琴梨には、大好きなお兄ちゃんがいます。
大好きなお兄ちゃん。お兄ちゃんは東京のおうちに住んでいて、琴梨は小さい時からお母さんとお父さんに連れられて遊びに行っていました。その頃から、お兄ちゃんは琴梨に優しくて……怖いことや悲しいことがあって泣きそうになる琴梨を、守ってくれたの。琴梨はひとりっ子だし、泣き虫だったから、そんなお兄ちゃんが頼もしくて、嬉しくて……だから、お兄ちゃんのことがこんなに大好きになったのかな。
でも、琴梨のお父さんが事故で亡くなってから、お母さんも仕事が忙しくなって、お兄ちゃんの所に遊びに行くこともできなくなりました。だけど去年の夏、久しぶりにお兄ちゃんと再会して……昔のままの優しい目をしたあの人を見たら、思わず『お兄ちゃん!』って声をかけちゃったんだ。お兄ちゃん、最初はビックリしていたけど、でもすぐにニッコリ笑って、お兄ちゃんでいいよって……本当に久しぶりの再会なのに、とっても仲良くなったの。本当の兄妹みたいに。
あっ、お兄ちゃんお兄ちゃんって言ってるけど、実はね、琴梨とお兄ちゃんはちゃんとした兄妹じゃないんです。お兄ちゃんのお母さんが、琴梨のお父さんの妹なの。だから、えーっと……お兄ちゃんと琴梨は、従兄妹同士なんだ。小さい頃はそれが残念で、お兄ちゃんと琴梨が本当の兄妹だったらよかったのになって思っていたけど……今は、ちょっぴり違うんだ。だって、本当の兄妹だったら……キャッ。
えーっと、琴梨のお兄ちゃんは高校三年生で、今は大学受験に向けて勉強を頑張っています。私も来年は受験生なんだけど、なんだか実感がわかないの。就職を目指してるからかもしれないけど、お兄ちゃんの受験がうまくいきますようにって、それがずっと気になってるからかな。
琴梨は、お料理が大好きです。特に、作ったメニューをお兄ちゃんに食べてもらうのが一番好き!お母さんは私の出すお料理にケチをつけたりするけど、お兄ちゃんはいつもおいしいおいしいって言って、お父さんみたいに残さず食べてくれるから大好きなんだ。あんな風に食べてもらえると、また次のお料理もはりきって作るぞ、って気分になっちゃうの。
でも琴梨とお兄ちゃんは、そういう事情があるから……北海道と東京で、お互いに離れ離れで暮らしています。琴梨は、それが寂しくて……時々、お布団の中で泣いちゃったりするけど。でも、天国のお父さんと違って、お兄ちゃんとはずっと逢えないわけじゃないからって、自分をはげますの。だって、お母さんは大好きなお父さんに逢えなくて、それはもうかなわないんだけど……それでも、あんなに毎日頑張ってるんだもん。だから琴梨もお母さんに負けないように、お兄ちゃんがそばにいなくても我慢するって決めたの。
今日もまた、お兄ちゃんがいたら何を食べたいかなって思いながら買い物に行きました。お肉とお魚と、どっちにしようか考えて……うふふ、お兄ちゃんは男の子だから、やっぱりお肉が好きなのかな。ジンギスカンも、あんなに食べておかわりしてたもの。そうだ、決めた!今日はジンギスカンにしようっと。
ラムのお肉を買って、お野菜を買って……お母さんに電話もしておかなきゃ。お仕事忙しくても、今日は戻って来てねって。そうじゃないと、琴梨が一人で食べちゃうから。えへへ。
買い物袋を持って、家に戻って、それからエルちゃんとお話します。エルちゃんは琴梨ととっても仲良しのおしゃべりネコで、琴梨の言うことを何でも聞いてくれるの。無口だからお返事はなかなかしてくれないけど、でもちゃんと琴梨の気持ちをわかってくれてるんだ。
ね、エルちゃん。今頃お兄ちゃんは、何してるかな。学校から帰って……やっぱり受験勉強?三年生は大変だよね。琴梨も来年はそうなんだけど……
次はお母さんに電話して、お夕飯の下ごしらえを始めます。お野菜を切って、アクを抜いて……ジンギスカンだから、準備は簡単かな。御飯は時間通りにセットして……あ、思わずお父さんの分もお椀を置いちゃった。今日はあの日じゃないのに……あっ、でもこれはお兄ちゃんの分にしようかな。お母さんが来たら、そう言って……ふふ、どんな顔するかな、お母さん。あーあ、この子はって、また呆れ顔になるのかな?でも、いいんだもん。だって、もしもお兄ちゃんが来てくれたら、おかえりなさいって御挨拶して、御飯はジンギスカンだよ、それとも先にお風呂に入る?って聞いて。あ、でも、何だかそれって……
……や、やだな。何だか今日は暑いよね。窓でも開けようかな。でも、こんな風にお兄ちゃんの食器が並んでると、不思議な感じだね。お兄ちゃんは東京にいるのに……もうすぐ、ドアがガチャッて開いて、ただいまって、お兄ちゃんが入って来そうなんだもん。そんなこと、絶対ないのに……
あ、いけない。どうしたんだろう……な、なんだかヘンだよね。あーあ、お腹ペコペコ。早く、お母さん帰って来ないかな。
あれ、電話だ。もしもし、春野です……お母さん?うん……あ、そうなんだ。それじゃ、仕方ないよね。え、ううん、大丈夫だよ。お夕飯、しまっておくね。うん、戸締まりはしっかりするよ。お母さんこそ、夜遅くになるんだから、気を付けてね。はい……
あーあ、結局こんな風になっちゃった。せっかく準備したのにな……どうしよう。お腹……あれ、何だか食欲もなくなっちゃった。ラップにかけてしまっておこうっと。お肉と……お野菜とか、こんなにたくさん切って、もったいなかったな。お茶碗やお皿も……
……こら。ダメだぞ、琴梨。こんなことぐらいで……うん。そうだよね。いつものことじゃない。慣れてるし……今さら、子供みたいに……でも……
あ……あれ?
お兄ちゃん?お兄ちゃんだ……来てくれたんだ!
あれ、でも……あっ、そうか。琴梨は、ダイニングで泣き疲れて眠っちゃって……今は、夢の中なんだね。うふふ、ちょっぴり残念だけど……でも、夢だって、お兄ちゃんと逢えて嬉しいな!
えへへ。とっても大人っぽくなったお兄ちゃんが……琴梨に逢いに来てくれました。お兄ちゃんは、たくさんのプレゼントを持って来て、琴梨をビックリさせるの。山みたいなプレゼントに囲まれて、すごく嬉しいけど……本当は、お兄ちゃんが来てくれたこと自体が、琴梨にとって最高のプレゼントなんだけどな。
それから、お兄ちゃんと琴梨は……
…………あ。
目が覚めちゃった。
そうか、夢だもんね……目が覚めたら、おしまいだよね。
もう、こんな時間。お母さんは……まだみたい。よかった。余計な心配かけたくたいもの。
遅くなっちゃったから、もう寝ないと。お風呂に入って、戸締まりをして……ハーブの土は乾いてないし、大丈夫。それじゃ、おやすみエルちゃん。
ベッドに入って、琴梨は最後に置き時計さんにおやすみを言いました。東京のお兄ちゃん、ごめんね。泣いたって知ったら、きっと心配するよね。大丈夫、琴梨は元気だよ。お兄ちゃんとの約束、信じてるから。お兄ちゃんのこと、ずっと待ってるから。
だから……また、きっと、北海道に来てね。琴梨、たくさん話したいこともあるし、お兄ちゃんにおいしく食べてもらえるメニューを、たくさん考えてるから。だから、楽しみにしててね。それじゃ……
「おやすみなさい、お兄ちゃん……って、こ、これ……鮎ちゃん……」
「パチパチパチ!はーい、よく読めました!くーっ、泣かせるね琴梨。今のを聞いたら全国一千万のお兄ちゃんたちは、いてもたってもいられなくなって旅立つ準備を始めちゃうよ?」
「もぅ、私にはそんなにお兄ちゃんいないもん。それにさ、鮎ちゃん、これ……」
「はいはいはい、みなまで言うな。わかってますって。お礼は、そうだね……生トウキビ三本でどうかな。結構苦労したしさ、妥当な所だと思うけど。」
「もう、違うよ。あのね、確かに私、鮎ちゃんがお手紙の代筆をしてみたいって言うから、色々お話したけど……」
「あ、もしかして琴梨、今さらこの内容が恥ずかしいとか言うんじゃないでしょうね?」
「は、恥ずかしいよ。だって、こんな……夢の話とか、私、一言も喋ってないもん。もっと普通に、毎日の暮らしをお兄ちゃんに伝えるつもりだったのに。これじゃ何だか、お手紙って言うより、日記っていうか……そ、それに私、自分のこと『琴梨』なんて呼ばないもん。そんなの、子供っぽいし……」
「えーい、ごちゃごちゃ言うな琴梨!いいじゃない、ラブレターなんだからさ?これぐらい盛り上げた方がゼッタイいいって!あの人もさ、これ読んだらハートがキューってせつなくなって、すぐにこっち来るって言い出すよ?受験勉強なんて放り出して、明日にでもさ。そうしたら、まさに効果テキメンじゃない?よかったね、琴梨。」
「ラブレター……それに、よかったねって……鮎ちゃん、一人で決めつけないでよぉ……」
「はいはい、とにかくこれで丸くおさまりましたっと。いやー、私も作詞の勉強の一環と思って、少女マンガとか怪しい本とか読んだり聞いたりして勉強したけど、くーっ、これでなかなか恥ずかしかったよ。でも、おかげで次の新曲はラブソングで行けそうかな。とびきりあまーい歌詞つきでね。」
「甘い、お菓子……?」
「なはっ。この、相変わらずボケ所が絶妙ですな……このっ!」
「わ、わあっ!鮎ちゃん、ちょっと……きゃあっ!」
「このこのっ!だいたいね、人のノロケをさんざん聞かされるこっちの身にもなってみろぉ!この純情ラブラブお兄ちゃん娘が!」
「キャー!あ、鮎ちゃん、わ、やめ……わあぁっ!」
ドッタンバッタン。
少女たちのはしゃぎ声が響く、ここは札幌のローズヒル。
暖かい午後の日差し。まもなく訪れる、新たな夏。
どんな物語が、恋する少女たちを待っているのでしょうか。