「はおっ!」
いつもの挨拶。それと共に彼女が待ち合わせに現れて、どれくらいたっただろう。
僕たちは今、とんでもない場所にいた。
そびえる天井。遥かに続く、机の大地。
「あーっ、もうチラシってうざーい!イナ、私がこっち片付けるからさ……椅子下ろして、荷物開けてくれる?」
肩をすくめて、ととが僕に言った。曖昧に頷くと、サンクス、と片目を閉じる。
悪い気はしなかった。たとえ彼女が……ととが、僕のことをどう思っていようとも。
とと……飛世さんが僕を誘ったのは、二、三日ほど前のことだった。突然の電話に驚く僕に、週末は暇かと尋ねられて……暇だと答えた。その結果だった。
もちろん、言うほど暇じゃなかった。講習もあるし、バイトもある。
だけど、とと……彼女の声が聞けて嬉しかった。しかも、いっしょにどこかに行けるらしい。それだけで承知するのに十分だった。
そう、あれだけの約束を交わしても……やっぱり僕は、彼女のことが気になっているんだ。
「よーし、設営終わりっと!ありがと、イナ。あーあ、やっぱり男手ってあると違うなぁ。」
うーんと元気良く伸びをして、ととが僕に笑った。そんな仕草も、何だか新鮮だった。
「そうかな?役に立ってる?」
「もちろん!荷物運びとか、いつもは劇団の子とかといっしょにしてるんだけど……やっぱりさ、何だか私が頼られちゃうのよね。力ある方じゃないんだけど……だから、今日は珍しく誰かに頼れて、新鮮な感じ。」
悪戯っぽい、ととの瞳。
新鮮、か……それが僕以外の誰かでも、そう思ったのだろうか。それが知りたかったけど、やっぱり聞くことはできなかった。
「ははっ、でもさ……イナと二人でこんなとこに来てるなんて、ほわちゃんに知られたらオオゴトだよね。健ちゃんを変な世界に引きずりこまないで!とか言われちゃって。」
なにげなく口にしてしまったのだろう、彼女の台詞。それが、僕の心にフッと影を過らせた。
ほたる。僕の……恋人。
急に、何か重たい気分になる。さっきまでの高揚感が、急激に冷めていく感覚。
でもそれは、言ってしまったととにとっても同じらしかった。
「ゴメン……変なこと言っちゃったね。私が誘ったのに……」
「ううん。いいよ……友達、でしょ?臨時の手伝いに駆り出された……違う?」
「う、うん……そうだよね。本当にゴメン。」
片手で拝むととは、まだどこか落ち着かない様子だった。僕がつとめて明るく笑うと、やっといつもの表情が戻る。
「まあ、でも……これからが本番だからね。そうだ、イナ。お手洗いとか、今のうちに行っといた方がいいよ。男子のって、すぐに女子に呑まれて使えなくなったりするから。あとでヒーヒー言って、悲惨な結果になるとそれこそオオゴトだからね!」
これで、もう少し言葉に気を付けてくれると嬉しいんだけど。
「はいはい。それじゃ、巴さまの薦めにしたがって行ってきます。」
「らっしゃい。あ、イナ!よかったら、帰りに飲み物買って来て。目覚ましのコーヒー!」
頷いて、割り当てられたブース……外向きに並んだ机の囲みの一つから離れる。
開場前の騒がしさなのか、フロアは大勢の人がごったがえしていた。両手に荷物を抱えて汗だくになっている人、段ボールの山を前にして悲痛な表情を浮かべている人、机の前に突っ伏して、奇妙な笑い声をあげながら何かの作業に没頭している人。
正直言って、あまり近付きたくない世界だった。ととに懇願されて付き合ったけど、確実に、場違いな自分を感じる。
同人誌即売会。要するに、自分で作った本を売る人たちの集まりだった。老若男女、種々様々なジャンルが結集する、日本最大のコンベンション。
ととは、所属する劇団の関係で参加しているらしかった。早朝、ここへ来る電車の中で売りものの本を見せてもらったけど、演劇の台本とか舞台劇についての考察とかが書かれた、何だか難しい本ばかりだった。
そして今回、ととといっしょにその役回りを担当している女の子が、事情で来られなくなったらしい。そこで、僕に白羽の矢が立ったわけだった。
もちろん、悪い気はしなかった。たとえ、最高の友達としてそう思われただけでも。
開場のアナウンス。
手洗いと買い物を済ませるのに思いのほか手まどった僕は、喝采と共に響いたそれに大あわてでブースに戻った。
「あ、イナ!こっちこっち!」
手を振るととのおかげで、すぐに場所が見つかる。さっきまでとは別世界のように、周囲の机の全てがサークルで埋め尽くされていた。
長いテーブルを仕切って、さらにその半分。そこが僕たちの場所だった。そこにパイプ椅子を二脚並べると、それだけでいっぱいになる。
「これ……ちょっと狭いね。」
小声で隣のととに言うと、彼女も頷いて耳打ちしてくれた。
「でしょ。椅子、前後にわけちゃってもいいんだけど……なんだか寂しい気がするから。狭いの嫌い?」
頬が触れ合うほどの距離で、ととがまた片目を閉じた。
一瞬、ドキッとする。
「いや、いいよ……それより、お客さん来るといいね。」
開場して間もないのに、遠くには人の波がうねっていた。何だか、地響きが聞こえそうだ。
「あはは、残念だけどそれはないよ。」
「えっ、どうして?」
ととが、僕の買って来たコーヒーを飲みながら笑った。
「ジャンルが、ジャンルだから。イナ、カタログ見たでしょ?これだけ大きなイベントだと、人の世のさだめと言うか……人気の大小というのは常にあるわけ。その中でもマイナーな演劇関係の本なんて、それ専門の人しか買いに来ないわけよ。つまるところ我がバスケット特別販売部としては、何人かの常連のお客さんと挨拶して、おしまい、かな。」
ととの説明は、僕の抱きはじめていたイメージを崩すのに十分だった。
「そ、それじゃ……あまり忙しくないってこと?」
「うん。あまりどころか、ゼンゼンかな。もちろん、知らない人も来るだろうけど……うーん、十人もいればいい方だと思うよ。」
あっけらかんとしたととの表情に、僕はため息をついた。深く。
「ん?どしたの、イナ?」
「とと……僕を誘ったとき、バイトで接客に慣れてるあなたの力が必要なのよ!とか言わなかったっけ?」
ととが、あ!というように表情をこわばらせる。
「私一人じゃ、忙しくてとてもダメだから……お願い!とか。」
「そ、そんなこと言ったかな。よく覚えてないわ。うーん……」
考えこむふりをするとと。僕は呆れて、自分のジュースをあおった。
「まったく、これだからな……ととは。毎度、素直に騙される自分が可哀想に思えてくるよ。」
「ひっどーい、そこまで言う?それじゃまるで、私が嘘ばかりついてるみたいじゃない。」
肩をすくめてみせる僕を、脇で小突くようにして反抗するとと。
楽しかった。こうしていられるだけで幸せだった。ほたるに対する後ろめたい気持ちと正比例するように……いや、気が付くと、僕の嬉しさはそれを上回っていたのかもしれない。
そんな風に、ふざけて色々と話を巡らせているうちに、時間がたって……
ふと見ると、ずいぶんと人が増えはじめていた。僕たちのいるブースにも、何人か客が現れる。
「いらっしゃいませー!劇団バスケットの公演記録です!よかったら見てって下さい!」
売り子をしているととは、何だかとても生き生きとしていた。はつらつな笑顔、よく透る特徴のある声で叫ぶから、みんなが振り返る。
「……あ、はい、ありがとうございます!イナ、私の財布からおつり出して!」
「う、うん。えっと……はい、こちらがおつりですね。ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております!」
そこまで言って頭を下げると、お客だった女の子が面食らったような顔をして……遠ざかっていった。
あ、しまった。思わず反射的に……
「あはは、イナ……いいよ、それ!またのご来店って……最高!」
案の定、ととがお腹を押さえて笑い転げる。僕は恥ずかしくなった。
「ルサックで、店長に叩きこまれたからなぁ……」
「そうなんだ?うーん、お互い苦労してますなぁ。それじゃこの勢いで……見ていって下さーい!」
ととがまた、大きな声で叫ぶ。つられて寄る人がいる。時折、買ってくれる人がいる。
気が付くと、僕たちは販売に熱中していた。なんだろう。文化祭の模擬店に似ているというか……自分たちで物を売るのは、けっこう面白い。それなりに売れていることももちろんあるけど。
「ありがと、よかったら公演にも来てね!って、すごいな……朝並べた分が、もうなくなっちゃってる。新しいの出さないと……」
「売れてるのかな?」
「うんうん、もちろん!というか、ここ数年で売れた分を、もう既に上回っているかもしれない、かな?」
椅子から器用に降りて、ととは荷物の鞄を開け始めた。僕と目が合うと、ありがと、というポーズで片目を閉じる。僕も不器用にそれを返した。
何だか嬉しかった。思わず、声が出る。
「いらっしゃい!よかったら見ていって下さいっ!」
声の大きさならととにも負けない自信があった。それ以外は完全に負けるけど。
そして、流れる人たちを見回した僕の目に……
呼び声に振り向く、一人の……いや、二人の女の子が見えた。
連れ添って歩く姿。服装は違ったけど、どこかで見たようで……
「あー!やっぱり先輩だー!」
はしゃぐような声。メガネをかけなおして、タタッと走ってくる姿。
見覚えがあった。いや、僕の目には、もう駆け寄る彼女は映っていなかった。
その背後から、ゆっくりと歩いてくる……長いポニーテールの彼女しか。
「ホントに先輩だぁ!こんにちはー!」
嬉しそうに、ニコニコと笑う下級生の少女。何て言ったっけ……舞方、さん?
フリルのついた可愛らしい洋服を着ている。学校では地味な感じだったけど、今はとても明るく見えた。
と、それを制して、もう一人の……彼女の鋭い眼光が、僕を見据えた。
「伊波くん……」
寿々奈鷹乃さん。舞方さんと対照的に、ラフな白いシャツで……相変わらずの、厳しい表情だった。
「や、やぁ……」
そこまで言って、次の言葉は出なかった。冷ややかな寿々奈さんの視線に、適当な挨拶の言葉すら見つからない。
「そちらの人は……白河さんじゃないのかしら。」
僕の背後で、きょとんとした顔をしているとと。
金縛りにあっているような僕の前で、寿々奈さんが呆れたように瞳を閉じた。
「彼女がこれを知ったら、どう思うかしらね……香菜、行くわよ。こんなところで油を売っている時間はないわ。」
それだけ言うと、寿々奈さんはさっさと歩き出した。人の波の中に。
「す、寿々奈さん……待って!」
僕は思わず立ち上がっていた。机……を飛び越えようとして、さすがに思いとどまる。
「イナ!ねぇ、今の……」
「ごめん、とと。ちょっと待ってて!」
机の下の隙間をくぐって、外に出る。そのまま、面食らっているようなととを残して、寿々奈さんが去って行った方へと駆け出した。
どうしてこんなに焦っているんだろう。やっぱり、ほたるのことを言われたからだろうか。
それに違いなかったのに、それだけじゃない気がした。
寿々奈さんを見つけられたのは、ひとえに彼女のスラリとした長身と……髪型のおかげだった。
走るだけ走って、ひとごみをかきわけて……やっとのことで、あるブースの前に立ち止まっている寿々奈さんと舞方さんを見つけたとき、僕はもうへとへとになっていた。
彼女たちは、手に紙袋を下げて……何やら話し込んでいるようだった。
「香菜……この本はやめた方がいいわ。」
「そうなんですか?可愛いですよぉ?」
「表紙だけだもの。中身は去年のラフ原稿のまま、表紙だけ新しくしているのよ。」
「ふわぁ、そうなんですかー?」
ゆっくりと、呼吸を落ち着けて二人に近付く。さすがというか、すぐに寿々奈さんが僕に気付いた。
「誰……!あ、伊波くん……?」
「あー、こんにちは!」
また、彼女を制して寿々奈さんが僕を睨む。
「どういう偶然かしら。まさか、ハエみたいに私たちを追いかけて来たんじゃないでしょうね。」
「そ……そうだよ。君たちを捜してたんだ。さっきのこと……説明したかったから。」
皮肉っぽい言い方をこっちから肯定すると、寿々奈さんが意外そうな顔になった。
そして、後ろの舞方さんに手を振る。
「香菜、少しだけ彼と話してくるわ……この列にいるのよ。絶対に他に行かないこと。いいわね?」
「はぁい。じゃあ、ここをぐるーって回ってきますね!」
僕と寿々奈さんを交互に見て、嬉しそうに彼女は走って行った。それをため息をつくようにして見送って……寿々奈さんは僕に向き直った。
「外に出ましょう。こんなところに長居していると……息がつまりそう。気分が悪いわ。」
僕の同意も得ずに、そのままフロアの出口に歩き出す。
外は明るかった。そして、日差しがやっぱりきつかった。寿々奈さんはそれを苦にする様子もなく、芝生の中に場所を選ぶ。
「あなたも座ったら?立ったままだと、熱中症にかかりやすいわよ。」
「う、うん……」
にべもなく横に腰掛ける。寿々奈さんは、それきり黙って景色を眺めていた。
「あ、あのさ……」
「何かしら?」
話しかけられるのを待っていた……というより、それが気に触ったように即答してくる彼女。
「寿々奈さんも、こういうところ……来るんだ?」
「一応、私……書店の娘だから。」
「それは知ってるけど……寿々奈さんの店って、漫画とか置いてないって……」
寿々奈さんが、チラッと僕を見た。
「言わなかったかしら……『主に専門書とかを扱ってる』って。」
専門書。専門……?
「そ、それって……」
「冗談よ。あの子がどうしてもって言うから、付き合ってるだけ。それより伊波くん、わざわざ私の話をしに来たの?それなら、もう帰るわ。」
立ち上がりかけた彼女に、あわてて首を振る。
「ち、違うよ……ごめん。その、さっきの……ブースでさ……」
「まさか、見本誌を手に取りもしなかったから、文句を言いに来たの?もしそうなら、天然記念物みたいな人ね。」
皮肉にめげてはいられなかった。僕はまた首を振った。
「違う。ほたるのこと……説明したくて。僕は、友達の手伝いに呼ばれただけで……こんな場所、はじめてで……」
寿々奈さんが僕をじっと見つめる。
「ふぅん……でも、誤解されても仕方ない状況だったじゃない。」
「それは認めるよ。でも、違うんだ。彼女とは、ただの友達で……」
ズキン、と胸が痛んだ。嘘だとわかっていても、口にするのが辛かった。
嘘……嘘なのかな、やっぱり。
「ほたるも、彼女を知ってる。二人は友達なんだ。だから……」
「もういいわ。」
僕の言葉を遮って、寿々奈さんが……立ち上がった。
「今日のこと、言うつもりはないわ。白河さんとうまくいってないの、知ってるから。」
僕は答えなかった。そんな僕をいちべつして……ふっと、彼女が笑った。そんな気がした。
「もう行くわ。あの子から目を離すわけにもいかないから。」
「そ、そうなんだ……寿々奈さんは、何か買ったの?」
「まさか。こんな場所に、私の読むような本があると思う?」
「う、うん……でも、これだけ広いんだから、ほら……鉱石やアクセサリーとかの本もあるかもしれないよ。」
寿々奈さんの瞳が、また鋭くなった。
「どうしてそれを知っているの?話したことは……ないはずだけど。」
「そ、そうだね。あの……」
僕はしどろもどろだった。自分でもどこか、うわついているのがわかる。
そんな僕の前で、彼女が断固として言った。
「それじゃ、失礼するわ。」