『其は翼、汝はその羽根』
Birds of a feather flock together.
その少女と出会ったのは、ほんの偶然だった。
学校帰りの道。いつものようにやることなど何もなかったから、なじみの河川敷で暇を潰そうとした。でもそこでは既に中学の連中が騒いでいたから、近くの公園に入った。そこでも退屈は相変わらずだった。その代わり、私を誰だか知らずに声をかけてくる連中がいた。どこにでもいる、馬鹿な男たち。
そいつらを残らず張り倒し、一喝しても気はまぎれなかった。公園を歩きながら、今の連中が数を頼んで仕返しに来るかもしれないと思い、いや、そんなことがあるわけはないかと心中の考えを訂正する。そうなれば今度こそ、私が誰だか理解する……知っている奴がいるに違いない。正確には、私が誰の妹か理解する、だが。
この公園は別に好きでも嫌いでもなかった。いつ来ても人が多かったし、私のに限らず近くに多くの学校があるために、学生が常にどこかにいた。みんな楽しそうで、他人の不幸など知ったことではないという様相だった。もちろん、そんなこと私にはどうでもよかったが。
歩いていると、ほら、あの人よという声が聞こえた。さっきの下らないナンパと同様、お決まりのそれだ。同じく決められた通りにそちらを睨みつけてやると、数人の女生徒たちが目をそらし、走って逃げていった。制服がうちの学校と違うのを見ても、別にどうとも思わなかった。ただ、去り行く足音に呼応するように周囲の視線が集まった気がした。私の足取りは早まった。
見慣れた大きな池まで来ると、私はようやく周囲の視線を感じなくなって安堵した。だけどそこで、これではまるで何かから逃げているみたいじゃないか、いじめられる奴のようだと思い、腹が立った。もっともそれは今初めて気付いたことではなかったが。人が他者をどう思っているかに関わらず、集団の感情は個人を傷つける。そこにいいも悪いもなかった。だから、群れている連中はサディストで、卑屈だ。それが私の結論だった。
孤独の辛さを知らない奴、そう言われるかもしれなかった。だが私からみれば、誰にも知られず、ただ一人でいられる奴の方が遥かに贅沢だと思う。家のことも、自分のことも、友達のことも、毎日の暮らしも、今までのことも、これからのことも、全部自分で決められるのだから。
そう思って、それは生まれる前の人間、赤ん坊のようだと思った。無垢で純粋で、泣くことしか知らない生まれたての赤ん坊。だけどそこで、赤ん坊もまた自分の親を選べないことに気が付いた。裕福で、愛情にあふれた両親の下に生まれる子供は確かに幸せだろう。だけど、そうでない奴もいる。
だとしたら、真の孤独……さっき私が思い描いたような奴は、この世にいないのではないか。真っ白で、過去も未来もなく、何一つその身に持っていない白紙のノートのような存在。そんな状態の人間がいるはずがない。大なり小なり、誰もが何かのしがらみを抱えているのだ。生まれるとはそういうことだろう。ただ、その立場に違いがあるだけだ。親が裕福か、裕福でないか。家族に愛情が満ちているか。将来を約束されたような家柄か。極論すれば、幸せか、幸せでないかだろう。
そうだ。現にここにこうしている私がいるように、どこかに幸せで仕方ない奴がいるのだ。両親含め親族はすべて息災で、財政的にも豊かで、兄弟は仲が良く、毎日が楽しくて仕方がない。そんな奴に、今の私の気分を味あわせてやりたい。一日……いや、一時間だっていい。そして、苦しさに悲鳴をあげるそいつに言ってやるのだ。お前は運が良かったな、と。私はただ、運が悪いだけでこうなったんだ。くじ引きのように、幸と不幸が簡単に決められたんだ。私とお前は……
そこで私は思った。それじゃ、私のサイコロを振った奴は誰なんだ。誰が、私の素性を決めたのだ。こんな国の、こんな冷たくて最低な街に、私を生誕させることを決めた奴は誰なんだ。お前の振ったサイコロが一つ違うだけで、私は今、幸せに満ちあふれた毎日を送っていたのかもしれないじゃないか。そうだ、きっとこんなことを考えることもなく、世の中はそういう素晴らしい所だと思って生きていただろう。こんな風にこごえるような寒さも感じず、毎日友達と遊び、家では親兄弟とだんらんを過ごして、楽しかった記憶の残るアルバムをめくり、やがてそうなるであろう将来を思い描く。そんな奴がそこらにいくらでもいるのに、どうして私はそうじゃないんだ。みんなお前のせいだ。こんな公園でたむろってる、性根の腐ったような奴らがそうなのに。お前が、お前がもっと真面目に決めてくれれば……
その時だった。私が、それに気が付いたのは。
池のたもと。柵が曲線を描くその先から、私を見つめている人物がいた。
少女、だった。長い髪の少女。かなり距離があり、私との間に幾人もの他者がいるのに、どうしてかはっきりとそれがわかる。
私を見つめている。いや、睨んでいるのだ。
他校の不良か。最初はそう思った。さっきの連中のこともあるし、私にとってここは決して安全な場所じゃない。
だけど、すぐにそれが違うとわかった。それは彼女の服のせいだ。中学の制服じゃなかった。白い洋服……ドレスのような、高そうな服を着ている。胸元には黒いリボン。どこかのお嬢様のようだった。そしていまだに、微動だにせず私のことを睨んでいた。
もちろん私も睨み返した。視線をそらせたら負けで、そんなことは常識だった。いつものように構えて、ありったけの敵意を視線にこめて叩きつける。誰かは知らないが、こんなことをしてくる奴が味方だったことなどない。こいつは敵だ。
驚いたことに、その少女はすぐに睨むのを止めた。だが、視線を外したわけではなかった。私に対して幻滅したように顔を曇らせると、長い髪を軽くかきあげたのだ。それがまるで、こっちを憐れむような仕草に見えて、私の腹の虫は完全に目覚めた。
つかつかと、その少女に向けて歩き出す。逃げたらどうしてやろうかと考えつつ、足取りを凄みのあるものにしていった。飾る必要はなく、既に私自身がかなり立腹していたが。
少女は、まだ微動だにしなかった。これもまた、私を驚かせる理由だった。どこかの不良だとすれば、かなり場数を踏んだ奴だろう。もちろん一般人じゃない。そうでなければ、私にこれだけ勢いよく詰め寄られて、何かのリアクションを起こさないはずがない。そう考えながら、私は周囲に軽く目をやって、こいつの連れがいないか確かめた。とりあえず見えない。やるとしてもタイマンだろう。
彼女の前、ギリギリで立ち止まる。それでもなお、彼女は動かなかった。もちろん視線は私に向けたままだ。さっきの睨む様子でもなく、憐れむ様子でもなく……どこか、いぶかしげな表情だった。
そこで私はあることに気が付いた。こいつは、日本人じゃない。瞳の色が違う。顔つきもそうだし、第一、肌の白さが驚くほどだった。ぬけるような、足下に広がる雪に似た淡い色。
「なんだ……お前。」
それが私の第一声だった。用意していた台詞ではなく、ただ驚きのままに発したそれ。
返事はなかった。ただ、じっと私を見つめる、澄んだ瞳がそこにあった。嫌な感覚だった。見下されている気がした。蔑み、卑しい者を見るような瞳……私がいつも見ている奴らの目だった。違うのは、こいつの目がそいつらと同じように濁っていないこと。そんな奴に出会ったのは初めてだった。だから、続けて沸いた怒りをぶつけるのをためらった。
そして、彼女が先に口を開いた。
「あなたは、どなたですか?」
初めての声。低いトーンの、それでもよく透る声だった。殺気立ったこの場にふさわしくない、どこか場違いな、そんな響きを秘めた台詞。
澄んだ声色、そして澄んだ両の瞳が、私を見据える。こいつは何者なんだ。私は思わずたじろいでいた。自分でも気付かずに。
「な……何を言ってやがる。てめぇこそ……人にモノを尋ねる時は、自分から名乗れよ!」
我ながらひどい台詞だ、と思う。普段と違い、考えなしに口にしたからだ。いや、してしまったんだと思う。とにかく、気付いた時にはそう言って、私は片手を脇にふるっていた。勿論当てるつもりはまだなく、脅かすつもりで。
私の剣幕に、周囲の連中が我先にとこの場から去り始める。白い公園の白い池……彼女と私の対峙するそこが、誰もいない場所になった。
だが、肝心の相手は、やはりというかまったく動じなかった。たいした度胸だ。いや、神経だとある部分で感心する。外国人だからというのは理由にならない。こいつの両目と両耳が使えないなら話は別だが、そうでなければこの世の誰でも、私が激昂しているのがわかるはずだ。
「最初に話しかけてきたのはあなたです。だから私はあなたがどなたか聞き返したのです。あなたの流儀もそうであるのならば、この場で先に名乗るべきがどちらかなのは明白でしょう。違いますか?」
これだけのことを一語一句つかえず、抑揚もなしに口にされる。まるで、予定されていた芝居の台詞のように。それは決して普通ではなかった。いや、異様だった。
結果、私の心のどこかが切れた。小さく、音を立てて。
「そ、それはお前があたしにガンをつけてきたからだろうが!」
「ガン、とはなんですか。この国では、人を見つめることは罪になるのですか?」
「そういう意味じゃねぇ!お前、明らかにあたしに喧嘩売ってただろ!違うのか!」
「喧嘩を売る、とはどういう意味ですか。暴力行為を依頼する、ということですか?」
「お望みなら、そうしてやろうか?憐れむような目で人を見やがって……お前の故郷じゃ、そういうのはマナー違反にならないってのか?お前はお姫様かなんかか?あたしは乞食か?」
「マナー違反と言うのであれば、この国では公共の場で怒鳴り散らし、人の胸元を掴んで拳を振り上げるのはマナー違反ではないのですか?」
気が付くと、私はそいつの首ねっこを掴んで吊るし上げようとしていた。それに対して少し苦しげにしつつ、彼女はまだ……いや、断固として私に屈しなかった。最初と同じように、あくまで毅然として。
私は絶句した。怒りというより、むしろまったく別の感覚が私の胸中に沸き上がった。上げた拳を振り下ろすのは至極簡単だった。こいつを真冬の池に叩き込むこともできただろう。ある感情がそれを叫び、そうしろと訴えていた。
だが、できなかった。いや、違う。しなかった。そうだ、してやらなかったのだ。
私はそいつを下ろした。両手をこれみよがしにパンパンと叩き、そして髪を大きく払った。見返すと、まだ彼女は私のことを見つめていた。じっと、まるで鏡を見るように。
「なんだよ。さっさとどこかに行けよ。行っちまえ。これ以上ここにいると、本気でぶちのめすよ。さっさとお前の家……ホテルかどこかに帰りな。パパとママのいる、あったかいお屋敷にでもな。」
ふん、と髪をまた一振り、私は視線をそらせた。どうしてか、もう怒りはどこにもなかった。これ以上こいつがここにいるのなら、私の方が去ってやろうと思った。そして、相変わらずこっちに向いているそいつに、きびすを返しかけ……
彼女が、また口を開いた。
「私は、フランチェスカ。帰るべき場所は……今はまだ、ありません。」
私は耳を疑った。今こいつ、何を言ったんだ?フラン……それに、何だって?
「フラン……チェスカ?」
思わず、だった。どうも、さっきからそればかりな気がする。思わずに、言葉を発している。
「そうです。あなたの名前も、教えていただけますか?」
馬鹿丁寧だった。そこにはたった今まで私たちの間で交わされていた、怒りに満ちた調子など微塵もない。今までのことも、何もかも、忘れているように。いや、もしかすると彼女自身はずっとそうだったのか。怒っていたのは、私の方だけで。
「あ、あたしは……左京。左京、葉野香。」
ゆっくりと、姓と名を区切るようにして、私の告げた名前を口にする少女。
私と彼女の黒髪が、冷たい冬の風に舞った。
彼女の名前は、フランチェスカ。