もう二度と歌わない。
ギターケースを自室の床に叩きつけて、川原鮎はそう誓った。
そうだ、二度と歌うもんか。歌なんて金輪際やめてやる。ミュージシャンになる夢なんて、もうどうでもいい。
どうせそんなもの、かないっこないんだから。私に才能なんてないし、認めてくれる人もいない。ううん、いたとしたって、それはその場のお世辞で誉めそやしてるだけだ。みんな心の中では、私のことをせせら笑っているに違いない。
マフラーとセーター、さらにソックスを含めた諸々を派手に脱ぎ散らすと、鮎は思いきりベッドの上に倒れこんだ。大きな音と共に、重い響きが室内に反響する。店にいる母や父が何事かと思ったかもしれない。だが、今の鮎にはそんな気遣いをしている余裕はなかった。
そう、そうだよ。もう歌なんてやめたんだから。もう何もかも、どうでもいい。お父さんが口を酸っぱくして言ってるままに、寿司屋の女将にでもなんでもなってやる。
シーツをくしゃくしゃに引き散らして、鮎はその中に顔を埋めた。どんどんとネガティブな思考をしていく自分自身に嫌悪感をつのらせ、どうにかしてポジティブな考えにしようと思案を巡らせる。かなりの時間がかかって、鮎はようやくそれに成功した。
寿司屋の女将か。そうなったら、どんなに気が楽だろう。何をどうすればいいか全部知ってるから、勉強なんかしなくてもいい。作曲や作詞が煮つまって夜通し苦しんだり、今後の活動について悩んだりすることもない。相手をするのはお客さんや卸しの人たちだけで済むし、みんな顔馴染みばかりだから、余計な気を使うこともない。そうだ、嫌な相手に媚へつらって、頭を下げたりする必要もないんだ。ただ、帳簿をつけながらお茶でも入れていればいい。
なんて気楽で、簡単なんだろう。
しみじみと鮎は思った。そんな毎日を過ごす自分を考えただけで、全身を重くしている憂鬱な感覚が消えて行く気がする。
そうだ、そうしよう。今日から川原鮎は、お寿司屋の女将見習いだ。
「鮎、ちょっといい?」
ドアの向こうから声がかかって、鮎はベッドから跳ね起きた。
お母さんだ。でも普段と違い、何だかその声が嬉しかった。めずらしく、家族と話がしたいと思う。
「どうぞ!開いてるよ。」
少しだけドアが開き、鮎の母親である敦子が顔を出す。その表情は少しこわばっていて、鮎は思わず吹き出しそうになった。
いいんだよ、お母さん。私、もう大丈夫なんだから。
「なに?どうかしたの?」
母は黙ったまま、鮎と、床に散乱した衣服やギターケースを見た。そして、ため息をつく。
「あなた、そんな格好で……風邪をひくわよ。」
心持ち抑えた声に、鮎は視線を下げた。自分の姿を見て……今度こそ吹き出す。
「あ、ゴメン。今すぐ片付けるからさ。それよりお母さん。私これから、お店を手伝うからね。」
案の定、母はきょとんとした顔になった。だけど、それはもっともかもしれないと思う。普段……昨日までの自分ならきっと、怒鳴り散らしてドアも開けさせなかったに違いない。
「手伝うって……鮎?」
「だから、澤登のお店。お父さん、もう入ってるんでしょ?今日は手伝い、私がやるからさ。お母さんは休んでていいよ。」
とまどう母に、立ち上がって鮎は笑った。散らかった衣服を適当に集めて、そそくさと普段着へと着替える。
そうしている鮎を、敦子は当惑したように見つめていた。また、鮎は笑った。愉快でたまらない、そんな笑顔。
「もう。大丈夫だってば。私、手伝いたいんだから。夜のお客さん、そろそろ来るんでしょ?あとは私とお父さんでやるから。お母さん、最近休んでないもんね、でしょ?だから、任せといてよ。」
まだいぶかしげに鮎のことを見ていた母だったが、やがて軽く息を吐くと、うなずいてくれた。
「そうなの。それなら、お母さん行かなきゃならない所があるから……今日中に、行って来ちゃおうかしら。」
「うんうん、行ってきなよ。お店は、私とお父さんに任せといて。」
淡いピンク色のセーターに袖を通し、鮎はポンと胸を叩いた。
「はいはい。それじゃ、頼んだわね。だけど、あなた……本当にいいの?」
「うん。任せて!」
鮎は母と別れて店に向かった。
これでいいんだ。なんて気が楽なんだろう。お母さんも喜んでくれたし、お父さんはきっともっと喜ぶだろう。何しろ、あれだけ毎日ケンカしてたんだから。うん、親孝行っていいな。
鮎は簾をくぐって店に入った。夕方を少し回ったばかりなので、客はまだ少ない。カウンターの中には板前姿の父がいた。鮎のことをジロリと見て、すぐに顔を背ける。
きっとまた、どこかに出かけると思ってるんだ。鮎は心中でクスクス笑った。
父の横をすり抜けるようにして、カウンターの奥にある狭い厨房に入る。背中に父の視線を感じ、鮎はさらに笑い出したくなった。
奇麗に洗濯された、白の割烹着。普段は母が使っているものだった。それを取り、袖を通す。久しぶりだったので少しつっかかったが、どうにか紐を結び終えた。
手を洗った鮎が振り向くと、そこに父の顔があった。案の定、まじまじとこちらを見ている。鮎は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
「なに?お父さん。」
澄まし顔をするのにも努力が必要だった。でもおかげで、効果はてきめんだった。
「あ?いや……むぅ。それはだな、つまり……」
鮎の父、雄大は取り乱したように右往左往し、どもりながら妙なことを尋ねた。言葉になっていなくて、鮎は笑った。もう我慢できなかった。
その時、カウンターの向こうから声がかかった。
「はーい、今すぐお持ちしまーす!お父さん、あがり持ってくね!」
鮎はそばにあった急須を持って父の横をすり抜けた。笑いを噛み殺すのに懸命だった。
本当に、何て楽しいんだろう。
札幌……いや、北海道一の歓楽街ススキノの寿司屋、「澤登」。
小ぢんまりとした、ごくありきたりな店構えの寿司屋だが、先代より続くその味はなかなかに旨いと評判もよく、隠れた名店として一部に知られている。結果、来店するのは観光客よりも地元の常連客が多い。
そんな地元民たちを相手にした最初のピークが終わって、鮎はふうっとひといきをついていた。
心身共に、軽い疲労感。でもそれは決して、悪い気分ではなかった。
カウンターの向こうで、父が数人の客を前に寿司を握っている。寿司屋に似つかわしくない、洋楽の鼻歌が聞こえた。よほど上機嫌なんだろうなと鮎は思った。最近じゃあまり、聞いたことがなかったもんね。
でも、私も少しは練習しなきゃ。鮎は自分の左手を見て笑った。中指に、小さなばんそうこうが張ってある。ついさっき、包丁を扱おうとした時についたものだった。かすり傷にもならないような、ほんの小さな切り傷だったが、鮎はその時の父の慌てぶりを思い出し、内心で舌を出していた。
やっぱり、久しぶりの包丁だったかな。お母さんに、今度ちゃんと教わろうっと。
「へい、赤貝とイクラお待ち!」
威勢のいい声と共に、父のお寿司が出る。それを口に運ぶ客。実においしそうで、そしてその通りの誉め言葉が父にかかる。頭をかいて、何やら皮肉めいたような台詞を返す父。そして、客と一緒に豪快に笑う。
そんな店内の様子を眺めて、鮎はとてもいい気分になった。どうしてだろう。こういう場を見ているのって、とても……なんていうのかな、そのままだけど、とっても幸せな気分になる。
やっぱり、家族だからかな。
そう思って、鮎は店の中を見回した。父が先代……鮎の祖父でもある敦子の父から、若くして受け継いだ澤登の店。そこは、鮎が生まれ育った場所だった。壁のしみも、カウンターのへこみも、椅子の脚についている小さな傷も、何もかもよく知っている。
そうか、ここが私の家なんだ。不意に、鮎はそれを理解した。理屈などではなく、ただ、そのままに。
お父さんとお母さんがいて、私が生まれたお寿司屋。ここが、私の場所なんだ。
ぼうっと、小さかった頃のことを思い出す。お寿司で太った、お酢臭いヤツ。そう言われ、意地悪されて、この店が嫌いになったこともあった。どうしてうちは普通のサラリーマンとかじゃなくて、お寿司屋なんだろう。そう悩んで、ひとりで泣いたこともある。
でも……やっぱり、ここが私の家なんだ。こんな気持ちになれるのは、ここだけなんだ。
ひとりごちた鮎がふと見ると、カウンターから父が自分を見つめていた。お客さんの前で物思いに耽っていた自分に気付き焦ったが、父の表情は怒っているようなそれではなかった。鮎が、ここしばらく……いや、長い間、ずうっと見ていなかったような表情。
何だか恥ずかしくなって、鮎は照れ隠しにあははと笑い返した。そうすると、父も変な奴だと鮎を笑う。客がそんな親子を不思議そうに見て、何事かと尋ねた。二人はまた笑った。今度は、親子そろって。
久しぶりだな。鮎は思った。本当に久しぶりに、お父さんといっしょに笑った気がする。
そのとき、店の戸がガラガラと開いた。お客さんだ。のれんをくぐってくる姿に、鮎は元気良く頭を下げた。
「いらっしゃいませ!」
威勢良く挨拶して視線を上げると、一人の女性客が目を丸くしていた。鮎が見上げるほど背が高い。連れはおらず、彼女一人だけのようだ。
その女性客が、鮎を前にして怪訝な表情になる。
「あれれ……大将、この子新人さん?可愛い子だね。」
そんな相手を鮎は見つめた。年の頃は二十歳そこそこだろうか。ショートカットの、だけど鮎とは違ってクセっぽい髪に、スレンダーだが健康的な体のライン。特徴的な大きな目は悪戯っぽく輝いていて、見るからに気が強そうなタイプだった。服装はジーンズに黒の革ジャン。面立ちといい背の高さといい、男性的でカッコイイ人だと鮎は思った。
でも、どこかで見たことがある、そんな気もした。誰だっけ。鮎は頭をひねった。思い出せない。
「おう!らっしゃい……って、なんだ。おぼえてねぇのかい?鮎だよ、鮎。うちの娘の。」
「娘?大将、結婚してたっけ……って、それは冗談だけど。鮎……?」
女性は何だか大袈裟なポーズで首をひねった。こちらを見定めるように凝視してくるので、思わず顎を引く鮎。と、そんな鮎をもう一度見つめ、いきなり女性は叫んだ。両手を派手に打ち鳴らして。
「あーっ、思い出した!いた、いたよ。そうそう、鮎ちゃんか!あははは、すっかり忘れてた!」
その派手な笑いっぷりに鮎は面食らった。その前で、女性客が自分を指差して笑う。
「ひっさしぶりぃ!あ、おぼえてない?私、桜町由子。ほら、前はお店でよく話してたじゃない。」
「えっ……あ!」
言われて鮎も思い出した。
そうだ、この人知ってる。桜町さんだ。桜町……由子さん。
桜町由子は、以前澤登によく来ていた……いわゆる常連さんの一人だった。鮎の記憶にも、女だてらに豪快な食べっぷりと、ノリのいい話っぷりが強く残っている。
「いやー、久しぶりだね!どう、元気だった?今までどこにいたの?内地の大学とか?もう就職した?」
鮎の頬を両手でギュッと押さえて、やたらめったらに弄り回す由子。そのくだけた調子に、鮎はさらに焦った。
でも、ちょっと嬉しい。手伝いをしたことも含めて、今日は何だか昔に戻ったみたいだ。
「それとも鮎ちゃん、もしかして彼氏とバッチリとか?ほーら、お姉さんによく顔を見せてよ!何年ぶりかな?もう、キレイになっちゃって。あーんなカワイイ女の子だったのにぃ。あっははー!」
翻弄されながら、鮎は思った。この人のこんな態度が、前から好きだったこと。
ホント。私、こんなにインパクトが強い人のこと、どうして忘れてたんだろう。
「ち、違います。普通にこの家にいたんですけど……あわわ。ひ、ひにゃ……」
頬を引っ張られ、髪をくしゃくしゃと弄られ、鮎はもうなすがままの状態だった。
「えー、そうなのぉ?だってここんとこ、ずっと鮎ちゃんのこと見てなかった気がするからさ。私、すっかり忘れちゃってたよ。今はなに?OLか何か?高校は卒業してるよね?ねー?」
そこで、ようやく由子は手を離した。
「う、うん。高校は、もう卒業して。それで、今は……」
鮎は言葉に詰まった。何時間か前の、荒れていた自分を思い出す。
「あ、そうか。お店の手伝い兼、花嫁修行中ってとこ?」
「えっ、あ……う、うん……」
鮎は曖昧にうなずいた。
「あはは、やっぱり。どうせ暇に身を任せて、ぶらぶら遊んでるんでしょ?もう、若いなぁ。このこのー!」
「ははっ……で、でもさ、桜町さんも久しぶりだよね。」
話を変えようと、鮎は由子の着ていたジャケットを受け取った。それをハンガーにかけながら、不思議と打ち解けている自分を感じる。再会して、まだ数分なのに。
「あれ?お店には来てたんだよ?月イチくらいかな。大将のお寿司、やっぱり旨いからさ!」
「お、嬉しいこと言ってくれるねぇ。」
父の声が届く。鮎はカウンター席の一つを引いた。
「あの、桜町さん。ここにどうぞ。今、あがり持ってきます。」
「サンキュ、鮎ちゃん。あっ、大将。今日も適当に握ってよ。いつもの予算内でさ。」
片目を閉じた由子に、父がおうっと了解する。鮎はお茶を運ぶと、由子の勧めで隣の席に腰掛けた。
それからしばらく、二人は何でもないような世間話を続けた。最近の流行。おいしかったお店の話。由子はポンポンと話し続け、鮎もいつのまにか歯切れよくそれに答えていた。もとよりこういった話題には強い鮎である。二人はにぎやかに、笑いながら話を重ねていった。
本当になつかしいな。由子の話を聞きながら、鮎は思った。昔……中学の頃は、よくこんな風に桜町さんと話してたっけ。彼女、その頃からスタイルもセンスも良くて。私、そんな彼女の外見だけじゃなくて、裏表のない性格にも憧れて……
「……あれ?そういえば桜町さんて、確か……」
千歳の基地の、自衛隊。鮎がそう尋ねると、由子はうなずいた。
「イエース。今でも、まだまだ自衛官ですよ。上官に怒られ後輩に迫られ、同期の桜には先を越され、世知辛い世の中ながらも、不肖WAFで頑張っております。」
敬礼のポーズを取って、由子はおどけてみせた。
「だからね、たまったストレスは大将のお寿司を食べて、どーんと発散するわけ。って、そんなヤケ食いできるほど食べちゃった日には、おあいそで泣きが入ってストレス倍増しちゃいますって。にゃははは!」
つられて鮎も笑った。そこで、さっきからずっと寿司を握り続けていた雄大が、ようやく顔をあげる。
「へい、お待ち!お任せ握り!」
ドンと置かれる寿司板。それを見て、鮎は目を丸くした。
寿司板からこぼれ落ちそうなほどに乗せられた、色とりどりのお寿司。艶やかなネタが所狭しと並んでいる。
鮎はあっけにとられた。これ、いったい何カンあるんだろう。十や二十じゃない、軽く四十カンはありそうな、それこそテンコ盛りだった。
凄い。鮎は感心した。確かによく食べる人だった記憶はあるけど、こんなに食べるなんて。しかもこのお寿司のネタ、かなりいいものばかりだ。こんなに食べたら、けっこうかかるんじゃないかな。あれ?でも今、確か桜町さん……
「た、大将。これ……?」
ふと見ると、当の由子も目を丸くしていた。それが鮎を、また驚かせる。じ、じゃあこれ……
「おう、うまそうだろう。鮎、お前も食べろ。まだ食事してないだろ。桜町さん、こいつといっしょでいいだろ?」
「えっ……お父さん?」
とまどう鮎をよそに、由子は瞬時に雄大の言葉の意味を理解したようだった。
山のような握りを前にして、手をあげて敬礼するようなポーズ。
「モッチーのロンであります、サー!こりゃラッキー!鮎ちゃん、仲良く食べよう。ね!」
「えっ……で、でも……お父さん?」
「鮎、いいから食え。お客も一段落ついたからな。とりあえず今のうちに食べとけ。」
ムスッとした顔で雄大は告げた。二人をそのままに、厨房の方へと身を引いてしまう。
「あ、お父さん……」
「ほらほら、鮎ちゃん。腹が減ってはなんとやらってね。はい、上着緩めたげる。いっしょに食べよ?」
「え、うん……」
由子にうながされて、鮎は父の背を見つめるのをやめた。その隣で、由子が待ちきれないように両手をこすり合わせる。
「それじゃ、遠慮なくいっただきまーす!鮎ちゃん、早く食べないと私が全部食べちゃうよ?ニヒヒ!」
「う、うん。いただきます……」
鮎も箸を割った。嬉々として食べ始めた由子の隣で、自分もお寿司を一つ挟む。
形よく握られたシャリとネタ。考えてみれば、父の寿司を食べるのは久しぶりだった。
だからかどうかわからないけど、とてもおいしかった。
「……でも、あの丸っこくて可愛かった鮎ちゃんが、今はもう花も実もある立派なレディか。うーん、歳月を感じてしまいますなぁ。」
「そ、そうかな。」
お寿司をパクリと飲みこんで、しみじみと語る由子。
鮎は、箸先を小皿に触れさせながら首をかしげた。そんな鮎に、由子が笑う。
「そうだよ。でも鮎ちゃん、美人になったね。もう、大将も隅におけないなぁ。ね、男がワンサカ寄って来て、困っちゃうでしょ?」
「そ、そんなことないです。」
「またまた、謙遜しちゃってこのこの。でもホント、今のうちに二三人捕まえとくといいよ。いざって時に焦っても、もう遅いんだから。私なんてそろそろやばくってさ、もう困っちゃう。あっはは!」
鮎も笑った。だけどそこで、ふと思う。
どうしてだろう、この人にこんな台詞は似つかわしくない気がする。そう考えて……そして、鮎は理由に思い当たった。
「あれ、でも桜町さんって、確か……自衛隊に、好きな人がいたんじゃなかったっけ。」
それを口にした途端、由子の顔がこわばるように硬直した。
「鮎!」
続けて、父の鋭い声。鮎はさらに驚いた。ど、どうしたんだろう。私、何かまずいことを言ったのかな。
そう思い、由子を見て……こわばった顔だった由子が、いきなり吹き出した。
笑い声。おかしくてたまらないような、そんな笑い。
「さ、桜町さん……?」
涙目になるような、派手な笑いだった。目をこすって、由子が笑い続ける。
「あぁ、ゴメンゴメン。いやそのさ、いきなりだったから、不意をつかれちゃって。おっかしくて……もう、鮎ちゃんってばツボつくのうまいなあ。お笑いに向いてるんじゃないの?アハハハ!」
正直、笑っていいのかどうなのか、判断つきかねる雰囲気だった。
「あ、あの……」
「うん。あのね……そう。そうだったよ。好きな人、いたんだけど……話したこと、あったよね。私が自衛隊に入るきっかけになった、尊敬できる上官の人のこと。」
由子の話を聞きながら、鮎も思い出していた。
桜町さんが好きな人は、自衛隊の上官。彼女はその人を目指すようにして、自衛隊に入った……そんな風に、頬を染めて照れながら笑って語ってくれたこと。
「でもね、残念でした。私、失恋しちゃって。ううん。失恋じゃない……大失恋、かな。」
由子の顔から、ふっと明るさが消えた。その顔が、背と共に椅子に反りかえる。
「正直、あれはキツかったなぁ……いきなり、私たち結婚しますって聞かされてさ。こっちの気持ちも何も、伝えるとかそういう以前の状態でよ?しかも、よりによって後輩の子とでさ。もうあの時は、一人で泣いた泣いた。ワンワン、子供みたいにね。しばらく、仕事とか全然手につかなくて……もう、ひたすら荒れてたなぁ。大将のトコでも、一晩中愚痴ってたよね。あの時はごめんね、大将。」
背筋を戻した由子は、今まで見たこともないような表情を浮かべていた。鮎が、思わず視線を背けてしまうほど。そんな由子に、雄大が威勢のいい言葉をかける。鮎はお茶を含みながら、本当に悪いことをしたと反省した。
「あはは、気にしないで。何年も前のことだし、もうすっかり諦めてる。今やあの人は、可愛い二児のパパだもん。それに、今は私ね、打ちこめるものがあるから。そっちが面白くって仕方ないんだ。だから鮎ちゃんも、ゼンゼン気にしないでよ。」
打ち込めるもの……なんだろう。鮎は気になったが、由子は大きく伸びをして笑った。
「……あーあ、でも何だかなつかしいなあ。あの頃の私ってさ、勢い任せで無鉄砲で……あ、それは今も同じか。あはは!でも、鮎ちゃんも昔はクリクリって、洋服も髪もお人形みたいで可愛かったよね。それが、今やこんなに出るとこ出ちゃって……ウヒヒ!」
酔った中年のような由子の仕草に、鮎は赤くなった。でも、由子が笑ってくれて嬉しかった。
「そうだ!ね、鮎ちゃんは、この後ヒマ?まだ、お店のお手伝いあるの?」
「えっ……どうしてですか?」
悪戯っぽい顔で、由子がうなずく。
「いやさ。久しぶりだし、大将にもたっぷりごちそうになっちゃったから、今夜は鮎ちゃんともっと話したいなって。もちろん暇だったらでいいけどさ。どう?おごっちゃうよ?」
鮎は困った。もともと、思いつきで始めたような今日の手伝いだ。上がる時間なんて気にしたことはなかった。鮎は父を見て……雄大は、にこりともせずにうなずいた。
「俺は構わんぞ。行ってこい、鮎。」
「ホント、大将?」
嬉しそうに手を重ねる由子に、うなずく雄大。鮎は焦った。
「で、でも……お父さん?お店は……」
「そんなもの気にするな。母さんもとっくに戻ってるし、お前はごちそうになってこい。失礼のないようにな。」
「もう、大将!安心しなさいって。大事な澤登の一人娘、私がしっかり面倒見るからさ。じゃ、鮎ちゃん行こう?大将、おあいそね。」
「おう。鮎、お前はさっさと着替えてこい。」
鮎の意向は無視されているようだった。とはいえ、もちろん嫌ではなかった。
久しぶりに逢った彼女と、話しをして……ううん、もっと色々なことを話したいと望んでいる自分に気付く。なんだろう、ずっと忘れていたような感覚だった。昔……高校に入学した頃に似た、そんな気分。
「う、うん。それじゃ、ちょっと準備してくるね。」
鮎は店の奥から家に戻った。
居間では和服の母が、帳簿をめくっていた。鮎はかいつまんで事の次第を説明した。母はほほえんで、いってらっしゃいと鮎を後押しした。お小遣いまでくれたほどだ。
何でこんなに優しいんだろう。鮎は複雑だった。今までは、親と顔を合わせたら最後、必ずケンカだったのに。
コートにマフラーを着て戻ると、由子が会計を済ませて店を出たところだった。手を振って鮎を呼ぶので、慌ててそれに続く。
「じゃ、行ってきます。」
「大将、ホントにサンキュ!ごちそうさまでした!」
おうっと、軽くいなすように笑う父。
鮎は由子と二人で外に出た。かなり寒かった。ジャケットを着た由子が、鮎を見て片目を閉じる。
「さーて、と。鮎ちゃん、行きたい所はある?リクエストは?」
「えっ……う、ううん。別に、どこでもいいですけど。」
「あ、お酒は大丈夫だっけ?」
「い、一応。でも、ちょっと苦手っていうか……得意な方じゃない、かな。」
笑う由子。しばらく考えこみ、やがてうなずいて手を叩く。
「よし!それじゃ、カラオケ行こう!」
言うなり由子は歩き出した。唖然とする鮎を残して。
カラオケ。
それだけはダメだった。いや、ダメというか……いけないはずだった。何しろ、そう決めたのだから。
でも、どう説明すればいいんだろう。由子を止めるために口を開きかけて、鮎は言葉を探した。そんな鮎をよそに、由子が雑踏へと消えて行く。かなりの早足だった。慌てて、その後を追いかける鮎。
失敗した。どこでもいいなんて言うんじゃなかった。ボーリングとか、ゲーセンとか……ううん、バーだっていい。そういう所にしておけばよかった。
ニコニコと辺りを見回しながら進む由子の背を見ながら、鮎は言い訳を考えようと必死に頭を回転させ……そして、途方に暮れた。
本当に、どうしよう。