黒髪が揺れて、振り向く少女。
その顔に、少しだけ不安そうな色が宿っています。
「なぁ……本当によかったのか?」
左京葉野香、十八歳。
その視線を受けて、もう一人の少女が微笑しました。
どこまでも白い肌。星の光のように淡い金髪。
「ハイ。それとも……ハヤカ、サッカーはキライでしたか?」
ターニャ・リピンスキー、十七歳。
涼しげな夕暮れに、白い洋服が似合っています。
「いや、嫌いとかそういうつもりじゃないけどさ……ほら、チケットってすごく貴重なんだろ。それを、あたしなんかが貰っちまって……ターニャ、本当によかったのか?」
思わず繰り返してしまう、問いかけでした。
ターニャさん、微笑がハッキリとしたそれに変わります。
「ハイ。エンゼルのマスターが、商店会のフクビキで手にいれたのを、いただいてしまって……マスター、どうしても今日はヒマがないから、わたしに……」
ターニャが一番、いっしょに行きたい人と行くといいよ。
その言葉を思い出して、ほんのりと頬を染めるターニャさんです。
「そ、そりゃあたしだって……嬉しいけどさ。」
葉野香さんは、妙にうわついたトーンの声。もしかして、照れているのでしょうか。
ターニャさん、ニッコリと笑います。
「ハヤカ、ありがとう。ひさしぶりのサッポロで……いいキュウジツになりそうです。」
「そうか……そうだよな。じゃあ、行こうか。」
楽しそうなターニャさん。まんざらでもないという顔をしながら、どこか嬉しそうな葉野香さん。
大通り公園を、歩き出す二人でした。
「すごい人だな……やっぱり。」
「そ、そうですね……」
雑踏を抜けた先にある、人の海。まもなく試合が始まるからでしょうか。スタジアムの周囲は、黒雲たちこめ嵐が巻き起こる荒海のような様相を帯びていました。
「ここを抜けるのか……気が滅入るな。」
こめかみの辺りを押さえる葉野香さん。その隣で、ターニャさんが少し不安そうに周囲を見回します。
「ハヤカ。チケットは、もう売りきれなのですか?」
「えっ?」
ターニャさんが指し示した方向に、即席のプラカードや何やらを手にした人たちが。
口々に、入場券を求める叫びを放っています。
「当日は売ってないんじゃないか?というかさ、確かこういうのは全部前売りじゃないのか?」
「でも、むこうで買っているヒトがいるみたいです。」
別の方向を示すターニャさん。そちらには、怪しげな中年のおじさんと取り引きを交わしているアベックが。
「あ、あれはダフ屋だよ。」
「ダフヤ……?」
「あぁ。ほら、持ってないけど、チケット欲しがってる人がいるだろ?そういう人に、自分が持ってるチケットを、何倍も高く売りつけるんだ。」
「そうなんですか……ヤッパリ、高価なものなんですね。」
手にした小さなハンドバック。その中に入っているチケットのことを考えたのでしょうか、わずかに意気消沈したようなターニャさんです。
と、それを見て葉野香さんは笑います。
「ターニャ、気にするなよ。マスターがターニャに、ってくれたんだろ?ターニャが楽しんで観戦すれば、マスターも喜ぶって。ほら、行こう。」
「あ……ハ、ハイ。」
思わず、でしょうか。ほっそりとしたターニャさんの手を取り、混雑の中に踏み込む葉野香さん。
ターニャさん、驚きつつもそれに続きます。
二人に襲いかかるは、すさまじい人の波。
「誰か、チケット売って下さい!」
「ちょっと、携帯ゼンゼンつながらないよ!」
「彼女、可愛いね……ぶぎゃっ!」
「チケットあるよ?いくら持ってる?」
「ほら、飲み物買って来て!」
長身に漆黒の髪の葉野香さんと、金髪でほっそりとしたターニャさん。
普段の街中では目立ってしかたのない美少女二人ですが、今日ばかりはそれほど注視を浴びることもありませんでした。
とにかく、無事にゲートを抜けた二人です。
歓声が包み込んだスタジアム。
その熱気は、尋常なものではありませんでした。
それもそのはず……
「がんばれ日本!」
「勝ってくれーっ!」
「勝ち点3ゲットだー!」
何しろ開催国にして母国、我らが日本の試合なのです。
ゲートの一つから観客席に出た二人は、その気迫に圧倒されていました。
「す、すごいな……でも、ちょっとうるさすぎないか?」
大音響に顔をしかめる葉野香さん。かたわらのターニャさんの顔も少し赤い。
「ハイ。ホントウに、ニギヤカですね……おどろきました。」
「あぁ。でもまあ、無事に入れてよかったよ。さてと、席は……どこだっけな。」
「えっと……あ、すこし上みたいです。」
とりあえず座席番号を確認。しばらくして、それを見定める二人です。
座席について、とりあえず安堵の息を。
「何だか、ここに来るまでで疲れちまったな。ターニャ、身体は平気?顔、赤いよ?」
うなずくターニャさんですが、やはり少しだけ疲れているみたいです。
「ヘイキです。座っていれば、オチツクと思いますから……」
「そうか。無理するなよ。まだ時間あるみたいだから、よかったら寝てれば……って、ハハ、これじゃ無理か。」
葉野香さん、苦笑。ターニャさんも笑顔。
とりあえず、試合開始を待つ二人です。
観客席もブルーのユニフォーム一色に染まり、いよいよ期待がたかまっていきます。
雰囲気というものでしょうか。葉野香さんも、楽しみになってきたようにフィールドを見守ります。
その横顔を嬉しそうに見るターニャさんですが……
「イズヴィニーチェ……」(すみません)
背後からの声に、振り返る二人。
「えっ?」
「アッ……?」
そこに、二十歳中ほどの年頃でしょうか、男女二人が。染めているのではない、自然な金と茶の髪に、澄んだ濃緑の瞳。外国人のようです。
何かとても心配そうな顔の二人は、ターニャさんに何事か。
どこか神秘的な、速い調子の発音。ロシア語です。
葉野香さんは驚きつつ、当り前かと納得しました。そう、日本対ロシアの一戦なのですから。
その前で、流暢に……聞き慣れない言葉を返すターニャさん。
身振りを入れながら会話する三人に、葉野香さんは黙して待ちます。
そして、ターニャさんが。
「その、ハヤカ……」
「どうした?何かあったの?困ってるみたいだけど。」
「ハイ。このヒトたちのコドモが、マイゴになってしまって。ワタシに、見なかったかと……葉野香、ちいさな……四歳ぐらいの金髪の男の子なんですが、見かけませんでしたか?」
「えっ……あ、ううん。見てないな。」
「そうですか……」
二人に言葉を返すターニャさん。二人、残念そうにうなずくと、頭を下げて周囲をキョロキョロ、歩き出します。
再び席につきながら、それを心配そうに見送るターニャさんに、葉野香さんも。
「警備員とかにしらせたのか?迷子の放送とか……」
「ハイ、それはもうシラセテあるそうです。でもやはり心配なので、ロシアの人を探して、見なかったか尋ねているみたいです。」
心配そうなターニャさんに、葉野香さんは何事か思案。
と、響き渡る大歓声。
いよいよです。双方の選手が、フィールドにあらわれました。
それを横目に、葉野香さんが口元を緩ませます。そして、ガタン。
「ターニャ、行こう。」
「えっ?」
立ち上がり、手をさしのべる葉野香さん。
ターニャさん、何のことかわからない様子で、とまどいを隠せません。
「迷子のこと、心配だろ?あたしたちも係員のところに行ってみてさ、何か力になれないか聞いてみよう。指定席だから、外してても大丈夫そうだしな。」
「えっ……あ……ハイ!」
花が咲いたような笑みをこぼれさせて、うなずくターニャさん。
二人、席を立って歩き出します。
キックオフ。
ボールが、大きく蹴り出されました。
歓声と、歌声と、罵声と……悲鳴。
情熱が見えない生きものになったような、スタジアムの興奮です。
熱闘、一進一退。
双方無得点のまま、ハーフタイムに。
「ふう、ようやく戻ってこれたな。」
「ハイ……スミマセンでした、ハヤカ。」
「何言ってるんだよ。そんなことより、よかったよな、あの子。」
「ハイ。ホントウによかった……」
「ロシアの子供同士で、集まって遊んでたなんてな。ハハ、みんな可愛かったけどさ。」
「エエ。ゴリョウシンも、あんなによろこんで……」
「だよな。何だかあそこまで感激されると、こっちが照れちまうけどさ。」
幸せな笑顔。それを思い出して、うなずきあう二人です。
手にした飲み物のカップを軽く触れ合わせ、そして一息。
「さてと。試合は同点みたいだな。」
「ハイ。これから後半ですね。」
「ああ……なぁ、ターニャ。ロシア語でさ、がんばれって……どう言うんだ?」
「えっ?ガンバレは……えっと、『ダヴァーイ』で、いいと思います。」
「そうか。よーし……」
葉野香さん、腰を持ち上げて大きく息を。目を瞬かせるターニャさんの前で、
「ダヴァーイ、ロシア!ダヴァーイ!」
よく透る、芯の強い叫び。
周囲の人々……ブルーの服の日本人サポーターたちが、驚いたようにこちらを見ました。
もっとも、一番驚いているのは隣のターニャさんです。
「ハ、ハヤカ……」
その前で、もう一度叫び。
どこか敵意が含まれたような辺りの視線にも、屈しません。
黒髪を散らして、毅然と肘を曲げる葉野香さんです。
「ハヤカ……?」
「あ、いや、さ。日本の応援はこんなにいるのに、ロシアは少ないだろ。さっきの子のこともあるしさ。今日はあたし、ターニャと一緒にロシアチームを応援するよ。」
「えっ……」
「いいだろ?何だかさ、そうしたくなっちまった。さっき、ロシアの人にたくさん会っただろ。みんな、この日本で、ターニャみたいにがんばってるんだなって思ってさ……応援したいじゃないか。」
驚いた顔のターニャさん。
やがて……嬉しそうに、瞳を潤ませてうなずきました。
ホイッスルが響き、後半が始まります。
そして……大歓声が、響き渡りました。
「残念だったな……」
「いいえ、そんなことありません。応援してくれて、アリガトウ……」
興奮さめやらぬスタジアム。
そこを離れ、寄り添うようにして歩く二人です。
「ちっ、いいシュートだったのにな。惜しかったよ。もう少しで、同点になったのに。」
「いえ、ホントにいいシアイでした。ロシアのヒトたちもがんばりましたけど、ニホンの選手、とても動きがよかった。ジツリョク、だと思います。」
「そうかな……」
「ハイ。とても楽しかった。おめでとう、ハヤカ。」
「えっ……」
葉野香さん、思わずターニャさんを。
「ロシアは今まで、タクサン勝ってます……ニホンはまだ、勝ったことがないって聞きました。だから、初めてのショウリ、おめでとう……」
「そうだな……ん、ありがと。ハハ、何だかミーハーなまわりの連中に張り合っちまったからな。すっかりロシアのサポーター気分だったよ。」
「フフ、もういいですよ。でも、お互いこれからは、タイトウです。」
「そうだね。でも、ターニャも一生懸命応援してたよな。体、大丈夫か?疲れてない?」
「えぇ、スコシだけ疲れましたけど……でも、とても楽しかった。ナンドモ行けないでしょうけど、また、ハヤカと見に行きたいです。」
コクリとうなずく緑の瞳。葉野香さん、照れたように頭をかきます。
「さて、と。とりあえずロシアは負けちまったけど、日本は勝ったわけだし……」
「ハイ。約束通り、サンネン会で、ゴチソウしてもらえますね……ハヤカに。」
クスッと、悪戯っぽい笑みを覗かせるターニャさん。
「ちぇっ。日本が負けたら、ターニャがおごってくれるはずだったのにな。あたしなんて、店でラーメン出せるぐらいだぜ。それでいい、ターニャ?」
うなずくターニャさん。そこで、ふと思い出したような顔になり……立ち止まって、ハンドバッグを開けました。
出てくるのは、小さな紙の袋。
「ん?どうした?」
「ハヤカ、これ……忘れるといけないから。ニホンのみなさんが勝ったから、キネンに……」
手のひらに乗る、小さな模様入りの紙袋。葉野香さん、それを受け取ります。
「あ、ありがと……何だろ。開けてもいい?」
了承するターニャさんに、ガサガサと開ける葉野香さんです。
中から出て来たのは……
「あっ……これ……」
細い銀色のチェーン。それに引き出されて、あらわになったもの。
夜の札幌。ビル街のイルミネーションを受けて、ブルーにきらめきます。
「ガラスの……サッカーボール?」
「はい。工藝館で、あたらしくうりにだされたものです。ちょっぴりだけ、ニンキがあるんですよ……」
透き通った多面体の青い硝子が、光を受けてプリズムのように輝きます。
葉野香さん、じっとそれを見つめた後、気付いたように視線をあげます。
「もしかして、これ……ターニャが作ったのか?」
コクリ、うなずくターニャさん。
「ホントは、逢ったときにわたそうとおもっていたんです。でも、その細工は……夜のジカンのほうが、キレイに見えるから……」
「そうか……そうだね。キラキラしててさ、とっても奇麗だよ……でもさ、いいの?本当に貰っても。高そうだしさ、ほら、あたし、チケットだって貰っちまったし……」
ゆっくりと首を振るターニャさん。頬は、やっぱりほんのりと。
「ハヤカは、あんなにニホンのヒトがタクサンの場所で、祖国の……ロシアの応援をしてくれました。ワタシ、とてもうれしかった。マイゴのコドモのこともそうです。それにくらべたら、ワタシは、カタチのあるモノしか、いつもハヤカに渡せなくて……」
「バ、バカだな。あんなこと何でもないよ。それより、サンキュ。すごく気に入ったよ、これ。いいな、絶対売れるだろうな。」
「アリガトウ……うれしいです。」
恥ずかしそうな、それでもやはり嬉しそうな、ターニャさん。
銀のチェーンをクルクルと指に巻きつけて、葉野香さん、夜空を見上げて大きく伸びをしました。
「よーし!ターニャ、それじゃ、店でお祝いだな。」
「えっ……あっ、ニホンのチームが勝ったから、ですね。」
「いや、違うよ。ターニャの新作の記念と、大ヒットを祝ってさ。パーッと騒ごうぜ。」
「エッ……ハヤカ、もう……」
悪戯っ子のような表情の葉野香さんに、ターニャさんは真っ赤。
笑顔に戻った葉野香さん、艶やかな髪をひるがえして歩き出します。
札幌ススキノの夜。
きらめく硝子の輝きが、青い軌跡となって消えて行きました。