青空の下、大きく傾く背。膝を屈していく、一人の乙女。
そして、大きくそれを持ち上げます。
広げられた両手は、大空を掴もうとするように。
高く、天へと。
「やほー、ショーゴ!」
北原那由多、十八歳。
天真爛漫なその笑顔が、今日も太陽の下で輝きます。
憎かった。
殺したいほど、憎かった。
殺したいと思った。
殺したかった。
本気で、殺すつもりだった。
絶対に、殺すつもりだった。
許せるわけがない。
許しはしない。
楽しかった想い出の仇。
優しかった姉の仇。
何よりも、お母さんの仇。
誰よりも、私自身の仇。
あの男を、許しはしない。
あいつを、許しはしない。
毒を使おう。
毒を盛った。
微笑んでそれを勧める。
笑ってそれを差し出す。
私の作った料理を、手放しで喜ぶ男。
芸術家より若奥さんの方が向いていると、誉めそやす男。
何とでも言うがいい。
どうとでも思うがいい。
私は許しはしない。
私は忘れない。
あの言葉。
あの声。
お前が憎い。
お前を許さない。
口に運ばれる食物。
飲み込まれるカプセル。
私の言葉を信じて。
私が気遣っていると信じて。
毎日、毎日。
毎時、毎時。
そのたびに、私の心が喝采をあげる。
そのたびに、私の胸が心地よく躍る。
今日も一つ。
明日も一つ。
待ち焦がれた日が、近付いている。
仇を討つ日が、近付いている。
そう、お前を許しはしない。
そう、お前を生かしてはおかない。
夢ばかり見る。
ずっと、夢ばかり。
寮の記憶。
学校の記憶。
それは、黒い夢。
必ず、黒い夢。
去っていく人。
離れていく心。
嘲りの言葉。
蔑みの視線。
お前は汚い。
私は汚い。
お前は醜い。
私は醜い。
お前は存在するべきじゃなかった。
私は存在してはいけないんだ。
お前には生きる価値もない。
私には生きる価値もない。
お前は生きていてはいけないんだ。
私は生きていてはいけないんだ。
お前なんて、いらない。
私は、いらない。
どうして生きているのか。
どうして死なないのか。
どうやっても。
どうしても。
それが不思議だった。
それが不可解だった。
だけど、どうしてかに気付いた。
やっと、どうしてかに気付いた。
私には、まだやるべきことがある。
私にしか、できないことがある。
だから、死ねないんだ。
だから、生きなきゃならないんだ。
許さないこと。
認めないこと。
そう、決して許さない。
お前を、決して許さない。
最低の人間。
最低の存在。
不必要な生存。
不必要な生命。
不可解な関係。
不可解な家族。
不機嫌な貴方。
不機嫌な自分。
憎むべき相手。
憎むべき自己。
時が満ちるのが待ち遠しい。
今から待ち遠しい。
その日が来ることを願っている。
ひたすら願っている。
それだけでいい。
それ以外はどうでもいい。
何もいらない。
何も欲しくない。
今日も一歩。
明日も一歩。
時は刻まれ、その日が近付く。
針が動き、回り続ける。
いつだろう。
もうすぐだ。
ほら、時は刻まれ続けている。
私の心に、刻まれ続けている。
音が聞こえる。
聞こえてくる音。
私が見つめていると、時が動く。
私がそう思うと、時が動く。
早く来い。
早く来て。
でも、邪魔が入った。
だけど、邪魔が入った。
出会いは偶然。
再会は必然。
すぐに気が付いた。
すぐに理解した。
この人が好きなんだ。
この人を愛している。
恋をしたのは初めてだった。
恋だと気付いたのも初めてだった。
彼の笑顔にときめく。
彼の姿にどきどきする。
見ていると楽しい。
話をするともっと楽しい。
いっしょにいると楽しい。
いつもいっしょにいたい。
でも、戻ればひとりの家。
他人がいる、私のじゃない家。
そうだ、私はこの家の人間じゃない。
そうだ、この家は私の家じゃない。
この人は、私の姉じゃない。
お前は、私の父じゃない。
そう、私は鳴海那由多じゃない。
そう、私は北原那由多。
夢が変わった。
変わってしまった。
黒い夢。
輝く夢。
お前を許さない。
貴方が大好き。
お前が憎い。
貴方が欲しい。
私は鳴海那由多。
私は北原那由多。
苦しい。
楽しい。
裏切り。
指切り。
決別。
決意。
あっけない幕切れ。
あっけない最期。
許せない断末魔。
許せない終焉。
何もかもが終わった。
何もかもが狂った。
願い通りの結末。
裏切りられた願望。
お前は何?
私は何?
冷たくなった躯。
暖かい躯。
お前にはこの台詞を遺してやろう。
お前にはこの台詞がお似合いだ。
この日をずっと夢見てきた。
この日をずっと待っていた。
苦しむがいい。
喘ぐがいい。
だけど、その時気付いた。
何も聞こえていないことに、気付いた。
何の為の言葉?
誰の為の言葉?
もう誰もいない。
もう何もできない。
もう二度と、憎めない。
もう二度と、殺せない。
許さない。
許せないから。
憎い。
憎めないから。
永遠に。
永久に。
真相。
真実。
虚偽。
虚脱。
絶命。
絶望。
どういうことなのかわからない。
どうしたいのかわからない。
どうすればいいのかわからない。
どうなればいいのかわからない。
いてくれたのは彼。
来てくれたのは彼。
嫌いになる?
嫌いにならない?
それで決めよう。
それで決めたい。
たった一度だけ。
最後に一度だけ。
あなたが好きです。
あなたを愛してる。
ゆっくりと紙を置いて、彼がノートから顔をあげました。
そこにある、彼女の顔をまじまじと見つめます。
「……ショーゴ、その……どうだった?」
心配そうな、それでいてはにかんだように覗き込む姿。
どこか彼女らしい、そんな表情でした。
「いいんじゃない……かな?」
再びノートをチラリと見て、微妙なニュアンスの返事をする彼。彼女が首をかしげます。
「そう?本当におかしくない?ロッキー山脈に恐怖のあらいぐま人形チャッキーロックが出現するのと、どっちがおかしくない?」
「そ、それは……どっちかな。」
焦る彼。難しい顔で、そしてノートをパタンと閉じます。
「でもさ、これ、いいと思うよ……なんだっけ……そうだ!なゆ、これってあくまでもさ、『序文』なんだよね?」
「うん、オフ・コース♪イッツ、プロローグ!だから、ちょっと文体に特徴があるでしょ?」
「う、うん。ちょっと……そうだね。でも、面白そうだよ。引き込まれる感じ、かな?」
「ホント?」
「うん。この先が読んでみたいって思う。」
「ホントにホント?」
「う、うん。」
彼から顔を少し離して、ぐっと身構える彼女。彼が何事かと目をパチパチ。
その前で、彼女は再び大きく……天を。
「キャッホー!」
「な、那由多?」
「うーん、ショーゴ!それ、もの、ものすごっ!もの、すっごい!嬉しいじゃん!エバーランドでパンピータンがホーキング船長をやっつける?もう、そんな感じだよ。はいここ、つまらないんじゃなく、つまるトコ!皆の者、サンキュ〜♪」
彼の額に、また汗が浮かびます。それを知ってか知らずか、また彼女のオリジナル・スマイル。
「あははっ♪とにかく私、モースト・グラッド!ありがとう、ショーゴ。お礼にハッピー・ニュー・イヤー・バカンス七泊八日、佐渡金山温泉旅行の旅をプレゼント!ハーイ、カップル様一組ご案内〜♪」
バッグから何やら怪しげなチケットを出して、彼の前でそれをパタパタと示す彼女。一瞬、その場に静寂が訪れます。
ちょっぴり、不安げな彼女。その前で、笑う彼。その手から、ピッとチケットの一枚を取ります。
「オッケー、なゆ。それじゃ、そろそろ行こうぜ。バカンス前に、とりあえず約束の美術館だろ。」
「ほいさ!まだまだツッコミレベルが足りないけど、今日はそれでヨシとしてあっげましょう!それじゃ、ショーゴ。レッツゴ〜♪」
「こ、こら!危ないって……那由多、うぅわっ!」
「こらショーゴ、そんなことでは甘い!甘いのじゃ!一人前のコメディアンになるために、お主ももっと、ハリーアップ!」
つんのめるように引っ張られる彼。どこまでも朗らかに、その手を握って駆け出す彼女。
去っていく二人に、晴れやかな千羽谷の空。
今日は、絶好のデート日和です。
心地よい海からの風。それに揺れる、ベンチの上に残されたノート。
やっぱり、私は北原那由多。
けれど、私は鳴海那由多。
だけど、関係ない。
もう、関係ない。
だって、私は那由多。
そう、私は私。
時計が止まった。
時が止まった。
寄り添うみたいに。
重なるみたいに。
たぶん、これは私の心。
そして、これからも私の心。
だから、動き出す。
もう一度、動き出す。
離れるかもしれないけど。
通り過ぎるかもしれないけど。
でも、きっと一つになる。
また、きっと一つになる。
ずっと、私と彼。
いつまでも、あたしとショーゴ。
お母さん。
お父さん。
こんな私だけど。
寂しがり屋の私だけど。
いつか、許してくれますか?
いつか、誇りに思ってくれますか?