず……です。その辺りで、一つ。

 それでは。
 お読みになって下さった方には、尽きぬ感謝を。
 
 PS.まさに惑乱っぷりが炸裂していたあとがきを(もしも)お読みになっていた方がいらっしゃいましたらごめんなさいでした(汗&泣
 とりあえず、ホント大した話ではありませんので……(赤面

 
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   リテイクマシンぽいあとがき+ [2003年01月18日(土)]
 
 
 『 M:西海航路 』、第九章をお届けします。

 はっふー、また遅れに遅れました。
 言い訳もそろそろ見苦しさが極まって来たので、とりあえず腹カッサバク代わりに一芸を。

『 リテイク〜マシ〜ンみたいに〜♪

  何度も〜書き直し〜て〜♪

  アタマ 擦り切れるがな〜♪ 』

 …………ズビバゼン(大赤面&大泣)。

 というか、今回の第九章には一つだけ大きな秘密ならぬポイントが!(いきなり明るく
 ……って中身のことではないのですが、前回に予告した通り一つありまして。
 その、はい、それ!ぴしっ!その通りです!3100年終局への旅プレゼント〜♪

 とにかく、そういうことでして(あぁ
 一応、この文もすぐに消失するということであろうと(汗々

 とにもかくにも、お読みになって下さった方には本当にお礼申し上げます。
 
追記:あう、寝てないと文がもう(泣
 手直しも寒すぎるのでこのまま放置の方向で……
 秘密の作業は今夜……暇があれば……(遠い目
 とりあえず、一段落にホッ。



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[M:西海航路・第一部総集編なあとがき],2003年1月24日掲載
 
 



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