ドアの開く音が、静かな室内に響いた。
マンションの一室。少しばかり狭い廊下を通って、応接間に入ってくる女性。
「ただいま。」
春野陽子、四十……失礼。
小脇にした書類入れをソファの上に放り投げると、少し意外そうな顔で辺りを見回す。
整理整頓が行き届いた、リビング・キッチン。
そこを含め、誰の気配もない。
無理もないか、というような笑みが、陽子の口元に浮かんだ。
まだ外は明るい。いつも仕事の忙しい陽子が、こんな時間に戻ってくることは滅多になかった。
あるとしても、すれ違いになることは多い。
「やっぱり、連絡しておけばよかったかねぇ……」
つぶやくと、陽子はあらためてそれを確認するために廊下へと戻った。
角を曲がって、娘の部屋のドアをノックする。
「琴梨……いないんだろ?」
答えはなかった。陽子はノブをひねって、室内を覗き込み……
ベッドの上に横たわる、少女の姿に目をとめた。
春野琴梨、17歳。
「なんだ、いたのかい……」
そこで、陽子は声をひそめた。
琴梨は眠っていた。台所仕事の後なのだろう、愛用の白いエプロンを椅子の背にかけて、シーツの上にあどけなく身を晒している。その腕の中に、気に入りの猫の人形があった。
「……よく眠ってるみたいだね。フフ、ただいま。」
陽子は微笑んで、小声で囁いた。
と……ニャーオ。
琴梨の抱いていた猫のぬいぐるみが、場違いなほど大きい鳴き声をあげる。
驚く陽子……それと共に、琴梨のまぶたがピクリと動いた。
「……んっ?あ、あれ……」
驚いたように身を起こす琴梨。寝ぼけているような顔のまま、両目をまたたかせる。
「わっ、寝ちゃったんだ……大変!何か火にかけてなかったかな……あ!」
琴梨の視線が、開いたドアから覗いている陽子と合う。
見つかった陽子は、悪戯っぽい顔になって片目を閉じた。
「眠り姫さま、御機嫌はいかがでしょうか?」
「お、お母さん……どうして?まだ早いのに……」
冗談めかした陽子の台詞に、当惑したように聞き返す琴梨。
「あぁ、ちょいと予定がずれちまってね。母さん、せっかくだから今日は戻ってくることにしたのさ。連絡しときゃよかったね。」
「あ……そうなんだ。あっと……そうすると、うーんと……」
何か、口ごもるように言葉を濁す琴梨。怪訝に思いつつ、陽子は肩をすくめて笑った。
「テニス部の練習かい?疲れてるなら、まだ寝ておいで。今夜は、母さんにアイディアがあるからさ。」
「ううん。練習は今日は休みだから……でも、今夜ってなぁに?」
どこか、ほんの少しだけ心配そうな表情の琴梨。
「あぁ、今夜は久しぶりに、外で食事でもどうかって思ってね。」
「えっ……!」
「ほら、駅前に新しくできたイタリアンレストラン。琴梨、行きたがってたろ?母さん、帰るついでに予約してきたからさ。六時からだけど……あら、何かまずかったかい?」
驚きを隠せないような琴梨。聞き返す陽子に……あわてて首を振った。
「う、ううん。ふぅん、そうなんだ……いいな。あそこでしょ?ビルの最上階にできたお店……」
「そうさね。でも……何かあるのかい?」
「ううん。そんなことないよ。うわぁ、お母さんと二人で外食なんて……久しぶりだね!」
「それじゃ、五時半くらいに出ることにしようかね。母さん、それまでに仕度しておくよ。」
「うん。私も、なに着て行こうかなぁ……」
「ふふ、めかし込むこともないと思うけどね。」
笑って、パタンとドアを閉める。
自分の部屋に入ろうとして、陽子はふっと表情を変えた。
琴梨の部屋のドア、そして。
陽子は、リビングに戻った。どこか、考えぶかげに片眉を上げる。
「どうも、何かあるみたいだね……」
それが何かは、うすうす想像がついた。
キッチンに入り、そこに置いてある一つ二つの鍋のふたを開け、さらに冷蔵庫を覗いてみて……
陽子は、その予想が正しかったことを知った。
「なるほど、ね……」
苦笑。少しだけ、自嘲めいた……彼女としてはめずらしい、表情だった。
と、そんなキッチンの陽子に、背後から琴梨の声。
「あっ、お母さん……どうしたの?」
背を向けたまま、陽子は視線をあげて……そして、ふっと笑った。
「あーあ、少し残念だけど、イタリアンレストランは今度にしようかね。」
「えっ……?」
「琴梨、ありがと。母さんに、これ準備してくれてたんだろ?」
ビーフストロガノフの入った鍋と、シャンパンゼリーが冷やされている冷蔵庫。
振り向いて、それらを指差した陽子に……琴梨が目を丸くする。
そして、笑った。どこか恥ずかしそうに。
「うん……だって、今日は……母の日、だから……」
陽子はほほえんだ。キャリアウーマンとしての現場ではほとんど見せることのない、一人の母親としての優しい笑みだった。
「ありがとさん。じゃあ、今夜は家で派手にお祝いだね。」
「あ……でも、もったいなくないかな。イタリアンのお店、せっかく予約したのに……」
「キャンセルの電話、かけときゃ大丈夫だろ?それよりも、この料理の方がもったいないさね。」
「でも、私の料理なんて、いつでも食べられるから。だから、別にそんなの……」
「なにバカ言ってるんだい。それこそ、お店の料理なんていつだって食べに行けるじゃないか。そんなことより、我が家の娘は一人だけ。だから母さん、どんな御馳走よりも……琴梨の料理が、一番大好きなんだよ。」
「お母さん……もう……」
高校生活も三年目を迎えているにも関わらず、琴梨は年端もいかない娘のような顔に戻って……目頭を押さえた。
「あらあら、ガラにもないこと言っちゃったかね?ほら琴梨、仕上げはこれからだろ?母さん、手伝おうか?」
「あ……う、ううん。大丈夫、今からすぐに始めるから。それよりお母さん、今日は母の日なんだから……ほら、そっちで休んでて。」
潤んだ瞳、染まった鼻の頭を見られたくないかのように、キッチンから陽子を押し出す琴梨。
照れたような笑顔の娘に、陽子は両手をあげて降参のポーズを見せた。
ソファに腰掛けて、ほほえむ。
キッチンに立つ娘。聞こえてくるのは、包丁と、炎の音と、軽やかなハミング。
テーブルの上には、一輪の赤いカーネーションが飾られていた。
二人の食卓。
材料を吟味し、味を批評し、作り方からバリエーションまでを論議する。
楽しげに、笑いあって。
実践派である琴梨と、食通として知識にまさる陽子。
いつも通りの、それでいて少しだけテンションの高い、春野家の夕食だった。
「……そりゃ、チーズは国産の方が新鮮だろ。ほら、美瑛から送ってもらったやつ、お餅みたいに柔らかかったじゃないか。」
「あ、そうだったね。めぐみちゃんの牧場かぁ……ねぇ、お母さん。めぐみちゃんの家でも、今日は母の日のお祝いしてるかな?」
「どうだろうね。してるんじゃないかい?」
「めぐみちゃん、もう立派なお姉さんだから……里沙ちゃんも一緒になって、御馳走とか用意してるよ、きっと。この前遊びに行った時、お料理とっても上手になってたし。あーあ、私も里子おばさんみたいに、もっと色々作れるようになりたいなぁ……」
「こら、この子は。母の日だってのに、実の母親をないがしろにしてるんじゃないよ。」
快活な、陽子らしい笑い。
そして……ふっと、琴梨の表情が陰った。
「ねぇ……お母さん。お兄ちゃんたち……元気にしてるかな。」
陽子の眉が、ほんの少しだけひそめられた。
視線を向けずに、残った料理をフォークで弄る、娘の横顔。
「さぁ。便りがないのはいい報せ、ってね……東京で、楽しくやってるんじゃないかい?」
東京。
あの夏の再会から、今年で丸二年が経とうとしている。
その間にあった、様々なこと……そして去年の冬から、さらに変わった事情。
何年も、母娘の二人きりだったこのマンションが、彩られた時間。
「あの頃は、色々とにぎやかだったからね。でもまぁ、またそのうちにやって来るだろうさ。東京からじゃ、さすがに頻繁には無理だからねぇ。」
うん、とうなずく琴梨。陽子は立ち上がって……ポン、と娘の背中を叩いた。
「わっ……お母さん?」
「ほらほら、なにしめっぽくなってるんだい。今夜はお母さんが主賓だろ。デザートのシャンパンゼリー、そろそろ食べごろなんじゃないかい?」
抱き締めるように腕を肩から回して……陽子は、娘のうなじに額をあてた。
「大丈夫、母さんがいるさね。琴梨だって、これから色々と……新しい何かが、待ってるからさ。」
驚いた顔で、頬を染めて……琴梨が、またうなずいた。
「じゃ、デザートのゼリー、よろしく。」
「あーっ、もう……おだててたくさんおかわりしようって思ってる。ずるいなぁ。」
「あら、母の特権だろ?それこそ、今日はいいじゃないかね。」
二人の、楽しそうな笑い声。
そして。
ローズヒルを遥かに……歩いてくる、人影があった。
二人の、男女。
「ほらみろ、こんなに遅くなっちまった。どうするんだよ!これじゃ、まんま押しかけて泊まりに来たみたいじゃないか。」
艶やかな、漆黒の長髪が揺れる。
隣を歩く、青年に向かって。
「そ、そりゃ……そうなったら、店の方に行けばいいけどさ。それより、驚かせるとか……そういうのやめにしないか?陽子おばさん、そういうの好きそうだけどさ。電話ぐらい入れないと、家にいるかどうかもわからないだろ?」
土産や何やらを両手に下げた青年。返ってくるその言い分に、口を尖らせて……髪をパッと払う、美しい少女。
「フン。そりゃ、バイト代が出たのは今朝だったけどさ。それより、ほら……あたしの家の方を先に回ろうなんて、あんたが言うから。だから、こんなに遅く……あ、ううん。そういう意味じゃないけど、さ……」
少し勢いを失って……青年に寄り添う少女。
わずかな沈黙。自然なひととき。
そして……立ち止まり、共に見上げる。
夜も深い、ローズヒル南平岸。
「なぁ、琴梨とか……驚くかな?あっ、それより、カーネーション出しとかないと。赤いのも、買ってあるんだろ?」
また、ささやかな悶着。
マンションへと入って行く、彼と彼女のふたり。
五階の窓、その一つ。
にぎやかな談笑の影が映るまで、時間はかからなかった。