日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

日本テーラワーダ仏教協会の質問&議論用の掲示板です。
投稿は個人情報を削除した上で編集しHPや協会機関誌等に転載する場合があります。
YouTube「日本テーラワーダ仏教協会事務局」チャンネルのQ&A動画で取り上げる場合もあります。

画面左上の検索フォームで過去の書き込みをキーワード検索できます。
投稿は管理人が内容を確認後に掲載します。不掲載の理由問合せにはお答えできません。

質問や相談にコメントする場合は"真理を守る"謙虚な姿勢を心がけましょう。
お問合せは、info@j-theravada.net まで。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

掲示板一覧に戻る

こちらの関連記事へ返信する場合は下のフォームに書いてください。

慈悲の瞑想をすることによって変わったこと 慈悲の瞑想の効用 - 慈悲と智慧
長老は、歩く瞑想等と並んで、慈悲の瞑想の実践を強く薦めておられます。
長老のファンで本は良く読むけど、慈悲の瞑想をきちんと実践している方は意外と少ないのが現状だと思います。
そこで、実際に慈悲の瞑想をすることによって変わったこと、スマナサーラ長老からお聞きした慈悲の瞑想の効用等を書き込んで、この掲示板を見ている人達の慈悲の瞑想をすることへのモチベーションを高めていけたらと思います。
無理のない程度に皆様書き込みをしていただけたらと思います。
では。
2010年07月24日 (土) 18時13分 No.521
怒りの減少 - 回答
怒りの減少。善業の増大。
2010年07月25日 (日) 05時15分 No.530
強いて言えば… - naagita(admin) MAIL
心は揺れ動いているので、あまりはっきりしたことは言えませんけど……

強いて言えば、この掲示板に投稿される皆さんの発言を楽しく読めるようになったことですかねぇ?

以前は、他人が自分と違う見解を述べることに、いちいち腹を立てていたような気がします。いまも時々ムカっとしますが、頻度は減ったような。

違うのが当たり前だと思えば、違うことが面白くなりますね。
2010年07月25日 (日) 05時20分 No.531
返信ありがとうございます - 慈悲と智慧
今後も無理のない程度に他の皆様も書き込んでいただけたらと思います。

因みに私、自然に親孝行というかそういうものが以前より出来るようになりました。
以前が酷すぎましたけど(笑)

生きとし生けるものが幸せでありますように☆
2010年07月26日 (月) 06時14分 No.534
慈悲の瞑想 - 新
こんにちは。始めて投稿させて頂くものです。

慈悲の瞑想に因って、「自分はエゴイスト」とうことがハッキリと分かりました。

かなり前から「人間なんて皆エゴイストだよ」と多くの人が言ってましたが、想像以上にエゴイストでした。

それは、「私は幸せでありますように」から順番でやる時に、強い実感としてわかることでした。

スマナサーラ長老の本を読んだり、法話を勉強したりする時は、それまでごく普通に想像していた自分の「エゴ」を再確認する程度だったのでした。

しかし、いくら否定しようとしても「私は幸せでありますように」が他のどれよりも心の本音であることが嫌というほど実感されると、その事実は認めざるを得ませんでした(実はそれほどエゴイストじゃないと思っていたのです)。

そのことによって、「皆のためにやる」というのが、実は殆ど「自分のために」ということをまず最大限に念頭に置いている。という事実に気がつきました。お陰で、自分自身の偽善的な面にかなり敏感になりました。

一般論として、仏教を学んでどうだった?ではなく、純粋に慈悲の瞑想実践だけでの「結果」はいかに?と問うならば、私の場合上記のことが言えるかと思います。
2010年07月27日 (火) 12時30分 No.537
生きとし生けるものが幸せでありますように - ぱん
これまで、生きとし生けるものが幸せでありますようにと、心で念じたり、あるいは唱えたり、書き込みしたり、してきました。ある時は寺で仏法僧とともに、またある時は神宮球場で野球ファンに混じって、ある時は蝉時雨の中、またある時はブログなどで。昼休みに川にいる魚や鳥などをみながら、また帰りの電車の中、いろいろな場で唱えてきました。形だけで心のこもらないものでした、慈悲の冥想というよりエゴの冥想でした。そんなみっともないことをしていても、犯罪者にもならず、2ちゃんねら〜にもならず、なんとか今まで生きてこられたのは、慈悲の冥想のおかげです。
2010年07月27日 (火) 12時30分 No.539
4つの中で・・・ - いづる
これは実践者の役に立つと思うので、書かせて頂きます。

ある長老の文章より引用です。
『【10】 冥想の基本と慈悲の冥想 』
・・・
Q: このごろ慈悲の冥想をたくさんやりたいなあと思っているのですが、慈悲の冥想とはどのようなものなのか、教えてください。

A: 慈悲の冥想は、ともかく心を慈悲の気持ちでいっぱいにするということが一番正しいやりかたです。
慈悲喜捨という4つの冥想がありますが、少し詳しくお話ししますと、もし4つの言葉をいっしょに唱えていても、心はどれか一つの方へ進んで行くものです。もう少し言えば、たとえば「慈」しみの冥想をしてくださいと言っても、その人の性格に合わないということもあるわけです。
・・・
能力からいえば、「慈」がやりやすくて、「捨」がやりにくい。智慧がとても必要なのは、「捨」の冥想です。ですから、ともかく1セットにしてやればそのうちどれかひとつ自分に合う方向へ向かっていくのです。
そういう意味で、皆さんに紹介している慈悲の冥想は、万能薬のような取り組みやすい方法なのです。
http://www.j-theravada.net/qa/gimon10.html

また今月号のpatipadaを転記します。
『慈悲の実践と幸福の実現』
・・・
瞑想対象を選ぶ
それから、慈悲喜捨の四つをすべて実践する必要はありません。どれか一つだけ、実践すればよいのです。この一つをどのように選びますか。最初は、四つすべてを実践するのです。慈悲の気持ちは生命には本来ないものです。生命の本能はエゴなのです。それで、自分のエゴの気持ちと戦いつつも、慈悲喜捨の実践を行うのです。ジワジワと気持ちが落ち着いてきます。慈悲の気持ちを心で感じられるようになります。他人と接するときも、慈悲の気持ちが割り込んでくるようになります。さらに慈悲喜捨の瞑想を続けます。そのとき慈・悲・喜・捨という四つの気持ちの中で、どれか一つ簡単に感じやすいことを発見します。それを念じると、心が落ち着いて集中力も安定すると感じます。それが自分に適した瞑想対象なのです。他人に教えてもらうことはできないと思います。自分の性格に適した瞑想を発見すると、心は「無量心」になるまで育てられるのです。
・・・

いつも長老の文章を身勝手に引用して本当に申し訳ない気持ちでいます。(もしpatipadaの上で引用した記事全文をお読みになりたい方がいらっしゃれば全部転記しますので、教えて下さい。引用だけして、そのソースも提供できないとなると文脈が分かりませんから。)
僕も個人的に4つのうち自分の性格に合うものを発見してからは、かなり気持ちよく、楽に、楽しく、正直に念じられるようになりました。見つけるまではちょっと苦労しましたが。(他の3つはなんだか未だにうまくいかないのですが、僕の性格に合わないのでしょう。)

ご参考にして頂ける方がいらっしゃれば嬉しく思います。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
2010年07月29日 (木) 16時31分 No.542
新さん、ぱんさん - 慈悲と智慧
ありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
2010年07月29日 (木) 16時31分 No.545
新さんへ - いづる
余計なおせっかいになる可能性もありますが、役に立つ可能性があるので、投稿させて頂きます。
>しかし、いくら否定しようとしても「私は幸せでありますように」が他のどれよりも心の本音であることが嫌というほど実感されると、その事実は認めざるを得ませんでした(実はそれほどエゴイストじゃないと思っていたのです)。
の部分ですが、もしかしたらこちらのご法話が参考になるかもしれないです。ポイントだけ引用させて頂きますが、出来れば文章を全部読まれることをお勧めさせて頂きます。
「自分しか愛せない」 〜智恵のある人は自分を守る〜
●今回のポイント
生命は自分のみを愛するのです。
自己愛は『生』の自然構造です。
自分を守ることが何よりも大事です。
http://www.j-theravada.net/howa/howa72.html

それからこちらもお勧めです。
『17.人とのつきあい方
(1)エゴイストは後を絶たない 』
・・・
■全ての知識はエゴへ向かう■
 お釈迦さまに「あなたはエゴイストですよ」と言われても、嫌悪感を感じる必要はないのです。実は、悟らない限り、私たちはエゴイストになってしまうプロセスの中にいるのです。なぜならば、必ずエゴが成り立ってしまうメカニズムがこころの中にあるからです。それは認識のメカニズムです。“生きている”ということの意味は、外の世界を認識することです。見る、聞く、味わう、嗅ぐ、苦しみや楽しみなどを感じる、ものごとを考える、感情を抱く。これが「生きる」ということです。それを言い換えれば、「外の世界を認識する」ということになります。その認識システム自体が、極端に自己中心というか、自分だけの世界を作ってしまうのです。私たちは自分の目でものを見て、自分の耳で聞いて、自分の鼻で嗅いで、自分の舌で味わって、自分の身体で感じて、外の世界を認識しています。それ以外に外の世界を知る方法はないのです。
・・・
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi83.html

>そのことによって、「皆のためにやる」というのが、実は殆ど「自分のために」ということをまず最大限に念頭に置いている。という事実に気がつきました。お陰で、自分自身の偽善的な面にかなり敏感になりました。

僕が素通りできなかったのは実はこの部分なんです。もしかしたら新さんは自己犠牲を美徳とお考えかもしれないと思ったのです。我々が日本文化の枠組みで思考すると‘自己犠牲’が美徳であると考えるのは自然に感じられてしまうかもしれません。しかしながら、自己犠牲はブッダの教えとは正反対なんです。

あるご説法からも引用させて頂きます。
『慈悲の瞑想で生まれ変わる』
・・・
Q.慈悲の瞑想では最初に自分の幸せを祈ってますよね?
A.それが正しいやり方です。そういう風にやって下さい。
・・・
その通りにやって下さい。他人の話は持ち込んではいけません。汚れた人々の話はね。これはブッダの話だからね。その通りにやって下さい。その順番で。まず自分が幸せでありますようにと。まぁ世の中の人が無責任に言ってることに耳を傾けなくて良いんです。ブッダはそうでなくてもの凄い責任持って喋ってます。まぁ世の中の人は自分のことを置いておいて、かっこつけてね、これは成り立たないんですよ。自分の心みていないバカがどうやってきれいな心作れますかね。自分の心をみることから始めるんです。まぁ子供の頃からやっている私達なんかは文化だから慈悲っていうのはね。仏教の国だから。別に順番じゃなくて‘生きとし生けるもの’というところから始めるんです。その時その時の気分でやってそこでいきなり入りににくいんだったら‘親しい人々’のところから始めるんです。自分が幸せでいてほしいのはこんなの当たり前。決まってるんだからね。でも皆様の場合はそういう文化でもないし。聞いたこともないし。大乗仏教では慈悲っていう概念はないし。偉そうに救う概念だからね。自分も溺れているのに人を救ってやるぞと。だから慈悲はないんです、大乗仏教には。だからブッダの教えにしかないんです。
・・・
http://gotami.j-theravada.net/2006/08/dhammacast-28.html

最後にスマナサーラ長老と鈴木秀子氏の対談の本『今ここに生きる智慧』から引用させて下さい。

自分を中心に考えなさい
鈴木 それから、母子の関係で慈しみというのはどう理解すればいいのでしょうか。この場合は「お母さんはそのとき一生懸命頑張ったんだ」などと、相手の立場や視点から見ることが必要ということでしょうか。
スマナサーラ 一般的にはよく「相手の立場に立って」と言いますが、私は使わない言葉ですね。だってどうやって、相手の立場で考えられるでしょうか。
鈴木 確かに憶測ですから、妄想になりますか?
スマナサーラ そうではなくて、ブッダが言うのは、自分を中心に、センターポイントにして考えるということです。この場合は「自分は苦労して育てられたんだ」「これは大変なことなんだ」と考える方がやりやすいと思いますよ。
 とにかく、人権といえば私にもあって、相手にもある。これは自我がない、エゴイズムが成り立たないということであって、自分を捨てろとは私は言いません。
鈴木 でも、そう思いがちですよね。自我をなくせと言われると。
スマナサーラ 本当は何も捨てるものはないのです。ただの物の怪・幻覚ですから。幻覚なら破らなくては、というだけの話でしょう?幻覚を破ったら何かが消えるわけではないし、何かを失うわけでもない。初めからあるのは、この物質(身体)を心の感情によって動かしているというだけのことです。だから自我という幻覚を破るという事であって・・・・・。
鈴木 自分をすてることではないのですね。

自分を捨ててはならない
スマナサーラ その言葉を使ってはいけないのです。ある日、お釈迦様が質問されたことの一つが「人は何を捨ててはならないのか?」という問いでしたが、お釈迦様の答えは、「自分を捨ててはならない」だったのですから。
鈴木 では「自分を捨てる」と、どういうことになるのでしょうか?自分を捨てて人に合わせるとか?
スマナサーラ それはエゴイストがやることでしょう。人に合わせる必要はないし、自分を捨てる必要はないのです。自分を捨てるということは宗教の世界でよくあることで、わざとものすごい苦行をしたりしますが、あれはただの自己いじめです。苦行は、エゴがないとできないことですから。
・・・
(P.73〜)

色々と引用させて頂きましたが、ただ一つ僕が申し上げたいのは‘自分を捨てないで’下さいということです。そんなことは僕が申し上げなくても既に百も承知だったならば安心です。

それでは、幸せでありますように。


2010年07月29日 (木) 16時31分 No.547
いづる様へ - 新
色々ご紹介頂き、ありがとうございました!

自己犠牲的、隣人愛?的なものを一種の正義と本気で考えてる方にはとても有効だと思います(笑)。

私の場合、自分ほどのエゴイストはいないんじゃないかと思ってました。「他人のため、世のため人のためなどは言語道断!仮に戦争や天変地異で地球が危険になっても、他人などどうでもいいから、とにかく自分だけは生き延びてやろう!」をモットーに生活してましたから(苦笑)。かなり前のことですが、そんな話題になり、父が「お前は地球で一人になっても楽しいのか?」と言うので「一人になっても生きていきたい」と答えたことがあります。仲間とそういう話題になった時も「お前は結局エゴイストなんだ!」みたいな言われ方をよくして、カンカンに怒られたこともあります(苦笑)

エゴを克服しようと「慈悲の瞑想」を始めたところ、それまでの自己認識が甘かった。ということです。

よく道を尋ねられたりしますが、その場合でも、真に親切心からではなく、優越感に浸りたいとか、教えることで他人に認められたい。という気持ちが強く働いているという心の「事実」により敏感になった。というようなことです。少しキザな表現をすれば「己の欲、怒り、無知という煩悩に敏感になった」ということだと思います。それまでは、「それでもそれなりの良心はあるものさ」と自己評価していたというわけです。

そのようなことが明確に分かればわかる程、欺瞞に満ちた「自慢話」は出来なくなりましたね(苦笑)。

そのせいか、比較的平和な日々を送ってます、ハイ!

御心配をおかけいたしましたw。

〜幸せでありますように〜



2010年07月31日 (土) 20時03分 No.558
新様へ - いづる
余計なおせっかいだったみたいで、安心しました。失礼致しましたw。

我々は簡単に言葉で‘慈悲’と言うことができても、慈悲の考えは「正知」から説かれたものだそうです。
『仏教の堕落と再生/ほんとうの慈悲』
http://gotami.j-theravada.net/2007/08/post-180.html
でご説明されています。

ですから我々は実践しながら‘慈悲’の気持ちを、「真理」として少しずつ理解していきたいですね。
5月4日に行われたスマナサーラ長老の仙台講演「怒らないこと」の後半の瞑想指導で、僕の記憶が確かであれば、
「慈悲の瞑想がうまくいくと、3番目の悟りにまで達することはできる。だからこの瞑想はバカにしてはいけない」と長老が仰っていました。

我々はブッダの説かれた本当の慈悲に到達できるように頑張りましょう!
生きとし生けるものが幸せでありますように。
2010年08月01日 (日) 11時53分 No.567


名前
メール
ホームページ
タイトル
本文
画像

削除パスワード Cookie

RSS
Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板