冒険などどこにもない。
あるのは、ただ現実だけ。
海岸添いの村に立ち寄ったのは、ただ前の仕事の都合が理由だった。
わずかな金貨を払うのを拒み、近くの町の役人に連れていかれた依頼主。
男にとって、その男がどういう仕置きを受けるかになど興味はなかった。必要なのは約束したはずの金貨で、それはもう手に入りそうもなかった。口先だけで元からなかったのか、役人が横取りしたのかはわからない。
結局は、いつも通りの結末だった。また、むなしいだけ。
男は宿をとった。小さな村で唯一のその宿は、村の寄り合い場所でもある食堂を経営していた。夜になれば酒場になるのであろう一階のフロアには、まだほとんど客もいない。
値切ることもせずに一室を借りると、男は荷物をその場に放り出してテーブルについた。
酒を注文する。昼間から酒を頼む客に、宿の主人が迷惑そうな顔をしたが、文句はつけなかった。もっとも、転がされた荷物の中に使い込まれた剣を認めたからかもしれない。
運ばれて来たのはまずそうなエールだった。それを手にして喉に流し込む。
うまい、などと感じるはずもなかった。まずいとすら感じない。
そう、味などどうでもいいのだ。喉の渇きさえ止められれば。
男は疲れていた。今は口も聞きたくなかった。
だがそこに、横から声がかかった。陽気で耳ざわりな、男の声だった。
「おい、兄弟!やっと見つけたぜ!」
顔をあげると、古い馴染みである細身の小男がいた。いわゆる同業者だ。なめしの革鎧は磨かれたばかりで、巻きつけたベルトにぶらさがる道具や物入れの数々には一つの汚れもない。男とは対照的に、相当に羽振りがよさそうだった。
「女神にかけて、こいつは最高の巡りあわせだ!ちょうど、いい儲け仕事があるんだぜ。あと一人二人、腕を立つのを探してたんだが……お前なら間違いなく適任だぜ!」
甲高い声で笑いながら小男は言った。全てが自分の思い通りになる、そうに違いないと信じている様子だった。
そして、それが男の苛立ちをひときわ強めた。どこかで、乾いた怒りがわく。
「仕事なんてまっぴらだ。誰か、別の奴を探してくれ。」
疲れたように男は言った。せわしく動かされていた小男の指が、大きく開いたままで止まる。
「おいおい、冗談だろ?話ぐらい聞けよ。本物の儲け話なんだ。お宝が……」
「いらん。本物だろうが、偽者だろうが勝手にしろ。」
「お、おい?本気か?」
もう一度きっぱりと拒絶すると、小男は信じられないような目でこちらを見た。
だが、見返す凄みのある視線に、あきらめたように両手をあげる。
「わ、わかったよ。ちっ、こんなうまい話を蹴りやがって……お前もヤキがまわったな!」
呆れたように、愚痴をこぼしながら小男は去った。失意の怒りにまかせ、入り口の扉を蹴りつけて。
それを見送って、男は何やら言い表せぬ虚脱感に包まれた。
憔悴、そして疲労。全身を包む倦怠感。
そうだ、もういい。何もかも、もう。
あんな話にのこのこついていって、どれだけひどいめにあったか。何度裏切られ、何人の友人を失ったか。
欲の皮の張った商人。腹黒い役人。偶像をかかげる司祭。パンの木があると信じている王。あるいは神々自身かもしれない。結局、自分は大きな存在に操られているだけだ。自由などなく、栄光もない。あるのは、手にした剣でほふってきた敵と、その屍だけ。
そう、戦いだけだった。結局は、日々の糧を求めて刃を振り下ろすだけ。血と肉を引き裂き、持ち物をむしり取り、それを二束三文で叩き売って、酒と寝床と女を買う。進む先に何かがあるはずもなく、目の前に現れるのは自分と同じ目的の略奪者だけ。生き残るために剣を握って、どちらかの明日のためにどちらかが犠牲になる。
探索屋?盗掘師?傭兵?それとも、冒険者か?
馬鹿馬鹿しい。呼び名など何だと言うのだ。それで自分の中の何かが変わるというのか。
全ては同じ。ただ渇きを満たし、次の糧を探すだけの毎日が続くだけだ。
こんな人生に、何の価値があるのか。延々と続く同じ明日に、意味などあるのか。
男はエールをあおった。怒鳴るように追加を注文し、それをまたあおる。
次第に荒れ始めた様子の男に、数少ない客や店の主人が不安げな顔を向けていた。構わず男は酒をあおった。次々と。
そうだ。今の自分の人生など、こうして呑み続けているようなものだ。うまいともまずいとも感じない酒を、ただやけを起こしたように呑み続けているだけ。
いつか酔いつぶれる時がくるだろう。ハハハ、そうか。俺の人生も、気が付くと酔いつぶれているように、ある日突然に終わりが来るのか。俺が殺した相手の如く、何が起こったのかにも気付かないうちに。
だが、それはいつ来るんだ。明日か。来年か。
肩を震わせて男は笑った。フロアに乾いた笑い声が響いた。
そして、ふっとある思いがよぎる。
終わりはそれでいい。なら、はじまりはいつだったか。
思い出せない。酔いのせいだろうか。男はすぐにあきらめた。
気が付くと、手にした容器が空になっている。
「おい、酒だ!さっさと……!」
そこで、男の怒鳴り声が途切れた。
宿の入り口に姿を見せた、新たな客。それは、にぎやかな……奇妙な一団だった。
子供、だ。鼻をたらし、野の花や枝を持って振り回しているような、小僧と小娘たち。村人の子供たちだろう。
だが、男の勢いを止めたのはそれではなかった。十人近くはいるその子供たちを連れて……いや、囲まれて、一人の女性がいた。
白い衣。簡素ながら、どこか不可思議な衣服だった。さまざまな国を旅して、変わった装束も多く見てきた男だったが、それでもその女の服はめずらしいと思った。何のことはない、ただ一枚の布をわずかに仕立てているだけのようなのだが。
周囲の子供を御して……いや、どこか引っ張られるようにして、女は店内に入ってきた。夕暮れのフロアは少し暗かったが、不思議と、女の……その白い衣がほのかに光を発しているように見える。もちろん、そんなことがあるはずもないが。
女の薄い生地越しに、ほっそりとした身体の線が窺えた。短髪だが、顔は見えない。ケープのような白い衣が頭を覆い、ヴェールのように口元まで下りている。
男の喉がゴクリと鳴った。緊張感のようでどこか違う、奇妙な感覚だった。
そんな男を後目に、主人やわずかな客たちは、さほど驚いた様子もなかった。だが、子供を連れた女に声をかけて、何かしようとする様子もない。
その中で、女は勝手知ったように食堂を……宿のフロアの中を歩いた。そして、そこが決められた場所であるかのように、暖炉のそばにある椅子に腰掛ける。男のすぐ近くだった。
なんなんだ、この女は。こんな村に、商売女か?
そこで、男は女が小脇に抱えた道具に気が付いた。楽器のようだった。
なんだ、歌唄いか。
男は大きく息をついた。雰囲気に驚かされたが、ただの唄い手だ。どこの田舎にも、こういう手合いが一人はいるものだ。酒場の夜をにぎわせ、話題を提供し、あることないことを語って聞かせる……
男は酒を注文し、運ばれて来たそれをあおった。どうしてか、この女の雰囲気に驚き……興奮していた自分に気付き、それに腹が立っていた。
馬鹿馬鹿しい。洗練された宮廷の吟遊詩人ならいざしらず、こんな田舎の村の女が何を弾けるというのか。第一、あの楽器は何だ。子供が作ったような……
女の様子を横目で眺めながら、男は酒を傾けていた。
そうこうしている間に、唄の準備ができたようだった。子供たちが、腰掛けた女の周囲を囲んで膝を抱え、床に座っている。
それらの視線を浴びて、女が軽く自分の片肘を正した。何かの合図なのだろうか、子供たちが一斉に騒ぎ出す。
「今日は、新しいお歌がいい!」
「えーっ!もう一度、あのお話がいいよ!」
「あ、おいらもそれがいい!」
「あたしも!この前、途中までだったもん!」
「そうだよ!あのお話がいいよ!」
あのお話、と合唱されて、女は少し困ったような仕草を見せた。だが結局は、子供たちの勝ちだった。
女が、ゆっくりと楽器を手にした。男が見たことのない、何本かの弦を張っただけの素朴な楽器だった。
そこに、白い指が走る。田舎の酒場が、潮が引くような静けさに包まれた。
そして、流れ出すメロディ。
今はもう昔、あるお城に……
片言の、つぶやくような詞。男が初めて聞く、女の声だった。発音もどこかおかしかったが、かえってそれが、女の語る物語に不思議な音韻を与えていた。
霧に包まれた城。角の生えた少年。白い少女。
黒い影と、それを操る闇の女王。
手と手を携えた二人が、迷宮のような古城で遭遇する苦難。
何のことはない、子供騙しの童話だった。どこの町にでも、どこの村にでもあるものだ。こういった話を聞かされない子供など、一人もいないだろう。男でもそれは同じだった。
そして、忘れ去るのだ。
なぜなら、それは現実ではないのだから。
だが、頭の中でそう否定しても、男の耳に……美しいメロディは聞こえ続けた。
女は天性の声を有していた。大都の歌姫ですら持ち得ないであろう、流れ落ちる銀砂の滝のような透る声だった。そしてその声に、稚拙な弦の響きに、その場の全てが飲み込まれていく。
はらはらと手を握り、わあっと手を叩いて喜び、それに聞き入る子供たち。
それを見て、男は瞳を閉じた。
違う。現実は違うのだ。勝利などない。栄光もない。あるのは、敗北と挫折と裏切りだけ。
そう、失うものばかりだ。たった一人で荒野に乗り出しても、迷宮の罠に立ち向かっても、そこにはひとかけらのチャンスもない。真実の愛など存在しない。永遠の友情もない。求めても届かない。
そうだ。年端もいかない子供が、囚われた姫を救い出し、巨大な城から脱出することなどありえない。自分の小ささに気付いて、挫けるだけだ。亡骸となって、冷たい床に眠るだけだ。
声なき嘲笑と共に、男は酒をあおった。苦い味だった。
その心に、歌声が響いた。
女の声だった。異国の詞だろうか。不思議な響きの歌だった。
その歌は、子供たちの興奮に包まれたその場を変えた。動から静に、喧騒から静寂へと、女の美しい歌声は、意味など通じなくとも……いや、だからこそなのだろうか、その場にいる人々の心を奪い、動きを止めさせた。
そして、歌が終わる。それと共に、物語はクライマックスに向かっていった。
女王の笑い。追いつめられた二人。そして、別れ。
純粋なる、小さな心。立ち上がる少年。それは不屈。
石にされた少女。襲いかかる影。積み重ねられた過去の贖罪。
子供たちは、息を呑んでそれに聞き入っていた。いや、その場の誰もが。
開かれる最後の扉。女王との対決。全てを包む闇と、絶望の深遠。折れた角。輝く剣。
そして……奇跡。
静かな宿の一角に、ただ美しい調べと詞だけが流れていた。
やがて、それがゆっくりと消えていく。
子供たちが、歓声をあげた。嬉しそうに、楽しそうに。立ち上がり、互いに手を取り合って、喜びにはしゃぐ。
それをきっかけにして、その場の全てが普段通りの喧騒を取り戻していった。客たちが雑談を始め、給仕女たちが動き始める。宿の主人がカウンターから身を起こし、手振りと共に子供たちを店から追い出す。
笑いながら家路に走る子供たち。
残された……男だけが、女の前にいた。
楽器を下ろすと、女は少し疲れたように小さな吐息を漏らした。男はそこで我にかえった。
楽器を片付けて、席から立ち上がる女。もう帰るのだろうか。
男は、思わず立ち上がっていた。
「ま、待ってくれ……」
去ろうとした女が、立ち止まる。白く、茶色の土を覗かせる素足に男は気付いた。
つっと、少しだけ振り返ったその顔。ヴェールのような衣に隠れながら、どこまでも白くきめこまやかな肌だった。そして、その口元が、男を認めて細まっていく。都の貴人……いや、それとはまた別の、何か高貴な仕草が宿っていた。
男は焦った。自分が、何かしてはいけないことをしたかのように。酒のまわりとは別に、その頬が色を変えた。
「い、いや。たいしたことじゃない。その、教えてほしいんだ。つまり、今の話で、その二人は……」
……そのあと、どうなったんだ?
そう言おうとした。尋ねようとした。
だがそこで、男は言葉を失った。それを口にしようとしていた、自分に気付いて。
そのあと、どうなったんだ。その先は、どうしたのだ。
少年と少女は、王子と姫は、勇敢な戦士は、高潔な騎士は……
『ねぇ、それからどうなったの?』
遠い記憶。遥かな昔、無垢な、純朴なただの子供だった頃。
男は立ち尽くしていた。声を、動きを、何もかもを失って。
気が付くと、女がヴェールの下の表情を変えていた。困惑したように、肩肘を曲げてその場にたたずむ。
「い、いや……なんでもない。なんでもないんだ。悪かったな、あんた……」
ほっそりとした肢体を少し傾かせると、女は向きを変えて、宿を出ていった。
走り去るように女が見えなくなると、男は深々と息を吐いた。周囲の視線が険しかったが、気にする心境ではなかった。再び椅子に腰掛けて、自分の体の重さを感じる。
そう、今語られた物語を……それを聴いた自分を、男は考えていた。
物語は終わった。あれで終わりだ。今は、そうわかっている。
城を脱出した少年と少女。それで、物語は終わり。
あの続きは、本当にないのだと。
だが、それを信じられなかった自分がいた。
あの頃の自分。世界を知らず、現実を知らず……
物語に終わりはなく、ずっと続きがあるのだと思っていた時代。
そう、その続きを求めて、先が知りたくて……
俺は、旅に出たのではないのか。
長い時間が過ぎて、男は笑った。どこか皮肉めいた、自嘲するような笑いだった。
窓の外を見る。陽は落ちていたが、まだ黄昏の余韻があった。
間に合うかもしれない。
男は荷物をまとめると、立ち上がった。
「ありがとよ。いい酒だったぜ。」
掴み取った貨幣をテーブルに散らして、男は店を出た。
その顔には、これからの旅を……まだ知り得ない明日に、胸を躍らせる表情が浮かんでいた。
そう、まるで少年のような。
星のちりばめられた空。
長く続く砂浜を見下ろす崖の上に、小さな家があった。
細木の柵で囲われた中に、つぼみの花が並んでいた。鶏が丸くなる小屋の横、鎧戸の降りた家の窓の隙間から、光が漏れている。屋根の煙突から出る煙と共に、暖かい暖炉の存在を示すように。
そして、そこへと続く一本の道を、白い女性が歩いていく。
手には、小さな楽器があった。
家の前に立つと、待っていたように扉が開いた。
飛び出してくる、小さな男の子と女の子。
よく似た二人が、はしゃぎながら女性に駆け寄り、飛びつく。
その二人を慈愛に満ちた微笑と共に撫でながら、女性は家の中に入った。
そこにいた、一人の青年が振り向く。
おかえり。
女性はほほえんだ。うなずくかわりに、壁の一点を見つめる。
そこには、色褪せた少年の衣服がかけられていた。