昔、世紀末と呼ばれた時代がありました。
すべてが加速していた時。
何もかもが走り続けた時。
積み重ねてきたものをかえりみることなく、ただ輝き続けた時代。
でも、今はもう違います。
もう、誰も走ってはいません。
みんながゆっくり、のんびりと歩いています。
それが良いことなのか、悪いことなのか。
そんなことを考える人も、もういません。
でも、だからこそわかったことがありました。
まわりを見ることで、気付いたこと。
世界の大きさに比して、どれほど自分たちは小さかったのか。
だから、みんなは大切にしました。
自分自身がいる、その場所を。
海が見えます。
小高く見晴らしのいい、そんな場所。
一本の道が続く先に、一軒のお店があります。
小さな岬の、喫茶店。
そこには、お店と同じ名前の女の人が働いていました。
めったに人も立ち寄らない土地。ゆえに、お客さんもあまり訪れないようです。
ですが、彼女はそれほど気にする様子もありません。
緑の髪の、アルファさんには。
カランカラン。
……お。
母屋の庭で水をまいていた、アルファさんの目線が上がりました。
ほのぼのと午後を楽しんでいたその顔に、少しばかり力が入ります。
お客さんかな?
トコトコっと、小走りにお店の方へと。
やってきたのは、お店の入り口。
あたりを見回している人に、とびっきりの笑顔を浮かべるアルファさんです。
「いらっしゃいませ!」
お客さん……らしき人物は、女の人でした。
短髪のようでいて、特徴的な左右の長い髪。それが、肩口から胸元まで流れています。
どこか表情の読めない瞳が、やってきたアルファさんを見つめました。
「あ……お客さん、ですよね?」
少しドキドキしながら、あははっと尋ねてみるアルファさん。
ちょっとばかりの沈黙。アルファさんのこめかみに、軽く汗が浮かびます。
「そのつもり……なんだけど。営業中……かな?」
ゆっくりと、涼しげな……そして、どこか可愛らしい響きのある声。
何やら砕けた物言いに、アルファさんの緊張が一気にほどけます。
「も、もちろんっすよ!どうぞ、お好きな席に……あ、これ、メニューです!」
差し示したり、差し出したりのアルファさん。あわてながらも、とても嬉しそうです。
女の人、メニューを受け取って……軽く会釈。
「うん……ありがとう。」
とりあえず、窓際の席に腰掛けてくれました。
コポコポコポ。
ミルが鳴ったり、サイフォンが揺れたり。
カウンターの中で色々としながら、やっぱりお客さんが気になるアルファさんです。
カフェの窓から、外を眺めている女の人。
どこかしんみり、そしてひっそり。
彼女の前には、注文した飲み物が湯気を漂わせています。
ですが、先程からさっぱり手をつける気配がありません。
なにげに、それが気になっているアルファさんでした。
と……
やはり、注意を引き過ぎたのでしょうか。
つっと、女の人の目線がこっちに。
思わず、ひいっと頭を抱えてしまうアルファさんです。
「あの、何か……?」
わずかに、ほんのかすかに……疑わしそうな、彼女の視線。
アルファさん、取り乱しつつ笑います。
「い、いえ!その……あっ、今日もいいお天気ですね?」
不自然極まりない発言。
女の人は、静かに……そんな彼女を見つめます。
「そう……かな?」
アルファさん、ぐっと力強く。
「そ、そうですよぉ!海も穏やかだし……あ、お客さんは旅行ですか?今はいい季節ですよね!」
てへへっと笑うアルファさんに、女の人はかすかに口元を。
「それでも……たりないの……」
は?
「だから、私……待っているのよ。」
アルファさん、また汗がポツポツと。
女の人は、ゆっくりと視線を窓に戻して……一度だけ、瞳を閉じました。
テーブルでくゆらせている、飲み物の香りを楽しむように。
日が、わずかに傾きます。
カフェの窓辺には、相変わらずの黒髪の女性。
少し離れているものの、まだまだ気になるアルファさん。
その手元には、準備完了した飲み物のおかわりが。
どうやってこれを切り出そうかと、さっきから悩んでいます。
と……また、女の人の視線が店内へと動きました。
ビクンとするアルファさんですが、今度は彼女の方ではありません。
壁にかけられた……小さな、ギターのような丸みのある楽器。
「月琴……?」
女の人が呟いた単語に、驚くアルファさん。
「し、知ってるんですか?」
思わずの声。
「うん……知ってる。」
「ふぇー……そ、そりゃ、すごいっすね……」
感嘆のアルファさん。感心しきりで、会話を続けることを忘れてしまったり。
女の人は動じる様子もなく、また窓の外へと視線を戻します。
「知ってるからって、弾けるわけじゃない……」
ぽつり、呟く言葉。アルファさん、ん?と目をしばしば。
そんな様子に、女の人はまたいちべつ。
「ねぇ。あなたは……音楽が好き?」
「え……?」
いきなりの質問に、アルファさんは驚きつつ……はたっと考えはじめます。
「好きっていうか……ときどき、ふいに弾いてみたくなるっていうか。」
「……そういうのを、好きっていうのよ。ときどきでも、いつもでも、関係ないわ……あなたの心に、そういう気持ちが流れているの。それが、血液のように体を循環して……心の中を通り過ぎる時、無性に音楽を求めてしまうのよ。」
突如として、雄弁に語られる台詞。
教え諭すように、一語一語、はっきりと。
アルファさん、半ばきょとんとして……それを聞きます。
「は、はぁ……」
「でも……それは、私も同じ。どうしても、それを消すことなんてできない。叶わないとわかっているのに、それでもなお、忘れたいと思って……結果、思いを強くするだけ。だから……どんどん、乾いていくだけなの……」
アルファさん、さらに謎の深淵に。
そんな様子に気付いたのか、女の人は静かにまぶたを閉じます。
「喫茶……お茶を喫すること。通り過ぎてきた歩みの程を、少し留めてみる場所……」
再び、外へ向く視線。
アルファさん、もう何がなんだか。腕組みをして、うむむと考え込みます。
そんな彼女をよそに、ふっと。
「あ……」
「……え?あの、何か……?」
今度は、いったいなんでしょうか。かなりドキドキ、おそるおそるのアルファさん。
と、女の人が……立ちあがって、お店の窓を開けました。
サラリ。店内に吹き込んでくる、
「風……」
はっきりとした、彼女の声。
アルファさんお手製、おさかなの風見が……プルルルと回っています。
それを……空を見つめて、女の人の表情が緩みます。
無邪気に、子供のように。
「ほら、風が吹いているの……あなたにも、見えるでしょう……?」
はじめて見せる、嬉しそうな……無垢な笑顔。
アルファさん、目をパチパチ。
「ごちそうさま……とてもおいしかった。」
カランカラン。
女の人が、歩いて行きます。
手を振って見送り、店内に戻るアルファさん。
窓際のテーブル。
残されたのは、レモンティー。やっぱり、口をつけた様子はありません。
それを見つめて、首をひねってみるアルファさんです。
ですが……まぁ、いいやと笑顔で納得。
今日はそろそろ、店じまいでしょうか。
ヨコハマは、西の岬。
そこにある喫茶店は、地元の人には有名です。
カフェ・アルファ。
そのお店には、色々な人が訪れます。
機嫌のいいひと。怒っているひと。そわそわしているひと。沈んでいるひと。
名前なんてわかりません。どこから来たのかも、どこに行くのかも。
また来てくれるひともいれば、一度きりのひともいます。
でも、みんな素敵なお客さんです。
昨日は、何があったのでしょう。
明日は、どんなことがあるのでしょうか。
今日もまた、アルファさんの開店準備がはじまります。
ほら、またカウベルが鳴りました。