【広告】Amazonからファッション秋のお出かけタイムセールまつり20日開催


皆様如何お過ごしでしょうか。

Dream On!

■■ 利用について ■■
投稿作品の題材・文量は一次・二次創作系含めて基本的に自由です。
例:”短編『先生、起きたら家族が19人増えたんですけど』≫ベイビー・プリンセス”
タグの使用も可能です。PassWord設定によって投稿作品の校正・加筆も可能です。

いわゆる残虐・成人指定系の描写が過度な物語の投稿は危険です。
怠け管理人が極めて問題と判断した作品は時所構わず除去してしまう可能性があります。
全ての文章(&画像)について、作者以外の無断転載を禁止します。
I'm sorry. This BBS is described in Japanese. Link free.

ダレモイナイ コウシンスルナラ イマノウチ(ペ∀゚)ヘ
投稿者名
MAIL
HPアドレス
作品名/件名
内容
Icon /Link
画像用URL
/
PassWord COOKIE
作品投稿etcはこちらにカキコして下さい
注:編集&削除用のPassWord(英数字8文字以内)は必須です
一般的なSS/短編の文量であれば概ね一括掲載が可能です。
ダメだった場合(もしくは段落分けしたい場合など)は前文を一度投稿し、
その作品ツリーにレスする形で続きを投稿して下さい(20以上のレスが可能です)。

上の投稿フォームを使用すると
こちらの作品に感想投稿をすることができます
(URL記載による画像掲載(直Link)機能も有ります)

[278]まえがき・その2: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 01時57分 Mail

 
 
 
 必要なのかどうかわかりませんが、一応。

 ここは武蔵小金井が連載形式で投稿しているミステリィ長編、

 『M:西海航路』の第二部(第十章〜第二十章)をまとめたツリーです。

 まさかとは思いますが、新規にお読みになる方につきましては、
 どうか、このツリーからお読みにならないことを切に願います。


 それでは。
 
 
 
 
 


[279]長編連載『M:西海航路 第十章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 01時59分 Mail

 
 
   第十章 Mendacity 

   「嘘をついているかもしれないよ」


 扉を開けると、そこには楽園が広がっていた。
 桐生渉は昔読んだ小説のそんな一節を思い出していた。それが文学的な比喩として相応しいかどうかはわからないが、とにかく渉にとって目の前の光景はまさにそれであった。もっとも彼は物質的な充足にそれほど関心がある(言い替えれば、物欲の強い)タイプでもなかったため、今目の前にした状況に歓心をくすぐられることもさほどなかった。だがそれでも、あくまで『暮らし向きは並の人』である桐生渉にとって、その部屋の内装は豪華すぎた。
 巨大な、十人は楽に囲めそうな長いテーブル。並べられた椅子も決してそのテーブルの装飾に負けてはいない。右手奥にはバーのコーナー。左手にはまるで室内装飾の見本市のように徹底的な装飾のほどこされた一角があり、家具専門店の如くに立派なソファの数々が、これまた俗人の足を乗せることを拒絶しているかのように暖かみのある絨毯のそのまた上に並んでいる。そこにはテレビとステレオのセット(勿論いずれも高級なものであろう)、背の低い透明のガラステーブルがあり、誰が使うのかわからないような美しい灰皿と置物(ライターであることをしばらく後に渉は知ることになる)が乗せられていた。壁に目をやれば、そこには絵画の展示会のように数々の絵や彫刻が並んだ作りつけの棚。さらに程良く配置された観葉植物の鉢。
 渉は両目の間を軽く押し、そして窓際へと歩いた。
 そう、どうしてこの窓には先があるのだろう。この部屋の片側は、一面すべてが自動的にスライド開閉するオートウインドーであった。暖かな昼の日差しが豊かに差し込むその先には、植木に囲まれた小さな庭がある。その真ん中には五、六人で入ってもまったく危なげない中型のプールがあった。だが残念ながら、水は張られていない。そう、今はもう秋の暮れ……言わば冬だ。
 いや、重要なのはそんなことではない。俺はどうかしているぞ、と渉は思う。ここは海の上で、俺が案内されたのは客室の一つのはずだ。そこに、どうして庭とプールがあるのか。あまつさえそのプールが泳げなさそうだと残念がるなど、とても正常な思考とは思えない。渉は首を振ってさらに顔を上げた。緑の垣根の先には……遥か遠方に、船の先端……船首へと繋がる甲板が見える。そこで動いている人々が、まるで豆粒のようだ。
 渉は再び眉間を押さえ、窓を締めた。そう、ボタン一つで窓が閉まる。ブラインドやスモークフィルタを降ろすスイッチもある。その下には、もちろん透明なカバーの付けられた緊急用のエマージェンシースイッチ。これと同じスイッチはこの船の中に入ってからもう何度見たかわからない。渉は首を振って操作パネルから……いや、窓際から離れた。
 まったく、だ。渉は思った。まったく、たいした部屋だ。そう、たいした部屋。まさにこれこそ、西之園萌絵が泊まる部屋にふさわしい。まったくもって、西之園グループの御令嬢が宿泊するにふさわしいゴージャスな部屋だ。
 この部屋が西之園萌絵のために用意された部屋であることを渉は確信していた。いや、それよりもむしろ彼が危惧したことは、ならば自分の船室はいったいどこにあるのかということだった。この部屋に及ばない(いや、及ぶ必要などまったく感じないが)にしても、俺の泊まるべき部屋は別に用意されているはずだ。でなければ、何をどうしろというのか。
 心の奥底で鎌首をもたげた邪推に、渉は大きく首を振った。馬鹿な。そんなことはあり得ないし、決してあっていいことではない。たとえ……そう、たとえ『そういう設定』だったとしても、だ。
 そこで渉はふと気付いた。そういえば、この部屋には寝台がない。客はどこで寝るのだろう?もっとも、ソファでも床でも寝場所には不自由しそうにないが……そう思った渉の目に、部屋の奥にそれぞれある、二つの大きな扉が捉えられた。豪華な金の(まさか、本物ではないだろうが)装飾が施された、博物館の展示コーナーの入り口のような壮麗な扉が二つ。今の今までそれに気付かなかったのは、どうやらあまりに派手な装飾がされていたためらしい。ようするに、自分にとって認識できる『ドア』の範疇を越えていたという訳だ。そう渉は思い、それ以上のことは深く考えないように努めた。そう、扉が二つ!一つではない。
 最初に渉が開けたのは入り口から程近い場所にあるドアで、装飾と反比例するようにそれは軽かった。そして、開いたその先にあるものを見て渉はぞっとした。今いるこの部屋には及ばないにしろ、同じように小奇麗で整然とした客間がもう一つ。そこにテーブルやテレビ等があることから見ても、こちらが前の……この部屋とは違う、別の客室であることは間違いなさそうだ。そう、そのはずだ。渉はそう自分に言い聞かせた。これがセットになっていてたまるものか。そうか、もしかして俺はこの部屋を担当するのかもしれない。渉はそんな客室乗務員の如き考えに至り、自分を少しばかり安心させた。もしもの場合……そう、『そういった非常事態』に陥りそうになったとすれば、萌絵に対してこの部屋の所有権を主張すればいい。勿論、この部屋が万が一にもこちらの部屋とセットになっていた場合、だが。
 渉は結局その部屋には立ち入らずに、もう一つのドアへと向かった。二つ目の扉はテレビやソファのあるコーナーと巨大なテーブルのあるコーナーを左右に横切った先にあり、バーのカウンターとは正反対の位置になっている。そして、勿論きらびやかなそれだった。渉は深呼吸すると、意を決してそのドアを開けた。
 アーメン。渉は無神論者であると自覚しているにも関わらずそう唱えた。神よ、これは何の冗談なのでしょうか。
 そこには廊下があった。そう、廊下、である。もちろん長いものではない。三メートル足らずの廊下が伸び、その左右にそれぞれ一つずつのドア。壁には非常用の消火器と見慣れたスイッチが備わっている。二つのドアの装飾は今渉が手をかけて開けたそれに比べて遥かに簡素であったが、それでも質素という言葉には及ばなかった。渉は勢いこの扉を締めてしまおうかとも思ったが、あまりに大人げない自分の感性をむしろ嘆じ、仕方なく廊下に足を踏み入れた。
 そう、仕方なく、だ。渉は自分にそれを言い聞かせた。おって西之園さんが到着すれば、また色々と忙しくなるだろう。そうなればこうして一人で気安く船室を見回れるのは、これが最初で最後になる可能性が高い。ならば、滅多に……いや、金輪際見られないであろう『最新式の豪華客船で最も豪華である部屋』を探訪するのも悪くない。渉はそう自分を納得させて、廊下にある二つの扉の一つ……手前にあるそれを開けた。そう、これは探訪だ。
 開ける時に察することができたのだが、はたしてその先はバスルームだった。洋装に相応しく洗面所と一体になった、だがしかし贅沢すぎるであろう広々としたバスルーム。彼方のあれは大理石だろうか?渉はぼうっと湯の張っていないバスタブを見つめ、シャワーと化粧台(共に一つきりではない)を眺め、そして扉を締めた。
 何も考えないことだ。渉は自らをそう戒めた。ライオンの顔をした湯の注ぎ口も、女神像の如き彫刻も。俺は確か国立大学の四年生で、卒業間近なはずだ。そして、そのために必要な卒論をまとめる目的でここに来ている。決して、妙齢の資産家令嬢に誘われて七泊八日の豪華クルージングに参加した訳ではない。渉はその二つが本当に相反するものであるのかどうか判断することはやめ、さらなる……いや、おそらく最後のそれであろう(と心から願う)ドアを開けた。
 そう、この先にまた廊下が広がっていたら、その時はどうすればいいのか。だが渉にとって嬉しいことに、その部屋の中に別の扉はなかった。ただ、筆舌に尽くし難いほど巨大なベッドが、小さなサイドテーブルを挟んで並ぶようにして二つあった『だけ』である。強いて挙げるとすれば、窓のない部屋の壁は一方がクローゼット、また一方は巨漢のプロレスラーですら全身を写せそうな鏡を張られた化粧台に占領されていた、それぐらいだろうか。
 渉は無言で(とはいえ、この船室に入ってから彼はずっと口を聞いていなかったが)ドアを締めると、そのまま広間(そう、その名称が相応しそうだ)へと戻った。そこで左右に首を巡らせ、ほんのわずかな思案のあと、バーコーナーの小さなバーチェアに腰を乗せる。
 まったくもって、これがそうか。渉は思った。当てはまるべきいい形容は思いつかないが、それでいいのだろうと思う。そう、まったくもって、だ。
 権力やそういうものに弱い、という自覚は今までなかったが、渉のその思いはこの船室に案内されてものの数分……いや、十数分で崩れ去っていた。眠っていた虚栄心が刺激される、とでも言うのだろうか。こんな場所に毎日泊まっていたら、確実に人格が変わるだろう。渉はそう確信し、もしも金持ちの令嬢という類の人々がこういった環境で日々生活しているとすれば、そういったドラマなどで『ありがちな性格』になるのも無理なきことではないだろうか、と半ば嘆かわしく息をついた。いや、真に嘆かわしいのは俺自身の訳のわからない思考か。渉はさらなるため息を漏らし、窓の緑の彼方に見えるホワイトとブルーの空を見やった。どうしてか、ビールでもあおりたい気分になってくる。そういえば、都合のいいことにここはバーのコーナーではないか。
 馬鹿め。渉は首を振って自嘲めいた迷走から意識を払った。これくらいで驚いてどうする、と思い、これと同じことがつい先月にあっただろう、とさらに訓戒する。そう、西之園萌絵に言われるままに借用してしまったマンションの一室。あれを見た時も俺は同じように嘆いていたじゃないか。同じことを繰り返してどうする。
 そう、気にすることはない。ここにもしも、泊まることになったとしても、だ。ここはマンションとは違って、ただの船室、いわばホテルの部屋と同じだ。あくまでも一時的に借りた部屋であり、七日後には自分とはまったく関係のない空間に戻るはずだ。いや、一時的と言うならばマンションもそうだ。来年の春には、あそこは俺とは何の関係もない場所になる……はずだ。
 いや、必ずそうする。そうしなければならない。渉は心中で懸命に首を振った。ふっと、ボヤ騒ぎで取り壊しが決まった学生寮が懐かしくなる。狭いだの隙間風がどうだのと散々に文句を言ったが、今となっては丸四年を過ごした寮の一室、狭い四畳半がたまらなく懐かしかった。卒業して新居を探す時は、あんな場所でいい、そうしみじみと思う。
 そのためにも、卒論を何としても完成させなければ。まったくその通りだと渉は顔を上げ、こんな所でくすぶっている暇はないと自分を叱咤した。そう、豪華すぎるロイヤル・スイートルームに心を奪われている場合ではない。事態は一刻を争うのだ。この部屋が西之園萌絵の部屋であろうがなかろうが、出航前の空いた時間を有意義に利用させてもらおう。
 渉は立ち上がった。荷物を探しに出る。程なくして、それは例の隣の客間から見つかった。しかも、驚いたことにハードキャリーは開けられ、衣類などはなくなっている。いや、なくなっているのではなく、寝室のクローゼットに運ばれていたのだ。勝手に人の荷物を……などと高慢に考える余裕は渉にはなかった。ただ自分の筆記用具と参考書や何やらが書斎(客間より、むしろそれが相応しそうに思える)の棚に整然と置かれ、その下にはノートコンピュータが乗せられている。どうせなら起動しておいてくれればよかったのにと渉は思い、そこでノートコンピュータに小さな便箋が挟まれていることに気付いた。
 便箋は一枚きりで、奇麗に折り畳んであった。それを開けてみた渉はプリンターで打ち出された文字の羅列を眺めて、そして小さく息を吐いた。


> お客様の持ち込まれたパーソナルコンピュータの使用は可能ですが、
> ネットワークへの接続については担当スチュワードにお問い合わせ下さい。

 それだけだった。便箋の下には淡い薄紅色のプリントがあり、それで渉はこの船が『月の貴婦人』号だということを思い出す。そう、三日月に寄り添うように美しい女性の姿があった。
 ああ、素晴らしきは月の貴婦人。渉は詩人の如くそう思った。貴女の接待は至れり尽くせりです。まだ出航前だというのに、もう既に俺はあなたの魅力に酔い痴れていますよ。
 渉は便箋を閉じて空いている棚に放ると、手近な書籍を数冊手にして窓際のソファに腰掛けた。この部屋は狭く(と言ってもあくまで隣の広間に比してだが)、居心地はそこまで悪くない。渉はゆったりとしたソファに身を沈めて、とりあえず自分にとって大切な現実を思い出すために参考書の一冊を開いた。
 
 


[280]長編連載『M:西海航路 第十章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時00分 Mail

 
 
 いや、開こうとした。
 その瞬間、チャイムが鳴った。荘厳極まるこのロイヤル・スイートにふさわしい、教会の鐘が鳴り響くような優雅な音色だった。渉は顔を上げ、来客かと連想した自分に呆れた。ここはいったい、どこだというのだ。
「Hello,this is c-c-operator speaking.」だが、続けて聞こえたその声に渉は目を見開いた。鮮やかな英語のイントネーション。「Welcome aboard.How nice to see you here.」歯切れの良い、どちらかと言えば……そう、年若な女性の声である。だがその言い回しには、どこか人間的な抑揚がこもっていなかった。「Mr.Wataru Kiryu,there's a call for you.Please......」
「あ、はい……!」渉はようやくアナウンスの意味を理解して声をあげた。「い、いや、了解、イエスです。すぐ行きます。あ、英語で言わないと駄目なのか。えーっと、ジャスト・モーメント……」
「桐生渉様。基本言語設定を日本語へと変更しますか?」渉は再び目を見開いた。今とまったく同じ女性……いや、女声による歯切れの良いアナウンス。
「あ、はい……イエス。ええ、そうして下さい。日本語に、基本設定を日本語に。」馬鹿のように繰り返してしまう自分に、むしろ語意が伝わらないのではと少し焦る。
「了解しました。しばらくお待ち下さい。」再び響いたそれに、渉は安堵してソファに身を沈めた。
 だがしかし、これは……今のは、何だ。渉は再び混乱しかけた思考を必死に整理しようと努めた。誰かが俺を呼んだ。いや、誰かではない。これはおそらく……
「変更が終了しました。」三十秒もかからずに女声が告げた。「以後、桐生渉様に対する通話は日本語によるそれを優先します。それでよろしいですね?」渉は頷いた。だがそこで気が付き、声をあげる。
「はい。そうです。日本語でお願いします。」そして、黙した。
「了解しました。」返事にはほとんどタイムラグがない。渉は驚きに満ちた視線を書斎の天井へと向けた。どこに、何があるのだろう。照明とスプリンクラーの間に眼をこらすが、それらしき何かは見つからない。
「えーっと、君は……」そう言って、渉はその先の言葉を用意していない自分に気付いた。
「桐生渉様に、再度御連絡を致します。船外より、長距離電話サービスが入っております。お受けになりますか?」
「えっ……電話?」そういえば、さっき英語のアナウンスで俺を呼んでいた気がする。「誰からですか?」思わずそう聞き返して、渉はさらに混乱した。はたして、聞いていいのだろうか。
「長距離電話サービスはコレクトコールです。料金は先方がその100%を支払うことになります。発信者のお名前は、ニシノソノモエさんとなっております。桐生渉様、お受けになりますか?」流暢だがやはりどこか抑揚のないアナウンス。その中に現出した人物の名前が、混乱極まりかけた渉の思考を正常のそれに……いや、正常に近い場所へ引き戻してくれた。そう、聞き慣れた名前。
「西之園さんが?あ、はい。お願いします。受けます……って、どうすればいいのかな。」渉は部屋を見回した。電話のようなものはこの部屋にはない。隣の広間にあったかなと渉はソファから立ち上がり、そして声が響いた。
「いずれかの通信機器を使用する以外に、当オペレーティング・システムを利用して会話する方法も可能です。桐生渉様、いかがいたしましょうか?」渉は告げられたその意味を考え、そして首を振って隣の部屋に戻った。考えるより、行動……そう、電話を探した方が早い。
 運のいいことに、それはすぐに見つかった。広間の窓際近くにあるスタンドの上に乗せられた、パネルと液晶表示のついたメカニカルな電話。それが赤く明滅し、何か文字盤に表示もされている。だが渉は、とりあえずそれらを読む前に受話器を取ってみた。
「はい、もしもし……桐生ですが?」
「あ、桐生さん!よかった!待っても出ないので、心配しました。よかった……!」それは確かに西之園萌絵の声だった。
「ごめん。でも、心配したのはこっちだよ。」そう、安堵感が津波のように押し寄せてくる。まるで親とはぐれていた子供のようだと渉は思った。「どうしたの?高速道路……車の運転は大丈夫だった?事故とか、あったんじゃないよね?」諏訪野老のことを思い出す。別れて一時間やそこらしか経っていないはずだが、もうあれが遠い昔のことのようだ。今、そばにいてくれたらどれだけ落ち着くだろう。
「はい、それは大丈夫です。」萌絵は早口でそう言った。「ごめんなさい、心配をかけてしまって……」
「いいよ。それより今どこ?もう、横浜についた?」渉ははやる気持ちを抑えた。どうしてか、無性に心配になる。「そろそろ……確か、二時だっけな。出航だからさ。西之園さんも、早く乗船しないとね。」それについて、スケジュール表を見せられた気がする。あの紙はどうしたのだろう。「そうそう。それで、部屋なんだけどさ……」
「桐生さん、あの……今、船の中ですよね?」萌絵の口調は何か含みかあり、渉は怪訝に思った。
「あ、ああ。勿論だよ。船室にいる。出航……じゃない、乗船は十一時だったから。」渉は時計を探した。すぐに、博物館に置かれていそうな巨大な置き時計があるのに気付く。そう、今は十二時十九分。「それより、どうかしたの?西之園さん?」昼食はどうするんだろうか、と渉はなんとはなしに思った。
「そうですか。それで、あの……桐生さん?」実に西之園萌絵らしくない言い方だった。何か、そう、まるで何かを告げるのをためらっているような、そんな口ぶり。
「西之園さん?」渉は呼びかけた。「どうかしたの?誰か、そこにいるの?」
 渉の発言は根拠もないただの憶測……いや、実際にはただの思いつきの如きそれだったが、それを聞いた萌絵の反応は尋常ではなかった。「え……!そ、そんなことありません!誰もいません……いませんよ、桐生さん!」初めてかもしれないと渉は思う。これほど動揺を顕にする西之園萌絵の声を聞くのは。
 いや、初めてではないかもしれない。今とはまったく違うが、だがしかし同じように違和感のある環境の中で……
「西之園君?」突然聞こえた声に、渉は耳を疑った。誰かがいる。「何?どうかした?」受話器の向こうだった。萌絵はどうやら一人ではないらしい。いや、だがしかし、これは……
「な、何でもありません!先生!すぐ戻りますから!」その必死な萌絵の声を聞いた瞬間、渉の思考は再び凍りついた。
 そして、弾ける。「先生!?西之園さん、そこに誰か……先生が、犀川先生がいるの!?」きつめの……そう、怒鳴り声と形容するのがふさわしいかもしれない、渉の叫び。
 萌絵の返事はしばらくした後だった。「はい……」渉の中で、思考が渦巻のように混沌としている。「……その、桐生さん。今から私の言うことを、冷静に聞いてくれますか?」萌絵の口調は、先程の取り乱した様子から豹変していた。その口調が、渉の千々に乱れた感覚を元に戻す。
「あ、ああ……いいよ。西之園さん、説明してくれる?」
「はい。」萌絵は素直にそう言った。「あの……実は私、今、先生と一緒にいるんです。その……犀川先生と。」犀川創平、N大学助教授。やはりさっきの声は、まぎれもない先生だったのか。
「それって……つまり、先生も一緒に来るってこと?」渉は最も可能性の高そうな推測を萌絵にぶつけてみた。
「いいえ。違います。先生は学会で、出張に出られていて……」そういえば、渉もその話を聞いていた。渉が萌絵につきあって(とは、まさか言っていないが)、七泊八日の旅行に出ることにしたと告げた日。ただ、その際に友人のつてで高名な学者に面会できるかもしれないので、戻ってくるまでに卒論の草稿は必ずまとめる、そう渉は犀川に約束したのだ。それに対して犀川は憮然としたように頷き、ちょうど自分も週明けから出張なんだよねと渉に言った。
「本当は行きたくもないんだけどね。しかも、今回はよりによって……いや、失敬。それはこっちの話だった。」どこかいらついたように犀川は煙草に火をつけ、ほとんど吸わずにそれをもみ消した。「とにかく、その高名な学者とやらに会って、君のインスピレーションが刺激されることを期待しているよ。まあ結局は、桐生君自身の人生だからね。」犀川は新たな煙草に火をつけて、ブラインドの先に広がる冬の迫るキャンパスを眺めていた。その背中を見ていた渉は、何故か見捨てられたような気分になって気が滅入ったものだ。
 だが今、渉の脳裏に閃いたのは犀川助教授の最後の言葉ではなく、憮然とした彼の表情だった。ただでさえ嫌な学会への出席に、そう、さらに何か……拒否したくとも拒否できない何かが加わってしまったかのような態度。「まさか……西之園さん……」声が出なかった。絶句、である。
 渉の思考がたどりついた結論。それは恐るべき内容であり、もしもそれが真実だとすれば、さらに別の真実が顔を出す、まるでマトリョーシカ……露西亜の細工人形を開けていくようなそれだった。次々に広がっていく『それ』を渉は驚愕のままに一つに繋ぎ合わせ、そしてそれは受話器の向こうで萌絵が小さな声を発するまで延々と続いた。
 だが、まさか、そんな馬鹿な。
「ごめんなさい、桐生さん。でも……お願いです。どうか、船を降りないで下さい。」萌絵の真摯な口調には独特の悲壮感があった。そう、悲愴ではない。「桐生さん、一生のお願いです。私……」
 渉は目を閉じた。信じられないことをする奴、という煮えたぎるような感情が、心を完全に支配しかける。いや、支配していたであろうその一瞬を越えて、まさに次の瞬間、渉はその発散を食い止めた。それは桐生渉という人間にとって最大限の精神力を必要としたが、どうにかして彼はそれに……言わば『自制』に成功した。
「わかった……」だがしかし、それだけ言うのが精一杯だった。
「桐生さん、ありがとうございます。戻ってきたら、この埋め合わせは必ずします。約束します。私、その……こんな機会、もう二度とない気がして……」萌絵の声は今にも泣き出しそうに聞こえた。
「いいよ。気にしないで……もう、俺は大丈夫。」本当だろうか。渉はめまいに似た感覚に息を吸った。そして、吐く。それでも状況を判然とするには足りない。もう一度、いや二度、それが必要だった。
 渉がそうしている間、萌絵は言葉を発しなかった。渉は目と、そして口を開く。「とにかく……だったら、西之園さんにあらかじめ聞いておくことが……」
「あ!だめ……先生!ごめんなさい桐生さん、もう行かなきゃ!」萌絵が突然、焦ったように告げた。
「えっ?西之園さん?」渉は面食らって問い返す。
「また連絡します!」次の瞬間、鈍い音が響いた。明らかに、先方の通話が切れる音。
 渉は呆然とそのまま立っていた。放心、という形容は今の俺のためにある。そう漫然と考えられてしまうほど、惚けた無限の時間。
「長距離電話が終了しました。今の会話時間は、六分十九秒です。」落ち着き払った女声が響くが、渉の耳にはまったく届かない。
 呆れる程に長い時間が経って、渉は動き出した。首を振って、手にしたままの受話器を戻す。そして、部屋を眺めた。これ以上はない程に豪華絢爛な、ロイヤルスイート・ルーム。
 渉は目を閉じた。そして開く。だがそれは消えなかった。そう、消えるはずもない。
 今や本当に彼のものになった船室で、渉は長いため息をついた。思考は未だ混乱し、やり場のない……そう、行き場を失った感情が、激しく五体を駆け巡っている。
 嘆息。そしてまた、嘆息。重ね続ける、リフレイン。
 意を決して渉が向かったのは、バー・コーナーだった。どうやら、それしかなさそうだ。

 
 


[281]長編連載『M:西海航路 第十一章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時01分 Mail

 
 
   第十一章 Mistake

   「……間違ってるってこと?」
 
 
 船室を出て、桐生渉は指示されたデッキへと向かった。
 足取りはおぼつかない。無理もなかった。ブランデーを幾杯かと、ウイスキーのボトルを半分近く開けてしまったのだ。ビールに至っては何杯あおったか数えきれない。ワインもあったので、適当に開けて少しばかり飲んだ。間違いなく、と断じていい、渉にとって人生初の飲み倒し……いや、もっとふさわしい形容を与えるとすれば『やけ酒』だった。無論、今までも何度かそういう場にいたことはある。だが人につきあわされるのではなく、自分自身がかつ一人でここまで飲み続けたことは渉にはなかった。おそらく量だけでなく、金額的にも最高だろう、と渉は思う。置かれているボトルのほとんどが某かの逸品であるように見えた。もっとも渉自身の酒類に関する知識はたいしたものではなかったため、『きっと高いだろうな』という程度の思いしかない。それはある意味幸せなことかもしれなかったが、同時に渉にとっては不幸なことだった。そう、何よりもその『金銭的に不自由しないであろう状況』そのものが、彼を苛立たせていたからである。
 だが、俺はもう酔っていない。渉はそう自覚する。自覚する、それ自体が甚だ怪しいものだったが、とにかく沸き立つ鬱憤を晴らすために強引に飲み始めてから、既に数時間。いつしか倒れ伏し、朝が早かったせいもあって昏々と眠り続け、今はもう夕方を通り越して夜が近い。そう、今そこにある壁のインフォメーション・パネルが示す時間は『17:08』であり、それを確認しただけで渉の頭に激痛が走った。目を閉じてこめかみを強く押さえる。
 そう、もう酔っていないとはいえ、それは気分が爽快という意味とは違った。むしろ酔っている方がましに思える程である。悪酔い……いや、それを通り越して完全に渉の五体はおかしかった。肩から先の両手は鉛のように重く、膝には力が入らない。割れるというより頭蓋からじわじわと大脳に侵食してくるような頭痛が波のように打ち寄せ続け、首を……どうにもおぼつかない視線を巡らせる度に、網膜が焼きつくような強烈な痛みが走る。
 最悪だな。渉はそう思い、あらゆる意味でその通りだとひとりごちた。昼日なかから泥酔するまで飲んだ挙げ句に寝過ごし、今やこのていたらく。体調も気分も最悪だ。だがそれらすべてに比して決して負けていないのは、俺が置かれているこの状況だろう。そう、現状が既に……絶対に取り返しのつかない状態にまで陥っていること、それこそがまさに『最悪』だった。
 そうだ、もう戻れない。渉は足取りを止め、こめかみを指で強く押さえながら視線を放った。
 聞こえている何かの音。それは重低音のコーラスのようでもあり、気まぐれなミュージシャンがかき鳴らすエレキギターの音色のようでもあった。どのような文章で表現するか、古来から様々な文学者が悩み、一人一人が想像の翼をはためかせたのだろう。もっとも、今の渉にはそんな情緒に浸っている余裕などなかった。ただ、遥かなる先……見渡す限りの茜色の光景を前にして、捉えられぬその彼方に(方角は無論、出任せだが)あるであろう故郷の大地、懐かしい那古野の街並みを思い描く。だが次の瞬間、また苦々しい不快感が彼の脊髄から側頭部へと駆け上がり、渉は目を閉じて目の前の光景を消し去った。美しい、紅の海を。
 そう、そこは海だった。夕日に照らされた、どこまでも続く大海原。夕闇の中、ぼやける彼方まで赤く照り返されたそれはとても美しかった。既に外洋なのだろうか。他の船などまったくもって見当たらない。そこを航行する豪華客船、その最上層に程近いデッキのテラスに、渉はいた。
 渉は薄目を開こうとして、そして滲むような後頭部への痛みにそれを断念した。しばしの間、激しい頭痛に思考を停止させ、ただ悶々と歯を食い縛って痛みに耐える。定かではない何かへの怒りが激情の如く沸き上がり、そして虚しく散った。 
 まったく、俺のこの不運はどこから始まったのだろう。渉は漠然とそう思った。西之園……そう、あの夜、懇願する西之園萌絵にまんまと騙された時からだろうか。いや、それも元を正せばマンション借用の一件からか。いや、俺の不運はそれだけではない。火事、留年、入院……そう、そもそもは去年のゼミ旅行がすべての発端だろう。
 また、同じか。また、それなのか。渉は苦虫を噛み潰したような顔で笑った。声は出ないが、それを補って余りある程の憤懣に満ちていた。
 だが。
 そうだ。よく考えれば、それすらもまた違う。去年の何もかも……あの一件はすべて、俺が犀川研に属していなければめぐりあわなかったことだ。だとすれば、俺がN大に入学したこと、それ自体が間違いだったのだ。一浪もせずに日本屈指の国立大学に合格できたことは、当時奇跡だ人生最上の幸運だと心底思ったものだ。両親も高校の教師も友達も一様に渉の合格を祝い、喜んでくれた。だが、今となってみるとそれが本当に幸運だったのか甚だ怪しいものだ。
 人生、後悔し通しか。渉は皮肉をたっぷりとこめて笑った。結局俺はこうしていつもいつも、どこまでもさかのぼって悔やみ続けるのか。
 渉は頭をかきむしるようにして首を振った。激しい痛みが走ったが、それを上回るどす黒い自嘲の思いに、痛覚が限界に近くなるまでそれを続ける。痛みに呻きそうになる……耐え難いギリギリのところで渉は歯を食い縛って大きく身を震わせ、肺の中の空気をたっぷりと吐き出した。
 目を開けば、初めて目にする赤い水平線。一時それを見つめ、そして渉は再び目を閉じた。
 後悔ばかり、か。だがそれは、多くの人にとってそうなのかもしれない。後悔のない人生などないだろう。誰でも過ぎ去った時間に思いを巡らし、そこで下した、下してしまった自らの決断に延々と悩み続けるのだ。もし、あの状況で別の選択を下していたら。あの場でYesでなく、Noと言っていたら。あの時、誰それとの待ち合わせに遅れていなければ。あのテストの問題を間違えなければ。あの朝、食事を取っておけば。あの夜、酒など飲まなければ。
 そうしていれば、そうしなければ、一体どうなっていただろうか。もしかすれば、今現在の何もかもが根底から覆っていたかもしれない。自分が今ここにこうしている現実、それ自体がまったく別の状況になっていたかもしれない。そう、俺にしてもそれはそうだ。俺がもし、N大の入試に失敗していれば。犀川先生のゼミに加わらなければ。ミステリィ研の勧誘を断っていれば。そう、他の誰も彼もと同じように、西之園萌絵を遠巻きにし、構ったりしなければ。去年のゼミ旅行に参加しなければ。
 あの島に、行かなければ。
 渉は乾いた笑いを浮かべた。そうだ、俺が旅行に参加したのは、まさに偶然以外の何物でもなかった。三年時から卒論が遅れに遅れ、就職活動と平行して進めた挙げ句に双方見事に失敗……いや、失敗する結果に至る夏まで、自堕落にただミステリィなどを読み耽り、レポートを放り出していた自分。本来ならば、あんなキャンプに参加する余裕などあるはずもなかった。俺がそれに参加したのは、ゼミと卒論両方の指導教官である犀川助教授自身が同行することになっていた(そして彼も渉を止めなかった)からであり、ひいては迷走する卒論執筆への気晴らしになるかと自分でも思ったからであり、さらには西之園萌絵その人に誘われたからだった。
 そう、また西之園さんか。渉はまた皮肉に笑った。考えれば、今回とまるで同じだ。真賀田研究所に行って来たという彼女に呼び出されて、その話を聞かされた自分。そう、まとめている卒論のテーマにとりこの地上で最も有益である(と渉が考えていた)人物……真賀田四季と面会してきたという西之園萌絵に仰天し、その一部始終を伝え聞いたバーの夜。あらゆる意味で世界を震撼させた大人物に、それよりも遥かに身近な(一応、は)存在である西之園萌絵が対面したという話は渉にとりあまりにセンセーショナルであり、同時にそこで彼女から教えられた『天才』の情報は、それまであくまで伝説的な存在として認知していた『真賀田四季博士』の実像に対し、否応なしに激しい興味を持たせるものであった。
 そして、だ。そして……だからこそ、俺は彼女が言い出した妃真加島へのキャンプに同行する決意をしたのだ。勿論、萌絵や院生の先輩達に是非来てくれと誘われたせいもある。だが未だ就職はおろか卒論の草稿すらまとまっていない状態であった渉にとり、わずか数日とはいえ遊びに行くことを選ぶのは多大に『自暴自棄』と称せる愚かな選択だった。それでもなお渉が参加に同意したのは、何よりも西之園萌絵が会ったという『天才・真賀田四季』への興味がその自制心を上回っていたからで、生きながらにして史上の存在となっている伝説の人物が住む場所はいったいどのような環境なのだろうと、渉個人もまた純粋な好奇心を抱いたからだった。
 そう、誰がよりにもよって、真賀田四季博士その人に出会えるなどと思っていただろうか。無邪気な興味からそれを成し遂げてしまった西之園萌絵とは違うのだ。当時から渉は、真賀田四季という非凡な存在の叡智を少なからず理解していたつもりだった。勿論それは西之園萌絵やその他多くの大衆と比較してそうであっただけで、例えば犀川創平助教授などと比較すると遥かに矮小で俗物的なイメージだったであろう。
 だから俺は、と渉は思う。だが、俺はそうであったがゆえに、訪れたあの島で真賀田研究所に招待された時、あまりにも異質なその環境に驚き、愕然としたのだ。雰囲気に呑まれた、と言ってもいいだろう。ここに、あの天才がいる。ここに、真賀田四季がいるのだ。十五年間俗世を離れていた彼女が、孤独に研究を続けている場所。あの白い建物の秘めた空気はひたすらに圧倒的であり、渉はただただそれに呑まれた。
 そう、だからこそ俺は西之園さんと共謀して、N大の学生達に対する歓迎会が終わってなお、あの場に居残ろうと企てたのだ。それはたやすく看破されてしまうほど幼稚なものだったが、だがしかし副所長であった山根幸宏の好意的なとりなしによって何とか目的は達せられた。だがまさか、渉も萌絵も(そして図らずも二人を監督する立場としてそこに残った犀川も)、その後一時間も経たずに真賀田四季博士その人と対面できるとは想像していなかっただろう。いや、正確にはそれは四季博士その人ではなかったのだが、そうだと信じざるを得なかった対象……そう、既に生きていない『それ』を目にしたあの時、すべてが変わったのだ。
 そう、すべてが変わった。あれを境に、すべてが。
 それからの数日間の何もかもを、渉は克明に記憶していた。忘れようとしても忘れられるはずもなかった。一つ一つの体験が、出会いが、発見が、見聞きしたあらゆるものが、鮮明すぎる強かな記憶として心に焼きついている。
 そう、渉はそこで数多くの決断を下し、思索し、迷走し、そして行動し、推理した。あの時、自分の前にどれだけ多くの選択肢があっただろう。そう考えるだに、今でも渉は身震いを禁じ得ない。そう、もしも、だ。あの状況で、ああしていれば。それとも、ああしていなければ。悔やまれるそれ、良かったと思えるそれ、ありとあらゆる選択肢があり、その一つ一つを一本のラインに繋ぎ合わせることで、たった一つの結末に至る。そのすべてが、あの夏の数日が、まさに谷間に張った細い一本のロープを渡る如きそれではなかったか。
 いや、渉は首を振った。自分が今ここにこうしている以上、その繋いだロープは、続いている道は、まだ終わっていない。道を外れるためにはたった一つの方法しかなく、そしてそれを自分から選ぶことは決してできないだろう。そう、できようはずもない。
 ならば今は、今のすべては……そうだ、それは『なるべくして』などという偽善に満ちた定義ではない。己が選んだから、選んだからこそこうなってしまったのだ。決断を下したのは間違いなく自分自身であり、どのような選択肢にせよ、最終的な判断を下し行動したのは自らであるはずだ。例え強制されたそれ、自由意志のない状況であったとしても、そこに至るまでには必ず某かの選択肢が存在したはずである。とすればそれを選んだ、そこに陥るまでに至った己の責任がまったくない、と言えるだろうか。この世の何者も、生まれいでて現在に至るその時まで何一つ自由意志も持てず、選択肢すら見つからなかったはずがない。そんな存在がこの世にあるはずもないではないか。だからこそ、人は誰しも自分の過去を悔やみ、現状を憂い、行く手に苦悩するのではないのか。下してしまった判断を嘆き、あの場でもっとうまく、ああしていれば良かったと悔い、そして自分の存在を疎むのだ。そこにいる、自分自身を。
 渉はそこでゆっくりと目蓋を開いた。胸までもある高い手すり、甲板を見下ろす遥かな高処のテラス、そこに寄りかかっている自分。胸の耐え難いむかつきに息を吐き、頭痛に身悶えする自分。それを認めつつ、だがしかし渉は視線を遥かなる虚空へと向けた。
 ならば、俺自身はどうなのか。やはり、俺もまた何もかもを後悔しているのか。こうなった自分、今ここにこうして存在する自分自身を。渉はそう考え、皮肉めいた気分を振り払うように、その思考の問いそのものを嘲った。
 違う。今の俺、この自分はそうやって成り立ったものだ。誰も自分だけで生きてはいない。他人からの、いや世界からの干渉で否応なしに選択を迫られ、それに答えを出し続けながら生きているのだ。朝起きることからそれは始まり、夜眠るその時……そう、眠るかどうかまですべてが選択肢として存在している。目の前の分岐すべてに逆らい否定することはできるが、それもまた結局は『何もしない』という選択肢の一つに過ぎない。目の前の事象に対して反応するありとあらゆる行為がすべて自らの選択であり、それを行わないことは誰にも許されない。
 転じて、与えられた結果に照らし合わせてその選択が間違っていた、あるいは正しかったと思うことは可能だ。1足す1は3である、そう答案用紙に書くことも、今つきあっている恋人と結婚するかどうかを決めるのも、すべては選択、自分が決めたことだ。『決める』ことではない、『決めた』ことなのだと渉は思い、そして遥かな夕闇の空を仰いだ。
 そう、なぜなら『決める』と思っている段階ではまだ選択肢を決定していないからであり、『決めた』と断ぜられる段階では既に結論が出ているはずだからだ。その間は決して存在しない。0か1、YESかNO、白と黒でもいい。必ず、そのどちらかしか存在しないのだ。
 だから俺は、と渉は深く息を吸った。そう、俺は過ぎ去った選択肢を、己れの過去を後悔していない。いや、後悔したくはない。無論、あの日あの時、あの場所でああしておけばよかった、こうしていればもっと結果がよかっただろう、そう思うことは多々ある。だがそれは、そうしておけばよかったから今の自分は悪い、つまりは間違いだ、そう思うまでには至らない。今の自分の存在、それを認めない、あるいは間違っていると認識することなど絶対に不可能だ。それは間違ってなお進み続けている現在への矛盾に繋がり、結果として生というもの……生きることへの否定という未来に繋がる。自分の過去を省み、そもそも存在していることが、生きていること自体が間違いだと認めてしまったら、人間はおしまいではないか。
 渉は視線を移した。雄大なる海原、そこを航行する巨大な客船。白い線が幾筋もその船腹から走り、ゆっくりと弧状に後方へ広がり、消えて行く。それを見つめて、渉は再びゆっくりと瞳を閉じた。痛みはまだあり、消えていない。だが。
 渉は目を見開いて先を見た。
 そう、時間は決して戻らない。あの日の選択が間違っていたとしても、それを包容して生きていく、いや生きていかなければならないのが人間だろう。事後に悔やみ、それが間違っていると思ってしまっても、いつか間違っていなかったと帰結できるかもしれない。それはその人の心一つのことであり、だとすれば個人が決断する各々の選択の重みに比して、何と安直で明確でないそれではないかと渉は思った。時間と共に選択肢が現れ、時間と共にその個々の選択肢の善し悪しも変わっていくのだ。だとすれば人間に、つまるところこの俺にできることは、今その場にある選択に、できうる限りいいと思える決断を下していくだけだ。だがそれは、決して自分のためではない。勿論、他の誰かのためでもない。ただ単に、俺が生きているからだ。今生きているから、そうするだけだ。
 渉は首を振り、その場から歩き出した。
 これもまた選択肢の一つだろう。渉は笑った。俺は何もかも無視して部屋に戻り、ベッドに潜り込むというそれを捨てて、この重たい躯のまま先に……目的地に向かうという結論を下した訳だ。
 ならば、それでいい。今の選択がいいか悪いか、そんなことは後で考えればいい。そうだ、未来の……今現在を過去にしている俺自身が、その都度考えればいいのだ。そう、現時点で俺は、歩き出したことを後悔していない。 
 渉は二、三人は横並びで歩けそうな広い廊下を抜けて、二台のエレベータがある小ぢんまりとしたホールへと入った。ありきたりのボタンの代わりに、半透明の青みがかったパネルがそこにある。見慣れない……とはいえ乗船してからかなりの数を見てきたが、カードの識別器だった。これに各々が所有するカードをかざすことによってその人を認識し、エレベータが動く。昼前にスチュワードから聞いた説明を思い出し、渉は肩をすくめた。あの時は案内されており、俺自身のカードは使わなかったが、今はそうする時らしい。そう思い、渉は普段着のズボンのポケットから財布を取り出そうとして……そして、それがないことに気が付いた。
 財布がない。瞬間、渉の心に冷や汗が流れた。だが一瞬の後、それは当り前だと安堵する。
 財布は預けたのだ。タラップを上がり、乗船を認可された甲板で、渉は仰々しく現れた女性船員の説明を受けた。そこでこの船で最も重要だというゲストカードを渡され、他に何か貴重品があるならば、パスポートと同じようにこちらが下船時まで預かるという誘いに乗り、自らの財布を渡したのだ。この船では現金取り引きはないという説明と、ゲストカードですべての操作が行えるというあの言い分に(半ば挑戦するような気分で)物は試しにと預けたのだ。そう、財布の心配をしなくてもいいというのは気楽じゃないか、そう軽く思っただけだった。
 ならば、と渉は頷いた。ならば、それは心配ない。どのみち今は財布の中身ではなく、カード……そう、この船で最も大切だと聞かされたゲストカードの所在が問題な訳だ。財布に入れていたとすれば大間抜けだが、幸いにも女性船員の前でそんなことをするはずがなかった。そう、確かに俺は財布を預け、カードを持って彼女に笑いかけたではないか。だとすれば財布のカードホルダーにゲストカードを入れたはずがない。
 ならば、俺のカードはどこか。渉は両腰のポケットと懐を探り、それがないことを確かめた。するとカードは俺の部屋、ようするにあの豪華絢爛なスイートルームにある訳か。なるほど、千鳥足……いや、二日酔いならぬ一日酔いで出てきた俺がそれを忘れてきたのも無理はない。
 渉は直ちに取って返し、廊下を曲がって少し先に見える船室の扉まで歩いた。そう、このデッキにはまるで他の物がない。通路が一本、曲がった場所にエレベータホール、赤い絨毯の敷かれた廊下の先に客室の扉が一つ、そして対面にもう一つの扉、さらに通路の突きあたりに外が見渡せる小さなテラス。それだけだ。
 渉は自室のドアの前まで来ると、そのナンバーを確かめた。001、ゼロゼロワン、か。なるほど、これ以上覚えやすい部屋番号もないなと渉は笑い、通路対面の少し先に位置するもう一つの扉を見た。形状も装飾もまったく同じで、おそらくここと同じ部屋がその中にもあるのだろうと容易に察しがつく。つまり、ここはロイヤル・スイートルームとしてのキャビンが二つ対になって存在する、ただそのためだけのデッキなのだ。まさに、豪華極まっているじゃないか。しかも、こちらが001。ならばあちらの部屋番号は幾つだろう?
 だが残念ながら、目をこらしても対面の部屋のナンバーは光の照り返しでわからなかった。おそらく002だろう、間違いないなと渉は思い、視線を戻して西洋の館のような大きなドアノブに手をかけた。そして、それを回して扉を開こうとして……そして、それは開かなかった。
 一拍置いて、渉は息を吐いた。なるほど。もう一度、ノブを回す。やはりというか、それは何かに引っ掛かったように中途から動かない。なるほど、なるほど。これはきっとオートロックだ。
 渉は黄金色にすら見える取っ手から手を離した。そして、それに気付く。戸口の脇にある、エレベータのものと同じカード識別パネル。それを見つめ、そして取っ手に視線を戻し、渉はゆっくりと首を振った。
 オートロック?馬鹿な、当り前じゃないか。今時オートロックなど珍しくもない。大学のおんぼろ学生寮ならいざ知らず、俺が引っ越した(いや、借り受けた)マンションがそうであるように、今はオートロックなどどこにでも普及している。鍵のかけ忘れを回避することはセキュリティの基本で、だから今時の住宅や、特に他人と共存する構造を持つマンションなどではオートロックは当然だった。ならばこそ、あらゆる客が集うこの豪華客船でオートロックでないはずもない。
 馬鹿め。渉はそこで大きく首を振った。何を考えているんだ、俺は。重要なのはオートロックが存在することじゃない。それが作動し、あまつさえ俺自身が部屋に戻れなくなった事態についてだろう。いいか、よく考えてみろ。俺はゲストカードがないためにエレベータを動かせず、そのためにこの船室に戻ってきた。それは何故かと言えば、おそらくこの船室のどこか……そう、たぶんあの広間のテーブルにでも、カードを置き忘れているからだ。そして、それがなければ俺はこのデッキから出られない。見たところ……と、渉は首を巡らせ、階段の類がないことを確かめた……ここには二基のエレベータ以外に他のデッキへの移動手段はない。そしてゲストカードは、オートロックが作動し閉じられたこの船室の中にある。そして、オートロックを解除するためには、どうやらゲストカードが必要らしい。
 つまり、俺はこのデッキに閉じ込められてしまったのだ。
 
 


[282]長編連載『M:西海航路 第十一章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時02分 Mail

 
 
 完璧だ。渉は己の明察極まる推理を自負した。だが次の瞬間、呆れ果ててため息をつく。馬鹿め、これは推理じゃない。低レベルな思考の帰結だ。いや、帰結というより悪循環だろう。どうすればいいか、どうなってしまったのか認めたくないから、俺は意味もない思考を堂々巡りさせて先に進むことを拒否しているのだ。それしかない……そう、まさにその選択肢しかないというのに。
 渉は首を巡らせた。インフォメーションのパネルが、少し先の壁に備えつけられている。同じものはエレベータホールにもあったが、近い方で構わないだろう。
 銀行やコンビニエンスストアのキャッシュ・ディスペンサーのような端末の前まで進むと、渉はじっとそれを観察した。液晶モニタであろう、上下二つの画面。上にはインフォメーションの表示が、下には入力キーの映像が映し出されている。おそらく、これ全体がタッチパネルになっているのだろう。徹底的なデジタル化だ、と渉は感服を通り越して皮肉めいた思いを抱いた。まったく、操作ボタン程度はアナクロな昔ながらのキーでいいのではないか。もしも電源が落ちたらどうするのか。何もかも操作できなくなる。不自由極まりない。
 そこまで思って、渉は自らの単純さにまた呆れた。馬鹿め。電源が切れれば、こんな端末など利用できるはずがない。そこにキーやスイッチがあっても、それは電気が流れていない時点で意味のあるものじゃない。ただ画面のようにブラックアウトせず、見た目には残っているから、そこに存在しているから安堵感を有するだけだ。まさに今の俺が、これを見て連想したことと同じだ。現実のキーだろうが、液晶画面の中のキーに見えるスクエアだろうが、システムを操作するという点ではまったく同じものだ。タッチ……触感の違いや使い勝手は確かにあるかもしれないが、それは副次的な事柄に過ぎない。根本的に操作パネルの機能を有していれば、それがどのようなインターフェイスとしての形態を持っていようと、それは間違いなく操作パネルなのだ。
 渉は首を振った。まったく、どうかしている。自分のドジ……ミスをした選択に嘆くのはもうやめよう。先程の思案ではないが、素直にそれを認めて、先に進むことだ。俺は人から呼ばれているのだし、それに行くという返事をした以上、赴くのが当然だ。ならばさっさと八方塞がりな現状を訴えて、スチュワードなりに助けてもらおう。
 渉はパネルを観察した。そこに並ぶのは英語の羅列だった。それも当り前だろう。この船は日本企業の船じゃない。誰に聞いたか忘れたが……そう、確かあの『妙な』係員か。
 渉はこの船のセキュリティ・システムを自信たっぷりに解説した若い男の微笑を思い出していた。不快なそれではないが、だがどこか油断のならない……そう、挑戦的と形容してもいいあの笑い。ふん、ならば今俺が置かれている現状があいつ御自慢のシステムに照らしてどういう処置を取れるのか、たっぷりと見せてもらおうか。渉はそう辛辣に思考し、少し横着にパネルの英字を眺めた。右端に、スチュワードを呼び出すコール・キーがある。それと少し離れて、隔離されているように赤い二重の丸で囲まれたエマージェンシースイッチ。そう、確かにこれを押せばすべては解決する。だが渉は笑ってそれでなく、コール・キーに指を伸ばした。エマージェンシースイッチなら、そこらにそれこそアナクロなボタン・スイッチがいくらでもある。だが俺の現状は、緊急非常事態にふさわしいものじゃない。
 渉はタッチディスプレイに触れた。ピッ、という小さな音がして、画面が明滅し……
 そして『Card Not Found』の文字が大きく浮かぶ。それは目も眩む赤と白に二重にデコレーションされた、まるで……そう、間違いなく警告としてのメッセージだった。
 カードがない?渉は惚けたようにその和訳を反芻した。当り前だ、俺はカードがないからスチュワードを呼ぼうとしているんだぞ。いや、さすが最新鋭の管理システムだ。俺がどうしてキーを叩いたか、もう理解している訳だな。
 勿論、渉は真面目にそんなことを考えた訳ではない。だが、渉はそこで消えようとする大きな警告メッセージの下に、もう一行の英文を見つけた。『Please,Show Your Guest-Card.』
 渉はめまいを覚えた。今あるそれではなく、もっと別次元の頭痛を感じる。まさか、そんな馬鹿な。
 渉はもう一度端末を見つめた。呼び出し、予約、支払い、連絡、検索、ニュース……本当に様々な機能が備わっている。実に便利そうで、面白そうだ。こういった未知のシステム自体、渉は決して嫌いではない。なまじ有料で制限されたそれと違う(いや、厳密には有料なのだろうが)、『船内』という一つの閉鎖空間を制御することのできる端末であれば、その機能を色々と試してみたかった。そう、同じものが渉の船室にもあった。一つではなかった気もする。そう、きっと幾つもあったのだろう。
 だが。渉は天井を仰いだ。白く塗られ、汚れ一つない廊下の天井。
 だが……それらすべてが、ただ一枚のカードを持たないだけで使用できないのか。
 激しい、怒りにも似た鬱積が、渉の中にふつふつと満ちてきていた。それは数時間前、西之園萌絵にその真意を告げられた時と同じ……自分でない他の何かに対する、激しい怒りに満ちたそれだった。そう、なんというシステムだ。たったそれだけ、ただのカード一枚がないだけで、何もかも不能に陥るのか。ならば客とはなんだ。俺はここにいる。俺は……いや、西之園萌絵がだろうが、仮にもこの俺はロイヤル・スイートルームに泊まっている客だぞ。賭けてもいいが、この船でおそらく最上級の、豪華極まる客室だ。ならば、そこに泊まっている俺は最上級の客ではないのか。その俺が、西之園萌絵に懇願されて仕方なくこの船に留まってやった俺が、ただ自らのカードを部屋に置き忘れただけで、なすすべなく路頭に迷うのか。
 渉の怒りは憤然と爆発した。そう、客よりカードが大事なのか?客個人より、システムの安全性や無断使用の禁止が大事か?何よりも優先すべきは客そのものではないのか?システムは使うもので、システムにこちらが従わされてどうする。生身の俺、ここにいる俺より、カードが優先か?ならば、カードが勝手に浮き上がり、飛んでいけばそれでいいのか?それで、俺だと認めるのか?カードだけあれば、それで満足か?カードは俺じゃない。俺もカードじゃない。俺は、俺だ。俺以外の、何物にもなってたまるか!
 腹立ちまぎれに渉はガン、と目の前の壁を叩いた。このいまいましい液晶画面にそれをぶつけたかったが、そんな外国映画の如き行為はさすがにためらわれた。そう、そんなことは無意味なだけだ。渉はそう自分を納得させた。どこか冷ややかに。
 だが、渉の怒りがその一撃でおさまる訳ではなかった。発散するべき目標、怒鳴りつけたい対象を求めて渉は歩き出し、いらいらとしながら廊下の四方を睨みつけた。と、そこで対面にあるもう一つの船室の扉についた、小さなプレートに気付く。三桁の数字で示された客室番号。それは、000だった。
 ゼロゼロゼロ、か。なるほど、実に面白い。渉は意味もなくそう思った。この部屋は000で、それは俺の客室番号001より一つ前だ。ようするにこの部屋に泊まっている客は俺……いや、あの『西之園萌絵』より格上な訳で、つまるところこの船で一番の客ということか。いったいどんな奴だろうと渉は思い、どうせ誰かさんと同じように世間知らずの金持ちだろう、一度顔が見てみたいとせせら笑い……
 渉の目の前で、そのドアが開いた。
 まさに不意のことで、渉は驚きに身を強ばらせた。まさか、そんな。思いが通じた訳がない。俺は超能力者じゃない。
 向かいの……そう、渉にとってはそう形容するにふさわしいだろうか。その向かいの船室から顔を出したのは、うなじまでの短い髪をそこで程よく刈り上げた、見るからに温厚そうな女性だった。年の頃は三十から四十代、というところだろうか。エプロンドレスをまとい、いかにも婦人という呼び名がふさわしそうな女性だった。少し上目使いに渉を見る、エメラルドグリーンの瞳が何度も瞬く。
 そう、彼女は日本人ではなかった。その短髪も金色……いや、プラチナに似た淡い金色である。
 とにかく、渉は絶句……いや、絶息に近い状態で相手を見つめた。だが、相手の女性はそんな彼を見てもう一度目をパチパチと瞬かせ、そして急に顔を引っ込めるようにして戸口から消えた。ドアがゆっくりと動き……そして、閉まっていく。
 いけない。
 渉はかすかな自意識の中でそう判断し、寸でのところで片足を扉の隙間に入れた。閉じかけたドアがそこで止まり、渉はさらにノブを手で押さえる。そう、あの女性が何者か知らないが、閉められる訳には行かない。
 非礼だと思いつつ、渉は閉じかけた扉を半ばまで開いた。部屋の中が顕になり、そこにはやはりというか、渉の部屋とまったく同じ巨大な広間があった。豪華絢爛な装飾の数々と、バーコーナーにリビングの家具。いつのまにか暗くなった外には、既に白いブラインドが幾つも降りていた。そして、そこを照らすのは暖かみのある照明。
 そこを見渡した渉は、リビングのソファに腰掛けている人物がいることに気付いた。
 先程の婦人ではない。左右の耳元にだけ白髪を残し、頭頂部まで見事に剥げ上がった……そう、おそらくは老人だろう。葉巻だろうか、それをゆったりと吹かしながら、こちらに背を向ける格好で、備えつけられた大画面のテレビを見ている。テレビにはどこかの山脈の風景が映し出されていた。夏なのだろうか、大きな白い入道雲が浮かんだ青空の下に、幾重にも山々が連なっている。日本の映像ではなさそうだった。どこだろうか、と渉は思い、そんなことよりも海の上で山の映像が流れていることのアンバランスさを不思議がれと、自分に苦笑した。
 いや、違う。俺は何を考えているんだ。今はそれよりももっと、別のそれに注意を向けるべきだろう。
 と、そこで奥の扉が開き(確か洗面所や寝室のある扉のはずだ)、そこからさっきの婦人が飛び出してきた。そう、慌てて飛び出す、という表現がふさわしい。手には何かの乗ったトレイを持ち、そして彼女は渉に気付いて一旦足を止め、安堵したようにほほえんだ。一体何だろうか、と渉が思う前で、彼女は再び小走り……そう、パタパタという擬音が似合いそうな勢いで近付いて来た。危ないな、と渉は思ったが、運が良かったのかどうなのか、とにかく婦人は渉の前まで無事にたどりつくと、両手に持ったトレイを差し出した。そして、にっこりと笑って何事かを告げる。
 渉はまた面食らった。彼女の発した言葉が何か、渉には理解できなかったのだ。英語ではないし、勿論日本語ではない。ただ、独特のイントネーションがあるそれは、どこかで聞いた覚えがあった。どこだったかと渉は思い、目の前に差し出されたトレイの上を見た。
 そこには水……だろうか、透明な液体の注がれたコップがある。渉はそれをまじまじと見て、そして次に婦人を見た。彼女はにこにこと笑っている。目尻にかすかにしわがあり、渉はこの女性の年齢は見た目よりずっと上なのかもしれないと思った。もしかすれば、そこにいる剥げた老人の妻なのではないか。
「あ、あの……すみません。言葉が……アイ・キャント……」渉は言葉がわからない意を英語で伝えた。婦人が目を丸くして、そして自分の頭をコツンと叩くと、申し訳なさそうに唇を結んで会釈する。その、年齢に似つかわしくない可愛らしい仕草に、渉は思わず笑ってしまった。
「あぁ、すみません。その……俺は……」頭を下げつつ、はたと困る。言葉が通じないのでは、自分が陥っている現状を教えるのは難しいだろう。どうやって事態を……いや、スチュワードなり係員なりを呼んでもらえばいいのか。
「I'm sorry……悪いです。勘違いを上手にしてしまうようですが?」突然、だった。いきなり目の前の女性が発した言語に、渉は再び絶句した。英語……いや、それだけではない、紛れもない日本語だった。しかも、流暢な。「僕は、そんなことはないと思っているのです……ただ、喉を詰まらせてしまうかもしれないのですね?はい、違いましたか?もう、間違いなし?」
「ま、待って下さい。あの……」渉は混乱していた。当惑、という程度は既に越えていた。「貴女は、その、日本語が話せるんですね?」だが、何だろうかこの物言いは。「キャン・ユー・スピーク・ジャパニーズ?」
「当り前です。」薄い金色の髪の婦人は優しげに頭を下げた。流暢な……だがしかし、決して正しい使い回しでない日本語がそこから流れてくる。それが渉にとり強烈だった。「僕が、しゃしゃり出てしまいましたか?上出来なら、救助を必要ではありませんね?」渉はめまいを覚えた。ここは一体、どこだろうと思う。
「ストップ。ストップ、ジャパニーズ。プリーズ?」渉は両手の手のひらを相手に向けて言った。精一杯の笑顔を作って、首を振る。
 グリーンの瞳が渉を見つめた。悪いことをしている訳ではないが、妙に悪びれた気持ちになる。渉は心中で深呼吸をし、そしてにこやかに顔を上げた。「私の言うことはわかりますか?わかったら、どうか英語で答えて下さい。えっと、私は向かいの客室に泊まっている者です。」いや、正確には今日から泊まるのか。渉は気持ちをさらに落ち着け、言葉を選んだ。「私は部屋から出たのですが、ゲストカードを部屋に置き忘れてしまいました。そうしたらドアに鍵がかかって、戻れなくなってしまったのです。ゲストカードがなければエレベータも、廊下の端末も動きません。途方にくれ……」難しすぎる言い回しだろうか。「私は、とても困ってしまいました。そうしたら、貴女が出てきてくれたのです。どうか、私を助けてくれませんか?」渉はそこで言葉を切り、頭を下げた。
 どうだろうか。通じるのだろうか。いや、あれだけ流暢に(文法は目茶苦茶だが)日本語が話せるのだ。まさか聞き取れないはずはないだろう。そう考えて、そしてそれが自分に都合の良すぎる解釈ではないかと渉は思った。読み書きがすらすらとできてもヒアリングがまったくできない者も、たくさんいるではないか。俺自身、英語の筆記試験は及第点でも、ヒアリングのテストはかなり苦手だ。この婦人がどこの誰かは知らないが、彼女が日本語の聞き取りができるかどうかなど、今の段階でわかるはずもない。
「よろしい。」婦人はほほえんでそう言った。「とてもいいです。」わかった、という意味だろうか。了承、のGoodを、良いという和訳をしているのか。それともまさか、俺の日本語を誉めているのか。「いや、間違いでしたね?僕は、間違います。Yesです。答えるにはYesしかない。つまり、PeacefullyにOK?まったくその通りにはからっておきます。待つことですよ?」日本語と英語、しかも流暢な発音のそれが入り混じったそれを発せられるのはたいした技能ではないか、と渉は思った。そうでもしなければ、何か叫び出しそうな気分になりそうだった。
 だが、彼女……緑の瞳の婦人には、一片の悪気もないようだった。どこかの……そう、ヨーロッパの家族ドラマに出てきそうな、柔らかそうな物腰の婦人。おそらく長年愛用しているのであろうエプロンドレスが、あまりにも似合っている。このままケーキやクッキーを作り、お茶を入れたらどれだけそれっぽく見えるだろうか。渉は訳のわからないままそう思い、そして気が付くと婦人は目の前にいなかった。
「あ……あの……」思わず呼び止めた渉の声は小さすぎて届かなかったのか、婦人はソファに腰掛けた老人のそばまで行くと、ゆっくりと身を屈めてその肩を叩き、何かを囁いた。また、さっきの言葉だ。何語だろうと渉は思い、そしてその前で老人が耳に手を当てて、そこから何かを取り出す。それはどうやらイヤフォンのようだった。
 なるほど、テレビから音声が出ていないのはそのためだったのか。渉は思った。そして、これだけの問答を同じ部屋で交わしながら、今まで老人がこちらに見向きもしなかった理由もようやく理解する。
 その渉が見守る先で、老人がゆっくりと婦人と……そして、渉に振り向く。その顔はしわだらけで、そして婦人と同じ緑色の小さな瞳が渉を見据えた。年の頃はもう相当なものだろう。思うに、立ち上がることも大変なのではないだろうか。
 渉は頭を下げた。「ハロー。お邪魔しています……」英語と日本語をまぜた物言い。それではまるでさっきの婦人の妙ちくりんな語り口、そのままではないか。そう思い、渉はそこで言葉を切って頭をもう一度下げた。婦人がにこにこと渉を見て、そしてまた何事かを老人の耳元に囁く。そうしないと聞こえないのか、それとも渉に聞かせたくないのか、それはわからない。もっとも、彼女の今までの素行で判断する限りは、間違いなく前者であろうと思われた。
 そして、老人がかすかに動いた。頷いたのだろうか、それを見て婦人が満足そうに頷く。同時に渉を見た彼女は、軽くウインクまでしてみせた。渉は年甲斐もなく……いや、彼女の年甲斐もない行為に、思わず赤くなる。
 だが次の瞬間、渉の両眼は再び大きく見開かれた。婦人が老人から少し離れると、広間の中央でパチンと指を鳴らしたのだ。そして、また先程の流暢な未知の言葉。渉でも、老人でもない、誰に向けられたのでもない如くにそれが発せられ……
 そして、頭上からの明朗な声が部屋に響いた。
 アナウンスだ。渉は少し遅れて、それを理解した。船室の広間や部屋で俺が聞いた、女声のアナウンス。言語は違うが、それと同じものだ。そう察して、驚きがようやく覚める。
 婦人とアナウンスの会話はしばらく続いた。互いに流暢な言葉の響き。もっとも、どこか抑揚のないアナウンスのそれと、生き生きとした(まさに彼女らしい)婦人との会話は、どこかアンバランスでおかしかった。だが当の婦人はそんなことを気にする様子もなく、渉や老人に接していた時と同じように、部屋のアナウンスにも丁寧に(身振りや手振りまで用いて)語っていた。まるで、本当に生きている誰かを相手にしているようだ。そう渉は思い、どうして自分がそう思ったのかが気になった。そうだ、そもそもこれは、何なのだろう?
 だが、渉のその漠然とした思いは、会話の終わり際に婦人が発した言葉で中断した。
 ダンケ……シェン?
 そうか、と渉はようやく理解する。確かに、会話の頭でグーテン何とか……という調子の言葉があった。そして今は、おそらくダンケシェン。すると、これはドイツ……独語か。
 なるほど、どうやらドイツ人の夫妻……というには多少年が離れ過ぎている気がするが、とにかくドイツ人のカップルのようだ。渉はそう認識し、そして話を終えた婦人が近付いてくるのを待った。
「ただいま。」にこやかにそう言われて、渉は思わず何かを堪えた。「お迎えが来ました?全力疾走、方向はエレベターでしたね?」エレベター?あぁ、エレベータのことか。しかし、なに……全力疾走?「急がないと無理なのは、それでも禁止ですか?走っては、迷惑になりませんね?」急ぎ……?「僕と、別れを後悔しましたか?もう一度はお茶の会議、正午やお昼では、決して要求できないと信じています?」
 渉は再び混迷に陥りかけた思考の中で、婦人の伝えたい意味が何とか理解できた。いや、理解できた、と信じる。とにかく、エレベータホールに急がないといけないらしい。「ありがとうございました。本当に助かりました。必ずお礼に訪れます。どうも、お邪魔しました!」勢い、頭を下げる。婦人がにこやかに、また何か言いかけて……渉は悪いと思いつつ、そこで身を翻した。
 小走りに……それでも走ることまではしなかったが、広い廊下をエレベータホールへと急ぐ。背で扉が閉まる音がしたが、あえて振り向かなかった。急ぐ必要があるのを渉自身も認めていたし、正直なところ、婦人との会話にはかなり頭痛めいたものを感じてきていたのだ。勿論、全面的にあの婦人が悪い訳ではない。だが、それでもやはり、もう少しどうにかならないものか。そう渉は思った。
 廊下を曲がると、エレベータホール。渉の目の前で二つあるエレベータの扉の片方が開き、二人のスチュワードが降りてくる。渉は安堵の思いで一杯になり、彼らに相対した。二人とも男性で、共に日本人のようだ。心底ほっとする、そんな瞬間だった。
 二人は渉の簡潔な説明を聞き、平謝りに謝った。そもそもは渉自身がカードを忘れたことが悪いはずだが、彼らは決してそれをとがめなかった。むしろ、そんな不便なシステムを用いている船の側が責任があるという勢いで、彼らは渉にひたすら陳謝した。当然の如く渉はそんな彼らに申し訳ないような気分になり、礼を言って二人をねぎらった。年輩のスチュワード達は彼らにとり若輩者であろう渉の言葉にもまったく憮然とすることなく、むしろ完璧に訓練された……そう、それすらも気付かせないほど自然体で渉に感謝し、そして端末を操作すると、渉の船室のドアロックを解除した。
 あいにくというか、渉を含めた三人で探しても、ゲストカードは船室内から見つからなかった。渉はさらに悪びれた気分になったが、二人のスチュワードはそのことでかえって腰を低くし、それこそ渉がやめて欲しいと願う程まで徹底的に陳謝を繰り返した。そして、新しいカードが発行される。時間がかかるのかと思ったが、意外にも新しいカードの到着には十五分もかからなかった。渉自身は部屋におり、何もしていないのに、だ。
 『18:47』、渉は再び船室を出発した。今度は勿論、ゲストカードを忘れていない。その足取りは軽く、そして気分も悪くはなかった。そう、少なくとも最悪、と渉が思う範疇からは程遠いそれだった。
 今はもう、悪酔いの影響もない。そして気分はむしろ上々だった。どうしてだろうと渉は思い、少しの時間を費やしてそれを察する。
 なるほど、俺も結構な俗物と言うか、現金なものだな。だからといって、渉は再び悶々とした思考の中に入ろうとはしなかった。
 そう、もういいじゃないか。
 今日までの俺の選択も、あながち失敗ばかりじゃなかったかもしれない。
 
 
 


[283]長編連載『M:西海航路 第十二章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時04分 Mail

 
 
   第十二章 Mizuki

   「誰?」


「はじめまして。本船の船長を務めます、村上瑛五郎です。どうかよろしく。」桐生渉に手を差し出したのは還暦を迎えてなお壮健、という紹介がよく似合いそうな、たくましい初老の男だった。肩は金色のモールのついた制服に見劣りすることなく大きく、胸板もまたしかりである。二の腕と両足も太く、いかにも長年あらゆる航海を経て来た叩き上げの海の男、というような風体の人物だった。
 とはいえ、粗暴な感じでは決してない。制帽から覗く白と黒の混じった頭髪はさっぱりと揃えられており、口許の髭もまた奇麗に刈り揃えられ、整然とした身なりと共に、見る者に好印象を与えている。
「あ、ど、どうも……桐生渉です。」渉は自分の優に倍……いや、下手をすると三倍近い年齢であるにも関わらず、自らのそれを遥かに上回るサイズの手のひらを持つ相手と握手を交わした。白い薄手の手袋からも剛胆な感触が伝わり、少なからずの握力を推察させる。「その、俺……いや、自分は、西之園……」そこまで言って、渉は口ごもった。まさか、いきなり船長が出てくるとは思っていなかったことがその最たる理由だったが、さらにはこういった船上での交際……そう、社交、という表現が正しいだろうか。それに対して、今の今まで何一つとして考えていなかった自分自身に気付いたのだ。
 そう、まさに渉は何も考えていなかった。考える暇がなかった訳ではない。そういったことはすべて、西之園萌絵と相談するべきことと思っていたのだ。
「ええ、存じあげているつもりです。」船長の灰色の髭が持ち上がる。「確か、桐生氏は西之園家の御令嬢のフィアンセである、とか。」渉の心臓は喉に達する程に跳ね上がった。「いや、違いましたかな?ははは、これは失礼。」船長が髭と口許を楽しげに持ち上げて、豪快に笑う。渉は一言も発することができない。
「い、いえ、あのですね……」言いかけて、そして渉は迷った。すべてを否定して、それでいいのか?それこそ自分の立場など知ったことではないが、西之園さんはどう思う?それに、こんな話……つきあっているやら、フィアンセやらではない……今の自分の境遇を、正直に話したところで誰が信じる?『俺は西之園さんとはただの友人で、しかもその彼女にまんまと騙されて、口車どころかこんな船にまで乗せられてしまいました。』こう説明して、誰がそれをまともに受け取れるのか?
「いやいや、結構。」船長は楽しげに肩を揺すった。「そのお話はいずれまた。よろしければ明日のレセプションにてでもお聞かせ願えると嬉しいですな。」そして、その顔が真顔になる。「それよりもあいにく、今は少しばかりそちらの耳に小うるさいことを申し上げねばなりません。ここにお呼びだてした理由は、知っておいでですか?」
 船長の言に、渉は頷いた。「はい。本当にすみませんでした。何でも、全乗客を対象にした訓練があって……それを俺が、無断で欠席したから……」窓の向こうに夜の海が見える広いキャビンにいながら、渉は今更のように学生気分に戻っていた。そうだ、本来ならば今日も大学でこうして、犀川先生なり国枝助手なりに卒論の指導を受けていたはずだ。それがどうして、こんな場所で見ず知らずの相手に頭を下げているんだろう。まさに、奇異だ。
「その通りです。認知できていることは嬉しい限りですな。大概、日本人のお客様についてはその個人個人の認識の低さが、大いにやっかいなのです。船舶の旅というものは、航空機、あるいは列車のようなつもりでいて貰う訳にはいかないのですよ。」この人は講師に向いているかもしれない、と渉は思った。「耳にうるさいこととは思いますが、それは本来、出航前にはっきりと認識して貰わなければならないのです。勿論それは、私を含めた船の乗務員のためでもなく、ひいては桐生さん以外の他のゲストに対しての必要性でもありません。桐生さん、たった一人のためにそれが必要なのです。学ぶと言うことは、本来そういう意味ですからな。」渉は頷いた。説得力以上に、その断固たる語り口に承服を余儀なくされたと言った方が正しい。「よろしい。であれば桐生さん、今より説明する諸事項をよく聞き、すべからくその理解に努めて下さい。本船は確かに科学技術の粋を尽くした安全極まる新造客船ではありますが、それを担うのは電子機器や船内ネットワーク、果てはセキュリティシステムなどではなく、すべてのゲストとすべてのクルー、我々一人一人の相互協力によるものが第一であると。」渉はまた頷いた。申し訳なさ……いや、情けなさで胸がいっぱいになる。
 まったく、俺はこういう出発に際しての大切な行事を放り出して、部屋で酒をかっくらっていた訳か。
 泥酔の挙げ句にソファで爆睡していた渉を、あの女声アナウンスが起こしたのは二時間程前になる。それからゲストカードに関わる一悶着を経て、ようやく渉は指定されたデッキのキャビンに到着していた。
「だが残念ながら、その意義が御理解頂けていない方もいらっしゃるようですな。」船長の太い声に、渉は疲弊と混迷に満たされた回想を中断した。「芹澤。あの御老人は、まだ渋っておられるのか?」
 御老人?何のことかと渉が思う前で、今まで船長の隣で黙していたもう一人の乗務員が一礼した。まだかなり、というか相当に若い。渉と同じか、良くても少し上……下手をすれば歳下という可能性もあるのではないだろうか。「はい、キャプテン。スチュワードにも念を押したのですが、どうも……」芹澤、と呼ばれた青年船員が渉をチラリと見る。何か、言いにくいことなのだろうか。渉は目をそらした。
「困ったものだ。海にいかなる特例もないと、あれほど事前に念を押したにも関わらずとは。」船長は明らかに憤慨……いや、それを通り越してだろうか、嘆くように首を振った。この人を敵に回すと恐ろしいだろうな、渉はなんとなくそう思う。「よろしい。ならば私が直にお願いしよう。御理解いただけないのであれば、この航海そのものが御破算になりかねないからな。」そう言うと、船長は渉に向き直った。「桐生さんには、招致しておきながらの体たらく、謝らなければなりませんな。後はこちらの芹澤より指導させますので、どうか一つ、享受してやって下さい。」渉はただ頷く。それ以外になかった。船長がそんな渉に口の端をわずかに緩め(笑ったのかどうかは定かではない)、そして一礼すると船室を出ていく。
 
 


[284]長編連載『M:西海航路 第十二章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時05分 Mail

 
 
 いや、出ていきかけた。
「あの……」幾つもあるキャビンの扉、その一つ。そこで船長が足を止めるのと、その声と、どちらが早かったのだろう。
 とにかく、その声は明瞭に広い室内に流れ込んで来た。とても小さく、か細いそれだったが、はっきりと渉の耳に届いた、声。
 そう、はっきりと聞こえたのだ。女の声が。
 何だろうとそちらを見て……船長の大柄な体躯に隠れてしまっている相手の姿が、最初渉には捉えられなかった。驚いたように船長が何かを言い、そして、その細い声がまた聞こえる。先程の声よりさらに小さな女の声は、容易には聞き取れない。そしてさらに、船長の大袈裟とも思える身振りと声が、それに拍車をかけた。
 渉は目を凝らした。誰かがいるのは間違いない。「……いやしかし、それでは意味がありません。貴女のおっしゃることもわからないではありませんが、何事も始めが肝心、それは御理解いただけていると……」船長の陰に隠れて、ほっそりとした白い手が見える。そして、黒い……あれは髪の毛だろうか。ハイヒールを履いたこれまた細い足首と、そこに至るぎりぎりの位置まで降りている、そう……とても微妙な色合いの、青いスカート。「……まあ、それに関しては一向に構いませんが。では私は、佐嘉光氏とお話をさせていただきます。貴女はお好きなように。」
 しばらくの会話の後、船長は振り返ることなく船室を出ていった。そこに残ったのは渉と芹澤、と呼ばれていた船員(彼は今の会話の間、ずっと不動の姿勢でそこにいた)、そして……船長の巨体が去った後にその姿をはっきりと表した、一人の女性だけだった。おそらく扉を抜けていった船長に向かってなのだろう、戸口に向かって深々と一礼している姿。長い、丁寧すぎるのではないのかと思える礼の後、傾けられていた上体がゆっくりと起き上がる。
 長い艶やかな黒髪が、滑り落ちるようにして背中から散った。
 そして、振り向く。
 微笑。どこかすまなそうな、それでいてどこか朗らかな、かすかな笑み。
 肌は抜けるように白い。そして、どこまでも深い瞳の色だった。褐色と濃緑、それに少しの青を混ぜて、ほんのりと染め上げたような、神秘的で不可思議な輝きを放つ瞳。輝石の如きそれを埋め込まれた両の眼はわずかに吊り型で、睫毛も長く、目尻が前髪に隠れる程度まで細く続いていた。顔の輪郭の頂点には整った鼻筋が流れ、かすかな窪みを経て薄紅の唇に続く。首のラインと顎先とは一体となったように細く自然に繋がり、そしてその下の女性らしいふくよかな曲線にまで、一気に導かれていた。
 そう、彼女は美しい。渉が最初に認識したのはそれだった。そして次の瞬間、渉の心で何かが弾けた。
 それが何なのか、何であったのか、その場の渉には理解できなかった。それはとても小さな、だがしかし、はっきりとした何か。フラッシュバックの如き白と黒のシルエットと、そして鮮烈かつ強烈なイメージ。
 だが、それを形にして発することは不可能だった。なぜなら、渉の言葉もまた奪われていたのだから。
「ごめんなさい。お爺様の代理、ということでレクチュアを受けに来たのですけれど……」それを彼女が発した声だということに、渉は気付かなかった。「……虫の良すぎるお話でしたね。ですが午後の訓練が、私、とても楽しくて……あっ、いえ、楽しい、という言い方は不謹慎ですね。その……私にとって、とても有意義でしたの。」自分の言葉に恥じらい、それでも嬉しそうに語る姿。表情はさほど変化がないが、完璧に整った面立ちであるからこそ、ほんの一瞬の表情、微細な変化がはっきりとわかる。「それで、よろしければですけど……もう一度、受けさせていただけませんか。繰り返すことは身につけるためにとても良いと、先生方からも聞かされております。」優雅に、女性が身を屈める。それが一礼をする仕草だと、渉はまたしても気付かなかった。
「いや……はい。むしろ、それは……ええ、構いません。」渉同様に当てられたのか、芹澤船員は戸惑ったように姿勢を正した。もっとも、身動き一つできない渉とでは、比べるべくもなかったかもしれないが。「ではお二人とも、よろしいでしょうか。」芹澤は咳払いするように女性を見て、そして言った。「始めに、この船の概要について簡単に説明させて頂きます。船の機構を完全に理解する必要はありませんが、おおよその部分は聞き留めておいて下さい。なお、私はチーフ・メイトの芹澤と申します。」チーフ・メイトという横文字の職名の意味を渉は知らなかったが、それを気にする余裕はなかった。
 とにかく、そのチーフ・メイトたる芹澤が軽く一礼した。それに応じて黒髪の女性が嬉しそうに口許を綻ばせ、そして、さらに歩いてくる。
 渉の前まで。
「あら……?」そこで、彼女は初めて渉のことを見た。今まで気付いていなかった、そんな態度であるにも関わらず、その仕草にはまったく嫌味がない。いや、むしろ自然だった。そう、どこまでも優雅で上品な仕草。
 そして、会釈。言葉のないそれを眼前にして、渉の心臓がまた大きく跳ねた。どこまでも魅力的な唇が、彼に微笑している。だが、言葉は発せられない。どうしてだろうか。待っているのかもしれない、渉はそう思った。なら、何を?
 何を?馬鹿め、何を悩む必要がある。渉は必死に自らを叱咤した。何でもいい。今……今、それが必要なのだ。渉はそう気付き、そして口を開いた。言わなければならない。何かは問題ではなかった。何でもいい、何か言葉を発しなければならない。そう、直ちにしなければならない。その詞が五体すべてに向けた命令のように渉の体内を駆け巡り、そして渉はまだ金縛りにあっているが如き自らの腕……いや、指先を動かした。いや、動かそうとした。その手で何をする訳でもなかったが、どこか……そう、躯のどこか、部位の一つでも動かさないことには、言葉すらかけられない。
 だが。
 渉はそれでもなお、開いた口を動かせなかった。
 だが、だ。だが、何を口にしろというのだ。彼女に……そう、彼女に。
 彼女に、俺は。
「こちらの方は、桐生さんです。桐生さん、こちらは九条院さん。」発せられたのは、場違いな程に簡素な色に満ちた声だった。彼でも、彼女でもない。たまりかねたように口を挟んだ、芹澤船員の声。「お二人とも、説明の続きをよろしいでしょうか?そもそも本船は……」
 渉はその先に続いた芹澤の説明を聞いていなかった。芹澤の発した言葉が、その中の一句が、渉の中に奔流のように流れていた何かを断ち切る、まさに一喝の如き轟音となって響いたのだ。
 『桐生さん、こちらは九条院さん。』
 『……九条院さん……』
 九条院、だって?
「こんばんは。」そこで、彼女は口許に軽く手をやった。指もまた、どこまでも白い。「いえ、はじめまして、ですね。何だか、初めてお会いした気がしなくて……ごめんなさい。」優雅に、また腰を心持ち下げる。
 そして、彼女は微笑したまま渉を見つめた。
「あ、あの……」ようやく声が出た。混乱の極みにある思考が、安全装置のように最も浅い部分の回路を作動させて、脳の機能を活性化し……そう、無理矢理にでも潤滑にしようとするような感覚。「いえ、俺の方こそ……ああ、すみません。挨拶が遅れて……その、俺は……桐生です。桐生……渉。」息を吸って、そして吐く。何という非礼だろう、と思いつつ、そうしなければ渉には次の言葉が出てこなかった。「……はじめまして。」渉は頭を下げた。もう一度空気が口から漏れ、ようやく、呼吸をしているという実感が戻る。
 そうだ、生きているという……今が現実であるという、そんな実感。
 顔を上げると、彼女が笑っていた。そう、微笑ではない。
 声はかすかだった。ただ、口許に手をやり、それを堪えるように、それでも堪えられずに、いや、そのことがむしろおかしいかのように、彼女は……そう、『彼女』は、楽しそうに笑っていた。
 そう、彼女は笑っていた。そしてそれが、渉の何かを奪う。言葉か、呼吸か。いや、もっと決定的な何かだろうか。
「あっ……ごめんなさい。失礼ですね。でも、何だかとてもおかしくて……その、貴方を笑っているのではないのです。でも、どうしてでしょう。とても、楽しい……」少女はそう言って、恥ずかしそうにうつむき、それでもまだ笑みを消せずに、渉に許しを乞うようにして横顔のまま首を傾げた。
 渉は、反射的に頷く。「私、どうしましょう。初対面の方の前で、こんなにはしたなくしてしまって。えっと……はい、桐生、渉さん、ですね……はじめまして。」名前を呼ばれたことで、渉の中の何かが熱くなった。「私、九条院瑞樹と申します。」両手を胸の前で揃えて、もう一度、はっきりと頭を下げる。長く美しい黒髪が流れ落ち、渉の視界を奪った。
「えーっと、よろしいでしょうか。」心持ち強い口調の声が、二人の間を再び遮る。
 視線を移せば、芹澤船員が黄色いライフジャケットを手にして二人を見ていた。その呆れたような……いや、むしろそれを通り越して困り果てたているような表情に、渉と彼女は再び顔を見合わせ、そして、小さく吹き出した。
 楽しそうな笑い。快活な、優美な、愉快な笑い。
 互いに違う、そして同じ、矛盾を秘めたさわやかな笑い。
 最初の夜を迎える船上の窓、キャビンの窓越しに、二人の笑い声が漏れ、途切れることのない潮騒の中へと消えていく。
 これが、桐生渉と九条院瑞樹の出会いであった。
 
 
 


[285]長編連載『M:西海航路 第十三章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時06分 Mail

 
 
   第十三章 Morning

   「こんなところで、うたた寝すると、風邪ひくよ」


 ぼんやりとした意識の底から、何かが聞こえてきた。
 いや、聞こえてきたのではない。聞こえているのだ。ずっと、それが聞こえ続けている。重苦しい、地の底から……いや、もっと深い場所から聞こえてくるような何かの音。深淵より届くその正体は何だろうかと思い、そして首を振る。もう迷うのはたくさんだ。
 そう、何と悩むことばかりだろうか。目を凝らせば、耳を澄ませばそこには問題がある。些末なことから人生の岐路とでも称すべき重大なそれまで、ありとあらゆる物事はすべて悩みの種であり、迷いの元だった。それらは、純粋な……いや、興味本意としてのそれならば考えるにどうということもない問題かもしれなかったが、実際に自己に関わるそれと仮定すると(いや、仮定に限らずそうなると)途端に迷うべき物事へと変わり、遠からず悩みとしてのそれに変わる。それまでただの好奇心で携わっていたものが、突如として苦悩必至な自らの選択肢の一つへと変化するのだ。もっとはっきりと形容するならば、それまで楽しかったものが、苦しいものへと変わるのである。
 そう、可が否に、正が負に、善きが悪しきに。それらはあまりに安易かつ残酷に豹変し、まさに表裏一体という詞の如く一夜にして変転する。ならばできるだけその苦悩を回避したいと考えるのが人の保身というものであり、保守という姿勢であろう。誰も進んで悩みたくはない。自分に直接関わる物事など、できるだけない方がいい。
 だが、はたしてそれが正しいことだろうか。いかなる事柄にも関わりたくないということは、極論すれば自己を含めたすべての否定に繋がるのではないだろうか。何事も考えず、何物にも関わらず、何人にも近寄ることを許さぬ存在とは、一体何なのか。考えれば自ずからその答えには導かれるが、同時に誰しもが思うように、自ら望んでそうなりたいと考える者はいないであろう。
 つまるところ、である。こうして悩みや迷いが人や自分についてどうだこうだと考えること、それ自体が悩みであり、転じて結論付けるとすればこうだ。
 どうして、こんなことを考えなければならないのか。
 素晴らしい。これで思考が帰結した。物事を考える理由について考える、それが答えである。これこそが思考という精神的作用の基本的な概念であり、同時に究極的に目指すべき唯一無二の目標であろう。なるほど俺はたいしたものだ、哲学者だなと思いつつ、彼は再び、どこからか聞こえてくる小さな音に気を取られてその思考を中断した。
 ふむ、あれは何の音だろうか。かすか……そう、ほんのかすかだが、間違いなく何処よりか聞こえてくる音。重い、何かが動いているような、ずっしりと感じられる低音の響き。それは本当にかすかで、こうしてシーツに耳元を押しつけていないと聞こえない程だ。おそらくベッドから降りて床に耳を伏せれば、さらにはっきりと聞き取ることができるのではないだろうか。だがそれにはこの心地好い毛布の……
 桐生渉は目を覚ました。自分がどこにいるか、どういう状態にあるのかを認識する。それは瞬時にとは行かなかったが、渉にとり喜ばしいことに混乱や当惑に至るまで時間はかからなかった。どうやら、人間とは慣れるものらしい。
「朝か……」渉は発せられた自分の声を聞き、少なからずの安堵感を得た。どうしてか、妙に希薄な印象がある。何が、と問われると困るが、今ここに自分の手や体が見え、肌がシーツに触れるなめらかな触感が伝わってくるのに、それでもまだ自分自身の何かが希薄だった。だが声が聞こえたことによりそれが確かになるとは、自分は今何を考えていたのだろうと渉は思う。まさか、精神的な何かの境地に達しかけてでもいたのか。
 失笑して、渉は寝台から……そう、キングサイズのベッドから降りた。窓がない部屋を照らす淡い常夜灯の光を頼りにドアの近くまで行き、そこにあるパネルを操作して室内灯のスイッチを入れる。ルクスがゆっくりと上昇していき、渉以外に誰もいない広々とした寝室が顕になった。
 なるほど、俺は人外の場所にいる訳だ。渉はひとりごちた。今の環境に比べれば、西之園萌絵に借り受けたマンションなど子供の遊び場のようなものだろう。あの3LDKで迎えた初めての朝ですら、これほどの違和感は覚えなかった。
  それもそのはず、と渉は首を振って寝室を後にした。考えれば、ここは地に足のついた場所ですらないのだ。違和感……そう、さっきまでの希薄な気分も、おそらくはそれによるものだろう。
 短い廊下を歩き、洗面所に入る。驚いたことに、浴槽には湯が張られていた。適温なのだろうか、蒸す寸前のような暖かなバスルームの中で、湯気がほのかに舞い上がっている。
 見ろ、と渉はさらにひとりごちた。俺は昨夜、風呂を沸かそうと考えた記憶すらないのに、起きればこうして風呂が沸いている。さぁどうぞ、お入り下さいお客様と言う訳だな。ふん、まるで物語に出てくる大貴族の暮らしのようだ。執事と小間使いが身の回りのすべてを取り計らい、主人である自分はそれに善処するだけでいい。目覚めた朝に風呂が沸いているか、沸かした方がいいか、いやそもそも沸かすべきは誰なのかを考える必要もなく、一風呂浴びたその後で朝食を作らなければならないのかと思い悩む必要もない。
 渉は寝巻き代わりにした厚手のシャツその他を脱ぐと、鼻歌混じりにバスルームへと入った。
 そうだ、こうしていればいい。実にと言うか、まさに気楽なものだ。目の前の事柄は向こうから準備され、一つずつ丁寧に並べられている。真に俺が考えるべきはそれを手にするか、あるいは別にいいかと放って通り過ぎるか、それだけだ。無視した物の行く末など考える必要はないし、目の前のそれを手にすることで負うリスクについて考える必要もない。もし差し出されたそれが気にいらなければ別の物を要求してもいいのだと、渉は昨日スチュワードから受けた説明を思い出し、身を沈めた浴槽の中で声をあげて笑った。
 最高だ。これこそ、悩みなき素晴らしい世界。まさに理想じゃないか。ここには端から何もない。過去のしがらみも、事後への懸念も、俺にとり守らなければならない関係を有する存在は、何一つ。あらゆる意味で俺はイレギュラーな存在なのだろうし、当の俺自身もそう思っている。結果、それは俺がこの船上でどう振る舞おうと誰にも関係ないということで、それは究極的には自分自身に対してのそれだろう。
 そう、俺は俺自身に対して、何も気にする必要がない。
 渉はその目茶苦茶な理屈を気に入って、さらなる低い笑いを漏らした。他の誰が見たらどれだけ変に思うかもしれないが、それこそそんな憂いすら今の俺には関係ないとまた笑う。今このバスタブの中の俺を誰かが覗いていたとしても、そいつは俺にとり何の関係もない(過去も未来もそうであり続ける)相手だ。こんな極上の豪華客船、一介の大学生である俺にとり二度と関係できるはずもないし、関係したくもない。ならばこれから一週間、ここで何をどうしようとも俺の勝手、気のまま意のままじゃないか。俺にはその権限があるのだし、そうしてもいい理由がある。そして何よりも、そうしようと考えるに至る自分自身がいる。
 心地好い乳白色の湯船に四肢を投げ出して、渉は心身の自由をたっぷりと満喫した。だがそこでふと、西之園萌絵のことを思い出す。
 西之園さん、か。渉は小さく首を振って瞳を閉じた。湯面にかすかなざわめきが走り、そしてゆっくりと消えていく。渉の中の、別の思いに遮られるように。
 そうだ、どうしてそんな風に考える必要がある?俺は体よく利用されたんだ。彼女は自分の……そう、欲求でいいだろうか、その欲求を満たす……いや、満たそうとする試みのために、この俺を利用した。俺はまんまとそれに引っ掛かり……見ろ、気付いた時には既に手遅れだ。なるほど、流石と言うか、完璧な罠だったよと渉は目蓋に浮かんだ短髪の美人に言い放ち、そして目を開けた。
 そこに、女神像のような白い彫刻が置かれている。大きさは40センチ程だった。大理石だろうか。彼女はたおやかな裸身を晒したまま、虚空を見つめている。無表情なその顔は、どこか物悲しそうに見えた。
 渉は視線を外し、そして大きく首を振った。関係ない、何も。だからこそ。いや、ならばこそ、だ。彼女がそうしたように、こっちも好きにするまでだ。渉は咎めるような感覚を振り払うようにして、自分に言い聞かせた。
 そうだ。西之園さんがいない以上、俺がここでどうしようと彼女にはそれこそ関係などないはずだ。例え関係しようと、『あの』彼女ならばそれを体よく処理することなど朝飯前だろう。恐らく……いや、断言してもいいだろうが、彼女は一人になった俺がここで何をするか、はめられたことに気付いた後にどう思うか、すべて事前に計算、推測して俺を送り出したに違いない。いや、そもそもだからこそ、彼女は他ならぬこの俺に白羽の矢を立てたのだろう。俺は彼女に選ばれた……いや、狙われたのだ。そう、何が友達だ。
 自分の中に沸き立つ感情が怒りなのか苛つきなのか、それともまったく趣の異なる別の何かなのか、渉には判別できなかった。硬い表情のまま立ち上がり、湯船を出る。
 そうだ、関係ない。悩むのはもうたくさんだ。これ以上、他人の用意した舞台につきあっていられるか。俺の配役はピエロで決まりだろうが、台本までは貰っていない。ならば、ここから先は俺のやりたいようにやってやる。どのみち引き返すことはできないのだから、現状に甘んずる以外、俺には方法がない。だとすれば、その『甘んずる』範疇でどうしようが、それこそ俺の勝手なはずだ。
 真新しいバスローブをまとって浴室から出ると、渉は広間に入った。驚くことに……いや、驚くには至らないのだろうが、昨夜閉めたはずのブラインドが開き、窓の外には緑に包まれた庭と、輝く青い空が見えている。渉はその空の青さに思わず窓際まで歩き、そして、遥かに望む光景の壮観さに心を奪われた。
 蒼茫たる天地。一面のブルー。彼方の眼下、大海原がそこにあった。彼方の水平線にまで続く、深い濃緑の波に彩られた青い海のみなもは、言葉では決して伝えきれない荘厳なイメージを以って、見る者に何かを訴えかけてくる。そして顔を上げれば、そこには白と青が渾然一体となって織り成す果てしない大空。青と青、双方に雲や島など何一つ見えない純然たる一色の光景は、まさに天地のどちらが自らの置かれる所在なのだろうと判断つきかねる、夢幻の鏡像のようだった。
 渉は息を吐いた。何も考えられない。ただスイッチを入れ、彼は窓を開けた。軽いモーターの音と共に開くそれが、わずかながらうっとおしい。半ばまで開きかけたところで構わず外に出る。朝の風は少し冷たいが、それでもこの光景を目にした渉の感慨には遠く及ばなかった。
 船室の庭、その端までゆっくりと歩いていく。プールの横(こちらにも、いつのまにか水が張られていた)を通り、緑の柵までたどりつくと、渉はそこで今一度すべてを一望にした。
 青。広大な蒼空と大海原。どこまでも、世界は青い。その空と海の境を、白い船が進んでいく。
 これは夢だ、と渉は思った。俺は一介の大学生で、卒論を目前にして切羽詰まっていたはずではないか。その凡俗な学生の俺がどうして、こんな場所でこんな絶景を目にして感動しているのか。
 だが渉のそんな思いも、目の前の現実として飛び込んでくる景観の印象には無意味だった。それからしばらく、渉はただじっとそこで黙し、青い天地を眺めていた。先程までの歪みを秘めた感情はどこへやら、中途でそんな自分自身に気付き、まったく単純なものだと苦笑する。だがやはり、この絶景を前にしてはそうなるのも無理はないかと渉は納得した。いや、納得せざるを得ない。それほどまでに、このブルーは素晴らしいのだから。
 そう、現実。体感し、目撃するこれら現実の前には、個人の思考などたいした意味はないのかもしれない。人に感情がある以上、論理的な思考でどう充足していようとも、いわば『知覚の仲介役』である個々の感情の力には遠く及ばないような気がする。渉はそう思い、そして心中で笑った。そうだ、現に今、俺はむしゃくしゃしていた気持ちのすべてをこの朝の景観に拭われた。あっけないものだと自分でも思うが、それでもそこに不快感はない。それはどうしてかと渉は思い、それはこの光景が自分を癒すためのそれではなく、ただそこにあるからなのだと気付く。
 なるほど。確かにこれが最初から俺のために用意されている……そう、先程の風呂のような偽善に満ちた場景ならば、俺はおそらく感動どころか、腹を立てただろう。だが、この青一色に染まった情景はそうではない。言うなればこれは、俺が今まで経て来た無数の選択肢が連なった道程の中で、今日この時、遭遇することになった光景なのだ。俺以外の者には、俺がここでこれを目にすることは取るに足らぬ、ほんの偶然の如きめぐりあわせだったのかもしれない。だが俺には、俺だけには、決してそうではない。つまり、これが選択の果ての必然、俺が生きて来た結果なのだ。そして、そのことを俺自身がどこかで理解しているからこそ、この光景を見て感動できるのだろう。ここに至った、この光景に相対した自分自身に、俺は賞賛を贈りたいのかもしれない。
 渉はそこで、思わず失笑して首を振った。まったくもって、馬鹿なことを考えている。ナルシズムではないが、感動することにそんな理由が必要なのか。いや、目の前のブルーがあまりにも美しいために、そういう定義付けを欲したのかもしれない。矮小な自身の思考と、この人外の絶景との途方もないギャップの大きさに、俺自身が精神的な防衛……保身としての理論構築を行ったのだろうか。
 そこまで考えて、また渉は笑った。今度こそ、本当に軽やかな声をあげて。
 要するに、だ。渉は結論付けた。目の前の現実とは、それほど強力なのだ。五感で知覚すること、実際に体験することは、何ものにも勝る。つまりは、そういうことだろう。
 だがそこで、渉はふと気付いた。どこからか注がれている、何者かの視線に。
 渉が視線を下げた先に、一階層下となるデッキのキャビンがあった。おそらくはこちらと同様に(及ばないとは思うが)上等な客室があると思われるそのベランダに、こちらに視線を放つ相手がいる。
 黒いサングラス。特徴ある縁取りのそれ越しにこちらを見上げる相手を見返して、渉はそれが女性だと気付いた。くすみのある栗色のロングヘア、白いシャツ・ブラウスに、下はホットパンツだろうか。カジュアルな服装の、まぎれもない女性だった。プロポーションは抜群にいい。年齢は二十歳前後というところだろうか。サングラスに隠れて顔の輪郭しかわからないが、もしかしなくとも、間違いなく美人の部類に入りそうではある。
 とにかく渉は戸惑い、そして恥ずかしくなった。一体、いつから彼女に見られていたのだろう。いや、よく考えればこのデッキはこの船の天頂部に程近く、そこから周囲を眺めていれば、下のどこから見上げても俺の姿は一目瞭然ではないか。そんな場所で、俺は晒し者になっていることにも気付かず訳のわからない思考で悦に入っていたのか。渉は自分の軽率さに呆れ、だがそれでも傍目から見て異常な……そう、何かやましいことをしていたわけではないのだ、と自分に言い聞かせた。そう、何も気にせず大胆に振る舞おうと誓ったばかりではないか。確か、そうだったと思うが。
 とにかく渉は……自分ではついぞそんなことをする性格だと思ったことはなかったが……眼下のサングラスの女性に会釈し、笑いかけた。するとどうだろう、彼女も会釈を返してくる。その余りに自然な応対に渉は戸惑い、そして思わず片手をあげて合図めいた仕草を見せた。すると当然の如く、サングラスの彼女も手を上げてみせる。しかも、持ち上がった彼女の細い指先……白い手袋を填めたそれが、ひらひらと動いた。オークリーか何かだろうか、縁の目立つサングラスのために表情は今一つわからなかったが、口許には楽しげな笑みが浮かび続けている。その動きはまさに整っていてそつがなく、まるで外国映画のようだ。渉のどこかが急に熱くなった。
 だがそこでかすかに(しかしはっきりとした)冷たい風が吹き、渉は身震いして……そして、自分の格好に気付いた。途端に今までのすべてを否定したいような感情の逆流が押し寄せ、渉はその場を去り、振り返ることなく船室内へと退散した。
 広間に入り、自動開閉のオートウインドーが閉じると、渉は大きく息を吐いた。なんという馬鹿な奴だと、自分を嘲る。一度や二度のそれでは足りなく、渉は徹底的に自分をこきおろした。昨日は出航に際しての説明と訓練を無視した挙げ句に部屋のカードキーまで紛失し、今日は起き抜け直後に裸同然で痴態を晒す。このままでは明日明後日にはどんなことをしでかすのだろうと渉は思い、心底ぞっとした。
 結局、自分にこんな生活は似合わないらしい。
 渉は着替えを取りに寝室に戻った。そこには様々な衣装……そう、『衣服』より『衣装』と呼ぶのがふさわしいであろうそれが多数用意されていたが、渉は自分がハードキャリーで持ってきた普段通りの『衣服』を身につけた。そう、これでいい。シャツにジーンズという格好はこの船ではありふれていないかもしれないが、俺にとってはありふれた服だ。気にしなければいい。そう、確かそう決めたではないか。気にする何者もここにはいないのだから、自由に振る舞えばいい、と。自分を無理に変える必要はない。マイペース、というありきたりな形容とはどこか違う気がするが、つまるところ普段通り、俺が思うままにしていればいいのだろう。無理に羽目を外そうとする必要はないし、羽目を外したくなったら外せばいい(そう、恥ずかしくない程度にならば、だ)。それがつまり、俺にとっての『自分勝手にする』という誓いの定義だ。
 渉はそう納得して、今度こそ自分の思考の帰結に満足した。それは小さな満足だったが、今の渉にとってはそれで十分だった。では、次は体を満足させるために朝食を食べに行くべきだろう。渉はそう思い、そして外に出ようとして……
 廊下へのドアの前に、何かが落ちているのを見つけた。
 四角く白い、それ。何だろう、と思い、直感的に手紙だろう、と判断する。だがそこで、渉は怪訝に眉をひそめた。ここで、手紙?
 屈んでそれを取り上げる。確かに手紙……いや、正確には封書だ。白い封筒。だがそこには、宛名も差し出し人の記載もなかった。勿論、郵便番号や切手もである。ただ真っ白な封筒に、封だけがされている。それでも、しっかり糊付けはしてあるようだった。封を示す手書きの赤い十字すらある。
 何だろうか。渉は再度そう思い、ほとんどふくらみのないその封書を見つめて、そして歩き出した。広間を横切り窓辺に行くと、おもむろに振り注ぐ光に手にした封書をかざす。薄紙が陽光に透け、何かが中に収められていることがわかった。やはりというか、手紙が入っているらしい。
 海の上で手紙、か。渉はそう思い、軽く息を吐くと、意を決してそれを開け始めた。ペーパーナイフは持って来ていなかったので、指先で封筒の一辺を細くちぎる。しばらくの後、中から奇麗に折り畳まれた白い便せんが取り出された。広げようとすると、それが二枚あることがわかる。渉は少なからずの緊張感と共にその一枚目を見て……そして、今度は力一杯に吐息を散らした。 

> 萌絵でーす。
>
> 昨日は本当にごめんなさい。
> (今は夜ですけど、桐生さんがこれを読むのは朝だと予測!)
>
> 私の計画は順調(なのかな?)に進行中です。
> 期待していて下さいね。桐生さんの御厚意は、決して無駄にはしません!
> ううん、しないつもりなんですけど。でも、やっぱり先生はあんな調子で。
> さっきだって、私が精一杯の格好と態度(これ、大事です!)で誘ったのに……
> くやしいから、ボーイフレンドにメールを書く!って宣言して、部屋にこもっちゃいました。
> 先生、妬いてくれるかな?くれたら嬉しいけど。桐生さんは、どう思いますか?
>
> あ、マシンはPowerBookのGxです。昨日、新しく買ったの。
> 画面が横長で、可愛い!(色は相変わらずだけど)
>
> それで、クルーズの方はどうですか?もう、とっくに海の上ですよね?
> 新しい船、私も乗りたかった。(本心ですよ?先生と一緒ならもっといいですけど……)
> 今回が**航海なんですよね。さっき、ホテルの部屋のテレビをつけたら、ニュースでやってました。(桐生さんみたいな男の人、発見!) 
> 七万トンのスクリューを動かすディーゼル・エンジンの音とか、聴いてみたい!
> 桐生さんが楽しんでくれないと、私もすまない気持ちになっちゃうので……
> どうか、思う存分楽しんで下さいね。
>
> あと、もう瑞樹と会いました?(まだかな?)
> あの子のことだから、きゃあきゃあ言って抱きついてきたり(うーん、それはないかな?)、
> 嫌がる桐生さんを強引にダンスに誘ったりするかもしれないけど(あ、私も誘ったことないですね。踊れます?)。
> 悪気はない(と、思う)ので、桐生さんも遊ばれちゃって下さいね。
>
> また明日、メールしまーす。
> よかったら、感想とか文句とか(あははっ)、返信下さいね。
> (あ、アドレスは大学のじゃなくて、このメアドでお願いします)
 
 


[286]長編連載『M:西海航路 第十三章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時07分 Mail

 
 
 二枚組みのメールを読み終えると、渉は再び……いや、さらに深く、ため息をついた。
 西之園萌絵からメールを受け取るのは、無論初めてではない。同じゼミ(と言っても、萌絵は正式にはまだ犀川研のメンバーではないのだが)、そして同じサークルに属している二人は、もう何度もメールのやりとりをしている。萌絵のメールは普段の彼女の語り口よりもさらにざっくばらんで、下手をするととんでもない単語まで加わっていることがあった(そう、西之園家の令嬢にとり口にするのもはばかられる、というような)。口語調のそれを渉は不快には思わなかったが、少し危ない、と思う時はある。
 電子メールは会話ではなく、必然的に記録として残ってしまうものだ。勿論それは筆記して投函する物理的な手紙のそれと同じだか、違うのは電子的な中継を幾つも介していることであり、結果としてその中継点(その最たるものは、自分と相手のメールサーバ)に記録(や中身そのもの)が残留してしまう。そして電子的なものであればあるほど、誰がどこでそのメールを見たとしても、それを判断し調査することは難しい。つまるところ模造という概念が極めて希薄な電子の世界においては、自分の出したメールが相手に届いたとして、相手以外の誰か……関係のない第三者が何処かで盗み見ていようとも(果ては複写、あるいは改ざんすら行おうとも)、容易には察知できないのである。
 ゆえに萌絵のような開けっ広げの書き方は、転じてそれを悪用しようと考える受け取り人(あるいはそのメールを偶然にでも目にした第三者)にとって格好の道具、材料になってしまうのではないか。渉は時折そんな風に、不安にかられることがある。それはおそらくは自分と違う(ことを認めざるを得ない)西之園家、という有力な資産家の令嬢である萌絵の立場(と今後)を案じてのことであり、そうでなければこれほど普及した電子メールという行為自体に不安を抱くことなど考えられないのだが、と渉は肩をすくめた。
 まぁそれでも、と渉は苦笑する。西之園萌絵の素行を思えば、メールの一通や二通など取るに足らないものかもしれない。萌絵は決して馬鹿ではない(むしろその逆であろう)。メールを出すとして、受け取る人間がどうであるか(どう思うか、ではなく)、その人となりを考えていないはずはないし、ならば万が一にもそれを悪用される可能性などないと思っているのかもしれない(だとすればいるかどうかもわからない第三者など、それこそ杞憂の一言であろう)。つまり、他ならぬこの俺はそれほど彼女に信用されているのか、と渉は思い、いつぞやの夜の如くにそれは(彼女の言葉を借りれば)信頼、なのかもしれないと思った。まあ、どちらにしろ関係ないことだろうが。好ましい、かどうかは別として……渉は軽く息を吐き、そう結論付けた。
 とにかく、である。ふむ、どうするべきか。渉は整った写植により印字された二枚のメールを一べつし、そしてコーナーのバーチェアに腰掛けた。萌絵のメッセージを読み返しながら、この返事はどうすればいいのかと考える。勿論、メールの返事をするしないではない。
 そんな渉の目に、ふっとある一行が捉えられた。二枚の便せんの一番下に、小さくある記述。英字で組まれたそれだった。

> mailto:R001@MM.supremenet.com from:Moe@xxxxxxx.or.ip 200x-1128-0127-01

 なるほど、と思う。最初にあるのがこのメールの送信先、つまりはこの船のアドレスだろう。そして次が萌絵の今のメールアドレス。名前があからさまなのですぐにわかる。そして最後が、おそらくはこのメールが送信された(もしくは受信した)時刻であろう。つまり200xは今年の、1128は十一月の二十八日(つまり今日だ)、そして0127は時刻で、午前一時二十七分。最後の01は何かと思ったが、二枚目の紙には02と書いてあるのに気付き、渉はそれが印刷時のページ番号だと理解した。
 昨夜……いや、今日の午前一時半か。確かに西之園さんは夜中にこれを書いた訳だ。そして、量った通りに俺は翌朝にこれを読んだ、と。ならばこの最初にあるmailto:の後が、この船の……今の俺のメールアドレスになるのか、と渉は思い、その数字と見慣れない表記の入り混じったメールアドレスを眺めて……
 そして、不意にその表情を強ばらせた。
 MM。
 そう、MMである。アットマークと、聞き慣れないsupremenetという名称の間にある、小さな二文字の英字。
 MM。
 馬鹿な、と渉は反射的に思った。俺は、何を考えている。関係がある訳がない。そう、当り前だ。渉は首を振った。そして、それを見やる。
 MM。
 だが、やはりそれはそこにあった。消えることのない、二つの同じ英字。
 じっとそれを見て、そして渉はまた……さらに強く、首を振った。違う。M.M.ではない。これは、ただのMM。関係などない。偶然だ。でなければ何だと言うのだ。そう、一体何だと。
 だが。渉は吸い寄せられるように、またそれを見つめた。
 mailto:R001@MM.supremenet.com。
 mailtoという書式はありふれている。メール先を示す書式だ。肝心なのはメールアドレスの方であろう。
 R001というのは簡単に推察できる。つまり、これは俺の……いや、この船室の部屋番号だ。Rと言うのはRoom、つまりは部屋、要するに船室(もしくは客室)を示すコードだろう。R、つまり客室番号001。昨日のゲストカード騒ぎで、渉は嫌と言うほど自らのそれを認識していた。そう、この部屋が001で、向かいのあのドイツ人夫婦(だったかどうかは定かではないが)の部屋が、000。つまりは、この船のトップ・キャビンとしてのロイヤル・スイートルームの二部屋。
 そして……渉はあえて要点は飛ばし、次に目を向けた。supremenet、というドメインはおそらくはどこかの大手ホスト、もしくはネットワークの名前であろう。こういった移動する場所のメールがどう扱われているのか渉はよく知らなかったが、supremeという御大層な(そう、思える)名称で考えれば、それなりに大きな……そう、大手のそれではないだろうか。そして、.comは言うに及ばずである。
 ならば、と渉は再びそれを見つめた。
 ならば、どうしてMMなのか。これに、どういう意味があるのか。
 確かめなければならない。そう、確かめられるはずである。きっとそれは些細なことで、聞けば馬鹿にされ、俺も笑い出すようなことかもしれない。そう、この期に及んでまだそんなことを考えている、自分の馬鹿さ加減に。
 だが。渉は思った。それならば、それでいい。それならばいいのだ。例えどうなろうと、笑われようと、確かめずにはいられない。そう、このままでおけるものか。もう、悩むのはたくさんだ。
 渉は立ち上がった。広間を見渡して、廊下に出るドアを見定め……再びそこへ歩き出そうとして、窓際にある端末に気が付く。
 昨日、てこずらされた端末。渉は気付いた。そう、今ならこれが俺の自由になる。ゲストカードもあるし、第一これは部屋の中にあるものだ。おそらく使用にカードすらいらないだろう。ならば昨日の復讐ではないが、存分に活用してやるのが筋ではないか。
 渉は窓辺の端末の前に歩き、じっとそれを見た。操作画面と表示画面。電話として使った記憶のあるレシーバー。非常ボタンも勿論ある。多少のデザインの違いはあれ、昨日使った(そして船内の至るところに配置された)ものと同様のネットワーク端末だった。渉を絶句させたスチュワード・コールもある。だが一つだけ違いがある。驚くべきことに、その表示は日本語だった。
 いや、正確には日本語の翻訳が添えられている、のか。Emergency Switch(非常警報スイッチ)のように。なるほど、これは日本人の客である俺に合わせているのか、たいしたものだと渉は思い、ならばと端末に触れ……ゲストカードを示すサインが出た。見慣れた大文字。
 渉は静かにそれを取り出し、示した。そう、むきになる必要はない。たちまち了承の文字が浮かび、端末がにぎやかに作動する。渉は迷わず情報検索をかけた。カテゴリー選択とキーワード入力から、キーワードを選ぶ。直接のインプットを選択し、そしてキー入力。MM。とりあえずただそれだけ入れて、渉はエンターのキー(の形を表示しているスクエア)を押した。
 一秒もかからずに、膨大な量の検索結果が表示される。三桁に昇る該当項目数を見て、渉は口の端を少し歪めた。半ば予想していたことだが、これは条件を絞り込まなければ駄目かなと思い、とりあえず画面にある検索結果を一べつして……検索結果の最上位に位置している、その一文に気付いた。

> MMの検索結果1
> 『M』istress of the 『M』oon:
> 本船の名称(船名)。日本語では『月の貴婦人』号。他国語を含めた詳細はこちらをタッチして下さい。

 『月の貴婦人』号。渉はじっとそれを見つめた。そして、何も考えることなく語尾に添えられたアンダーラインに触れる。瞬間、画面が切り替わり、様々な写真や映像が流れるマルチウインドー画面が表示された。

> Mistress of the Moon,月の貴婦人号
> 船籍:アメリカ 総トン数:7万トン 全長:308メートル 巾:35メートル 高さ:63メートル
> 乗組員数:1001名 最大収容人員:1764名 客室数:924室 デッキ数:13層(主) エレベータ数…… 

 そのデータのほとんどすべてに、渉は見覚え……いや、聞き覚えがあった。昨夜、芹澤と名乗る船員から聞かされた説明。ただ、一つだけ知らないことがあった。この船の正式な名前、つまりは英語のそれである。
 なるほど。この船の名前は、そういう名前なのか。月の貴婦人号、つまりは英語でMistress of the Moon。その頭文字を取って、MM。
 実にわかりやすい。つまり、そういうことだ。渉は、ざわめくような感覚を消そうとしてゆっくりと息を吐いた。
 確かに、だ。確かにそれならば、このメールアドレスの意味も理解できる。難しいことじゃない。そう、今まで理解していなかった俺が悪いのだ。見ろ、と渉は目の前のウインドーの一つを見つめた。大きく映されているこの船の映像。その船腹に、はっきりと書かれている。
 『MISTRESS OF THE MOON』、ミストレス・オブ・ザ・ムーン……月の夫人、女主人、細君……つまりは貴婦人、か。
 なるほど、ならばそれでいい。渉はそう納得した。何かが細波のように寄せてくるが、無視する。そう、関係がないことがわかった。関係はないのだ。関係ない。ならばそれでいい。今必要なのは、と渉は思い、そしてそれを思い出す。いつのまにか足下に落ちている、印刷された電子メール。
 皮肉だろうか。渉はそれを取り上げながら思った。電子メールをわざわざ印刷して、個人に届けるとは。何かの様式美だろうか。ノスタルジーか。確かにこうすれば直に手にすることとなり、これは手紙なのだと実感できる。だがネットワーク端末がこれだけあるならば、それこそどこでだろうとメールは読めるではないか。むしろ、こうすることによる弊害の方が大きいのではないか。そこまで考えて、渉は犀川創平助教授のことを思った。そう、先生ならばきっと嘆くだろう。高速道路でマラソン大会をするようなものだ、などと言うかもしれない。
 渉は苦笑した。俺は何を考えている。また、おかしなことにこだわり、気にし続けているのか。もういい、忘れよう。朝っぱらから進んで不愉快になることはない。頭の中の幻想より、目の前の現実を相手にした方がいい。窓の外を見ろ、あの美しい蒼空を。
 そう、今日は航海二日目だ。七泊八日の旅路は、まだ始まったばかりなのだ。
 渉は再び端末に向かった。メールの送受信に関する項目を調べ、その方法を選択する。比較的に、というか至極容易にメールの送受信が可能なことがわかった。サーバーはこの船のものがあり、航海中は自由に使用できるらしい。他の客室にメールを送ることも、特定のラウンジやデッキにメールを送ることも可能だった(船長のアドレスすら公開されている)。なるほど、確かに催し物の予約などはこれでできれば楽だろう、と渉はこの船の大きさを思った。個人のアドレスが個々の部屋に属している以上、間違いも起こらない訳だ。
 渉はタッチパネルを操作し、外部へのメール送信に関する項目を選び出した。再びゲストカードを示し、少しばかり時間がかかってそれが可能になる。画面の中のキーを叩き、渉は西之園萌絵へのメールを打ち始めた。

> 桐生です
> メールをありがとう
> 御明察の通り 朝にメールを受け取ったよ
> 今はもう日本から遠い海の上だね

 渉は文面にささやかな皮肉を感じ取って苦笑した。萌絵が気付かないはずはないが、だがしかしそれもいいだろうと思い、入力を続ける。  

> そっちも頑張ってみなよ
> 先生のあの調子は 今に始まったことじゃない
> でもボーイフレンドの俺としては
> 妬いてくれない方が いいのかもしれないけどね

 渉はメールに何かしらの含みをこめようとしている自分に気付き、再び小さく笑った。

> この船のこと ニュースで放送していたのは本当?驚いたよ
> どんな内容だった?ワイドショー?俺がうつっていたのは冗談だと思うけど
> この船はとにかくすごいよ
> すべてのシステムが近未来的だ

 近未来的、という言い回しはどうだろうと思ったが、渉は続けた。

> あと クジョウインミズキさんについてだけど
> ニシノソノさんが知ってることを できるだけ教えてくれないかな
> 昨日はじめて会ったけど
> 彼女 とてつもなくきれいな人だね

 渉はタイプと共に思い出していた。昨夜の……そう、九条院瑞樹との出会いを。
 何だろうか。不思議な、そして強烈な何かがある。それが自分の中でどう処理されているのか、未だに処理されていないのか明確に判別できなかったが、目を閉じると、彼女の姿が浮かんできた。
 そう、九条院瑞樹だ。長く黒い髪、透き通るような白い肌の、美少女……どうして、こんなおぼろげになるまで忘れていたのだろう。
 しばらく渉は黙していたが、やがて、画面のキーを叩き始めた。

> でも彼女 ニシノソノさんが言うほど明るい人でもなかったよ
> おしとやかで 言葉づかいもていねいだった
> なんだろう?名前のイメージが そのままキャラクターになってる感じかな?
> とにかく情報 求む!
> ボロを出すわけにもいかないからさ

 そこまで打って、渉は他に萌絵に伝えておくことはないかと考えた。船の高度なセキュリティ、そしてささやかな(だが決して忘れられない)トラブルと、海の男をそのまま具現化したような船長。緊急事態の諸事項を渉(と瑞樹)に教えてくれた、芹澤航海士(彼の職種が航海士、だということは後で知ったことである)。そして……そう、朝起きて見た、美しいブルー。それらすべてが強烈に記憶に残っていたが、一つ一つ萌絵に伝えるべきなのかと思い、そこまでする必要はないと渉は首を振った。無闇に長くなるだろだろうし、報告を義務付けられている訳ではない。それこそ、戻ってからの土産話にすればいいだけだ。

> まあ 今のところは文句なしかな?
> 一人だから船室が広すぎて かえって寂しいよ
> 西之園さんがいてくれたら 退屈しなかったかもしれないけどね
> また こっちからもメールする
> そっちも計画とやら がんばって
>
> 桐生渉

 これでいいか、と渉は顔を上げた。もう一度最初から読み返して、幾つかの漢字と文体を校正した後、メール送信をクリックする。確認、のサイン。費用などの詳細が出るが、とりあえず無視する。気にしても仕方ない。渉はそう決めていた。
 とりあえずメールのやり取りが簡単にできるのは助かる、と渉は思った。萌絵がどんな状況にいるのかは今一つわからないが、夜には今出したメールを読むだろう。こうして彼女と情報交換ができるのなら、何かとんでもないミスをする前に確認、それを回避できる。とんでもないミスとはどんなものだろうと渉は思ったが、首を振ってそれを考えることをやめた。とにかく、今はこれでいい。
 小さな達成感と共に、渉ははっきりとした空腹を感じた。そういえば朝食を食べに行こうとしていたのだと思い出し、昨日はいつ食事をしただろうと考える。今一つ覚えがなかった。もしかすれば、食べていなかったのだろうか。気持ちに余裕がなかったのか、それとも情報量の多さに、空腹を感じる暇もなかったのだろうか。レポートや面白いミステリィに集中してそうなることが渉にはよくあった。自分が大食だと思ったこともない(少食かもしれないとは思うことは、時々ある)。
 だが、今は腹が減った。渉は素直にそれを認め、そして立ち上がった。幸いにも、それを満たすには不自由しない場所にいる。いや、いるはずだ。
 渉は歩き出した。今度こそ、外への扉に向かって。
 外、か。渉は思わず含み笑いを漏らした。確かにここは、まるで俺の家だ。ないものはないリビングにバー、寝室にバスルーム、ネットワーク端末。向こうのドアの先には書斎まである。なんという居心地の良さだろうと渉は再確認し、そしてまた声を出さずに笑った。実際にそう感じられるように作られているのだろうし、わずか一日で俺にそう思わせている以上、その設計者の目論見は見事に成功している。たいしたものだ、と渉は思い、そして今はそれをどうこう考えず、ただゆったりと気分を満悦することにした。
 ドアが開き、そして閉まる。持ち物はゲストカードだけだった。
 
 
 


[287]長編連載『M:西海航路 第十四章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時08分 Mail

 
 
   第十四章 Manner
 
   「私が悪かったの?」

  
 指定のグリルは朝からにぎわっていた。
 とはいえ、寿司詰めなどという形容はまったくもって似合わない。ただ、窓が解放された広い食堂内に点在する大小様々なテーブルのそこかしこに人が着席しており、誰もいない(空いている)それが見当たらなかっただけである。
 出遅れた訳だ、誰かと相席を頼むしかないな、と桐生渉はセルフサービスのモーニングを取りながら思った。セルフサービス、とはいえ当然の如くそこには給仕役のスチュワードがおり、渉に色々と朝食のメニューを勧めてくる。そのどれもが、渉にとって初めて目にするような細工を凝らしたおいしそうな料理だった。結果、渉は何度か頷いた挙げ句にトレイの皿を一杯にしてしまい、残りは断る羽目になる。
「さて、と……」朝食がてんこ盛りになったトレイを手にして、広いグリルの客席を見渡した。後は、どのテーブルに向かうかである。
 と、そんな渉の仕草を待っていたかのように、給仕の一人が渉に進み出た。パリッとした正装の、見るからに老練なスチュワードの風体である。見たところ、日本人のようだった。「おはようございます。お客様、席をお探しでしょうか?」
「あ、はい。朝からにぎやかですね。」何か気取ったことを言おうとすれば、こうだ。渉は自分に呆れかけたが、その前で老齢の給仕は頭を下げた。
「おかげさまで、今朝は天候にも恵まれまして。」ふっと、諏訪野老人を思い出す。同じ人種、というと聞こえが悪いかもしれないが、こういった職種の人々を見慣れ始めている自らを渉は認めた。今までは天然記念物のように思っていたが、現実にはそうではないのかもしれない。いや、俺にとっての現実、ではないと言い直すべきか。「ではお客様、窓際の……そうですね、あちらの席などいかがでございましょう。」老人が差し示す先に、かなり大きなテーブルがあった。一組の夫婦、だろうか……それが食事を取っており、他の六つばかりの椅子には誰もいない。
「あ、はい。でも……」渉の返事を待たずして老給仕がそこへと向かう。そして二言三言、そのテーブルの夫婦(見たところ、中年層のようだ)と言葉を交わす。その最中、二人がそれぞれ渉を見た。渉も、トレイを手にしたまま思わず頭を下げる。
「お待たせしました。どうぞ、こちらへ。」老給仕に導かれて、渉は夫婦のテーブルに向かった。当然の如く、渉のために椅子が引かれる。
「あの……おはようごさいます。」その夫婦もまた日本人であると見定めて、渉は頭を下げた。「ここ、お邪魔してもいいですか?」
「どうぞどうぞ、構いませんよ。」中年の夫婦の片方……夫であろう人物がにこやかに言った。表情も豊かで、声も高めである。「朝から家内しか話相手がおらず、少し退屈していたところです。歓迎しますよ。」壮年、という表現が似合いそうな男性だった。その物言いに渉は照れ、もう一度会釈するとトレイを置いて席についた。
「まったく、この人はいつもこんな風で困りますよ。」不意に、夫人の方が口を聞く。渉は驚いてそちらを見た。「おはようございます。お若い方は、どちらの御子息ですの?」早口だった。サイズの小さな丸眼鏡をかけた先に、もっと小さな目が渉と……何やら、彼の装束を見据えている。
「えっ、はい。俺……」そこで渉は言葉をにごらせた。「……いえ、俺は一人です。あまりに豪勢なもので、驚くばかりです。」どうしてか、背が少しだけ反る。
「あらまあ。」夫人はそう言って、それきり言葉を続けなかった。渉は少しばかり不安になる。
「そうでしたか。確かにこの船は、何事も行き届いておりますな。私も、とても満足していますよ。」夫がフォローするように渉に笑いかける。「うむ、だが一つ、差し支えなければ教えていただけますかな。私は御原。御原健司です。」
 何を教えてくれと言うのだろう、と渉は思い、次に自分のその考えに呆れた。「桐生渉です。N大学の四年です。その……はじめまして。」老夫婦の夫……御原健司と名乗った男は、渉を見つめて、そして怪訝な表情になった。渉の不安が一気に増す。
「その子、もしかすると下のデッキの客ではないの?」夫人……そう、御原夫人が突如としてそう言った。「やぁね、場違いだわ。あなた、どうにかして下さいな。」何か、嫌な物でも見るかのように渉を見つめ、そして露骨に目をそらし、続けて大袈裟に手を振る。その一連の動作を目にした渉は、それでも何のことかわからずに戸惑った。
「まあまあ、決めつけてはいけない。えっと……桐生、渉君と言ったかな?」御原の問いに、渉は頷いた。
「はい。あの……」
「いや。ここは確か、特等船客のみが入れるレストランだったはずなのでね。」それで言葉は足りるかな?というように御原は微笑した。いや……微苦笑、であろうか。それを見て、渉の心に何かが走る。今までまったく気付かなかった……いや、顕にされなかった、この人物が秘めている別の何かを感じる。そう、実に明快であるが、こちらにとり決して愉快ではない、そんな雰囲気。
「やぁね。カードがあるから大丈夫だと聞いていたのに。あなた、どうにかして下さいな。」早口で婦人がそう言った。
「そんなあからさまに言うものではないよ。失礼になるだろう。桐生、君?」御原がゆっくりとした口調で、そう言う。何か含むものがあるのだろう。その理由はともかく、意図のなんたるかは渉にもすぐにわかった。わからないはずがない。
 つまり、お前は場違いだ、そうででないのならここにいる如何を説明し、さもなくば即刻ここから出ていけ、そう言っているのだ。
「ええ……すみませんでした。失礼します。」渉はそれだけ言うと、静かに立ち上がった。彼は決して短気ではない。「どうも、朝からお騒がせしました。」それ以上は言えなかった。気のきいた皮肉でも置き土産にできれば良かったのかもしれないが、流石にそれを思いつけるほど冷静でもない。今口を開けば、別の何かを言ってしまいそうだ。そう、それでは……いけない。
 トレイを置いたまま席を離れた渉は、その足で廊下へ……グリルの出入口の一つに向かった。今の様子を見ていたのか、若い給仕が慌てたように近寄ってくるが、渉は首を振ってそれをあしらった。「いや、何でもありません。ちょっと、部屋に用事を思い出して。」給仕が黙し、一礼する。その態度はむしろありがたい、と渉は冷めた中で思った。
 通路に出る。乗務員や船客が行き来する中、エレベータ・ホールの方向を見定めようとして……渉は丁度そちらから歩いて来た、一人の女性と出くわした。
「あら、貴方は……」渉の目がかすかに見開かれる。「……おはようございます。」いや、かすかではなかったかもしれない。「とてもいいお天気ですね。昨夜は、よろしく眠れましたか?」流暢で歯切れのいい言葉共に、彼女の肩にかかる長い黒髪が滑り落ちた。
 頭を下げた女性……九条院瑞樹に、渉は慌てて頭を下げ返した。「あ、あぁ、うん。おはよう。その、瑞樹さん……あ、ごめん。悪いね。く、九条院さんも、よく眠れた?」自分は取り乱している、と渉は内心で自認する。しかも、おそらく傍目から恥ずかしい程に。だが、それを確認する手段はなかった。
 一方、黒髪の美少女……九条院瑞樹は渉のしどろもどろな態度に気付いた素振りもなく、嬉しそうに口許を緩め、そしてもう一度頭を下げた。「はい。とても素敵な船ですね。まるで夢の中にいるようで……私、普段はもっと朝は早いのですけど、今朝はひどく寝坊してしまいました。でも、先生もいないから気が付かなくて。うふふ、駄目ですよね。」軽く握った手の甲で口許を隠し、可愛らしい仕草で笑う。心底、楽しそうだった。一体何が楽しいのだろう。渉は下卑た思考ではなく、単純に興味を引かれてそう思った。それほど、彼女の笑いは魅力的だ。
「そ、そうなんだ。俺も、普段と全然違うベッドだったから……もう、朝起きたら寝相がひどかったよ。シーツなんて目茶苦茶で。ベッドが大きかったから、落ちなかったけどね。」どうしてか、自然にこんな言葉が出てくる。
「まあ。」九条院瑞樹はほっそりとした切れ長の目をさらに細めて、柔らかくほほえんだ。「そんなことをおっしゃって。萌絵さんに、嫌われないようにしないといけませんよ。うふふ……」自分の発言がおかしいかのように、少しうつむきかげんに肩を震わせる瑞樹。色白の頬が、かすかに染まっていた。
 渉は少なからず面食らっていた。まじまじと瑞樹を見つめる。瑞樹もそれに気付き、少しだけ首を傾げた。「渉さん、どうかなさいましたか?」
「い、いや。その……西之園さんのこと、知ってたんだ。」渉の頭脳が回転する。昨日の場では……そう、確か、そんな会話はまったく出なかったはずだ。「いや、西之園さんと言うより……俺のことかな?」何だか難しい問題だった。どう言えばいいのだろう。渉は悩んだ。
「あっ、ごめんなさい。私、こんな大きな声で。」瑞樹が頬を染めて謝った。こっちが申し訳なくなりそうな謝り方だった。「私の方こそ、萌絵さんに怒られてしまいますね。」
「えっと……」渉は言葉を探した。だが、何か言えばそれが事態の悪化につながる気がする。「俺は……」
「はい、わかっています。渉さんは、萌絵さんの御学友……そうなのですよね?」九条院瑞樹は大真面目な顔になってそう言った。端正な……そう、端正すぎる面立ちだった。いや、面立ちだけではない。その五体のいずれもがそうだ。頷きながら、渉はそう思った。「でも、萌絵さんの言っていた通りですね。渉さんが、素敵な方で良かった。」渉の心臓が軽く跳ねた。
「に、西之園さんが?」俺を……と続けようとして、渉は自分が演じるはずだった役割を思い出した。そして、瑞樹がほほえむ。また、渉は何も考えられなくなった。
「うふふ。ごめんなさい、それは秘密にしておきます。女同士の内緒話ですもの。桐生さんは、私達の間にいる素敵な殿方。今のところは……それでよろしいでしょう?」悪戯っぽい笑み……なのだろうか。微笑と共に、首をほんの少し傾げる瑞樹。渉の思考が、再び困惑から混乱へと導かれる。
「あ、ああ。そうだね……」完全にしどろもどろだった。西之園萌絵とはまったくタイプが違うが、それでも何か、相手を威圧……いや、圧倒するような何かを感じる。「構わないよ。全然。」お嬢様の気勢、とでも言うのだろうか。近寄り難いそれではないが、何か、相手に余計なことを考えさせないようにする雰囲気のようなもの。
「そういえば渉さんは、もう朝食はお済みですか?」瑞樹に尋ねられて、渉はすっかり忘れていたグリルでの出来事を思い出した。確か激しい感情が沸き上がっていたはずだが、今はもう何も感じていない。それは今朝方、船室のバルコニーで体験した出来事と似ていた。不思議だ、と思う。
「い、いや。まだだけど……」
「なら、御一緒にいかがですか?お話もできますし……」微笑。断ることは不可能だ、と渉は思った。以前どこかで、同じように感じた気がする。
 続け様のデジャブを抱いた渉が同意すると、瑞樹は飛び上がりそうに……いや、その形容はふさわしくないが……なって喜んだ。二人は(渉にとっては取って返すことになるが)グリルに入り、そして給仕達が集まってくる。
「おはようございます、九条院様。今朝のお食事はいかが致しましょうか?」老若の給仕が、四……五名、か。自分の時とは桁違いの歓待ぶりに、渉はやはりというか、彼女がこの航海の主役であるのだと理解した。そう、確かブライダル・クルーズだ。ブライダル……
「わぁ、楽しそうですね!渉さん、これ……好きなものを取ってもいいのかしら?」瑞樹は軽い会釈を給仕達に返すと、すっかり彼らの存在を忘れたかのようにバイキングのコーナーに進み、渉に振り返った。
「えっ?あ、あぁ……そうだと思うよ。」何が『思うよ』だ。渉は瑞樹に歩み寄りながら首を振った。「いや、いいんだよ。好きなものを、好きなだけ取っていいんだ。」給仕達はついて来ない。それがいいことなのか悪いことなのか渉には判別つきかねた。ただ、彼らは訓練されたプロだ、とは思う。だから何なのか、そこまではわからないが。「飲み物も、あっちにたくさんあるよ。コーヒーとか、紅茶とか……食前酒もあったかな?」渉が指差す先のドリンク・バイキング(無論、専門のウェイターがいるものである)を見て、瑞樹が目を輝かせた。
「本当ですか?まぁ、私……悩んでしまいます。渉さん、本当に好きなだけ取っていいのですか?」おやつのおかわりの是非を親に窺おうとするように、瑞樹は少し上目使いに渉を見た。
 渉は肩をすくめて、そして笑った。素直に笑えた、そう思う。「お皿を丸ごと持っていっても、大丈夫だよ。きっと、すぐに追加が運ばれてくるんじゃないかな。バイキング方式だから、いくら頼んでも料金は変わらないしね。」バイキング方式、という言葉を初めて聞いたように、瑞樹が感心する素振りを見せる。渉は少しばかり焦り、そして照れた。同時に、俺は何かいいかげんなことを言っているのかもしれない、と思う。だが、まさか客一人一人がどれだけ食べたか記録している訳ではないだろう。どのみちここにいる客層に、それほど食べる者がいるとも思えないが。渉は中高年の多い……いや、ほとんどがそうであるグリルの客席を見渡した。そういえば、日本人ばかりなのはなぜだろうと思い、日本から出航したのだから当り前だと自答する。「九条院さん、何か好きなものはある?俺が取ろうか?」
「えっ……!あ、はい!渉さん、お願いしてもいいですか?」瑞樹はとても嬉しそうだった。やはりというか、そういった行為に慣れていないのだろう。普段はすべて、執事……否、召使がやってくれるのかもしれない。渉は苦笑……ほほえましい意味のそれを……し、そして頷いた。
「いいよ。何にしようか?」しかしまあ、『そういった行為』か。渉は自分の発想に笑った。なるほど、俺は彼女と自分が別の世界に生きていると、暗黙の内に認めている訳か。「どれがいいかな?これ?」だが、それでも不思議と気分は悪くならなかった。
「あ、えっと……はい。それと……こっちの、これがいいです。あっ、これも……どうしようかな?」嬉々として、たくさんの料理皿の一枚一枚を見比べ、指差し、そして悩み、あるいは渉の意見を求める瑞樹。言われるまま、あるいは頷き、助言をし、渉は給仕に頼み、料理をトレイの取り皿へとよそっていく。かなり時間がかかって、決して多くはないが、バラエティに富んだ朝食のセットができ上がった。
「これでいいかな?」瑞樹が満足そうに頷き、渉はフロアを見渡した。ちょうど今、近くの席で席を立った一組の老夫婦がいる。給仕が素早くその後片付けに取りかかっていた。「あそこの席が空いたみたいだね。九条院さん、あのテーブルでいい?」
「はい。」つつましく同意し、渉と共に歩きかけた瑞樹だが、そこでふと……何かに気付いたように表情を陰らせた。
 そう、陰ったのだ。整った眉がかすかに揺れ、今の今まで朗らかだったその顔が曇り、輝きすら放っていたかのように見えた瞳が色を失った如く色あせて乾く。だがそれはまさに一瞬のことで、それに気付いた渉が驚きの表情を浮かべるよりも早く、瑞樹の表情は普段通りのにこやかなそれに戻っていた。
「九条院さん……?」
 トレイを持った渉の声に、瑞樹は心持ち顔を……いや、その表情を伏せた。「ごめんなさい、渉さん。私、あちらの方に御挨拶をしておきたいのですけれど……少しだけ、待っていて下さいませんか?」
「え、ああ。勿論俺は構わないけど……」誰?と聞きかけて、渉は立ち入った質問をしようとしている自分を戒めた。「じゃ、俺は待ってるから。でも早くした方がいいよ。せっかくのお茶が冷めちゃうからね。」ダージリンのセカンド、確かそうだったろうか。渉が笑ってみせると、瑞樹がほっとしたように口許を綻ばせる。
「はい。それでは、少しだけ失礼します。」律義に頭を下げて、瑞樹はグリルのテーブルを縫うようにして奥へと進んでいった。腰までもありそうな長い髪が揺れ、あくまでもつつましやかに、しかし優雅に歩んでいく美少女の姿は目立つことこの上ない。だが、それを見送る渉の脳裏には、先程垣間見たほんの一瞬の陰り……そう、渉以外は決して気付かなかったであろう、九条院瑞樹が見せた物憂げな表情が焼きついていた。それはまるで燦然と輝く太陽が小さな雲に隠れ、そして顔を出すように短い、だがはっきりとした明滅だった。
 テーブルにトレイを置き、椅子に腰掛けながらも、渉の視線は自然とそんな瑞樹を追い続けていた。だがそこで、ふと気付く。このグリルにいる人々の視線……一様に年を経た人間が多いが……そんな彼彼女らの視線も、ちらほらと瑞樹に注がれていることを。確かに彼女は遠くからでも目立つが、だがしかしこの注目度はどういうことなのだろうと渉は思い、そしてすぐにその理由に思い至った。
 そう、当り前じゃないか。この船は彼女の結婚式を祝う(そして行う)ブライダル・クルーズのために航行しているのだ。そして彼女の一族、九条院家は(それこそ西之園家に匹敵する)名門という噂だし、結果としてこの特等船客専用のグリル(何という名だったろうか)にいる者の多くは、彼女の結婚式に招待された人々である可能性が大きい。それこそ先程の御原夫妻ではないが、どこかの名士や社長や会長や……いわゆる『上流階級』の人々が大勢集っているのだろう。渉は御原夫妻の態度や仕草を思い出して、そして首を振った。
 
 


[288]長編連載『M:西海航路 第十四章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時09分 Mail

 
 
 なるほど、確かに俺は場違いなのだろう。そう、この場に本当にふさわしいのは俺じゃない、西之園さんだ。彼女なら……
 だがそこで渉の思考は中断した。瑞樹が赴いた場所……窓際にある大きなテーブル、そこにつき朝食を取っている夫婦の正体に気付いて。そう、まぎれもなくあれは渉をけんもほろろに退けた御原夫妻だった。瑞樹はそこで、夫妻と何かを話している。声が聞こえるはずもない距離だったが、彼女と御原夫妻の表情は何とか見て取れた。
 夫妻と瑞樹の会話はしばらく続いた。幾度も二人に頭を下げる瑞樹……その表情は渉と相対していた時とはまったく違う、暗いものになっていた。そう、なっていったのではない。渉はそれに気付き、眉間にしわを寄せた。おそらく自分に背を向けた時点からそうだったのではないか。そして相対した御原夫妻は、夫の(健司といったろうか)方のにこやかな調子はさほど変わらずだが、夫人の方は何か、手振りを加えて激しく語っているように見える。瑞樹は、それをうなだれて聞いているようだ。
 いったい、どういう関係なのだろう。渉はどこか歪むような気持ちの中でそう思った。御原といったから、さすがに両親とかそういう関係ではないのだろうが、有力な親戚、というのがもっともありそうな話だった。先の渉に対する態度といい、もしかすれば誰でも知っているような、有名な人物なのかもしれない。
 だがやはり、そういう世界のことを思い量っても渉には知識がなさすぎた。おそらく自分はこの場においては比類なき無知で、結果として無恥な若僧なのかもしれない。しかしそうであっても、あの御原夫妻に決して好印象は持つことはできないと渉は思った。先程の自分に対する態度もそうだが、今の……そう、九条院瑞樹に対する態度を見てしまっては尚更である。
 と、そこで渉の視線が彼方のテーブルの夫婦……そう、御原夫妻とばったり合った。瑞樹が話の途中で(どこかためらいがちに)こちらを指し示したためで、とっさに視線を外すことが渉にはできなかった。結果、御原夫妻の視線をまともに受けて、渉は思わず……そう、思わず会釈を返した。先の、朝のバルコニーのように。
 椅子……白を基調に黒くデコレーションされた四脚のそれ……が倒れる派手な音は、誰もが静かに会食している朝のグリルには大きすぎた。何事が起こったのかと誰もが首を巡らせ、そしてそこに、激昂して立ち上がり、歩いて行く人物を見定める。壮年の男、御原健司。そして彼がつかつかと歩み行く先……そのテーブルに、桐生渉がいた。
 何が起こったのか。椅子を蹴倒すほどの怒りを顕に立ち上がった御原を見た渉もまた、他の客達と同じくそう思った。だが、その御原健司がこちらに迫り、そしてその背後で同じように(椅子は蹴らずとも)席から立ち上がり、恨みがましい視線を自分に向けている御原夫人を見、さらにその夫人の傍にいる悲痛な顔の九条院瑞樹に気付いた時、ことの顛末を理解した。
 なるほど、俺は真の意味で場違いな訳だ。そう渉は思い、怒れる御原夫妻よりも、むしろ自分自身の素行に呆れた。
 桐生渉、考えれば誰でも気付くようなことじゃないか。九条院瑞樹、彼女はこの航海の主役で、それはどうしてかと言えば、彼女の結婚式が(披露宴も、だろう)この船上で行われるからだ。相手がどんな奴……いや、どんな男かは知らないが、招待客を含めてこの航海の関係者なら(そう、スチュワードも船員達もすべて)皆が皆、瑞樹とその男……二人の幸せな門出を願っているに違いない。
 だが何も知らない(そう、まさに無知蒙昧な)俺は、無邪気(で、おそらくは世間知らず)な彼女と出会い、楽しい(彼女が楽しそうにしている)という理由だけで、軽々しく行動していた訳だ。そう、それが傍からどう見えるのか、微塵も考えることなく。まったくおめでたい奴だ、と渉は自嘲の笑みを強めた。勿論、表情に出すことはない。
 確かにそんな愚挙も、昨日のような二人きり(いや、芹澤航海士を含めると三人)の小さな場だけでならば構わなかったかもしれない。だが、ここはどこだ。渉は顔を上げ、そして今や目の前にやってきた相手を見つめた。
「君、立ちたまえ。」御原健司の語気は、その傍目同様に荒々しかった。今までで、最も感情を顕にした口調。先程までのにこやかな様子は微塵もなかった。そう考えると、いかに今の彼が激憤しているのかがわかる。
 渉は立ち上がった。あらゆる意味で自分に呆れ、半ばどうにでもなれとは思っていたが、ただ一つだけ気になることがある。その対象は少しばかり遠くにいて、こちらへ来ようとするのを御原夫人によって止められていた。そう、彼女……九条院瑞樹。
 渉は瑞樹を見つめた。彼女が咎められなければ、俺はどうなろうと構わない。そう思い、そして渉はそんな自分の思考に驚いた。何を考えている。これじゃまるで、俺は彼女のことを……
「桐生渉君だったな?」渉は頷く。怖じけづく理由はないが、やはりというか、この威圧するような眼光と言葉に抗する理屈は持ち合わせていない。自分の完全なる愚挙……いわば非理を自覚している状況では尚更だった。「君がどういう思惑でこんなことをしているのか、今ここで、この私に説明して貰えるかね?」断固とした口調で御原が言う。その声は鋭く、高い調子であったはずの声は、打って変わって低い凄みに満ちていた。
 周囲の目が自分に集まっていることを渉は感じる。「すみません。俺はただ……」陳謝と共に釈明をしかけて、だがそこで、渉は言葉に詰まった。どうしてなのだろう?
 そう、どうしてなのか?
 こうしていることではない。こうしてしまったことではない。
 こう感じていること、思っていること。それは一体、どうしてなのだろう?
 思ってみれば、それは昨日の夜からだ。あのキャビンで九条院瑞樹と初めて出会い、そして、二人で芹澤航海士の説明を聞きながら、航海中の決まりと緊急時の行動……救命胴衣や救急活動、非常時の退路やルール等を丁寧に教えられ、甲板にこれでもかと並ぶ救命艇の一つを降ろすまでの作業を実地で行った。その間、渉と瑞樹の間に世間話と呼べるような会話はほとんどなかったが、どうしてか二人は初対面に似つかわしくない程に朗らかに会話し、そして共に行動した。そう、彼女が俺のことを『渉さん』と呼んでもいいかと尋ねて来た時、俺はどう思ったか。そして実際に呼ばれた時、どう感じたか。それは決して『悪くはない』気分であり、そしてまた渉にとり、相手の瑞樹もまたそうであるように見えた。
 だが、それらはどうしてだろう。瑞樹……彼女自身のことならいざ知らず、俺自身がどうしてそうなったかは理解できるはずではないのか。何しろ、自分のことである。渉は思索した。
 親近感……いや、違う。何かまったく別の思いを、俺は彼女と出会ってすぐに抱いた。それは強烈な、だがしかし今もなお形容し難い何かであり、 己を客観的に見定めるのが難しいが如くに、ぼんやりと見通せないもやに包まれていた。
 渉は霧の中を進むような気分の中で、必死に結論を引き出そうとした。そう、自らのそれを……大雑把に、無理矢理に近しい感覚で定義するとすれば……最もふさわしいそれはおそらく、『好意を抱いている』というものであろうか。
 好意、か。「説明できないのかね?桐生君、君は一体、どこの……」語気をさらに荒げた御原が、厳しい口調で渉を叱責する。渉は矢継ぎ早に繰り出されてくるそれを聴きながら、心中で笑った。
 だとすれば……だとすれば、だ。これも、当然の結果だろう。俺はどうやら、非現実的な世界に足を踏み入れて、いつしか普段の自分を見失っていたらしい。自分らしく振る舞えばいい、と決めた俺だったが、そう思うこと、決めてしまうこと自体が、既に正常な俺ではなかったという訳だ。渉は皮肉に笑い続けた。無論、心中で。
 だがそれは、一体いつからなのだろう。今朝、目覚めた時からか。この船に乗り込み、豪華絢爛なスイートルームに足を踏み入れた時からか。それとも昨日の早朝、諏訪野老の高級車に乗り込んだ時からだろうか。いや、俺に場違いなあのマンションに、入居した時からか。俺の非現実は、正常でない状態とは、いつから始まったのだ。俺にとっての現実は、異常でない状態は、いつまでだったのだ。渉はそう思い、そして刮目するように自らの追憶を甦らせた。
 そう、近年起こったあらゆることが、自分にとっては不釣り合いかつ非現実そのものだった。そして当然の如く、元を正せばそれらのすべてが昨年の夏に帰結する。孤島の研究所、近代科学の粋を尽くしたあの敷地に足を踏み入れてしまった時から、俺の異常は始まっていたのかもしれない。そう、あれこそまさに、非現実を現実に変えた『正常ならざる』空間だった。
 そして、ここもまさにそうだ。渉は瞳だけで視線を巡らせた。焦ったように集まる給仕達。立ち上がり、あるいは首を振って視線を逸らし、立ち去っていく船客達。目の前には罵声を張りあげる、名前しか知らぬ男。いつのまにか、その横には彼の妻である女もやって来ており、眼鏡の向こうの小さな眼で渉を睨みつけていた。
 そう、これらすべてが俺に向けられたものであり、俺の取った行動の結果として現れたことか。まさにどこかで選択肢を間違えた、という訳だ。渉は冷めたようにそう思い、ならばどこから間違えていたのか考えてみるがいい、と冷ややかな自嘲の念を抱いた。そう、桐生渉よ。過ぎ去ったことを後悔しようとも、それを否定することまではできないのではなかったか。
 そういえば、とそこで渉はふと、ある人物の存在が気になった。周囲を見回すが、見当たらない。彼女はどこに行ったのだろう?
 パン、パン、パン。
 突然、だった。派手な手拍子……いや、両手を打ち鳴らす音が響き渡る。豪快な、それでいてリズミカルなそれに、その場の誰もが……渉と、彼を叱責する御原も含めて……そちらを見た。
 そして、そこにいる男。この場にいる誰よりも体躯のよい初老の男性……『月の貴婦人』号の船長である村上瑛五郎が、グリルの入り口に立っていた。制服を着こなし、小脇に制帽を抱えた船長は、勢いよく打ち鳴らしていたその大きな両手を止めて、周囲をゆっくりと見回した。だが、その顔に喜ばしい色はまったくない。
「いったい何事ですかな?すがすがしいはずの朝の食堂で、この喧騒は。」威厳に満ちた太い声が、自らの打ち鳴らした手のそれよりも大きく響き渡る。「まったく、マナーという言葉を知っている方はここに何人いらっしゃるのでしょうかな?もっとも私が見る限り、残念ながらそのような方は皆無のようですな。いや、ただ一人いらっしゃるとすれば、それはこちらのお嬢さんだけですかな。」衆目が集まるそこ……船長の背後から出て来たのは、誰あろう黒髪の美少女、九条院瑞樹であった。
「瑞樹……村上君、いや、船長。これは……」御原が戸惑ったように進み出る。
「御原さん。貴方のように立派な方がこのような醜態を演じては、それこそ周囲に示しがつかないのではありませんか?」船長の村上は厳しい視線で御原を睨めつけた。「廊下はおろかデッキ全域に響くような、貴方の物言いを借りるようですがな。」御原の顔がさらに染まった。赤く。「お嬢さんが私に懇願するのも当然ですな。貴方がたは限られた特等の船客であり、船にとって極めて大事なパッセンジャーですからな。」
「あ、当り前だ。私たちは客だぞ。だいたい、悪いのはこの……」
「言葉を取り違えないで頂きたい。大事、と言ったのであり、大切、と言ったのではありません。確かに特等の船客は最重要でしょう。だが私にとってみれば、あらゆる船客が同等に大切なのです。それに関し、スペシャルもファーストもゼネラルも、何ら区別などありませんな。」御原の眉が、引きつったように持ち上がった。「そして同様に、乗り込まれた船客の方々は、各々が選ばれたグレードにふさわしいマナーを遵守していただけるのであると、私は確信しております。」断固とした口調で船長は言った。「最も大事であるからこそ、守るべき規律は守る。時には口論もよろしいでしょう。酔えば喧嘩をすることもあるでしょう。だがすがすがしき出航翌日の朝に最上層のスペシャル・グリルで怒鳴り散らすなど、いかなる理由があろうとも、とても特等の座にふさわしい客人の振る舞いとは思えませんな。御原さん、私としては貴方に即刻一等、いや標準船室へと移っていただきたい程です。」
「な……無礼な!船長、私を誰だと……!」御原の怒りは炎のようだった。今さっきまでの渉に対する叱咤とは、どこか違う怒号。
「貴方をどなたかよく存じ、同じように貴方の立場も理解しているからこそ、私はこうして申し上げているのです。御原代議士。」政治家か、と渉は驚いた。「当然、貴方がこの航海で果たすべき役割も心得ております。非常に大切で、かけがえのない役目だ。だが肝心の貴方は、残念ながら自分の役割にそこまで理解がないらしい。これは由々しきことですな。」
「ふ、ふさげるな!何様のつもりだ!お前など、私の……」泡を吹きかねない勢いで御原が怒鳴る。だが再び、村上はそれをピシャリと遮った。
「私は船長です。国際海洋法に基づいて、航海中はこの船のすべての権限が私の裁量に委ねられています。私には裁判をする権利も、礼式を取り行う権利もある。犯罪者を処罰する権限もあれば、そう、例えば結婚式に際して新郎新婦の誓いを承認する資格も、この私にのみあるのです。他の誰にでもない、私自身に。」
 断固とした調子で村上瑛五郎は宣告した。そして、それを聞いた御原が絶句する。まさに劇的、というか想像を絶する度合いで御原の顔は蒼白に染まり、その頬がわなわなと引きつった。
「し……失礼する!」わずかな時間の後、吐き捨てるように言い残して、御原健司はその場から立ち去った。凄まじい険相がその顔に浮かび、見送る者の何人かは互いに顔を見合わせ、そして御原の姿が食堂から消えると同時に各々の胸を撫で下ろした。そして御原夫人もまた、言葉もなく夫の後を追う。
 船長……村上瑛五郎は何事もなかったように周囲を見回し、そして小脇に抱えた帽子を取り上げると、それを振るようにして軽く会釈をした。「大変失礼しました。皆さんはどうかお気になさらず、楽しいお食事を続けて下さい。今夜のレセプションでは、皆さんに楽しい話をお聞かせすることを約束しましょう。」船長はそう言い、そして小さな仕草をした。それを見て、給仕達が一斉に動き出し、それぞれティーポットや料理のトレイを持ってテーブルを周り、サービスをする。さすがに元通りとはいかなさそうだが、次第ににこやかな雰囲気が戻りつつあるようだった。
 そして喧騒が過ぎ去ったその場には、船長の他に……渉と瑞樹、二人だけが残された。
 その二人を見て、船長が笑う。「まったく、朝から老骨の肺活量に挑戦するようなことをしてしまいましたか。」冗談、なのだろうか。渉はあえて笑うべきか考えつつ……そこにいる瑞樹を見た。彼女の表情はやはりというか、暗い。「いやはや、一日は始まったばかりだと言うのに、これでは体が持ちませんな。動力に燃料が必要なことは、機械も我々も同じですからな。そういえばお二人は、食事はどうなのですかな?」渉を見る村上の目はにこやかで、そしてその表情は意味ありげだった。渉はその意を理解する。
「いえ、まだ……俺も九条院さんも、まだです。」渉の返事を期待していたように船長が大きく頷く。そして、彼は瑞樹に向き直った。
「お嬢さん、ならどうですか?何事も始めが肝心、三人で朝食でも一緒に。桐生氏に異存はないようですが?」渉は頷いた。
 瑞樹が顔を上げる。「あの……私……」こめかみから頬にかかる艶やかな髪が、かすかに揺れた。瞳が潤んでいる……のだろうか。はっきりとはわかりかねたが、瑞樹が船長を見つめる。「本当に、ごめんなさい……」
「貴女に謝られる理由はありません。」村上はきっぱりと言った。「むしろ謝らなければならないのは私の方です。お嬢さんにとり唯一無二の船旅を約束しておきながら、初日の翌朝よりこの体たらく。乗組員すべてを統轄する者として、どうか謝らせて下さい。」船長は頭を下げた。瑞樹が慌てたように顔を上げ、小さな手を振る。
「そ、そんな……!」船長の手が、瑞樹のほっそりとした指先を包み込んだ。とても優しい仕草で、渉が思わず目を逸らせてしまう程だった。
「貴女は何も心配することはありません。この航海は、貴女が幸せになるために用意されたものです。そして貴女には、幸せになる権利と、そして裏を返せば幸せになる義務がある。私も、そしてここにいる桐生さんも、貴女が最上の幸福を掴むことを願っているのです。」船長の黒い瞳が、頬を染めた瑞樹を映していた。「だがその貴女がそんな顔をしていては、我々の願いは叶えられない。それは取りも直さず貴女だけでなく、それを願っていた我々もまた不幸になることを意味している。お嬢さん、貴女は自分だけでなく、皆をふしあわせにしたいのですかな?」
 船長の言葉は優しげだったが、やはりというか、そこには彼なりの頑強な意思がこめられていた。渉は思わず瑞樹を見たが、そんな彼の見る前で瑞樹は瞳を潤ませ……そして、目尻を指で擦るようにして目線を隠した。
「九条院さん、これ……」渉は思わずポケットからハンカチを出し、差し出していた。自分で洗濯したもので、畳み方もいいかげんなそれであり、渉は差し出した途端に後悔したが、瑞樹は瞳を潤ませたままそれを受け取った。
「ありがとう、渉さん……」ハンカチを目頭に押しつけながら、それだけ言うのが彼女の精一杯のようだった。渉は笑って首を振り、視線を逸らす。そして、船長が大袈裟に肩をすくめて二人の肩をポン、と両手で叩いた。
「さてさて、若人はかくあるべしの通り。ではこのテーブルにでも腰掛けて、朝食と共に私の昔話でも語りましょうかな。かくいう私も、昔はお二人と同じく若人の一員でしてな、石原裕次郎氏ではありませんが、ヨットから釣り船、漁船にタンカーまで多くの船に乗り込んだものです。当然そこにはロマンに加え、ロマンスの一つもありましたか。」船長はものものしく語り、渉はそのユーモラスな仕草に思わず吹き出しそうになった。
「面白そうですね。是非、聞かせていただけませんか?」ニヤリと船長。渉も笑う。
「それはリクエストに答えねばならないでしょうな。ですがまずは一つ、朝食を持ってこさせましょうか。このトレイは下げさせましょう。紅茶にコーヒーと……田所!」船長が給仕の一人を呼ぶ。やってきたのは、渉を最初案内した老練なスチュワードだった。船長が彼に細やかな指示を出し、田所老人がにこやかに了解する。
「あの、俺も手伝います。」船長の指示を田所老人が聞き終えたところで、渉は立ち上がった。田所老人が驚いた顔になり口を開きかけるが、渉の脇にいた船長の表情にそれを止める。
「そうですか。はい、ではよろしければ、お願い致します。お客様、こちらへ。」渉は頷き、瑞樹を見た。未だ瞳を潤ませ、頬を染めている彼女と目が合う。
「九条院さん、お腹空いたでしょ?片っ端から、それこそお皿ごと持ってくるからさ。待ってて。」渉は軽く片目を閉じた。らしくないことをしている、とは思わない。「じゃ、行ってくる。」
「はい。」瑞樹はそれだけ言うと、ぎこちなく……それでも懸命に、渉にほほえんだ。そして、それで十分だった。
 渉は田所老人と共にバイキング・コーナーに向かった。背後で、船長と瑞樹が話し始める。それが今は嬉しかった。
 幸せ、か。渉は思った。幸せとは何だろうか。その物差しは当然、個人によって違うものだろう。誰も彼もが自らのスケールを持っており、つまるところそれに照らして幸せであると自覚すれば、それがその人の幸せなのだ。ならば、他人が他人の幸せを知ることはできないのだろうか。そうかもしれない。人の心が本人以外に知れないのと同じく、誰も人に幸せを押しつけることはできないのだろう。ただ、人のそれを望むことはできるかもしれない。思うこと、それだけは。
 ならば、瑞樹には幸せになって欲しい。渉はそう思った。それ以上、深くは考えない。
 朝のグリルは、再びにぎわいを取り戻していた。
 
 
 


[289]長編連載『M:西海航路 第十五章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時10分 Mail

 
 
   第十五章 Mortal

   「名前なんて、私には必要なかったから」


 エレベータの扉が開き、桐生渉は自らのデッキに帰還した。
 気分はすこぶる良い。それも当然だった。テーブルに咲いた船長の話に、どれだけ笑ったかしれない。彼には話す才能があった。かつて講師に向いていると渉は思ったが、それはまさに正しかったのである。村上瑛五郎はやはりというか、知識も経験も抜群だった。小気味いい程に堅物であり、そしてそれに比例する(そう、反比例でなく)ユーモアを有している。そのセンスはどこか日本人離れしていると渉は思ったが、漁村に生まれて物心つく前より船に乗っていたという彼の言葉を信じれば当然なのかもしれなかった。何しろ陸より海で過ごしている時間の方が遥かに長いと(笑いながら)うそぶいて見せる人物である。十の海を旅し、二十三の船で勤務し、今はこの客船のキャプテン。そう、最新鋭の豪華客船である『月の貴婦人』号の、と渉は意気揚々と締めくくり、自分のことでもないのに、と笑った。
 しかしそれでも、村上瑛五郎が好人物であることに変わりはない。だがそれも、世界的な(現にこの船は米国籍であるのだし)船長にでもなると流石にそういうものなのかもしれないと渉は思う。結果、俺が嬉しいのはそんな人物の話を聞けてなのか、それともそんな人物と知り合いになれたからなのかわからないな、と再び渉は失笑した。
 とにかく何というか、船長を気に入ったことでこの船自体が好きになってくるという寸法は愉快ですらある。そんなものなのだろうかとも思うが、ああいう断固とした姿勢と態度を持つ人間はあらゆる意味で尊敬に価する、それは間違いないと渉は思った。まさか水夫になろうとは思わないが、村上のような人物の下で働ければ幸せだろう。なるほど、その意味であの芹澤航海士は幸せ者だと渉は考え、角を曲がって自室の扉へと続く廊下に出て……そこに、誰かがいることに気付いた。
 驚く渉だったが、すぐに相手が誰であるのかを理解し、その驚きは治まった。昨日出会った、向かいの……そう、向かいの部屋の船客だ。外国(おそらくはドイツの)人で、名前は……知らない。
 相変わらずのエプロンドレスが似合う婦人は、部屋に車椅子を入れようとしている最中だった。婦人が押す車椅子には、あの時、部屋のソファにいた老人が腰掛けている。ドアは十分な大きさがあるとはいえ、何かに突っかえてでもいるのか、婦人は手を焼いているようだった。
 渉は早足で二人に近付いた。「あの、俺、手伝い……」言いかけて、そしてはたと思い出す。頭痛の……いや、何というか、とても衝撃的な婦人の日本語に。「エクスキューズ・ミー……」渉は英語で話しかけた。
 婦人が振り向く。クリアな緑の瞳を丸くして彼女は渉を見つめ、そして嬉しそうに両手を重ねた。「嬉しいようですね!」渉は再び身構える。「僕は、二度と会えませんか?元気は残っていますね?」歯切れのいい、発音も奇麗な日本語。渉は再びめまいを覚え……そして、婦人がグリップから手を離したことで、老人の乗った車椅子が動いた。
「危ない!」渉はとっさにその車椅子のハンドルを握っていた。別段どうということもなさそうだったが、婦人は心底から驚いたように、自らの両の頬を押さえる。
「礼ばかりが費やされますね……」すまなそうな顔をする婦人に、渉は首を振った。急に、力が抜けたような気がする。「嬉しいですか?しかる後、今日は徹底的に格別です!」楽しい朝食が終わったばかりだというのに。「無理強いは小規模に、豪勢なところですか?」渉は思わず婦人から顔を背け、握ったハンドルの先……そこにある老人の横顔を見やった。昨日と違い、最接近している。老人をここまで近くで見るのは初めてだった。そこでまた、彼がとてつもない老齢であることを知る。額に、頬に、うなじに……しわは幾重にも刻まれ、そして少量の白髪が、こめかみ近くをほんのかすかに彩っていた。その顔つきはどこか日本人離れしている……と渉は思い、老人のグリーンの瞳がギロ、と自分を睨んだことで、それを思い出す。そう、この人は(彼女もだが)日本人ではない。
「ソーリー。アィム……」老人の碧眼は渉を凝視し微動だにしない。駄目だ、と渉は心中で首を振った。言葉の不自由さというものを、今更ながらに痛感する。だが確か、この婦人には英語はもとより、日本語も通じるはずではなかったか。「あの。俺、手伝います。車椅子を、部屋の中に入れればいいんですよね?」
 婦人の目が瞬き、そして次の瞬間、輝くような笑顔で彼女は頷いた。「嬉しいのかな、僕は!」お辞儀をすると、淡い金色……白色にも似た短髪がかすかに揺れる。渉はそのギャップの違いに深く心中で息を吐いた。
 その後、渉は部屋の中に老人の車椅子を入れ、そして婦人の指示(勿論、身振りと言葉の一部とで推察するそれ)を仰いで彼を奥の部屋(いわゆる書斎)のソファに腰掛けさせた。書斎は渉の部屋のそれと違い、沢山の書籍で一杯だった。おそらくは老人の蔵書であり、大した量(そして荷物)だと渉は思ったが、婦人が嬉しそうにかけてくる支離滅裂な台詞の前には渉の興味もそれ以上は維持されなかった。
 老人を残して広間に戻ると、婦人はバー・コーナーで何かをしていた。まさか、と渉が思う前に婦人が声をかけてくる。「宴会の要求には、催してしまった?」嬉々として、指を持ち上げる婦人。
「い、いや、俺は。その、そろそろ部屋に戻って……」途端に、婦人が残念そうな顔になる。だが渉が小さな罪悪感に包まれる前に、彼女は急にニッコリと笑った。「僕は、そちらにしなくてもいい!戻るのは好きにする、だがそのままにしておけばよい!」渉は寒気を感じる。
「そ、それじゃ。」満面の笑みの婦人を尻目に、渉はドアを開けた。「また、何かあったら……」手伝います、と言おうとして、渉はもうこりごりだと考えている自分に気付いた。そのためなのか、婦人のにこやかな顔を見ていられなくなる。幸福でたまらない、という……そう、満ちたり過ぎた顔。「……さよなら。」
 ドアが閉まると、渉は大きく息を吐いた。思わず、ポケットを探す。カードはある。渉はほっと安心した。
 五メートルもない距離を歩き、渉はゲストカードをドア横の識別パネルに示して扉を開けた。豪華絢爛な、だが自分の物は何一つない船室に入り、それでも不思議と安堵の思いで一杯になる。窓からは輝くような昼の光。彼方には海と空。渉は手近なソファに身を投げ出した。柔らかい、だが決して柔らかすぎはしない感触。最高だ、とそこで四肢を存分に広げる。まだ午前中であるはずなのに、何を疲れているのかと思った。だが確かに、今朝からもう色々なことがあった。蒼い景観、萌絵のメール、朝食の騒動と、九条院瑞樹、そして現れた船長と、三人での会食……そして、さっきの夫婦、か。
 そしてそこで、トントンと扉が鳴った。ノックだ。渉は飛び起きた。誰だろう?
 扉の前に行く。ドアには覗き穴などはない。それによく考えれば、今のはチャイムではない。誰かが、直にドアを叩いたのだ。渉はふと思った。外にいるのが誰か、確かめる方法はないのだろうか?
「はい。」だがとりあえず、渉はノブをひねりドアを開けた。
 そしてそこに、グリーンの瞳の婦人がいた。「邪魔はできない?」悪夢だ、と渉は思った。だがまさか閉める訳にもいかない。
「どうかしましたか?何か、あったんですか?」言いながらドアを開けて……そして、渉は絶句した。
 婦人の横に、厨房などで使われるワゴンがあり、その上に様々な料理……いや、菓子が乗っている。クッキー、ケーキ、ティーカップにポット……それがお茶のセットであると渉が気付くより早く、婦人がほほえんだ。「お昼の前?ですけども僕はお茶、決まっていませんか?」少しだけ首を傾げる。ああ、同意を求めているのかと渉は理解した。断ったらきっと残念がるだろう、と思う。
 渉は息を吸った。「ええ……あの、ですけど、俺は……」思った通り、婦人の表情はゆっくりと変化していく。渉は小さく息を吐くと、覚悟を決めた。もう、どうにでもなれだ。「わかりました、ごちそうになります。でもあの、俺がそちらに行きますよ。わざわざ持って来てもらうこと……」一体どちらが失礼なのだろう、と渉は思った。招待されることか、招待することか。
「よろしい。」婦人が頷き、笑顔に戻る。渉も頷いて、そしてワゴンの取っ手を手にした。驚く彼女に会釈して、そして押していく。「嬉しいのでは?」そうだ、と渉は名案を思いついた。彼女の言葉は最大限無視しよう。無論、それは彼女自身を無視する訳じゃない。声だけだ。声を聞かなければ、それでいい。聴覚の情報を無視すればいいのだ。そうすれば、何ら変わらない。彼女自身は俺の言うことを(おそらくは100%)理解しているのだろうし、だとすればこちらから率先して語ればいいだけだ。彼女の言葉を、無理に理解しようとする必要はない。
 向かいの部屋の前まで来ると、渉は彼女がゲストカードで扉を開けるのを待った。だが、肝心の彼女は渉の船室のドアを丁寧に閉めて戻ると、嬉々として後方から渉を見ている。瞬間、渉の心に嫌な予感が走った。いやしかし、そんな馬鹿な。渉は首を振り、自分の推測を振り払った。婦人……そう、あのエプロンドレスのポケットに、彼女のゲストカードが入っているに違いない。そうでなければ、どうするというのか。渉は冷や汗のように浮かんでくる感覚を必死に拭った。昨日の夕方の一悶着を思い出す。あの二の舞いは御免だった。
 その時、婦人が軽やかな発音で……渉には理解できない、何かの言葉を呟いた。楽しそうに婦人の人差し指が立ち、それが小気味良く鳴る。呪文を唱えているようだ、と渉は思い、そして言葉が何かを思い出した。そう確か、これはドイツ語で……!
 戻ってくる言葉……ドイツ語の明瞭な返事……それは、ドアの向こうというより、むしろドア自体から直接発せられたような声だった。渉は驚いたが、すぐにそれがドアの横にあるカードの認識装置からの声だと察する。そう、そこから聞こえる、明瞭な若い女性の声。
 そして、小さな音がして……扉が、開く。向こう側には誰もいず、勿論、渉も婦人もノブに触ってはいない。だがそれでも、ドアはひとりでに開いていく。それは、まさに魔法だった。渉はじっと……茫然として、それを見つめた。そして、再びドアそのものから聞こえてくる軽やかな『呪文の如き』女声。
 そう、目の前には開いたドア。背には、嬉々としている婦人。そしてその間に、ワゴンを手にして惚ける自分。
 なんてことだ。打ちのめされたような気分で、渉は婦人の船室に入った。そう、俺は……俺は、すっかり忘れていた。いや違う、何も知らなかったのだ。そうだ、無理もないじゃないか。そう思いつつ、やはりというか、何という愚かな奴だと自分を罵りたい気持ちで一杯になる。そう、何が声だけは聞くな、聴覚を消せ、だ。その声が、あらゆる意味で最も重要だったのではないか。
 渉は天井を見上げた。まったく同じデザインのシャンデリアと、スプリンクラー。そうだ、この船室がそうであるなら、同様に作られている俺の船室がそうなっていないはずはない。それなのに、俺は『それ』の存在を完全に失念していた。だとすれば、昨日のあの騒ぎは……
「お茶のくせに?」婦人の『声』。半ば呆然自失であった渉は、その声に再び己を取り戻した。気が付くとワゴンは彼の手を離れており、婦人がその上からリビング・コーナーにあるテーブルに一つ一つの皿を並べている。クッキー、ケーキ……そして、暖かい紅茶が注がれたティーカップ。ミルクと、砂糖壷らしき物まであった。どれもこれも、奇麗に磨かれた暖かみのある一流品のようだ。そう、それはまさに婦人に似合いだった。その絶えることのない笑顔に。
 渉は目を瞬かせ、数度それを繰り返した後……笑った。声はなかったが、その笑みは本当に心からのものだった。そして、そんな渉の笑顔に、婦人が微笑する。「是非、いただきます。ありがとうございます。」渉ははっきりとした口調でそう言うと、勧められるままソファに腰掛けた。婦人の手からティーカップを受け取り、それを含む。
 うまかった。砂糖もミルクも入れていない紅茶は、味わい深く苦みも薄みもない。この部屋にあるものなのだから間違いなく良質の茶葉なのだろうが、おそらくはこの婦人の配膳……いや、紅茶を入れる技量も相当なものなのだろう。自信も知識もなかったが、渉はなんとなくそう確信していた。もてなされる、とはこういうことなのかもしれないと、ふと思う。
 渉は紅茶をもう一度含むと、にっこりとして婦人に言った。「とても、おいしいです。」婦人が嬉しそうに目尻を緩める。その頬に、赤みが浮かんでいた。仕草によっては、二十代にも四十代にも……それこそ時として五十や六十にすら見える女性だった。いったい幾つなのだろうかと渉は思い、そしてそんな失礼な質問より、もっと大切でしやすい(そして、しておいた方がいい)質問があることに気付く。そう、また俺は失念していた。ならば、恥をかく前に今度こそ口を聞くべきだろう。
「あの……」クッキーを勧めてくる婦人に、渉は小さく頷きながら切り出した。「俺は、いえ……私は、桐生です。桐生、渉。えっと……マイ・ネーム・イズ……」渉は英語でも同じ事を繰り返した。
「キリュ、ワタルゥ?だった……」婦人はそう言った。渉は頷き、もう一度自分の名前を言う。「きりゅう、わたる……桐生、渉。」渉は目を見張った。完璧な発音だ。何度か発声しただけで……と思い、よく考えれば彼女は日本語も『発音』は完璧なのだ、と思い出す。「聞いています?僕は、それでも教えたの?」渉はそれを聞いて、そして……ためらいがちに頷いた。
「はい。よろしければ、貴女の名前も教えて下さい。」婦人は嬉しそうに頷いた。少しだけ頬が染まっている。渉は思わずドキリとした。何か、誤解された……いや、そんな馬鹿なと首を振る。
「英語にできませんか?それでは……でびぃよ?」渉は眉をひそめた。「でびー……でびぃ?どちらか、よし。でびぃさん?」渉はそれを注意深く聞き……そして、ひらめいた。
「デビー?デビィさん……デビィ、ですね?」婦人の顔がパッと明るくなる。「デビィ……さん。わかりました。ユア・ネーム・イズ・デビィ、オーケー?」渉のおぼつかない英語を聞いて、婦人がおかしそうに……しかし、はっきりと頷く。
「デビィ、日本語に間違いはありますね?」渉は反射的に首を……振った。「デビィ、さん。僕の、同じではないのに……ほろうぇい、さん。よろしくない?」また、渉の眉間にしわが寄る。「桐生、渉。あなた、さん。デビィ、ほろうぇい。僕、さん。」渉は再びひらめいた。そうか、と理解する。
「デビィ・ホロウェイ?」指で彼女を指し示す。婦人が口許を隠すように手をやって、そして心底から嬉しそうに頷いた。渉は再びその仕草に妙な感覚を抱き……だが、それ以上にどうしてか、今の問答の決着が嬉しかった。
 デビィ・ホロウェイ……か。どうしてだろうか、婦人の名を知っただけで、今までとは段違いに親近感を覚える。「桐生渉さん。クッキーはおいしくない?」渉は首を振りかけ……頷いた。同時にそれを取り、食べる。バタークッキーだろうか、手製のようなそれは歯触りも軽く、とてもおいしい。もしかすると、彼女が……そう、デビィ婦人が焼いたものだろうか。エプロンドレスといい、そんな格好が実に似合う、と渉は思い、そして勧められるまま二枚目のクッキーを口にしてまた思った。デビィ・ホロウェイか。ホロウェイ……!
 細い、鋭い針のようなものが背筋を伝うのを渉は感じた。
 今、俺は何と言った……いや、思った?デビィ……違う。そう、ホロウェイ……?
 ホロウェイ、だって!?
 驚愕の中で渉は婦人を見た。婦人がそんな渉に驚き、そして……残念そうに顔を伏せる。「お暇はありました?クッキーに、僕は冷やしても……」渉は婦人の話を聞いていなかった。いや、聞かないのではない。聴かない……今は、聴いている時ではない。こちらから聞くべき時だ。
 そう、尋ねなければならない。これ以上、無知でいる訳にはいかなかった。渉は先程のグリルでの一悶着を思い出し、そう自戒した。そうだ、あれも元はと言えば、俺自身の詮索無用の態度が引き起こしたものだ。ならば、二度とそれを繰り返してはならない。
「あの、デビィさん。貴女は、その……」齢九十に達しようかという、先程の老人の顔が過る。昨日このソファに腰掛けていた、さっき車椅子に乗っていた、碧眼の老人。そう、確かに『高齢』だ。俺が聞いている通りの……「つまり……その、ホロウェイ博士?その……ドクター・ホロウェイ?貴女は……」
 少し驚いたような顔をして、デビィ婦人はぱちぱちと目を瞬かせた。そして、胸の前で手を合わせる。「それも、当然です。」祈るような、慈しむような仕草だった。「僕の、伯父は?ジム・ホロウェイ。」渉は眉間を寄せた。
「ジム……ホロウェイ?ドクター……」ゴクリ、と喉が鳴る。そう、ジム、とは確か、英名の愛称のはずだ。本当は……「ジェームズ・ホロウェイ博士?」婦人が、心服するように頬を染めて、はっきりと頷いた。
 落雷の直撃を受けた如き第二のショックが、渉の全身を貫いた。同時に、その衝撃で様々な疑問が氷解……いや、砕け散るのを感じる。
 そう……そう、だったのか。
 渉が立ち直るには時間が必要だった。それが長かったのか、それとも短かったのかはわからないが、とにかく彼にとって自身ではカウントできない時間が経ち、そしてそれが終わって己を取り戻した時、渉は再び自らに疲れていた。途方もなく、深く。
 そう、考えればこれもまた当り前の……察して当然なレベルのことだったのだ。俺の船室、あのロイヤル・スイートルームは、元はと言えば西之園さんの(そしてもしかすれば俺と共同でもあった)客室。そして、その西之園さんが(半ば強引に)招待したのが、誰あろうあの老人……ジェームズ(ジム)・ホロウェイ博士。ならば天下の西之園萌絵が、犀川創平助教授ですら手放しに認める世界有数の建築学博士を、自分より下の等級の船客として招聘するだろうか?答えは勿論、否である。
 そう、まさに彼女らしい。友人の結婚などよりも、自分の目的のためにあらゆる手を使い、そう、いわば徹底的に最善を尽くしきる、彼女。渉はまたもや、萌絵の妙技に敬服していた。ここまで見事な力技を見せられると、もはや呆れるなどという感覚を遥かに通り越して、そう……間違いなく賞賛という行為に価するだろう。過ぎたるは及ばざるが如し、と言うが、どうやら西之園萌絵の辞書にはそんな言葉はないらしい。
「桐生、渉さん?」婦人……いや、デビィ・ホロウェイ婦人が心配そうに覗き込んでいる。渉は肩をすくめて笑った。そう、彼女は博士の何なのだろう。素朴な疑問が浮かび、ジム……いや、ジェームズ博士を伯父、と言っていたことを思い出す。ならば、彼女はおそらく博士の姪なのだろう。随分と年齢が離れているように見えるが、渉はそう納得した。今は、そんな些細なことを詮索している場合ではない。
 そう、こうなったからには、こちらから言っておかなければならないことがある。「あの……西之園さんを知っていますか?西之園、です。」渉はゆっくりと語った。デビィ婦人がきょとんとした顔になる。「西之園、萌絵……知らなければ、いいのですが。」
「萌絵さん、なら存じていない?」突如として婦人が言う。その顔は驚きに満ちていた。渉も驚く。「桐生渉は、萌絵には友達ですね?ならばなおのことよ?待っていたのですが、博士を……」
 やっぱりそうか。渉は再び大きくため息をつき、すべてを理解した。これも当然だが、彼女……いや、ホロウェイ博士は俺の名前など知らなかったのだ。萌絵がどのように頼んだか想像もつかないが、彼女(そして博士)は西之園萌絵の名前しか聞いていないのだろう。渉はようやく、ことの次第を理解した。そして、前以ってそう考えていたように、一つの決意をする。それは小さな、だが毅然とした決断だった。
「デビィさん。俺の言うことを聞いて下さい。」渉は真面目な顔で話し始め、デビィ婦人がそんな彼を見つめる。渉は小さく喉を鳴らした。「西之園……いえ、萌絵さんは、事情があって、この船には乗れませんでした。急用ができてしまったのです。それで、お約束の件は、果たせなくなってしまいました。俺からも謝ります。無理を言ったのに、本当にすみません。」頭を下げる。「ですが、どうか萌絵さんの約束の件は忘れて、貴女達は、この船旅を楽しんで下さい。」自分の言い回しに、渉は今朝読んだ萌絵からのメールを思い出していた。そう、さらには……昨日昼間の、萌絵の電話も。「またいずれ、萌絵さんから連絡があると思います。本当にすみません。ホロウェイ博士にも、そう伝えておいて下さい。」言い終えると、渉は深く頭を下げた。
 デビィ婦人は渉を見つめていた。理解したのか、していないのかわからない。彼女の日本語のように、俺の言葉も聴く側には支離滅裂なのだろうか。ふと、そんな不安を渉は抱いた。
 だが、婦人は顔を上げた。「桐生渉は、参っていたのですか?後悔しませんが、悪い結びにもなりましたよ?私も可能になるには、まったくありませんか?」
 渉はまた、深く頭を下げた。そして、努めてにこやかにソファから立ち上がる。「おいしかったです。紅茶もクッキーも、とても。どうも、ごちそうさまでした。」息を吸った。「デビィさん。良かったらまた今度、御馳走して下さい。」笑いかける。今できる、精一杯の表情で。
 婦人は柔らかく、そしてとても嬉しそうにほほえんだ。渉の立場……気持ちをよく理解している、そんな顔だった。母親のような……そう、まさに彼女、デビィ・ホロウェイに相応しい笑顔だと渉は思った。「待っていろ?」デビィ婦人が呟くようにそう言った。
 渉は頷き、そして準備していた詞を口にした。「ダンケシェン。」驚いたように、婦人の緑色の瞳が見開かれる。そして、ゆっくりと……潤むようにして、切れ長の目尻が細められた。宝石のような、深いグリーン。
 ドアを開けて外に出る。最後に軽く手を上げて、そして渉は船室の扉を閉めた。閉まったことを確認し、大きく息を散らす。
 
 


[290]長編連載『M:西海航路 第十五章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時11分 Mail

 
 
 これで良かった。渉はそう納得した。そうだ、思えばこれもまた、西之園さんの謀略……いや、無茶から出た話だ。そしてだからこそ、今の俺には関係ない。今更、この俺がホロウェイ博士に指導など受けられるはずもない。そう、当り前じゃないか。あの老人が日本語を理解しているとしても(とてもそうとは思えないが)、もしも流暢に(萌絵が言っていたような気もするが)日本語を話せたとしても……仮に、万が一そうだとしても、この俺が……俺如きが、それを聞いてどうする。いや、どうなるというのだ。
 渉は笑った。声を出さず、虚空に。
 俺は結局、ただの学生だ。今の自分の居場所と同じく、何も知らない、無知な存在だ。それが、そのことがようやく、はっきりわかった。俺は、他の同輩のように大学院に行く訳でもない。四月からの進路が決まっている訳でもない。ただの、どこにでもいる、無知蒙昧な一人の大学生だ。
 そう、今それだけがはっきりと認識……いや、理解できる。俺には西之園さんの誘いに乗る資格がない。いい悪いではない。今の俺には、世界的な大博士の教導を受けるだけの度量も技量もない。加えれば、熱意すらも。確かにホロウェイ博士の講義を直に聞くことができれば、卒論に向けてなにがしかの役に立つかもしれない。だがそれはあくまでも博士の言葉を記憶に留めた上でのそれであり、俺自身が理解し記述する論文にはならないだろう。俺にはそんな力はない。俺はホロウェイ博士について何も知らない。博士の論文や本を読んだことはあるが、それを熟読し理解しているかと言えば、絶対にノーだ。そんな建築学をかじった程度の俺が、それにつき世界にその人ありと謡われるホロウェイ博士に直接対面して、一体どうなるというのか。俺には建築論における自説について即興で一席ぶつだけの能力もない。犀川先生が言った通り、博士に対面してもインスピレーションを刺激される程度が関の山だ。そしてそんな俺のために、ホロウェイ博士の時間を浪費させていいはずがない。そう、西之園萌絵の企みなどという戯れごとでは……いや、卒業に必要な論文のために、などという戯れごとでは、決して。
 渉は歩き出した。決意を胸に。そう、俺は俺でやればいい。それができないのなら、大学になどいる意味もないじゃないか。渉は乾いたような響きを宿した声で低く笑った。そう、それぐらいの覚悟がなくてどうするというのか。もしそういう結末を迎えるとすれば、それもまた俺の道だろう。
 船室のドア。渉は懐からゲストカードを出そうとして……ふっと、思い出した。デビィ・ホロウェイ婦人の行動。そう、もしかしなくとも、俺は途方もない間抜けなのだと、自認した先程の一幕。
 渉は軽く息を吸い、そして吐いた。目の前のドア……いや、その右にある、識別用のセンサを見る。そして、もう一度深呼吸。「ドアを開けてくれませんか。」ゆっくりと、続ける。「俺は、桐生渉、です。」
「了解しました。」瞬時に声がした。歯切れのいい女声。そう、決して初めて耳にしたのではない、声。「おかえりなさい、桐生渉様。」小さな音。ドアの鍵が開いたのだろうか……と思った次の瞬間、ドアが開き始める。渉が見つめる前で、それはゆっくりと……だが確かに開いていった。そして、目の前に見慣れた客室が広がっている。
 渉は深く息を吐いた。途方もなく深い息だった。
 だがそれは、決してネガティブなそれではなかった。そう、マイナスのそれではない。新しい一つ、それを理解したことによる、知識を加えた己を自負する……自賛するそれだった。
 そう、わからないこと、知らないことがあるのは当然なのだ。そして、それに気付き、理解するのは楽しいことだ。そんな、大学で受けた講義の一節を渉は思い出していた。
 そうだ、学べばいい。渉はドアを潜りながら思った。俺は、何も知らない愚かな男だ。だが、自分が無知であることだけは知っている。そして、新たな……自分の知らないことを知りたいと思う。
 ならば、学べばいい。時間はある。いつも、そして今も。渉は船室に入り、今度は自らの手で扉を閉めると、自分に言い聞かせるようにしてゆっくりと部屋の中央に歩んだ。誰もいない、豪華絢爛な部屋。少し前に戻った時には、これが最高だと俺は思った。だが今は、何もかもあるが、何もない部屋だと感じる。それが精神的な空虚を自覚したからなのか、はたまた楽しげな婦人とのお茶会を離れた結果によるものなのか、渉にはまだわからなかった。だが、その答えは無理に求める必要はない、とも思う。
 そう、今はもっと別に、知りたいことがある。
「あの……」渉は天井……シャンデリアとスプリンクラーの見えるそれを見上げるようにして、口を開いた。「どうだろう……こう言って、わかるのかな。話をしても、いいかい?」それは誰に向けての言葉でもなかった。そう、誰、ではない。それ、に向けたもの。
 答えは返らなかった。渉は待つ。だが、それでも返事はない。先程のドアの一件では、ほぼ即答に近い返事があったにも関わらず、である。渉は少し考え、そして再び天井を見上げた。「桐生渉です。船のシステムを利用したいのですが。音声認識はできますか?」
「了解しました。」即答、だった。「当オペレーショナル・システムは、船内のあらゆるレクリエーション項目へのアクセスが可能です。桐生渉様、御要望をどうぞ。」
「いや、予約や注文がしたい訳じゃないんだ。」渉はゆっくりと言った。「ただ、君の……」渉はそこで苦笑した。「……いや、つまりね、オペレーション・システム自体のことが知りたい。使い方はどうすればいいのかな?」
「了解しました。」再び、歯切れのいい女声。「お客様の音声による情報検索は常時可能です。該当条件を挙げられた後、検索開始を口頭で指示して下さい。」
 渉は首を捻った。「いや、そうじゃなくてね……」言い回しを考える。クイズのようだ、と思った。「君にアクセス……」また、『君』と言った自分に笑う。だが構わず続けた。「……つまり、システムにアクセスする手段だけど。どうやって呼びかければいいのかな?」そこで、ふと思いつく。「そう、システムを起動する詳しい方法が知りたいんだ。」デビィ婦人の魔法めいた仕草を思い出す。
「了解しました。」再び即答。「音声ナビゲーションの他律作動には、お客様の口頭による御命令が必要です。」ビンゴ、と渉は思う。「特定語彙による作動条件は六千二百六十五種の基準値が存在します。」渉の眉がひそめられた。「詳細をお聞きになりますか?」
「待って。」渉は慌てて言った。「いや、そういうことじゃなくて……いや、それはそれでいいのかもしれないけどさ……」渉は考える。つまり、その……!
「君の名前は?」渉はひらめいたことをそのまま口にした。「君の名前を、教えて欲しい。」
 即答、はなかった。理解できない言葉だったのかと渉は思い、思った途端に答えが戻る。「該当する名称はありません。」
 名前はない、か。渉は腕を組んだ。「正式な名前じゃなくていいんだ。愛称とか……あると思うんだけど。コンピュータ、とか呼ばれたりするのかな?」見たことのある、SFドラマのシーンを思い出す。「つまりね、君を呼ぶ時に、既存でない……いや、特定の名称を使って呼ぶ場合、とでも言うのかな……」複雑すぎるだろうかと渉は思った。だが、それを考えても始まらないかと思う。「……いや、きっとあると思うんだけど。呼称、って言うのかな?その中で一番メジャーな奴があれば、それが知りたい。ほら、設計や開発時のコードネームとか、あだ名とか。コンピュータ、じゃ味気ないからさ。一つぐらい、あるんじゃないの?」
 言葉を切って、渉は失笑した。まさにというか、自分は人を相手にするように話している。いや、わかってはいるのだが……どうしても、そうなってしまう自分がいる。相手の姿も形も見えないのに、それでも、どうしても冷徹に話すことができない。おかしなものだ、と渉は思い、もしもこれが画面の中のテキストに対するそれならば、こんな風にはならないだろうと思った。そう、言うなれば『会話という行為は、常に生身のそれとしかありえない』という……固定観念のようなものがあるからだろうか。
「了解しました。」時間がかかったのか、そうでなかったのか……自問していた渉にはわからなかった。「最も使用頻度の高い船内制御サブシステムの俗称は、カサンドラ、です。」
 渉は目を丸くした。カサンドラ……「カサンドラ、だって?」
「はい、カサンドラ、です。他にも同様の用途として該当する俗称は、二百七十三種類が記録されています。詳細をお聞きになりますか?」
「いや、いい。」渉は軽く手を振った。そして考える。なるほど。つまるところ、名前はあった訳だ。最も使用頻度が高いということは、それでいいのだろう。別に、おかしいことはない。「えーっと、カサンドラ?」
「はい、カサンドラです。繰り返しますが、その他に二百七十三種類の俗称が記録されています。詳細をお聞きになりますか?」渉は唇を曲げた。
「いや、カサンドラでいい。」そう、カサンドラ、か。「なら、カサンドラ。君を呼ぶ……」渉はそこで言葉を変えた。「……いや、君の機能を俺が利用する時には、カサンドラ、と呼ぶよ。それでいいかい?」息を吐く。何をしているのだろう、という自分に対するかすかな思いと共に。
「了解しました。桐生渉様のパスコードとして『カサンドラ』を登録します。パスコードの変更及び追加は自由です。登録コード以外の口頭による音声認識作動には、注意を喚起しますか?」
 渉は首を捻った。「ああ、とりあえずそれでいい。そうしてみてくれ。」了解しました、の返答。渉はまた声をかけようとして、そして少し待つことにした。
 バー・コーナーに行き、コーヒーを入れようと考える。ミルがあるのは昨日の内に気付いていた。それを引き出し、そして次は豆を探す。すぐにそれは見つかった。
 手挽きのミルで適量の豆を挽きながら、渉は今交わした、コンピュータ・システムとの会話について考えていた。
 音声入力による対話システム、か。勿論、これがとてつもなく高度なシステムであることは理解できる。まさに、このハイテクな船にふさわしいシステムだ。しかも、この会話の小気味良さはどうだ。向こうの声……合成の電子音声なのだろうが……は抑揚はともかくとして、発音も実に見事で流麗だ。さらには、俺の決してまとまりのない問いにすら、きちんと返事をしている。それだけでも賞賛に値する。そう、カサンドラ……彼女は。
 だが、しかし。渉は水を用意し、そしてコーヒーメーカーのスイッチを入れた。黒いコーヒーが落ち始める。それをじっと見つめながら、渉は自覚した。そう、俺はそれほど驚いてはいない。いや、驚きは無論あった。だがそれは、おそらくは一般の人々がこのシステムを知った時の驚きとは違うものだ。そう、なぜなら俺は……このシステムに、いや、これとほぼ同じシステムに、出会ったことがある。いや、利用したことがある。
 デボラ。
 胸を過ったその名前に、渉は深く息を吐いた。消したい、消したくないに関わらず、胸に深く刻まれている名前。いや、その名前だけではない……と渉は思い、そして首を振った。
 もうやめよう。ここは孤島の研究所ではない。同じようにハイテクに囲まれた場所かもしれないが、それでも、ここはあの島ではない。決して、そう、絶対に違うのだ。そう、例え同じような……いや、もしかすればさらに高度なシステムが存在しているとはいえ、ここは違う。そう……
「カサンドラ……」渉は息苦しさから逃れるように、その名を口にしていた。
「認識しました。」天よりの声。どこにスピーカーがあるのだろうか。渉は再び天井を見上げた。晴天の窓からの明かりの中で、そこにはしかし、誰もいない。「桐生渉様、ごきげんはいかがでしょうか。」
 渉は思わず口許をほころばせた。そう、違う。あれも、そしてこれも。今のはおそらく、御機嫌取りのために無作為に選ばれた言葉なのだろう。人間のような会話をする……それに近い雰囲気を形作るために、そういうプログラムが仕込まれているのだ。彼女、カサンドラはそのために作られたコンピュータ・ナビゲーション・システムなのだろう。
「いや、用事は別にない。悪かったね、用もないのに呼び出して。」
「どういたしまして。桐生渉様。御用の際は、何なりとお申しつけ下さい。」歯切れのいい……そう、不快というそれをまったく感じさせない返事。渉は今更ながらシステムの高度さに舌を巻くと同時に、自分が会話している相手は決して血肉の通った存在ではないのだと理解した。嫌悪感がある訳ではないが、どうしてか……濁ったような感覚がある。
 いや、血肉が通っているいないではない。それは、今言葉を発した『あれ』は、対象として存在するものなのだろうか。私、という概念のない……それを持たないそれは、生きている……否、存在していると言えるのか?
 滴り落ちるコーヒーを見つめて、渉は思った。コーヒーカップはここにある。椅子も、テーブルもここにある。ペンも、参考書も存在している。だが、彼らは語らない。俺と会話をすることはできない。そうだ、俺の持って来たノートパソコンはどうだろうか。あれは俺の操作で作動する。明確なリアクションがある訳だ。バッテリーがなければ動かず、言葉は発しないが(それでも音声を流すことは可能だ)、そうでなければ俺の入力やマウスの操作に一つ一つ反応している訳であり、その点では物言わぬコーヒーカップより遙かに人間的だ。つまりは対象として、人……生命に近いのではないだろうか。
 だが、パソコンは『私』という概念など持っていない。コーヒーカップも、今落ちていくこのコーヒーもそうだろう。ならば、自分を認識するという概念がなければ、それは生きていないのだろうか。だとすれば、微生物はどうだ?草花は確かに生きているが、『私』という概念を持っているか?
 渉は首を振った。透明なポットを外し、そしてコーヒーを注ぐ。犀川助教授の言葉が思い出された。そう、生命の定義とは何か、だったろうか。後日、先生は言った。人間的、という言葉自体、人間が作ったものだ。生命という概念、僕らが使っているこの言葉も、またしかり……その時、自分が納得できたかどうかは思い出せない。
 コーヒーは少し苦かった。だが、それがかえって心地好かった。熱いそれを傾けると、どうしてか向かいの船室にいたホロウェイ婦人……デビィ・ホロウェイのことが思い出された。彼女の入れてくれた紅茶はおいしく、俺のコーヒーは苦い。だがその双方共が、人の手による味だからそうなのだ、と思う。機械的な、決まり決まった一辺倒の味ではない。生きている人間が作るからそれはうまいのであり、そしてまずいのだ。
 渉は窓の外を見つめた。広がる、そして流れていく青。
 何が生命か、その定義がどうか、俺にはわからない。だが、生きているから、だからこそその仕組みを考えられるのだということは、それだけはわかる。
 そう。少なくとも俺は生きている。それは確かなことで、決して忘れたくない。渉はそう思い、そして再び熱いコーヒーを傾けた。
 
 
 


[291]長編連載『M:西海航路 第十六章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時12分 Mail

 
 
   第十六章 Message

   「いいよ。別に、聞きたくない」


 教会の鐘のような天よりの音色が、桐生渉の集中を途切れさせた。
 顔を上げる。目の前には乱雑に積み重なった参考書と帳面の山。脇にはノートコンピュータが点灯し、そこには表計算ソフトとカリキュレーターの起動画面。眼下のノートには、渉の労作とも言えるこの数時間の成果が(何度か書き直された計算式と共に)記されていた。
 何だろうか、今のチャイムは。また来客かと思い、立ち上がりかけた渉だったが……そこで、室内に響いた声が渉にその動作を思い留まらせた。「桐生渉様に連絡を致します。船内客室より、メールが一通届きました。」流暢な女声。聞き慣れつつ……いや、聞き慣れた声だった。「開封しますか?」
「メール?」渉は聞き返した。「誰からですか?」どうも言葉遣いが難しい、と思う。命令するべきなのだろうが、とっさに話しかけられると、どうもそういう訳にもいかない。あまり抑揚がないとはいえ、彼女……そう、カサンドラの喋り方は流暢すぎた。
「投函者のお名前は、九条院瑞樹さんとなっております。」渉は目を見開いた。「発信元の部屋番号はB02です。メールを開封しますか?」
「お願いします。」そこで、気が付く。「……って、どうやって見るのかな?」今朝の、萌絵からのメールを思い出す。あれは印刷されて届けられていた。どうして、このメールは違うのだろう。
「了解しました。メールは音声形式によるものです。長さは四分四十七秒。再生にはいずれかの通信機器の音声出力を使用する以外に、当オペレーティング・システムにより室内放送する方法も可能です。桐生渉様、いかがいたしましょうか?」
 音声形式……ボイスメール?渉はなるほどと理解した。「ええ、流してくれて構いません。」思わず部屋を見回す。ここは広間の隣にあるもう一つの部屋……いわゆる書斎である。
「了解しました。」続いて、小さな電子音。
「こんにちは、渉さん。九条院瑞樹です。」まぎれもなき、九条院瑞樹の声が部屋に響いた。しかも、それにはフィルターがかかったような音の濁りや曇りなどなく、まるで目の前から語りかけられているようである。渉は今一度、周囲を見回した。「楽しい午後のひとときに、お断りもなくぶしつけな手紙を送ってしまい、申し訳ありません。」声にはかなりのためらいと、そして恥じらうような雰囲気があった。まさに、迫真の……そう、彼女がどんな表情で語っているか、声だけでイメージできるようなそれ。渉は思わず目を閉じる。「本当はこのような形でなく、私がきちんとお詫びに行かなければならないとわかってはいるのですけど……ごめんなさい。でも、渉さんにはどうしても、謝っておきたくて……」謝るとは何をだろう。渉は目を閉じたままそう思った。「謝らなければならないのは、朝食の時のことです。私が……私から無理にお誘いしておきながら、あの……」途切れたような瑞樹の声。渉は唇を結んだ。「……あの、あんなことに……なってしまって。船長さんは無理に笑って下さいましたが、私、あの場で……渉さんに……どうしようもなく、すまなくて……御原の家には、すべて私が悪いのだと説明したのですけれど……私の言葉が足りなくて……わかってもらえなくて……それで……」
「君が悪いんじゃないよ。」途切れ途切れの瑞樹の独白(そう、ある意味でこれはまさに独白だろう)に、渉は思わずそう答えていた。だが、まぶたを開けばそこは、窓からの日差しもまぶしい自分だけの客室。目の前に瑞樹がいる訳ではない。渉は苦笑いをした。
「……ごめんなさい。渉さんは、あの後……朝食のテーブルで、船長さんと一緒に……何事もなかったように……楽しくしてくれました……」肉声、というと語弊があるかもしれないが、渉はまさに瑞樹と相対しているような気分に陥っていた。当り前だが、彼女らしい物言い。「でも、考えたら……あんなことがあったのだから、渉さんが……私を、嫌いになったかもしれない。ううん、嫌いになってしまったんだろう……って、そう思ってしまって……」渉は息を呑んだ。「だって、私が勝手に……渉さんを誘って……私のせいで……だから……私、悲しくて……せっかく、萌絵さんに……素敵なお友達を、紹介していただいたのに……それなのに、一日で嫌われてしまったら、どうしようって……萌絵さんに、あわせる顔がないって思って……何て、私は……子供なんだろうって……だから……」そこで、瑞樹の言葉は大きく震えた。
「違うよ。違うって……」渉はたまらず声を出していた。「君が悪いんじゃない。もともとは、俺が悪いんだ。俺が、君を……」そうだ。楽しさにかまけて、互いの立場も考えずに公衆の面前で騒いだこと。それがすべての元凶だ。そして、それを察すべきだったのは彼女じゃない。この俺だ。俺が、気付くべきだったのだ。だが、俺は無知蒙昧さを棚に上げて、そして……皮肉と自嘲のまざった気分で、渉は首を振った。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……私、こんなことばかりで……二十歳を過ぎて、まだ、こんな……だから、御原の家に怒られるのも……当り前なんです。私、子供だから……分別がないって、いつも……先生にも、言われるんです……だけど、私……渉さんに……私……」震える語尾。渉は耳を覆いたくなった。だが、そこで……ふっと、小さな影のようなものが心に差し込む。
 そう、本当に俺が悪いのだろうか?
 渉は目線を上げた。瑞樹の陳謝。それを聞きながら、思う。
 本当に、俺が悪いのか?いや、勿論彼女が悪い訳じゃない。そんなことがあってたまるか。
 俺達は、楽しくしていたはずだ。互いが……そう、これだけ言ってくれる彼女が、そうでなかったはずがない……俺も彼女も、二人の会話を楽しみ、そして食事を楽しもうとしていたのではないか?俺も彼女も、当然それを不愉快になど思っていない。不愉快なのは、俺達じゃなく、それを目撃した一部の連中(そう、大人達)で……彼らの対応こそが、俺達にとっては『不愉快』だったのだ。
 俺達は楽しかった。それが、どうして責められなければならないのか?本当に、俺達が悪いのか?いや、どちらも悪くない!
 確かに、と渉は思った。確かに瑞樹は、その……結婚する、つまりは婚約者がいる身かもしれない。名門の令嬢だ、親戚筋から(御原をそう仮定してだが)見れば、その結婚は大切なものだろう。どうせ相手も(どんな男か知らないが)一流の、いわゆる『名門の家柄』出身の相手なのだろう。そこには何か政略的なものも絡んでいるのかもしれないし、俺のような一学生にはそれこそ想像もつかないような、深い思惑や事情すら隠れているのかもしれない。
 だが。例え仮にそうであったとしても、俺は別にやましい……そう、彼女の結婚を邪魔しようなどと考えている訳じゃない。そう思って彼女に近付いた訳じゃない。それを下衆の勘ぐりの如く、まさに害虫のように俺を蔑視、罵倒した上、あまつさえ何の落ち度もない(はずの)彼女をも叱咤するのが正しいことか?それとも、結婚する女性に男友達は一人もいてはいけないというのか?彼女に近付く若い男は、すべて排除しなければならないのか?いや、男友達だけじゃない。もしかすると彼女……瑞樹はずっとそういう生活をしてきたのではないか?あんな御原夫妻のような大人達に、何もかもを指示され、その通りに従わされて……
「……こんなことを言って、ずるいですね、私。本当に、子供です……」唇を噛み締めた渉は、未だ流れ続けている瑞樹の声に顔を上げた。「……だけど、私……ただ……ただ、渉さんに……嫌われたくなくて……嫌われたら、どうしようって……それが心配で、だから……ごめんなさい……」嗚咽。「……だから、こんな……子供みたいに、我慢できなくて……ごめんなさい、迷惑だって……わかっているのに……それでも、私……渉さんに……」
「カサンドラ。」渉は声を放った。大声、に近かっただろう。「再生を停止しろ。今すぐに、これを止めてくれ!」
 
 


[292]長編連載『M:西海航路 第十六章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時13分 Mail

 
 
「了解しました。音声メールの再生を一時停止します。」即答だった。レスポンスの早さがこんなに嬉しいことはない、そう渉は思う。だがその思いもまた、どこか乾いていた。激しく。「一時停止の解除は……」
「そんなことはいい。それより、メールを返信したい。こっちも音声メールでいい。カサンドラ、ここで話して、それを伝えられるか?」電話の方が早いのかもしれなかったが、渉はその思いつきを否定した。そう、今なら、この音声メールを送った瑞樹の気持ちがわかる気がする。確かに、この方がいい。
「認識しました。音声によるメール返信は可能です。桐生渉様、返信内容となる伝言をどうぞ。」
 渉は息を吐いた。そして、少し煽るように天井を見上げて口を開く。「桐生渉です。メールをありがとう。」息を吸い、そしてかすかに散らした。そしてまた、今度は大きく息を吸う。「九条院さん。君が悪いんじゃない。悪いとすれば、それは俺の方だ。だけど俺は、自分が……そこまで悪いとは思ってないよ。」渉は唇を噛むようにして、そして首を振った。再び、顔を上げる……決意を秘めたそれを。「俺は、君と話せて楽しかった。こういう言い方はどうかと思うけど、君もきっとそうだったろうと思ってる。俺達は二人とも楽しかったし、何も悪いことはしてやしない。あの人……御原さんを悪く言いたくはないけれど、君がされた仕打ちはお世辞にも許容すべきものじゃない。君は君で、一人の人間なんだ。周りの大人達に指図されるままで、いいはずがない。君がどういう人生を送って来たのか、俺は知らないけど……」渉はそこで、西之園萌絵のことを思い出した。思わず口許が緩む。
「……もう少し、自由にしていいと思う。勝手にして、いいと思うんだ。ほら、西之園さんを思い出してごらんよ。彼女は、君と同じ境遇なのに……」それは適当な推測かもしれなかったが。「……それでも、あんなに明るく振る舞ってる。側で見てる俺も、振り回されっ放しさ。この船にだって、騙されて乗り込まされたようなものだしね。」笑って、そして渉はまずいことを言ってしまったかと思った。だが、構うものかと心中でうそぶく。そう、俺は自由にすると決めたはずだ。
「子供だって言われたら、それでいいんだよ。二十歳を過ぎたら大人、そんなのはただの『常識』さ。人間は、昆虫みたいにさなぎから成虫に変態する訳じゃない。俺達はどこも変わってないんだ。周囲の大人……ううん、大人みたいに見える連中は、ちょっとだけ大人のふりをするのがうまいだけなんだよ。」渉はそこで一息ついた。ふと、何かなつかしいイメージを抱く。
「そう、二十歳を過ぎたら、大人のふりをしなきゃならない。それが今の社会で決められてるルールだ。だから、俺達はそれをしてみる。でも、やっぱり違和感があるよね。うまくできないし、すぐにそれが嫌で元のように振る舞ってしまう。そうすると、周りからは子供だって言われる。でも、それでいいじゃないか。だって、俺達は子供なんだから。大人のふりをしなきゃならない、それを演じなきゃならない、あくまで子供なんだよ、俺達はね。」再び、西之園萌絵のイメージがよぎる。「大人を演じるプロ、それが大人を自称する連中さ。大人のふりをするのが苦痛じゃなくなって、それが自然になった時……俺達も、彼らの仲間入りをするのかもしれない。でも、それがいつかは決まってない。ただ、二十歳になったら大人のふりを始めなきゃならない、それだけが決められているんだ。」渉は外の世界をいちべつして笑った。「だから、大人のふりをするのに疲れたなら、それでいいと思う。大人の演技を放棄することは難しいかもしれないけど、ちょっとぐらいならそれを忘れてもいいはずさ。それが自分を出す、って意味なら、それは悪いことじゃないと思う。」
 渉は再び、一旦口を閉じた。「とにかく、九条院さんはもっと素直に……自分を出していいはずだ。船長も言ってたじゃないか、君がこの航海の主役で、君が幸せになるためにこの七日があるって。」村上瑛五郎の、優しげな表情を思い出す。「あの時、船長は言ったよね。君には幸せになる義務があるって。俺もそう思うよ。君が結婚することが、君の幸せなら……」そこで、渉は口ごもった。俺は今、何を聞こうと……いや、言おうとしたのだろう。「……君が幸せに思わなければ、この船旅の意味はないんだ。今の君が、他人を幸せにするために自分を押し殺す必要なんてない。君のためにあるこの七日間は、最後まで君のために使うべきだ。好きなことをして、楽しんで……思いきり笑って、そして幸せになればいいよ。俺も、それに協力する。君がそう望んでくれるなら、だけどね。」渉は笑った。自分は照れているのか、と思う。だが、自覚する程まで考察はできなかった。
「とにかく、子供なんて言われて、気を落としちゃ駄目だ。だって俺達は、子供なんだから。」渉はそう結論付けた。「俺は、君のことを嫌いになんかなってない。また、いつでもどこでもつきあうよ。今晩、夕食を一緒にしたっていい。好きな時に、今みたいにメールしてくれればいい。俺は暇だからさ、喜んで飛んでいくよ。こっちの部屋は大きすぎるから、君が遊びに来てくれるのも歓迎だしね。」言い過ぎだ、と思いつつ、構うものかと渉は首を振った。「とにかく、俺はそう思ってるから。君に何も悪い気持ちは持ってないよ。だから、安心して。その……」ノートパソコンの時計を見る。『14:55』だった。だからといって、時間を計っていた訳ではないが。「……長くなったけど、そういうことなんだ。それじゃ、また。」渉は口を閉じ、そしておもむろに顔を上げた。「カサンドラ、メール本文は以上。ここで終わり。」繰り返して、思わず失笑する。だが同時に、今の発言が本当にメールとしてきちんと録音されたのかが気になった。まさに思ったことをそのまま語り続けたが、もう一度言い直せと言われたらどうすればいいのか。おそらくは……いや、絶対に無理だろう。
「了解しました。録音時間は五分四十三秒です。」渉は安堵した。「メールを返信しますか?何か追加項目がある場合は、その旨を指示して下さい。」
「ない。」渉は首を振った。そして、しばしの間、目を閉じて考えて……目を開く。「送信しろ。」
「了解しました。返信メールを送信。九条院瑞樹さん、部屋番号B02に受領されました。今のメールの費用は……」
「それはいい。後で領収書にでもつけといてくれ。」思わずそう言い、そして笑う。今の台詞を、コンピュータ……カサンドラはどう解釈するのだろう。
「了解しました。」静かに声がした。
 渉は笑い出したくなった。そう思った時にはもう笑っていた。声をあげて。
 今のメールを、彼女はどう聞くだろうか。すぐに……もしかすれば、今、もう自分の部屋で聞いているだろうか。だとすれば、どう思うだろうか。俺は、どのようなことを話しただろう。覚えているようで、それは概要だけのようで、結局自分自身が何を言いたかったのか、それすらもう心中でおぼろげになっているようだった。
 だが。渉は思った。気分は悪くない。そう、今もまだ、笑いが止まらないほど。
 渉は置いてあるコーヒーカップに気付いた。入れたままのそれが、半ばまで残って置いてある。もう冷めているだろう。隣の部屋に戻れば、ウォーマーに乗せられた物が残っている。だが、渉はそのカップを手にして喉に流し込んだ。
 思った通りにコーヒーはぬるかった。苦みだけがある。だが、それで良かった。
「乾杯だ、月の貴婦人に。」
 声を出してそう言い放つと、渉はコーヒーカップを夕日の見え始めた窓へと掲げた。
 
 
 


[293]長編連載『M:西海航路 第十七章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時14分 Mail

 
 
   第十七章 Misconception

   「……?」
 
 
 レセプション会場は豪奢極まる雰囲気だった。
 とはいえ、スケールとしてはそこまで大規模ではない。せいぜい百人というところであろうか、専用の大型ホールに立食用の足長テーブルが並び、燕尾服のウェイター達が忙しくその中を動き回っている。居並ぶ招待客はめいめいが着飾り、楽しげに飲食、あるいは談笑していた。
 始まってはいるようだが、まだ正式に開幕しているという訳ではないのか。桐生渉はレセプション会場へのメインの入り口である両開きの扉の前でそう思った。この扉に程近い場所にマイクスタンドが準備されているが、そこにはまだ誰もいない。ただ近い開幕を示すように、穏やかな鍵盤楽器(ピアノだろうか)の演奏が流れていた。
 だがやはり、それぞれに凝ったドレスやタキシード(和装もちらほらと見られたが)を着こなした人々が談笑している様はある種、偉観だった。ライブやディスコ、はたまた飲み屋での喧騒などといったものとはまったくもって異質な、まさに常の人である渉にとり未知であり奇異な光景が広がっている。そこに新顔の加わる余地はいくらでもあったが、渉には勝手知らぬ者の新入を激しく拒んでいるようにも見えた。そう、無知蒙昧なる『俗人』の。
 さて、どうするか。渉は足を踏み出そうとする自分をそこに留めて(そう、ためらってではなく)思案した。怖じ気づいた訳ではないが、実際、ここに集っている招待客の中に知り合いは一人もいない。いや、いたとしてもそれは三人だけであり、しかも筆頭に挙げられる九条院瑞樹以外の二人は、とてもではないが渉にとり(そして彼彼女にとっても)覚えめでたいという訳には行かなかった。
 だがと、とりあえず渉は目立たないようにホールの扉に接して中を見回し、御原夫妻と……そして、九条院瑞樹の姿が見えないことを(一応、だが)確認した。嬉しくもあり残念でもあるが、何も永遠にそうである訳ではないぞと自分を諌める。それより問題は、この会場での話題の趣向であった。結果、今の渉が危惧するのは自分の立場よりむしろ『こういった場での』話題のなさであり、こんなことならやはりと言うか事前に船内ネットワークで予習なりしておけば良かったかと後悔する。だがしかし、有意義だった日中の勉学時間をそんな余計なことで浪費するのももったいない。そう、まさに余計なこと、だろう。再度自らの本分……大学生というそれを思い出した渉は、静かにその考えに同意した。
 そう、ここは俺の世界じゃない。今を以って勝手判らぬこの空間において、唯一それだけははっきりしている、と渉は自負めいた思いを抱き、そして苦笑した。豪華客船という舞台がそもそものそれではあるが、さらにはこんな洋画で見るが如き貴人・貴婦人が集う立食パーティに参加するということ自体、俺にとっては甚だ異質なものだ。渉は再びこの場に相応しい人物……短髪でカジュアルな装束の女性……の姿を思い描き、ある種未練だなと首を振りそのイメージを消し去った。
 かといって、そう、決して興味をそそられない訳ではない。経験になるという意味ではこれ以上の場所は(この会場に限らず)ないであろうし、社会勉強という一般的な(そして俗な)見識の定義からすれば、実に有意義であるとは思う。ただ問題は、と渉は今朝のグリルでの一件を思い出し、あのような騒ぎだけはできる限り避けた方がいい、と自分を戒めた。もっとも、それも時と場合によるのかもしれなかったが。そう、進んで誰かに媚へつらう必要はない。俺は決して、誰かに頼まれてこの船に乗っている訳ではないのだから……
 渉はそこで、思わず小さく吹き出した。そうだ、それは違う。俺は、まごうことなく『他の誰か』に頼まれてこの船に乗っているのだった。そう、西之園萌絵……と渉は消し去ったイメージを再現する……彼女に。
 渉は微笑した。そうだ。だからどうした、今はもう関係ないと言ってしまえばそこまでだが、確かに俺は、この船に乗りたくて乗った訳でも、乗るべくして乗り込んだ訳でもない。まさに偶然に……そしてある面から見れば故意に……俺はこの船に乗り、そして今、この場にいるのだ。なるほど、考えてみると当り前のことだが、どうして人の立場は見る目を変えればそれぞれまったく違うものだ、と渉は思い、ならば俺は、と少しばかりきつく閉めすぎた襟のカラーを緩めて微笑を強めた。
 俺は、自分の立場で自分の目を向けるだけだ。そう、目の前にある現実に。
「ちょっと、そこの君。」意を決して会場に向かい足を踏み出そうとした渉だったが、まさにそんな渉を待っていたかのように、絶妙なタイミングで横合いから声がかかった。「そう、君だよ。ちょっといいかい?」
 渉が振り向くと、そこには一人の男が立っていた。この場に相応しくない……そう、相当に相応しくない、袖や襟のふくらんだよれよれの夜会服を着た男。年の頃はおそらく三十代……その、やや後半というところだろうか。剃ろうとして失敗し、中途で諦めたような不精髭を口許に散らし、まさにその弱りきった服に似合いな寝癖のついたボサボサの髪の下で、大きな黒い目が渉を見据えている。
「はい……俺ですか?」渉は眉をかすかに揺らして相手を見返した。相手の男はうんうんと頷き、そして頭をかく。
「悪いんだけどさ。ちょっと、頼まれてくれないかな。」ほんの少しだけすまなさそうに男は言った。「俺の部屋に行ってさ、原稿、取ってきて欲しいんだよ。いやぁ、あれがないと困るんだよね。即席、って訳にも行かないからさ。」自分に対して言い訳しているかのように男は目線を外し、渉は強烈な香水(ヘアトニックかもしれないが)の匂いを感じた。その前で、男が笑う。「駄目かい?君、これから仕事あるの?なけりゃ、ひとっ走りお願いしたいんだけど……勿論、誰か他の奴でもいいんだけどさ。どう?」どこまでも軽く、男は渉に向けて片方の眉を上げ、渉はようやく状況を理解した。
 なるほど。こいつ……いや、この人は俺をスチュワードの一人だと勘違いしている訳か。確かにそれはそうかもしれないと渉は自分の格好……紺と白の燕尾服を見定めた。スチュワードのそれとは配色がいくぶん違うのだが、それでもワイシャツの白を中央に配置してサスペンダーで固めた、カラーも堅い黒の衣装。蝶ネクタイこそないが、年齢的にもスチュワードと見られても仕方ないかもしれない、と渉はホールに集まっている人々の年齢を顧みた。「はいよ。これ、俺のゲストカード。なるべく早く戻って来てくれると、予行演習の時間が取れるから嬉しいかな。いや何せ、昨夜徹夜で書き上げたもんだからさ。使わないともったいないだろ?」はははと笑い、また強烈な化粧品の香気。渉は怒りなどを覚える前に呆れ、そして次に、たまらなくおかしくなった。
 そう、こんな相手も久しぶりだ。まさに見慣れた……いや聞き慣れた、普段大学で友人連と話しているような雰囲気。勿論それとこれとはまた違うが、今目の前にいる相手は渉がこの船に乗り込んだ後に出会った中で、最も彼の世界に近い人物であるように思えた。そう、気に入る、気に入らないは別として、親近感の抱けるそれ。
「わかりました。これ、でいいんですね。」渉は男の手からゲストカードを受け取った。努めて丁寧に聞き返す。
「ああ、サンキュ。部屋番号は、えっと……」男が、渉の手にしたゲストカードを覗き見る。「……そう、107か。一つ下のデッキね。ちょっくら頼むよ。」渉はそのカードに刻まれた名前を見た。Haruyuki Kitakawase……キタカワセ・ハルユキ、か。当然というか、聞いたこともない名前である。
「わかりました。原稿、ですか?」男……キタカワセが頷く。
「ああ。テーブルの上にあると思う。なかったら適当に探してみてくれ。紺の表紙の帳面だから、わかると思うよ。とりあえず、頼むわ。チップははずむからさ……っと、この船はチップ禁止か。」キタカワセは笑った。そして渉に顔を寄せ、小声で囁く。「後で見繕うよ。期待してくれ。な?」
 渉は肩をすくめた。それが一番いいと判断したためである。表情を返すこともしない。ただ、会釈する。「わかりました。」そして、ゲストカードを手にして歩き出した。キタカワセが軽く手を上げるので、笑いそうになるのを堪え、頷いてその場を立ち去る。
 まったく、と渉は大勢のスチュワードが行き来する通路を経てエレベータホールに抜けながら思った。窓の外は既に日が落ち、再び……そう、船上での第二の夜が訪れている。開放された窓から吹き込む少し冷たい風を受け、渉は手にしたゲストカードを見て苦笑した。
 だが。確かに俺には、こんな役がお似合いかもしれない。あの場でレセプションに参加し、見ず知らずの人々の中で訳のわからない話題を交わす羽目に陥るよりも、こんなたわいもない仕事の方がいい。性に合っているかどうかはともかくとして、一応、人助けに属する仕事でもある。まあ悪くはない、と思った。頼まれた相手がどうにもだらしないが。
 手にしたゲストカードでエレベータを作動させ、中に乗り込む。そのまま1番デッキ……ゲストカードに記載されたキタカワセの船室があるデッキ……を選択した。小さな揺れと共にエレベータが動き始める。数秒もかからずにそれは停止し、そして扉が開いた。
 レセプション会場のあるデッキよりも下とはいえ、船全体から見れば上層に位置する1番デッキのエレベータホールは、つい先程まで渉がいたそれとは対照的な静けさに包まれていた。降り立った渉は、ホールから船の前後にそれぞれ二本ずつ伸びている通路(さらにはそこに均等な間隔で並ぶ船室の扉)を見て、とりあえず案内板……いや、船内ネットワークの端末パネルを探した。当然のように端末はホールの壁に設置されている。しかも(この船室数を考えれば当然かもしれなかったが)、その数は多かった。左右にそれぞれ、計八台ものそれがある。
 まあ確かに、俺のデッキのように部屋が二つしかない訳でもないだろうし、と、渉はひとりごちて端末の一つに相対し、ゲストカードを使って指定の部屋の位置を検索した。数秒もかからずその場所が(このホールからの再短ルートを含めて)ポイントされる。どうやらここから船の船首方向、通路の右手側を行けばいいらしい。
 渉は歩き出した。このエレベータホールは船尾に近く、少しばかり距離がありそうである。
 目的の船室に向かう途中で、渉は小さなプロムナードを通過した。売店、という言葉はふさわしくない、ブティックやアンティーク(お土産、だろうか)品を売る店などが数店並び、ちらほらと客も訪れている。既に船内で似た場所を目撃してはいたが、実際に店先を通りかかるのは初めてであった。面白そうだと渉は思ったか、さすがに寄り道はと考え、木彫りの置物や古そうな絵皿などの並ぶショーウインドーを横目にその場を去った。
 
 


[294]長編連載『M:西海航路 第十七章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時15分 Mail

 
 
「107、と……」しばらくの後、渉はドアが立ち並ぶ通路の一角でそれを確認していた。ゲストカードに刻まれたキタカワセの部屋番号と、目の前のドアに刻まれたそれが合致していることを確かめる。よし、と渉はドア脇のセンサにカードを向けようとして、よく考えればこのカードが違えば根本的に鍵は開かない訳か、とふと思った。まさかカードが違うというだけて警報が鳴り響くということもないだろう。おそらく、違う船室のゲストカードを扉のセンサに差し示しても、何も反応がないだけではないだろうか。ならば、もしも自分の部屋がわからなくなったら、片端からカードを当てていけばいつか自分の部屋が見つかるのか……と渉は何とはなしに思いを連ね、だがしかし根本的にゲストカードに自分の名前と客室番号とが書かれているのだから、そんな馬鹿なことをする必要もないと自身の思考に笑う。そう、そのためにインフォメーションもあるのだろうし、第一探して回るに対し、この船の船室はいくつだったか。そう、確か……一千近く?
 青い識別器にカードをかざすと、カチッという小さな音が扉から発せられた。ほっと安心して渉はノブに手をかける。慣れ親しんだ(と言えるかどうかはわからないが)渉の船室の豪壮な扉とはかなり違い、普通の(それでも簡素というには程遠い気がするのだが)ドアだった。
 だが。
 何だ……?渉はドアをわずかに開けると同時に眉をひそめた。部屋の中から、強烈な匂い……いや、臭い、だろうか。鼻をつく臭気が漂って来たのだ。明かりがついておらず……窓もないのだろうか、この部屋の中は暗い。さらにドアを開け、室内へと顔を覗かせて、渉はその臭いがなんであるかを察した。そう、これは……アルコールの臭いだ。
 少し悩んだ末、渉は意を決して船室の中に足を踏み入れた……そう、踏み入れ、た。途端に何かを二つ三つ、蹴飛ばす。暗い中で目を凝らすまでもなく、どうやらアルミの缶らしい。ビールか何かだろうか、おそらくはこれらが悪臭の元なのであろう。しかもここまで臭うとは、おそらく尋常な量ではない。
 だが、とりあえずそれらを確認するにもこの部屋は暗すぎた。窓があるのかないのかわからないが、どちらにしろ夜ということでブラインドなりが閉じてしまっているようである。ならば明かりのスイッチを……と渉は戸口付近を調べようとして、身を入れた矢先に背後でドアが閉じた。部屋の中が完全に暗くなる。小さな、常夜灯の光を残して。
 参ったな。渉は暗闇の中でそう思い、このまま足を踏み出せば次は一体何を踏みつけるかわからないと危惧した。何しろ他人の船室である。だが、そこでもう一つ思いつく。そう……確かに、試してみる価値はあるだろう。
「カサンドラ。」低い声で、渉は言った。だが、少し待っても反応はない。「カサンドラ、部屋の明かりをつけてくれ。」少し大きめの声で渉はそう指示した。だが、明かりはつかない。さらに少し待ってみたが、あの聞き慣れた軽やかな女声は返ってこなかった。
 やはりというか、存在しないのだろうか。あれは一定以上の等級の部屋にだけ存在するシステムなのかもしれない、と渉は思い、『存在する』かとその思いに笑った。彼女……本来は性別すらない訳だが……カサンドラは、そもそも肉体を持つ個人として『存在しない』ものだ。あれはあくまで、コンピュータの中のプログラムである。その処理から導かれる対応があまりに並外れているために、まるでそこに誰かがいるように、その存在を錯覚させるのだ。存在を錯覚する、かと渉はさらに笑い、だが今はそんな物思いに耽っている場合ではないと、明かりをつけるための壁のパネルを探した。
 少しばかりかかって、それらしきものが見つかる。暗闇の中で自己を示すように、小さな赤い光が片側の壁にあった。ほっと安堵し、壁際を歩いてそこにたどりつき、手を伸ばして……その渉の手に、生温かい肌が触れた。
 渉の驚きは半端ではなかった。暗闇で目、悪臭に鼻、無音の世界に耳、それらの感覚が言わばすべて麻痺している状態で、いきなり自分の手に何者かの……そう、間違えようもない温かみのある人肌が触れて来たのだ。渉の体におののくように震えが走り、身を強ばらせた彼が反応する……そう、声を上げるなり身を引くなりする……前に、それは渉に襲いかかって来た。横合い……いや、むしろ前面から抱え込むようにして押し倒そうとしてくる何者か。そして、渉の平衡感覚が大きく揺らぐ。
 火花が散るような後頭部の痛みに渉は苦悶の声を上げた。驚きにバランスを崩し、計ったように足下で丸みのあるビールの空き缶を踏みつけ、そして……派手な音を立てて転倒した自分。さらに運が悪いことに、倒れた渉の体……しかも頭の落ちたその場所に、酒の入った缶が置かれていたらしい。アルミがひしゃげる気味の悪い音と共に渉の眼前にスパークが走り……その中で、今なお自らに覆い被さろうとしてくる何者かの存在をはっきりと感じる。そう、人間だ……!
 次に渉が奪われたのは、呼吸だった。まだ痛烈なショックと痛みの残る中、口を塞がれる感触……それは事態を把握できない渉の心中の恐怖と相まって、結果、彼自身の生存本能とでも呼ぶべき心理を刺激した。何だこれは、何が起こったのだと状況を判断、分析しようとする前に、ふざけるな、やられてたまるかという強烈な……そう、憤怒に満ちた意志が爆発する。同時に渉の中で、何かが呼び醒まされるような感覚が閃いた。そう、追憶にも似た刹那のビジョン。
 怒号。押し倒し、身を押さえつけ、口を塞いでくる何かに……渉は渾身の力を込めて抗った。そこには理性的な判断はなく、ただ単純な怒りだけがあり、それは痛みと当惑に満ちた心身を越えて(如何なく、とは言えないまでも)思いのままに発揮された。
「きゃあっ!」悲鳴、だった。人の……そう、女の悲鳴。目の前からのそれを聞き、全身の力を打ち奮って相手の身を押しのけた自分に気付き……その二つを総じて渉は再び驚愕した。そう、先程のそれとは違う、冷ややかな……いきなり冷水を浴びせかけられた如き、それ。
「だ……誰だ!?どういうつもりだ!」渉が発したのはそんな怒号だった。考えて口にしたことではない。考えを口にしたのである。だがそこで、後頭部からの激痛に渉は顔をしかめた。痛さに呻き声が出る。手で触れると、ぬるりとした感触があった。血が出ているようだ。血……?
「いった……痛い……!もう、どういうつもりはこっちよ!イタタ……何するのよ……!」聞いたこともない女の声。若い……というか、年寄りではない声だった。成人女子、であろうと渉は火照った思考の中でどこかぼんやりと推察する。
 馬鹿な、そんなことを考えている場合か。渉は首を振った。途端、くらっと何かが頭を過る。渉は必死に目を凝らした。常夜灯の光……暗闇に慣れてきた目に浮かび上がるシルエット……自分と同じく、床の、絨毯の上に座り込んで、壁に寄りかかっている相手……それを見定める。
「誰だ……誰、なんです?」渉は尋ねた。頭が熱いが、ある部分では冷静になってくるのを感じる。
「……じゃ、ないわよ……あんたこそ、誰よ……あイタタ!あ、あんた、晴之じゃないでしょ……どうしてこの部屋に、入ってくんのよ……!?」ハルユキ……晴之という名前が渉の熱をさらに冷ややかなレベルに落とした。そう、晴之……キタカワセ・ハルユキという名前に心当たりはある。いや、心当たり等という度合ではない、と渉はいまだ惚けたように考える自らを叱咤した。
「俺は……桐生。桐生、渉……」名乗ってそしてようやく、渉は自らに起こったことの顛末を(おぼろげにだが)察した。そう、悪いのは……「すみません。俺、キタカワセさんに頼まれて……」あの不精髭でよれよれの夜会服を着ていた男を思い出す。暗闇の中、未だ満ち続ける酒の臭い。確かにこの場にあの人物はふさわしいかもしれないと渉は思った。「……この部屋に誰かいるとは、思わなかったんです。すみませんでした……大丈夫、ですか?」
「晴之に?頼まれた……?ああ、そういうこと。あんた、ルームサービスの……ボーイか何か?」渉は頷き、同意の言葉を返した。本当は違うが、この場はそう言っておいた方が解決が早い。「なんだ……もう、驚かさないでよ。いきなり入ってくるから、晴之が戻って来たのかと思って……もうっ、やだ。あたしったら……何よ、もうっ。」照れるような、恥ずかしいような、そして怒ったような声だった。渉はさらに、事態の詳細を理解する。体の熱が、少し増した。
「本当にすみません。俺、てっきり部屋には誰もいないと思い込んでて……」あらゆる意味で自分が悪い、と判断しつつ、やはりというか渉は、あの男、キタカワセ晴之に少なからずの怒りを抱いていた。そう、部屋に誰かいるならいるで、それを伝えておくべきではないか。それを……「つっ!い、痛……!」不意に後頭部に痛みが走る。手で触れると、さらにその痛みが増した。髪がべっとりと濡れている。派手に切ったのだろうか……!
 渉は続け様に襲ってきた、思考もできぬ程の激痛に頭を抱えて呻いた。「ち、ちょっと……あんた、大丈夫?」気配がする。「ね、ねぇ、見せて……って、ああ、暗すぎるわよ。ちょっと待ってて。ええっと、明かり……」立ち上がる気配。激痛の中で渉はそう思い、目の前に動くシルエットを涙目で見て……
 そして、不意に部屋が明るくなった。
 目が眩むような乳白色の光に渉は思わず目蓋を閉じる。「大丈夫?ねぇ、どこぶつけて……」女の声。渉は目を開けた。
 少しウェーブのかかった、腰までのロングヘア。そして……白い裸身が、渉の視界を奪った。「うわ、あんた本当に怪我してるのね?参ったな……見せて?わぁ、ひっどい血……だ、大丈夫なの?生きてる?」彼女……名前も知らない女性……は、その肉感的な肢体を晒していることを気にもせずに渉の前にひざまずき、頭に触れるようにして後頭部を覗き込んだ。
 かなりの美人だ、と渉は咄嗟に思う。だが。「あ、あの……!」彼女の行為は、渉にとってはさらなる混乱の引き金だった。何しろ、見知らぬ相手が一糸纏わぬ姿で平然と……いや、むしろ昂然と密着しているのである。
「いいの。動いちゃ駄目よ。じっとしてて……うーんと……」女性は渉の頭髪に指を絡ませて、傷口を確かめようとするようにさらに近くで覗き込む。
「へ、平気ですから……いてっ!」離れようとして、渉は悲鳴をあげた。自分のものでない指……そう、彼女の指であろうか、それが傷口(おそらくはそのもの)に、押しつけられるように触れているのを感じる。
「あ、ごめん!痛かった?」言いながら、照れ笑いして……女は自分の指を見た。第一関節まで、真っ赤な血に染まっている。俺はこんなに出血しているのか、と渉は涙目の視界……猛烈な痛みの中で思った。「わぁ、派手に切ってるわね……参ったな。とりあえず、何かで押さえないと……待ってて!」立ち上がる彼女。そして、橙色の長髪が揺れる。その目も眩む奇抜な色に、渉は痛みすら忘れて彼女の後ろ姿を目で追った。
 外人……なのか?いや、何を馬鹿な。流暢な日本語に目の黒色、白いとはいえ黄褐色系の肌。彼女は間違いなく日本人(もしくは東洋人)だろう。そう、間違いなくあの髪も、染めているだけだ。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、渉は船室……そう、今ようやく顕になった室内を見渡した。勿論、その動きは目線でだけであり、頭は動かさない。
 やはりというか、渉のそれに比べて(いや、あれを比するという時点で間違いかもしれなかったが)『普通の』客室であった。それでも、決して狭くはない。いや、むしろかなり広い方ではないだろうか。十二畳はあるだろうか、直方体の部屋の片面にブラインドの降りた窓、そしてソファとリビング家具が並ぶ二面、さらに大きめのベッドが並んで二つ。ドレッサーや化粧棚のある凹み部分もあり、もう一つのドア……おそらく洗面所(兼バスルーム)だろう……に、接している。
 その洗面所と思われる場所の扉が開いて、先程の彼女が飛び出して来た。手にブルーのバスタオルらしきものを手にしているが、それよりもやはり渉の目を奪うのは橙色……というかオレンジのどぎつい発色の髪の毛である。だが、ひいき目に見る必要もなく相当の美人顔(そしてスタイル)である彼女にとり、その奇抜な髪の色は異様というよりむしろ美貌を際立たせているようにも見える……と渉は思った。だが、しかし。そう、と渉は心中の思いに首を振る。そんなことじゃない、そもそも彼女は何も……
「はい、これ。ねぇ、寝てた方がいいよ……はい。痛くない……どう?」後頭部にタオルが押しつけられる感覚。痛みがあったが、それよりも上質のバスタオルの柔らかい感触がたまらなく心地好かった。渉は目を閉じて大きく息をつく。「大丈夫?ねぇ、とりあえずそこで寝てなよ……動ける?」
 頷く。「あぁ……大丈夫……」声を出すと、やはり頭が痛い。そう、こういう時は喋らない方がいい。渉はそう自問自答した。彼女の意見が正しい。今の状況ならば、とりあえず横になって落ち着くべきだろう。直立していると(今は座り込んでいる訳だが)、血液の循環が悪くなる。下手をすれば気を失うかもしれない。
 立ち上がろうとして……そして、渉は膝を大きく震わせた。「ああ、ほら、無理しないでよ。はい……」彼女が肩を貸してくれる。情けなく思いながらもそれに感謝し、渉は頷いた。「うん。はい……こっち。ベッド、散らかってるけど……構わないでしょ?」頷く。細かいことを考えている余裕はなかった。
 手を貸されてベッドに横たわると、渉はうつぶせのまま目を閉じた。「大丈夫……?やっぱりさ、他のボーイとか……お医者さん、呼んだ方がいいのかな?ねぇ?」心許なさそうに女が言う。渉はその言い回しに何かを感じたが、とりあえず柔らかな羽毛の枕に額を押し付けるようにして頷いた。「そうだよね。うん……わかった。えっと……やだ!これじゃ出られないし……着替えないと。えーっと……」今更のようにそう言った彼女に、心中で苦笑する。だが。
「パネル……」渉は息を吐くようにして、静かにそう言った。ゆっくりと喋れば、痛みはそれほどではない。「端末、使った方が……いいよ……」
「え?パネ……端末?何?どうしたの?」女の聞き返しに、渉は馬鹿なことを言ったかと少しばかり後悔した。
「コンピュータの……インフォメーション、端末……あるでしょ……?」ゆっくりと、薄目を開ける。ベッドサイドに立っている彼女。「それを、使って、呼べばいい……ドクター、呼ぶことができるよ……緊急、じゃなくてもいい……」渉は苦笑した。自分のことで、何を躊躇……いや、ためらっているのか、俺は。
「コンピュータ……あ、そうか。あれね、この、コンビニの奴?」渉はまた苦笑した。
「そう、それ……使い方、知ってる?」
「え、うん。晴之が使ってたの、見たことあるけど……どうするの?コンビニのと同じで、触ればいいの?」
 渉は頷こうとして、そして動作を止めた。むしろ、ゆっくり話した方が楽だと気付いたのだ。「そう……項目があるから、それで、一つ一つ、選んで……多分、病気、怪我……そういう項目が、あると思う……」確か、あったはずだ。
「あ、あったわ!これね……あれ?」意外な、そして驚いたような声。「どうして?動かないよ……カード・ノット・ファンドだって?どうして?何かのファンドじゃないと駄目なの?」怒ったような声。渉は何かと思い、そして……今度こそ間違いなく、表情に出して苦笑した。
「違う……カード、あるでしょ?ゲスト、カード……君の、奴。それを……使って。そうしないと、動かないんだ……」使いにくいシステムだ、と渉は今更のように思った。まさにこういう時、どうしようもないではないか。まったく、自分の船室のそれぐらい、カードなしで……
「カード?ああ、わかった!待ってて、えっと……」動く音。巡らせた薄目の先に、散らかった衣服を探る彼女がぼんやりと見える。「あれ、ここじゃない……バッグの中だっけな。あ、あった!」やれやれ、と思う。「ねぇ、あったわよ!これを使えばいいんでしょ?」確認はできないが、渉は声で肯定する。
「カードは、必須だから……いつも、持っていた方がいいよ……」好々爺のようにそう付け加えて、渉は待った。
「あれ?カード・ノット……駄目じゃない!間違ってるよ、これ?カードが、使えないけど?」渉は彼女の言葉に耳を疑った。だが次の瞬間、ことの成り行きを理解する。
 そうか……そうなのか。「君の船室……ここじゃないね……?」驚いたような彼女の声に、もう一度聞く。少しためらうような肯定の返事が戻った。渉は考えて……そして、それに行き当たった。「俺が、持ってる……カード。これ……」うつぶせのまま、スーツの胸元を探る。さっきから、どうも息が苦しい。少しばかり苦労して、目的のそれを取り出す。「これ、使って……これなら、大丈夫……」ひじを曲げて腕を伸ばし、ベッドサイドにそれを差し出す。どうしてだろう、息苦しさが増している。うつぶせで呼吸が圧迫されているのか、それとも、何か……
「これでいいの?このカード、使えばいいのね?」かすかに、渉は頷いた。頭が重い。そして、何かが冷たい。そんな中、聴覚だけが妙に過敏に反応する。彼女がバタバタと走る音。缶やゴミが、ガサガサと蹴散らされる音。うるさい、と渉は思う。もう少し、静かにしてくれ……「あ、動いたよ!あははっ、すごい!」無邪気に喜ぶ声もまた、やかましかった。「えーっと、医者だよね。どれかな……ちょっと待ってて。今すぐ……」御託はいいから、さっさとしてくれ。心底からそう思う。まったく、どうにも冷たい……「これかな?あれ、二つあるよ?あ、こっちはダメみたい。どっちなの?わかる?えーっと……」
 灼熱のような感覚の中で、渉のどこかが冷めていた。冷ややかな何かが、熱い全身の奥底で胎動している。サウナで冷水を含んだ時のようだ。肌はひりひりと熱いのに、どうしてか体の芯だけが冷たく……そう、氷のようになっている。風呂にでも入って暖まらなきゃな、部屋に戻れば沸かしてあるだろうか。そう思い、きっとカサンドラが沸かしてくれているだろうと推測する。たいした奴だ、今度誉めてやらなきゃな、そういえば、九条院さんを招待するためにはどうすればいいんだろうか。招待状のメールでも出そうか。カサンドラに頼んで、パーティの準備をさせて……そう考え、船室で瑞樹をもてなしている自分の姿をイメージして……
 そして、桐生渉はふっと意識を失った。
 
 
 


[295]長編連載『M:西海航路 第十八章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時16分 Mail

 
 
   第十八章 Mimic

   「振り?」


 青く輝く海原を一望にできる砂浜。
 どこまでも白い砂の大地が、美しい弧を描き続いている。
 ここはどこだろう、と桐生渉は思った。だがそこで、自らの感覚がどこかおかしいことに気付く。そう、触覚が感じられない。嗅覚もない。目で見え、耳に聞こえるが、肌に触れるはずの太陽の熱さ、風のさわやかさが感じられない。そして、あるべくはずの常夏の香りも。五感の残る一つである味覚は、だがしかし発揮させることはできなかった。
 とすれば、と渉は思考した。これは、現実の光景ではない。目で見て、耳に聞こえるだけの、偽りの……仮想のそれであるのだろう。おそらくはバーチャルリアリティのそれと同じ、目の前に映し出されている、実体を持たない虚構の映像なのだ。映画の凝ったようなものか、と渉は思い、そしてそんなものは下らないと、吐き捨てるように思った。
「下らない?」不意に、声がする。遠くから響いてきたような……風が運んだような声だった。渉の心中のそれを反芻させるように、問い正す声。それが実際に聞こえたのかどうか、渉にはわからなかった。ただ、声がしたのだ。はっきりと、どこからか。
 渉は顔を上げる。答えなければならない、となぜか思う。「ああ、下らない。」
「どうして?」返事。いや、重ねて尋ねているのか。下らないのは、どうしてかと。
「だって、本物じゃないから。」渉は即答する。思いつくままの答えだった。だが、口に出してみて、それ以上の答えはないだろうと確信する。そう、それが正しい結論だ。反論できるものならしてみるがいい。
「なら、本物って何?もっとリアルにってこと?リアルならいいの?More reality?」鼻にかけたような言い返しだった。子供じみている、と渉は思う。
「ああ、そうだよ。」笑った。「リアルならいい。R、E、A、L。」一語一語、アルファベットを発音する。「リアルの意味を突き詰めれば、それは一つしかない。真実、つまりは本物、ってことだ。」語気を整えるために少しだけ息を吐いた。「つまり、本物がイコール、リアルさ。こんなまやかしじゃない。リアルは、常に一つしか存在しない。なぜなら、それが本物だから。現実に、あらゆる物事は一度しか起こり得ないだろ?それが真の意味でのリアルだ。そういう言い方を、するならだけどね。」渉は相手を諭しつけるように言った。
「どうして本物は一つしか存在しないの?だって、この海岸も、もっとリアルにしていけば本物そっくりになるよ?風を感じられないから駄目なの?水に入れないから駄目なの?人の触感なんて大したことないよ。味覚だって、嗅覚だって簡単に騙せるよ?五感すべてに本物と同じ影響を及ぼせたら、それは本物じゃないの?」
「確かに人間の五感なんてその程度だろうね。」渉は素直に認めた。「俺もそう思う。この海岸は奇麗だよ。音も臨場感たっぷりだ。本物そっくりだとは思うよ。これに風や砂の触感や、磯の匂いや海水のしょっぱさを加えたら、きっと誰でも間違うだろうね。ここが、本物のビーチだって。」
「そうでしょう?だったら、それが本物だよ。」嬉しそうに声が言った。
「でも、違うんだ。それは、そうなっても本物じゃない。どこまでリアルを突き詰めても、本物にはなれないんだ。決して。」
「どうして?そんなのおかしいよ。本物そっくりなんだよ?消えたりしないし、範囲だって無限に設定すればいい。誰にも疑われないよ。誰も、気付けないんだから。そういった要素をすべて満たして、それでもまだ、本物じゃないの?」
「ああ、そうだ。」渉は言った。「本物じゃない。」
「どうして?それじゃ足りないの?まだ、何かが必要なの?だったら、それは何?本物じゃない、そう答えられる根拠は何なの?」少し腹を立てたように声が聞く。
 渉は息を吸った。そして、吐く。努めて冷静に、ほほえんで見せた。「だって、それは本物じゃないから。」ゆっくりと続ける。「本物じゃないことを、誰か一人でも知っている。そうである限り、それは偽物さ。リアルじゃない。」
「本物じゃない……なにそれ?」憤慨したように声が言う。「そんなのおかしいよ。誰か一人でも知っていればって、どういうこと?」
「簡単さ。リアルは……本物は一つしかない。それは言い方を変えれば、誰か一人でも本物であることを知っているから、本物なんだ。そして、そうでないものはすべて偽物。例を挙げようか?」同意を待たずに渉は続けた。「昔、ある古代都市の伝説があった。お伽話に出てくるような町さ。金銀に彩られ、一大栄華を誇った巨大な都。だけど大きな戦争が起こって、何もかも焼失して、いつしか幻の町になった……そんな感じの伝説さ。」息をつく。「それから、途方もない月日が経って、消えた町の存在は、数百、数千年後の……この話に出てくる当時の人々にとっては、あくまで作り話だった。つまり、偽物さ。リアルじゃない話、と言えばいいかな。浦島太郎や一寸法師と同じようなものさ。本当じゃない、誰かが面白おかしく作った話なんだろうって、みんな思っていたんだよ。」渉はそこで語るのを止めた。相手の反応を待つ。
「……それで?」渉は微笑した。そう言ってくれると思っていたのだ。
「でもね、一人の少年がいた。彼は、父親にその町の話を聞かされて、そしてそれに夢中になった。お父さんの話が、本当に真実味にあふれていたのかもしれない。この風景みたいに、臨場感たっぷりだったのかもしれない。迫真の表現で……そう、君が言ったみたいに、どこまでもリアルに語ってくれたのかもしれないね。それを何度も聞かされて、少年は育ったんだ。」沈黙。渉は一息ついて続けた。「とにかく、彼はその町の……戦争の果てに焼失した町の話が大好きになった。そして思ったんだ。本当に、その町はあったのかもしれないって。その後大人になるにつれ、彼のその思いは次第に真剣になっていった。消えた町はきっとある、間違いない、今も金銀財宝と共に、どこかに埋もれているんだ。彼はそう信じて本気になり、いくら歳を重ねてもその思いは消えることはなかった。いや、むしろ強まっていったんだ。」
 渉は息を吸った。「勿論、周りはみんな笑ったよ。彼の父親ですら、そうだったかもしれない。だって、そんな町は世界のどこを探してもなかったんだからね。あくまでお伽話、作られた話……そう、決して本物じゃない話として、みんなが彼を笑った。作り話を本気にして、発掘に私財を投じる彼を。」目線を上げる。見渡せるのは、偽りの世界。「だけど、彼は諦めなかった。あらゆる人々から、自分以外のすべてから偽りだ、本当じゃないって言われても、決して諦めなかった。彼は財産を投げ打って、どこかに……そう、おそらくは埋もれてしまっているであろう古代の町を探したんだ。」首を振って、笑う。「それは周りから見れば、きっと滑稽に見えただろうね。神様は世界のどこにいるか、それを歩き回って探しているようなものだろうからさ。でも、どんなに馬鹿にされても、彼は諦めなかった。それで、どうなったと思う?」
「……わからない。教えて?」素直な欲求。その問いに至るまでに交錯したであろう思いを推し量り、渉は大きく頷いた。
「見つかったんだ。」もう一度、頷く。「本当に、見つかったんだよ。土の下から、地面の中から、失われた町の遺跡が見つかったんだ。巨大な、伝説のままの古代の町が、本当に掘り出されたんだよ。それはもう、たくさんの金銀財宝と共にね。それらを調べて、そこが埋もれた古代都市のあった場所だってことが確かめられたんだ。」息を吸う。「そう、本当になったんだよ。それまで、すべてが……彼以外の誰にとっても真実じゃなかった話が、真実になったんだ。つまり、本物……リアルになったのさ。」
「それなら、私の言ってることが正しいよ。」声は先手を打った。「今のお話、この海岸の現状とまったく同じじゃない。私が本物だって言ってるのに、貴方は偽物だって言う。きっと、他の人達にも同じだと思うよ。でも、私はこれが本物になるって信じてるもの。細部までリアルを突き詰めれば、いつか必ず本物になるよ。貴方や他の人がそうならないって言っても、私はそんなこと認めない。その、埋もれた町を見つけた人と同じだよ。」誇らしげに声は言った。
 渉は笑った。その言葉もまた、渉の予想通りだったのだ。「残念だけど、それはまるきり反対なんだ。」静かに答える。「今の話とこの風景の話は、確かに似てる。でも、君と俺の立場は反対さ。君は埋もれた町を見つけた男と自分を同じにしたけど、それは違う。立場的には、君が彼を笑う周囲の人々なんだ。俺が、町を見つける男の側なんだよ。」
「そんなのおかしいよ。」怒ったような声だった。「根拠がないよ。正しかった側に貴方を置く根拠はどこにあるの?どう考えても、私が町を探す男の人の側だよ。だって、私は本物になるって信じてる。貴方は、それを否定してるだけじゃない。」
「俺だって、信じてるさ。いや、確信してる。」渉は努めて冷静に語った。「このまぼろしが、決して本物になることはない。俺は、それを信じてる。」
「何それ?」苛立ちは相当に強まっていた。「そんなのずるいよ。だって、今の話は大勢が否定する物事を、たった一人が信じていて……それが、最終的に逆転したってことでしょう?それなら、私が少ない方だよ。貴方が、笑う方じゃない。触れられないし、匂いもないから、これは本物じゃないんでしょう?みんな、そう思うかもしれない。でも、私だけは違うって思ってるもの。どんどんリアルに近付けていけば……」
「今は確かに。」渉はあえて、相手の言葉を遮った。「今は確かに、そうかもしれないね。俺だけじゃない、みんながこれは本物じゃないって言うかもしれない。立場的には、君は町を探す男と同じだ。でも、違うんだ。」構わず続ける。「考えてみて。君が、この景色をもっとリアルにしていったらどうなるか。確かに君の言う通り、誰もこれが偽物だと気付かなくなるだろう。もしかしたら……いや、もしかしなくても、俺も同じように騙されるだろうね。ここが本物の海岸だって、信じるかもしれない。世界の皆が皆、そう認めるかもしれないよ。」
「そうでしょう?だったら、そうするまでリアルを突き詰めればいいんだよ。そうしたら、それが本物。」勝ち誇った声が言い切る。渉は再びほほえんで……そして、ゆっくりと首を振った。
「違うんだ。仮に君の言う通りになって、世の中の何もかもが、誰も彼もがこの景色を本物だと思ったとしよう。だけどそうなったとしても、決してこれが本物じゃないんだって、一人だけ……ただ一人だけ、わかっている人がいる。それがいわば、埋もれた町を見つけた男さ。その人にとっては、君が作り出したこの景色は、例え目に見え、触れられ、香りがして、味があって、音が聞こえても……そう、どこをどうしようとも、既存のありとあらゆる鑑定法で本物だとしか結論付けられなくなっても……それでも、確実に偽物なんだ。これは、本物じゃない。本物には、決してなれないんだよ。」
「なにそれ!」憤慨した声が渉を叱咤するように響いた。「それが、貴方だって言いたいの?そんなのおかしいよ。貴方だって、騙されるかもしれないって認めたじゃない!それでも、最後には必ず本物を見抜く自信があるっていうの?そんなの自信過剰だよ!」苛立ち。
 渉は笑った。「違うよ。どれだけリアルにしても、一人だけ必ず偽物だとわかっている人がいるっていうのは……そいつは、俺なんかじゃない。俺も騙される方だよ、間違いなく。」そして、静かに言う。「その人は、他ならぬ君さ。この風景を作り出して、本物にしようとしている、君。」宣告するように言い、渉はその言葉の意味を噛み締めた。
「私……?」明らかに戸惑ったような声。「……どうして?」
 渉は頷いた。そして、まっすぐに……目の前の海岸を見据える。「君は、自分がこの海岸を本物そっくりに作ったということを知っている。本物に近付けるために、徹底的にリアルを追求して、とことんまで本物そっくりに作り上げる。だけど、だからこそ、それを行った君だけは、これが偽りであることを知っているんだ。世界の誰もが本物だと思っていても、俺を含めたこの世の他者すべてが、間違いない、この海岸は本物だって認めても……君は、君自身だけが、この海岸が偽物だと知っている。本物の真似事をしている、ただのイミテーションだと知っているんだ。だから決して、この景色は本物にならない。本物にはなれないんだ。」
 時間が経った。おそらくはほんの一時のことだったのだろうが、渉にとっては長く、そして辛い時間だった。「……なら、私が死んだらどうなるの?」渉は目を閉じる。「ううん、私がこれを偽りだと思わなくなったら?作った私ですら、これは本物だと思ってしまったらどうなるの?世界に一人も、偽物だと思う人がいなくなったら?そうなっても、これは偽物?本物じゃないの?」それは怒りというより、嘆いているような声だった。
「偽物だよ。」渉は言った。何かが、痛い。「君がどうなろうと、君自身がそのことを忘れようと、それは偽物さ。」
「どうして?そんなの変だよ。まるで支離滅裂。」語尾が震えている、そんな気がした。
「落ち着いて。今、君が言った状態を考えるんだ。」渉は諭すように語った。「君も俺も、これを本物だと思ってしまった。世界の誰もが、そう思った。確かに、そうなったらこの風景は正式に本物ということになるだろうね。世間の常識になるかもしれない。教科書や辞書にもそう記載されるだろう。」渉は息を吸った。「でもそれは、埋もれた町を見つけた男が生まれた時の、社会全体の認識と同じさ。埋もれた町は存在しない、それは作り話だと、誰もがそう思っていた。きっと、常識だったろうね。百科辞典にも、その話はフィクションですと書いてあっただろうし。町が本当にあるなんて考えるのは、愚かで途方もなさ過ぎるものだったろうね。」
 一区切りすると、渉は続けた。「だけど、その世界に彼は生まれた。そして、その世界で彼は信じた。言い方を変えれば、彼以外のすべてが確信していたことを、彼だけが否定した。埋もれた町の話が作り話だっていう定義は、誤りだ。間違ってる。町は現実に、本当にあるんだ。そして、彼はその説を突き詰め……遂には、それを証明した。」渉は繰り返した。「君の作り出そうとしている空間は確かに凄いだろう。この世の誰も見抜けないかもしれないし、それが本物だと認められ、常識にすらなるかもしれない。君や俺自身がこの世からいなくなってしまった後、世界の人はすべて、作られたこの空間を本物だと信じ込むかもしれない。」
 渉は虚空を見つめた。何もない。そう、ここには何もないのだ。「だけど、そこに彼が生まれたら?一人の存在が、男でも女でもいい……その人が、この空間は偽物かもしれないと思ったら?その人の出現が、いつになるかはわからない。埋もれた町の話みたいに、二千年もかかるかもしれない。でも、いつかきっと、町を見つけた男のような存在が出現するだろう。そして、必ず……君の作り出した場景が、偽物だと証明してしまうだろう。」渉は言葉を切ると、口許を緩めて、再び口を開いた。
「それはね、根拠や手法の問題じゃないんだ。知識や根気、インスピレーションの問題でもない。虚構だと看破されるのは、虚偽の事実が証明されるのは、その理由はね……結局のところ、君の作り出した光景が偽物だからだ。本物そっくりに、作ってあるからだ。本物の海、本物の砂浜、本物の空や風……それを模倣して作ったものだから、必ず、いつか偽りだと証明されてしまうんだ。」
 沈黙があった。長い、沈黙。「本物は一つしかない。今は本物だと誰もが信じていても、いつか誰かが、その物事が偽りだと思うかもしれない。それが本当に偽物じゃないのなら、偽りだと思った奴は滑稽なピエロのまま終わるだろう。でも、もしもそれが証明されたら、すべては引っ繰り返る。誰か一人でも知っていればって俺が言ったのは、そういう意味なんだ。」渉の言葉は熱を帯びていた。「君が、偽りだと知っている。君が、本物に似せて作った。だから、これは偽物なんだ。それに関しては、時間……過去も未来も関係ない。かつてそうだったとしても、いつかそうなるとしても、何かが本物か偽物かは、決して変わらない。それを真理って言うのかどうかはわからないけど、俺は、そう思うよ。」
「普遍的に妥当性を持ってるってこと?」声はかすかに震えていた。そして、それが渉の胸を突き刺した。「それなら、今、私達が見ているものは何?私達が知っていることは何?数式も文法も化学式も歴史も、正しいって言えるの?それが全部偽りだったら、何を信じればいいの?本に書いてあることも、人が教えてくれることも、すべてが間違いかもしれないよ?」叫び。「ねぇ、教えて。絶対に信じられるものって、何?」
 渉は目を閉じた。堅く、そして強く。切り裂くような叫びが、その胸にこだまする。
『絶対に信じられるものって、なに?』
 渉はゆっくりと息を吸った。そして、吐く。言葉は用意してあった。それが、かけられるべき詞だった。
「この世界に絶対は……」だが、そこで唇が強ばる。いや、唇だけではない。喉が、肺が、体が……心が。
 すべてが、硬直していく。凍りつくように。
 違う。
 違うのだ。
 間違っている。
 この世界に、
 この世界に、絶対は……
 
 


[296]長編連載『M:西海航路 第十八章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時17分 Mail

 
 
「桐生渉君?」渉は目を覚ました。眩しい。そして、目の前に輝く何かがある。息が荒い。自分はどうしていたのか、今どうしているのか。それを知ろうと思い、首を巡らせようとして……
「がっ、ぁ……!」痛烈な感覚が、渉の頭蓋を駆け上がった。苦悶の表情と共に体を震わせる。両腕で頭を押さえて……そんな渉の手に、誰かが触れた。
「大丈夫!?ほら、暴れないで……」誰だ。誰なんだ……渉は苦痛の中でその声の正体を模索した。女の、声。女の……「しっかりなさい!落ち着いて……大丈夫、私はここにいるから。だから、落ち着きなさい。ね?」知っている……いや、知らない……声?だが、痛い……「あ、駄目。触らない方がいいわ。止血は終わっているけど、傷はまだ乾いて……」
「誰……」渉は喉を必死に動かした。重く、そして苦しい。「誰、なんだ……?」かすれた目で、相手を窺う。眩しいライトの下で、何者かのシルエットが見える。肩までの断髪と、そして……大きな眼鏡を、かける仕草。
「大丈夫、安心して。ここは船の医務室で、私は船医の悴山。」ハカセヤマ、という聞き慣れない名前を口にして、その女性は微笑した。「まぁ船医といっても、臨時の手伝いみたいなものなんだけどね。アルバイト、というのとは少し違うんだけど。まあ、ちょっとばっかり専門じゃないことをやってるの。」ようやく目が慣れ、渉は自分が寝台に横たわっていることに気付く。そして、目の前にいる白衣の女性……そう、まぎれもなく女性……は、口許に手を当てて渉を見下ろしていた。眼鏡の奥の不思議な色の瞳がきらめき、悪戯っぽい……どこかおどけたような表情が覗く。「ちなみに実は私、脳神経どころか、外科自体が専門外。だからごめんなさいね。包帯巻くのなんてインターン以来だから……どう、起きられそう?まだ痛む?」
 渉は答えようとして……今度は、鈍い痛みが後頭部から背筋へと降りた。まるで鉄の塊を背中に埋め込まれるような、重苦しく不快な痛み。「あらあら、駄目そうね。いいわ、もう少し寝てなさいな。あいにくというか幸いにもというか、今は患者さんいないから。今日一日当直してて、船酔いの子供連れが四組と、おじいさんが一人来ただけよ?それにしたって、ちょっと診て薬処方したらそれでおしまい。まったく、張り合いがなくて困っちゃうわ。」苦悶の表情の渉をよそに、ペラペラと話し続ける女医。「でもまあ、予測はしていたけど、本当に楽な仕事よね。元々、重病の人は乗れないのよ、こういう船。そうでなくとも、主治医の認可が必要だし……だからこっちは、座ってるだけで世界旅行を楽しめるって訳。何というか、正直ちょっとうらやましいわ。これが病院だったら、先輩医師やら看護婦達との折り合いとかで、もう大変よ、きっと?」
「わ、わかりました……!」鈍い痛みの中で、渉は憤慨したようにそう言った。「わかりました、から……」何を話しているのか理解はできる。だが、目の前で苦しむ患者を前にして何を……そう思う。「俺は……つっ……!」また、痛みが後頭部から走った。
「ああ、ごめんなさい。頭痛いとこにこんな話しちゃって。」今更何を、と渉は思った。悴山は悪びれたように……いや、決してそうは見えないポーズで、片目を閉じる。「普段缶詰みたいな生活してるから、知らない人に会うとどうしてもこうなっちゃって。ほら、桐生君、話しやすそうな顔してるし。言われない?言われると思うんだけどな。」渉は返答に窮した。女医……悴山医師が、渉を見下ろしたまま微笑する。眼鏡の奥の瞳が、また悪戯っぽく輝いたように見えた。二十代後半か、三十代……なのだろうか。口ぶりだけなら、十代でも通用しそうだった。
 そんな渉の苦笑いにも似た思いをよそに、悴山医師は肩をすくめる。「まぁね、実をいうと退屈してるの。というより、遊びたくて仕方ない、かな。だってそうじゃない?壁一枚隔てた四方共、アミューズメントパークもびっくりの施設で囲まれてるのよ?プールにエステ、カジノにゲームセンター、劇場に映画、喫茶にレストランよ?ブティックだってたくさんあるし、行きたくないけど図書館だってあるのよ?船内新聞読んでたら、もう分刻みで面白いことやってるじゃない。そりゃテレビで見られるけど、そんなの蛇の生殺しよ。私もう、我慢できなくて……あーあ、こんなバイト引き受けるんじゃなかったって後悔し通し。まったく、深読みしすぎたのよね。そりゃ、お嬢様のお守りを離れられるって考えたら、そうした方がいいかなって思うわよ。でも……」悴山女医の言葉の一つが渉の心に引っ掛かったが、それ以上にその喋りっぷりに彼は圧倒されていた。
「あの……」
「ああ、ごめんごめん。だからさ桐生君、お願い。今晩、泊まっていって?私、明日の午前六時まで、ずっとここに詰めてなきゃならないの。夜に何か起こるかもしれないけど、昼間の閑散の度合を考えたら、そうなる可能性は限りなくゼロに近いわ。思うんだけど、スチュワーデスのレベルが高すぎるのよ。まったく、どうして私なんかを臨時雇いにしたのかしら。」子供っぽく口を尖らせ、腕を組んで首を振る悴山医師。さらっとした、肩までの黒い断髪が左右に散った。
 渉は黙した。ずきずきと痛む頭を抱え、何事も発しないままベッドに四肢を投げ出す。苛立ちのような、呆れ果てたような、何か暗い感覚に包まれたまま、渉は天井を見上げた。低い天井だと、ふっと思う。スプリンクラーと、そして白い照明……「あれれ、桐生君?大丈夫?」
「大丈夫です。ただ、ちょっと眠りたくて……」口にしてみて、それが本当なのかもしれないと渉は思った。全身に倦怠感。だが。「あの……俺は、どうしてここに……?」悴山医師の方を見ずに、渉は尋ねた。そう、確か覚えているのは……
「ああ、富名腰さんが連絡してくれたのよ。」また、聞いたことのない名前だった。フナコシ……?「若いんだから仕方ないけど、乱痴気騒ぎもほどほどにしとかないと駄目よ?ふざけて転げ回るなら、床掃除ぐらいしなきゃ。まあ、若いうちからそれができるなら苦労しない、か。あははっ。」とがめるような言い回しながら、それでも楽しげな女医の声。思わず視線を向けた渉は、再び襲ってきた痛みの中で……教師のように、諭すような目線を向けている悴山と相対した。「あっ、勿論わかってるから。そういう方面は、安心していいわ。まあ、貴方も彼女に負けず劣らずのプレイボーイなんでしょうけど……」悴山女子の唇が、気になる形に持ち上がった。艶やかに……光っているようにも見える。渉の混乱はさらに増した。「……まあ、いいわ。とにかく、今夜くらいは安静にしててね。まだ旅は長いんだから。以上、医師としての勧告でした。」
「俺は……」渉は口を開こうとして、そして思い留まった。頭の中を駆け巡る種々雑多な情報をまとめようとして……激しい痛みに眉根を寄せ、屈する。「……そうします。」
「うん、よろしい。まあ、横にはなっていた方がいいけど、無理に眠る必要はないから。よかったら、私のおしゃべりにでもつきあってくれると嬉しいかな。」渉はぞっとした。本当に、小さな身震いが走る。「あ、勿論無理強いはしないから。迷惑だったり、眠りたかったら言ってね。薬、処方してあげる。」悴山は指を一本立ててみせた。大きな琥珀色の縁取りの眼鏡の奥で、未だ悪戯っぽい輝きを失わない目が細められる。茶目っ気たっぷりとは、こういう表情のことを言うのだろうか。痛みの中で、渉はぼうっとそう思った。
「わかりました……」渉は了解した。状況が今一つ不明瞭だったが、とりあえず自分が怪我をした経緯はおぼろげながら思い出していた。だとすれば、どうしてこの医務室に至ったのかも、大方は予想がつく。富名腰という名前があの『彼女』だとすれば……と、渉は橙色の長髪を持った美しい女性とその肢体を思い出して、思わず深く息を吐いた。
「どうしたの?ため息なんてついちゃって……ははぁ、さては恋煩い?」目ざとい……いや、耳ざとく悴山医師が突っ込む。渉は別のため息をつきたくなった。「あれ?でもやっぱり、そんなことはないかな?うふふ、何しろ当面、あんな美人のガールフレンドがいるんだもんね。それとも、実は本命さんは別なのかな?桐生君は予定がいっぱいで、両手の指じゃ足りないとか?」ほがらかに……いや、甲高いとすら形容できる声で、悴山医師が笑う。渉は今度こそ本当に、二度目のため息をついた。途方もなく、深く。ゆっくりと逸らせたその視線に、部屋の様子が映っていく。ドアが二つ。机と大きな戸棚、二つ並んだベッドと丸椅子。部屋はまさに、診療のために作られていた。まさに医務室というか、まるで学校の保健室のようだ。「いいわねぇ。若いうちはそれぐらいでなきゃ。恋愛の七つか八つは経験しとかないと、まともな大人にはなれないわよ。」悴山はうんうんと頷き、そしてまた話し続けた。「でもまぁ、桐生君みたいな……」
 渉は留まることのない彼女の話を聴きながら、天井を見上げた。さっきも思ったが、渉の客室ほど高くはない。そして、どこからか響いてくる音。エンジンの音だろうか。おそらくそうだろう。どこかで聞いたような、初めてのような、そんな重低音の重苦しい響きだった。
 まったく。渉はその思惟を繰り返した。まったく……そう、まったくもって多くの出来事が起こったものだ。朝から今まで……いや、昨日から今日まで。
 そして気が付けば、俺はまた倒れている。また、頭を怪我して。また……?
 また、か。
 渉は目を閉じた。様々な事件、体験……そして、イメージが脳裏をよぎる。だが今は、それを思い出すことは苦痛だった。後頭部の傷口よりのそれより、遥かに。
 そう、もうこれ以上はごめんだった。それだけは、嫌だ。もうたくさんだ。
 繰り返すのは、もう。
 悴山はまだ話を続けていた。横合いから聞こえてくるそれをどこか遠くに感じながら、渉は目を閉じてベッドで身を縮めた。
 眠りたい、そう思う。願いが届くかどうかは甚だ怪しかったが、それでも願わずにはいられなかった。
 最後に渉の脳裏をかすめたのは、悲しげな瞳をこちらに向けてくる、一人の少女の姿だった。
 
 
 


[297]長編連載『M:西海航路 第十九章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時18分 Mail

 
 
   第十九章 Medic 

   「あ、直った……かも」


 女の笑い声が、桐生渉の意識を覚醒させた。
 寝ていたのだ、瞬間的にそう気付く。まずい……と思い、次にどうして思ったのかを自問する。いや、そもそもここはどこだろうか。学生寮は既に解体されている。西之園さんのマンションでもない。俺は……!
 渉は上体を起こした。周囲は少しばかり暗い。その理由は彼のいる……横たわっていたベッドの周囲だけに、仕切りとしてのカーテンが引かれているためである。暖房が利いているのか、毛布がなくとも十分に暖かい。そして白い厚手のカーテン越しに、明るい外の空間……船の医務室であるはずの場所が窺えた。
 そして、笑い声。「あはは……これならどう?」女性の声だ。聞いたことがある……「あ!そう来ますか、君は!」また、クスクスという笑い声。渉はようやく自分がここにいる経緯と、眠っていた理由とに思い至った。そう、この明々な声の女性……いや、医師か。彼女に、俺は……「やだ!誰よ、こんなこと教えたのは!あっははは!」
 渉は起きるために半身を動かした。軽い頭痛を感じる。頭に手をやると、巻きつけられた包帯がわかった。後頭部に当てられているのは、幾重ものガーゼ。とりあえず、痛みはかなり収まっているようだ。渉は安心し、そして感謝の気持ちを……聞こえ続ける笑い声の主に持とうとして、眠る前に散々に悩まされた留まるところを知らぬお喋りを思い出した。起き抜けだというのに、どうしてか小さなため息が出る。
 しかし、とんだドジを踏んだものだ。渉はため息と共にそう思い、自身を嘆いた。そう、見ず知らずの男から気安く使いを引き受け、勝手知らぬ船室を訪れ、そこにいた……そう、正体も知らぬ裸の女性に驚かされた挙げ句、転んで頭を強かに打ち、気が付いてみれば見知らぬ場所で手当を受けていようとは。まったくもって、知らぬ存ぜぬのオンパレードだ。
 ベッドから降りようとして、素足の自分に気付く。紺の上着は脱がされ、ベッド横の壁にかけてあった。その下には、靴と靴下。冷たい床に手をついて、それらを取る。
 笑い声はまだ続いていた。何をしているのかと思いつつ、上着以外(はだけていたワイシャツやサスペンダーを含めて)を着直すと、渉は意を決してカーテンを開いた。
 はたしてそこには、眠る前にいちべつした……まさに保健室の如き医務室があった。見渡すまでもなく、一人の白衣の女性……悴山医師が、大きめのデスクについてこちらに背を向け、液晶のモニタと見合っていた。
 何をしているのだろう。わからないが、彼女は何かに夢中になっているようだ。指をキーボード……と思われるタッチパネル……に走らせ、その度に口許を緩めたり、結んだりしている。渉は静かに(忍び足、という訳ではないが)彼女に近付いた。そう、確か彼女は眼鏡をしていなかっただろうか。ふとそう思った渉の目に、悴山医師の机の端に置かれた大きな眼鏡が捉えられた。こうして外した状態で見ると、彼女の横顔はまったく別人のようにも見える。そう、まるで若年の……「やだ!もう、それは反則よ!」不意に両手を持ち上げて叫ぶ悴山。渉は驚きの声をあげそうになり、そして再び意を決した。気付かれないのであれば、仕方がない。
「あの……」渉は幾分ためらいがちに声をかけた。どう呼べばいいのかと、呼びかけてから悩む。こんな風にきゃあきゃあと声をあげている彼女を前にしては、『先生』などと呼ぶのはかなりの抵抗があった。だが、名前で呼ぶのにはそれを上回る抵抗がある。
「……え?あぁ、桐生君?」驚いた風もなく(渉にとってはそれが驚きだったのだが)、悴山は振り向きもせずに答えた。眼鏡のない彼女の瞳は細く、整った鼻の線と重ねてまるで見違えるようだ、と渉は思う。どう見違えるのかまでは考えない。「起きたのね?調子はどう?痛いところはない?」目線すら向けてこないが、その代わりのように矢継ぎ早に言葉が飛んでくる。渉は相手……悴山医師の人となりを完全に思い出した。そう、まさに『口から生まれた』という形容が……「なければ、ちょっとごめんね。今、これに熱中してて……あ、よかったら貴方もやらない?面白いわよ。もう、傑作なんだから。この子……」悴山の口許が綻びる。渉は怪訝に眉をひそめた。この子?
「あ、ええ……とりあえず、平気そうです。かなりよくなりました。どうも、ありがとうございます。」渉は頭……後頭部の傷口に触れて笑いかけた。それを聞いているのかいないのか、悴山はうんうんと勝手知ったように頷き、そしてやはり顔を向けることなく笑った。
「あははっ。いいのよ、お礼なんて。こっちは一応、仕事なんだから。貴方はサービスを受ける側として十分な報酬を払っている立場なんだし、これくらいしてもらって当然よ。」白い……そう、医療用の何かだろうか、薄手の手袋を填めた細い指が滑る。見事というか、相当に速いキータッチだった。この人はコンピュータの使い方にかなり慣れているのだろうと、渉は思う。「あ、ふーん。そういう言い回しもありなんだ。なら、そうね……これではどう?」渉に向けているのではないのであろう声が、悴山の小さな唇から漏れた。妙に赤い、と感じる。「ふふ、ごめんなさいね桐生君。ひょっとして、うるさくて起こしちゃった?今、何時?」
 渉は問われて医務室を見回した。すぐに、壁にかけてある古めかしい……アンティーク調の時計が目に入る。年月日も表示するタイプの、壁かけ時計だった。二千……十一月二十九日の……「十二時……いえ、零時五十分です。」自分は六時間近く寝ていたのかと、唖然とする。確か、レセプションの開始は七時のはずだった。
「あ、十二時回っちゃった?あははっ。熱中してて、思わず時間の経つの忘れちゃったわ。参ったな……とにかくサンキュ、桐生君。」
「いえ。それより、何をしているんですか?」渉が尋ねると、悴山は一瞬(横顔のまま)眉をひそめ、キーから手を離してクルリと丸椅子をこちらに向けた。渉は何事かと身構える。
「ゲームよ。さっき見つけたんだけど、これがね……単純なんだけどさ、もうはまっちゃって。桐生君も見る?」口許を魅力的に持ち上げて、デスクの画面を指差してみせる悴山。渉は頷き、近付いた。
「ゲーム、ですか?」悴山の隣に来た渉は、キーボード画面とモニタ画面の二つで構成される見慣れたネットワーク端末を見定めた。おそらく医療用に作られているためであろうか、通常のそれよりかなり大きく、複雑になっている。だが、その画面に映っていたものは、ゲームと聞いて渉が想像していたそれとはまったく違った。画面には、ただの……そう、いわゆるチャット画面のようなものが表示されているだけである。
「そうよ。これがまた、よくできてるんだから。」うんうんと楽しげに頷く悴山を横目に、渉はその一番下のメッセージを読む。

> 約束の日取りには、満ち足りた気分が似合います。
> 気分は悪くない。
> 悪いのは私です。日取りは私が決めましたから。
> 指図するつもりなのね?
> 指図はしません。指図するのは貴方です。
>

「これが、ゲーム……ですか?」渉が眉間にしわを作って尋ねると、悴山は大袈裟に頷き返した。
「そうなの!私、桐生君が寝ちゃってからもう暇で暇で……」渉は、怒涛のような悴山との雑談(というか、一方的な物言い)を思い出した。渉や彼女の大学の話や何や……渉が心底閉口するまで聞かされた気がする。そう、確か彼女はアメリカの大学を出て……「……もう、さみしくて仕方なかったからさ、この端末でレクリエーション機能とか、色々と検索してたのね。そうしたら、端末でプレイできるゲームって項目があって……自慢じゃないけど、私、ゲーム得意なのよ?ストラテジーとか、カレッジ時代はかなりハマってね。桐生君はどう?ゲームとかする?」
 ストラテジー……戦略?そういうゲームのジャンルだろうか。渉はとりあえず首を振った。「俺はあまり。友達の部屋でやったことはありますけど……」昔はともかく、近年……大学に入ってからはほとんど記憶がない。だが、ミステリィのゲームなら友人から借りてプレイしたことがあった。ミステリィ研で回されてきたものもある。「アドベンチャー、って言うんですか?そういうのなら、何本か……」だが、どれもそれほど面白くはなかった。自分が操作する主人公に可能なことが限定されすぎていて、やっていてもどかしくなってくるのだ。その点では小説や映画の主人公も同じかもしれないが、ゲームでは一辺倒のリアクションしかされず、どんどん先に読み進むことができないため、苛立ちはよりつのってしまう。
「あら、そっちの方?」悴山はほくそ笑むように目を細めた。「まぁ桐生君は若いし、仕方ないか。でも、ほどほどにね。ビデオもゲームも、あくまで仮想の娯楽よ。そういう衝動は、現実方面で発散するように心がけてね。まあ、どっちが健全かは難しい解釈になるけど。」何を言っているのだろうか。渉は再び眉をひそめた。
「あの……」
「ああ、ごめんなさい。」悴山は首を振った。「ごめんごめん。どうも、私って発想が貧困なのよね。普段とのギャップのせいだとは、自分でもわかってるんだけど。カウンセリングが必要なのは、むしろ私の方かもしれないわね。反省。」コツンと自分の頭を叩く悴山医師。渉は失笑の如き判断つきかねる笑顔で彼女に対する。「うん、とにかく私は無類のゲーム好きってこと。桐生君はやらないんだ。ちょっと残念。」悴山はそこで思い出したように眼鏡を取り、かけた。悪戯っぽく、その瞳が輝く。
「やらないって訳じゃないですけど……」自室にゲーム機を持っている学生仲間は多い。学生寮の中では、ソフトの貸し借りを目撃するのは日常茶飯事だった。というか、渉は数少ない『部屋にそういう機械を一つも持っていない学生』だった。もっとも専用のゲーム機に頼らない、コンピュータを使ったゲームならば可能である。大学院生の先輩の中には、はまってしまっている者も多い。渉は、ゼミの学生の何人かを思い出す。「これ、どんなゲームなんですか?チャットみたいに見えますけど……」
「あ、知りたい?」嬉しそうに悴山が目をきらめかせる。「これ、対話型のゲームなの。しかも相手は人間じゃなくて、コンピュータなのよ。」
「対話型……ゲーム?」渉は思わず聞き返す。「コンピュータと、ですか?」
「そうなの!面白いでしょう?マシンと対話するのよ?私、こんなの初めて。百聞は一見にしかず、ちょっと見ててね……」悴山は画面に向かった。白い指が滑らかに動く。「じゃあ、行くわよ。一度クリアにして、もう一度始めるわね。リスタート、と……」指が入り、渉は画面に目を向けた。

> ゲームを始めます。
>

「遊び方は単純なの。ここに、何でもいいから言葉を入力するのよ。例えば……そう、『脳震盪』なんてどうかしら。」悪戯っぽい流し目。渉は照れ、そして呆れた。

> ゲームを始めます。
> 脳震盪?
> 脳震盪は、頭の病気です。

 脳震盪、と入れた直後にそれは出力された。渉は悴山を見て……彼女が、笑う。「向こうから、こういう返事が返ってくる訳。こっちは、なるべく話が続くように、また言葉を返すの。そうね……」

> 脳震盪は、頭の病気です。
> 病気?
> 病気なら、お大事に。

 また返答。「あーあ、失敗か。」悴山が残念そうに言う。渉には理解できない。「ミスったかな。終わっちゃうかもしれないわね。うーん、なら……」

> 病気なら、お大事に。
> お見舞い。
> お見舞いに行くなら、面会時間を守りましょう。

「やった!」悴山が嬉しそうに笑い、渉の混乱はさらに増した。「セーフね。よーし、このまま……」

> お見舞いに行くなら、面会時間を守りましょう。
> 面会時間は?
> 残念ですが、面会時間はもう終わっています。
> ゲームオーバーです。
> 貴方の得点は13点でした。
 
 


[298]長編連載『M:西海航路 第十九章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時20分 Mail

 
 
「あーっ!」悴山は悲痛な声を上げて断髪を揺らした。丸椅子がきしみ、白衣の裾が翻るほどに大きく嘆く。その大袈裟なポーズに、顔を寄せていた渉は思わずたじろいだ。「もうっ!そんなの勝手に決めないでよ!」
「あの……」口を尖らせて荒れる悴山に、渉は恐る恐る声をかけた。「これ、本当にゲームですか?」
「え……」悴山は戸惑ったように渉を見た。そして、鼻のラインにそって落ちかけていた眼鏡をかけ直す。自分の……そう、痴態に恥じらうように、ほんのりと頬が染まった。「あ、あぁ、桐生君。ごめんね、思わず熱くなっちゃって。」
「いえ。でも……今の、ゲームオーバーなんですか?」
「そうなのよ。これね、要はいかに長く会話できるか、それが勝負なの。うーん、何ていうのかしら……つまり『おしまい』みたいな言葉が会話の中に出てくると、それで終わりにされちゃうのね。ほら、『お見舞いなら、お大事に』とか言ってきたでしょ?ああいうのが出てくると、大抵ゲームオーバーね。こっちは、なるべくそういう単語が出てこないように相手の話に合わせなきゃ駄目なの。」悴山は白い手を顎に当てて考える。「でもこの子、すっごい気難し屋でさ。私がせっかく相手してあげてるのに、駄々こねて困っちゃう。だから、ふられてばっかり。もう二時間以上プレイしてるのに、最高得点は……」悴山は画面を指でポイントした。それを見て、嘆かわしく首を振る。「ほら、最高で42点。今のは13点だったけど、0点って時まであったのよ?平均は20点くらいかしら。これ、どうやって満点取るのかしらね?取れないようになってる訳じゃないと思うんだけど……」考え込む悴山。
「もっと、長い言葉をかけたらいいんじゃないんですか?」渉はなんとなくそう口にした。「例えば、『お見舞いに行きたいけど、手土産は何がいい?』とか。そうすれば、どれかの単語に引っ掛かって……」
 悴山は頷いた。「そうなのよ。私も、最初はそう思ったの。でもね、駄目なのよこれ。長い台詞だと、この子……プログラムが理解できないみたいなの。例えばね……」悴山はリスタートの指示を出す。

> ゲームを始めます。
> 家庭教師?
> 家庭教師は、勉強を教える人です。

「こうなるでしょう?これに、例えばよ……」

> 家庭教師は、勉強を教える人です。
> それじゃ、貴方に勉強を教えたいんだけど。何が得意で、何が不得意なの?
> それじゃ、貴方に勉強を教えたいんだけど。何が得意で、何が不得意なの?
> ゲームオーバーです。
> 貴方の得点は5点でした。

 悴山は肩をすくめて、渉を上目づかいに見た。哀願するような表情ながら、眼鏡の奥の瞳は笑っている。「ね、こんな感じ。長い台詞だと、この子はそのまま返してくるの。しかも、その途端にゲームオーバー。最初は理屈がわからなくて、こればっかりだったわ。ようするに、プログラム的に文節の単語だけをピックアップしているみたい。文の繋がりとか、接続詞とかは理解できないのよ、きっと。」
 渉は少し考え、そして思いついた。「だとすると、単語だけをぶつける形が……あ、そうか……」悴山が行っていたゲームのやり方を思い出す。「だから一番リアクションが期待できるのは、直前の返事の中の、単語の一つなんですね?」
「そう!桐生君、冴えてるわね。理系?」渉は小さく頷いた。悴山がしたり顔で頷き返す。「だろうと思った。桐生君、こういうゲームを見ると、正攻法の攻略よりプログラムの仕組みを考えちゃう方でしょ?アルゴリズムとか、フローチャートとか。」まさに今それを考えていた渉は、図星を指されてドキリとする。
「でも、これ……船内プログラムなんですか?」話題をそらすつもりで渉は聞いた。
「そうよ。レクリエーション項目の一つかしら。暇潰しの、ミニゲームみたいのがいくつかあってね。ほら、コンピュータのOSにも大抵そういうのがついてるじゃない?トランプとか、ピンボールとか。あれ、つまんないわよね。」渉は曖昧に同意する。「これもまぁ、同じようなものだろうけど。でも、画期的よね。単純な会話でも、割と燃えてくるのよ。それに、学習機能もあるし。」
「学習機能?」聞き慣れないフレーズを渉は聞き返す。
「ええ。このゲームね、こっちの入力したメッセージを逐一記録して、活用してるのよ。だから時々、とんでもないメッセージを返して来る時があるの。タマゴ、って入れたら、コロンブスの生タマゴ、って言われた時にはもう爆笑しちゃったわ。それはゆでたまごよっ!誰が教えたの、出てきなさい!みたいな。あっははは!」声を上げて笑う悴山。白衣を着ていなかったら、どこにでもいるハイティーンの少女のようだ。渉はそのテンションの高さに思わず言葉を濁す。
「誰がって、つまり……ああ、そうか。船内どこでもこのゲームはできるから……」
「ピンポーン。」悴山は頬にかかる断髪を軽くかきあげた。さらっとした黒髪で、渉は思わずそのうなじに目を向けてしまう。「だから、この子がとんでもないことを言ったら、それは誰かがそう教えたってこと。朝になったら眠りましょう、とかね。そういう面から見ると、育成ゲームみたいよね。育成ゲームってやったことある?」渉は首を振った。何を育成するのだろう。馬とか、カブトムシとかだろうか。そういえば、競馬のゲームがあった気がする。シミュレーションの……予想ソフトか何かで、先輩がそれに熱中していた記憶があった。
「いえ、知りませんけど……だとすると、面白いですね。時間が経つに従って、次第に語彙が増えていくとしたら……」
「そう!桐生君も気付いた?この子、いずれは立派な会話ができるようになるかもしれないのよ。さっきみたいに長いメッセージを入れても、スラスラっと返事をして……ね、そうなったら、きっと凄く面白いわよね?だからさ、見た目単純なんだけど思わず燃えちゃって……気が付いたら午前様か。」壁の時計を見て、悴山は天井を仰いだ。「桐生君、包帯取りかえようね?じゃ、ゲームはひとまずおしまい。バイバイ。」悴山はパネルを数箇所ポイントして、画面を閉じた。最後に、一行だけメッセージが出てくる。

> Thank you for playing a game,Morpheme.

 ゲームを遊んでくれてありがとう……「モーフェム?」渉は首を傾げた。「……何だ?」
「ん?どうかした?」席を立とうとした悴山が、渉の呟きに反応する。「ああ、それ?このゲームの名前よ。モーフェームって呼ぶのかな?どういう意味かは知らないけど、モルヒネみたいよね。あははっ。」渉もその英単語を知らなかった。だが、どこかで聞いたような気はする。どこだったろうか。「とにかく、ゲームの時間はこれまで。はい桐生君、そこに座って。」思い出せぬまま、渉は差し示された椅子に腰掛けた。スイッチを入れると床に固定できるタイプの丸椅子である。
 その後、悴山は渉の包帯とガーゼを丁寧に取り去ると、再度傷口の消毒と治療をした。痛みはかなり収まっており、渉はもう大袈裟な包帯はいらないのではと思ったが、悴山はがんとして譲らなかった。
「桐生君は私の患者。私は貴方の担当医。何か文句がある?」渉は黙って首を振り、それ以上の言葉を食い止めた。もっとも、あまり役には立たなかったが。
 新しく包帯を巻き直し、熱や脈など一通りの診察を終わらせた後、悴山は考え深げな表情で渉に言った。「さて、どうしようか桐生君。今はこの通りの午前様なんだけど……やっぱり自分のベッドが恋しい?」着替え終わった上着のカラーを直していた渉に、自分の顎……細いラインのそれをなぞるようにして悴山が視線を送る。悪戯っぽい瞳が……さらに何か、別の色を宿しているようにも見えた。「それとも、恋しいのは美人の彼女かな?仮にも担当医としては、なるべくならここで明日の朝まで安静にしていて欲しいんだけど……でもまあ、後からあの子に恨まれるのもちょっと気分が悪いしね。それに彼女、とびっきりの美人さんだから。貴方のいないさみしさに、他の男性と思わず……何てことになったら、それこそ私が桐生君に責められちゃうし。それは、さらに嫌よね。」
 恋人……?渉は訳がわからず目を瞬かせた。「あの……」
「ま、いいわ。とにかくここは大サービスして、患者の貴方に決めさせてあげる。どうする?素敵なロイヤルスイートに戻って彼女と仲睦まじく眠りたい?それともこの白い医務室のベッドで、さみしい私と朝までつきあってくれる?」悪戯っぽい笑み。「どっちがいい?」
「あの……」何か誤解があるようだったが、渉はあえてそれを考えることは止めた。話がさらにこじれる、そんな予感がしたのだ。いや、選択の余地がなくなる、だろうか。「悪いんですけど、できるなら、俺は……」
「ふふ、嘘。冗談よ。」悴山は肩をすくめて笑った。「退屈してたから、つい、ね。貴方はもう大丈夫。部屋に戻って、ゆっくり寝なさいな。でも、いい?明日……ううん、今日一杯は、無茶をしないように。軽いレクリエーション程度ならいいけど……ジムとか水泳とか、激しい運動はなるべく控えること。いい?」
 渉は頷く。「ええ、わかりました。どうもお世話さまです。本当に、助かりました。言われた通り、……」
「Actions speak louder than words.」指を持ち上げて、悴山は渉に言った。突如かけられた流暢な英語に、渉は言葉を失う。「礼はいらないって言ったわよ、私。繰り返すけど、仕事だからね、一応。桐生君は患者。患者は、自分のことだけ考えなさい。」自信……それともプライド、なのだろうか。一瞬だけ、それが覗く悴山の瞳。今まで見たことのない、この女性の隠された一面のようなものを渉は感じる。「それより、桐生君……よかったら、あと一つだけ聞いていいかしら。」
 ほんの少し、悴山の声のトーンが落ちる。素振りすら変わっていることに気付き、渉は戸惑いながら聞き返した。「え……何ですか?」
「うん。答えたくなかったらいいんだけれど……貴方以前、後頭部に大きな怪我をしたことがあるでしょう?」渉は思わず目を瞬かせた。無論、悴山の言葉の意味が理解できなかったからではない。「縫った跡もあったし……その、こういう言い方は嫌だろうけど、決して小さな傷じゃなかったから。それがちょっと、気になって……ね。」伏せ目がちに、悴山は渉を見やった。
 渉は黙した。眼下には悴山医師の、少し自省したような顔。共に起立している今だけは、この女性が自分より背が低いのだと理解できる。いや、白衣さえ着ていなければ、どこかの大学の研究生にすら見えるかもしれない。渉はふっとそんなことを思い、そして……考えないようにしているのか、俺は、と大きく左右に首を振った。
 そう、それが何だというのだ。元より、忘れる……そう、忘れようもないことだろう。
 顔を上げる。「ええ、そうです。去年ですか……」ゆっくりと、渉は自分の発言を定めていった。「……俺、同じ場所を殴られたことがあって。それで、しばらく入院してたんです。半月ばかり……」まがりなにりも専門職である彼女は、それを見抜いてしまっているのだろうと渉は察した。そうでなければこの口達者な女性が、尋ねること自体をためらう理由がない。そう、おそらくは、それが他者の行為によってできた傷であることすら、見抜いてしまっているのではないだろうか。
「そう、ごめんなさいね。」悴山は一瞬だけ黙すると、転じて明朗に……そう、彼女らしくにっこりと笑った。「決して、興味本意で詮索するために聞いたんじゃないのよ。ただ、後遺症とか……そういうものがあったりすると、危ないから。もう、完治しているんでしょう?」
 渉は笑った。「はい。病院には去年の末までは通いましたけど、今年に入ってからはもう。だから、大丈夫です。」ほっとしたように悴山が頷く。心配してくれたのか、と思い、渉はさらに笑みを強めて首を振った。「まったく、ドジですよね。自分で転んで、また同じ場所を打つなんて。」
 悴山は何か言いたげだったが、渉が笑うのに合わせてほほえみを返した。「お大事に。でも、何かあったらすぐに連絡してね。私はここにいるか、客室に……あ、そうか。後でメールするわ。桐生君の部屋は、わかってるから。お互い、プライベートはフェアに行きましょ。あははっ。」自分を取り戻したかのように、悴山のウインク。渉は思わずたじろぐ。やはりというか、何か……彼女に圧倒されるものを感じる。苦手、という訳ではないが、話し始めたら手の下しようがないと、どこかで諦めてしまっている、そんな雰囲気。
「それじゃ。」それだけ言うと、渉は医務室のドア……二つある内、外に繋がるであろう片方のそれ……に手をかけた。
「バーイ、桐生君。」
「はい。失礼します。」片手を挙げてヒラヒラと動かしてくる悴山に、生真面目に頭を下げて、渉は部屋を出た。
 頭……傷はもう痛くない。そして、気分も悪くない。夜半だというのに眠気はないが、それは六時間も寝ていれば当り前だろう。
 渉は大きく伸びをした。爽快、とまでは言い難いが、不思議と何か、気概のようなものが満ちているのを感じる。もしもこれが治療の成果だとすれば、彼女、悴山の医師としての技量はたいしたものだと渉は思った。もっとも、それは買いかぶり……いや、彼女の個性が自然と為し得たことなのかもしれなかったが。あのお喋り……いや、こちらがたじろぐほどの明るさから解放されて、心身共にすがすがしく感じるとは。
 深夜のためか、船内の照明は少し暗い。渉は方向を見定めると、歩き出した。
 
 
 


[299]長編連載『M:西海航路 第二十章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時23分 Mail

 
 
   第二十章 Moment

   「本当に一瞬の出来事だったよ」


 静かだ。
 通路を歩みながら、桐生渉はふとそう感じた。
 既に午前二時に近いはずだった。外界よりの光はないが、廊下は歩くのに不自由しない程度に抑えたライトで照らされている。
 時間的に昼間の喧騒に及ぶはずもないとはわかるが、それでも妙に静かだと渉は感じ、レセプションはとうに終わったんだろうな、と今更のように追想する。船長と……そう、あの九条院瑞樹にも、是非にと招かれていたパーティ。特等船客のみが集うというその場に行けなかったことを、渉は素直に残念に思った。無論、社交的な場に対する興味などさしてない。だが、あの村上瑛五郎船長が主催するというレセプションは、きっと凝った趣向に満ちたものだったに違いない。まったく初日の訓練ではないが、俺はどうにもついていないと渉はひとりごち、今日はさっさと寝るのが吉だろう、とエレベータホールへ向かっているその歩みを強め……そこで、さらなる障害に遭遇した。
「……っ!」渉がそれを回避できたのは偶然に近かった。二手に分かれた廊下の片方……船内ブロックの繋ぎ場所になっているのか、照明が届かない短い暗く通路……そこに踏み込んだ渉の目の前に、何か……そう、大きな何かがあったのである。
 渉は危なくそれとの衝突を回避すると、よろめいた体が壁へ激突するのを防ぐために手をついた。冷たい金属質の壁の感触と共に、跳ね上がった心臓と神経とを自覚する。そう、もうこりごりだ。これ以上のドジを重ねてたまるものか。
 心身共に自らを取り戻すと、渉は暗い通路……隔壁とでも称するのが正しそうなシャッターの可動部がある場所……で、ぶつかりそうになった相手を凝視した。そう、誰かがいるようだ。しかも……
「車椅子……?」渉は思わず声をあげていた。暗いシルエットの中で見定められるのは間違いなく椅子……いや、車椅子に腰掛けた何者かのそれだった。しかも、かすかな音がする。何かの作動する……いや、回転しているような音。「……あ、すみません。俺……」口から、追随するように言葉が出る。非を認めるというより、反射的なそれ。うろたえている自身をフォローするために、そういう言葉を放った自分に渉は気付く。「俺、飛び出してしまって……注意不足でした。大丈夫ですか?」車椅子、という単語で思い出す。そう、向かいの部屋の博士と婦人。だが、何かが違う。渉はそう思った。
「結構。」暗がりの車椅子に歩み寄ろうとした渉の足が、その声で止まる。くぐもった、重苦しい、そして……何か、強烈な何かを秘めた声。渉は身震いしそうになり、その瞬間、理解した。
 違う……そう、違うのだ。渉は未だ影の中の車椅子を見つめ、そこに赤や緑のランプが明滅しているのに気付いた。そして……!
「くっ……!」突如としてまばゆく輝いた眼前に、渉は思わず怯んだ。カメラのフラッシュを焚かれたような……いや、違う。これはライトだ。渉はそれに気付き、そして咄嗟に目をかばっていた手を退ける。懐中電灯のような指向性を有するライト。おそらくは車椅子に備わったそれが、自分を照らしたのだ。
「非がどちらにあるか、決する必要はあるまい。」声がした。先程のそれと同じ……そう、まぎれもなくしわがれた老人の声。それと共に、渉は確信する。違う。いや、ホロウェイ博士でないなどという、矮小な部類のそれではない。もっと、それ以前の……「まったく、言葉とは不便なものじゃ。」再び、低い声。男の、しかもしわがれたというより、重苦しく……陰湿にすら響く……それ。「機械にはボタン一つで伝わるというのに、人には決してそれができぬ。」
 言葉……機械?渉はいきなりのそれに戸惑う。だがその直後、老人が何を言いたいかを理解した。そう、わかったような気になったのではない。理解できたのだ。
 飛び出してきた『人である』俺と、自分が乗った『機械である』車椅子。その二つを比喩しているのだ。渉は相手……老人の乗る車椅子が、ホロウェイ博士の使っていた一般的なそれと違う、動力を備えた形式の物であることに気付いた。そう、今俺を照らしているライトもそうだ。おそらくバッテリーとモーターを備えた、自動型の車椅子なのだろう。そしてこの老人は、いきなり飛び出して陳謝する見知らぬ俺に対し、そんな世辞の如き真似は不要と言っているのだ。さらに解釈すれば、おそらくは……そう、偶然出くわしただけで何も用はないのだから、さっさと行くがいい、という揶揄の如き意味も含ませて。
 それを理解すると同時に……渉の中に、小さな何かが芽生えた。自意識とでも呼べる、小さな反発。いや、それは芽生えたというより……今までぶら下がっていた何かが、雫となって水面に散ったようなそれだった。
「そうかもしれませんが、言葉を交わさなければ自分のこともわかりません。」自分の中で、波紋が大きく広がっていくのを自覚する。「機械は忠実かもしれませんが、ただそれだけです。機械は俺達と話すことはできません。例え話しているように見えても、それはこちらに都合のいいレスポンスを返しているだけです。互いの意志によるコミュニケーションではありません。」俺は何をしているのだろう、とどこかで思う。
「己のことなど、自明であろう。」老人の低い声が答える。その躊躇なき即答に、渉は戦慄めいた何かを感じた。「言葉は、押しなべて偽りに満ちておる。口で発せられようと、文字で記されようと、そこには正しいことなど何一つない。」そう、決して侮れぬそれ。「己のみならず、他者のそれを以ってまで己の確然を求めるなど、愚の骨頂にしか思えぬがの。」
「確かに弱い考え方かもしれません。」渉は霧散しかける自意識を奮い立たせた。「自分に自信がないのだと思われたり……いえ、本当にそうであるのかもしれませんし、ただ、他人に誉めてもらいたいだけなのかもしれません。不安で仕方のない自分を、誰かに慰めてもらいたいだけなのかもしれません。」何を必死に……という思いを、再び拭う。浮かび上がる心中の冷や汗と共に。「でも俺は、言葉にはただそれだけの価値しかないと断じることはできないと思います。会話すること、文を記すことには意味がある。でなければ、言葉や文字など生まれなかったでしょう。例え他人の言うことがすべて偽りでも、その中には偽りとしての真実が含まれていると思います。」
「偽りとしての真実とは、何かね。」老人の低い声は、渉自身が浮かばせた思いをそのまま形にしていた。
 そう、それは何だ。渉は自問し、息を詰める。「つまり……百の嘘があれば、それらを整理、解析して……」渉は本当に汗を拭っていた。今の季節は冬ではなかったか、と思う。「……その中から、正しい答えを導き出す方法があると思います。例えば、誰と対しても服のセンスがないと言われれば、普通は自分には本当にセンスがないのだなと考えるでしょう。ですが逆に、そのすべてが偽りであると仮定すれば……自分は飛び抜けたセンスがあり、それを妬まれているのかもしれないと思うことができます。もちろんあくまでも一例ですが、一つ一つの否定の内容からそれに至った理由を推測し、自分の本質はどうであるか推察することができます。つまり偽りの言葉としても、それは自分がシミュレーションを行う上でのサンプルデータにはなります。」
 渉は息をついた。相手の言葉を待ってもよかったが、もう少し話せる、と思う。「ですが、機械にはそれができません。いえ、データを集積して対応を用意することはできるかもしれませんが……」カサンドラ、彼女を思い出す。
「でも、その前提としての段階が……多様な語句で否定は可能でも、否定……いや、自分から話しかけるという『行為』そのものでしょうか。それをしようと思いつくことが、機械にはできません。受け身にはなれるでしょうし、その状態でならば批正によって人間らしく返事をすることも可能かもしれません。ですが、いざ話しかける側に立つと、機械は極端に脆いはずです。新しい発想……インスピレーションと言ってもいいでしょうか。今までにない……既存のそれでない発想を産むことは、機械には決してできないのではないでしょうか。」熱くなっている自分を感じる。だがそれを自認してなお、渉は言葉を止められなかった。「言葉は確かに不便です。ニュアンスも、使用される地域に限らず一人一人違います。日本語一つにしてみてもそうです。世界全体から見ればあまりにも複雑で多種多様ですし、言語学はだからこそ生まれたのでしょう。でも、それを……言葉を利用しなければ、人に詞はかけられない。人に詞がかけられなければ、自分にも詞は届きません。そして詞が届かなければ、自分のことは結局何もわからない。俺はそう思います。」渉はそこで言葉を切った。
「ふむ。」しわがれた声。「つまり、己が口から発する言葉はすべて己に対するものと、そういうことかの。」
「はい……そうですね。」渉は思わず口許を緩めていた。この老人がどんな反論を以って迎え撃つかと、畏れていた自分に気付く。「確かにそうかもしれません。何だか偉そうに言ってしまいました。でも、結論はそうかと聞かれると……どうも、自信がないです。」今は本当にそう思う。渉は、今の今まで得意顔で語っていた自分の変心に呆れた。
「追銭は無用。」車椅子の何者かがきっぱりと言い、渉はたじろいだ。「過程は本懐より貴重なものじゃ。その意味がわかるかの?」渉はわずかに眉をひそめる。「いや、答えずともよい。わしもまた、この歳になってそれを悟ったのじゃ。途方もない月日を費やして、ようやく気付けることなのじゃろうて。」
 独白めいた老人……そう、まさに老人の言葉に、渉は現実に引き戻された。そう、俺は今まで何をしていたのか。気が付けば、頭が……そう、頭の傷が痛い。渉は後頭部を押さえるようにして、苦笑いを浮かべた。「わかるような……わからないような気がします。曖昧ですみません。でも、確かに言葉は不自由かもしれませんが……」痛みに顔をしかめないようにして、渉は笑いを取り繕った。「……貴方と俺は、今、その言葉を使って会話をしました。結果論かもしれませんが、言葉がなければ自由も不自由もまた、表現できなかったと思います。」
「表現の手段は言葉だけではないぞ。」老人は短く答え、渉は黙した。「だがまあ、この場においてはわしが口火を切った訳じゃからの。若い人に、一本取られたと思っておこうか。」抑揚の少ない声がそう締めくくった。渉は安堵し、思わず笑みを浮かべる。頭痛はあったが、気分は悪くなかった。
「あ……すみません。初対面でペラペラと。俺は、桐生……」
「自己紹介は無用じゃ、若い人。」老声は渉の言葉を再び途切れさせる。「一期一会、という言葉を知っておるかね?」
「はい……そうですね。」だが、そこでふっと気付く。この相手の正体に。
 そう、俺は彼が誰だか知っている。
 この老人が、誰なのかがわかる。
 それは推測であろう。いや、憶測であろう。確証がある訳ではない。確信している訳でもない。
 だが、俺はこの老人が誰なのかわかる。いや、わかっていたのだ。だからこそ、俺はこんな話をしていた。そうではないか?
 そう、俺は理解していたのだ。
「ですが、相手の名を知っているのに自分のそれが伝えられないのは、もどかしいとも思います。」 渉はほほえんだ。自然に笑えた、と思う。「それこそ、詞を使うべきではないでしょうか。」そう、自分のために。
「若い人は、わしの名を知っておるのか。」老人の声は、ひとりごちるように響いた。そう、まさに……渉のそれと同じく、己に対する言葉。
「はい。九条院佐嘉光さんではないかと考えています。」クジョウインサカミチ。初めて口にするその名前を、さらりと言えた自分に驚く。そうしながらも、俺はまだ自明ではないのだとどこかで認めた。そう、これもまた自分に対する言葉なのだ、と感じる瞬間。「俺は、桐生渉です。N大学の四年生です。」頭を下げた。
「佐嘉光、か。お前さんは、わしの本当の名前を知っておるかの?」肯定する以上のそれが戻り、渉は驚きを隠せないまま相手を凝視した。そう、未だ暗がりの中にある車椅子。いつのまにか光度に慣れたライト、その向こうに座した老人の輪郭。
「いえ……それは、知りません。」何かが頭に引っ掛かる。だが、それが何かは思い出せなかった。「すみません。」
「ふむ。」その声にどんな意思が含まれていたのか、渉にはわからなかった。「N大学、か。西之園恭輔博士はお元気かな?確か、総長になられたと聞いたが。惜しいことじゃ。」渉は目を瞬かせる。意外な、そう、二つの点で意外な老人の言葉。
 いや、九条院佐嘉光の詞。
「いえ、その……西之園博士は、既に……」渉は記憶を探る。「……五年前に、他界されました。」
 短い沈黙があった。渉がさらに言葉を続けようとした途端、返事が戻る。「……そうか。それは、幸せなことじゃの。博士は誰に殺されたのかね?」
 渉は耳を疑った。いや、佐嘉光の言葉が理解できなかったと言い直すべきだろうか。『それは残念だ。亡くなられた原因は何なのかね?』この老人はそう聞いたのだ、聴き間違いだと解釈しようとする自分を感じる。そう、そんなはずがない。
 だが。
「どうして……どうして幸せなんですか?西之園博士と奥さん……西之園夫妻は、飛行機事故で亡くなったんです。何百人もの人が命を失いました。不慮の事故です。殺されたなんて……」気が付くと渉は口走っていた。何も考えず、ただ、詞を。
「間違っているかの?」小馬鹿にするような、老人のしわがれた声。「事故とは、何かに起因して発生するのではないかね?整備や操縦の手違いとしても、航空会社に殺されたと見て間違いではないであろう?」渉はまじまじと暗闇を見つめる。「不慮の事故、それすなわち不慮の死、ということであろう。他者の手により思いがけずに死ぬる、そのような幸せが他にあるかね?」  
 老人の言葉の意味を理解するには時間が必要だった。だが、残念ながらそれを理解し吟味する前に、渉の感情の一部が破裂していた。そう、いつしか膨らんでいたそれ。
「貴方の言い方はひどすぎます。」怒鳴り散らしたいのを寸でのところで抑制する。そんな部分があることが、むしろ渉にとり意外だった。「俺は、とてもそんな風には考えられません。何百人もの人達が死んだんですよ?事故の原因が機体にあったとしても、それを転じて航空会社が殺したと見るのは極端すぎます。乗客を殺すつもりで操縦ミスをしたり、飛行機を整備不良にした訳じゃないでしょう?」渉は当時のニュースを回想する。そう、ある女性と出会うまで、自分のこととしては考えられなかった『報道の中の』大事故。「たくさんの人が亡くなって、残された遺族はどれだけ悲しんでいると思いますか?それを幸せだなんて、どうしてそんな風に思えるんです?」西之園萌絵、彼女の言葉を思い出す。そう、昨年のあの日、あの時……彼女自身が、放った言葉。
「簡単なことじゃよ、若い人。」だが、あくまで老人の口調は冷めていた。「お前さんが言ったであろう。己が言葉は、すべて己に対するものと。それに宛がうならば、それこそ端から自明であろう?」そう、まるで渉の激情を楽しんでいるかのような、そんな物言い。
「どういう……ことですか?」感情のほとばしりを渉は必死に堪えた。
「簡単なことじゃ。」老人の低い声が答える。「わし自身が、死を熱望しておるからじゃよ。いや、渇望と言ってもよい。わしは、それを求めておる。誰かが己を殺しに来る、わしは、それをひたすらに望んでいるのじゃ。」
 再び、渉は黙し……いや、絶句した。
 何を言っているのだ、この老人は。
「不慮の死、か。それこそ、わしが心底から求めていたものじゃ。西之園博士は運がよい。本当に幸せじゃろう。」普通でない、何かが違う、それ。渉の心を特別な感情が走る。すぐ近くにあって、だがそれは決して頻繁には用いられないそれ。それが今、動いていた。
「俺は……」だが。渉は再び衝動を自制した。必要だからではない。どうしてか、そうしなければならないと強く主張する自分がどこかにいる。渉が激情に走らなかったのは、その『訴える』自分を肯定したからであった。「俺には、貴方の……」息を吐く。呼吸が常になく荒いことがわかる。「貴方の考えが正しいとは、到底思えません。死を望むことが、正しいとは……いえ、幸せなどとは……決して、思えません。思いたくありません。絶対に……」末尾の言葉が、渉の心を覚醒させる。後頭部よりの痛みすら忘れさせる程に、強く。
 
 


[300]長編連載『M:西海航路 第二十章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年03月29日 (土) 02時24分 Mail

 
 
「ふむ。若い人は、それほど死にたくないかね?」佐嘉光は静かに問いを発し、渉は再び戸惑った。
 何……?「どういう……ことですか?」
「死を否定するのは、自らが死にたくないからであろう。」佐嘉光は即答した。「誰しも、己が死にたくはない、そう考えておる。だからこそ、死は残らず悪いものと決めつけよる。あまつさえ、死を望むことは邪なことである、そう定義さえしておる。だが、その理由はと尋ねれば何かの?人の命は大切、生命はかけがえのないもの、社会の秩序を守る?どれも皆、聞き苦しい言い繕いばかりじゃ。そういう言葉はすべて装飾、偽善そのものじゃよ。」老人の詞は、暗く静かな夜の通路に低く流れていった。
「つまるところ、己自身が死にたくないからじゃ。他者に限らず死を肯定してしまえば、必然、自らのそれを肯定することに繋がるじゃろう。誰がいつどこで誰を殺してもよいとなれば、そこで最初に芽生えるのは誰を殺そうかという心ではなく、己は誰に殺されるかという怯懦な思いであろう。ならば、その考えに至り人はどうするべきか?当然、己を害する可能性を持つ他者は押しなべて排除する、という結論に導かれるのではないかの。」渉は言葉もなかった。流暢に……いや、まるで用意してあったかのように語った老人に、圧倒されていたと言った方が正しい。「若い人は、自救行為……いや、緊急避難と言った方がいいかの。その定義を知っておるかね?」
 渉は息を吐いた。時間……いや、猶予がないことはわかっていた。すぐにでも答えなければならない。でなければ、負けだ。
 そして、渉は負けたくなかった。どうしても。
「カルネアデスの板、ですか……」犀川創平助教授を思い出す。そう、二人では生存不可の状況では、一人が一人を除外することが法的に許される。その法的根拠を評し、どう先生は提起しただろうか。そう、確か……Y=X-1?「ですが、それはあくまでも緊急の場合……」
「緊急の定義は何に基づくのじゃ?一秒後に死ぬ場合かね?十分後に殺害される場合かね?一時間以内に、必ず殺すと言われた場合かね?明日か?明後日か?一年後か?十年後か?」
「わかりません……」犀川教授の言葉が、どうしても思い出せない。「わかりませんが、でも……」渉は必死に記憶を探りながら……思い至らぬ自分に、歯がゆさを募らせた。
「法律では、未来の害意とやらに対してはそれを認めておらぬ。」老人は言った。「だが、未来とは何時を指すのか?生命の危機に急迫しておる、とはどういう意味か?板きれを二人が掴んでしまっては共に倒れるならば、板きれを見つけた時点で辺りの他者すべてを害してはならぬのか?悠長に考えていられぬ場合だけ、それが成立するというのか?」吐き捨てるような老人の言葉。「未来を予見できぬ者を無知蒙昧と言うのであれば、己の命を救うためにはそうあらねばならぬことになろう。もしも明日……いや、七日後にどうなるかを思ったとして、その時、己は必ず目の前の何者かに殺されると予知したとしよう。先手を打ってその者を殺すのは罪かね?若い人、お前さんならどうするのじゃ?」
「俺は……」渉は圧倒されていた。意志、とでも呼ぶべきものに。「……もし、そうだったとして……でも、それがあらかじめわかれば……」考える。そう、考えなければならない。「……殺してしまう……いや、それ以外の……手段も……」答えが見つからないのか、それが口から出ないのか。それが、渉にはわからなかった。
「是が非か、という問題じゃよ。」佐嘉光老人が断ずる。「その二つしか道がなければ、どうするのじゃ?」その怒りに満ちた如き口調に、渉は後ずさった。「よろしい。ならばこうしよう。わしはお前さんを生かしてはおけぬ、だからわしの私財のすべてを以ってお前さんをこの航海中に殺すと、ここで予告しよう。さて、今わしの目の前にいるお前さんは、それを聞いてどうするかね?」
 九条院佐嘉光。
 渉の心を、凍りつくような感覚が駆け抜けた。その語気にではない。老人とは思えぬ気勢にでもない。何かもっと別の力……そう、脅威とでも称すべき力を感じる。
「俺は……」どうする?渉の思考が火花を散らすように巡った。どうすればいい?逃げる、隠れる、反撃する……!「俺には……そんな考えは………」守る、訴える……「できるとは……いえ、可能とは、思えません……現実的じゃない……リスクが、大きすぎます……そちらの……」必死に、考える。考えるだけなのか、俺は、とどこかで思いながら。
「答えは出せぬか?それとも、わしの力を推算できないかね?想像できぬか?」佐嘉光の声は今や、雷鳴のように渉の心に響いていた。「世界全体などという、規模の大きな話をしているのではないぞ。場はこの船一つでよい。この船はわしが作らせ、すべてわしの思いのままになると言ったら?公海における船舶の法規についての知識はないかね?」村上船長を思い出す。「お前さん一人を抹殺するなど容易なことじゃ。水夫に命じて殺害させ、骸を海に投げ込んで始末し、船長含めあらゆる人間の口裏を合わせてしまえばよい。お前さんは運悪く海に落ちて死んだ、という結論しかありえないであろう。その否定を望むのはお前さん一人で、だが残念ながら既に海の藻屑となっておる訳じゃ。」本当に楽しそうな口ぶりだった。だが、渉の心が憤ることはなかった。むしろそれとは逆の、何かが心を伝う。「さあ、若い人はどうするかね?黙しているとは、座して死を待つと同じじゃと思ってよいのか?」
 はしゃいでいるようにすら思える佐嘉光の問いの中で、渉は乱れる呼吸を必死に整えようとした。「貴方を……貴方を、俺は……」だが、言葉は出ない。いや、出ないのではなく、出せなかった。出せば楽になるとは思う。そう願っている部分もどこかにある。だが……
「わしを憎む理由がないかね?ならば、それも与えよう。わしの孫娘は知っておるな?」渉は目を見開いた。再び、そのシルエットが胸中に浮かぶ。九条院瑞樹。「この結婚は、あれが望んだことではない。わしが、わしの財産の相続権を違えるためにさせたことなのじゃ。」
 渉の呼吸は止まった。
 それが瞬間のことなのか、鼓動すら止まったのか、わからない。
「まあ、ていのよい合従、という表現でよいじゃろう。わしは北河瀬の小倅と組み、再び世に威を示す財閥を再興させたいと思った。その為には、わしの孫娘ときやつの息子を縁組みさせ、わしの計画に反対する親族どもに跡目を継がせないことじゃ。」まるで用意されていたように老人は語った。そう、先程のそれと同じ。
 まるで『あらかじめそう決めてあった』ように。
「そのために、わしは家を離れておったあれを無理矢理に呼び戻した。そして、あれが見たことも会ったこともないどこかの男、北河瀬いわくの『愚息』と結婚させることを決めたのじゃ。」用意……いや、決められて、いた?違う。そんなことではない。渉は、再度老人の口から出た名前を反芻した。北河瀬……
 北河瀬、だと?
 渉は凝視する。眼前の光、その先の闇、さらにその先。
 あの男。あの、うだつのあがらなさそうな男。酒の転がる部屋で、美女と乱痴気騒ぎをしていたであろう男。あの、俺をボーイ扱いした男。
 あの男が……!
「元より、あの娘は何一つ望んでおらぬ。」老人の言葉は続いていた。「すべて、わしがわしの欲のままに計画したことじゃ。お前さんは、それでもわしを憎めぬかね?そんなわしがお前さんを抹殺すると予告しても、それでも何もできぬか?」あの男……そして、この老人……!
 心臓が割れ鐘のように鳴り響いているのがわかる。渉は必死に自制した。だが、そう……何を、何に制するのだ?「そんな……俺は……」瑞樹……そして、あの……「それと、これとは……」そう、この老人は何を言った?何を、喋ったのだ?
 そう、これは……
 これは、現実なのか?
「同じことじゃよ。これでもまだ、答えは出せないかね?」嘲笑の如き含み笑い。「ならば言おう。お前さんは、あれの心をくすぐった。わしの前では常に人形の如きあの娘が、縁組みを破談にするやもしれぬ素振りすら見せおった。御原のこわっぱが、我を失い怒り狂うのも当然じゃ。そしてわしも、大事な計画を破綻させかねぬお前さんが許せん。ならば、どうすればいいか?」老人は笑った。声は聞こえず、顔も見えなかったが……確かに、笑ったのだ。「簡単なことじゃ。招かれざる客は、人知れず退場してもらえばよい。」
「俺は……貴方は……」渉の思いは千々に乱れていた。現実か、虚実か。どれが虚構で、どれが真実か。あらゆるそれが、理解不能になってしまっている。そう、何が正しく、何が間違っているのか。俺にはわからない。俺は……
 その時、渉の心で何かがざわめいた。細波のように、だが、はっきりと。
 本当に?
 本当に、そうなのか?
 俺は、わかっているのではないか?
 答えを、理解しているのではないか?
 渉は頭を抱えた。現実にそうしたのか、それとも心境がそれに至ったのか、自分自身ではもう認識できない。
「どうかね?これでわしには、お前さんを殺すに至る動機がある。お前さんにも、わしを憎むべき理由がある。もっともそんなものは、わしがお前さんを殺すと予告した時点で意味などないじゃろうて。さて、若い人はどうするね?そのまま黙し、座して七日以内の死を待つか?それとも助かるために、わしを殺すか?他の手段が無意味だということはわかるじゃろう?」
 俺は……俺には……正当防衛は認められている……この老人を殺しても罪にはならない……そうしなければ殺される……
 いや……それだけではない……この老人は……彼女を……そうだ……瑞樹を……自分の欲望のままに……身勝手に……彼女の気持ちを……無視して……結婚を……自分の孫を……物のように……人形のように……
 彼女を……瑞樹を……俺は……
 渉は目を閉じた。耳を塞いだ。それでもまだ、思考は止まらなかった。止めようがなかった。止める方法はたった一つしかない。そうだ。道徳、モラル、倫理、そんなものは関係ない。そう……
 俺は、この老人を許せない。
 俺は、この老人を生かしてはおけない。
 そうだ。簡単じゃないか。
 俺は、
「わかりません……!」悲鳴にも似た叫びが渉の唇から発せられた。それは、絶叫に近かっただろうか。「俺には、できない……!」悲鳴の如きそれをあげて、渉は腰を屈める。羞恥心など生じなかった。渉はただ、頭を抱えて……背中を丸めて身を縮め、必死に抗った。
 そう、抗ったのだ。
「ならば、若い人。それが、死を享受するということじゃ。」老人の言葉には、今まで一欠片も覗けなかった、優しげな響きがあった。そう、まるで好々爺の如きそれ。「お前さんが出した結論。それがすなわち、死を肯定するということじゃよ。」
 渉は顔を上げる。車椅子がそこにあった。ライトの照射から外れた今、その輪郭がよく見える。腰掛けた老人の姿と、そして……!
 戦慄が、渉の全身を貫いた。
 いる。
 いや、いたのだ。
 そこに、老人の背後に、誰かがいた。
 もう一人、老人の背に付き添うように、何者かが立っている。
 しかも、それは。
 女、だった。
 長い髪。そして、ほっそりとした姿。
 彼女が、いる。
 彼女が、そこに。
 ならば、彼女とは、誰か?
「若い人。」老人の声。ずっと聞こえていたのか、今再び口を開いたのか、それすら渉にはわからなかった。「己の死を肯定できるのならば、他者の死の是非など問題外であろう。何が正しく何が間違いかなど、意味はなくなる。」
「俺は……俺は、自分は……俺の、自分の……」泣き言のようだ。渉は不意に、笑い出したくなった。情けない、などという気持ちではない。
 ただ、笑いたかった。
「他人を殺すのはいけないが、自分はいつ殺されてもいい、かね?そのような理屈に、意義があるとでも?」そうだ。渉は老人に言われるままに、そう思った。
 だから、矛盾している。
 だけど、矛盾している。
 なのに、俺は……
「自分の命を軽んじておる者の言うことに、道理などない。お前さんは、生きていたくはないのであろう?七日以内に死することを受諾した者が何を言おうが、それは戯れ言に過ぎぬ。他者の命をかばうなどということが許されるはずもない。」そうだ。渉は何度も頷いた。そうだ。だから……「わしが死を望んでいることを正常ではないと断じたお前さんが、自らの死を気にしていないと言う。死を畏れないのであれば、どのような妄言を吐いてもいいのかね?」
「わかりません……」渉は再び、そう口にしていた。「何が正しいのか……正しくないのか……俺には、俺は……生きていることは……」
「それが答えじゃ。」老人の静かな声。「生きていることの意味など、誰にもわからぬ。この世の誰にも、自分がどうして生きているのかなど理解できぬ。だが、なぜ人が死ぬのかは理解できよう。お前さんも今、それを認めたではないか。」渉の視界は闇に包まれていた。いや、視界だけだったのだろうか。「それはすなわち、死ぬことは正しく、生きていることが間違いだということじゃ。わかるかの?生とは、元より間違いなのじゃ。誤り、偽り、不当なものなのじゃ。そして、正しいのは死。お前さんは今、それを認めたのじゃよ。」
 生は……間違い。
 命は……誤り。
 生命は……
「だからこそ、言葉は押しなべて罪深いものなのじゃ。生命、という言葉。生きている、という言葉。死んでいる、という言葉。罪、という言葉自体もそうじゃろう。それらの『言葉』が過去、どれだけの理屈と理由を生み、己が定義した『生命』というものを奪ってきたか想像できるかね?」嘆くように語る老人。「遠い昔、字なぞ存在しないさらに昔、言葉はなかったじゃろう。その時代、人は何を思ったか想像できるかね?空を見て、海を見て、山を見て、何を思う?お前さんは、言葉を使わずに思いを抱けるかね?粗末な言葉によって繕われ、汚れていなかったそれらの感情が、どれほど純粋でかけがえのないものだったか、お前さんにわかるかね?」渉は首を振った。力なく。「言語を生み出したことこそ、人類最大の罪業であろう。概念、条理、法律、常識、なんでもよい。それらは総じて、言葉があったからこそ生み出されたとは思わぬかね?ならば、言語学ほど罪深い学問もなかろう。」
 渉は喘いだ。胸が苦しい。息が苦しい。老人の並べる言葉は渉の胸をえぐり、容赦なく傷口を広げていた。心臓が破裂し、血が溢れ出るのではないかと危惧するほど。
 だが。
 だが、それでも。
 そうだ。
 渉は、薄れそうになる自意識の中で、必死に何かを思い出そうと試みた。
 そう、一つだけ残った思い。
 かけがえのない、想い。
 そうだ。たった一つ……
 たった、一つだけ……
「ですが……俺達……」目の前の闇。そこにいる、車椅子の老人。「いや、貴方が話しているのも……詞……」そして、もう一人……渉の瞳が、さまようようにその中を捉えようとした。
 だが、見定められない。見つからない。
 無駄なのだ。探しても意味はない。届かない。
 どこにもいないのだ。終わったことなのだ。
 だが、それでも。
 それでも、俺は……
「確かに、その通りじゃ。わしがこうしてお前さんに語っていることも、言葉によるそれに過ぎぬ。だからこそ、これほどの時間がかかり、幾多の悲喜に満ちるのであろう。言葉は、不自由じゃよ。」渉の口にした最後の抵抗も、老人の笑いを含むような言葉には無力だった。「もしも人と人が詞のない世界でめぐりあっていたら、そこには何が生じると思うかね?」
 渉には答える気力がなかった。ただ、惚けたようにそこにいる……そう、そこに座り込んだ彼の前を、車椅子が横ぎっていく。特徴的なモーターの音と、明滅する赤と緑、そして、青いセンサ。
 青い……?
 車椅子は去った。それでも、まだ青い光は残っている。
 二つの、青い光。
 見上げた先にある、光。
 それは……
 それは、何だ……?
「泣かないで、桐生さん……」
 ああ、そうか。
 渉は理解する。
 そう、理解したのだ。
 理解するのではない。
 理解していたと、理解したのだ。
 既に。
 ずっと前から。
 そう、あの瞬間から。
「泣くなんておかしいわ……そうでしょう?」 
 渉は声を発した。
 嗚咽だったかもしれない。
 慟哭だったかもしれない。
 感極まっていたのか。
 憤慨していたのか。
 手を伸ばしたかった。
 掴みたかった。
 両腕で、力一杯に、
 そうしたかった。
 だが。
 白い影が、去っていく。
 白い服。
 長い黒髪。
 消えていく、姿。
 忘れようもない、シルエット。
 それが、消えていく。

 再会の刻は、訪れた。 
 そして、惨劇が始まる。
 
 
 
 



Number
Pass

このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板