[716] 上海MOON |
- soujing - 2004年08月29日 (日) 12時24分
もうすぐ闇が町のあちこちに落ちてくる。 暗闇が落ちてきたら、所々にある街灯と家から零れる小さな灯りだけが闇を照らす。
僕はジッと三日月が出るのを待つ。
漆黒の闇が町を支配して、三日月が顔をだす夜に、僕と黒〔ヘイ〕は人間になる。 どうして猫の僕と黒が人間になるのかは、僕には分からないんだけどね。 人間になる前には徴候があるんだ。 体の中がピリピリ痛い。 痛いっていう表現もちょっと違うのかな? 疼くような、むず痒いような、なんだか、うまく表現できないんだけど、体の中がピリピリ電流が流れているみたいに痛くなって、僕と黒はなぜか人間になるんだ。
僕の名前は白〔バイ〕。 ただの白猫。 相棒の名前は黒〔ヘイ〕。 やっぱりただの黒猫。
すごくと安易な名前。 だけど、姐姐〔ジェイジェイ〕がつけてくれた大切な名前。 僕はこの名前が好き。 あ! 僕も黒も梅華の事を姐姐って呼んでるけど、本当はね、姐姐は結構年がいってるんだよ? これは、内緒なんだけどね。
人間の体はなんだか慣れなくて、ぐぐぐって背中を伸ばすと、ガサゴソと台所の戸棚に隠しておいた、人間の服を引っ張り出して僕と黒はそれを着る。 「白、耳がでてるよ」 色素の薄い髪の毛からぴょこりと生えた耳を軽く引っ張りながら黒がボソリと呟いた。 むむぅ。 「なんで僕だけ中途半端?」 黒の癖のない黒髪からは耳は生えてない。 僕よりも随分大きな体に、大きな掌。 黒はどこから見ても十五・六歳の人間にしか見えない。 なのに、僕は小さな体に小さな掌。 どう見ても十二・三歳の人間。 それに、ぴょこんと生えた耳は異形のそれにしか見えないんだもん。
いつもいつもいつも。 黒は完璧に人間の姿になれるのに、僕だけ中途半端。今夜みたいに、耳が残ってみたり尻尾が残ってみたり。 黒はそれを可愛いって言ってくれるけど。 なんだか納得いかない。 黒の腕の中にすっぽり収まって、黒に引っ張られたり甘噛みされたりと、悪戯される猫耳を庇いながら、ちょっとだけ僕は唇を尖らせてふて腐れて見せる。 そんな僕の表情に、黒は困ったように笑うと、ガサゴソと戸棚の中からブカブカの帽子を取り出して、僕に被せてくれた。
「姐姐に見つからないうちに出よう」 音を立てないように、細心の注意を払いながら僕と黒は、そっとドアから擦り抜ける。 少しだけ、ドアが軋んだ。 ビクリと肩を揺らし動きを止める。 そっと振り返って、ドアから中を確認したけど、姐姐は気付いてないようだった。 「姐姐の扱いが悪いからドアが軋むんだよ」 ボソリと悪態を吐く僕。 それを嗜めるような黒の視線に、少しだけ肩を竦めて見せた。 パタリ、と音を立ててドアが閉まる。 それが合図となって、いつも何かに追われるように僕と黒は走り出す。 示し合わせたみたいに。 街灯も疎らな細い路地。 二階の窓から伸びたロープは、街路樹の枝に括られて、ワイシャツだとかズボンだとかいくつもの洗濯物がぶら下がっている。 無造作に置かれた自転車は、猫の時はそんなに思わないんだけど、人間の姿になってしまうとひどく邪魔くさい。 そんな路地を、まっすぐ走って、家から3つ目の角を右に曲がって、その次の角を左に曲がると、ルネッサンス様式やアールデコ調の石造建築が立ち並ぶ場所に出る。 いつもここで、黒の足はピタリと止まる。 目の前には、渋滞した車が連なる大きな道路が広がっていた。 外灘に行くには、この大きな道路を横断しなくちゃいけない。 だけど黒は黙ったまま、静かに赤と黄色の光の帯を作っている車をジッと眺めていた。 そっと黒の表情を盗み見る。 僕が黒の掌をぎゅっと握ると、一瞬だけ、虚を衝かれたような表情を黒は浮かべ、不安そうに表情を曇らせた。 「黒、行こう」 少しだけ首を傾げて黒を見た後、渋滞してあまり動かない車を縫うようにして、僕は黒の腕を引きながら歩き出す。
僕と黒が初めてあった日。 小さな黒の傍らには、自動車に轢かれて冷たくなった黒のママの亡骸があった。 僕を病院に連れて行く予定だった姐姐が、偶然、黒と黒のママを見つけた。 姐姐は黒のママの亡骸を手厚く葬った。 その日から黒は姐姐と僕の家族になった。
渋滞した自動車の川を横断すると、少しだけ照れたような笑みを黒は口許に浮かべる。 そして、小さな声で「ありがとう、白」って、感謝の言葉を口にする。 その黒の表情が僕は大好きなんだけど。 なんだか恥ずかしくって、いつも、素っ気なく、わざと乱暴に掌を解いて、そっぽを向いてしまう。 自分が素っ気なくしたくせに、それなのに黒の反応が気になって、チラリ、と黒の横顔を盗み見る。 少しだけ、淋しそうな黒の横顔。 それがなんだか擽ったい。 うまく説明できないんだけどね。 体の中から何かが溢れちゃう感じ。 うん。そんな感じ。 「ラウのとこ、早く行こう?」 大きな鉄製の黒い門を潜る。 僕と黒の住む町より、たくさんある街灯。 コンクリートやタイルで整備された地面。 いろんな言葉が飛び交う外灘の、人と人との間を僕と黒は擦り抜ける。 突き当たりに、タイルで出来た階段。 そこを上がってしまえば、黄浦江と外灘のライトアップされた石造建築を一望できるところへ行けるのだけど、僕と黒はその階段には上がらずに左に曲がった。 奥まった場所に立ち並ぶお店。 お香のお店や雑貨のお店、その少し奥にラウのいる中国茶専門店はある。 ドアの前に流れる人工的な小川。 その小川に架かった、小さな石造りの橋を渡って朱色に塗られたドアを開く。 フワリ、と独特な匂いが僕を包み込む。 お茶の匂いや甘い茶請けの匂い。 高い戸棚に、所狭しと並べられた瓶詰めの中国茶や漢方薬。忙しなく働く小姐は、シルクのチャイナドレスを着ていた。 「こんばんは、ラウさん」 ドアのすぐ傍らの、鳥籠の鸚鵡に黒は声をかける。鸚鵡はチラリと黒を一瞥しただけだで挨拶を返そうとはせずに騒ぎはじめる。 しばらくギャーギャー騒いでいたけど、唐突にそれはピタリと止まり、ようやく鸚鵡は僕と黒に視線を移す。 「今夜もお散歩か。猫は気楽だな」 「うん。姐姐には内緒で来たんだ」 鸚鵡のラウの問いに、黒が答える。 ラウは僕らより年配で、ちょっとだけ言い方が皮肉っぽいので僕は苦手。黒はその辺、鈍いっていうかお人好しっていうか、あんまり気にならないみたいなんだけど。
え? なんで猫と鸚鵡が会話ができるかって? なんて説明すればいいんだろ。 お互いの言葉をちょっとだけ理解してたら 完璧ではないけどコミュニケーションってとれるじゃない? 多分、そんな感じ。 僕も黒もラウの言ってる事が、全部分かるわけじゃないし、ラウもきっと僕と黒の言ってる事が全部は分かっていないと思う。 それでも、きちんと僕らは会話してる。 …と思う。
「猫は気楽でいい。俺みたいに狭い鳥籠に入らなくていいし、人間の言葉を覚えて喋る必要も無い。日がな一日寝て起きて飯喰ってれば可愛がられるんだからな」 「そんなに嫌なら喋らなきゃいいじゃん」 ラウがチクチク嫌みを言うからさ、僕もラウに対して意地悪な事を言ってしまう。 ラウは、そんな僕を見下したように、ふふんって鼻で笑った。そして、ふと思い出したように黒に視線を移して、黒目を意地悪そうに細めて見せる。 「東方明珠はもう見たかい?」 「まだ見てないよ」 「クックック、はやくしないと宇宙船が来て、黒の行きたい月へ行き遅れるぞ」 ラウの言葉に、ジッと黙ってた僕は少しだけ眉根を寄せる。
東方明珠は、黄浦江の向かいにある、丸いのが三つくっついている大きなタワーで、東洋一の高さを誇るそれは、歴史博物館や水族館のあるテレビ塔なんだけど。 初めて東方明珠を見た黒は、それを宇宙ステーションだと思い込んで、ひどく興奮した様子で「いつ宇宙船は来るの?」ってラウに聞いていた。 あのね。 黒は月に行きたいんだよ。 黒にきちんと聞いたわけじゃないけどさ。 黒は姐姐の言葉を信じてて、星になったママに会うために月に行きたいんだと思う。 だからきっと、大きな三日月が引っかかっていた東方明珠が、黒には…月に行く宇宙ステーションに見えたんだ。 黒は少しだけ照れくさそうに小さく笑って 「あれはテレビ塔だって分かってるよ」 って珍しくラウに言い返す。 「どうだかね」 小馬鹿にしたようなラウの物言い。 プチリ、と僕の中で何かが切れた。 あんまりムカツクもんだから、自分でも目が据わってるのがよく分かるよ。 ギロリとラウを睨み付けてやる。 「あのさ、ラウ。あんまり黒を虐めると、今度猫に戻ったらラウの事食べちゃうからね」 冷たくそう言って、ラウの鳥籠をガタガタ揺する。お店の小姐が注意をする前に、黒が僕の腕を掴んでそれを止めさせる。 「白、ダメだよ」 困り顔で僕を嗜める黒。 庇ったはずの張本人に叱られて、納得いかなくて、上目遣いに黒を睨み付ける。 「そういう顔してもダメ」 少しだけ強い口調で、ぴしゃりと黒に窘められてしまい、僕は小さく首を竦めた。 ふと、視線を感じてそちらを見ると、まだあどけなさを残した一人の少女が僕と黒と鸚鵡を不思議そうに眺めていた。黒髪は肩まで伸びていて、まっすぐ切り揃えられた前髪は日本人形を思わせた。 黒も少女に気付いて笑顔を向ける。 「この鸚鵡ね、英語や日本語や中国語でも挨拶ができるんだよ」 黒の言葉を理解できないのか、少女は困ったように少しだけ首を傾げて見せる。そして黒とラウを交互に見遣った。 「HELLO!」 「HELLO!」 「こんにちは」 「コンニチハ」 「再見」 「再見再見」 黒の後に続いたラウの流暢な挨拶。 それを見た少女は、花が綻んだような屈託のない笑顔を見せた。 黒が何かを言おうと口を開きかけたが、それより早く、背後から四十代の女性が少女の右腕を掴むと、僕と黒から守るように強引に少女をお店から連れ出してしまった。 「行っちゃった」 「感じ悪ッ」 「白の顔が恐かったんだな」
僕はラウの事が苦手って言ったよね? 訂正するよ。 僕はラウが嫌いだってね。
ラウの鳥籠を両手で掴んで、乱暴に揺すると、僕は黙ったまま黒を置き去りにして中国茶専門店を出た。 「ごめんね、ラウさん」 黒が僕の悪行をラウに謝罪する。 慌てて僕の後ろを追いかけてくる気配。 「白! 白ッ!」 名前を呼ばれるけど無視して黄浦江を眺められる外灘を歩調も荒く突き進む。 向こうから来た団体旅行客の男人に、ぶつかってよろけてしまう。 「…あっ…!」 喉元に上がった小さな悲鳴。 よろけた僕の体を黒が抱きとめてくれる。 男人は威圧するような眼差しで、何か怒ったように、外国の言葉を早口で捲し立てて、僕と黒を置いて立ち去って行った。 「大丈夫? 白」 「うん」 後ろから覗き込むようにして、黒が僕の顔を見るからついつい頬が熱くる。忙しなく瞬きを繰り返す僕に、ふわりと優しい笑顔を黒は向けてくれる。 僕の背中から黒の温もりが消えた。 なんだか寂しくなって、黒を見上げると、そっと掌を繋がれた。 それが、すごく自然すぎて、戸惑って何度も黒と繋がった掌を見るけれど、黒は笑ったままで掌を解いてくれなかった。 「ねぇ、白。さっきはどうして怒ったの?」 静かな声音で黒が聞いた。 そっと、黒に促されて僕は歩き出す。 黄浦江の堤防に打ち付けられる波の音や、猥雑とした人々の波に飲まれながら、僕と黒は東方明珠を横目に静かに歩いた。 「黒が…女の子と話してたから…」 ポツリ、と零れ落ちる本音。
だってね。 ほんとは、黒がラウと話すのも嫌なのに。 黒ってばラウの事、好きっぽいし。 それにね。 時々僕は姐姐にすら嫉妬しちゃうんだよ? 僕って心が狭いのかな? 少し先を歩いた黒が心底驚いた表情で、僕を振り返る。 「ヤキモチ妬いちゃったの?」 「違うよ。黒がデレデレするからッ!」 心の奥に、モヤモヤが巣食ってる。 なんだろう? これ。 理由の分からないこの感情が嫌で、ギュッて唇を噛み締めて、口許を歪めてしまう。 「白はヤキモチ妬かない? 俺は妬いちゃうよ。白がラウさんを意識して、毛を逆立てて反発してるの見ると…」 「え?」 「白が好きだからね」 驚いて思わず数回瞬きをする。 黒の口許に笑みが浮かぶ。 そっと掌が離れたかと思うと、黒の大きな掌は僕の肩を掴む。ごつり、と鈍い音がして僕のおでこと黒のおでこが、ピッタリくっついた。 「知らなかった?」 「知ってたよッ!」 悪戯っぽく黒が言う。 ついつい子供みたいに僕は言い返す。 そんな僕を、黒が笑う。 その笑顔に僕の心臓は飛び跳ねる。 狡い狡い狡い! 僕は黒の笑顔にほんとに弱いのに。 黒は知っててそれを使うんだもん。 心臓の鼓動がひどく煩いんだよ? いつから僕の心臓は、耳の近くに、移動しちゃったんだろう。 「朝が来る前に姐姐の処に帰ろう」 「うん」 おでこがくっついたまま黒が笑うから、 おでこをくっつけたまま僕も笑った。 僕の身長に合わせて屈めていた体を起こし背中を伸ばしていた黒の動きが止まる。 僕も黒の視線を辿る。 黒の視線の先に見つけたのは、黄浦江の向こう側にある東方明珠。 「やっぱりさ、東方明珠は宇宙ステーションだと思わない?」
ちょっとだけ悪戯っぽく黒が言った。 初めて見た東方明珠を、宇宙ステーションだと言ったあの日と同じ表情で。 僕は小さく笑って頷いた。 僕が見ている東方明珠の尖った先端には、やっぱり大きな三日月が引っかかっていた。
《おしまい》
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