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ダレモイナイ コウシンスルナラ イマノウチ(ペ∀゚)ヘ
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[152]中編『其は翼、汝はその羽根(1)』≫北へ。&BSF: 武蔵小金井 2002年10月22日 (火) 22時47分 Mail

 
 
   『其は翼、汝はその羽根』
 
    Birds of a feather flock together.
 
 
 
 その少女と出会ったのは、ほんの偶然だった。
 学校帰りの道。いつものようにやることなど何もなかったから、なじみの河川敷で暇を潰そうとした。でもそこでは既に中学の連中が騒いでいたから、近くの公園に入った。そこでも退屈は相変わらずだった。その代わり、私を誰だか知らずに声をかけてくる連中がいた。どこにでもいる、馬鹿な男たち。
 そいつらを残らず張り倒し、一喝しても気はまぎれなかった。公園を歩きながら、今の連中が数を頼んで仕返しに来るかもしれないと思い、いや、そんなことがあるわけはないかと心中の考えを訂正する。そうなれば今度こそ、私が誰だか理解する……知っている奴がいるに違いない。正確には、私が誰の妹か理解する、だが。
 この公園は別に好きでも嫌いでもなかった。いつ来ても人が多かったし、私のに限らず近くに多くの学校があるために、学生が常にどこかにいた。みんな楽しそうで、他人の不幸など知ったことではないという様相だった。もちろん、そんなこと私にはどうでもよかったが。
 歩いていると、ほら、あの人よという声が聞こえた。さっきの下らないナンパと同様、お決まりのそれだ。同じく決められた通りにそちらを睨みつけてやると、数人の女生徒たちが目をそらし、走って逃げていった。制服がうちの学校と違うのを見ても、別にどうとも思わなかった。ただ、去り行く足音に呼応するように周囲の視線が集まった気がした。私の足取りは早まった。
 見慣れた大きな池まで来ると、私はようやく周囲の視線を感じなくなって安堵した。だけどそこで、これではまるで何かから逃げているみたいじゃないか、いじめられる奴のようだと思い、腹が立った。もっともそれは今初めて気付いたことではなかったが。人が他者をどう思っているかに関わらず、集団の感情は個人を傷つける。そこにいいも悪いもなかった。だから、群れている連中はサディストで、卑屈だ。それが私の結論だった。
 孤独の辛さを知らない奴、そう言われるかもしれなかった。だが私からみれば、誰にも知られず、ただ一人でいられる奴の方が遥かに贅沢だと思う。家のことも、自分のことも、友達のことも、毎日の暮らしも、今までのことも、これからのことも、全部自分で決められるのだから。
 そう思って、それは生まれる前の人間、赤ん坊のようだと思った。無垢で純粋で、泣くことしか知らない生まれたての赤ん坊。だけどそこで、赤ん坊もまた自分の親を選べないことに気が付いた。裕福で、愛情にあふれた両親の下に生まれる子供は確かに幸せだろう。だけど、そうでない奴もいる。
 だとしたら、真の孤独……さっき私が思い描いたような奴は、この世にいないのではないか。真っ白で、過去も未来もなく、何一つその身に持っていない白紙のノートのような存在。そんな状態の人間がいるはずがない。大なり小なり、誰もが何かのしがらみを抱えているのだ。生まれるとはそういうことだろう。ただ、その立場に違いがあるだけだ。親が裕福か、裕福でないか。家族に愛情が満ちているか。将来を約束されたような家柄か。極論すれば、幸せか、幸せでないかだろう。
 そうだ。現にここにこうしている私がいるように、どこかに幸せで仕方ない奴がいるのだ。両親含め親族はすべて息災で、財政的にも豊かで、兄弟は仲が良く、毎日が楽しくて仕方がない。そんな奴に、今の私の気分を味あわせてやりたい。一日……いや、一時間だっていい。そして、苦しさに悲鳴をあげるそいつに言ってやるのだ。お前は運が良かったな、と。私はただ、運が悪いだけでこうなったんだ。くじ引きのように、幸と不幸が簡単に決められたんだ。私とお前は……
 そこで私は思った。それじゃ、私のサイコロを振った奴は誰なんだ。誰が、私の素性を決めたのだ。こんな国の、こんな冷たくて最低な街に、私を生誕させることを決めた奴は誰なんだ。お前の振ったサイコロが一つ違うだけで、私は今、幸せに満ちあふれた毎日を送っていたのかもしれないじゃないか。そうだ、きっとこんなことを考えることもなく、世の中はそういう素晴らしい所だと思って生きていただろう。こんな風にこごえるような寒さも感じず、毎日友達と遊び、家では親兄弟とだんらんを過ごして、楽しかった記憶の残るアルバムをめくり、やがてそうなるであろう将来を思い描く。そんな奴がそこらにいくらでもいるのに、どうして私はそうじゃないんだ。みんなお前のせいだ。こんな公園でたむろってる、性根の腐ったような奴らがそうなのに。お前が、お前がもっと真面目に決めてくれれば……
 その時だった。私が、それに気が付いたのは。
 池のたもと。柵が曲線を描くその先から、私を見つめている人物がいた。
 少女、だった。長い髪の少女。かなり距離があり、私との間に幾人もの他者がいるのに、どうしてかはっきりとそれがわかる。
 私を見つめている。いや、睨んでいるのだ。
 他校の不良か。最初はそう思った。さっきの連中のこともあるし、私にとってここは決して安全な場所じゃない。
 だけど、すぐにそれが違うとわかった。それは彼女の服のせいだ。中学の制服じゃなかった。白い洋服……ドレスのような、高そうな服を着ている。胸元には黒いリボン。どこかのお嬢様のようだった。そしていまだに、微動だにせず私のことを睨んでいた。
 もちろん私も睨み返した。視線をそらせたら負けで、そんなことは常識だった。いつものように構えて、ありったけの敵意を視線にこめて叩きつける。誰かは知らないが、こんなことをしてくる奴が味方だったことなどない。こいつは敵だ。
 驚いたことに、その少女はすぐに睨むのを止めた。だが、視線を外したわけではなかった。私に対して幻滅したように顔を曇らせると、長い髪を軽くかきあげたのだ。それがまるで、こっちを憐れむような仕草に見えて、私の腹の虫は完全に目覚めた。
 つかつかと、その少女に向けて歩き出す。逃げたらどうしてやろうかと考えつつ、足取りを凄みのあるものにしていった。飾る必要はなく、既に私自身がかなり立腹していたが。
 少女は、まだ微動だにしなかった。これもまた、私を驚かせる理由だった。どこかの不良だとすれば、かなり場数を踏んだ奴だろう。もちろん一般人じゃない。そうでなければ、私にこれだけ勢いよく詰め寄られて、何かのリアクションを起こさないはずがない。そう考えながら、私は周囲に軽く目をやって、こいつの連れがいないか確かめた。とりあえず見えない。やるとしてもタイマンだろう。
 彼女の前、ギリギリで立ち止まる。それでもなお、彼女は動かなかった。もちろん視線は私に向けたままだ。さっきの睨む様子でもなく、憐れむ様子でもなく……どこか、いぶかしげな表情だった。
 そこで私はあることに気が付いた。こいつは、日本人じゃない。瞳の色が違う。顔つきもそうだし、第一、肌の白さが驚くほどだった。ぬけるような、足下に広がる雪に似た淡い色。
「なんだ……お前。」
 それが私の第一声だった。用意していた台詞ではなく、ただ驚きのままに発したそれ。
 返事はなかった。ただ、じっと私を見つめる、澄んだ瞳がそこにあった。嫌な感覚だった。見下されている気がした。蔑み、卑しい者を見るような瞳……私がいつも見ている奴らの目だった。違うのは、こいつの目がそいつらと同じように濁っていないこと。そんな奴に出会ったのは初めてだった。だから、続けて沸いた怒りをぶつけるのをためらった。
 そして、彼女が先に口を開いた。
「あなたは、どなたですか?」
 初めての声。低いトーンの、それでもよく透る声だった。殺気立ったこの場にふさわしくない、どこか場違いな、そんな響きを秘めた台詞。
 澄んだ声色、そして澄んだ両の瞳が、私を見据える。こいつは何者なんだ。私は思わずたじろいでいた。自分でも気付かずに。
「な……何を言ってやがる。てめぇこそ……人にモノを尋ねる時は、自分から名乗れよ!」
 我ながらひどい台詞だ、と思う。普段と違い、考えなしに口にしたからだ。いや、してしまったんだと思う。とにかく、気付いた時にはそう言って、私は片手を脇にふるっていた。勿論当てるつもりはまだなく、脅かすつもりで。
 私の剣幕に、周囲の連中が我先にとこの場から去り始める。白い公園の白い池……彼女と私の対峙するそこが、誰もいない場所になった。
 だが、肝心の相手は、やはりというかまったく動じなかった。たいした度胸だ。いや、神経だとある部分で感心する。外国人だからというのは理由にならない。こいつの両目と両耳が使えないなら話は別だが、そうでなければこの世の誰でも、私が激昂しているのがわかるはずだ。
「最初に話しかけてきたのはあなたです。だから私はあなたがどなたか聞き返したのです。あなたの流儀もそうであるのならば、この場で先に名乗るべきがどちらかなのは明白でしょう。違いますか?」
 これだけのことを一語一句つかえず、抑揚もなしに口にされる。まるで、予定されていた芝居の台詞のように。それは決して普通ではなかった。いや、異様だった。
 結果、私の心のどこかが切れた。小さく、音を立てて。
「そ、それはお前があたしにガンをつけてきたからだろうが!」
「ガン、とはなんですか。この国では、人を見つめることは罪になるのですか?」
「そういう意味じゃねぇ!お前、明らかにあたしに喧嘩売ってただろ!違うのか!」
「喧嘩を売る、とはどういう意味ですか。暴力行為を依頼する、ということですか?」
「お望みなら、そうしてやろうか?憐れむような目で人を見やがって……お前の故郷じゃ、そういうのはマナー違反にならないってのか?お前はお姫様かなんかか?あたしは乞食か?」
「マナー違反と言うのであれば、この国では公共の場で怒鳴り散らし、人の胸元を掴んで拳を振り上げるのはマナー違反ではないのですか?」
 気が付くと、私はそいつの首ねっこを掴んで吊るし上げようとしていた。それに対して少し苦しげにしつつ、彼女はまだ……いや、断固として私に屈しなかった。最初と同じように、あくまで毅然として。
 私は絶句した。怒りというより、むしろまったく別の感覚が私の胸中に沸き上がった。上げた拳を振り下ろすのは至極簡単だった。こいつを真冬の池に叩き込むこともできただろう。ある感情がそれを叫び、そうしろと訴えていた。
 だが、できなかった。いや、違う。しなかった。そうだ、してやらなかったのだ。
 私はそいつを下ろした。両手をこれみよがしにパンパンと叩き、そして髪を大きく払った。見返すと、まだ彼女は私のことを見つめていた。じっと、まるで鏡を見るように。
「なんだよ。さっさとどこかに行けよ。行っちまえ。これ以上ここにいると、本気でぶちのめすよ。さっさとお前の家……ホテルかどこかに帰りな。パパとママのいる、あったかいお屋敷にでもな。」
 ふん、と髪をまた一振り、私は視線をそらせた。どうしてか、もう怒りはどこにもなかった。これ以上こいつがここにいるのなら、私の方が去ってやろうと思った。そして、相変わらずこっちに向いているそいつに、きびすを返しかけ……
 彼女が、また口を開いた。
「私は、フランチェスカ。帰るべき場所は……今はまだ、ありません。」
 私は耳を疑った。今こいつ、何を言ったんだ?フラン……それに、何だって?
「フラン……チェスカ?」
 思わず、だった。どうも、さっきからそればかりな気がする。思わずに、言葉を発している。
「そうです。あなたの名前も、教えていただけますか?」
 馬鹿丁寧だった。そこにはたった今まで私たちの間で交わされていた、怒りに満ちた調子など微塵もない。今までのことも、何もかも、忘れているように。いや、もしかすると彼女自身はずっとそうだったのか。怒っていたのは、私の方だけで。
「あ、あたしは……左京。左京、葉野香。」
 ゆっくりと、姓と名を区切るようにして、私の告げた名前を口にする少女。
 私と彼女の黒髪が、冷たい冬の風に舞った。
 彼女の名前は、フランチェスカ。
 
 


[153]中編『其は翼、汝はその羽根(2)』≫北へ。&BSF: 武蔵小金井 2002年10月22日 (火) 22時54分 Mail

 
 
 この坂を登るとき、私はいつも色々なことを考える。
 終わった仕事のこと。明日からやるべき仕事のこと。共に働いている同僚……大人たちのこと。明日からの日々のこと。また訪れた冬のこと。でもそれらはあまり楽しい思考ではなくて、私はすぐに思いの先を変えた。
 最近見聞きした、新しい細工の加工法。新たな色彩。今度の休みで行こうと考えている、美術館や博物館。そこには新しい色が……私の求める赤い色があるだろうか。そういったいつも考えている事柄が、やがてなつかしい故郷のことへと変わっていく。優しかった父のこと。私の手を取って、硝子の製法を一つ一つ教えてくれた父。続くと思っていた、幸せな日々。
 だけど、そこでまた思いは闇に沈んだ。そこで思いを止めればいいのに、できなかった。できるはずもなかった。
 あの男。一人の見知らぬ男に、母と家と父の存在……大切なすべてを奪われた日。私の身も心も傷ついた日。あの日のことを私は忘れない。だからこそ、ここまで来た。こんな異国の地に、たった一人で。昔には戻れないのだし、戻りたくはない。今の私は何も持っていない。だけど、私には記憶がある。大切な思い出が。
 そう考えると、胸元が熱くなった。そこに秘めた、小さなペンダントから発している熱のように。
 怒りにも似た、黒い感情。否定的で不快なそれだと思う。だけど、私はそれを消そうと思ったことはなかった。そうでなければ、生きていけるはずがない。こんな異郷で、誰の助けもなく、孤独に。この思いがなければ、弱い私は川添いの葦のように弛み、踏みにじられていただろう。とうの昔に。
 だから、私はこの感情に感謝していた。この思いがあるから、今ここにこうしていられる。なつかしい父の笑顔、その芸術を甦らせるために、残された日々を過ごすことができる。違う言葉、違う色、違う意識。それを持つ人々の街、私を受け入れてくれなかった社会で、たった一人で生きていくことができる。
 赤い夕日。真紅の夕焼け。
 私は目的の場所にたどりついていた。私の暮らす街、そこを見下ろすことのできる公園。私は毎日、必ずここに来る。この夕日を浴びるために。夕焼けを見つめるために。大切な何かを、思い出すために。
 赤。血の色。炎の色。父が目指し、たどりついた奇跡の彩。
 これだけが、この街で私がなつかしく思えるものだった。故郷の港町、その海辺で、父と並んで見た夕焼け。水平線に限りなく広がる朱と紅のコントラスト。ここに秘められたすべてのもの、暖かい輝き、狂おしいほどの情念、たぎるような思いを、たった一つの色として表現する。それはまさに奇跡と呼べるものだった。この世に存在しない、起こり得ない奇跡。人である私たちに、掴むことは不可能な技術。
 どうやって、父はそこにたどりついたのだろう。そして、なぜ製法を誰にも明かすことなく、亡くなってしまったのだろう。父の死因は私には理解できなかった。いや、本当は理解しようとしなかったのだ。それを認めたくなかったから。
 そこで、私は気付いた。背後で鳴った……小さな、コトリという音に。
 近くに、誰かいるのだ。この公園は夕方になると人も少なく、静かな場所になる。だからこそ私もこの場を好んでいるのだが、それは反面、ここがそれほど安全ではない場所だということでもあった。私も一度ならず、そういった相手に声をかけられそうになったことがある。またそういう人たちかと思い、振り向いて……私は驚いた。
 そこには誰もいなかった。赤く染まったこの場所を見渡す限り、どこにも誰もいない。ならば今の音は気のせいかと思い、そして、すぐそこにある屋根付きの休憩所に気が付く。戸口のない、コンクリートで固められた吹き抜けの休息場所で、私も疲れたときにそこに腰掛けることがあった。
 さっきの音が聞き間違いでなければ、この中に誰かいるのかもしれない。
 おそるおそる、私はその吹き抜けの中を覗き込んだ。あくまでさりげなく、何かあったら……誰かいれば、すぐに黙って立ち去ろうと考えつつ。本当は中など確認せずに、すぐに立ち去るべきだとも思った。だけど、好奇心には勝てなかった。
 そして、そこに……一人の少女がいた。
 年の頃はかなり幼く見えた。私よりも少し下ではないだろうか。少女はあどけない顔で、灰色の椅子に腰掛けて眠っていた。頭を、ぺたんと壁に傾けて。
 だが、私を真に驚かせたのは、彼女がこの国の人間ではなかったことだ。白い肌に銀色の髪。明らかにこの国の人ではない、どこか別の国の少女だった。そして、休息所の中には彼女だけだった。周囲には誰もいない。いるべきはずのこの子の父も母も、見当たらなかった。
 私はとまどった。こんな事態は予想していなかったのだ。ただの日本人、どこにでもいる女の子が眠っているだけなら、私はこの場を去っただろう。もしくは、もう遅いですよと、そっと起こして帰宅させることもできたかもしれない。だけど、目の前の少女はこの国の人ではなく、その雰囲気はあまりにはかなげだった。誰かに声をかけられたら、起こされたら、それで消え去ってしまいそうなほど。
 もう一度だけ周囲を見回すと、私は意を決して休憩所の中に入った。そして、眠る彼女の前……向かいあった椅子に腰掛ける。彼女を起こさないように、静かに。
 眠ったままの少女。先程と変わらないその様子に、どこかほっとして息を吐く。そして、眠り続けるあどけない横顔を眺めた。コットンだろうか、黒のベルベットに、丸みを帯びた小さな靴。服の上からでもわかるほど、手も足もほっそりしていた。絵本の中から出て来たような、可愛らしい少女だ。
 この子は誰だろう。旅行者だろうか。それともこの街に住んでいるのだろうか。どこから来たのだろうか。父や母は近くにいるのだろうか。どうして、こんなところで眠ってしまっているのだろう。
 そういった一つ一つの疑問を吟味して、私は思わず苦笑した。そんなはずはない。この子は当り前の家庭で生まれ育って、何かの……そう、きっと観光か何かでこの街に来ているのだ。もしくは両親の仕事の都合で、今はこの街に住んでいる。父も母も優しい人たちで、可愛がられて育ってきたに違いない。そしてきっと、今日はめずらしく遠くまで来て……遊び疲れて、眠ってしまったのだろう。
 小さな冒険。でもきっと、この子にとってはとても大きな出来事だったろう。見知らぬ世界での、楽しい一日。戻ったらきっと、瞳を輝かせて家族にその話をするのだろう。そこはとても暖かい光に満ちていて、苦悩や辛辣な言葉とは無縁の世界に違いない。
 うらやましい。心底から私はそう思った。頼るものもなく、いたわってくれる人もおらず、ただ孤独に満ちた日々を送っている今の私と、どれだけ違うことか。
 そうだ、私も以前はそういった世界に住んでいた。裕福ではなかったけど、優しく敬謙な父と母に囲まれて、私は幸せだった。冷たい北風に吹かれても、厚い雲に覆われて幾夜を過ごしても、時折さす小さな光……ひだまりの中で、私はとても幸せだった。
 でも、そんな幸せはもうない。この街には何もないのだ。この子のように、戻るべき人々の待つ家はない。あるのは私を外国人と呼ぶ人々が暮らす、冷たい世界。
 夕日の陰りが、休憩所の中を暗くしていた。それはまるで、私の今の心のさまをそのまま映し出しているようだった。合わせ鏡のように。暗く、沈むように。
 そうだ。そうなのだ。私の世界は暗く冷たい。求めるものは遠く儚く、とても私などに手が届くようなものではない。
 私の瞳から涙がこぼれた。
 でも……でも、そんなことはわかっていた。始めからわかっていたのだ。それでも私がこうしているのは、それが私の最後の意地だから。故郷の、家の、そこにいる今の家族を、否定したいから。あれは私の家じゃない。そこにいるのは見知らぬ男で、私の父じゃない。それを選んだ母も、私の知っている母じゃない。私の家族は……父は、別にいる。父は死んでいない。生きて……生きていたのだ。父にしか作り出せない真紅の硝子、それを作り出した父は。
 だけど、誰もわかってくれなかった。そのことを認めてくれなかった。幻だ、思い込みの産物だと言った。まるで、父の存在そのものがそうであったように。
 だから私は家を出た。生前の父のつてを頼りに、この異国に旅立った。私の父の存在を証明するために。あの赤い光、沈む太陽の輝きを秘めた奇跡の硝子。それがあれば、再び作り出すことができれば、それは父が生きていたという証になる。皆に認めさせることができる。あの男は偽者、私の父は本当にいたのだと。優しかった父、大好きだった父。彼を、あの人を、永遠の存在にできる。だから、私は父の名を背負った。そのために生きようと決心した。残された日々を、そのためだけに。
 そこで、目の前の気配に気付く。私ははっと顔を上げた。
 目の前に、少女がいた。いや、目を醒ました少女が、私を見つめていた。
 瞳を隠しそうな銀色の短髪が、かしげる首に導かれて揺れる。不思議そうな表情、不思議な瞳のきらめきが……私を見つめていた。にじんだ視界の中で。
 そう、私は泣いていた。こんな小さな子の前で。そのことが恥ずかしくなり、私はハンカチを出して涙をぬぐうと、何度も目尻を押さえつけた。そして息を落ち着けて、まだ私を見つめている少女を見つめ返す。
「コンニチハ……」
 笑顔に自信はなかったが、私はとりあえずこの国の言葉でそう尋ねてみた。少女の表情は変わらなかった。何を言ったのか理解していないように見えて、私は少し考えた。可能性は少ないが、試してみようと思った。
「こんにちは。私の言葉がわかりますか?」
 なつかしい、故郷の言葉だった。近頃はほとんど口にしていなかったことに気付き、その寂しさに皮肉な笑いがこぼれる。
「はい……」
 私は驚きに目を見張った。初めて聞く少女の声……それは、まぎれもない私の国の言葉だった。
「わかるのですね。あなたはロシアの人ですか?御両親は近くにいるのですか?小樽へは観光に来たのですか?それともお仕事でしょうか?もしよかったら、私がおうちまで送りましょうか?」
 やつぎばやの私の問いに、彼女の表情がとまどいから、怯えるようなそれに変わった。不安がありありと浮かび、おののくように私の前で身をこわばらせる。私は慌てて口をつぐんだ。年端も行かない少女に、何をやっているのか。
 私はつとめて笑いかけた。店で覚えた、そう見えるはずの笑みだった。
「ごめんなさい。脅かすつもりではありません。ただ、あなたがこんな所に一人でいたので、心配になってしまって……恐くないので、安心して下さいね。」
 うまく説明できなかったが、彼女も少しは理解してくれたようだった。だけど、まだ私のことをじっと見上げている。何者か、怪しんでいるのだろうか。こんな自分を。私はもう一度笑いかけた。自然なそれができた。
「私はターニャ。ターニャ・リピンスキーです。今はこの国で、硝子細工の勉強をしています。この街にある運河工藝館が、私の仕事場です。運河工藝館、知っていますか?」
 少女が首を振った。否定でも、反応してくれたことが嬉しくて、私は続けた。
「素敵な場所ですよ。手作りの硝子製品を扱うお店です。お店の中は、いつも明るい光で満ちています。この街には、たくさんの硝子工房がありますね。私のお店もそうです。赤い色や、青い色や、オレンジや……美しい色とりどりの硝子の食器や装飾品、そういったものをたくさん作っているのです。ステンドグラスの部品も作ることがあります。あなたは、教会のステンドグラスを知っていますか?」
 今度は縦に首が振られる。私はさらに嬉しくなった。
「緑や黄、えんじや桃色……様々な色を組み合わせて、一枚の絵を作るのです。モザイクのような模様が一つに完成したそれは、とても美しいですね。太陽の光を浴びて、一枚の光景が神々しく輝く様子には、とても胸をうたれます。私は大好きです。」   
 心のままに口にした賛辞に、両手を重ねた少女が、感嘆のような声を漏らした。私の説明に、うっとりしているようだ。何て可愛らしく、あどけないのだろう。
「この街には、そういった美しい場所がたくさんありますよ。この公園もそうですね。よかったら、私が案内してあげてもいいのですけれど……でも、今日はもう遅くなりましたね。」
 そこまで言うと、少女の顔がすっと陰った。そして、小さくお腹が鳴る。自分のそれに驚いたように、彼女は頬を赤らめて私の方を見た。今のを聞かれてしまったらどうしよう、恥ずかしいな、そういう顔だった。
 私はほほえんだ。
「あなたは、お腹がすきましたか?もう、晩御飯の時間ですからね。それなら、私と一緒に帰りましょうか。あなたの御両親はどこにいるか、わかりますか?」
 ゆっくりと、わかるように尋ねてみる。始めはただ頬を赤らめていた少女が、最後の質問と共に私をまた見つめた。惚けたような、ぼんやりとした……空虚な瞳だった。私の質問の真意が理解できない……いや、意味がないとでもいうような。
 しばらくたって、理解したのは私だった。少女の態度から、それを。
 いないのだ。この少女に親はいない。少なくとも、この少女がそう思える相手は。
 それに気付いた途端、私はこの少女がたまらなく愛おしくなった。同郷の相手にめぐりあい、なつかしい言葉をたくさん口にしたからかもしれない。でも、それだけではない何かが、私の胸に去来していた。また、涙が出そうになる。私は懸命にそれを堪えた。
「あなたも……ひとりぼっちなのですか?」
 私の質問に、少女の瞳がかすかに揺れた。無垢な表情が悲しそうなそれになり、そして、うつむく。
 それで十分だった。私は彼女を抱き締めた。あまりに華奢で、すぐにでも折れてしまいそうなほど柔らかな身体だった。止めていた涙があふれて、彼女の肩にこぼれ落ちる。でも、どうしても止められなかった。
 私がきつく抱き締めすぎたのか、少女がかすれたような声を漏らした。私は慌てて力を緩めた。また目尻をぬぐって、笑いかける。安心させるように。
「よかったら、私と御飯を食べに行きましょうか。あまり贅沢なものはダメですけど……」
 ぱっと、明るい顔になる。だけど、それがすぐためらうような顔になった。遠慮しているのか。私はおかしくなった。
「いいんですよ。少しはお金もありますし、心配しないで下さい。何か食べたいものは、ありますか?」
 給金は、数日前に出たばかりだった。彼女を導くようにして、先に休憩所から外に出る。もうすっかり夕日は沈んでいた。
 街灯、そして家々の明かりに満ちた眼下の街を見下ろす。振り返ると、少し先で少女が私をじっと見つめていた。笑ってみせると、その唇がかすかに震える。
「……レーニエ。」
 小さな、小さな声だった。少女が口にした、言葉。
 食べたいもの?知らない料理……と思った次の瞬間、私は自分の短絡さに呆れた。
 違う。今のは料理の名称じゃない。彼女は……
「あなたの名前は、レーニエというのですか?」
 うん、とうなずく少女。少し恥ずかしそうだ。私は笑った。
「私はターニャです。レーニエ、仲良くしましょうね。」
「はい……ターニャ、さん。」
 はっきりとした声と共に、嬉しそうにうなずく。どこまでも可愛らしい。共に階段を降りながら、私の心は弾んでいた。もう一度、さっき聞いた名前を心で復唱する。
 彼女の名前は、レーニエ。
 
 


[154]中編『其は翼、汝はその羽根(3)』≫北へ。&BSF: 武蔵小金井 2002年10月22日 (火) 23時07分 Mail

 
 
 どうしてこうなっちまったんだろう。
 言葉にならない何かをぼやきつつ、またどこかでそう思った。それは私が今まで幾度となく自問したことで、心中で繰り返すのも今日に限ったことではなかった。でも、今の……今日のそれは少し違う。いつものような、何か重く響くそれじゃなかった。いやむしろ、軽くて浮いたような……そう、ばかばかしいとでも言うべきものだった。
 そうだ、何てばかばかしいんだろう。自分はここで、いったい何をやっているのか。それを考えるだに、新たなばかばかしさが胸に去来する。それを認めて、私は薄く笑った。
 答えは簡単だった。ここは私の家で、ラーメン屋だ。そして私は学校から家に戻って、着替えもせずにエプロンをつけて厨房に立っている。でも、いつものように店を手伝っているわけじゃない。今日は臨時休業だった。それを考えると別のいまいましさがつのるから、そのことは考えない。だとすればどうしてこんな格好で中華鍋をふるっているかというと、それは食べるためだった。
 そうだ。誰だって食事はしなきゃならない。それはこの世に生を受けたすべての生き物がそうであり、だからこそこうして料理するという行為があるのだ。そして、より美味しい食物を食べたいという望みが……食欲と表現するとみもふたもないが……こういった複雑な調理法を生み出し、様々な料理を作り出して来た。だからこそ私の家のような料理屋というものがあるのだし、それが私や家族にとって生活の糧だった。そうだ、だからこそこんな七面倒なことをしているのだ。
 その時、ふっと彼女と目が合ってしまった。カウンターの向こう、私の目の前に腰掛けた彼女と。その視線は相変わらず冷ややかで、今までじっと私の挙動を観察して来たようだった。いや、動作に限らず、考えも含めたすべてを見透かしているような気がする。私は急に恥ずかしくなった。今、何てバカなことを考えていたんだろうと思う。そうだ、まさにばかばかしい。
 腕が焼けるほどに熱い炎の上で鍋を一振りして、それを止める。用意しておいた二人分の皿に、鍋の中の料理を手早く盛り付けた。同じようにスープをすくって、二つ三つの鉢と丼を並べて完成。私はそれを見つめて、とりあえずの出来に満足した。代金を取れるか取れないかは別として、恥ずかしくない完成度だ。見た目は。
「お待ちどうさま。熱いうちに食べようぜ。」
 盆を持って、カウンターの向こう……彼女の前に置く。同じように自分の盆を彼女の隣に置いて、私はエプロンを丸めると厨房から客席に出た。と、そこで飲み物を忘れていたことに気付く。
「はい、お冷や。どうした?熱いうちがうまいぜ。さっさと食べろよ。」
 彼女の盆の隙間に水を入れたコップを置いて、私は自分の席についた。箸を取り、食事前のいただきますを言う。そして、野菜炒めを食べてみた。うん……まぁまぁうまい。
 そこそこ上出来かなと思いつつ、隣の彼女を見た。何も食べていない……というより、じっと料理を見下ろしている。何か当惑しているようで、私はもぐもぐと口を動かしながら首をかしげた。
「どうした?だって、野菜なら食えるんだろ?肉なんて入ってないぜ……あ、スープのダシが鳥ガラだっけ。そういうのもまずいのか?」
 そう告げた途端に、彼女はスープの小鉢を両手に抱えて、盆の外に置いた。あからさまな態度で、そのことには別に何とも思わなかったが、それでもなお彼女は食事に手をつけようとしない。それが気になった。
「食べろよ。うまいかどうかは知らないけどさ、毒なんて入ってないって。冷めるととろみがなくなって、舌ざわりが悪くなるんだよ。だから損するぜ……って、どうして食べないんだ?」
 彼女がこっちを見た。少しだけ非難めいた視線で私を見つめて、そしてまた目の前の盆を見る。次に、もう一度私を見た。私の顔ではなく……食べている様子を。
「葉野香。これは、どうやって食べるのですか?私にはわかりません。」
 目線を合わせずにそう言った、彼女の頬がかすかに染まっている。私は事態が理解できた。なるほどと思う。
「箸の使い方、知らないのか?」
「ハシ……というのですか。これは。」
「ああ。悪いな、ちょっと待ってろよ。スプーン……っと、はい。こっちはれんげ。フランチェスカ、使い方わかる?」
 両手にそれぞれ、スプーンとれんげを手にして、彼女……フランチェスカはうなずいた。どこか、憮然としている。私はそれがおかしくなって、思わず笑ってしまった。案の定、さらに非難めいた眼差しがこっちに飛んでくる。私は慌てて席を立って、もう一度厨房へと入った。
「えーっと……フォーク、どこかにあったよな。ここだっけか……あ、さっさと食べてろよ。冷めるとおいしくないぜ。」
 背中にまだ彼女の視線が当たっているのを感じた。やっぱり、どうにも今の出来事が面白くないらしい。私はさらに愉快になって、フォークを探しながら目尻を押さえた。今までのことから転じて、やっと彼女の扱い方がわかって来た気がする。
 フランチェスカは面白い奴だった。そう、笑える奴だ。不思議で妙で、世間知らずでわけのわからなさはとびっきりで、たぶんきっと大金持ちのお嬢様。公園で出会った時から私は驚かされっぱなしで、今になってそれが愉快でたまらないからだということに気付く。
 そう、彼女と私はまるっきり違っていた。住む世界も、意識も、何もかも。歓楽街のススキノで育ち、道南一円にその名を轟かせた伝説の不良を兄に持ち、両親と死別した私とはまったく違う。小遣いも満足にもらえない貧乏暮らしも、近所や学校で不良のレッテルを張られて蔑視されることも、この生粋のお嬢様には理解どころか、想像すら不可能だろう。ある意味彼女のその度合は、筋金入りだった。私に詰め寄られても、微動だにしないほどの世間知らず。
 奥からフォークを持って戻ると、フランチェスカはスプーンに野菜炒めを乗せて、口に運んでいた。ゆっくりと噛み、呑み込むその顔はまんざらでもなさそうに見える。だが私と視線を合わせると、そんな自分の様子が恥ずかしいかのようにぷいっと正面を向いた。
「はい、フォーク。これも使う?」
 黙ってそれを受け取る彼女。私が座り直し、冷めないうちにと野菜炒めを口に運ぶと……かすかに、ありがとう、という声が聞こえた。思わず笑い出しそうになり、首を振ってそれを打ち消す。
「いいって。でもさ、フランチェスカってそれだけヘビーなお嬢様のくせに、よく一人旅なんかできるよな。変な連中に騙されそうになったりしないのか?それとも何だ、どこかに筋骨隆々なガードマンや執事が隠れてて、何かあると駆けつけてくれるとか?」
 フランチェスカは黙っていた。そして、グラスの水をこくりと一口して、小さく息を吐く。
「そんな者はいません。それに、私は人には騙されません。決して。」
 私はある部分でそれに納得した。まあとにもかくにも、この頑固一徹な調子じゃ無理もないか。自分の分を食べながら、そう思う。
 どうしてか、フランチェスカはかなり独特な教育を受けたらしい。いや、彼女の国ではそれが当り前なのかもしれないが、だとすれば時代錯誤というか、本当に私とは住む世界そのものが違うようだった。私と同じか、それ以下の年齢にしか見えないのに……実際尋ねても答えなかったが……もう既に大人というか、そこらの飲食店のガンコ親父顔負けのかたくなさを身に付けている。
 でも、こういう奴が一番騙されやすいというか、危ないんだよな。私がそんな風に考えると、フランチェスカが私の方を向いた。まるで考えていることがそのまま伝わったようで……私は思わず目をそらせて食事に集中した。
「ごちそうさまでした。食事を御馳走してくれて、ありがとうございます。」
 でも横から聞こえて来たのはそんな文句で、私はまた拍子抜けした。本当に、ああいった台詞の直後に、よくこういう事を話せると思う。
「いいって。それより、それだけでいいのか?」
 フランチェスカの皿はほとんどがまだ残っていた。というより、食べたのか?という程度しか減っていない。だが彼女はうなずいた。
「はい。それでは、私はそろそろ行きます。」
 またもや私は驚かされた。慌てて自分の分を口に入れると……水でそれを一気に流し込んで、行儀よく丸椅子から降りた彼女に向き直る。
「ち、ちょっと待てよ。お前さ、行く所がない……そう言わなかったか?」
「戻る所はありません。でも行くべき所はあります。私は、それをしなければならないのです。」
「行くって、どこに行くんだ?」
「葉野香、私の目的をあなたに話すことはできません。」
 私は頭をかいた。まったく、そういう所はロボットみたいな奴だ。外を見る。もうアーケードのネオンが明るかった。
「もう暗いぜ?札幌、初めてなんだろ?泊まる所はあるのか?」
「ありません。私には必要ありませんから。」
「必要ないって……いいかげんにしろよ、フランチェスカ。お嬢様気取りもさ。」
「あなたの言うお嬢様気取りという意味が、私にはわかりません。ですが……」
「だから、そういうのが世間知らずのお嬢様だってんだよ!」
 あまりの彼女の物言いに、私は遂にかんしゃくを起こした。
「いいか、フランチェスカ。この札幌の夜中に、あんたみたいな格好の女の子がノコノコ歩いててみろ!警察に補導されるか、もしくは変態に声かけられて、とんでもないことになるぜ?人に騙されないって言ってもな、いきなり襲ってきたらどうするんだよ?大人に襲われて、身は守れるのか?話せばわかってくれるってか?ハッ、いいかげんにしなよ!世の中そんなに甘くないんだ!」
 フランチェスカは黙った。言いすぎたかと思い、そんなことはないと心中で首を振り、彼女を睨む。フランチェスカは私をじっと見つめて……そして、また口を開いた。
「それでは、葉野香。あなたは私に、どうした方がいいと言うのですか?」
「ホテルとかないんだろ?だったらあたしの家……って言うか、ここだけどさ。ここに泊まっていけよ。あんたがどこに行くにしろ、今日はもう遅いからな。行く所があるにしても、明日にすりゃいいだろ。」
 また少し、沈黙があった。やはりとまどいがあるのだろうか。私や家に迷惑をかけるとか、そういう。だとすれば大笑いだ。私は家の現状を教えてやろうと思い、口を開きかけた。
「葉野香、この家に私が泊まる場所はあるのですか?」
 私は転びそうになった。目をむいて彼女を見返す。フランチェスカは真顔だった。私がどう思っているかなど、気にしていない……いや、気が付いていない顔。それは今日の午後、公園で初めて会った時の彼女そのままだった。
 だから、怒鳴らなかった。怒鳴れなかったんじゃない。怒鳴ってやらなかったんだ。
「はいはい、ありますよお嬢様。汚くてボロい廃屋同然のあばらやかもしれませんが、それでもお嬢様がお泊りになる部屋一つぐらいはございます。そうだお嬢様、今丁度、ワタクシめの兄夫婦が共に出かけておりましてね。部屋はどこでも好き放題に使用できたりするんでありますよ。」
 ろれつが回らない。バカにするつもりを含め、滑稽に言ってやったつもりだったが、当然の如くというか、フランチェスカはまったく感じていないようだった。
「そうですか。それでは一泊だけ、お借りしましょう。ありがとうございます、葉野香さん。」
 馬鹿丁寧なお礼の言葉。私は自分がピエロに思えた。世界はフランチェスカを中心にして回っているらしい。そして、私はその世界の登場人物の一人で、お笑い役のピエロ。
「はいはい……ところでさ、フランチェスカ。さん付けはやめてくれよ。なんて言うかさ、むずかゆいんだ、そういうの。」
 二度目だった。公園での挨拶に続いて。
 そして、フランチェスカは驚いたように目を丸くした。
「そうでしたね。すみません、葉野香。」
「いいよ、フランチェスカ。さてと……じゃ、こっち来なよ。あたしの部屋でもいいんだけど。あ、ベッドはないぜ。布団だけど、いいよな?」
 奥に彼女を案内しながら、私はどうして自分がこんなことをしているんだろう、と思った。まったく、何度目のそれかわからない。そして同じように、結論は出なかった。もしかすると、理由なんてどうでもいいのかもしれない。
 二階への階段を上がる。続いて歩いてくるフランチェスカ……その足音に私は振り向き、そして彼女が土足……雪と泥のこびりついたブーツのままでついて来ている事に気付いて、天を仰いだ。天井の遥か先、灰色の雲で覆われた北海道の空を。
 白い粉雪が、ゆっくりと降り続けていた。


 本当に、なんて可愛らしい少女だろう。
 少し開いた窓の向こう、夜空から降り続ける雪をぼんやりと眺めながら、私はそう思った。
 そして、明るい部屋の中に目を向ける。大きくはない女子寮の部屋……そこに敷かれたオレンジとグリーンのカーペットの上、ストーブの近くで丸くなっている姿を見つめた。自然と、頬が緩んでいくのがわかる。
 レーニエ。夕日の見える公園で出会った、不思議な少女。
 彼女はまるで、不思議の国から迷い込んで来た妖精のようだった。何も知らず、無邪気で、それでいてあらゆるものに興味を示す。生まれたばかりの赤子のような、そんな少女。出会ってから今まで、私はそんな純粋無垢な彼女に驚かされ続けていた。共に公園を出て、食事をして、そしてこの部屋に戻るまで、ずっと。あまりにも世間知らずで、だからこそ、限りなく優しく可愛らしい、小さな乙女。
 今きっき、夜の小樽を二人で歩いて戻って来た時のことを思い出す。夜の運河のきらめきに目をまたたかせ、小さな歓声をあげるレーニエ。ガス灯の、石油ランプの光に瞳を輝かせ、嬉しそうにくるくると回る姿。それはまさに無邪気な妖精のようで、私は見とれるようにその姿を追っていたのだ。
 そこで、私はまた窓の外……闇に浮かぶ小樽の夜景を見つめた。いつもと違って、とても奇麗だ、と思う。普段は、くすんで汚れてしまったように見えるのに。こんな風に見えるのは、久しぶりだった。そう思って、驚く。久しぶり……?
「ターニャ……さん?」
 振り向くと、起き上がって、目をこすっているレーニエがいた。窓辺に腰掛けている私を、不思議そうに見ている。私は笑って、すぐに窓を閉めた。
「少し空気を入れ替えていました。ごめんなさい、起こしてしまいましたね。」
 彼女のそばに戻ると、すぐに安心したようにうなずいてくれる。
「あの……わたし、眠ってしまって……ごめんなさい。」
 ゆっくりと。私はまた笑顔で首を振った。
「いいんですよ。お腹がいっぱいで、眠たくなったんでしょうし。でももう遅いから、ベッドで寝ましょうか。レーニエは、上と下と、どちらがいいですか?」
 私は部屋に備えつけられた二段ベッドを指差した。この部屋は本来二人部屋だが、今は私一人しかいない。レーニエは二段ベッドを興味深そうに見つめて……上、下、と一生懸命に考えているようだった。
「あの……その……えっと、どうしようかな……」
「下がいいでしょうか。寝相が悪くて、落ちたりしたら危ないですからね。」
 冗談めかして言ってみると、レーニエは少しびっくりしたようにそれを聞き、慌てて何度もうなずいた。その仕草がたまらなく可愛らしくて、私はまた笑っていた。
「うふふ。大丈夫ですよ、ちゃんと柵がありますから。それじゃ、洗面所はあっちですから、歯を磨いて寝ましょうね。歯の磨き方はわかりますか?私と一緒に磨きましょうか?」
 レーニエがまた、うんとうなずいた。私は嬉しくなって、バスと一体になった洗面所に入った。彼女にそこのだいたいの使い方と……歯の磨き方を教える。買い置きのブラシを手にしたレーニエは歯磨きのチューブが珍しいようで、白いそれを出して含み、飲み込んでケホケホとせき込んでいた。でもやり方がわかってからは、楽しくなって来たようで、私たちは二人で奇麗に歯を磨き、口をゆすいだ。
 次は寝巻きだった。レーニエのゆったりとしたベルベットを脱がせようとすると、彼女は真っ赤になって首を振った。
「レーニエ、一人で着替えはできますか?」
 また、こくっとうなずく。ついつい子供扱いしすぎてしまったかなと、私は反省した。用意しておいた寝巻きを渡し、彼女が洗面所から出てくるのを待つ。しばらくして、丁寧に服を畳んだ彼女が着替えて出て来た。
 私が前に使っていた白いパジャマは、レーニエによく似合っていた。私がそう言って誉めると、レーニエは恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうに頬を染めてクルリと回った。
「それでは、おやすみなさい。よく眠れるといいですね。」
「あの……ターニャさんは、まだ寝ないんですか?」
 不思議そうに聞いてくるレーニエに、私はうなずいた。安心させるように、ほほえむ。
「私はまだ勉強がありますから。うるさくないようにしますから、寝付けなかったら言って下さいね。」
「そうですか……それじゃ、おやすみなさい、ターニャさん。」
 私はもう一度そう言うと、レーニエはベッドに入っていった。私もドアと窓の鍵を確認して、いつもの机に向かった。帳面と本を出して、昨日まで勉強していたページのしおりを開く。
 やはりというか、勉強ははかどらなかった。どうしても、すぐそばで眠っているレーニエのことを考えてしまう。夕日に染まった公園で、幸せそうに眠っていたあどけない姿。同胞……私の故郷の言葉を語る少女。
 結局、レーニエは自分のことをほとんど語らなかった。でも、それは結果として、私に彼女の素性を悟らせてくれることになった。たった一つのことを。そして今の私にとって、それで十分だった。どうして、無理に問い詰める必要があるだろう。
 孤独な存在。ひとりぼっちの少女。だけどその心は無邪気だった。食事をしながら、お茶を楽しみながら、レーニエは色々なことを質問し、私は語った。この国のこと、この街のこと。私自身の仕事と、こうなった経緯。私の説明は決して上手ではないはずだったが、レーニエは語る一つ一つを懸命に聞き、大切に心にしまいこんでいるようだった。最後には、私自身が話すのに疲れてしまったほどだ。
 でも、彼女に不快感はなかった。むしろ、その逆だった。今までこんなに楽しく、嬉しく、そして暖かい感情を持ったことがあっただろうか。父が亡くなり、故郷を離れて、ずっとこんな気持ちになったことはなかった。レーニエが無邪気に笑い、ほほえむと、私の心も暖かさで満たされた。それは、かつての父に私が感じたものと似ていた。家で、仕事場で、父の一挙手一投足に目を輝かせていた私と。
 だから、彼女を放っておけるはずもなかった。そして私は決心をして、結果レーニエはこの……社員寮の私の部屋にいる。
 これは規則違反だった。知られれば、どんなに怒られるかわからない。でも、しかたなかった。寮の管理人は絶対にわかってくれるとは思えなかったし、工藝館の店長もそれは同じだった。今の私が、彼らにとってお荷物になりかけている以上、私が連れ込んだ見知らぬ部外者……彼らにとっての異邦人のことなど気にしてくれるはずもない。だから、私は規則を破った。こんなことをするのは初めてだった。
 でも、後悔はしていない。むしろ、私の胸は誇りにも似た感情でいっぱいだった。この少女に、レーニエには決して罪はない。彼女を保護して、私が責められるならそれでいい。私が謝り、罪を受けることで済むのだったら。それよりも、レーニエを守ってやりたい。
 出会ったばかりの少女にどうしてそこまで思うのか、私にはわからなかった。でも、どうしてか、それでいいのだと思った。彼女を守りたい。世間の皆が私を異端視するように、彼女をさらし者にはさせない。私が傷ついたように、彼女を傷つけさせはしない。レーニエの夢、願いを叶えてやりたい。私にできることがあれば、してやりたい。どんなことでもいい、彼女のためになることなら。
 そこまで考えて、ふっと思った。私はまるで、恋をしているようだ。もちろん、私にはまだそんな経験はなかった。でも私が今考えていたことは、まるで寝物語で語られる、そういった恋物語のヒロインのようだ。
 私がヒロイン?思わずおかしくなる。それでは、彼女の立場はどうなるのか。お人形のように可愛らしく、純真無垢なレーニエこそ物語のヒロインだった。工房の作業で汚れ、手足に火傷とあざを作り、そもそも健康な身体すら持たない私は、ただの舞台の端役だろう。そう考えると悔しくなったが、それでも不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
 席を立ち、机のライト以外に照明のない部屋を横切って……ベッドへと近付く。レーニエは眠っていた。大きな枕を抱き締めるようにして、気持ちよさそうにすやすやと眠っている。
 ほっとした。愛おしさとでも言うのだろうか、暖かい感情で胸が満たされる。私は毛布をレーニエの襟元まで上げてやると、しばらくその寝顔をじっと見つめて、そして机へと戻った。
 少しの後、本とノートを閉じる。今夜は勉強にならなさそうだった。それでもいい、と思う。
 私は着替えると、レーニエを起こさないようにベッドの二階へと上がった。長い間使っていないそこは少しほこりっぽかったが、別に構わなかった。
 おやすみなさい、レーニエ。胸の中でそう呟いて、私は瞳を閉じた。
 
 


[155]中編『其は翼、汝はその羽根(4)』≫北へ。&BSF: 武蔵小金井 2002年10月22日 (火) 23時18分 Mail

 
 
 それからの数日はあっという間だった。
 色々なことが立て続けに起こっていた。清美さんの帰郷の日程が予定より延びたこと。私のおばに当たる人……清美さんの母親が熱を出したことがその理由で、私はきっとうちの兄貴との結婚を猛反対していた向こうの親御さんがそれをはかったんじゃないかと思ったけど、別に口に出したりはしなかった。清美さんは本当に悪いわね、あの人は大丈夫?と心配そうに聞いて来たから、ああ安心してくれよ、いつも通りにやってるさと言っておいた。
 もちろん嘘だった。それも大嘘だ。まあ、いつも通りという意味があいつの素行としてのそれなら、嘘じゃなかったけど。
 あのバカ……私の兄の達也は、清美さんが実家に戻って以来このかた、まったく店に帰って来ていない。私が知り合いに聞いて調べると、すぐに旅行に出かけたことがわかった。信じられないことに、昔の友人とつるんで内地で開催される大きな競馬のレースに行ったらしい。しかも、店の売り上げに貯金を含めた大金を持ち出して。
 信じられないことをする奴だった。いや、最低最悪だった。戻ってきたら、どうしてやろうかと思う。自分がこの店の跡継ぎで、唯一の料理人だという自意識はあるのか。いや、そんなものがあるはずはなかった。どだい、元からそんなものはないのだ。あいつはやっぱり最低な奴で、それはずっと変わらない。どこまでもクソミソの、バカ野郎だった。
 だけど、清美さんにそれを言うわけにもいかなかった。ただでさえいい人すぎる清美さんだ。こんなことを聞いたら、店を心配して飛んで帰って来るに違いない。そうしてまた、向こうの親御さんとの仲を悪くするのだ。私はもう彼女に迷惑はかけたくなかった。私の家のこと……ううん、血の繋がった兄妹のことだ。
 だから店は、ここしばらくずっと臨時休業だった。風ではがれそうになるその告知を毎朝睨みながら、私はあいつへの恨みの念だけを強めていった。
 それでも、こんなことは私にとっていつものこと……いわば日常だった。違うのは、もっと別のこと。
 そう、彼女のこと。
 あの日以来、フランチェスカは我が家の居候となっていた。あの出会いの日の翌朝、私が起きると彼女は部屋にいなかった。もちろん、店のどこにも。なんだ、どうしたんだと思い、それも彼女らしいかと私は笑った。そしていつも通りに登校して……帰宅してみると、フランチェスカが居間のこたつの前で座っていた。まるで、それが当り前であるかのように。
 どうしたんだと私は尋ねて、出かけていました。行く所があると言いませんでしたかとフランチェスカは答えた。そうかと言って、私はお茶を入れてやった。煎餅やミカンも出してやった気がする。何だか拍子抜けしたような、それでいて安堵めいたような気持ちだけはよく覚えていた。そしてまた食事を作り、二人で食べた。彼女が偏食で、少食なのは相変わらずだった。
 次の日は休みだった。朝、私は出かけようとするフランチェスカを呼び止めて、よかったら私もついていこうか、案内ならできるぜと言った。彼女は少し考えて、そしてうなずいた。意外だった。でもちょっぴり嬉しかったのも事実だった。
 二人で札幌の街を歩きながら、私はフランチェスカにどこへ行きたいのかと聞いた。答えはなかった。なら彼女が歩く場所についていけばいいか思い、私はフランチェスカの後に続いた。
 午後になって、私はようやく彼女が目的もなく思いつくままに歩いていることに気が付いた。呼び止めて確認すると、そうではありません、ですがそうでもあるのかもしれませんね、とわけのわからない禅問答のような答えが返ってきた。これも実に彼女らしかった。私は大笑いして、じゃあどこに行っても同じだろ、あたしが面白い所を案内してやるよ、と言ってみた。フランチェスカはうなずいた。また笑った。
 結果、その日と翌日は札幌観光になった。フランチェスカは私が案内するどこにでもついてきて、私たちは徹底的に歩いた。時計台、赤レンガ、テレビ塔、狸小路、北海大、羊が丘……お決まりのスポットを案内しながら、フランチェスカと相変わらずの会話をする。深いような、何も考えていないような、そんな会話だった。
 街を歩く私たちは異彩を放っていた。もっとも私も彼女も衆目を気にするような性格ではなかったので、どんな場所でも怯むことはなかった。だけど、結果としてトラブルは多くついて回った。何しろフランチェスカの性格である。不用意に声をかけられようものならば、あの通りの辛辣な台詞が待っていた。言い含められるような奴ならいいが、頭が足りない連中は当然のようにいくらでもいて、そこで前に出るのは私だった。こういった時には私の……いや、あのバカの、だ……悪名は役に立った。もっとも、嬉しくなどなかったが。
 しかしそんな私ですら、彼女の目的は皆目わからなかった。ただ、同じ場所には二度行こうとせず、そこを一通り見て回るとすぐに興味を失うことから、彼女が何か……場所か、物かを探しているのだと察することができた。きっとこのお嬢様は、昔の記憶……何か、うっすらと見聞きしたことのある、忘れかけた何かを探しているのではないか。そんな風に思い、そんな漠然とした目的を真面目に……そう、まさに真摯に行おうとする奴がこの世にいるわけはないと考え、そしてこの少女……フランチェスカならあるいはと帰結する。
 もっとも相変わらずというか、何も教えてくれないフランチェスカだったから、私ももうそれを問いつめようとはしなかった。何故か、どうしてかわからないが……懸命に、ひたむきに、ただ目的のために自分のすべてを費やしているような彼女の様子を見ていると、理由などどうでもいいと思うようになったのだ。
 そう、もうどうでもよかった。彼女は面白い奴だ。人を詮索することもなく、好意に甘んじても臆することなく、常に堂々として落ち着き払っている。つんと澄ましたような態度は、人によっては気に触る奴だと思うかもしれない。でも、それが私にはたまらなく愉快だった。フランチェスカが何を考えているか……いや、実は目的以外のことは、本当に何も考えていないのだと理解してからは。
 とにかくそんな風に、彼女と私の数日が過ぎた。今になって考えるととても奇妙だったが、その間だけは、私はいつものような不愉快な気分でいなかったと思う。どうしてか、フランチェスカと歩いていると、そういうことが実に下らなく思えるのだ。他人の視線、陰口、今までのこと、これからのこと、それをいちいち気にすることが。
 そこまで考えて、私はふっと思った。彼女こそまさに、無垢な赤子のようなものかもしれない。一つのことを求めて、ただひたすら真摯にそれに向かっていくフランチェスカ。それはまぎれもなく彼女自身がひたすらそう願っているからであり、それ以外の世の中の目など気にもしていない。それは私が理想に描いた姿のようで、そう考えると、そういう存在ははたから見れば何と滑稽なのだろうと思った。そう、私が面白い奴だと彼女を感じたように。
 でも、それがうらやましかった。私も彼女のようになってみたい。たった一つ、人生をかけて何かを求めるような、そんな立場になってみたかった。そうなればきっと、周囲にどんな風に思われようと、誤解されて嫌われ、笑われようと、彼女のように平静でいられるに違いない。気取りもせず、怒りもせず、ただひたすら道を進む……気高さとでも言うのだろうか。そんな思いを、一度でいいから私も宿してみたいと思った。
 そんな、ある日のことだった。
 その夜、私は遅くになって目が覚めた。どうも、どこからか隙間風が入っている気がする。戸締まりを忘れたかなと起き上がって、私はすぐに隣の……私が使うように言った部屋の窓辺に腰掛ける彼女を見つけた。
 フランチェスカはネオンがまぶしいススキノの照り返しを受けながら、開けた窓の先の夜空を見上げていた。風が強く、たまらなく寒かった。それでも、彼女は身震いもせずにじっと夜空を見上げている。
「星が奇麗ですね、葉野香。」
 どうしたんだと声をかけようと思った矢先に、彼女が声をかけてきた。私に気が付いていたのか。思わず、どぎついネオンで星なんて見えるのかい、と茶化そうと思って……私は、フランチェスカの横顔に気付いた。
 初めて見る、彼女の表情。それは、とても悲しげで……そして何か、秘めたものがこぼれるのを必死に堪えているような、そんな表情だった。何も言えなくなって、私は彼女にかける言葉を探した。だけど、見つからなかった。
「……そうだな。」
 結局、しばらくたって私が言えたのはそれだけだった。何だか、そんな自分がとても悔しかった。風邪ひくぜ、寒いからもう寝ろよ。それだけ言い残して、私は彼女の部屋のドアを閉めた。閉まる直前、フランチェスカがありがとうと言った。いつものように、静かに。
 星が奇麗、か。再び寝床に潜り込みながら、彼女の口にした台詞について考えて……私は、一つ思いついた。きらめくような輝きに満ちた、地上の光。次の休み、あそこに彼女を連れていってやろう。ホワイト・イルミネーション。光と氷に包まれた、大通り公園の夜。あの光景を見たら、彼女は何というだろうか。何も言わないかもしれない。でも、それでもいいと思った。私が見せたいだけだから、それでいいのだ。
 私は眠った。深く。そして翌朝、目覚めるとフランチェスカがいなくなっていた。
 そして、それが私たちの別れになった。
 あっけない、とは思わなかった。水くさいとも。むしろ、彼女らしいと思った。出会いと同じく、別れも突然。
 そうだ、あまりにも彼女らしい。   
 その日の午後、バカ兄貴と清美さんが同時に家に戻ってきた。そしてまた、喧騒に包まれた毎日が始まる。それはいつも通りであり……そして、どこかが普段と違っていた。いや、違うように感じるだけかもしれなかった。でも、それでいいと思う。
 日常とは、そんなものかもしれない。


 テーブルの上で、小さなきらめきが弾けた。
 いくつもの輝きを掴むようにして、レーニエがはしゃぐ。ころころと転がるそれが互いにぶつかって、涼しげな音を立てた。それを嬉しそうに見つめて、またレーニエが新たな光を投げる。
 遊んでいるのは硝子玉だった。私が工房から持って来て、あげたものだ。加工もいいかげんで、値段もつかないようなものだったけれど、それでもレーニエはとても喜んでくれた。ああやってテーブルに並べ、転がして、そして一つ一つ丁寧に数えて、小さな布袋の中にしまう。それを彼女がとても大切にしていることを私は知っていた。眠るとき、枕元に置いておくほどだ。
 あの出会いから数日。レーニエと私のつつましやかな生活が続いていた。
 もっとも私にとっては、いつもの毎日とそれほど違う日々ではなかったかもしれない。朝起きて、工藝館に出勤し、夜になったらこの部屋に戻ってくる。いつもと変わらない生活なのに、どうしてこうも違うのだろう。
 その理由は明白だった。私が一人じゃないからだ。そう、もう私は一人じゃない。
「どうしたんですか、ターニャさん?」
 私の視線に気付いたレーニエが、不思議そうに聞いて来た。笑って首を振る。
「なんでもありませんよ。それより、そろそろ晩御飯にしましょうか。レーニエ、手伝って下さいね。」
 元気良く返事をして、硝子玉を片付けはじめるレーニエ。狭い台所に二人で立って、これから食べるものを作る。彼女は完全な菜食主義者で、私も最近では彼女の好みに合わせていた。
 食事の時間はとても楽しかった。私もレーニエも語ることはあまり上手ではなかったが、それでも私たちは色々なことを話した。それは、傍目から見れば奇妙な会話だったかもしれない。でも、それでよかった。私は今日あった出来事をレーニエに話し、その一つ一つに、彼女はとても純粋な反応を示した。
 そう、レーニエは無垢だった。この世の辛さを知らず、光に満ちた明日を信じて、人に裏切られることなど思ってもみない。かといってうるさいこともなく、自分の立場を理解して、私に献身的に尽くしてくれる。何か小さなことでも出来ることをしたがり、それで私が助かりました、と言うととても喜んだ。それはまるで、母親にお手伝いを誉められて喜ぶ幼い子供のようで……私の心も、同じように暖かくなった。もっとも、私とてまだ若年だったから、人から見ればレーニエと私は姉妹のようなものかもしれないと思う。
 金色の髪と、銀色の髪の姉妹か。私はそんな想像を巡らせて、彼女が本当に私の妹なら、どんなに楽しいだろうと思った。そうなればこんなふうに人目を避けることもなく、堂々と暮らすことができる。そうだ、彼女と二人なら、どんなに辛いことも乗り越えられるに違いない。強くなりたい。私はレーニエを見るたびにそう思った。弱い私でいたくない。
 食事を終えて、ジャムを入れたロシア紅茶を楽しんでいるとき、私は思いついた。
「そういえば、明日はお休みなのですが……レーニエ、どこかに行きましょうか?」
 レーニエがこの寮にいることはもちろん秘密だった。結果、レーニエはこの部屋にずっと押し込められている形になっている。前はよくコンビニエンス・ストアなどの買い物に連れて出たことがあるのだが、一度、同僚に見つかりそうになってからは敬遠していた。レーニエもそれはわかっているようで、文句は一つも言わなかった。それはありがたかったけど、何とかしてあげたいとも思っている。
「えっ……でも、いいんですか?」
 熱いお茶に息を吹きかけて冷ましながら、レーニエは私に尋ねた。私は笑ってうなずき、行きたい場所はないかと尋ねた。レーニエはうーん、と首をかしげながら、やがて私に言った。
「えっと……わたしはどこでもいいです。何か、素敵なところはありますか?」
 素敵なところ、か。レーニエらしい言い回しだった。私はもう一度うなずき、立ち上がった。
「たくさんありますよ。それじゃ明日は一日、小樽の街を見て回りましょう。美術館や……あ、教会にも行きましょうか。奇麗なステンドグラスが見られますよ。」
 レーニエは目を輝かせた。それじゃ、先にお風呂に入ってきなさいと私が言うと、いさんで洗面所へと走っていく。それから私はレーニエが出てくるのを待ちながら、明日の散策ルートを考えていた。この歴史ある街の中でも、厳選した……うん、とびきりのいい場所を案内してあげよう。
 パジャマのレーニエとおやすみなさいを言いあうと、私もシャワーを浴びて、早めにベッドに入った。明日は何かが起きそうだった。とても素敵なこと。
 翌朝、私はいつもより早く目が覚めた。今日の観光が待ちきれなかったのだろうか。レーニエもそれは同じようで、目をパチパチさせて私と向きあった。私は上の段、レーニエは下の段で、くすくすと笑いあう。
 都合がいいので、早めに寮を出ることにした。身仕度を終えると部屋の扉を開けて、玄関までのフロアに誰もいないのを確認する。そしてレーニエを手招きして、二人で素早く寮の門を出た。緊張し、ドキドキと胸が高鳴ったが、無事に外に出るとそれはおさまった。レーニエと目くばせをして、同時にふうっと息を吐く。お互いのそれに気付いて、私たちはまた笑った。今度は大きく、声をあげて。
 この街は美しい。その日、私は心からそう思った。様々な硝子のお店、絵画や彫刻の並ぶ美術館を見学しながら、今初めてそれに気が付いたように感嘆の思いを宿す。それはまた、隣で共に歩むレーニエのせいでもあった。見るもの、入る場所、そのすべてに彼女は驚き、喜び、そして感心していた。それが決して作為的な、偽善からのものでなく、素直な心の動きであることが、私をさらに感動させる。
 この子のようになりたい。すべてに感動し、善も悪も受け入れて、それでもなお輝きを失わずにいたい。私はいつしか、そう切望していた。日常の一つ一つに、これだけ喜びを見出せたら、どれだけ毎日が楽しいだろう。人の陰口も、さげずみの視線も、乗り越えられるに違いない。太陽の光の注ぐ中で、その日、その時を心の底から楽しみ、夜は明日を夢見て眠る。それほどまでに素敵なことがあるだろうか。
 そんな時だった。私が、彼女たちに出会ったのは。
「あら……ターニャさんじゃないの?どうしたのかしら。」
 そこは、小樽の運河添いだった。日本の言葉……横合いからかけられたそれを、私は始め理解できなかった。だがすぐに、私を誰かが呼んでいるんだと気付く。振り向き、そして……私はドキリとした。
 運河工藝館の同僚たちだった。皆で今日の休みを、どこかで過ごして来たのだろう。
「みなさん……コンニチハ。」
 私は頭を下げた。工房では最年少で、しかもただ一人のロシア人である私にとって、この人たちは職場を同じくする以上の関係ではなかった。彼彼女らのように専門の学校を出ておらず、ただ店長が父と懇意にしていたというだけで店に勤めている私を快く思っていない人は多い。はっきりと、嫌われているとわかることもある。
「私たち、これからマイカルに行くんだけれど……ターニャさんも行かない?」
 私は首を振った。そして、同伴できないことを謝ろうとして……同僚の一人が、私の後ろにいるレーニエに気が付いた。
「誰だい、その子。ターニャさんの知り合いなの?」
 レーニエは私の背に隠れるようにしていた。無理もない、彼女は日本語がわからないのだ。私は安心させるようにほほえんでやると、同僚たちに向き直った。
 この子の、レーニエのことだけは隠さなければならない。気付かれるわけにはいかなかった。
「あの、この子は……」
「ターニャさんの親戚か何かでしょ。この前から、部屋に泊めてる子よね?」
 私は頭から冷水をかけられたような気分になった。呆然と、それを口にした同僚の女性を見つめる。
「そうなの?ターニャさんの従姉妹なの?」
「そうでしょ、きっと。可愛い子よね。私も初めて見た時はビックリしたけど……あ、なに?ターニャさん、もしかして気が付いていなかったの?馬鹿ねぇ、ばれないはずないでしょ。あんなににぎやかにしてて。」
「へぇ、あたし全然気が付かなかった。そうなんだ……やだな、紹介してくれればいいのに。」
「ダメダメ。日本語できないみたいだから。それに、管理人さんに知られたらヤバいでしょ。ターニャさん、あなたもいいかげんにしておかないとダメよ。そりゃ私たちだって時々、友達や彼氏連れ込んだりしてるけど……あんまり長いのはルール違反だからね。」
「そうそう。いくらあんたが店長の御墨付きって言ってもねぇ。わかった?」
 彼氏だ何だと、互いに騒ぎ始める同僚たち。私はまだ呆然としていた。理解するまでには少しの時間がかかって……そして、彼女らの語った言葉の意味、そこから導き出された結論を知る。
 私がもっとも恐れていたこと。それが、現実になった。いや、既になっていたのだ。あまりにも突然に。
 私たちを指差して話している同僚たち。理解できない言葉。理解してくれない人たち。私の服の裾を、背後のレーニエがギュッと握った。私の心が震える。どうして。私たちは見せ物じゃない。
「やめて……ヤメテクダサイ!」
 叫んだ。身体が熱い。同僚たちが、驚いたように私を見た。別の国の人たち。私を拒絶する人たち。
「この子は……この子はワタシのトモダチです!タイセツな……かけがえのないトモダチなんです!だから、だからそんなふうに笑わないでください!」
 舌が回らなかった。でも私は必死だった。大切なレーニエ。私の心を暖めてくれたレーニエ。彼女が私を救ってくれたのだ。私は彼女に救われたのだ。絶望していた私は。彼女はかけがえのない存在。だから、そんな目で見ないで。
 だけど、同僚たちがそんな私の気持ちを理解できるはずもなかった。ただ、ぽかんとして私を見て、そして次にいつものような表情になった。私に呆れ、いいかげんにしてくれという表情。
 わかってくれないのだ。わかってくれようとしない。私のことを。彼女のことを。結局、誰もわかってはくれないのだ。父のことも、夕焼けの赤のことも、私のことも、レーニエのことも。それに気付き、それを悟って、私の心の何かが砕けた。今までずっと、ひび割れ続けた何かが、乾いた音を立てて。
 私は駆け出した。レーニエの手を引いて。いきなりの行為に彼女は驚いて声をあげたが、私は構わず全速力でその場から走り去った。息が切れ、胸が焼けるように熱かった。だけど私は走った。ここにいたくなかった。この街にも、この国にも。いや、故郷でもそれは同じだった。私は拒絶されたのだ。もう、行く場所はどこにもない。私は走った。走り続けた。レーニエと二人で、どこか別の世界に行きたかった。
 夕方。気が付くと、私とレーニエはあの公園に向かって歩いていた。夕日の見える、私たちが出会ったあの公園に。ここしばらく、この場所には来ていなかったと思い、どうしてかなとぼんやり考えた。そうだ、私には必要がなかったのだ。夕日を見る必要が。でも、それはどうしてだろう。
 レーニエと手をつなぎ、長い階段をゆっくりと登りながら、私の心はなつかしい記憶をたどっていった。初めてこの坂を上がり、この公園を訪れた日。あれはいつのことだったろう。ずっと昔、忘れそうなほど遠い過去のような気がする。初めて見る新天地、故郷と違う社会、そこで生きる見知らぬ人々に驚き、畏怖した私が、この街に迷い、歩き疲れた果てにたどりついた場所。誰もいないこの丘で、静寂に包まれたこの公園で、私が見たもの。
 それが、この夕焼け。
 真紅の世界。登りつめた私は、その光の中を歩き……そして、遙かな街並みを見下ろしていた。
 そこに、すべてがあった。人の歴史。積み重ねて来たもの。作り続けて来たもの。目指して来たもの。それらの思いの軌跡が、人の心が作り出した光景が、この街だった。夕焼けの中の、人の営み。
 そして、それが父の色に染まっていた。その時、私は理解した。父は生きている。この夕焼けの中に、父は生きているのだ。父が願い、見つけ出した夕日の色が、ここにあった。人の世界を包み込んだ、暖かい光。それが私の父の光だった。こんなに近くに、父がいたのだ。ずっと一人だと思っていた、私のそばに。
 枯れてしまったと思っていた涙が、またあふれてきた。私の心は、感謝でいっぱいになった。私が生まれたこと。この街に来たこと。レーニエにめぐりあわせてくれたこと。すべてに私は感謝した。そして、この夕焼けを見ることができたことに。
 瞳をぬぐいもせずに傍らを見ると、レーニエもまた、夕日をいっぱいに浴びて笑っていた。そして、私と目を合わせて、はにかんだようにほほえむ。
 光の中の天使。私はそう思った。また新たな涙があふれて、それは決して止まらなかった。彼女に、父に、この街に生きているすべてに向けた想いが、私の心を満たした。
 そして、私の意識はふっと消えた。父の彩りに満ちた、光の中で。
 思い残すことはなかった。私は幸せだったのではない。私は、幸せなのだから。
 
 


[156]中編『其は翼、汝はその羽根(5)』≫北へ。&BSF: 武蔵小金井 2002年10月22日 (火) 23時29分 Mail

 
 
 この人は死ぬんだ。
 わたしはそう思った。どうしてか、それがわかる。なぜそう思うのかはわからなかった。でも、それは確信だった。
 ターニャさん。わたしを助けてくれた人。わたしを愛し、守ってくれた人。
 眠るようにその場に崩れ落ちた彼女を見つめて、わたしは立ち尽くしていた。
 彼女の命が残り少ないことは、うすうすわかっていた。どうしてか、わたしにはそれがわかるのだ。
 病魔に体を蝕まれ、心を傷つけられていたターニャさん。家族の記憶、辛い過去が彼女を苦しめていたのだ。ターニャさんはすべてをわたしに話してくれた。自分がどこで生まれて、どうしてここまで来たのか。そして、何がしたいのか。
 でも、わたしは何も話さなかった。話せるはずもなかった。こんなに優しいターニャさんでも、わたしの素性を聞いたら、きっと態度が変わってしまうだろう。わたしを、別の何かを見る目でみつめるに違いない。わたしはただ、それが恐かった。彼女と二人の、楽しい生活が壊れてしまうのが。だから、何も話さなかった。
 でも、もうそんな秘密にも意味がなくなる。だけど、それはどうしてだろう。
 わたしは少しだけ歩いて、彼女の隣に屈み込んだ。瞳を閉じたターニャさんは胸を押さえていて、その息は荒く、顔は真っ青だった。苦しそうだ、痛くないだろうか、そうわたしは思った。でも、彼女は笑っていた。わたしにいつも向けてくれた、あのほほえみのままに。
 どうしてこの人は死ぬのだろう。わたしはそう思った。
 人は死ぬ。それには理屈なんてない。人間というのは、そういうものよ。
 昔、友達にそう言われたことがある。その時、わたしはふぅんと納得したように答えたが、本当はまったくわかっていなかった。どうして人は死ぬのだろう。生きていたくないのかな。
「ターニャ、さん……?」
 それが聞きたくなって、わたしはターニャさんを呼んでみた。でも、返事はなかった。唇から、時折小さな小さな息が漏れるだけだった。わたしは何かへんな気分になって、もう一度聞いてみた。
「ターニャ、さん……?」
 返事はなかった。どうしてだろう。そう思って、それは彼女が死ぬからだと気が付いた。
 この人は死ぬんだ。もう、わたしに話しかけてくれない。わたしの言うことを、聞いてくれないんだ。一緒に歩いたり、御飯を食べたりできない。笑ったり、泣いたりできない。暖かいストーブを囲んで話したり、ぴかぴか光る硝子細工で遊んだりできない。もう、あんなことは二度とできないんだ。
 それが、死ぬということ。
 いやだ。それを理解して、反射的にわたしはそう思った。そんなのは、いやだ。絶対にいやだ。
 いやだ。わたしはまだ彼女と話がしたい。もっとずっと、一緒にいたい。わたしは彼女が大好きだった。どうしてそれが遮られねばならないのか。彼女が望んだとは思えなかった。もしそうだとしたら、どうしてなのか知りたかった。わたしが悪いのだろうか。何か、気に入らないことをしたのだろうか。他の人に見つかったことを言わずに、言葉がわからないと嘘をついたからだろうか。だとすれば、それを全部謝りたかった。
 ごめんなさい。わたしは謝った。許してください。わたしは叫んだ。ターニャさんの名前を呼んだ。答えはなかった。どうしたらいいのかわからなかった。どうしようもなかった。
 だからただ、泣き叫んだ。子供のように。赤ん坊のように。そうだ、わたしはやっぱり赤ん坊なんだ。彼女に笑われたように、忠告されたように。わたしは世間知らずで、何もできない愚か者。
 太陽が落ちていく。もうすぐ、恐くて暗い闇が降りてくる。
 だけどわたしは、まだ泣いていた。ずっと、ずっと泣いていた。
 それが、わたしが死というものを知った日だった。
 
 
 
 淡い月が照らす大地に、小さな影が伸びていた。
 どこからやってきたのか、孤独な影が一つ。それが、目の前の光景をじっと見つめていた。
 眠るように横たわった、一人の少女。月光の下のそれは、とても満足そうな笑顔だった。影はゆっくりと進むと、その横たわった少女の傍らに寄り添った。
 闇のような長い黒髪が滑り落ち、慈愛に満ちた瞳が、横たわった身体を見つめる。膝が折れ、白い手が静かに持ち上がり、横たわった少女の額に触れた。
 時が過ぎていった。長い、長い時が。その間、黒髪の人物は身動き一つしなかった。ただ、その瞳だけがかすかに揺れる。
 この場に残された、大いなる哀しみを見出すように。
 そして、吐息が漏れた。
「それでもまだ……あなたは諦めないというの、レーニエ。」
 影……黒髪の少女は、そう呟いて瞳を閉じた。憤りと、嘆きと、そして何か、深い哀しみを秘めた声だった。
 ゆっくりと、立ち上がる。
「いいわ、レーニエ。あなたがそうであるように……私もまた、決して諦めないから。」
 決意と、そしてさらなる悲壮感を秘めた声が、風に散っていった。
 黒髪の少女……フランチェスカは歩き出した。ゆっくりと、再び、闇の中に。
 そして、去りゆこうとしたその足がふと止まる。フランチェスカは振り向き……その瞳が、驚きに震えた。
 月明かりの下の、金色の髪の少女。
 その胸元が、かすかに動いている。
 それを驚きの目差しで見やり……次に、フランチェスカは自分の手を見つめた。白い手のひらと、細い指先。そして、微笑する。かすかに、首を振って。
 少女はきびすを返し、再び闇の中に消えて行った。

 彼方の水平線が、白みはじめた。また、夜明けが来るのだ。
 そして、一日が始まる。
 人の営み……当り前の、日常が。
 
 
 


[157]中編『其は翼、汝はその羽根(Epi.)』≫北へ。&BSF: 武蔵小金井 2002年10月22日 (火) 23時32分 Mail

 
 
 怒号と共に、瀬戸物の割れる音が響いた。
 蹴破るように扉を開けて、小さなラーメン屋から一人の少女が飛び出す。長い黒髪が流れるように散り、猛然と駆け出すその背になびいた。
 家出してやる。
 決意をみなぎらせて、黒髪の少女は駆けていった。その端正な顔は殺気に満ち、触れるものあれば問答無用で張り倒しそうだった。にぎやかなススキノを歩む人々が、その剣幕に思わずたじろぐ。
 しばらくして、少女は義理の姉である女性に遭遇した。そこで二言三言の言葉を交わし、結果、逃げるようにしてその前から走り出す。買い物袋を抱えた義姉がその後を追おうとするが、少女はすぐにひとごみに消えた。今日ばかりは、誰が止めても聞き入れなさそうだ。
 少女は肩を怒らせたまま、地元の街を歩いた。


 同じ頃、その街を訪れている少女がいた。
 金色の髪の少女。肌は雪のように白く、整った面立ちを含めて周囲の目を引くことこの上ない。だが少女自身はそれをいやがっているようで、その足取りはどこか落ちつきがなかった。
 都会は苦手だ。
 少女はそう考えていた。用事でこの街に来たのだが、早く終わらせてすぐに帰ろうと思っている。だがあいにく、用事は随分と時間がかかった。少女は少しだけ苛立ち、そして、胸元を押さえて苦笑した。気を取り直したように、首を振る。
 用件を終わらせた頃には、夜も遅くなっていた。軽く夕食を済ませると、少女は帰宅の為に駅へと急いだ。地下のアーケードを通るのが近道のはずだった。
 

 私は幸せだろうか。そもそも、幸せとはなんだろう。よくわからない。
 昔は幸せだったのかもしれない、と思う。なら今は、幸せじゃないとでも言うのだろうか。
 ばかばかしい。そんなことを誰が決めるんだ。私にはわからない。なら、人が決めるのか。自分の幸せを、他人が決める?
 笑った。そんなこと、偽善の極致だ。誰にも決めさせない。私が不幸だなんて。確かに幸福じゃないかもしれない。兄は最低の奴だし、店は繁盛せず、家は貧乏だ。私に対する周囲の蔑視も変わらないだろう。
 でも、それでも誰にも決めさせない。私が不幸だなんて。
 その時、ふっと思った。何物にも揺らぐことなく、ただ一つ、自分の目的のために歩んでいた誰かのこと。どんな奴だったろう。よく覚えているようで、どうにも思い出せなかった。沸き上がるイメージはどこか私にそっくりで、まるで自分を美化しているようだ。私は苦笑した。まったく、今日はどうかしている。
 私は私だ。不幸かどうかと同じく、私の道を決めるのも私自身。
 だから今、それを見つけたいと思う。それが私の小さな望みだった。


 私は孤独かもしれない。でも、不幸ではなかった。
 辛くても、厳しくても、私には目差すものがある。そのために、毎日をがんばっていくことができる。それは自分が望んだことで、私が選んだ道だった。だから今、私は不幸ではない。
 でも、やっぱり孤独は辛かった。家族と離れて異国にいることで、私は家族というものの暖かさをいやというほど痛感していた。今はまだ祖国に戻ろうとは思わないが、それでもさみしさがつのって、どうかしてしまいそうになることがある。
 その時、ふっと思った。優しく、無邪気な笑いで、孤独だった私の心を暖かくしてくれた誰かのこと。どんな人だったろうか。どうしてか、思い出せなかった。無理に想像したその姿はどこか私に似ていて、まるで自己愛のようだと私は苦笑した。今日は、少し変だ。
 胸を押さえて首を振る。私は私。そして今、ここに生きている。それは素晴らしいことで、だからこそこれからも生きていきたいと思う。私の選んだ道を、後悔のないように。
 でも、時折人恋しくなることはある。だからそれが、今の私の小さな望みだった。  


 遙かなる北。白い雪の舞い落ちる街、札幌。
 そこで、二人は出会った。
 
 
 


[158]パスタであとがき: 武蔵小金井 2002年10月22日 (火) 23時42分 Mail

 
 
 というわけで、KitterSweet Girlsよりの一遍を御送りしました。

 ……嘘です。

 えっと、先日PS2用のソフトであるBitterSweet Foolsを終わらせました。日々暇に合わせてまったり読み……いえ、プレイしていたのですが、どうもドツボというか、後半にさしかかる頃にはもうはまってしまって。先を読みたいというはやる気持ちと、もったいないというありがちな気持ちがせめぎあう気分を久しぶりに味わったりしました。ゲーム的に考えると、ICO以来かもしれません。小説的には……あ、ずいぶんとなかったような気が(汗)。
 で、いつもらしくといいますか、とりあえず終わった記念に思わず一筆。脳内妄然実施中の北へ。フェアがありましたので、そちらも絡めてみました。

 当初は短めの構想だったのですが、何というか、気が付くとこんなになってしまって。内容についても色々と恥ずかしいのですが、さりげなくBSFっぽさを狙ったり、失敗しているような気がしたり、まあいいかと思っていたり。
 まあ、いつものことといいますか……個人的には、これを書けたことに満足していたりします。
 転じて、BSFを知らない方(が読まれることはないような気が……したりしますが(笑))にとっては、何だか大ネタバレっぽくなってしまいました。そうでなくともあまり細かい部分は気にせずに、あくまでパロ的に読んで下さると、実はかなり嬉しいです。
 もっとも(重要かつとんでもないことなのですが)、私はファーストプレイを終えたばかりなので……その、特にBSFに関しての解釈や理解度その他がかなりいいかげんな気がします。まだすべての章を読んでおらず、初プレイのイメージ&インプレッションのみでこのような文を執筆することは汗顔の至りと承知しているのですが……まあ、鉄は熱いうちに打て、とも言いますし(笑)。ですがやはり、色々とドキドキものですね。
 あと、いつもの通りの好き勝手な解釈その他がそこかしこにぐるんぐるんとクダをまいていますが、お気になされた方につきましてはどうか、笑って御容赦を。

 とにかく今は、素敵なイタリアの物語と、素晴らしき彼&彼女たちに乾杯。

 それでは、失礼します。 
 
 


[161]しおり   (ぉぃ: こたろー 2002年10月23日 (水) 00時10分

今日はここ(第3パート)まで読んだ・・・と(´ー‘)
・・・リアルタイムで(笑

ぉっと、思わず"何か"書き込まざるをえない楽しさでしたので・・・しおりです(イヤ、ダカラ・・・

レス無用ですよ?(笑

全部拝読させていただいてから感想とか書かせていただきますね♪

ぁ、ひとつだけ・・・
第2パート目、一行目(正確には1行と2文字くらい)で「ターニャの声」で読めました。
なんというか、凄い文章力としか(汗



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