北の町、札幌。
その片隅で、恋する少女のため息が漏れました。
少しクセのある肩までの髪。淡いストライブの洋服に、お気に入りの白いエプロン。マンションの五階、リビング・キッチンの椅子に腰掛けているその姿。
春野琴梨、十六歳。
考えごとの真っ最中なのか、四脚の椅子がゆらゆらと揺れました。
そしてまた、小さなため息。
「うーん、どうすればいいのかなぁ……」
両肘をテーブルについて、丸みのある下顎を手で押さえて。
可愛らしい……しかし当人としてはあくまで真剣な吐息が、汚れ一つないグリーンのテーブルクロスの上にこぼれます。
琴梨ちゃん、いったい何を悩んでいるのでしょうか。その様子から、ただならぬ悩みだと察することができますが……とりあえず、今日の夕食の献立で悩んでいるわけではなさそうです。
と、そこへ玄関のドアが開く音。ですが琴梨ちゃん、むつかしい顔のままそれに気付きません。あぁ、もしも泥棒だとしたら大変です。
「ただいま。おや琴梨、なにやってるんだい?」
ホッ、とりあえずそんなことはありませんでした。琴梨ちゃんの母親である、陽子さんが帰宅です。
「えっ……あ!お母さん?びっくりした……いつ戻ったの?」
「なんだいこの子は。母さん戻ってきたのに、気付かなかったのかい?」
目を白黒させて驚く琴梨ちゃんに、呆れ顔の陽子さん。機能的なショルダーバッグと重そうな書類の包みをソファの上に投げると、無造作に結った髪を一振り、キッチンの琴梨ちゃんの横……いつもの席に腰掛けます。
「あ、うん。ごめんなさい。でもお母さん、今日は早いんだね……あーっ!」
「おやおや、びっくりさせるねぇこの子は。今度はなんだい?」
目を丸くする琴梨ちゃんに、陽子さんがまた呆れ顔です。
琴梨ちゃんは、困り顔。
「あのね、夜のお買い物、まだしてないんだ……どうしよう。」
「ありゃ、そりゃ見事に手落ちだね。」
「ご、ごめんなさい、お母さん。今から行ってくるね。急いで戻ってくるから。」
ガタンと立ち上がる琴梨ちゃんですが……陽子さん、首を振ってそれを止めます。
「なぁに、買い物なんて明日でいいさ。今日は久しぶりに外食と行こう。母さんごちそうするからさ。」
「えっ……?で、でも、お金がかかっちゃうよ。だったら冷蔵庫の中のもので、何か作るから。」
「たまにはいいさね。それに一家二人、経済的には何も問題ないってね。琴梨だって、たまにはよそで食べてみたいだろ?」
「えっ、あ……うん。でも……」
まだためらっている愛娘の頭に、陽子さんはポンと手を。
「四の五の言わない。時には子供っぽくしてくれないと、母さん親として立つ瀬がないじゃないか。」
母は強し、でしょうか。琴梨ちゃん、ポンポンと頭を揺らされて、くすぐったそうに笑います。
「も、もう……でも、うん。わかった。」
親子二人、ニッコリと笑いあいます。
「さてと。それじゃ、出かけるにしてもどこに行こうかね。最近はやりの店なら、母さん何軒か知ってるけど……琴梨、何かリクエストはないかい?どこでもいいよ。少し高くたってね。」
考えながらのお母さんの質問に、琴梨ちゃん、これまた少し考えて……思いついたように、ピッと指を。
「あ、それなら私、鮎ちゃんのお店がいい!」
「澤登かい?なるほど、そういえばずいぶんとご無沙汰してるね。いいよ、たまには二人でお寿司と洒落こもうか。」
「うん!じゃあ私、電話してくる!」
「あいよ。母さんは着替えてくるからね。」
嬉しそうに電話に走る琴梨ちゃん。それを見送って……陽子さん、少しばかりいぶかしげなポーズ。
ですが、まあいいかとその表情が緩みます。
とりあえず、今夜の春野家はお出かけですね。
大都市札幌の中心街にある、地下鉄大通駅。
にぎやかな夜のススキノ。そこで過ごした楽しい食事の時間。
足取りも軽く、構内に入っていく春野親子です。
肌寒い北海道の初夏に似合いな、乳白色のサマーセーターの琴梨ちゃん。その傍らで、紺とグレーのベルテッドジャケットの陽子さん。
時刻はもうすっかり夜。馴染みのお寿司屋さんでの会話が弾み、思わず長居してしまいました。琴梨ちゃんも陽子さんも、心身共に満足げな様子ですね。
ホームで地下鉄を待ちながら、楽しそうな親子の会話が続きます。
今の時期の札幌について。夏休み前でソワソワしている学校の話。そして、今さっきまでいた澤登の看板娘……鮎ちゃんの話。彼女が目指している夢について楽しそうに語る琴梨ちゃんに、特有の鋭いツッコミを入れながら話を返す陽子さん。
「……だから鮎ちゃん、この夏こそは!って燃えてるんだって。さっきも、部屋で練習してたみたい。頑張ってるよね。」
「そうなのかい。去年はおしかったからねぇ。」
「うん。でも、それはそれでよかったって言ってるよ。誰でもない、自分一人でがんばらないとダメなんだって、わかったからだって。だから鮎ちゃん、最近は何だか変わったっていうか……とっても強くなったの。なんていうかなぁ……同い年なのに、私よりずっと歳上みたい。」
「そうかい。じゃ、あとの問題はあんただけだね。」
「えっ……私?」
きょとんとする琴梨ちゃんに、陽子さんは小さな含み笑い。やって来た電車に乗りこんで、出発します。
「ほら。出かける前、何やら考えこんでたみたいじゃないか。母さん思うに、あんたの悩みってのは……」
「わ、私、悩みなんてないもん。」
「おや、じゃあさっきは何をたそがれてたんだい。買い物も忘れて、母さんが帰ったことにも気付かないでさ。何か、よっぽど考えることがあったんじゃないかい?」
晴天のようだった琴梨ちゃんの表情に、そこでふっと陰りが。
陽子さん、肩をすくめて笑いました。
「母さんに言いたくないことならそれでもいいさ。でも察するところ、あんたの抱えてる問題ってのは……来月のお客人に関係があるんだろ?」
来月のお客人。意味ありげなその語句を聞いた途端、琴梨ちゃんの目が見開かれました。まさに図星、その通りといった態度です。
「ふぅん、やっぱりそうかい。でもどうしてだい?あの子が来るなんて久しぶりじゃないか。前は確か年末だったから……琴梨、あんただって逢うのは半年ぶりだろ?」
琴梨ちゃん、下を向いて……頬が赤い。
「う、うん……」
「だったら、嬉しいことじゃないかね。それともなんだい。お前、あの子とケンカでもしたのかい?」
琴梨ちゃん、うつむきかげんで首を振りました。少し強く。
「そんなこと、するわけないもん。それに、半年も逢ってないんだから……ケンカなんて、できないよ。」
「なに言ってるんだい。手紙はさんざんやり取りしてたじゃないか。」
琴梨ちゃん、ビックリした顔でお母さんを見上げます。
「えっ……!お母さん、知ってるの……?」
陽子さん、口元がそれっぽく持ち上がります。
「あたしゃこれでも、一応あんたの母親だからね。いくら家事全般は任せっきり、時間不規則で家にもロクに戻らないダメ親って思われてても、その辺りはぬかりないさ。」
「つ、机の引き出しの奥の手紙とか……見たの?」
「ほう、そういうところに隠してるのかい。相変わらず古典的だねぇ、あんたは。でも安心しな、母さんそこまで悪趣味じゃないし、猜疑心強くないからさ。年頃の娘の部屋、無闇にあさったりはしないよ。」
「そ、それじゃ……どうして?」
目を白黒、頬を紅潮させる琴梨ちゃん。陽子さんは、あくまで悠然と笑います。
「琴梨。お前、手紙を出す時、いつも二丁目の角のポスト使ってるだろ。」
「う、うん……そうだけど。」
「あそこの角の酒屋のおばさん、母さんと古いなじみじゃないか。立ち話すると、時折そういう話題が出るんだよ。そういえば最近、春野さんのとこの娘さん、よく可愛い手紙を出してるって。大事そうに胸元で抱えて……何かお願いするように、真っ赤になってポストに入れてるって、さ。」
言いながら、腰をくねらせてお願いのポーズをしてみせる陽子さん。電車の中で、年甲斐も……って、い、いえ、何でもありません。
「お、お母さん……!」
「あら、違うのかい?でもその様子じゃ、当たらずとも遠からずみたいじゃないか。」
琴梨ちゃん、もう真っ赤。手が少しパタパタッと……思ったことを言葉にできない感じです。
「まぁ、観念しな。あのおばさんも、小さい頃からお前のことを可愛がってくれたからね。その琴梨が恋する乙女になったらしいと聞いたら、もう関心持つなって方が無理じゃないか。」
「え、で、でも……」
「とにかく琴梨、来月にはあんたの大好きな『お兄ちゃん』が来てくれるんだ。何を悩んでるんだい?いつものように、笑って出迎えてやればいいんだよ。」
お兄ちゃん。
その言葉を聞いて、琴梨ちゃんの瞳が大きく揺れました。
お兄ちゃん。今も家や友達……鮎ちゃんやクラスメイトなどに話す時は、そう呼んでいる人。
でも、でも……
「違う、もん……」
小さなつぶやき。それを聞き逃すことなく、陽子さんが首をかしげます。
「ん?何が違うんだい?」
「お兄ちゃんじゃ、ないんだもん……私、もう、あの人の妹じゃないもん……」
しぼり出すように……小さな、小さな声が、琴梨ちゃんの唇から。
陽子さんの顔から、笑みが消えます。
電車が、静かに駅に到着。改札を抜けて、歩き出す二人。
何かを堪えるように唇を結んでいる琴梨ちゃんと、その隣で黙した陽子さん。
しばらくすると、ローズヒル平岸に到着です。
階段を登り鍵を開け、我が家に帰宅する春野親子。
「ただいまっと。琴梨、コーヒーでも入れとくれ。母さん着替えてくるからね。」
ニャオウと、ソファの上のエルちゃんがお返事。さっきまでの沈黙を忘れたかのようなお母さんの言葉に、琴梨ちゃんは、まだ頬を赤くしたままうなずきました。
上着を脱いで、コーヒーメーカーを準備します。
スイッチを入れてしばらくたつと、ゆっくりと落ち始める褐色の粒。
次第にたまっていくそれを見つめて、琴梨ちゃんはずっと黙っていました。
何を考えているのでしょう。お母さんに知られていたことがショックだったのでしょうか。いや、どうもそれだけではなさそうです。
お兄ちゃん……いいえ、あの人との手紙のやりとり。
東京に住むあの人。去年……十年ぶりに再会し、いっしょに過ごした夏の日。
冬。再び訪れてくれた札幌の町で、函館の山で……そして、白い輝きに包まれた世界の中で。
想いに気付き、それを確認した、二つの季節。
それを経て、今……
「お兄、ちゃん……」
つぶやき、そして……自然に口にできたそれが辛そうに、唇を噛む琴梨ちゃん。
もう、お兄ちゃんじゃない。私は、もう妹じゃない。
兄妹じゃない……恋人、なんだから。
恋人……
「でも、それって……」
コーヒーメーカーを止めて、準備しておいたカップにそれを注ぎます。
ミルクと砂糖を自分のために入れて、ちょうど陽子さんが現れました。
普段のラフな格好に戻った陽子さんは、微笑をたたえてキッチンへ。さも当り前のようにコーヒーを取り上げると、香りを楽しみつつブラックで一口。
琴梨ちゃんも、自分のそれにちょっとだけ口をつけて……上目づかいに、お母さんを窺います。
それに気付いた陽子さん。ニヤリと笑って、カップを手にソファに腰掛けました。
「じゃ、琴梨。話してみな。」
「えっ……な、何を?」
「何を、じゃないだろ。さっきから、話を聞いて欲しそうにしてるじゃないか。だから、母さん聞こうじゃないかね。まずは、そうだね……あの子とあんたの関係といこうか。さっき言っただろ?兄妹じゃなけりゃ、なんだってんだい?」
琴梨ちゃんの頬が、パアッと染まりました。
「そ、それは……」
「従兄妹です、ってのは却下だからね。この際だ、はっきりしな。なぁに、母さんだって根掘り葉掘り詰問するほど野暮じゃないよ。馬に蹴られるのはまっぴらだからね。さ、言ってみな。」
「えっ、う、うん……あのね、私と……あの人は……そのね、つき……」
ごにょごにょと、濁ってしまう語尾。真っ赤になった琴梨ちゃん、曲げられる限界まで下を向いてモジモジと。
心底面白そうにそれを眺めていた陽子さん、やがて、仕方ないかと肩をすくめました。
「はいはい、わかったよ。まあそんなことは一目瞭然というか、傍で見ていて気付かない方がおかしいさね。とにかくそれで、どうしてあんたは悩んでるんだい?あんたたち、好き同士なんだろ?それともまさか、母さんに言えないようなことをしてるんじゃないだろうね?」
腕を組む陽子さんに、きょとんとした顔で目をまたたかせる琴梨ちゃん。母親顔の陽子さん、長い息を吐きます。
「ま、さすがにそんなことはありっこないか。じゃ琴梨、なに悩んでるんだい?もしかして、あの子が東京で浮気でもしたのかい?」
「えっ……!ち、違うよ!そんなこと……そんなこと、絶対ないもん。」
思いもよらないイメージ。それを追い払うように、琴梨ちゃんが首を左右に振ります。陽子さんは、あくまで落ち着き払ってコーヒーを一口。
「なら、問題ないじゃないか。手紙だって、楽しくやりとりしてるんだろ?」
「う、うん……そう、だけど……」
「おまけに、晴れて来月には来てくれるんじゃないか。期待こそすれ、どうして思い悩むんだい?何か、まずいことでもあるのかい?デートの費用が足りないなら、母さん特別に援助してやるよ?」
「う、ううん……違うの。あのね、あの……どうしたらいいのか、わからなくって……」
「どうしたらって……何をだい?」
「うん。あのね、お兄ちゃんに……あ……!」
お兄ちゃん。
自分の口にした……してしまったその言葉に、琴梨ちゃんがハッと口を押さえます。
そして、力なく落ちる肩。瞳が潤み……片眉を上げる陽子さんの前で、琴梨ちゃんが目尻を拭いました。
「琴梨……」
「私……ダメなんだ。まだ、まだね……あの人のこと、お兄ちゃんって呼んじゃうの。もう、兄妹じゃないのに……だから……」
「そんなことで悩んでたのかい?そんなもの、いきなり直せるようなことじゃないだろ?あの子だって、あんたがお兄ちゃんって呼んだからって、怒り出すもんかね。」
琴梨ちゃん、首を振りました。陽子さんが驚くほど、強く。
「だって、だって……それだけじゃないんだもん。私、私、恐くなって……」
そこで、何かが切れたように泣き出す琴梨ちゃん。
驚く陽子さんですが……やがてゆっくりと立ち上がると、琴梨ちゃんの隣に移動します。
優しい表情で、その肩に腕を。そのまま、自分似の柔らかい髪をゆっくりと撫でつけてあげました。
「恐いって、何がだい?あの子は優しい子じゃないか。恐くなんてないだろ?」
「だって、だって……もう、妹じゃないって、違うんだって、そう考えたら……」
小さな手が、陽子さんのそれに触れました。
「あのね、お母さん……妹だったらね、わがまま言ったり、甘えたりしてもいいでしょ?ケンカしても……兄妹だったら、関係ないよね?」
娘の横顔を、眉間をちょっぴり寄せて見つめる陽子さん。
「ほら、お母さんもそうでしょう?私とケンカしても、ずっといっしょじゃない。でもそれは、親子だからでしょ?ずっと、ずっといっしょだって決まってるからだよね。だから、安心できるけど……」
琴梨ちゃん、そこでまた、眼差しを震わせます。
「でもさ、恋人同士って……そうじゃないよね。私が、あの人に嫌われるようなことをしたら。もしも、あの人とケンカしたら。それで、あの人が私のこと、嫌いになっちゃったら……そうしたら、それでもう……」
震える小さな肩。小さな心に……ずっと、そんな不安が秘められていたのでしょうか。
「琴梨……」
「だから、恐いの。わからないの。妹だったら、もっと、ずっと楽なのに……お兄ちゃん、お兄ちゃんって、甘えてればいいんだもん。でも、これからは妹じゃいけないんだ、彼女なんだぞって思ったら……嫌われたら、それでおしまいだって考えたら、どうしたらいいのかわからなくなって。お手紙なら、何度でも書き直せるからいいよ。でも、逢ったときは違うもん。私、話だって下手だし……あの人の恋人になんて、なれるのかな。それで嫌われて、つまんない女の子だって思われちゃったら……そんなの……!」
陽子さんの胸に、泣き崩れる琴梨ちゃん。
その小さな身体を抱き締めて……陽子さん、目を閉じました。
失ったもの。大切な人を、失うこと。忘却……決して、いや、永遠にそうできないであろう、辛い記憶。
そして、まぶたが開きます。優しい顔から、いつも通りの笑顔へと。
「バカだね、琴梨。何を悩んでるのかと思ったら……あーあ。母さん、拍子抜けしちまったよ。」
驚きに目を見開いて……泣き顔をあげる琴梨ちゃん。
陽子さん、ふうっと、これ見よがしなため息を。
「いつも通りにしてりゃ、それでいいんだよ。妹とか彼女とか、気にすることなんてないさ。」
「でも……それじゃ、前と変わらないよ。あの人も、きっと……」
「あの人も、なんだい?」
「う、うん……不満、じゃないかな。恋人になったのに、私がいままで通りだったら……」
「琴梨、だったらどうしたいんだい?いや、そもそもどうするもんだと思ってるんだい、恋人同士ってのはさ?」
驚く琴梨ちゃん。少し考えて……頬を染めます。
「や、やっぱり……デートしたり、き、キス……したり……」
「それから?」
「あ、あのね、公園で話してる人たちとか、ドラマのカップルみたいに……普通の話じゃなくて……」
「普通じゃない話って、どういう話だい?」
「それは……その……」
どんどん答えに詰まって行く琴梨ちゃん。
陽子さん、そこで……たまらないように、吹き出しました。驚く琴梨ちゃんの前で、あっはっはと大笑い。
「お、お母さん……?」
「……まったく、もう。いったい何を勘違いしてるんだい、この子は。」
「えっ……勘違い?」
「そうだよ。いいかい琴梨、恋人関係ってのはね、互いに好き同士ならそれでいいんだよ。付き合い方にいいも悪いもあるもんかい。お兄ちゃんと妹だろうが、姐さんと舎弟だろうが、先生と生徒だろうが、呼び方なんて関係ないさね。」
勢い口調の母に、琴梨ちゃんは呆然。
「それに、なんだって?嫌われたらどうしようって?まったく、本当にものを知らないね、琴梨。いいかい、ケンカの一つや二つできないで、それで恋人だなんて名乗れるとでも思ってるのかい?母さんだって、父さんとどれだけケンカしたかしれない。それでもこうやって、あんたが生まれて来たんだよ?」
「ほ……本当?」
「ああ。あんたとなんて、もう二度と逢うもんかって怒鳴ったこともあるよ。あの人だって、頭から湯気出して怒って……人間同士なんだから、それも当り前さね。互いに気にいらないこともあるし、虫の居所が悪い時もあって当り前じゃないか。ずっとニコニコ、口論なんて一つもしたことない幸せカップルなんていたら、それこそ不気味、母さん神経疑っちまうよ。」
琴梨ちゃん、ただただその勢いに圧倒されます。
と、陽子さんがそこで表情を変えます。悪戯っぽい笑み。
「でもね、安心しな琴梨。母さんたちがそうだったみたいに、好き同士ってのはね、何かが違うんだよ。結局、すぐに仲直りして……モトサヤというか、よろしくなっちまうのさ。運命みたいなもんかね。そういう相手だと、何だかねぇ……とにかく、そうなっちまうんだよ。」
わかったような、わからないような物言いですが。琴梨ちゃん、ようやく口を開きます。
「で、でも……お母さん。」
「なんだい?」
「私と、あの人がね、そういう、運命の関係じゃなかったら……違ったら、どうしよう。学校の友達にだって、ケンカして、お別れしちゃったカップルもいるんだよ。私とあの人も、そうなったら……そうしたら、私……」
今度こそ本当に、呆れ顔になる陽子さん。深く深く、ため息をつきます。
琴梨ちゃん、不安という色でできたような瞳で、お母さんを見つめました。
「まったく……琴梨。あんた、冬のことを忘れたのかい?」
「えっ……冬の、こと……?」
「そう。去年の大晦日の夜。あんた、遅くに突然出ていっただろ。母さんに何も言わないで……あの夜、どこで何をしてたんだい?」
琴梨ちゃん、真っ赤になります。
あの夜。午前零時過ぎに、二人で戻った春野家。何も言わず、熱いお風呂に入るように言って笑ったお母さん。
「あ、あの……あのね……」
どもる琴梨ちゃん。すっかり母親然とした陽子さんが、そんな琴梨ちゃんの鼻先……唇に向けて、指を突きつけました。
「琴梨。ホワイト・イルミネーションの伝説、信じられないのかい?」
琴梨ちゃん、反射的に口元を押さえます。
想いが叶った日。二人の心が、重なった日。新たな年を祝う、人々の歓声の中で。
そう、他でもない、あの人が教えてくれた逸話。
夢のような、幻想的な……二人だけの幸福の誓い。
「永遠の、幸せ……」
「その通り。北海道は札幌市公認、あんたとあの子にゃ永遠の幸せが約束されてるんだ。生粋の道産子のあんたが、それを信じられないって言うのかい?」
「う……ううん。そんなこと……ないけど……」
「なら、伝説を信じて安心してな。いつものあんたらしくしてりゃ、それでいいんだよ。口が滑ったって、気にすることないさね。」
「う、うん……でも、お兄ちゃんって呼んだら……気を悪くしないかなぁ。」
まだどこか、心配そうにつぶやく琴梨ちゃんです。
「まったく、この子は。考えてもみな、あの子がそういうタイプかね。それは他でもない、あんたが一番よく知ってるはずだろ?」
上目づかいの娘。その額を、陽子さんはコツン。
「『お兄ちゃん』から『彼氏』になったからって、何もあの子が別人になるわけじゃないんだ。いままで通りのお前さんでいればいいよ。それこそよそよそしくしてたら、呆れられて嫌われちまいかねないからね。まぁ、どのみち琴梨、あんたそういう細かいことは苦手だろ?料理と違って、そっちの方面に関してはさっぱりというか、まるで鈍いからねぇ。うまくならないテニスみたいに。」
琴梨ちゃん、まったく別の理由で赤くなります。
「あ、ひっどーい!テ、テニスは関係ないもん!それに、鈍いって……そ、そんなこと言うなら、お母さんになんて……もう、おいしいお料理作ってあげない!」
陽子さん、不敵に笑いました。
「そうそう、その調子。安心しな。妹だろうがなかろうが、あの子はお前のことが好きさね。じゃなかったら、受験前の大事な夏、はるばる札幌まで来るもんか。そうだろ?」
「えっ……う、うん……」
「だからお前も、すっかり変えなきゃなんて思い悩むのはよすんだね。なぁに、つきあっていれば自然に変わるもんだよ。何しろパパだって私のこと、結婚当初はずっと『愛田さん』で通してたんだから。」
「ほ、本当?」
「嘘ついてどうするんだい。あんまり度々だから、母さんも、あぁ、あんたは結婚を悔いてるんだねぇ。私には春野の姓はいただけないってのかい……って嘆いてみせたらさ、もうあの人ったら大慌てで。こっちが照れちまうぐらい平謝りでね。」
「お父さんが……」
「そうさ。ようやく自然に陽子って呼んでくれるようになったのは、あんたが生まれた頃かねぇ。もっとも、それからは私よりもあんたばっかり可愛がって、もう琴梨、琴梨って口を開けば言い通し。取材に出た時なんて、一時間ごとに電話かけてくるぐらいだったよ。」
「そうなんだ……えへっ。」
嬉しそうな顔になる琴梨ちゃん。その頭に、陽子さんが手を。
「だからまぁ、これもある意味あの人の遺伝なのかねぇ……おっと、とにかく話はこれでおしまい。母さん部屋で仕事があるからね。あんたも風呂入って早く寝な。明日はまた、朝練があるんだろ?」
「あ、うん。そうだね、早く寝なくちゃ。」
「じゃ、おやすみ琴梨。」
軽く手をあげて、自分の部屋に去る陽子さん。手を振ってそれを見送って……
琴梨ちゃん、元気良く伸びをしました。
「うんっ……頑張ろうっと。お兄ちゃんに……あ!」
言ってしまって、口を押さえて……
そして、クスクスと笑い出す琴梨ちゃんです。
「琴梨……どうしたんだい?」
何事かと、陽子さんがリビングに顔を出しました。琴梨ちゃん、元気よく首を振ります。
「あ、ううん……何でもないの。それよりお母さん。お夜食、今日も作っておこうか?」
「ん、そうだね……寝る前に頼むよ。サンドイッチか何かがいいね。」
「うん、わかった。とびきりおいしいサンドイッチにするね。」
「そりゃ楽しみだね。じゃ、戸締りよろしく。」
笑って自室に引っ込む陽子さん。琴梨ちゃんも笑って、台所から居間まで見回します。
見慣れた部屋、自分の居場所。お母さんとお父さんと……みんなで過ごしてきた家。
ここにもうすぐ、お兄ちゃんが戻って来ます。
「お兄ちゃん……ううん…………さん。」
聞こえないほどの小声で口にして、そして頬を染めました。
そうだよね。お兄ちゃんでも、名前でも……私が大好きな人だってことは、変わらないんだよね。
コーヒーカップを片付けて、台所の電気を消します。
恋人ってなんだろう。まだ、よくわからないけど……好きな気持ちで、そのままいればいいんだよね。今まで通りでいても、いいんだよね。
今さっきまでの悩み、胸のつかえを……晴れやかな笑みを浮かべて、琴梨ちゃんは心の棚にしまいました。
そうだよね。わからなかったら、あの人に聞いてみればいいんだ。二人で考えれば、きっとわかるよね。だって、私たち……
また、頬が紅に染まります。
照れたように横を見れば、そこの壁にはカレンダー。陽子さんのスケジュールがおびただしく書き足されたそこに、来月に向かって……大きく赤い、琴梨ちゃんの手による矢印が。
もうすぐ、あの人が来る。逢いたい……早く、逢いたいな。
琴梨ちゃん、高鳴る胸を押さえます。
あの人が来たら、どこに行こうかな。去年みたいに、札幌の町も回りたいし、小樽にも行きたいな。あ、海でまた泳ぎたいな……そうだ、鮎ちゃんを誘って、水着を買いに行こうっと。それから、それから……
恋する胸に、ふくらむ夢と期待。
北の町に、また夏が来ます。