冒険に出たいなんて、思ってなかった。
僕の家はパン屋だった。父も母も働き者で、朝は日が昇る前から両手を粉だらけにして石臼を回し、夜は月が出るまでずっとかまどの前にいた。僕は五人兄弟の末っ子で、花売りのメリーのお父さんよりも歳上な兄が僕の面倒を見てくれた。仕事は別に嫌いじゃなかった。だけど僕は火加減を見るのもめん棒を回すのも苦手で、結局できたのは母がいない時の店番ぐらいだった。でも僕はお客さんの注文を覚えることも得意じゃなかったから、兄が器量のいい奥さんと結婚してからは店番もさせてもらえなくなった。
でも、店番をしている頃は割と楽しかった。何よりも、時々だけど友達が遊びに来てくれるのが嬉しかった。僕の一番の友達は森番の息子のジャックで、彼は滅多に家に戻らない父をいい事に、街中で好き放題に遊んでいた。弓やナイフが好きで、よく悪い大人と混じって遊んでいるジャックを好む友達は少なかったけど、僕は彼が好きだった。
「おい、ジム。」彼は機会がある度に僕の名を呼んで、いつもこう言った。「いいか、俺はいつか必ずこの町を出るからな。都に行くんだ。怪物退治をして名をあげて、王様の軍隊に入って、絶対偉くなってやる。」
もちろん僕も信じちゃいなかった。でもジャックは弓を使うのもうまかったし、何より腕っぷしが強かった。僕は彼と一緒に喧嘩をしたことも、彼自身と殴り合いをした事もあったけど、どんな戦いでもジャックは絶対に降参しなかった。
「お前は考えすぎなんだよ。」喧嘩の後、ジャックは僕に言った。「相手のこと考えて、喧嘩なんてできるかよ。相手を殴ったらどうなるかなんて、殴ってから考えればいいんだ。それよりお前はせっかくそんな図体をしてるんだから、体力を生かしてみろよ。」
相手がどうなるか考えても、殴ってからじゃ意味がないと思ったけど、僕はジャックに言い返せるほどの勇気はなかった。ただ、彼のあざの多い腕で胸を叩かれて、うんと頷いただけだった。
それからまもなく僕は店番から外されて、とうとう水車小屋で粉ひき車を回す係になった。でもこの仕事は滑車をただ回し続ければいいだけだったから、今までの仕事の中で一番楽だった。だけど、水車小屋は町からずいぶん離れていたから、僕は一日中退屈していた。
そんなある日、ジャックが突然水車小屋を訪れた。彼は木の格子がある窓から顔を覗かせて、汗だくになって芯棒を押している僕を見て大笑いした。でも僕は、彼が来てくれて嬉しかった。ジャックは最近の噂話を色々と教えてくれて、僕は滑車を回しながら興味津々でそれを聞いた。
「それでな、ジム。」話が一段落すると、ジャックは真面目な顔で言った。「俺、これから町を出るんだ。お前も一緒に来ないか?」冗談かと思ったけど、彼の顔は大真面目だった。
僕は首を振った。「無理だよ。だって仕事があるし。」
「こんな仕事、誰がやったって同じだろ。」ジャックは胸を張って、勇ましく向こうの山を指差した。「なあ、俺と一緒に行こうぜ。あっちの西の山の向こうに、港があるのは知ってるだろ。そこから船に乗れば、三日もしないで都につくんだぜ。王様のいる都、見たくないのか?」
「そりゃ、見たいけど……」町の子供たちの中で都を見たことがあるのは、金持ちの息子のジョーダンぐらいだった。「でもさ、無理だよ。第一、船に乗るお金もないし。」都までの船賃がいくらかかるのか、僕には想像もできなかった。「それにさ、ジャック……お父さんはどうするの?」
ジャックの家は代々森番で、東の山に森番小屋があった。彼のお父さんは一年のほとんどをそこで過ごして、冬にしか町へ戻ってこない。一人っ子のジャックもいずれ森番になるんだと僕は思っていて、だから彼にそう聞いてみた。
「親父は死んだよ。」ジャックはあっさり僕に言った。「怪物に殺されちまった。狂ったドルイド僧が山にやって来て、それをやっつけに行って死んじまったんだ。」
僕は信じられなかった。狂ったドルイド僧なんて、町にいる物乞いのバリマーのホラ話にしか出てこない。バリマーはこの町は呪われている、いつか狂ったドルイド僧たちがやってきて、この町を滅ぼすぞと言い続けている気の変な老人だった。
「本当なの?」だから、僕は半信半疑で彼に聞いた。
ジャックは何も言わないで、持って来た大きな袋の中身をそこにぶちまけた。川辺に火打ち石や干し肉、食料の瓶詰めと一緒に、短剣や巻尺やランプやテントの部品やらが散らばった。みんな大人の使う本格的な道具で、前からジャックが欲しがっていたものだった。
「親父の小屋から全部持って来た。武器もいっぱいある。港に行く前に、これで怪物退治をして金を稼ぐんだ。それから、その金で船に乗る。どうだ、いい考えだろ?」
ジャックは重そうな剣を構えて、僕に突きつけた。「だから、一緒に来いよジム。お前になら、この剣をやるよ。お前がこれで怪物をおびき出して、俺が矢で射殺すんだ。な、いい考えだろ?」
剣の刃が太陽に照らされて光った。本物の剣を見たのは初めてだった。その迫力に僕はぐらつきそうになって、それで必死に考えた。剣のこと、家のこと、ジャックのこと。それから、都のこと。
でも、結局どうすればいいかはわからなかった。ジャックは答えない僕にいらついて、剣を放り投げて弓を構えた。「でもさ、ジャック……」弓がしなって、放たれる。遠く離れた川の向こうの木に矢が突き刺さった。僕はびっくりした。
「俺は、絶対偉くなりたいんだ。金貨も欲しいし、都を見物したい。弓の腕を磨けば、王様の弓術隊に入れるんだ。お前だって、そんな体をしてるんだ。剣を練習すれば、きっと剣士になれるぜ。いや、騎士にだってなれるかもしれないぞ。王様の騎士だ。どうだ、凄いだろ?」
ジャックはにやにやして僕を見たけど、僕にとって彼の言った事はあまりに突飛すぎた。「騎士なんて、無理に決まってるよ……」どんなのが騎士なのか、それすら僕にはわからない。鎧を着てないのが剣士で、着てるのが騎士だっけ。そう考えながら、僕は首を振った。「やっぱり、行けないよ。それにジャック、怪物退治なんて危ないよ。いくら弓がうまくったって……」
ジャックが次の矢をこっちに向けて、僕は声を出せなくなった。「ジム、俺は……」ヒュン。矢が飛んで来て、僕は反射的に目を閉じていた。恐い。
目を開けると、ジャックが放り出した道具をかき集めていた。「ジャック?」彼は僕を無視していた。いらついて、怒っているんだと僕は思い、謝ろうと思って口を開きかけた。「あのさ、僕は……」でも、ジャックに睨まれてそれ以上言えなかった。ジャックは荷物の袋をかつぎあげると、さっさと僕の前から去っていった。腹立ちまぎれに、川辺の石を蹴り飛ばしながら。
ジャックが森の小路に消えるまで、僕はその場を動けなかった。ジャックに謝りたかったけど、でも、どう言えばいいのかわからなかった。
だけどそこで、僕は足下に剣が落ちていることに気が付いた。ジャックのお父さんの剣だ。
「ジャック!」僕は剣を持ち上げて叫んだ。でも、もう遠すぎる。僕は森に向かって走り出した。「ジャック、剣を忘れてるよ!ジャック!」僕は走った。でも、次の別れ道でジャックがどっちに行ったのかわからなくなってしまった。適当に片方の道を選んだけど、その先にジャックはいなかった。しかたなく駆け戻って、もう一方の道も調べた。でも、彼の姿は見つからなかった。畑の人や牛をひいている人にも聞いたけど、誰も彼を見ていなかった。
水車小屋に戻ってみると、粉を取りに来た兄が僕を見つけて怒っていた。思いきりぶたれたけど、僕はジャックのことは言わなかった。どうしてか、そうした方がいいと思ったからだった。剣も小屋の裏にある壊れた壁の隙間に隠した。誰かに見つかったら取り上げられると思ったし、この剣はどうしたんだと問いつめられるのも恐かった。
結局、僕がジャックを見たのはその日が最後だった。その後もずっと、僕は一人で粉ひき車を回し続けた。僕の町の川は、海が近いせいか冬になっても凍らないので、僕の仕事には休みがなかった。でも他にやることもなかったから、僕は仕事を続けた。退屈だけが残ったけど、それにもいつか慣れてしまった。
そんなある日のことだった。僕はお昼までの仕事を一段落させて、町に戻る途中だった。粉を入れた袋をいっぱいに乗せた台車を引きながら、僕は変な臭いがしてくることに気が付いた。なんだか香ばしくて、だけどとても嫌な感じの匂いだった。風向きは東で、西には町があった。僕は少しだけ急ぎ足になって、道なりに小さな丘を上がった。そこは割と高い場所で、町を見下ろせるぐらいに眺めがよかった。
そこで僕は、町が燃えているのに気付いた。火事だ。そう思ったけど、でもそれ以上は考えられなかった。なぜって、どの家が燃えているとか、燃えていないとか、そういう光景じゃなかったのだ。見渡す限り、町の全部が燃えていた。垣根にある番小屋も、町の真ん中に偉そうに立っている議会の建物も、教会も、学校も、寄り合いのホールも、それに、僕の家のある大通りも。
僕は走り出した。どうしてかはわからないけど、丘を駆け降り全力で走った。無我夢中だった。車を放り出して、僕は必死に走った。こんなに走ったのははじめてだった。それでも町は遠かった。でも僕は走った。
町はもうもうと煙に包まれていた。すごい炎だった。火の粉が僕の周りにも散って、まだ町に入っていないのにものすごく熱かった。僕がその光景にたじろいでいると、そばにあった番小屋が崩れ落ちた。材木の壊れるめきめきという音がして、また火の粉がたくさん散った。僕は肌が焼けるような熱さを感じながら、それでも動かなかった。どうしてか、動けなかった。まだ、誰か生きてるかもしれない、誰か助かるかもしれない、どこかに誰かいるかもしれない。燃え盛る炎の中で、僕はそう思いながら、それでもまったく動けなかった。
そして、怪物が現れた。炎の中から。
そいつは赤と黒のかたまりだった。人の倍ぐらい大きくて、巨人がぼろぼろの外套を着ているみたいに見えた。そいつは炎の中に現れて、僕の方へとゆっくりと歩いて来た。ものすごい熱さの中で、どうしてか平気みたいにこっちに歩いてくる。僕はあとずさった。何か叫んだかもしれないけど、覚えていない。そいつは一歩一歩ゆっくりと、炎の中を歩いて来て……僕を見つけたように、その顔が上がった。
そう、そいつには顔があった。くぼんだ頬とこけた顎に、目だけが青白く光っている。それがこっちに向くと、僕は心底ぞっとした。熱いはずだったのに、寒くてたまらなくなった。真冬に湖に落とされた時みたいな、ううん、それ以上の冷たさだった。僕はがたがたと震えて、そいつが近付いてくるのを見ていた。目はそらせなかった。指一本、動かなかった。そして最後に、そいつが片手を僕に持ち上げた。ぐずぐずの肉がこびりついた、骸骨みたいな手だった。僕は大声で叫んだと思う。悲鳴、それが最後だった。
次に目が覚めた時、全てが変わっていた。目の前に青空が広がっていて、傾きかけた太陽が見えた。僕は冷や汗をかきながら、心底ほっとした。全部が全部、夢だったんだ。お昼御飯を食べて、昼寝した時に見た夢なんだ。そう思って、そのことが本当に嬉しかった。だったらさぼっているのがばれる前に、仕事に戻らなきゃ。僕は、急いで起き上がろうとした。
途端に激痛が走った。加治屋のグリムの家でふざけて、とんかちを足に落とした時みたいに目の前がぴかぴかまたたいて、僕はのたうちまわった。あまりの痛さに声も出なかった。どこが痛いのかもわからない。ただ、痛くて痛くて仕方なかった。
「気が付いたの?」痛みの中で、誰かの声がした。「セレディック!ベルラストラ!彼が気が付いたわ!」
ようやく痛みがおさまってきた僕の視界に、誰かがいた。僕の顔を覗き込んでいるんだ。何だかはっきりしない輪郭の……そう、女の人だった。見慣れない人で、もっと見慣れない格好だった。飾り物をしておしろいを塗っているから、お祭りの日に踊る人みたいだ。長い髪が結い上げられて、髪どめでふんわりとまとめてあった。
「大丈夫?意識ははっきりしている?何があったか思い出せる?」おしろいの女の人は、僕にそんなことを聞いた。僕は小さく頷いた。怒られる気はしなかったけど、礼儀正しくしないと後で兄や父に大目玉を受ける、ぼうっとそう思った。
彼女はほっとしたような顔になった。笑うと耳元の飾りがちりんと鳴って、とてもいい音がした。「そう、よかった。あなた、瀕死の状態だったのよ。けれど、神様がお救いになって下さったの。お慈悲に感謝しなさい。」
僕はまた頷いた。教会に行くのは好きじゃなかったけど、逃げ出す連中ほど嫌いじゃなかった。でも、彼女の言っていることはよくわからなかった。僕が、どうしたっていうんだろう。
「おい、そいつ生きてるのか?」また別の声がした。姿は見えない。僕は顔をめぐらせようとして……そして、また激痛が僕を襲った。「すげえな、あの状態から生き返ったのか。お前、来年は法院試験に合格して、僧侶になれるんじゃないか?」
「お黙り、セド。」また、別の誰かの声がした。目の前のおしろいの人じゃない、別の女の人の声。「とにかく今は、そいつから何が起こったかを聞くのが先よ。それから……」
「何が起こったかなんて、今さら聞いても意味ないぜ。それよりも奴の居場所だ。」近い距離にいるんだろうけど、姿の見えない男女の会話だった。
「そんなことわかってる!黙ってないと、今すぐにあんたの舌を引き抜いてだんまりのまじないをかけるわよ!」かみなりみたいな、金きり声だった。仕立て屋のロイのお母さんみたいだ。「ジェレナ、その子が奴らについて何か知らないか聞くのよ。今は一刻を争うわ。」
「おおこわ。これだから魔法使いは……」遠ざかっていく男の人の声が聞こえた。そして、目の前に、またさっきのおしろいの女の人。
「ごめんなさい。あのね、聞きたい事があるの。あなた、この町を襲った怪物を見た?」彼女の言っている事が、僕には理解できなかった。首を振ると、彼女が残念そうな顔をする。僕は悪い気持ちになった。何か言って謝ろうとして……
「どうしたの?」僕は、何かが変な事に気が付いた。顔の感覚が……顎が、変だ。「あなた……駄目よ、まだ動いては。」物凄く奇妙だった。自分が自分でないみたいに。僕は痛さを堪えて手を持ち上げて、そして自分の顔に触れた。よかった、あった。ざらざらしているけど、鼻もあるし耳も口もある。だったらどうして、声が出せないんだろう。
僕は喋ろうとした。でも、声が出てこない。言いたい事は浮かんで、それが喉元まで出かかっている。だけど、そこまでだった。そこから先が、まったく動かない。まるで、声を出すにはどうすればいいかがわからないみたいだった。気味が悪くて、腕が痛いけど僕は何度も喉をさすった。深呼吸もした。肺の中から息を全部出して、吸い込んだ。せき込む事ができた。でも、声は出なかった。
「お、落ちついて!セレディック、来て!手伝って!」気が付くと、僕の体を誰かが押し止めていた。半身を起こした僕は、あたりかまわず暴れるような格好になっていた。そんなつもりじゃないのに、僕の体は声を出せない現実に抗おうとして荒ぶっていた。
「この野郎、おとなしくしろ!」男の人の怒鳴り声がして、僕は頭にがつんと一撃を受けた。父や兄からも受けた事のない、ものすごい一撃だった。火花が散って、視線が泳いだ。そこで、視界の中に何かが見えた。焼き払われた町。どうしてか、頭がくらくらする中で、それがはっきり見えた。全部が全部、何もかも黒くなった町。
その途端、僕は全部を思い出した。嫌な臭い、見下ろした光景、そして、煙と炎に包まれた町と、その中から現れた、あいつ。
僕は叫んだ。考えるよりも先に声が出た。痛くても、体が動いた。どうしてか、何も考えなくても体が動く。でも、それで何をしているのかはわからなかった。おしろいの女の人が僕を止めようとして、次に見知らぬ男の人が僕を殴り、組み伏せた。それでも僕は動き続けた。どうしてか、涙まで出た。