ドッボーン!
飛び散るしぶき。谷に囲まれた渓流の、深くて濃い緑に包まれたみなもが光る。
白かった。まぶしいほどに。
「あははは!ねぇ、早く入ってきなよ!気持ちいいよ!」
彼女が……桜町由子さんが僕に手を振った。はしゃいでいる様子が妙にあどけなくって、やっぱりどこかまぶしかった。
「う、うん……」
「あれ、なに赤くなってんの?ひょっとして、私のダイタンな水着に惚れちゃった?」
水滴のこぼれる半身。それをキュッと反らせて、笑う由子さん。
僕は赤くなった、と思う。もしかすると、とっくに真っ赤になっていたのかもしれないけど。
「もう!そんなことないよ。ただ、準備体操ぐらいした方が……」
いいわけだった。やっぱり、白い水着は反則だと思う。
みんな、この前のデートが原因だった。白いビキニがいい?と聞かれたから、悪ノリでうなずいただけなのに。
「だいジョブジョブ!ほらっ、早く早く!」
「よ、よーし……それっ!」
なんだかせわしなくなって、僕も川に飛びこんだ。よく考えたら、この辺りには誰もいない。季節が外れている……というより、田舎の穴場だからだ。シーズンにはまだ早いし、今時、川で泳ごうとする人は少ない。
水は少しにごっていた。足元も変な感じだ。子供の頃、網とかバケツとかを持って走りまわっていた夏休みを思い出して、妙になつかしい気分になる。
「どう?きっもちいいよね?」
由子さんが嬉々として僕に聞いた。同意しなかったらどうなるだろう。この!とか言って水に引きずりこまれそうだ。
「う、うん。気持ちいいよ……水の感じ、やっぱり違うね。」
「だよね!プールとかと全然違うし……海ともまた違った感じだよね!ほら!」
「うわっ!」
思いっきり水をかけられた。やるだろうと思っていたけど、いきなりとは思わなかった。
「あはは!藻がついてる!それそれっ!」
目の前に何かがたれさがっていた。それを取ろうとする僕を見て笑い、また水をひっかけてくる由子さん。
ちきしょう。僕は反撃した。このままだと徹底的に遊ばれる。そんなのはゴメンだった。
「お、やる気ですな!って……わあっ!」
両腕の力をふりしぼって、水車のように水をかけ返した。由子さんの驚いたような声が……
悲鳴に近いそれに変わったのに、気付かないまま。
「わ、ちょっとタンマ……きゃんっ!」
変な音がして、腕を止めた。
ふと見ると、由子さんがいない……いや、いた。水中だ。倒れたのかな。
「ははっ、どうしたのさ……」
言いかけて、驚いた。由子さんは、あおむけに水没したまま動かない。しかも、顔のあたりに泡も出ていないように見えるし……え、ええっ?
「ゆ、由子さんっ!」
頭を打ったのかもしれない。僕はあわてて由子さんに走り寄って……水の中に手を突っ込むと、抱き起こそうとした。
「由子さん、大丈夫!?」
頭と、肩を……柔らかいそれを抱えて、腰に力を入れる。僕と同格の体躯を誇る由子さんだったけど、水の中ってこともあって何とか持ち上がった。
「ね、ねぇっ……」
ザパッ。由子さんの上体があがった。水滴が散って、短髪が揺れる。
だけど、目を閉じた由子さんはピクリともしない。
「由子さん!ね、大丈夫?」
冗談かと思った。でも、それならもう動き出してもいいはずだ。バアッ、とか何とか、笑って……
「由子さん!」
もしかすると倒れた拍子に、川底の石か何かで頭を強く打ったのかもしれない。僕は由子さんの後頭部に触れた。
濡れた頭髪をさぐって、傷とかこぶがないか確かめて……な、なさそうだけど。
でも、もしもってこともあるし……あ!
僕は息を呑んだ。大変な事実に気が付いてしまったのだ。
ここには由子さんのバイクで来た。いつものように、二人乗りで。
由子さんがダウンして運ばなきゃならないとしても、僕には輸送手段がない。
しかも、こんな山奥じゃ携帯も通じない。民家がある場所までは相当ある。
「ど、どうしよう……」
その時、僕の腕の中の由子さんが呻いた。
「ゆ、由子さん!?」
唇がかすかに震えている。僕は耳を近付けた。呼吸してるのかどうか……
「……い……き……」
いき……?
「くる……し……から……いき……」
くるし……息が苦しい!?
僕は目を丸くした。どうしよう。由子さんは息が苦しいんだ。
だ、だったら……
「うーん……」
由子さんが苦しそうにうなった。その上半身を抱きかかえたまま、僕は……赤くなっていた、と思う。
息が苦しいんだから、その、つまり、そういう時は……
「じ、人口呼吸しなきゃ……」
人口呼吸。その単語を心中で復唱した。意味するところはあきらかだった。
で、でも……
「ゆ、由子さん……?」
悩ましげに……ち、違う、苦しそうに呻く由子さん。僕はまた周囲を見て……だ、誰もいないけど、どうしよう。
だけど、そこでふっと思った。何を躊躇してるんだ。
そ、そりゃ、由子さんとキスするのは、はじめてじゃないけど……でも。
バカ!でも、も何もないだろ!冗談じゃないんだから、早くしないと!
「そ、そうだよね……」
ゴクッ、と喉が鳴った。なんだか、すごく身体が熱い。水の中にいるのに。
「じ、じゃあ……由子さん……」
えーっと、どうやるんだっけ。確か、喉に手をあてて、上を向かせて……
テレビとかの見よう見まねで、僕は由子さんの……その、顔に近付いた。どうしよう、やっぱりドキドキする。
でも、その時だった。
「ぷは……あっクション!」
「うわあっ!」
由子さんが、いきなりすごいくしゃみをして……僕は腰を抜かしていた。ちょうど、体勢を変えようとしていた時だったから……その、つまり、僕は……
由子さんから手をすべらせて、川の中に落としてしまったんだ。
「ど……わぷっ!きゃあっ!」
途端に、由子さんが動き出した。あわをくったように身を起こして、それで、目を開けて……
「ゆ、由子さん!大丈夫?目がさめたんだね?」
ショックで起きてくれたんだ。よかった。僕は心底ほっとした。よかった……
「ひ、ひどいよ……うぷっ、水飲んじゃった……」
「ご、ごめん!その、今、人口呼吸しようとしてて……ごめんね。大丈夫?」
僕はまた赤くなった。あぁ、また余計なこと言ったかもしれない。
「えっ?あ……う、うん……って、あれ?わざと落としたんじゃないの?」
「え?そ、そんなことしないよ!由子さんが、その……クシャミしたから、手がすべっちゃって……」
由子さんの目が丸くなった。
「うそ……!あーあ、なんだ!私、てっきり寝たふりがバレて、キミがわざと落としたんだと思った。」
え……?
「寝た……フリ?」
あ!というふうに口を押さえる由子さん。
僕は、ようやく理解した。
「じ、じゃあ今の、気を失ったふりしてたの?」
「あ……うん。あ、最初に倒れたのは本当だけどね。えへへ、ゴメンね。」
全身から力が抜けた。僕は、その場に……川の中に、今度こそしりもちをついていた。
夕方。どこかでヒグラシが鳴いている。
遊び疲れた僕たちは、帰り仕度をすませて……路肩のバイクのところに戻っていた。
「……バイクの免許、取るのは大賛成だよ!大学生になったら、二人でツーリングしたいね!」
うなずいた僕。さすがに半日遊んで、かなり疲れた。ホント、由子さんは元気だ。
「ねぇ……」
その由子さんが、ヘルメットを取り出しながら僕を見る。
「あのさ、さっき倒れてみせたの、ちょっとした悪ふざけのつもりだったけど……怒った?」
気にしてるのかな。めずらしい。そう思って、僕は返事を考えた。
なんであんなことするのさ。あの時、思わず本気で言おうかと思った台詞。それがまた、口まで出かかって、それで……僕は悪びれた顔の由子さんを見つめた。
ふう、と息を吐いてみせる。
「あーあ、残念だったな。」
「えっ?何が?」
由子さんに向けて、頬をふくらませる。
「あの時、無理にでも人口呼吸しとけばよかった。ぎゅーって。」
僕の身振りに、由子さんが赤くなった。予想通りの反応だった。
「な、なによ……」
「だってさ、すっごーく心配したんだよ?どうしようかって思って……心臓バクバクいってさ。由子さん、苦しいとか何とか、わざとらしく演技するし……」
「だ、だから、それはゴメンって……」
「うん。だからお詫びの代わりに、キスの一つもしとけばよかったって思って。人口呼吸できてれば、帳消しになったのに……」
由子さんのあわてぶりはめずらしいほどだった。
「だ、だから!それは、もともと私の計画で、くしゃみさえ出なきゃ……あ!」
「えっ?」
口を押さえる由子さん。
「ねぇ、計画って……由子さん?」
「な、なんでもない!そ、それに第一、キミ!さっきから思ってたけど、人口呼吸って、字が間違ってるよ!」
「え……字?」
僕はとまどった。ここぞとばかりに、由子さんが肘を曲げて肩をいからせる。
「人口じゃ、そのまんま……ううん、それじゃ人の数じゃない!人工呼吸!人がするから人工!」
「えっ、だって……そんな……」
僕は赤くなった。いろんな意味で。
で、でも、喋ってるんだから……う、ううん、それよりさっき、由子さん……
「由子さん、でもさ、計画って……」
「受験生が、そんなことじゃダメでしょ!ほら、帰ったらさっさと夏期講習再開!今夜もビシビシいくからね!」
「ち、ちょっと……!」
由子さんが教官モードに入ってしまった。もう、口ごたえもできそうにない。
「とりあえず、戻ったら書き取り千回かな。人工呼吸って……はい!」
ヘルメットを渡された。ふうっと息をついて、腕を組んだ由子さんを見る。もうダメそうだ。
「わかったよ……あーあ。こんなことなら……」
「こんなことなら、なに?」
えらぶった響き。こうなった由子さんにはかなわない。僕は目を閉じて、降参したように両の手のひらをさらした。
「何でもないよ。じゃあ……!」
最後に僕が感じたのは……
押しつけられる、柔らかい唇の感触だった。