数日後。
女子寮の廊下を歩く晶には、どこか近寄りがたい雰囲気があった。
派手な音を立ててドアを開ける。マナーに反しているとは思うが、そうせずにはいられなかった。
片側には、奇麗に整った自分のベッド。その対面にある、乱れた……異様な形に盛りあがったベッドに向かい、腕組みをする。
「ちょっと、ほたる……いいかげんに、起きなさいよ!」
「……ん?にゃ……?」
寝ぼけ眼の少女が、しわくちゃの毛布を巻きつけた格好で起きあがる。とても、年頃の娘とは思えないはしたなさだった。
「あのね、もうお昼よ?ほたる、明日は出発でしょ!昼までに部屋を片付けることになってたのに……全然終わってないじゃないの!」
「えー……あ、荷物はちゃーんとまとめたよ。ほら、おみやげも買ったし、ほたるは準備バンタンなのだ。」
晶の両目が吊りあがった。
「バカ、部屋の片付けはどうするのよ!たつ鳥あとを濁さずって言うでしょう?もしかしてほたる、このままにしておけば、私がやってくれるとか調子のいいこと考えてるんじゃないでしょうね?」
ほたるんがドキ、という顔になった。どうやら、本当にそういうつもりでいたらしい。
「寮母さんもカンカンよ!いい、夕方までに部屋を掃除し終わらなかったら、日本に帰る話はなしだからね!」
「えーっ!そ、そんなぁ!ひどいよぉ、晶ちゃん……」
「私じゃないわよ!寮母さんがそう言ったの!だから起きて、さっさとすること!」
「えーっ……お昼ごはんは?」
「そんなの抜きに決まってるでしょ!さっさと着替えて、顔洗ってきなさい!」
「うぅ……ね、晶ちゃんも……手伝ってくれる?」
髪を両手でちょんと束ねて、ほたるがお願いをするようなポーズになった。
晶が辛辣な言葉を返すよりも早く、太く低い声色で話を続ける。
『あぁ、もちろんだよ可愛いほたるちゃん。』
「ホント、遠藤さん?」
『フッ。今日は君のために、予定は全部空けてあるんだ。同室の君がいなくなって寂しくなるから、せめてものセンベツだよ。』
「そうして、晶ちゃんはほたるのために部屋の片付けを率先しておこなってくれるのでした……こりゃどうも、助かりマスカラ……シャカシャカ!って、そりゃマラカスでっしゃろ!きゃはははーっ!」
晶の口元が、わなわなと歪んだ。
とんでもない変わりようだった。帰国を決めたあのパーティの一夜が明けてから、ほたるは別人のように……いや、本来の性格なのだろう、それを取り戻していた。
晶はある意味で、この顛末に安堵していた。もしもこの状態でほたるが留学してきていたとすれば、きっと翌日には大喧嘩になっていたに違いない。それこそ部屋替えを寮長どころではなく、学長にまで直訴していたかもしれないと思う。
と、そんな晶の視界を……まばゆい光が覆った。
「な……なに?」
カメラのフラッシュだった。いつのまにか、ほたるが小さなデジカメを手にしている。
「忘れてたの、写真!晶ちゃん、はいポーズ!」
「や、やめてよ!いきなり……あ!」
続け様に、何度もシャッターを切るほたる。晶は焦った。
「はい、次はぐーっと、せくしーにいってみようか!」
「バ、バカ!ほたる、もうっ……」
「えへへ……ね、晶ちゃん。写真できたら、送ってもいい?」
「えっ……」
嬉しそうに……期待に満ちて、晶の顔を覗き込むほたる。
「そ、それは……いいわよ。でも、奇麗に写ってないとダメだからね。」
「うん!」
ころころと、嬉しそうに笑う。晶はため息をつきながら、それでもどこかホッとしていた。
夜の送別会のことは、まだ黙っていよう。晶はそう決めた。ほたるのことだ、聞かせたらそれで頭がいっぱいになって、他のことは手も付かないに違いない。
「そういえばほたる、昨日……先生たちに、挨拶してきたんでしょ?どうだった?」
昨夜から聞きたかったことを、さりげなく聞いてみる。ほたるは意外そうな顔になった。
「あ、それなんですよぉ。それがねぇ、その……あのね、全然怒られなかったの。パパやママと同じで、ほたる、ビックリしちゃった。また、いつでもいいから来なさいって……変だよね、ほたるが一方的に悪いのに。」
悪びれたような顔のほたる。ここ数日では珍しかった。
ここ数日では、か。晶は心中で笑った。
ほたるの肩を、押すように……力一杯、両手でパンと叩く。
「……わっ!ど、どうしたの、晶ちゃん……?」
「バカね。去る者は追わずっていうでしょ?」
「さる……?うっきー?ほたるは、おさるさんじゃないよ?」
晶はまた、深い深いため息を漏らした。
「……いい、ほたる。ここは世界に名だたるオーストリアの国立音楽アカデミー。留学生なんて、それこそ毎年毎期、全世界から星の数ほど集まるんだから。チャンスは限られてるし、授業は厳しいし、脱落する人だって多いの。あなたみたいに始まってすぐにやめてく人、いちいち気にしてられないのよ。つまりは、そういうこと。」
「えー……ふぅむ。そうか……そうだよねぇ。ほたる、おちこぼれちゃったんだから。てへへっ。」
自分の頭を、反省するようにポンと叩くほたる。
それ以前の問題よ、と言いかけて、晶は思いとどまった。
「そう。だからあなたもこっちでのことは、もう引きずらないで。今は、これからのことだけ考えて……そういえば、彼はどうしたの?」
「カレ……?彼って、健ちゃん……?」
「そう。帰る話、してないの?」
「うん……まだ。だって、その……ほたる、何て言おうかって……」
確かに、わからないでもなかった。どうせなら、戻って直接言った方がいいかもしれない。
本当、そこまでは面倒みきれないわ。晶は心中で苦笑し、話題を変えることにした。
「でも、早いわね。ほたるは、明日の夜には日本か……」
まだ、たった六ヶ月なのに、少しなつかしかった。
「あっ……晶ちゃん、うらやましい?」
「そ、そうね……長崎の街並みとか、橋に流れる風の香りとか。」
「晶ちゃん、長崎だっけ?長崎ってーと、あ、カステラだねぇ?」
「えっ……そ、そうだけど。でも……」
「じゃあさ、カステラ、ほたるが代わりに食べてあげるね!パクパクって、もう一本まるごと!」
「そ、そう……」
「あー、うらやましいっぺ?ちょっとくやしいっぺ?きゃはははー!」
晶は絶句した。
「も、もうっ……ほたる!そんなこといいから、さっさと部屋の片付け始めるわよ!」
小突くようなポーズの晶に、頭を抱えてはしゃぐほたる。
何だか、とても魅力的な笑顔だった。
翌日、ほたるは日本に旅立っていった。
アカデミーの来賓室。
気に入りのヘルムート・ラングに身を包んだ晶が、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました、教授。本当に、色々と……」
目の前にいる、年老いながらも鋭い瞳をした人物が……いつもの如く、瞳を細める。
「いや。わしはただ、おのれの欲求のままに意見しただけじゃよ。」
「えっ……欲求?」
とまどいを見せる晶の前で、楽しそうに笑う。
「そうじゃ。わしも、あの演奏を失いたくないでな。どんなに美しい鳥も、ふさわしい環境に置かれなければ鳴くことはできない……そういうことじゃろう?」
再び一礼する晶に、さらに余裕と落ち着きのある会釈を返す。
「可愛い子には、ではないが……あの子はきっとまた、戻ってくる気がするよ。道順はどうあれ、今回わしのしたことは、音楽界にとってよいことじゃろう。あんな純粋なピアノの歌、久方ぶりに聴くことができたのでな。」
晶は言葉もなかった。たったあれだけの演奏で全てを見抜き、晶の嘆願すらも快く引き受けてくれた偉大な先達の才智に、ただ脱帽するだけだった。
「それにな。わしもアキラのような美しい宝石を手に入れられて嬉しいのだ。東方であの子が輝くのを待つのも楽しみだが、今の君のように、この都で輝きを放つ宝石もまた美しい。つまり、わしはおのれが両得できる道を選んだだけ……そういうことじゃよ。」
「もう……教授。」
頬が染まった。出会いからこのかた、翻弄され続ける自分が……なぜか、今は心地好かった。
しばらくの会話が終わって、晶は校舎を出た。
広がる、ウィーンの街並み。
今はもう、ここが晶の街だった。
さよなら、ほたる。いつかまた、どこかで……逢いましょう。
普段通りの笑みを浮かべると、晶は路面電車に乗りこんだ。
epilogue,
夜のとばり。
窓際の机に向かって、ペンを走らせる晶がいた。
今でも、まだ自問してしまう。
どうして、あれほど親身になってしまったのか。
自分の部屋を……普段の生活を取り戻すため。
そんなはずがなかった。もし誰かにそう問われたとすれば、断固として否定しただろう。計算ずくの人付き合いを最も嫌う晶である。
だが、自問して浮かぶその答えは、何だかこそばゆかった。
そう……少しだけ、うらやましかったのかも、ね。
インクの切れたペンをつっと持ち上げて、晶は窓の外を見上げた。
上弦の月。遥かなる祖国、日本。
「離れることで、気付くことのできる想い……か。」
また、往時の回想が……なつかしい記憶が、晶の瞳を閉じさせた。
自分に嘘をつくのをやめて、素直になったあの子。今頃は、もう彼に逢ってるかしら。
フフ、とびっきり派手な再会になるといいわね。誰もが目を覆いたくなるくらい、情熱的な。
ほんのりと、晶の頬が染まっていた。
しばらくの間、そうして……ふっと、気が付いたように目を丸くする。
なに考えてるんだろ、らしくないわね。
再びペンを走らせる。流麗に、思いのままの言葉が綴られていく。
「……それじゃあね、また手紙書きます……っと。」
手紙をしたため終えると、晶は軽く伸びをした。
どうしてか、まだほたるのことを気にしている自分がいる。
本当に逢えただろうか。相手の気持ちはどうだろうか。
晶は考え、そして小さく笑った。
あんなに一途な女の子の想いを、受け止めない男の子がいるだろうか。
ふふ、そんなことあるわけないわよね。
「あなたも……フフ、浮気したら許さないから。」
エアメールに封をして、晶はまた夜空を見上げた。
何だか、いい演奏ができそうな気分だった。いや、弾きたい……弾いてみたい。
明日……ううん。今、すぐ。
立ち上がり、晶は横合いからケースを引き出した。ロックを外し、愛用のバイオリンを取り出す。
窓を大きく開いた。夜風が少し冷たかった。
それが、火照った心に気持ち良かった。
バイオリンを構える。弓を手にして。
「幸せに、なりますように……」
誰とはなしに、つぶやく晶。
古都ウィーンの窓辺に、静かな調べが響き始めた。