目が覚めると、背中に小さな羽が生えていた。
始めは冗談だろうと思った。医局の誰かが悪戯したんだろうと考え、そんな馬鹿なことをする人がいるわけがないと苦笑する。確かに、いやがらせにしても悪趣味すぎる。まさに冗談。
でも、背中に羽が生えているというのはどういうことだろう。半身を起こした柔らかなベッドの上で、私はしばらく考え込んでしまった。確か、昨夜消灯する前はこんなものはなかったはずだ。だとすれば、私が寝ている間に誰かがこの部屋に入って来たことになる。嫌悪感を覚えつつ、次に私は問題の羽を確認しようと思った。背中に手を伸ばして触れてみる。柔らかな感触、そして。
背筋が震える。私は思わず小さな声をあげていた。何というか……とても微妙な感覚だ。正中神経が刺激される、とでもいうのだろうか。私は涙目になって、ある事実を認識した。
この羽は本物だ。
そう、間違いなく本物の羽だった。何しろ、触れられた感触がこうして伝わるということは、そこに神経が通っているのだ。だとすればこれは悪趣味な付け羽などではなく、本物のそれに間違いない。私の背中に羽があるのだ。小さな羽が。
天使?
そう考えて、次の瞬間私は吹き出してしまった。何が天使だろう。いい歳をした私にとって、それこそもっとも不似合いな形容に思える。脳裏に浮かんだ自分の姿のこっけいさにそれが高まり、私は少しの間、ころころと笑い続けていた。
「あれ……起きたんだ?」
横合いからの、寝ぼけたような声。驚いて見ると、部屋のテーブルに突っ伏していたらしい少女が、惚けたように顔をあげていた。長い黒髪の少女だ。こっちを覗く眠そうな目がまたたくと、特徴的な切れ長の視線が笑いかけてくる。
私は言葉につまった。まさか、誰かいるとは思っていなかったのだ。そもそも、彼女はどうしてここにいるんだろうか。私の部屋に……
「……えっ?」
思わず口を押さえる。見たこともない部屋……どこかの屋敷のような、西洋建築の大きな部屋だった。そこの壁際にある丸みのある大きなベッドに、私が寝ている。何もかも、初めて見る家具ばかりだった。
「大丈夫?もう痛くない?あんた、ずいぶんうなされてたんだよ。気分はどう?」
黒髪の少女が私に私に尋ねる。どこかで聞き慣れた、なじみのあるような台詞だった。いや、言い慣れているのかもしれない。
立ち上がった彼女は椅子をベッド横まで引いてくると、そこにドンと腰掛けた。胸元から小さな紙の箱を取り出して、思い出したように私に尋ねる。
「煙草、いい?」
病室でなんてことを言うのだろう。私は思わずそう注意しかけて……そして、口ごもった。
この部屋は、とても病院内の施設には見えない。かといって、決して私の部屋じゃない。
私はどこにいるのだろうか。昨夜、何かあったのだろう。同僚の誰かと飲みに行った?意識不明で泥酔するまで?そんな記憶はないし、ありえない。数少ない友達やその他の関係にも思い当たる先はなかった。
いや、そもそも私が今思った病院とは、どこの病院のことだろう。
思わず彼女を見る。私の沈黙を了承と解釈したのか、彼女は煙草をくわえていた。ブランドはわからない。ゆっくりと吹かし、そして煙を吐く。私は少し刺のある雰囲気を彼女に感じた。
「あの……いいかしら。あなた、どこの人?私はどうして……」
「ストップ。とりあえずさ、何でもいいから巻いといたら?風邪ひくよ?」
私は自分の格好に気が付いた。耳元まで熱くなる。そうか、そうだったのだ。
慌ててシーツをたくしあげる私に、彼女が肩をすくめて煙草をくゆらせた。その仕草は余裕たっぷりで、何だか小憎らしかった。子供のくせに。
「あのね……言わせてもらうけど、いい?」
「どうぞ。」
「あなた、何歳なの?未成年じゃないでしょうね。それにしても、煙草は健康に良くないのよ。いえ、そもそもこの状況は何なの。どうして私がこんな所にいるのかしら。あなたは誰?」
やつぎばやに言いたいことを並べて……そこで、私は気が付いた。整った彼女の顔……いや、その頭の上にある物を。
輪、だった。光る輪。まさに天使の輪だった。それが、彼女のサラッとした頭髪の上に浮いている。
私はまじまじと彼女を見た。いぷかしげに首をかしげる彼女の背に……羽があった。
羽だ。頭に輪。背中には羽。私は絶句した。そんな、まさか。
「あ、あなた……」
「誰?」
それ以上言葉が出なかった私に、彼女が問い返すように呟いた。チラリと、窓の外を見やって。
「えっ……」
「誰だか、思い出せる?あんた、自分が誰だか。」
何を言ってるんだろうか。私はもちろん……
私は……?
私…………
「無理しない方がいいよ。たぶん、思い出せないだろうから。でも気にしないで。あんただけじゃないの。あたしもあんたと同じ。ううん、あたしたちだけじゃない。灰羽のみんなもそれは同じ。」
思い出せない?
本当だった。どうしてだろう。私は途端に恐くなった。何もないのだ。ぽっかりと、頭の中に記憶がない。
私は誰だろう。さっきまでは、自分が誰かおぼろげには覚えていた気がする。何か、場所や物の名前を呟いていた気もする。
でも、もう何も思い出せなかった。何も。
私は思わず白いシーツを握って、自分の肩を抱き締めるように身を強ばらせた。私はここにいる。確かにここにいる。だけど、私は誰?
「ほら、考えすぎない方がいいって言ったでしょ。大丈夫、すぐ慣れるから。それより……」
彼女が立ち上がった。部屋のドアに向かって歩き出す。どこかに行ってしまうのだろうか。私は急に不安になった。肌寒さを感じる。
「ま、待って……」
煙草をくわえた彼女が、こっちに振り向いて小さく笑った。安心させるようなその微少に、私は安堵した。いい歳をして情けないとは思わなかった。それほど不安だったのだ。自分が誰かわからないのは。
彼女が黙ってドアの前に立つ。どうしたのだろうか……と、彼女がそこでノブに手をかけ、ぐいっと扉を引いた。
「きゃああぁぁっ!」
私は驚きに目を見張った。数人からの叫びと共に、誰か……何人かの姿が部屋に転がり込んで来る。
「い、イタたっ……あーあ、見つかっちゃった。」
よく見ると、それは見知らぬ少女たちだった。転び、慌て、頭をかき……そして、並んで私に笑いかけてくる少女たち。
「まったく……あんたたちも大概にしな。この子が驚くだろ?」
「ごめんなさい、レキ。」
「だってー、その子のことが心配だったんだもん!」
「こんにちは!気分はどう?ゆうべは大変だったんだから。」
笑い合い、そして互いに小突き合う少女たち。年齢はばらつきがあったが、仲がいいようで、私を興味深そうに見て笑う。私はなんとなく、ほほえみ返してしまった。
ふと思う。煙草の子……最初に私と話した子は、レキ、という名前なのか。珍しい名前。どんな漢字を書くのだろう。
「まぁ、いいけどね。それじゃとにかく、自己紹介か。私はレキ。それで……」
「ソラ。空を飛んでる夢を見てたから。だからソラ。」
「空を見てる……夢?」
聞き返すと、嬉しそうにうなずいて両手を広げる。
「そう。ここじゃね、自分の名前はそうやって付けるんだよ。誕生する前に見てた夢で、決めるんだ。」
「私は頭上に光が見えてたからヒカリ。それでこっちが……」
「カナ。河で魚みたいに泳いでたから。」
「こっちはネム。夢の中でも眠ってたから!」
「もう、人の自己紹介を勝手に……」
空、光、河魚、眠……あまりに単純な名前だった。
そこで思った。なら、私は何なのだろう。
「それで、あんたは……カオル。」
「えっ?」
煙草の少女……レキの言葉に、私は目を丸くした。
「いい香りの夢を見たんでしょ?だから、あなたはカオル。」
カオル。香……薫?
そうか、確かに私はカオルだ。どうしてか、私はそう納得した。でも、いい香りとか、そういう話はしていない気がする。第一、そんな夢は見たことがない。私は口を開きかけ……そこで、ふっとあることが気になった。私の近くにいるレキを見上げる。
「もしかして、レキって……轢殺される夢を見たから?」
彼女が目を丸くした。煙草がポロリと落ちる。
そして、吹き出した。大笑い。
「違う違う。あーあ、カオルって顔の割にけっこう冗談きついんだ。あー、苦しい。」
落ちた煙草を拾って、灰皿で消す。私の言葉がよほどおかしかったのだろうか。彼女は延々と笑い続けた。他の少女たちも顔を見合わせて、そしてクスクスと笑う。
いつしか、部屋の雰囲気がとても和んでいた。何だか暖かさのようなものが満ちている。自然と、私も笑っていた。
気が付くと、皆が笑っている。
「とりあえず、細かい説明は朝メシ終えてからにしよう。カオルもお腹減ってるだろ?準備するから、顔洗ってきな。それじゃ、みんな仕度!」
一斉に動き出す女の子たち。皆の頭に輪、背に羽。私やレキと同じく。
でも、どうしてだろう。何だかとても自然だ。ずっとこのままでいたような、そんな気までしてくる。
「さてと。ま、とにかくよろしくね、カオル。」
一人残ったレキが、私に手を伸ばしていた。彼女なりの挨拶だろうか。私は笑顔で、それを握り返した。
意味があって、なさそうな握手。ふっと、学生時代を思い出した。あの頃は、何度かこういう握手をしたことがあったっけ。確か……
そこで、気が付く。学生時代……?
「……椎名先生?」
軽く肩を揺すられて、私の意識が覚醒した。顔をあげる。なじみの看護婦の顔がそこにあった。
「先生、大丈夫ですか?最近、色々あって宿直が多いですから……身体に気をつけて下さいね。医者のなんとやらって、言われちゃいますよ?」
私は瞬時に己を取り戻していた。鼻先まで落ちかけていた眼鏡を持ち上げると、つとめて自然に笑いかける。
「ごめんなさい。そうね、ちょっと疲れていたのかもしれないわね。うたた寝してしまって……ありがとう。老先生に見つかったら、またお小言だったわ。」
「どういたしまして。それじゃ先生、失礼します。」
律義に一礼して、彼女は部屋から去っていった。手をあげてそれに応え、席を立とうとして……膝の上に開いてあった、大きめの本に気が付いた。それを持ちあげて、見る。
本だ。字の大きさから子供のものだとわかる。文のスペースよりも絵の占めるそれが大きいような、そんな本だった。
そして、そこに天使がいた。可愛らしい女の子の天使たち。
私は本を閉じた。本の題名は知らなかった。誰かから借りたのだろうか。覚えがない。読んだ記憶もなかった。なら、この本はいったいどうしたのだろう。
しばらくそれを考えて、私はクスッと笑った。
いいじゃない。そんなこと、小さなことよ。起きたら見知らぬ場所にいて、背中に羽が生えてたなんて話に比べれば、遥かに些細なことじゃないの。
本を、自分の机に置く。眼鏡も外して、その横に置いた。
誰のものかはわからない。誰かが落としたのだろうか。だとすればこれを見つけて、勝手に持っていくだろう。そうでなかったら、持ち帰って一度読んでみよう。そうだ、今夜にでも。
引き出しの手鏡で身なりを正すと、私はそう決めた自分に笑った。どうしたんだろう。妙な気分だった。でも、いい気分。
準備を終えて、部屋を出る。静かで、そしてにぎやかな病院の午後。いつもと同じ、私の職場だった。
歩き出そうとして、ふと窓の外を見た。晴れやかな秋の午後。読書がはかどりそうだった。そう考えて、さっきの本を読むのを楽しみにしている自分に気付く。苦笑した。子供の本なのに。
いや、そんなことは関係ないか。心中で首を振り、私は笑った。子供や大人なんて関係ない。
物語はいい。どこにでも行けるし、何にでもなれる。そう、子供にでも、不思議な天使にでも。
小さく伸びをして、私は午後の検診に向かった。