スコットランドの、暮れなずむ高地。
ハイランドの名にふさわしく、緑の山々に沈む太陽は大きく美しかった。
そんな黄昏の地に、二人がいた。
白い洋服の、ふたり。
「ねぇ、つばめ。そろそろ日が暮れるよ?」
便宜上、ミチルと呼ぶ……ことになった少女が、前を歩く相手に声をかけた。
背後から見ると実に特徴的な髪の女性が、振り向きもせずに答える。
「それでいいのよ。だって、私……それを待っているんだから。」
南つばめ。揺れるふたふさの髪が、その視線を隠していた。
背後から少しだけ覗くことのできる口元が……ほんのわずか、緩む。
「えっ……?それ、どういうこと?」
次第にぼやけはじめる、周囲の輪郭。
道なき道の続く丘を越える途中で、ミチルは立ち止まった。
怪訝な顔で、先をのんびりと進むつばめを呼びとめる。
「つばめ、待ってよ!理解できない……どういうこと?」
少女の右手が、頬にかかる自分の黒髪を払う。
足を止めた少女に気付いたのか、つばめもまた、歩みを止めてふりかえった。
「どうしたの?急がないと、時間がなくなっちゃうわよ。」
「時間って、なに?第一、どこに向かってるの?つばめが泊まってる町じゃないの?」
「質問ばかりね……ついてきたのは、ミチルの方だと思ったけど。」
「えっ……だって、つばめが『いいトコロに連れてってあげる』って、言うから……」
「それなら、黙ってついてくること。もうすぐだから。」
諭すようなつばめの物言いに、ミチルはさらに不愉快そうに髪を散らせた。
「じゃあ、せめてどこに行くのか教えてよ。それならいいでしょ?」
「いいけど……」
「どこ?」
興味津々で尋ねるミチル。まさに好奇心が具現したかのようなその表情に、つばめは指で先を示した。
「……あっち。」
その口元が、ほんの少しだけ持ち上がっていた。
とっぷりと暮れた空。
どこかで野犬の吠える声がしそうな、スコットランドの奥地。
夜の陰りに包まれた大地を、冷たい風がなぶっていた。
そして、いまだに歩き続けている影か……二つ。
「つばめ!つばめったら……もう私、帰るよ!」
怒りに満ちた、ミチルの声。
どこまでも端正な……色白の美少女であるがゆえに、頬をふくらませる仕草もどこか可愛らしい。
もっとも本人にしてみれば、とうに我慢の限界など通り過ぎていたのかもしれないが。
「……えっ?」
またかと、振り返るつばめ。
「ねぇ、もうすぐなんだけど……」
「だから、どこに行くのかわからないよ!地図もないし……季節が夏だからって、ここはスコットランドで、日本じゃないんだよ?平均気温は13.9度!緯度だって+10度以上離れてるんだから!」
「ふぅん、そうなの。それは少し寒いわね……でも、こんな時間の風もいいものよ。ほら、谷を越える風が鳴ってる。北海を横断してきた風が、ここまで届いているのよ……そう思わない?」
理と文。それが示唆に富んでいたかどうかはともかく、まぎれもなくその分野の才媛たる二人が見つめあった。
と、そこへ……別の風が、ふっと吹きつける。
「あ……!」
その風を受けて、晴れやかな……嬉しそうな表情になって、茂みの中に駆け出すつばめ。
驚くのは、ミチルだった。
「ど、どうしたの?待ってよ……つばめ!」
無邪気に緑の奥へと消えていくつばめ。それを見て、心細くなったのだろうか……ミチルもまた、帽子を押さえるとその後へ続いた。
黒い緑。薮のような膝までの草木。
そういう場所を通るに適した格好……では決してない二人が、そこを進んでいく。
そして不意に、眼前が開けた。
つばめの足が止まり、そして少し遅れて、ミチルがそこにたどりつく。
その青い瞳が、驚いたように見開かれ……目の前を凝視した。
「これ……海……?」
そこにあったのは……見渡す限りの、水面だった。
夜が訪れ、月が照らす場所。
起伏豊かな山々と小高い丘陵に囲まれた、そこに……一面の、輝く世界があった。
あまりの光景に立ち尽くすミチルを……つばめが、楽しげに見やって首を振る。
「残念、不正解。海じゃないわ……ここは、湖。」
「みずうみ……海じゃないんだ?」
「うん。いつもは深い霧が張ってるらしいけど。結構、有名な湖なのよ。」
「湖……水の海だから、みずうみなの?」
「そういう説もあるかな。だとすれば、海っていうのもそれほど外れてないのかもしれないわね。」
「ふぅん……湖か……」
ミチルは感心したように、じっと水面……いや、湖面を見つめた。
月の光に照らされて、暗いながらも……発光しているような、そのみのも。
静寂に包まれたそこは、どこまでも神秘的だった。
「奇麗だね……」
「そうでしょう?やっぱりスコットランドに来たら、ここには来ないと。」
「そうなんだ。私、ヒースの花畑にしか興味がなかったよ。でも、この湖も奇麗だね。」
「あら、ヒースだったらここの湖畔にも生えているわよ。どこにでもあるんだから……ヒースのお酒って、飲んだことある?」
「ヒースのお酒?ううん……知らない。おいしいの?」
「味は、ちょっと複雑かな。ヒースのお風呂もあるんだよ?」
「へぇ……そうなんだ。」
つばめの話に、感心したようにミチルが唸った。ひけらかすでもなく自然に語るつばめの口調は、どこか教師というより……母親のそれに近かったが、それは二人にとってあまり意味のないことだったのかもしれない。
「でも、夜の湖って面白いね。水も冷たいし……」
いつのまにか、ミチルは靴を脱いでいた。小さな岩場から素足をさらして、湖面を揺らしている。
「そうでしょう?でも、これからもっと面白くなるわよ。」
「えっ……?」
振り向くミチルの前で、つばめは取り出した何かを掲げてみせた。
いままでどこに持っていたのか、白いビニールの袋を。
「それ……なに?」
「もちろん、花火よ。」
力強く言い放つ、つばめだった。
スコットランドの湖畔。
夏とはいえ、とても奇妙な光景がそこにあった。
細長い湖のほとりで、輝く……小さなあかり。
まるで……そう、線香のような、ほのかな輝きだった。
「あ……また落ちた。」
長い髪の少女が手にした光が、フッと落ちて、消える。
「うん、また私の勝ちね。」
「ずるいよ。私、花火なんて初めてなんだから……第一、これっていいかげんだよ。理屈はわかるけど……同じのを使ってやらないと、競争にならないよ。」
手にしたこよりの先端を、うらめしそうに見つめて……ミチルが文句を言った。
つばめは、目の前で消えていく最後の輝きをじっと見つめて……ミチルに笑った。
「だから、先が大きいのを選ぶのがいけないのよ。線香花火ってね、奥が深いんだから。丸まって、弾けて……そこのタイミングが大切なの。」
「でも、小さいのはすぐに消えちゃうよ。それじゃ、勝ちじゃないんでしょう?」
「うん。もう一度火がつくようなのはダメ。だから、その兼ね合いが難しいんじゃない。」
「それなら、ちゃんと計算して作った方がいいよ。一番バランスのいい分量と紙の長さを計算して、それで花火を作ればいいじゃない。」
「面白いわね、それ。でも危ないわよ。子供の火遊びは。」
言いながら、新しい線香花火を手にするつばめ。
ろうそくの火から、それを灯す。
「あ、ずるいよ……待ってよ!」
「お先に失礼。早くしないと、なくなっちゃうよ?」
「も、もう!ずるいよ、つばめは歳上ぶって……」
線香花火の束。どれだけあるのか、束になって地面に置かれたそれの中から、一本を取りあげるミチル。つばめを追いかけるように、火を灯そうとして……急ぎすぎたのか、ゆらゆらと揺れて火がつかない。
「ほら、焦らない焦らない。ゆっくりね。」
あきらかに不機嫌な様子のミチルは、唇を結んで非難の視線だけを送り返した。
やがて、何とか火がついて……
「わぁっ、大きいよ……今度の。」
チチチチチ。ミチルの手元にまで弾ける、金色の輝き。
「本当、すごいね。」
「今度こそ……落ちないで、願いが叶うかな?」
期待をこめた、ミチルの言葉。つばめがうなずく。
「うん、慎重にね。揺らさないで、ほら……」
「う、うん……」
真剣な顔のミチル。ほっそりとした白い手に摘ままれた線香花火は、最初の輝きを終え、新たに弾けはじめていた。
松葉のように、細く散る美しい光。
そして、それをじっと見つめる……二人。
ゆっくりと、次第に、金の輝きが弱まり……
ザワッ。
突然のさざめきが、二人のたたずむ湖畔に走った。
風……それとは少し違う、確かな空気の動き。
「……えっ?」
「なに……?」
二人が顔を向けた、その先は……湖だった。
その、遥かなる湖面に。
月の光の下に、
ほのかに、白く……
何かが、いた。
波が揺れ、影がのびる。
そして、近付いてくる。
二人は、ただ……それを見つめていた。
現れたそれが、眼前を横ぎり……ゆっくりと去って行くのを。
そして、再び……
風が、二人の世界に吹く。
穏やかで、幻想的な、そんな風だった。
この場にいる二人の存在こそ、そうであると主張するような。
どちらからともなく、吐息が散った。
「……行っちゃったね。」
「そうね。もしかしたら、花火に誘われたのかもしれないわね。」
顔を見合わせた二人。しばらくそのままで……そして、同時にプッと吹き出す。
おかしそうに、楽しそうに。
今、見たものは何だったのか。どこから来て、どこに行ったのか。
本来ならば、そういう問いかけをぶつけあうのが当り前なのかもしれない。
だが、笑いあう二人にとって……そんなことはもう、どうでもいいかのようだった。
「あっ、花火……消えちゃってる。」
「落ちたのかな?」
「わからない……できたのかな。」
考え、見つめあう。
そしてまた、互いにクスッと笑った。
目で見て確認しなければ、信じられない?
二人の目が、そう言っているようだった。
「それじゃ、残念だけど……花火もおしまい。」
「うん、そうだね。霧も出てきたみたいだし……」
先程までの晴れやかな夜がうってかわり、濃い霧がたちこめはじめていた。
霧に包まれた、湖。
二人は、片付けを済ませて立ち上がった。
「ねぇ、つばめ。面白いね……世界って。」
「そうでしょう?まだまだ、もっと面白いことがあるわよ。」
ミチルとつばめ。二人が笑った。
晴れ晴れとして、とても可愛らしい、そんな笑顔だった。
「……それって本当ですか、先生?」
「何よ、その疑わしそうな顔は。」
ソファに腰掛けたつばめが、非難ありげな視線を巡らせる。
小さなリビング。二人分のティーカップを並べていた青年が、複雑に表情を変化させた。
「いえ……でも、それで、その後どうしたんですか?地元の人とか学会とかに報告しなかったんですか?」
「しないわよ、そんなこと。どうして?」
「だって、大ニュースじゃないですか。謎の生命体との接近遭遇なんて……BBCとか、飛びつくんじゃないですか?」
「そうなの?でも……いいじゃない、別に。」
興味なさそうなつばめの物言いに、青年は呆れたように肩をすくめた。
「まぁ、確かにネス湖の怪獣話なんて、古すぎるような気はするけど……」
「何か言った、健くん?」
少し語尾が持ち上がる。青年は、慌てたように首を振って話題を切り替えた。
「そ、それより先生、その子とはそれからどうしたんですか?」
「どうもしないわよ。しばらく一緒に旅をして……会話らしい会話も少なかったけど。」
「日本での住所とかは?聞かなかったんですか?」
「うん、そうだけど……どうして?」
青年は再び肩をすくめた。それを見て、つばめが眉をひそめる。
こういった彼の態度を見慣れているからだろうか。しばらくして、つばめはつぶやいた。
「拈華微笑……そういうことよ。」
「……?何ですか、それ?」
「勉強不足。健くん、そんなことじゃ今年も……」
「あっ、と……お!そろそろ予備校行かなきゃ。」
何かが始まると察したのか、青年が逃げるように隣の部屋に消える。
「ちょっと、健くん……」
「先生も、遅れないで下さいよ。それじゃ、お先に!」
振られる片手、閉じるドア。それを見送って、つばめは静かに息を吐いた。
そして、見つめる。
テーブルの上に乗せられた、黄色いレモン。
小さな赤紫の花が、そこに添えられていた。