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ダレモイナイ コウシンスルナラ イマノウチ(ペ∀゚)ヘ
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[444]まえがき・その五: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時37分 Mail

 
 
 
 とりあえず、お決まりとして一応。

 ここは武蔵小金井が連載形式で投稿掲載していた

 『 M:西海航路 』の第五部(四十章〜終章)をまとめたツリーです。

 新規に読まれる方は、どうか下方の第一部ツリーからお読みになることをお願いいたします。


 それでは。
 
 
 
 
 
 


[446]長編連載『M:西海航路 第四十章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時00分 Mail

 
 
   第四十章 Marriage

   「どうしたらいい?」
 

 旋律が流れるデッキは、既に宴が始まっているかの如きにぎやかさだった。
 談笑する来賓達。その大勢は日本人が占めていたが、外国人であろう姿も幾人か見える。揃って上質な礼服に着飾った彼彼女等は、その身を飾る華やかな装身具貴とも相まって、まるで一流ブランドが集う品評会のようであった。無論、紋付羽織の男性や和服の婦人のそれも多い。だが総じて、彼彼女等にはどこか共通する雰囲気とでも言うべきものがあり、それがこの空間……月の貴婦人号のデッキ一つを覆うほどのそれになっていた。実際には彼ら招待客に倍する人数の給仕やスチュワードがその間を動き回っているのだが、やはりこの集まりの主役は彼らであり、それはここに集う誰もが理解している……いや、しなければならないことのようであった。
 そんなデッキの中で、最も多くの人が集まっている大広間がある。ゆっくりと、だが時と共に確実に人が集まってくるその広間こそが、この客船の**航海における最も大事な式典の主会場であった。艶やかで華やか、シャンデリアや装飾に彩られた広間は、まさに光彩陸離の如くデッキ全体で……いや、この豪華客船全体を見ても、最上の輝きを放っていた。
 そして、立食会の形式で居並ぶその大広間の人々は、まさにこれから始まろうとしている結婚式についての話題を口々にしていた。もっともその話題は主としてこの婚姻を期に血縁として結ばれるであろう二つの家……そしてその両家の繋がりによる社会的な事情が主であった。
 そんな彼らの視線が様々な意味で注がれるのが、その時になれば晴れの日を迎える新郎新婦が登場することになるであろう巨大な扉である。両開きのドアは今は閉ざされ、その前に立つスチュワード達がにこやかに人々を案内していた。さらにその傍らにはライトに照らされたステージがあり、立ち並ぶ人々からも見える壇上では、式までの司会を務める一人の船員が懸命に場を繋いでいた。
 さて、その大広間の一角……人々の視線が集うステージや扉と丁度正反対の位置に、大きなグランドピアノが設置されていた。小さなドアの近くに位置するそれが、先程よりこのデッキ全体に美しい音楽を響かせている。脚を固定され船の揺れに動じないように細工されたそれの横にはまた別の、目立たないステージがあり、これより始まる式典のために、十数名からなる楽団のメンバーが配置につき、各々がその前仕度に集中していた。
 そして鳴り響くピアノの前には、一人の女性がいた。十代……行っても二十歳前後だろうか。まだ少女と呼んでも差し支えなさそうな彼女は、先程より黙したままでピアノに向かっている。深い海のような青い……いや、青紫だろうか。とにかく一色に染め上げられた見事なパーティ・ドレスをまとい、彼女はうっすらと半眼を開けたまま……まるで黙祷しているかのように、巨大な楽器に相対していた。おしろいだろうか、その肌はかなり白く、微動だにしない表情と伴って、生気がほとんど感じられない。ピアノから響くメロディさえなければ、彼女の姿はまるでピアノとセットになった瀬戸物の人形のようにすら見えたかもしれなかった。
 そして今、曲が静かに終わる。かすかに彼女は身を起こした。椅子の背を隠すほどの豊かな黒髪が、細波のように揺れる。
「お見事です、マドモアゼル・クロミネ。」ピアノの前の女性……『彼女』は、長い調べが終わるのを見計らうかのように横合いからかけられた声に、その顔を向けた。白い鍵盤に重ねられていた細い指が離れ、黒髪をゆっくりとした動作でかきあげると……形ばかりの拍手をする相手をじっと見つめる。「ショパンですね?曲名は確か……うん、ピアノ協奏曲だったかな?第三番、ホ短調……」
「Grande Walse Brillante……」独特なアクセントで彼女は相手に答えた。「……円舞曲第一番、変ホ長調、オーパス18。」この相手に助け船を出す気になった理由は、よくわからない。おそらく気まぐれだろうと彼女は思う。乱数処理のような思考のポケットから生ずる不確定要素、とでも称するべきものだろうか。「ピアノに限らず、こういった曲の名前は総じて複雑で、覚えるのも大変ですね。オーパス10、第三番、Eメジャー……数学の方程式のようです。」それは素直な感想だったが、ある部分では彼女は嘘をついていた。まあ、この目の前にいる見知らぬ男がそれを見抜くのは不可能であろうとも思う。
「なるほど。さすがは日本最高の美人ピアニストですね。僕などの知識が及ぶところではありませんか。」用意していたように男は台詞を並べ、歯を見せて笑う。彼女は相手をじっと観察した。二つの目は確かにあり、彼女自身に……付け加えるならば、その五体の幾つかの部位に集中して注がれている。「実は僕も、少しばかり音楽を趣向していましてね。そう……フルート?あれは何度かたしなみました。」
 彼女は微笑した。「フルートですか。あれは、リードがいらないのですよね。でもその分、呼吸を合わせるのが大変と聞きます。」
「そうですね。でも僕なんて未熟ですから、リードするよりされてしまう方ですか。」男は声をあげて笑った。彼女も微笑を強める。「是非今度、貴女と前衛的な音楽について話しあってみたいものです。」おそらく、自分より少なからず年上だろうとは思う。だがしかし、この短い会話だけでこの男の度量……いや、教育と知慮の程度が彼女にははっきりとわかった。「そうだ。よかったら式の後で、是非ダンスでも御一緒にどうですか?夜のパーティにも来られるのでしょう?その後でも……勿論、その前でも構いませんよ?どちらにしましょうか?」
 彼女は微笑した。「ええ……」形ばかりの仕草であり、だがそれをそのまま形ばかりの意であると相手に伝えるのは、実に難しいと思う。察しのいい相手ならばともかく、それで余計に笑みを……満面のそれへと変えるような相手に対する手段は別の意味で至難だった。直接的な言葉を発すればたちまち終わるとは思ったが、やはり何よりも、優先してこの場をわきまえなければならない。だが、それは彼女にとって最も難しい行為の一つだった。「機会が適った暁には、楽しみにしています。」どちらにしろ、そんな機会は来ないに違いないと彼女は思った。やるべきことは、すべて決まっている。
「ふふ、僕が必ず叶えさせてみせますよ。」白い歯を覗かせて笑う男に、彼女は嫌悪感を通り越してある種の憐れみ……いや、むしろ興味に近い感覚すら抱いた。この男のように生きられたら、幸せかもしれないと思う。今、目の前の瞬間をこの男は謳歌している。それは他から見て甚だ滑稽な様相かもしれないが、彼個人にとっては決して痴態でも荒唐無稽な行為でもないのだろう。つまり自分一人が満足しているのであり、そして他人がそんな自分をどう思っているか認知することをしないままでいられるということは、この男の得ている満足感は多分に絶対的なものなのだろうとも思う。つまり、他人の理解とは無関係な彼個人の意識だ。
 勿論、それをうらやましいとは思わない。この男のそれは自分を知らないからこそできることで、それは裸のまま民衆に手を振った王様や、風車に向かって馬を駆った騎士と同じだ。そんな立場に自分を置いてみたいなどと思えるはずがない。だが、常に自分を超越する存在を感じ続けている彼女にとって、そんな意識は決して自分の物になるはずもない……感じることなどあり得ないものだった。だからこそ……「そうだ。式の開始までにはまだ時間がありますね。よかったら少し、二人で甲板にでも……」どこか気だるさすら混じった彼女の思考は、そこで中断を余儀なくされた。
「いえ、私は……」
「遠慮なんてしないで下さい。僕も……」遠慮という言葉の意味はどうだったろうかと彼女は考えたが、その前で男はひたすら一方的に……遂には身を乗り出してピアノのこちら側にいる自分に迫ってくる。その表情には、こういった無理強いを過去幾度となく行い、そしてそれが失敗……つまりは拒絶されたことがほとんどないであろうという自信めいたものすら窺えた。
 さて、どうするべきだろうか。みるみる沸き上がる確固とした感情とは別に、彼女は冷静に状況を分析する。ここでこの男の自信(言い換えれば自尊心)を打ち砕くのはたやすいことだったが、物事にはすべて順序があるという言い回しの如く、この場において優先するべき選択権……いわば彼女自身が決定する選択肢の重要度という意味で、微小な騒ぎですらでき得る限り避けなければならないことだった。だがとはいえ、ここでこんな男の相手をし続けている暇はなく、さらには自分自身の感情が既に限界を越えつつあると彼女は認識していた。
 まったく、感情をコントロールすることほど難しいことはない、と思う。どうして腹が立つのか、その理由を含めた思考の流れはわかりすぎるほど簡単に理解できるのだが、その作用自体を食い止め、あるいは抑制することはどうにも困難だった。手を挙げるという直接的行為は論外としても、ここで鋭い声をあげるのもまたはばかられる。だが、こうまでして……「どうですか?ほんの三十分……いや、十五分でもいい。僕と……」ドレスから露になった自分の肩口に触れられるのは、とても我慢できそうになかった。
 だが、ピアノ椅子より立ち上がる寸前だった彼女の膝は、寸前でそれを停止した。「こら、コダマ君。」脇から聞こえたソプラノの声。それが誰の声か判別しようとする前に、その声によって男の手が自分から離れたことを嬉しく感じる。「コダマ君、昨日口説いた女が見てる前で、堂々とそういうことをしないでくれる?」
 振り向くと、そこに長い栗色の髪の女がいた。瞬間、とんでもない化粧だ、と思う。いや、どぎついのとは少し違うが、それでも全身から漂う化粧品の芳香は凄まじく、彼女はかすかに身じろぎした。「あ、れ、レイちゃん……」コダマ君、と呼ばれた男があからさまに表情を変える。そのコダマ、いう名前はどこかで聞き覚えがあった。確か特等船客の一人に、児玉某会という経済団体の会長がいたはずだ。関東では、そこそこの力を持つグループである。
「あらっ、随分と他人行儀ね?一晩ベッドを共にした女も、一夜明ければもう他人ってわけ?」レイちゃん、の物言いに彼女は思わず赤面する。
「こ、こんなところで……レ、レイちゃん、僕は……」コダマ君の慌てぶりは正直痛快だった。「……だから、あれは、君が……ぼ、僕だって……」しどろもどろ、だろうか。近場から興味深げな視線を放ってくる他の招待客に気付き、さらにコダマ君が取り乱していく。
「まあ、いいけど。そうだ、コダマ君。北河瀬君が呼んでたわよ?」レイちゃん、はアイシャドウの濃い眼を細めて澄まし顔になると、真剣な顔をして声をひそめる。「君と私の、いけないことがばれたんじゃない?」コダマ君の顔色が急激に青ざめた。「早く行かないと、晴れの日に親友として面目が立たないかもしれないわよ?」
 振り向きもせず早足で去る……いや、大広間を駆けて行くコダマ君の後ろ姿は、まさにほうほうのていという古めかしい表現がよく似合った。これもまた、彼女にとり実に愉快な場景となる。
「あーあ、つまんない男。」両手で後ろ髪をたくしあげるようにして散らすと、レイちゃんはさてと、という風にこちらに半身を向ける。その仕草は計算づくのようであり、事実そうなのだろうと彼女は思った。「ハイ、彼女。また会ったわね?」
「そうですね。でも……レイちゃん、ですか?」悪戯っぽく口にしてみると、目の前の女性は心外だとでも言いたげな顔で、既に見えなくなっているコダマ君の去った方向を睨み付けた。
「もう、頭に来るわね。まったく、そこらの軽薄女じゃないっての。レイちゃん、なんて……って、そんな芸名してるあたしの方が悪いのかもね。ま、本名よりは気に入ってるけどさ。」
「本名、別にあるんですか?レイ……富名腰レイって言うのは芸名?」興味を覚えて、彼女は尋ねる。
「ん、そうだけど……あ、煙草、いい?」どこから取り出したのか、一本のシガレットを見せてレイちゃんは尋ねる。
 彼女は肩をすくめた。「私は構いませんけど……禁煙ですよ、ここ。」
「式が始まったら消すわよ。じゃ、失礼するね。」突然、レイちゃんは近くの人込み……殿方の集まりに向けてつかつかと歩き始める。驚いて見送る彼女をよそに、レイちゃんはそこで何やら軽く挨拶をして……集って談笑していた男性の一人が、彼女の煙草にうやうやしく火をつけた。
「名前さ、今の会社の社長がつけたの。」悠然と戻って来たレイちゃんは、何も気にせず話の続きを始めた。彼女は思わず笑いをこぼす。「日本人ってことと、海外にも覚えやすくするようにって。名字と名前、それぞれね。本当は名前も片仮名じゃなくて、『麗』って漢字書くのよ?ほら、冷たかったり頭を下げたりするんじゃない、難しいレイって奴。」どうでも良さそうに、彼女は煙草を燻らせる。衆目を気にしない……いや、むしろどんな形にしろそれが集まることが当然だとでも言いたげなその態度に、彼女は少し感心した。まさに、それを職業とする者にふさわしい。
「春うらら、の麗ですね?富名腰麗……うーん、名が体を表すというか、素敵な名前ですね。覚えやすいし、独特な発音だし。」それは率直かつ素直な評価だった。レイちゃんは、まんざらでもないように目を細める。
「ま、そうかもね。どちらにしろ、深山丸子よりはいいわよね。」ミヤママルコ。レイちゃんが嘆くように口にした名前に、彼女は目を丸くする。「あ、ずいぶん露骨に反応してくれるわね?でもま、確かに『丸子』はないわよね……子供の頃さ、あたしが何て呼ばれてたかわかる?」
「えっ……」決して会話のテンポについていけなかった訳ではないが、それでもわずかに反応が遅れる。それだけ深く……今の言葉を深慮していたのだろうか。彼女は幾つかの検討を一時停止して、意識を入れ替える。「そうですね。ミヤちゃん……ミッコ……マルちゃん……うーん、何かしら?」
「ちょっとちょっと、マルちゃん、ってのはいくらなんでも古典的すぎない?でもま、その方がよかったかも。」レイちゃんはまた、煙草を吹かす。その美味しそうな仕草に、彼女は軽いデジャブを感じた。「一番長かったのは、小学校高学年の時のだけど……その呼び名ね、中学までそのままだったのよ?まあ、中三から今の事務所に入ったから、そのあだ名もそこまでだったけど。」
「どんな名前だったんですか?そうですね、ミャンマーとか?」それは彼女の思考が生み出した精一杯の駄洒落だった。
「ポーロ。」どこか嫌そうに、レイちゃんは呟く。「名前、マルコでしょ?だから、ポーロ。小学校の授業でマルコ・ポーロの……何だっけ、東洋見聞録?」
「東方見聞録です。あれって、けっこう長いお話なんですよ?」言ってから、目の前の女性のどうでもいいよという表情に彼女は頷く。「でも、少しうらやましいです。私は、そういうのなかったから……」その語呂や由縁はともかく、マルちゃん、とどちらが古典的なのか問い正してみたいと彼女は思った。
「ふーん。あんた、黒峰那々だっけ?本名は?」彼女は驚く。再び、幾つかの思考が中断を余儀なくされた。
「えっ……」思わず声が低くなる。「……本名じゃないって、話しましたか?」そんな記憶はない。というより、そもそもこれほど話し込めるような間柄ではなかった。何かあるのかもしれないと彼女はいくつかの判断基準をスイッチし、警戒モードとでも言うべき状態にする。
「いや、なんとなくそう思っただけ。でも、違わない?あたしも、この業界でそこそこやってきた口だし。芸名かそうでないかなんて、だいたいわかるわ。」シガレットの先端から、灰が床に落ちる。それに気が付いているのか、それとも灰などどうでもいいのか、レイちゃんは首をわずかに傾けた。「最近さ、これが本名ですって言って、珍しい名前で売り込もうとする奴が多いんだから。まあ節操なんて端からないのはこの世界のお約束だからいいけどね。あたしだって、丸子がレイだもんね。ま、もう少し格好いい名前ならよかったけど。」
 彼女は微笑する。「私の本名は……」短い言葉でそれを伝える。あらゆる意味で冒険だったが、どうしてかそれをしたくなったのだ。まあ、どの道それでどうにかなる確率は極めて低いと見越してのことであった。
 案の定、レイちゃんこと富名腰麗……いや、深山丸子はそれを聞いて目を丸くした。「なにそれ?」わかっていた反応だったが、それがまた実に面白い。彼女は心中で舌を出す。「そっちの方がずっとらしくないっていうか……芸名みたいじゃない?」吹き出しそうになるのを彼女は必死に堪えた。「どういう字を書くの?上は二文字?それともあたしみたいに、三文字?」
「三文字ですね。」ひとごとのように言う。「下は……」
「一文字で、しかも普段は片仮名ね?」悟ったように言い、うんうんと頷く。本当は二文字だったのだが、訂正する前に丸子ははしゃいだ。「いいわね!うん、絶対、そっちの方がいいって。ね、プロダクションの社長に言って、本名に戻してもらいなよ。その方が、絶対売れるよ?黒峰なんて、何だかダークっぽい名前じゃない。あんた、明け透けっていうか……純な感じだから、そんなの似合わないって。年、幾つ?二十歳くらい?」
「二十三です。」嘘をついた。もっとも、それは正しい年齢でもある。自分にとっては嘘で、世界にとっては本当とでも言うべきだろうか。「でも私、プロダクションとかに所属してる訳じゃありませんよ?」それにしても、ダークっぽい、とはどういう表現だろうか。黒だから、そのまま闇、暗い、という意味だろうか。「今は、フリーなんです。楽団にも専属してませんし。一応、協会はありますけど……」
「あ、そうか。」富名腰レイは笑う。「ごめん。あんた美人顔だから、モデル仲間みたいな気がして。でも、うーん……モデルでも稼げるよ、きっと?その髪とか、かなりいいもの使ってるでしょ?」
 真の意味での驚きを彼女は感じる。先の本名の一件も含めて、この富名腰という女性に対してのイメージ……というより、主に知性的な評価を大幅に変更しなければならないと彼女は思った。当初はどこにでもいる相手だと思っていたが、さすがにプロというか……自分の生業とする能力的な分野に関わることになると、驚くほど察しがいいようだ。
「驚きました。」素直に答える。「富名腰さんが初めてですよ、それに気付いたの。」厳密には少しばかり違うが、正確にという範疇では正しいだろう。妙な表現だが、彼女はそれに納得した。
 レイちゃんは少し嬉しそうに髪をかきあげる。一つ一つの仕草がとてもセクシーだと彼女は思った。それは、例え瞬きする間に三条根の暗算ができたとしても、決して得られないものだと感じる。「ま、ね。やっぱりさ、あたし達って似た者同士なのよ。まあ、あんたとあたしの間に何人の子がいて、さらにあんたの前に何人の子がいたかは知らないけどさ……」呆れたように肩をすくめ、さらに小声になって富名腰レイは笑った。赤い唇が、特徴的に形を変える。「……ま、晴之も年貢の納め時ってことよね。今日はせいぜい、あたし達過去の女で冷や汗かかせてあげましょ。」
 あらゆる意味で富名腰の言葉は複雑だったが、彼女は努めて頷いた。こちらも口許を、ほんのかすかに緩めてみせる。「でも私は、正式に招待されたわけではないですし……」今の立場はスタッフの一人だった。船側に雇われていると言った方が正しい。
「あたしだってそうよ?」富名腰はさらに小声になった。「あの女好き、いつまでも抱かせてくれない箱入り娘に呆れて、あたしについてこいって大金積んだんだから。ま、ハワイ行きのクルージングなんて悪くないから、受けたけどね。でもさ、それが何よ……?」ひそめられていた声が一オクターブ……いや、二オクターブは大きくなる。「コンピュータだかエンジンだか知らないけど、故障続きの挙げ句、日本に戻るなんてさ?聞いてないって言うのよ!こっちはハワイについてからスケジュール全部パーで……きっと、社長もカンカンよ?」シガレットを落として、ヒールで踏み付ける。その行為は正直誉められたものではないと思ったが、彼女の批判を目の当たりにしてはそれを態度に表すことはできなさそうだった。そう、まさに複雑である。
「保障は船会社の方で全面的にしてくれるそうですから、大丈夫ですよ。保険もありますし。」これまた、ある意味自分がとても無責任なことを言っていると彼女は思う。「私は、こういったハプニングが多い方が緊張感があって好きです。何だか、面白いミステリィを読んでるみたいですよね。」
「ふーん。」呆れたように富名腰はふうっと息を吐く。「あ、ハプニングといえば……頭打ったあんたの彼氏、大丈夫だった?」笑う。「あの時、驚いたんだけど。あたし、ちょっと取り乱してたからさ。あんたにも迷惑かけたし……彼に、悪いって謝っといてくれる?それともあの彼、ここに来てる?」
「うーん、どうでしょうか?私も、そんなに逢ってないんです。忙しくて……」
「時間って、自分で作るもんよ?せっかくのクルーズじゃない。真面目ぶってたって意味ないわよ?」さらに呆れたように富名腰は続けた。「気に入った男は、無理矢理にでも繋ぎ止めとかなきゃ。手を放すと、すぐにふらふらどこか行っちゃうんだから。他の女に目を向ける自由なんて与えず、強引にでも捕まえたまま側に置いとくの。ま、その最後の手段は結婚だろうけど。そういう意味では、今回晴之はうまいことやったわよね。あたしから逃げて、最高の婿入り……って、あ。」指を一本、唇に当てて見せる。
 彼女は笑った。声を出して笑いそうになる。愉快な女性だった。不可思議な、だがはっきりとした好感を覚える。「富名腰さんって、面白い人ですね。」
「ありがと。同性に美人って言われるのは嫌いだから、その言葉は素直に嬉しいわ。」自分が怪訝な顔をしたことを見抜かれたのだろうか、富名腰はほくそ笑むようにして続ける。「ほら、自分と同じ土俵にいる相手を誉めることって、遠まわしに悪口言ってるのと同じでしょ?『美人で売れっ子ね』って言ってるのは、その前とか後に『今のところはね』とか、『宣伝のおかげでね』とか、『うまく立ち回ってるわね』とか……絶対、心の中で付け加えてるんだから。」
「でも、『誉められて腹立つ者はなし』とも言いますよ?」彼女は言ってみる。「人間に必要なのは、忠告でなく同意であるとも言いますし……人を誉める人は、自分も誉められたいんじゃないかしら?例え心にない嘘だったとしても、相手がそれをどう思うかはまた別の問題ですし……」
 富名腰は意外そうに首を捻る。「ふぅん。あんたって、結構インテリっぽいのね。苦労してそうにないなぁ。そういうタイプって、ありがちに現代社会を知らないのよね。」彼女は眉を持ち上げる。「ね、ピアノ弾いてるばっかりじゃなくて、世知辛い社会に出て、何年か暮らしてみるといいよ?そんな台詞、真顔で絶対に吐けなくなるから。」これみよがしに富名腰は偉ぶって見せた。
「私には経験が不足しているのは認めますけど。」何だろうか。今までの感覚がまるで逆方向に転化したような気がする。「インテリって、インテリゲンチャって意味ですよね?ロシア語の……」胸が苦しい。何か、突き上がるような感情が現れていた。「知識階級って意味でしたら、それがどうして人を小馬鹿にする意味なのか理解できません。」思わずそう口走って、その瞬間、彼女は自制を取り戻した。いや、今の今まで神経を飽和していた感情を、その意識下に引き下ろしたと言った方がいいだろうか。「私、別に……知識を豊富に蓄積することは、悪いことではないと思いますけど。」
「別に馬鹿とか、そういうつもりじゃないけど。」富名腰レイはあくまで冷ややかに言う。「でもさ、あんた、今みたいな物の言い方が、そのままインテリの思考じゃない。アレでしょ?礼儀作法とか順序とか、自分のルールに則ってないと何でも我慢できないって奴?彼氏とかでもまずはお茶、次はドライブ、後日改めてレストラン、いよいよ仲睦まじくなってから、ようやくホテル?」
「な……!」何かが再び熱くなる。「そ、そんな低俗な話じゃ……」
「ほらほら、そういう言い方。やだなぁ、それじゃあんた、好きな男と寝てもいないって訳?まさか、晴之ともそうだったの?あたしの裸見て赤くなってたあの初心な彼氏とも、プラトニックな関係って奴?今回の晴之のお相手みたいに、結納交わしても手すら握らせないって訳?ふーん、あたし達みたいな俗人とは、住む世界が違うんだ。あっはは……!」
「ふざけないで下さい!」まさに椅子を蹴って、彼女は立ち上がった。「貴女の言ってることは支離滅裂だわ!自分に都合のいいように言葉を組み合わせてるだけ!それじゃ……!」そこで、はっと口をつぐむ。
 何を、しているのか。
 こんなことをしている場合だろうか。
 すべてが、壊れてしまう。
 こんな些細なことで。些末なことで。
 彼女は、黙した。
 
 


[448]長編連載『M:西海航路 第四十章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時02分 Mail

 
 
 感情を抑制できない、未熟な自分……「ま、いいけど。少し、落ち着きなよ。煙草、吸う?」あくまで平然と富名腰は言う。今以て、まったく動じない……こんな場など、幾度も越えて来たとでも言いたげな様子に、悔しさを覚える。
 だが同時に、彼女は一つの結論に至っていた。
 やはり、思弁なのだ。知識だけを修得して、実践のない人格なのだ。どこまでも、子供なのだ。
 大人のふりが、できない。そうだ。今、目の前の女性は、完璧に大人のふりをしている。それを、こなしている。自分には、それができない。しようとして、失敗する。できると思って、できていない。
 矛盾。そうだ。元はと言えば、どうしてここにいるのか。どうして、こんなことをしているのか。どうして、こうなってしまったのか。
 彼女は、目を閉じた。
 子供だから、大人になろうとする。
 大人でないから、子供のまま生き続けてしまう。
 どちらが、自分なのか。
 どちらが、本物なのか。
 わからない。
 答えが欲しかった。
 それだけがあれば、よかったのかもしれない。
 こんなことをする必要も、なかったのかもしれない。
 教えて欲しかった。
 たとえ、教えてくれないとわかっていても。
 それを、教えてくれる人が、欲しかった。
 矛盾が、苦しいから。
 それを受け止めて生きているのが、辛いから。
 答えが出ない計算式が、許せないから。
 そうだ。誰もが、答えを知らないのならいい。
 誰一人、知らなければいい。
 それなら、それでよかった。
 なぜなら、皆、同じだから。
 自分と、同じだから。違っているけど、それだけが、同じだから。それならば、それでよかった。
 でも、違う。絶対に、違う。
 彼女は、それを知っていた。知ってしまっていた。
 答えを知っている存在が、いる。
 そうだ。だから……
「先生……」
 涙が零れる。どうしてだろう。泣きたくなんてないのに。悲しくなんてないのに。
 ただ、悔しいだけだった。あの日から、ずっと、それだけだった。
 潤んだ瞳を開いた彼女の視界を、誰かが過る。
 それは、違った。だが、そのままだった。あの日のまま、そこにいた。
 彼女は、涙を拭う。手を振った。ここがどこかなど、相手が誰であるかも、気にしない。
「先生、こっちこっち!」白い手を振って、彼女は叫んだ。衆目が集い、そして、彼女が呼びかけた相手が気付く。地味な服装だった。着飾ればいいのに、と思う。心底から、そう思う。
「あら、お友達?」富名腰レイは、まだそこにいた。どこか含みのある表情で、微笑する。「ふーん……じゃ、私はそろそろ行くね。」ばつの悪さを気にしたのだろうか。わからないが、もうどうでもよかった。
 挨拶を済ませて去った富名腰と入れ違いに、その人物がピアノの横にたどりつく。彼女はゆっくりと相手の格好を観察した。もう、涙はない。「こんにちは、先生。」にべもなく、相手が赤くなる。
「先生、ってのはやめて欲しいな。」先生、は言う。「ね、わざとやってるね?」
「じゃあ、ドクター。間違ってないでしょ?」楽しそうに彼女は笑った。いや、本当に楽しいのだ。そう思い込む。まさに、それもある意味で間違いではなかった。
「それは、そうかもしれないけど……」ドクター、は照れているようだった。彼女は昔を思い出す。何かが違う、と思った。「ね、普通に名前でいいんじゃないの?」違っているが、同じだ。
「名前でいいの?」彼女は、真剣な顔で尋ねた。「私の名前、呼んでくれる?」
 一瞬、二人の間に沈黙が訪れた。
「ええ、そうね……富名腰、さん。」ドクターは、口許を緩めてそう言う。
 辛そうだった。
 彼女は、笑った。「何でしょうか、悴山、さん?」
 二人は、再び黙した。
 長いようでいて、ほんのわずかな間。
 距離と、方向。
 二人は、見つめあった。
 先に動いたのは、悴山と呼ばれた女性の方だった「ピアノが弾けるなんて、知らなかった。」短髪を軽く散らして、笑う。
 富名腰と呼ばれた彼女は、長髪を軽くかきあげてみせると、笑い返した。「弾けないわ。習ったことないもの。」悠然とピアノの前に腰掛けて、白い両手を膝の前で揃えてみせる。努力して、澄まし顔を保った。
 二人は、再び見つめあう。
 そして、プッと吹き出した。
 ころころと、笑う。強かに、笑い合う。
 二人の女性の笑い声に、大広間の客が何事かとこちらを振り向くほどのにぎやかさだった。
 だが、二人は気にしなかった。気にするはずもなかった。
 ただ、二人で、笑いあう。おかしそうに、楽しそうに、ずっと。
 それだけでよかった。それだけで、満ちていた。
 これまでも、ずっとそうで、
 今も、それは、変わっていない。
 それだけが、等しかった。
 そして、笑いが終わる。苦しそうに、おかしそうに、二人はまた、黙した。
「ごめんなさい。」彼女は言う。「私、そろそろ行かないと。」また、笑った。「もう一度、話せてよかった。」
 彼女は頷く。「うん。私も話しができて嬉しかった。」笑う。笑わなければならなかった。「それじゃ……」軽く手を上げて、彼女は頷く。
「さよなら。」
 彼女は、去った。
 残された彼女は、ただ、その場で黙した。
 呼び止めたかった。いや、違う。金切り声で、叫びたかった。
 だが、できない。したくないわけではない。心の底から、それがしたかった。
 でも、できない。してはいけない。したいのに、できない。
 わけが、わからない。
 泣きそうな顔で彼女を見送ると、彼女は元の表情に戻った。再び、ピアノに向かう。ゆっくりと、鍵盤に触れた。たちまち、音色が響き始める。本当に、見事な調べだった。
 やがて、放送が入る。広間の反対方向、壇上の司会者が何やら告知を始めていた。
 式が、始まるのだ。彼女は時間を確認する。正午をほんの一分、過ぎていた。
 焦る。無駄な時間を浪費したと思う。だが、何かすべきことがある訳ではない。そうだ、既に準備は完了している。何もかも、終わっていた。できることはもうない。後は、実際にそれが行われるだけだ。確認するだけだ。仕掛けは完璧だった。あらゆる面で一分の隙もない。すべては、彼女の望みのままに進むはずだ。それは、それだけは、間違いない。
 絶対に。
 司会の言葉が進む。音楽が鳴り始める。彼女は息を詰めた。動悸が激しくなるのを感じ、そしてそれとは逆に、意識がみるみる冷たくなっていくのを感じる。何をしているのだろう、何をしてしまったのか。冷たい何かが、心に降りてくる。一つ一つが、重い石のように伸しかかってくる。それは、信じられないほどの重圧となって彼女自身を苛んだ。涙が出そうだった。
 だが。
 振り払う。それを、力一杯に払い除ける。心中にある、怒りのままに。誇り、あるいはプライドだろうか。何でもいい。その、彼女の意識の最も深層部に沈殿する感覚が、それを一喝するように叫ぶ。すべてを、否定する。
 そうだ。
 許さない。許せない。
 だから、生かしてはおけない。
 あいつを……
 あの女を……!
「皆様、盛大な拍手を……」いつから聞こえていたのだろう。いや、すべてを把握していたはずだ。挙式は今、滞りなく進んでいる。司会の若い男が、白い髭も豊かな、この船で最も高い地位にある男性を紹介している。重々しく責任感のある声で、大きな手を振って、スピーチを重ねていたのだ。「……新郎新婦の入場です!」
 照明が消えた。窓のブラインドが一斉に降りる。間違いなくコンピュータ制御で行われたそれは、まさに整然としていた。隣の楽団が、ファンファーレを鳴り響かせる。その轟音に彼女は身震いした。
 きらめくカクテルライトが部屋に走る。七色のそれが一つに集まり、金色の筋となって、ステージから対角線上にある……彼女の目と鼻の先にある、一枚の扉に注ぎ込まれる。
 小さな扉だった。だが、それはライトの光を受けて、まばゆい輝きを放っていた。神々しく、黄金色に。
 黄色の扉。彼女は呆然とそれを見る。
 違う。
 そして、正しい。
 開けられるべきは、ライトが注がれるべきは、この扉ではない。そのはずだった。
 だが、それを認識してなお、彼女は戦慄に身を強ばらせていた。
 金色の扉。
 黄色い、ドア。
 そして、それが、
 始まった。
 始まっていた。
 明滅する、照明。
 そして、耳ざわりなノイズ。
 ざわめきが走る。
 大広間の、百人を越す招待客から。
 かすかに、悲鳴すら上がった。
 司会者が、何か意味のない言葉を口にする。
 もう一人、誰かが叫ぶ。鋭く重々しい声を、彼女は聞いた。
 そして、声が答える。誰かではない、何かの声。
「予期しないエラーです。」
 すべてが、凍りつく。
 魂が、引き裂かれるような感覚。
 ただの比喩だった。
 だが、表しようがなかった。
 再び、それを目にしても。
 身体は、動かない。どうしても、動かない。
 ドアが開く。闇に包まれた部屋。備えられたライトのすべてが注がれた、黄色いドアが開く。
 そして、それが、
 現れた。
 いや、既にいたのだ。
 ドアの向こうに、いたのだ。
 それが、ただ見えただけ。
 ちらつく照明。
 耳に不快な、ホワイトノイズ。
 その中に、それが、現出した。
 違う。
 それだけを、彼女は知る。
 それは同じで、そして、違う。
 正しいは、正しくない。
 そうだ、一人ではない。
 ひとりではない。
 それは、ふたりだった。
 孤独、ではない。
 孤独で、いたくない。
 だから、帰結するべき位置。
 目指した、場所。
 たどりついた、末尾だった。
 それは、矛盾している。
 だが、現実だった。
 二つのシルエット。
 黒いタキシード。
 白いウエディングドレス。
 あまりにも、整然と。
 それらは、並んでいた。
 人形のように。
 張り子のように。
 二人が、並んでいた。
 ドアの向こうに、扉の向こうに。
 そして、動き出す。
 手を取り合って、広間に入ってくる?
 違う。
 入場したのは、新婦だった。
 新郎は、いない。
 いたはずなのに?
 白い、ウェディングドレス。
 それが、揺れた。
 そして、扉を潜る。
 あまりにも、滑らかに。
 誰に、腕を取られることもなく。父親すら、同席しないまま。
 彼女は、再び、その姿を見せた。
 再会。
 まばらに、拍手が上がった。
 狂っている、と思う。
 これを見て、正気でいられるのか。
 これが、演出だと思っているのか。
 それは、正しくもあり、正しくなかった。
 何という皮肉だろう。
 彼女は、打ちのめされる。
 トレースと、リプレイ。
 だが、それでも、
 身体だけは、反応する。
 心を、置き去りにして。
 意識を離れて、肉体だけが動く。
 意識など、ないのだと言いたいように。
 物言わぬ身体が、主張するように。
 彼女は、叫んだ。
「死んでいるのよ!」
 絶叫だった。
 切り落とされた、何か。
 一本の糸。
 細く紡がれていた、何か。
 それが、今、断ち切られた。
 だが。
 そうだ。
 彼女は、気付く。
 これは、終わりではない。
 これが、始まりなのだ。
 自分だけが、理解できる。
 自分だけが、それを知っている。
 ならば、だからこそ、
 二度と、ごめんだ。
 繰り返すのは、嫌だ。
 そうだ。そのために、すべてを準備した。何もかも、犠牲にした。
 それでも、だけど、もう二度と……
 負けるのは、嫌だ。
 彼女は、睨みつける。
 黄色い、ドア。
 既にそれは、黄色くない。
 照明は、広間に滑り込む新婦の姿を追っていた。
 選択の時が訪れる。
 それは、瞬間で、
 そして、無限だった。
 過去と未来。
 その狭間に、自分が生きていると感じる。
 昨日までの、今までの自分は、もういない。
 そして、あの先にも、それがあるとは思えない。
 それでも、彼女は、ドアに走る。
 それは、怒りだったのか。
 それとも、悲しみだったのか。
 精一杯の、抵抗だったのか。
 アーチに、飛び込む。
 逃がしはしない。
 決して、行かせはしない。
 唯一にして、最大のチャンス。
 それに成功して、彼女は勝ち誇る。
 勝った。すべてが、終わりを迎えた。
 これでもう、逃げられない。
 勝った。
 高笑いが漏れた。
 悲鳴をあげたはずの唇が、笑いを吐き出す。
 その背後で、冷たい音がした。
 彼女は、振り返る。
 ドアが、閉ざされた。
 闇。
 彼女にとって、未知の世界。
 再び、訪れた場所。
 矛盾の中に、答えはない。
 わからない。
 恐怖。
 恐慌。
 悲鳴をあげる。
 名を呼んだ。
 彼の名を。あの人の名を。
 だが、答えは返らない。
 ここに、いないからだ。
 そうだ、誰もいない。
 私一人しか、ここにいない。
 ひとり。
 真の孤独。
 それは、初めての恐怖だった。
 知らない、こと。
 未知である、こと。
 全身が震える。膝が屈する。冷たい床だった。
 閉ざされた。すべてが、閉ざされてしまった。
 もう、何も、わからない。
 だとしたら……
 私はこれから、どうすればいい?
「同じことを、彼女が言ったよ。」
 声が、聞こえた。
「俺は、それに答えた。今も、あの日の答えが間違いだとは、思っていない。」
 声が、聞こえる。
「でも、正しくもなかった。だって、俺自身がわからないことだったから。」
 彼女は、顔を上げる。
「だから、自分で決めるべきだと思った。この世界に、正しいことなんて一つもない。信じられることなんて、何もない。だから、自分で決めなければならない。正しいことを、信じることを……」  
 そこに、彼が、いた。
 怒りだろうか。それとも、悲しみだろうか。
 二つの瞳が、揺るぎない光が、彼女を見つめていた。
「だから、今俺がしたことも、正しいかどうかはわからない。きっと、正しくもあり、間違っているんだろうとも思う。だけど俺は、信じることができる。正しいと思うことができる。間違っていると思うことだってできる。それは、すべて自由だ。一人一人が、決めることができる、その人にとっての、最高の自由だ。だから、俺は、ここにいる。」
 憐憫でもない。冷淡ですらない。
 優しく、静かに、桐生渉は彼女を捉えていた。
「西之園萌絵さん。」告げられる、名前。「君が、すべてを仕組んだんだね……?」
 彼女は、起き上がる。身を支える。その緩慢な動作は、憔悴だろうか。
 腕を回した。そのまま、重く、邪魔でしかないものをかなぐり捨てる。
 笑った。微笑ではない。ほほえみでもない。ただ、笑った。
 力なく、彼女は、笑った。
 彼も、笑ってくれる。
 そう思った。そう信じた。
 駄目じゃないか、と笑ってくれる。
 仕方ないな、と笑ってくれる。
 そうだ。
 笑って欲しいから、私も笑う。
 今も、そうだ。ずっと、そうだ。
 でも、本当にそうなのだろうか。絶対に、そうなのだろうか。
 わからない。
 だから、笑った。
 そして……
 桐生渉の手のひらが、西之園萌絵の頬を叩いた。
 
 
 


[449]長編連載『M:西海航路 第四十一章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時03分 Mail

 
 
   第四十一章 Moe

   「そっか、貴女もここに来ていたのよね」

 
 乾いた音、だった。
 人と、人が触れ合ったというのに。
 そこには、ぬくもりなどなかった。
 立ち尽くす、二人。
 そう、一人ではない。ひとりでは、なかった。
 頬を押さえることも忘れて、瞳孔を拡大させる、彼女。
 打ち払った手もそのままに、目を閉じる、彼。
 周囲は闇。漆黒であったそれの中に、二人の姿がほのかに浮き出でる。
 そこは、ただの通路だった。照明を落とした、無人の船内通路。
 だが、二人の知覚は周囲に向けられてはいなかった。
 ただ痛みだけが、二人を支配する。
 それぞれの、真実。
 言葉はなく……
 互いの視線だけが、導かれていく。
 桐生渉。
 西之園萌絵。
 たった、数日のことだった。
 それまでも、日々会っていたわけではない。
 だが、二人にとって、これまでのどんな時よりも遥かな間を置いての再会だった。
 そうだ。どれだけの距離が開いてしまったのだろう。いや、空けてしまったのだろう。
 隔てられてしまった。どこまでも冷ややかな、切り裂くような感覚が、その場を支配する。
 その中で、彼はゆっくりと手を下ろす。肩を落とす。そして、深く息を吐いた。
 だが、口を開いたのは彼ではなかった。
「あの子が……」それは、彼女。「あの子が……喋ったんですね。」西之園萌絵が、打ちひしがれたように言う。自分の態度が許せない、やるせないという様相が、複雑にその表情に現れていた。
 桐生渉は、それを正面から見据える。一瞬、萌絵の瞳が震えて脇に逸れかけた。それは、動揺と共にかすかに右に左にと変化すると……きっと、渉を見返した。
 それは、強かな瞳。決意と、そして、ある意志を秘めたそれ。
 渉は、それを静かに見つめる。「彼女は……君のことを心配していた。」呟くように、告げる。「それが、俺がここにたどりつけた理由だよ。」
「あの新婦は?」萌絵が低い声で尋ねる。「まさか、あの子が死んでくれるって言ったの?ウエディングドレスを着て?」何かを、罵るように。
「あれは、人形さ。」渉は、初めて笑った。「ブティックのマネキンに、衣装を着せただけのものだよ。かつらとか、それらくしているけどね。誰でも、一目見ただけで偽物だってわかる程度の……ちゃちな人形さ。」
「嘘よ!」西之園萌絵は叫ぶ。「そんなことに、気が付かないはず……!」そこで、彼女はハッと口をつぐんだ。
 それは、沈黙。気付いた者の証しとも言うべき、静寂の時間だった。
「そうだよ。あれは、他の客を驚かす……いや、騙すためにしたことじゃない。ライトも、ノイズも、アナウンスも……全部、君のためにしたことだ。君一人のために、準備したことだよ。」
「私を引っ掛けるためですか!?」萌絵の声には様々な感情が入り混じっていた。「桐生さん、どうかしてます!ああ、信じられない!そんなことのために、何もかも目茶苦茶にして……どうして?どうしてこんなことをしたんですか!」信じ難いという目。愚かな相手を憐れむような瞳。
「そんなこと、か……」渉は、首を振った。「それは、俺が聞きたいことだよ。」静かな声が、萌絵の激情を制する。「規模の大小で言うなら、俺なんかより君の方が、遥かにどうかしてる。どうして、こんなことを考えたんだ?どうして、俺を選んだ?こうまでして、君は……何が、したかったんだ?」
 萌絵の瞳が再び見開かれた。わなわなと両眼が揺れ、こめかみが震える。渉は、今にもこの女性が怒りに任せて飛びかかってくるのではないかと思った。「そんなこと、桐生さんには関係ありません!」拳が白いほど握られていた。「貴方なんかに説明しても、わかる訳ないわ!」
「犀川先生のためかい?」萌絵が絶句する。「それとも、自分自身のため?いや、違うな……正しくは、犀川先生と君、二人の自由のためだね?」
「違うわ!」萌絵は悲鳴をあげた。「違う、違う……何を言っているんです!何も知らないくせに……知った風な口をきかないで下さい!」取り乱す。これ以上はないほどに。「そんな台詞を、よく吐けますね!桐生さんに、私と先生の……何がわかるって言うんですか!」
「わからないよ、何も。」渉はただ、静かに答える。「でも、俺は……不思議だけど、この船に乗ったおかげで、そういった意識の繋がりみたいな存在が、わかってきたような気がするんだ。」彼女は、怒りに満ちながら……それでも、瞳を潤ませていた。「君の、犀川先生に対する感情。犀川先生の、四季博士に対する感情……過去と現在から導かれた、未来を見定める意識……」萌絵の瞳が、大きく揺れる。「今は、そういったものの移り変わりが、なんとなくだけど……把握できる気がする。」
「ふーん、凄いんですね。桐生さん、哲学科でも選考すればよかったんじゃないですか?」萌絵はぐいと目尻をこすった。自分がそうしたことが腹立たしいかのように、再び渉を睨み付ける。「私には、全然理解できません。そんなの、普通じゃないわ。おかしいんです。みんな、狂ってるわ。どうかしてる……桐生さんを含めて、誰も彼もが常軌を逸してるんです!」
「みんながおかしいなら、それは普通なことだよ、きっと。」渉はうそぶいた。「みんなが異常な世界では、正常な人間が異常になる。見知らぬ人を殺すことは異常だね?でも、戦争で戦場に送り出された兵士にとっては、それが当り前のことになる。逆に目の前にいる相手を……自分を殺そうとしている敵の兵士を殺さないことは、異常だと思われる。上手い言い方がどうかはわからないけど、物事の表裏なんてそんなものさ。ただその場の時事や事象の尺度と、漠然としたいいかげんな定義……道徳みたいな基準だけで、俺達は常軌なんて言葉を口にしてるんだよ。」
「それも、犀川先生の言ったことですか?」萌絵は怒鳴った。「桐生さんは、いつもそうよ!先生から聞いたことを、私に……偉そうに!」吐き捨てるような彼女の態度に、渉は無言で応対する。「いいですね!うらやましいわ!私は、先生からそんなこと、一つも教えてもらってません!私は、何も知りません!先生は、何も教えてくれないもの!私より桐生さんの方が、ずっと先生に好かれてるんじゃないんですか?私の方が、ずっと昔から先生と話をしてるのに!私の方が、ずっと先生といっしょにいるのに!私の方が、ずっと先生を……」どこか子供じみた響きを宿して、萌絵の叫びが通路にこだました。
「近すぎるほど、言いにくいことってあるんじゃないかな。」憤激する萌絵に、渉はあくまで静かに言葉を続ける。「俺は結局、ただのN大生……犀川研の学生の一人さ。先生にとっては四年……大学院に進まなければ、それだけのつきあいで終わる相手でしかない。でも、逆にそれだけしか会えないから、先生は言いたいことは言い、俺が理解できるかどうかわからないことまで、喋ってくれるんじゃないかな?」肩を、すくめる。「犀川先生と話すと、ちんぷんかんぷんなことが多いけどね。その中で時々、ほんの一つ二つ、理解できたような気になることがある。そうすると、教わった、自分が一つ学んだって気になるよ。でもそれはきっと、先生の方は本気で教えようとして言ってくれてるんじゃない。俺を含めた大多数の人間にそれを聞かせて、それに対する個々の反応で……それが『訳がわからない』という対応だとしても……きっと、先生は統計のようにそれらの結果を予測と見比べて、検証しているんだと思う。先生にとっては、講義も研究の一環で、実験の場じゃないのかな。」
「それって、どれを聞いてもただの雑談にしか思えない私は馬鹿ってことですか?」萌絵はせせら笑う。「先生の意味のない馬鹿みたいなジョークの中にも、大宇宙の真理とかが隠されてるんですか?それに気付けない私は、駄目なんですか?ふーん、桐生さんってやっぱり凄いんですね?」
「違うよ。だって俺達ゼミの学生は、先生と雑談なんてしないからね。」驚いたように萌絵が渉を見る。「いや、勿論全然ってわけじゃないけど、そんな機会は滅多にないよ。せいぜいコーヒーを入れてる時やコンパの時くらいさ。でもそんな時も先生は、話しながら何かを考えてるね。だからこっちの話はうわの空で、投げやりなことを言ったりする。」渉は笑った。「でもきっと、西之園さんと一緒の時はそうじゃないと思う。本当に、心からリラックスして……雑談に、集中してるんじゃないかな。」食い入るような視線で、萌絵は渉を見ていた。「講義の話もそうだけど、君と俺達ただの学生とじゃ、先生にとっての扱いが……時間の尺度が違うんじゃないかなって思うよ。」
「時間の……尺度?」
「ああ。俺達はようするに、先生にとって時間の流れが早い……博士課程を含めて十年としても、最大でもそれだけしか面倒を見ない、見ることのできない相手なんだよ。親鳥にとっての、雛鳥みたいなものさ。だいたい四年か、六年……まあ、時には俺みたいな例外もいるだろうけど、皆が皆それだけでいなくなることが決められてる相手だ。巣立ちというか、卒業してしまうからね。」渉は口許を緩める。「勿論、俺達にとってもそれは同じだ。だから、先生は俺達にできるかどうか、理解が及ぶかどうかを気にしないで……まあ、先生なりに判別しているとは思うけどね……話を、授業をしてくれる。だけど、西之園さんに対する時には、それとは違うんじゃないかな?俺達と先生の間に流れてる時間の尺度は明らかに違う。でも、先生は君とだけは、時間が長い……いや、同じだと思っているのかもしれないね。」
「時間が……同じ……?」萌絵は怪訝に彼を見つめる。
「ああ。今、西之園さんは言ったじゃないか。自分の方が、ずっと昔から先生を知ってるって。西之園さんのお父さん……元N大総長の件もあるし、きっとそうなんだろうとは思うよ。それに、こんな言い方はどうだけど……君自身がおそらくそうであるように、先生にとっても、西之園さんは特別な存在なんだと思う。」萌絵が、目を瞬かせた。「家族や、兄弟みたいな……いや、もっといい言い方があるかもしれないけど、間違いなく、先生にとって俺達と君とは違うと思うよ。だから、俺達学生連中に対して一方的に喋り続けて、個々の理解力の促進とかを托すんじゃなくて、君にはもっと、きちんと、一つ一つ考えて話をしてるんじゃないかな。雑談みたいなことは、別としてね。」渉は肩をすくめて見せると、微笑した。ふと、去年の夏が思い出される。両親の飛行機事故についての萌絵の告白と、犀川の態度。計らずもそれを聞いた、渉だった。
 その萌絵は渉をじっと見つめ、そして、目を逸らした。「でも、例え桐生さんの言うように、私が多少は先生に近しい存在でも……ううん、万が一、先生が私のことをそう思ってくれていたとしても……」萌絵は、呟く。「それでも、あの人にはかなわない。かないっこない……」寂しげな笑いが、萌絵の顔に浮かんでいた。「絶対に、かなわないのよ……」それは、果敢なげな表情だった。
 絶対。
 その言葉が、渉にこだまする。
 どれほど、微小で、
 どれほど、無限だろう。
 どこを向いても、見えず、
 どこへ叫んでも、聞こえない。
 それが、真実だった。
『犯人は……孤独、でした……』
 残響が、彼の胸中を満たす。
 それは、どこまでも冷徹に。
 どこまでも、はっきりと。
『残酷な事実だが……我々は、それによって受ける精神的苦痛は忘れ、ただこれらの概念を受け入れなくてはならない。』
 言葉が、甦る。
 渉は、深く息を吐く。
 共感ではない。そんな偽善が、抱けるはずがない。
 理解できない。他人には、決してわからない。
 彼はただ、目を閉じて黙した。
「だから……でも……」唇から、詞が、漏れる。「君は、そんなことのために……」
「そんなこと……?」怒気を、宿して。「そんなことなんかじゃ……ありません!」
 それは、リフレイン。
 あまりにも見事な、反復だった。
 少女は、泣いていた。怒りながら、泣いていた。
 渉は、それを知る。
 無理もないこと。仕方のないこと。
 いや、偽善はよそう。取り繕うのはよそう。
 それらは結局、偽りだ。ただの戯れ言だ。
 それが、できたから……
 行えるから、行っただけなのだ。
 思い、行動した。
 なぜなら、生きているから。
 自分が、死んでいないから。
 何という……単純さだろうか。
 
 


[450]長編連載『M:西海航路 第四十一章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時03分 Mail

 
 
「わかった……」渉は、もう一度息を散らす。「……なら、俺が考えたことを、言うよ。推理なんてものじゃない……気が付いて、そうかもしれないって思ったことだ。」萌絵は、笑わなかった。「その代わり、西之園さんも教えて欲しい。君のプランが、どこで……どうして、こうなったのか。」
「桐生さん……」萌絵が何か言いかけたが、渉は構わず話し始めた。
「この航海が、始めからそのために用意されていたとは思えない。」萌絵の顔を見る。「おそらく西之園さんは、親友の……九条院瑞樹さんが結婚するという話を聞いた後に、それを思いついたんだと思う。ううん、もしかしたら……君は、帰国した九条院瑞樹さんの姿なりを見て、すべてに気が付いたんじゃないか?」萌絵から視線を外すことなく、渉は続ける。「とにかく君は、何かのきっかけでそれに……その事実に気付いた。それは、旧友だった彼女……九条院瑞樹さんが、別人にすり変わっているということだ。」渉は、微笑にも似た寂しげな笑いを浮かべる。「それは、信じ難いほど完璧な変身だった。元々、二人の容姿が似ていたことがあるのかもしれないし、家を出て海外留学していた何年もの間、彼女の姿を……成長による変貌の過程を、誰も知らなかったからかもしれない。だけど、何よりも彼女自身が語る彼女の過去が、その性格が……誰にも、彼女の周囲の何ぴとにも、彼女の正体を疑わせなかった。九条院家の一人娘として帰国した少女が、本人……つまり、本当の瑞樹ではないなんてことは。」渉は、萌絵を見つめる。その表情は、読めなかった。「でも、それは、君にだけは違った。勿論、俺にも……いや、犀川先生や、あの事件を体験した人なら、それは可能だったかもしれない。だけど、その中でも俺と君……俺達だけには、それを見破ることが可能だったんだと思う。いや、俺を別としても、西之園さんは……君だけは、例外だった。だって、君は、二人の少女を……双方の女性を知っている、唯一の存在だったから。」
「私だって、最初は……気が付きませんでした。」萌絵は、虚しそうに言う。「思ってもみない……思うわけ、ない……」笑う。力なく。「偶然、だったんです。あの日、桐生さんと大学で出会って……マンションをお貸しした日です。あの日まで、私、ただ浮かれてた。帰ってきた瑞樹の話なんて、ほとんど気にしてなかったんです。私は、ただ……犀川先生と、二人で……」
「やっぱり、そうだったんだね。」渉はあくまで落ち着いて言う。「元々、西之園さんは俺なんかを誘う気なんて毛頭なかった。最初から、先生と二人で友達の結婚式に……この、一週間のブライダル・クルーズに参加するつもりだったんだ。」萌絵は、少しの間を置いて、小さな仕草でそれに同意した。「でも、あの日……西之園さんは、それに気付いたんだね?どうやって?だから、俺を待ち伏せていたの?」
「違います。」萌絵は言う。「あれは、偶然だったんです……本当に、ただの偶然……」萌絵は、そう繰り返す自分が情けないかのように短髪を散らせた。「私が、犀川先生にクルージングの話を同意させて、飛び上がりたいほど喜んでいた日です……桐生さんと出会って、気分が良かったから、二人で食事に行きましたね?」
 渉は頷く。「それじゃ、あの時に……もう、この計画を考えていたわけじゃないんだね?」
「それは、半分だけ間違いで……半分、正解です。」萌絵は力なく笑う。「私、桐生さんと話をしてて……ほら、男子寮の火事の話をしたじゃないですか。」渉は思い出す。「あれを聞いた時に、思ったんです。自分の部屋から火が出て、不始末だって思われてしまった一年生の人……火をつけた誰かに、利用されたかもしれない人が、いるって。それで私、去年のことを思い出しました。去年の、妃真加島のこと。利用されていた……ううん、事件を起こした人と、起こさせた人のこと。」西之園萌絵の表情は、どこか悲壮なそれだった。「人形が、した。それを、見ていた……あの人の言葉を、思い出しました。だから、私、思ったの。今、何をしているんだろうって。今の自分は、何を見ているんだろうって。」そこで、また、笑う。「あの日のこと、あの夏のこと、忘れたことはないわ。でも、その日の私は、確かに後先考えず浮かれていた。馬鹿みたいにはしゃいでいた。数年振りに幼馴染みと再会できる。何よりも彼女の結婚式に、犀川先生と出かけて……誰にも邪魔されず、一週間も先生と二人きりで過ごせる。瑞樹に手紙で航海の話を知らされた時から、それをどう為し遂げるか、先生をどう誘うか……そればかり、考えていたんです。回りから見たら、きっとそれ以外のことは何も見えてなかったんだと思います。だから……あの日、桐生さんとの会話でふと思ったから、すぐに、レストランから電話をかけたの。諏訪野に言って、この航海のことを……船会社とかのことを調べさせたんです。そうしたら……」
 渉は眉根を寄せる。「何か、わかったの?船会社って……あの、MSIとかいう?」
 萌絵は、かすかに首を振る。「桐生さんは御存じないかもしれませんね。」微笑した。「マイクロステート・インダストリー……MSIは、主に工業用マイクロチップのプログラム開発を扱ってきた、コンピュータ・エンジニアリング・カンパニーです。日本では無名ですし、アメリカでも中の上、としか認知されていいない中堅企業です。社員も、それほど多くありません。」萌絵は再び、だが今度ははっきりと首を振る。「でも、それはあくまで一般としての……いわば、大衆として存在する世俗の人々に対する知名度です。実際は、違っていた。」渉は、何かを感じる。「それは、決して表立ってのことではありません。MSIは、過去十年……いや、十五年以上前から今の地位にあって、それを微動だにしていない。それは流動の激しいコンピュータ関連の企業として、不可思議なことです。でも、それには理由があったの。ほとんどの人が知らない、理由が……」
「十五年……理由……」
 萌絵は、渉の反応を予測していたように頷き返した。「それは、MSIが、MRIと繋がる企業だったから。」渉は目を瞬かせる。「二つの組織は研究と開発、そして資金繰りにおいて、密接に関りあっていたんです。それは、互いの総責任者を含めた何人かの限られたメンバー以外、決して知らない秘密だった。私がそれを知ることができたのも、叔父様に頼んで捜査書類を読ませてもらったから……日本の警察や政府でも、ほんの一部しか知らない特別な秘密なんです。」
 西之園萌絵の叔父は、愛知県警の本部長である。渉は去年の夏に会った壮健な男性を思い出す。だが……「MRI……?」怪訝な顔をする渉に、萌絵が笑った。
「似ていますよね。共に、頭文字はM。桐生さん、『M』って言ったら、何を……誰のことを思い出しますか?」乾いた、半泣きのような笑いだった。
 渉は、息を呑む。
 そうだ、それは……「真賀田……」渉は、唇をかすかに震わせる。「真賀田……研究所……?」白い、コンクリートで固められた無機質な建物を思い出す。
 萌絵は頷いた。「そうです。『Magata Research Institute』……真賀田研究所。資本、人材提供、技術提携、販売、法的権利……真賀田研究所、MRIで開発されたコンピュータ・プログラムの多くに、MSIは関わっています。傍目から見れば、MSIはMRIの依頼主の一つで、いいお得意様。でもその実は、本当は……違ったんです。」
「違う……」渉は黙し、萌絵は頷いた。
「MSIは、MRI……真賀田研究所をモニター……つまりは監視、統轄、管理するための組織だったんです。あの研究所のシステムを管理し、そこから得られる膨大な、天文学的な利益……それを独占するために存在していた、いわば監査組織がMSIです。無論、企業や研究所としての活動はそれぞれ別個に、各々のクライアントと個別に行われていた。でも、最も大切な部分……心臓部とも言える部署とそれに関わるほとんどのデータの統轄は、すべてこの二社ぐるみで……いえ、MSIの管理の下で行われていたのです。その部位の産み出す一つの利益は、他の部署のそれを、例え一年分すべての功績を合わせても届くに至らないほど大きなものだった。それが何か、それが何故か、桐生さんにはわかりますか?」
 渉は、呆然としていた。「真賀田……」声が、出ない。「四季博士……?」
「そうです。」萌絵が頷く。「でも、それは、違います。桐生さんにはわかるはずです。だって、桐生さんがそれに気付いたんじゃないですか。私でも、犀川先生でもない……桐生さんだけが、それを、見抜いたんでしょう?」どこか、悲痛に。「あの人が誰か、本当は何者か、気が付いたのは、桐生さんじゃないんですか?」
 渉は、理解する。
 そうだ。
 違う。
 真賀田……「四季、博士と……」渉は、身震いする。「未来さん……?」
 萌絵は、頷く。「アメリカにいた真賀田未来さんについては、ほとんどの記録が残っていません。でも、手に入ったいくつかの資料から……彼女が、真賀田未来を名乗っていた女性が、MSIの支社……それに関わりのある、小さな事務所に務めていたとわかりました。それがいつからだったのか、いつまでだったのか、はっきりとはわかりませんが……でも、それだけで十分ではないですか?桐生さんは、これを聞いて、どう思いますか?」
 閉じ込められた女性。自由だった女性。
 ひたすらに孤独だった、姉。最高の自由を、望んだ存在。
 そして、その意のままに、己のすべてを……命すらも捧げた存在。
 真賀田四季と、真賀田未来。
 MSIと、MRI。
 二つの、M。
 渉は、凍りつくような風を感じる。
「勿論、昨年の真賀田研究所の事件があった後、MRIの閉鎖に伴って……」それは、渉の知らないことだった。「MSIも、その規模を大幅に縮小、転換しました。上層部の役員のほぼすべてが何らかの理由で辞任、あるいは解任され、多くの事務所や支社が閉鎖、社員も解雇されました。それは日本の……さらには国際刑事警察機構等の組織の秘密裏の捜査に対しての、MSI側の証拠隠蔽……防御的な行動だったのでしょう。」萌絵は、暗闇の中で目を細める。「結果、MSIはその後は経営方針を転換し、娯楽施設の開発……テーマパークや大規模なオンライン・ゲームソフト等の開発に乗り出しました。そして、今年になって会社の一大プロジェクトとして……」萌絵は、両手を掲げてみせた。「この、海の貴婦人号の計画を発表したのです。」
 M.M.号。 
 渉の胸を、衝撃が走る。
 それは、それでは、それならば……
 目の前の、一人の少女。
 両親を事故で失った、富豪の娘。
 そして、渉と共に『少女』と出会い……
 何よりも、真賀田未来と最後に言葉を交わした『他人』。
 そうだ、それは、真賀田四季ではない。
「この客船のネットワークシステムの構想と設計に、MSIの存在を知った時……私は、気付きました。この船の名前が持つ意味と、瑞樹が不意に戻って来た理由と、私が何をしているかに。」萌絵は、薄ら寒い表情で顔を上げる。「ううん、違うわ。私は気付いたんです。私が、人形であることに。」
「人形……」
「私、すっかり操られていたんです。自分でも気付かない内に、誰かの手によって、操り人形みたいに動かされていたの。本当に、あの日……偶然、大学の門で桐生さんと出会わなければ、気が付かなかったと思う。それほど、完璧だったんです。私は……また、騙されるところだった。いいえ、完全に騙されていたんです。あの日と、あの……バーチャル・リアリティの世界の時と、同じに。私は、理解していなかった。把握できていなかった。」萌絵は、笑う。「でも、だから……わかったの。相手が、誰かに。私の両手両足に巻き付いている……絡んでいる糸を引いているのが、誰かに。それが、驚くほど完全たから、完璧だから……私は、相手が誰かわかったんです。」
 真賀田四季。
 萌絵は、頷いた。
 だがそれは、虚しい同意だった。
 果敢ない、確認だった。
「真賀田四季博士が、私を操っている。私と、先生を、呼んでいる。私の幼馴染みの結婚式に乗じて、この客船という舞台で、博士が再び、何かをしようとしている。」萌絵は韻を含むように言葉を流した。「わかりますか、桐生さん?九条院家は、日本有数の名門です。尋常なる由緒と、莫大な資産。あらゆる面で、私の家より上なんです。」声なく、笑う。「でも、当主の九条院佐嘉光翁には跡継ぎがいません。彼の長女が病没してから、正式な跡取りの座はずっと空席だった。それが、今度の結婚で……孫娘である瑞樹と、その結婚相手が婿入りをし、正式に二人が跡継ぎになることに決まったんです。それがどれだけ大変なことか、押して知るべし、ですね。」虚しそうに笑う。「私は、確信しました。真賀田四季が、私と犀川先生を招くとすれば……それは必ず、人の死に繋がることだと。博士は、命なんて何とも思ってません。その手で、自分の両親を殺した人ですもの。自分の妹に、一歳にもならない自分の娘を預けて……その娘に、自分の妹と夫を殺させるように仕向けた人ですもの。四季博士には、一滴の血も涙もないのよ。違いますか、桐生さん?そうですよね?あの人は人でなし……不道徳で、最低の存在ですよね?私、間違ってますか?」渉は、動けなかった。「だから、私は思った。博士がこのクルーズで何かをする……行うとすれば、それは一つしかない。私と先生を含めた、乗船する誰か……もしくは、そのすべてを、葬ること。理由はあります。彼女は、天才は、ミスを許さない。去年の妃真加島のことは、彼女のミスだった。失敗に終わったかどうかは別としても、私達の来訪と、先生と桐生さんの……」自嘲、だろうか。「……貴方達二人によって、博士の計画のすべてが暴かれてしまうことは、おそらく計算外だったはずです。そして、もしかすれば未来さんが死ぬことも。すべては、博士の筋書きと大きく外れた……真賀田四季博士にとって、最初で最後の失敗だったんです。」萌絵は浮かされたように語り続ける。「でも、博士のような天才が、ミスをミスのままで放っておくわけはない。当り前ですよね。だって、時間は流れている。事実は変えられない。それが当り前。でも、普通の人にはできないことでも、博士にはできるわ。常識なんて、博士には通用しない。取り返しがつかないことなんて、四季博士にはない。だから、彼女は即座に過去を改竄した。あの夏、妃真加島で起こったことを、彼女はすべて書き換えてしまった。それは、信じられないほどの支配力……主に米欧のマス・コミュニケーションの報道によってなされました。その背後にどれだけのネットワークがあるのか、想像もつきません。桐生さんには、理解できますか?」
 萌絵は、笑った。自分の言葉が、自分のそれでないかのように。
「ううん、桐生さんがわからないはずがないですね。だって、それを看破したのは桐生さんなんですから。あの研究所の地下に閉じ込められていたのは、十五年間太陽の下に出ることがなかったのは、四季博士じゃないって。四季博士は、あの部屋にいなかった。当の昔に妹の未来さんとすり変わって、彼女は自由になっていたんです。そして、未来さんとしてアメリカに渡った。そう、四季博士は遥か昔から自由を得ていた。それは、妹と自分が入れ替わることによって遂げられた、最高の自由です。その後の十五年間で、彼女に何ができたか想像できますか?」笑った。かすかに、声をあげて。「私は、その時にわかったんです。真賀田四季博士の捜査も、ミチルさんの捜索も、遅々として進まない理由を。MRIの研究員達が散っていって、MSIが方針転換を掲げて大々的に活動を再開しても、それを表立って怪しむ者がいない理由も。私があらゆるつてを頼んでも、ことごとく何もわからない……すべてが徒労に終わり、誰もが押し黙ってしまう理由を。」
 萌絵は、震えていた。
 恐怖だろうか。
 西之園萌絵が、震えている。
「すべてが、真賀田四季博士の手の中にあるんです。その彼女が、私を誘っている。私達を呼んでいる。それに気付いた私に、何ができると思いますか?桐生さん、私は……どうすればよかったと思いますか?答えて下さい!」
 悲痛。
 完璧を前にして、挫折する命。
 それは、絶対を目にした人間の苦悩。
『どうすればいいの?』
 決して、わかりあえない世界。信じられない、すべて。
 何が、できるというのだろう。
「だから、君は……」渉には、それだけしか言えなかった。いや、言うべき言葉がなかった。
「真賀田四季博士を逮捕する。」萌絵は笑ってみせた。「ううん、違いますね。四季博士は、もう生きていない。死体はなくても、既に死亡通知も出て、お墓だってある。彼女は、もうこの世に生きていないんです。存在しない、あの子……自分の娘と一緒で、真賀田四季はこの世に存在しないんですよ?だったら……」萌絵の顔を、渉は正視できなかった。「どうなろうと、どうしてしまおうと、誰にも関係ないじゃないですか。ううん、それが普通です。いないものは、いなければいいのよ。いないものがいたり、いるはずのものがいなかったりするから、間違いが起こるんだわ。」
「それは……」渉は、萌絵の思考に恐怖する。
 どうしてだろう。
 それが、わからないからか?
 いや、違う。
 それが、わかるからだろうか?
 渉は、心底からぞっとする。
 自分の心に。
 
 


[451]長編連載『M:西海航路 第四十一章(3)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時04分 Mail

 
 
「私は、誰にも操られたりしない。」萌絵は乾いた声を出した。「だから、私を操ろうとする相手は、決して許さない。私は、人形じゃない。私は、私。だから、私以外の誰からも、自由でいる。そのためなら、どんなことでもするわ。だから、私は考えました。桐生さんに軽蔑されたっていい。貴方にどう思われたっていい。ううん、本当は……桐生さん、私がどんなことまで考えていたか、わかりますか?」萌絵の笑い。それは、侮蔑と嘲笑と、欺瞞に満ちていた。これが、人の素顔なのだろうか。本心をさらけ出した、人間の姿だろうか。
 渉は、ただ、震えた。その、恐ろしさに。「私は、桐生さんが殺されてもいいって思っていた。」萌絵は、笑う。「ううん。私と先生以外なら、誰だろうが、どうなってもいいって思ってたんです。真賀田四季博士を捕まえるためなら……彼女を排除するためなら、どんなことでもできる。そう思って、私は計画を立てました。時間もなかったし、何よりも相手が彼女である以上、それは最大限の注意を払わなければならなかった。私は本当に信頼できる、信用に足る相手だけに接触して、その日に備えました。もう一度、真賀田四季博士に会う日……」萌絵が、息を吸う。「……天才と、再会する日のために。」
 渉は、時を感じる。
 流れた時間。そして、今なお流れている時間。
 そこで、その中で……
 彼女は、どこにいるのだろうか。
「桐生さん、不思議がってましたよね?大学のネットに質問まで書いて……先輩達にチャットしたりして。あれ、面白かったですか?」
 そして、それが、弾けた。「まさか、君が……」それは、決して、予期せぬ衝撃ではない。だがそれは、やはり、想像を絶した。「……君が、あの……メールを……」
「そうです。どこから届いたかわからなかったでしょう?」あまりにも、あっけなく。「当り前です。だって、私が桐生さんのコンピュータにログインして、直接投函したんだもの。あのマンションのネットワーク、私の部屋から全部管理できるんですよ?私、スーパーユーザですから。簡単だったわ。」あざ笑うように萌絵は肩をすくめた。
 M.M.。
 渉は、目を閉じる。
 砕けるような、感覚。
 破片が、何かを傷つけて跳ね上がる。
 流れ出す、何か。
 どうして、落ちるのだろうか。零れるのだろうか。
 鮮血、そして、月の夜の砂浜で、確かに見た一筋の光。
 どちらだろうか。
 俺と、彼女。
 少女と、少女。
 誰が……
 どちらが、生きているのだろう。
 本当に、生きているのだろうか。
 生きているとは、どういう意味だろう。
 自由でなければ、いきていないのだろうか。
 束縛に気付かなければ、自由なのだろうか。
 束縛を感じるからこそ、自由が定義できるのではないのか。
 何が、始まりで、
 何が、終わりなのか。
「私も先生も、船には乗らない。関係のない桐生さんだけが、乗り込む。」萌絵は、宣告する。「それは、博士にとって計算外の出来事のはずです。失礼ですけど、四季博士の桐生さんに対する興味はほとんどないと思います。あの場にいたとしても、博士はあくまでも私と……」萌絵は、そこで笑った。寂しそうに。「……犀川先生に、興味があったんです。」
 犀川創平助教授。
 渉は、語る彼を思い出す。
 真賀田四季について語る、犀川。
 それは、確信だった。
 だから、苦しい。
 すべてが、苦しすぎた。
「だから、俺を……」渉は、それでも、口を開く。「初めから、イレギュラーな存在として……何も教えずに、この船に……」
「そうです。」萌絵は、冷ややかに同意した。「あの日、桐生さんがこの船に乗船した後……私も、この船に乗り込みました。」萌絵は不敵に笑う。「桐生さんを囮にして、四季博士の計画を露呈させる。本来招待された私達が乗り込まず、桐生さんが現れたことによって、間違いなく四季博士の計画は狂いを生じ、変更を余儀なくされるはずです。その隙を見逃さず、天才の存在を暴き出し、捕らえる。それが、私の描いたプランでした。」
「だけど、君は……」渉は、声を、紡ぐ。「違うことに、気が付いた……」それしか、なかったから。
 詞しか、なかったから。
 萌絵は、笑った。果敢なく。「そう。私は、また……騙された。」ゆっくりと、嘆くように。「あの時と、同じ。真賀田四季博士なんて、どこにも……いなかった。いたのは……ここに、いたのは……」
 少女が、笑っていた。
 白い服の少女が、飛ばされぬように帽子に触れて、振り返っている。
『大切な用事を忘れていた。』
 そうだ。
 俺は、忘れていた……「四季博士の娘……」
「ミチルさん……」虚しい名前だった。「航海に出た翌朝でした……彼女を……瑞樹を、この目で見た時……私は、何もかもわかったんです。ううん、あれは、瑞樹じゃない……」笑い声が、漏れる。「わからないはず、なかった。七年?そんなこと関係ない。桐生さんは私のこと、誤解してます。私は、瑞樹なんて……幼馴染みのあの子のことなんて、どうでもよかった。私には、すぐにわかった。彼女が、瑞樹が……ミチルさんだって。あの、真賀田四季博士の娘が、瑞樹のふりをしてるって。わからないはず、ないわ。だって、あの日のまま……十五ヶ月前の姿のまま、真賀田四季博士のふりをしていたままの姿で……彼女は、現れたんだもの。誰だって、気が付くわ。そうでしょう?そうじゃないですか、桐生さん!」萌絵は、当惑をどうしたらいいのかわからないように叫ぶ。「どうして、誰も気付かないの?瑞樹?九条院、瑞樹?そんなはずない!瑞樹じゃないわ!あの子は、あの女は、ミチル……真賀田四季博士の娘なのよ!四季博士が、実の叔父との間に作った忌み子!それが、のうのうと、私の……私の、幼馴染みの姿で……瑞樹の名前を騙って、九条院家の跡取り娘に成り果せて、私の前に現れるなんて!」暗い闇。狭い廊下。そこに、声が、虚しく響いていく。「私、全部わかったんです。何もかも、全部!これは、あの子がやったことだ。すべて、私の勘違いだったって。四季博士なんて関係ない。あの子が、あの子がたった一人で……九条院瑞樹になるために……九条院家の財産を奪い取るために、計画したことなのよ!」
 萌絵の叫びが、今なお暗い回廊に響く。それは、確証と苦渋に満ちた……悲鳴だった。
「西之園さん……」
「どうしてそんなことができたか、わからないはずもないわ!そうですよね、桐生さん?あの子は四季博士とは違う。あの子は、博士にとって失敗作。博士は、言ったじゃないですか。あの子はどうしたんだっていう、桐生さんの問いかけに。『既にそれは、私の預かり知ることではありません』って!四季博士とあの子が申し合わせているはずがない。でも、でも……あの子は、四季博士の顔を持っているのよ!四季博士と同じ姿を……でも、それは違いますね。だけど、それが正しい……どっちですか、教えて下さい、桐生さん!真賀田四季って、誰なんです?あの子は、誰なんですか!?」泣き出しそうな顔だった。
 渉は、ただ、穿たれるそれに耐える。
 娘を生み、妹の名を名乗っていた姉。
 姉の名を名乗り、姉の生んだ娘を育てた妹。
 その妹に言われるまま、その姉を演じた娘。
 すべてが、狂っていた。
「私、あの子に……ミチルさんに、会ったんです……」萌絵は、打ちひしがれたように呟く。「その時、全部、理解できたの……元々、予測はしていた……推察できないはずもなかった……でも、それは……目の前にするまで、否定していたいことだった……認めたくないことだった……」首を、振った。「でも、あの子は……彼女は、現れた……そして、あの子が私に……何て言ったと思います?」
 渉は、萌絵を見つめる。
 萌絵は、渉を見ていなかった。
 泣いていた。悲しみではなく、悔しさだろうか。
「あの子も、多重人格者なのよ!」萌絵は叫んだ。渉は目を閉じる。「ううん!あの子だけじゃない……真賀田四季さん!真賀田未来さん!真賀田家に関わる女性のすべてが、多重人格者だったのよ!互いに、互いの人格を共有して!それだけじゃない!それ以外の人も、自分の前で亡くなっていった人の人格も、ことごとくに自分の中に包括している!その人達の過去をすべてそらんじ、生きていればそうだったであろう現在を判断し、そして未来まで……すべて計算し尽くして、何もかも自分の中に取り込んで、演じている!」萌絵は笑った。「あの子も、そうだった!そうでしょう、桐生さん?でなければ、真賀田研究所にいたお母さん……ううん、育ててくれた未来さんの代わりができたはずがないわ!あの子は、育ての親の人格を……姉である四季博士のふりをし続ける母親の人格を、すべて自分の中に取り込んでいたのよ!まるで、ペタバイトのハードディスクみたいに底なしの容量で!四季博士のふりをする未来さん……その未来さんの中にいた四季博士と、四季博士の中にいた双子のお兄さんや、家政婦さんも……全部、あの子は模倣していた!それだけの力を持っているのよ!」萌絵は、自分の頭を抱えた。「でも、当り前ですよね?だって、あの子は四季博士の娘なんですよ?共に超一流の学者だった両親から生まれて、現代史に生ける伝説として刻まれた真賀田四季……その、たった一人の娘なんですよ?あの子は、彼女は、天才だわ。そうでないはずがない。彼女は、あの部屋で十五年生きて来た。彼女は、あの部屋にあった書物をすべて読んだ。彼女は、天才が生み、天才に育てられた娘だった。そうよ……真賀田未来さんも、天才だったのよ!」半狂乱の如き萌絵の様相が、渉の息を詰めさせる。「真賀田姉妹は、二人共天才だった!病弱で、明るい妹?そんな人が本当にいたの?その人は、右利きだったの?左利きだったの?両親すらわからないほど似ていた姉妹が、どちらがどっちだったのか、誰が判別できたの?彼女達以外に、誰が?」萌絵は、笑う。「世界を戦慄させた殺人事件!世界中が注目する中で行われた公判……その裁判の真っ最中に、二人はすべてをあざ笑うかのように、あっさりと交代劇を成功させた!新藤所長の手引きがあったから?確かにそうかもしれませんね。でも、未来さんもまた天才だったと仮定しなければ、すべては成り立ちません。そうですよね、桐生さん!?」泣いていたのだろうか。怒りで染まっていたのだろうか。「だから、だから……あの子も、彼女達と同じ能力を有しているのよ!それは、誰にでもわかることだわ!」信じているのか、いないのか。萌絵は、笑う。「そうでしょう?頭のいい両親から生まれた子供は、その力をすべて受け継いでいる!それが当り前でしょう?天才の子は、天才です!そうなるようになっているのよ!人が人を生み、そして死ぬ……でも、もしも自分が生んだ子が、生んだ親の人格を持って、生き続けるとしたら?そして、その子もまた子を生んで……その子が、親の人格を……親の中にある祖母の人格すらも、持って生きるとすれば?大きな木が枝をつむいで、何百年も生き続けるように……一人の人間が、永遠に生き続けることになるんじゃないですか?真賀田四季博士が、いつまでも生き続けることになるんじゃないですか?」萌絵は、泣いていた。「現に、あの子は四季博士の人格を持っている!完璧に、四季博士を装い……その真似をすることができる!」萌絵は、必死だった。まるで、自分の考えを否定されるのを畏れているような。「それはつまり、真賀田四季博士の持つネットワークを……博士が構築していた力を、彼女も利用できるということ!」萌絵は、首を振った。「桐生さん、あの子が私に何て言ったと思います?四季博士の格好で、四季博士の真似をして……あの時と同じ!私を……私を、笑って!犀川先生のことも!私の父のことも!絶対、許せない!あんな子供に、親のコピーでしかない小娘に、勝手知った風に物を言われ、笑われるなんて……絶対、死んでも許せない!」萌絵の感情は、爆発した。いや、ずっと……そうしていたのだろうか。それは、抑え続けていた意識が……過去の傷跡が開き鮮血がほとばしるような、むごたらしいそれだった。
 渉は、理解する。
 彼女も、同じだ。俺と同じく、それに、傷ついていた。ずっと、あの夏から。
 傷つき、悔やみ、そして……やるせなく、もどかしく、ただ、生きていた。
 そして今、至ったのだ。いや、それに気付くことができたのだ。
 わかっていた、答えに。
「私は、誓いました。」肩で息をしながら、萌絵は薄笑いを浮かべて言葉を紡いだ。「確かに、四季博士はいないかもしれない。この航海と、あの人は、まったく関係ないかもしれない。でも、ここにはあの子がいる。四季博士の人格を持ち、それを演じていた姉の人格すらも持つ、四季博士の一人娘がいる。私の……」萌絵が、かすかに身震いしたのが渉にはわかった。「……私の、幼馴染みの人格を奪って。あの夏のように、他人になりすまして。」
「西之園さん……」渉は、打ちひしがれたような萌絵に言葉をかけた。だが、萌絵はそれを拒絶するように視線を振り払う。
「あの子は、殺人犯だわ。あの子は自分の父親と、そして母方の叔母をその手で殺害した犯人です。それは、決して間違いのない事実。例え、現実でなくなったとしても……私や、桐生さんや、先生にとっては……それが、事実ですよね。」萌絵は、また、笑った。「それから、もう一つの事実……あの子の存在こそが、真賀田四季博士が生きているという、いや、生きていたという証しになる。あの子を捕らえれば、真賀田四季博士に行きつくことができるかもしれない。そうでなくても、あの子は博士の娘……今やたった一人の、真賀田家の跡取りです。真賀田四季博士の持つ著作権と特許権、現在を以って行くあてのない真賀田の資産……その額が、桐生さんには想像ができますか?およそ、この地上に真賀田四季博士と関りのないコンピュータ技術なんて存在しないんですよ?どれだけの価値が、あの子……ミチルと呼ばれた一人の少女にあるか。」笑い声が、通路に響く。
『真賀田四季博士については、有限の時間を無限に費やすだけの価値がある。』
 熱に浮かされたような男の声が、渉の中に甦る。
「だから、私は瑞樹を……あの子を追いました。勿論、桐生さんの存在もあります。いや、そのためにこそ桐生さんが必要だった。そうですよね?桐生さんが窮地に陥れば、必ず、ミチルさんが出てくる。あの子の中にある、一人の女の子の……私達がVRで出会った、ただの女の子が出てくるだろうって、私は予測していたんです。」渉は驚く。「違いますか?そうですよね?」
「まさか、西之園さん……俺の……」三日目の、赤い部屋を思い出す。「君が……」
「桐生さん、私が人殺しをしたとでも思ってるんですか?」呆れを通り越して、小馬鹿にするように。「あの犯人が誰かなんて、あの子の正体に気付いていれば、誰でも簡単にわかります。私はただ、あの部屋に細工をしただけです。あの子の筋書きに、桐生さんに対するメッセージを足しただけ……」
 M.M.
 渉は、身震いする。
「君が、あれを……書いたのか……」萌絵は、笑って見せた。ぞっとするような、異様な笑いだった。「なら、御原さんを……殺したのは……」
「わかっていること、聞かないで下さい。」冷たく、彼女は言い放つ。「元はといえば、桐生さんが原因じゃないんですか?」
 渉は、身を強ばらせる。
 それは、再び叩き付けられた言葉だった。
「佐嘉光さんの時も同じです。あの子が用意し実行した筋書きに、私はほんの小さなアクセントを添えただけ。」まるでお遊びのように萌絵は言う。「事件は、必要でした。あの子を現行犯逮捕する理由として。」正気なのだろうかと渉は思う。いや、彼女と俺と、どちらが正気なのだろう。「それに、結婚式も必要でした。なぜって、それが最大のチャンスだからです。結婚式の真っ最中に、花嫁が実の祖父と仲人に対する殺人の罪で逮捕される。しかも、実はその花嫁は真っ赤な偽物だった。どうです?よくできたミステリィじゃないですか?」
 怒りは、沸かなかった。それを通り越していたのか、既に違っていたのか、定かではない。
 人の命と、人の命。
 奪われたものと、奪ったもの。
 どちらが、より大切なのだろう。
 人が生きるためには、人が死ななければならないのだろうか。
 生き残るためになら、人を殺めてもいいのだろうか。
 y=x−1。
 渉は、ただ、黙した。
「あの子は、本当のあの子は、天才なんかじゃない。あの子の根底にある人格は、愚かで無知。かっとしたからって仲人を殺し、もう用済みだからって祖父を殺した。ずさん過ぎて、話にもならない。私がいなかったら、とっくに何もかも目茶苦茶になっていたわ。今日の式だって、私がいたからできたんですよ?」萌絵は、呆れたように手を上げた。そして、嘲るように彼を……渉を、見る。「桐生さん、私の存在を看破したのは流石だって思います。さっきの罠も、はっきり言って怒鳴り付けたいくらい酷いものでしたけど、それでも効果は認めます。でも、それも……あの子が喋ったからでしょう?ミチルさんじゃない、本当の……本物の、あの子が。」渉は、萌絵の視線にそれを返す。暗闇の中で、彼女はおかしそうに頭を振った。「悴山?貴美?変な名前よね。私、聞いて笑っちゃった。でも、本当にびっくりしたのも事実。だって、思わないもの。ううん、思っていたんたもの。とっくに死んで……ううん、殺されてるって。だって、そうでしょう?真賀田家の多重人格は、その三人のお互いに対するもの以外は、すべて……自分の近くで亡くなった人の、ある意味では代償行為。だから、ミチルさんが瑞樹になっていたのを知った時、私は確信したの。瑞樹はもう死んでいるって。おそらくは、殺されたんだろうって……」
 萌絵は、ゆっくりとこちらを向いた。
「九条院瑞樹が、悴山貴美としてこの船に乗っていたなんて……気付くはずもなかった。」
 渉は、笑った。
 それは、果敢なく……そして、寂しげな、笑いだった。
 
 
 


[452]長編連載『M:西海航路 第四十二章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時05分 Mail

 
 
   第四十二章  Mingle

   「私には、わからない……」


「貴女が、本物の……九条院瑞樹……」
 桐生渉はそこで、声を途切れさせる。
 口にした言葉の、意味。たどりついた、場所。
 目を閉じた。
 淡く、果敢なく……
 通り過ぎた感覚が、彼を黙祷させる。
 それは、あまりにも空虚で、
 そして、言い知れぬほどに……
 絶対、だった。 
「あはは……」不意に、彼女は笑い始める。おかしそうに、肩を震わせて。口許を押さえて、彼女が、笑う。子供のように、幼子のように。
 何度目だろうと、渉は思った。
 いつも、笑っていた。こんな風に、彼女は……
 悴山貴美。いや……
 九条院瑞樹。
 言うべき言葉は、なかった。
 かけられるべき詞も、ない。
 渉は、思う。
 感情が、見つからない。
 記憶は……思い出は、あるというのに。
 出会った。言葉を交わした。それでも、何度、そうしても……
 答えが、出ない。
 自分を、確かめるため。
 見えない自分を、見るために。
 鏡となるべき、他人がいる。
 そう、信じていた。
 だが、今、鏡そのものが変質する。
 わからない。
 彼女は、誰だったのか。
 映った自分は、それが、誰だったのか。
 何が、答えなのか……
「隠れんぼ、得意だったのよ……」まだくすくすと笑いながら、彼女は言う。「あと、追いかけっこもね。小さい頃から、ゲームは得意だったの。負けたことも勿論あるけど、負けたままで終わったことは一度もないわ。ううん、終わらせたことがない、かな。」悪戯っぽく、目尻が細められる。「根っから、負けず嫌いだったのね。どんなゲームでも、ルールを把握して……勝つために、最も適した方法を見付け出したの。結局、成長してもそれは変わらなかった。むしろ、大きくなってからの方がそういうことをするのは、簡単だったわ。だって、大人はしっかりとしたルールがないといけないんですものね。」笑った。
 渉も、笑う。本当に笑えたかどうかは、わからない。
「ほら、子供の頃って、ルールなんていいかげんじゃない?腕っ節の強い子が、その場でルールを曲げたり、勝手に解釈したりして……俺様ルール、みたいな?ローカルな流儀とか、してはいけない暗黙の約束ごととかがあって。どう考えても、片側に一方的に有利なルールとか……でも不思議とみんな、それに疑問を持たないのよね。」笑い続ける。何がそんなにおかしいのだろう。「私、あれがどうにも納得できなかったの。でも、みんなにこのルールは不公平よとか言っても、簡単にはわかってくれないじゃない?だから、そういう時はもっともらしいルールを付け加えて、こっちが勝てるゲームにしちゃうの。ふふ、我ながら嫌な子供だったと思うわ。」悪びれた様子はなく、ただ懐かしがっているような口調のまま、彼女はふと声を低くした。「大人のゲームの方が、ずっと簡単よね。だって、ほとんどは記憶力……あと、視力がよければ、どうにでもなるものばかり。勿論、予想外の手を使われたら、その場で対処するのは難しいわ。でも、相手の思考……その飛躍する度合を掴んでいれば、それにも落ち着いて対応できる。ま、職業柄って言っちゃうと身も蓋もないけど。」苦笑する。「これがコンピュータとかのゲームになると、さらに勝つのは簡単よ。つまり、偶然性のもたらす結果……その最大値が、明確な数字として存在する訳じゃない?いくらランダム化されたルーチンがあっても、それが取得する上限と下限があり、それらが計算値として測定できる以上、すべてを把握してしまえば事前に結論が出るんだもの。あらゆる状況で、最適となる状態を達成するための手段を講じれば……それで、勝ち。勿論ハードの強弱や、マウスとかキーボードの操作とか、細かいテクニックみたいなものも必要だけどね。でも少し計算ができれば、あとはどうにでもなるわ。あ、渉君はゲームなんてしないんだっけ。大人のゲームしか……あははっ。」
 彼女が、こちらを見る。
 残念がっているのだろうか。それとも、うらやましいのだろうか。
 何が……?
「私ね、自分で言うのもなんだけど……ゲーム、強かったのよ?ずっと、負けなかった……本当に、負けなかったんだからね?」渉にそんなつもりは毛頭なかったが、彼が信じていないのをたしなめるように彼女は言った。「勝つのが、当り前だった。常勝とか不敗とか、そう呼ばれたりして。勿論、非難もされた。お前は強すぎるって。ううん、勝つのに手段も選ばない、弱い相手に情けもない、冷酷な奴だって。」口をつぐんだ彼女は、一呼吸置いてその表情をさらけ出した。
 それは、憤慨だろうか。「私ってね、手加減しないのよ。あ、ゲームで勝つためにね。勿論、戦法として甘い手を使うこともあるわ。でも、それは相手の力量を見定めるためとか、時間稼ぎのためにとか、そういうこと。結局、必ず勝つためにしていることだし、だからこそ、最後は必ず勝利していたの。だって、ゲームは勝つためにプレイするものでしょ?遊ぶのが楽しいとか、いい勝負ができればいいとか、主張する人は多いけど……でも、考えてみてよ。それって、敗者の台詞ならただの詭弁だし、勝者の台詞としてならもっと最低よ?だって、ゲームをしてる時は、勝つつもりでプレイしているんでしょう?勝ち負けなんてどうでもいいからって、ゲーム中に相手から言われたらどう思う?負けてもいいとか、勝負が楽しければ勝敗は別にとか……それって結局、戦ってる相手だけじゃなくて、今プレイしてるゲームそのものを……勝敗を含めたその結果のすべてを、馬鹿にしてるのよ。」真剣味を帯びた彼女の言葉に、渉は再び何かを感じる。「私は、どんな場合でも必ず勝つことに専念した。そして、私は勝ち続けた。周囲から、対戦相手を含めたどんな相手から誹謗されても……そんな下らないことに、意義どころか関心すら抱けなかった。だって、私はゲームが好きなんだもの。勿論、同じゲームばかりじゃないわ。つまらないゲームはたくさんあったし、そんなのはすぐに飽きちゃうから、そうしたら別のゲームを探して……そして、勝ち続けた。コンピュータを攻略するのも、ネットワークで見知らぬ相手と勝負するのも……何千何万もの相手と、もう寝る間も惜しんで勝負したわ。」少し肩をすくめて、笑う。「当り前だけど、その全部が全部、100%無敗な訳じゃないわよ?でも、どんなゲームでも、私が負ける理由は二つしかなかった。そのゲームで私が知らないテクニックがあったか、相手がプログラムをいじっていたか、そのどちらか。前者は必ず再戦して勝利したし、後者ならば論外よ。そのチート……あ、そういういかさまをするプログラムとかのことね……それを逆手に取って、相手をもう、これ以上はないって程に辛辣な目に遭わせてやったわ。」口許が、緩む。「私は勝ち続けた。世界中から挑戦されても、負けなかった。強いって言われる相手には、こっちから挑んでやった。」目が、細められる。「勝って、勝ち続けて……それで、最後の最後に、負けたのね……」
「負けた……?」
 彼女は、黙して渉を見据える。
 一瞬、その瞳が……青く、きらめいたように見えた。
 ブルーの瞳。
 コンタクト……彼女の本当の瞳の色を隠すそれが、窓の外の光に照り返されたのだろうか。
「ね、貴方は……どっちなのかな……」呟くように、口にされる詞。「……私が、まだ知らない手を使ったの?それとも、プログラムを書き換えて、ルールにない手を……」じっと、見つめられる。青い瞳。黒い髪。白い装束。
 悴山貴美。
 九条院瑞樹。
 いや……「俺は、勝ったんですか……?」渉は、それだけ言うのが精一杯だった。「何に勝ったのか、どうして、そうなのか……わかりません。ただ、気が付いたらここにいて……どうしてか、貴女を見ていて、そう思った……思えた、だけです。だから……」教官に指導される生徒のようだと、渉は思う。
 無知で、愚かな……
 笑い声が、聞こえた。
 渉は、顔を上げる。
 彼女が、笑っていた。「あはは……あんまりよ、渉君!」苦しそうに片目を閉じて、言う。「自覚してくれなきゃ……あっはは!もうっ……それって、勝者の余裕としても、ちょっと酷すぎるわよ!」
「えっ……」渉は戸惑う。「余裕って……」
「いいわ、もう。」すねるように、彼女は横を向く。だがすぐに、また吹き出した。「ふふ……ごめんね。あーあ、どうしても、私の方が割りきれてないみたい。どうも、やっぱり慣れないのよね、負けるのって。あ、自分勝手だとは思ってるのよ?それでも、やっぱり性根はいじれないっていうかさ、つまり……そういうことなわけ。」渉の混乱が増す。「ようするに、ゲームは見事に私の負けってこと。うーん、敗北!」大声で言うと、両手で耳を押さえるようにして彼女は肩を揺らした。その子供のような仕草が、渉をさらに戸惑わせる。
「あの、俺は……」
「しっ……」彼女は指を一本持ち上げると、口の端を持ち上げるようにして意味ありげな表情を作る。「ね……負けるのって、不思議な感じよね?大抵やるせなくて、思いっきり腹立たしいんだけど……でも、何だか妙に笑えるようなさ、どこかそういうの……あるのよね。どの場面で何をミスしたか、何について不勉強だったか……敗因がわかってくると、とてもそんな気持ちになれないんだけど……そうだ、ね、渉君……」悪戯っぽく、指が唇に触れる。「もう一度しても……いい?」
 渉は赤面した。それを待っていたかのように、彼女がはしゃぎ声を上げてクルリと一回転する。「嘘!もうっ、二度も負けちゃったし……三度目は、流石にちょっと無理だもんね。」渉は、また当惑する。「あーあ、でも……うん、悔しいけど、面白かった!あはは、私、目茶苦茶だね。言ってることとやってること、矛盾してる。きっと、物凄く悔しくてたまらないのよ。もう、そういう冗談でも言ってないと、この場で怒鳴り散らして、桐生君に飛びかかって首を締めちゃいたいくらいに、私、興奮して……」ふと、声のトーンが落ちた。「……私……」
 渉も、彼女の言葉と……その様子に、目を見張った。
 蒼白。
 震える、肩。
 その両手を、自分の手を、二つの眼が……不思議なきらめきの瞳が、見つめる。
 細い手を見つめて、見開かれる瞳。
 信じ難いという、想像を絶するという、それは驚きの表情だった。
「悴山……」そこで、渉は言葉に窮する。「……いや……瑞樹……」渉は、かけるべきそれを、迷う。
 息を呑む音。
 彼女の視線。
 渉は、身震いする。
 それは、この世のものではない。
 そう思えるほど、それは、鋭く……
 そして、蒼かった。
 あの日の、空よりも……
 あの朝の、海よりも……
 それは、深く、濃く……
 憎しみと、恐怖と、絶望と、怒りが……
 満ちていた。
「違う……」ゆっくりと、彼女の首が振られる。まだ、わなわなと震える肩と、瞳と、共に。
「あの……」渉は驚きのまま彼女に近寄る。戸惑いつつ、その肩を……
「やめて!」彼女は、払い除けた。
 拒絶するように。拒否するように……
 何かを、自制するように。
 眼を見開いたまま、彼女は明後日の方向を向く。
 そして、そのまま……何かを叫んだ。
 声はない。言葉でもない。それでも、何かがほとばしった。思いが……想いが、散った。渉には、そう思えた。
 声なき、慟哭。
 それは、矛盾している。
 だが彼には、それが聞こえた。
 時が、流れる。
 そして、彼女は……また、振り返った。
「渉君。私ね……実は、本当の瑞樹じゃないの。」
 それが、彼女の口にした言葉だった。
 驚きに、渉は声を失う。
「え……?」
「言ったよね?私、海が見える小さな町で生まれたの。外国人の血が混じって、それが現出して……こんな肌と目の色を持って生まれたのよ。」渉は、その目で捉えた、少女のまぶしい肢体を思い出す。「両親について知らないって言ったのも、半分は本当。私はね、片親だった。いたのは、父だけ。お母さんのことは、知らない。父は母についてほとんど話さなかったけど、私と同じような黒髪の、奇麗な人だって……そんな風に、言ってた。」微笑したまま、首を振る。「父は、とても忙しい人だった。仕事ばかりして、家には滅多に戻ってこない。小さかった私の面倒は、隣の家に住んでいたおばあさんが見てくれていたんだけれど……そのおばあさんが遠くの老人ホームに入居してからは、代わりに父の旧知である男の人が見ることになった。その男は町外れに小さな施設を持っていて、そこには、身寄りのない子供がたくさんいた。みんなが私より大きくて、境遇に負けずに楽しく遊んでいた。」その目は、どこを見ているのだろう。「私はそこで、自分の出生……この姿の意味を含めて、今まで気付いていなかった色々なことを学んだ。でも、周囲にそれを自覚させるほど、素直でもなかった。時々、私がほんの少し記憶力や計算ができることを見せると、大人達はこぞって私を誉めたわ。でも、施設の……一緒にいた子供達はそうじゃなかった。逆に、みんな私から離れていったの。だからかな、私もね、ようやくわかったの。私は外見だけじゃなくて、中身も……みんなと、ちょっと違うんだって。」複雑な表情で、それでも、クスッと笑う。「そんな、ある日だった。雨が降って、雷が鳴っていた。私は空が光る現象が面白くて、怖くて泣き出す他の子達をよそに、窓の外の空を見ていた。そこに、施設の主人である父の友人が来て……私に、言ったの。お前のお父さんは、事故で亡くなったって。」
 彼女は、肩をすくめた。
「勿論、はっきりとそう言ったんじゃないのよ。大きな事故があって、多くの人と一緒に、父も行方不明になったって……まあ、死体が見つからない、よくある行方不明の事故だったの。みんな、希望はあるとか気休めを言ってくれたけれど、私に彼らの言いたいことが理解できないはずもなかった。つまりこれで、私は正真正銘のひとりぼっちになったって。ようするに、この施設にいる他の子供達と同じ立場になったんだって。」軽く、首を振る。「父には親戚らしい親戚もいなかった。でも、私はこれからどうするかについて、考える必要はなかった。すぐに、父の友人……その施設の主人である男が、私に養子の話を持って来たの。それは、とても裕福な家からの誘いだった。」
 
 


[453]長編連載『M:西海航路 第四十二章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時05分 Mail

 
 
「それが……」渉は、言葉を口にする。「九条院家……?」
 悴山貴美……九条院瑞樹……いや、彼女は……笑った。否定とも、肯定とも取れる笑いのまま、小さく、ほんのわずかだけ、頷く。
「少しして、私の新しい父になるという男が現れた。能面みたいな顔の、無口な男だったわ。彼は書類と金を取り出して、父の旧知……施設の主人と契約を交わした。それは、私の身元……戸籍を含めたすべてを詐称させるための取り引きだった。私が素知らぬ顔で窓の外の海を見ていると、施設の主人は何食わぬ顔ですべてを口にしたわ。先天性の重い病気を患っていた幼い一人娘を、依頼されてそいつが殺したこと。その代わりに、よく似た歳格好である私を、その娘の代わりに……やってきた男の家の本当の子供として育てるって。つまり、死んだ……殺した娘の代役に、私を立てるという話だったの。私は物わかりもいいので、きっとすぐに器量良しのいい娘さんになれますよって、男は……父の旧知で、病気の子を殺した男が、そう言ったの。」
「な……」渉は、絶句する。「そんな……」何を、言えばいいのか。いや、聞いた話の意味を、把握できていたのか。
「私が、何歳だったと思う?」彼女は、渉の気持ちを察し……いや、事前にわかっていたかのように目を細めて微笑する。「三歳よ?物わかりが悪いと思う?乳飲み児じゃないのよ?私は、みんな聞いていた。私は、何もかも理解できたのよ?全部、意味がわかったの!でも、拒絶して何になるの?この、死んだ父の旧知……殺人者で、私を金で売り渡そうとした男のいる施設に残る?それとも、娘を無慈悲に始末して身代わりを立てることにした、もう一人の男を新しい父に選ぶ?」肩が、かすかに震えた。「私には、どちらかしかなかった。その二つのどちらかを選ぶ以外に、私に何ができたの?身寄り一つない私に……誰にも、相談できなかった!だって、みんな、みんな私と違うから……!だから、私は選ぶしかなかった!」彼女は叫び、そして、黙した。
「結局、私はその家に……」しばらく経って、彼女は再び口を開いた。「九条院家に、引き取られた。何もかも、簡単だった。ただ、子供らしく『うん』って頷くだけでよかった。私は施設の子供達に見送られることもなく、施設から出た。私と男を乗せた大きな車が町を離れて、ずっと……星空の下を延々と走って、大きな屋敷についた。見たこともない豪邸だった。」淡々と語る彼女の顔は、まるで……そう、他人の過去を語っているようにすら見えた。「新しい父親になった男は、長旅でくたびれた私を寝かせることもなく、そのまま自分の妻に……つまり、私の新しい母親に引き合わせたわ。白いガウンをまとったその女性は、長い髪の……とても奇麗な人だった。私は、そこで初めて知ったの。彼女が、この家の……九条院家の、正式な当主たるべき存在だって。この男……新しい父は、この家に婿入りした、別の家の人間だということ。そして、もう一つ、彼の妻……私が対面した彼女の心が、もう……おかしくなっていることに。」渉は、思わず彼女を見る。「日本屈指の名家の後継者として、尚且つ、ただ一人の女性……孤独な長女として生きて来た日々。さらに良家の婿を招いてなお、なかなか子供が……親族すべてが待ち望む子宝に、恵まれなかったから。そしておまけに、ようやく授かった子が自分と同じ女子であり……しかも、重い病を宿していたから。それらが、それを為した彼女に対する周囲の不条理極まる蔑視が、彼女の心身を押し潰してしまっていたの。」悲しげに告げると、彼女は微笑した。「その人がね、桐生君。夫に手を引かれてきた私を見て、ほほえんでくれたの。私、嬉しかった。それで、新しい父が……私をね、『瑞樹』って呼んだの。『ほら、御覧。瑞樹が、病院から退院できたんだよ……』って。私は物わかりが良かったから、それが私の新しい名前なんだって、すぐに理解したわ。だから、私は思ったの。この人にすぐ、何か言わなきゃって。」彼女は、笑っていた。今にも何かがあふれそうな、そんな、果敢ない笑いだった。「ふふ、お母さんって初めてだったから、きっと嬉しかったのね。物腰も柔らかで……私がずっと思い描いていた、本当のお母さんに似ていたからかもしれない。優しそうで、暖かそうな人だった。だから私は、挨拶をしたの。『こんにちは……私は、瑞樹です……』って。」彼女は、笑う。「そうしたら……どうなったと思う?」虚しく、笑う。
 瑞樹。九条院……瑞樹。
 渉は、目の前にいる女性を見つめる。
 名前のない、女性。
「でも、それは、間違っていたの。その女性にとって、それは……ありえるはずのない、現実だった。彼女の中では、既に瑞樹は……自分の娘は、死んでいたのよ。夫は自分の計画のすべてを隠していたつもりだったけど、妻は知っていたの。娘の病を……生涯病院から出られないであろう我が子に憤った夫が、それを殺してしまったこと。そしてその代わりに、背格好の似た私を、どこからか連れて来たことを。その意味が、妻にとってもたらされた現実が何だか、わかる?私の出現は、彼女にとっての事実を打ち砕いた。彼女にとり、私の出現は夢でも奇跡でもなんでもなかった。自分の子供じゃない、私……それは、結局、他人だった。自分の娘ではない、どこの馬の骨とも知れない、ただの子供だったのよ。そして私が名乗ったことは、彼女の中にあった畏れのすべてを肯定する引き金だった。何もかも、自分のせい。切望される跡継ぎを満足に誕生させられなかった自分。そして、唯一信じていた……味方だと思っていた、自分の夫の裏切り。どんな理由にしろ、その夫が自分達の子供を、自分の娘を殺したという、否定しようのない事実……彼女が今まで、その身に背負って来たあらゆる重責の時間を無価値なそれとし、贖罪を促したのが……私の詞だったのよ。」大きく、息を吐いた。彼女の心臓が動悸しているのを、渉は感じる。
 そうだ。生きている……「彼女は、すべてを終わらせるために……最適な方法を取った。その場で、私を殺そうとしたの。それは、ありえるはずのない私の存在を消して、彼女の中の事実を現実にしようとしたのかもしれないし、夫が人殺しの罪を犯したという事実を、起こってしまった過去を……その手で、改竄しようとしたのかもしれない。それとも、彼女自身も夫と同じように子供を殺すことで、その立場を同じくしようとしたのかもしれない。それは、誰にもわからないわ。」首を振る。「私達が対面したのは、大きな応接間だった。そして図ったみたいに、その部屋にはアンティークの大きなナイフが置かれていた。彼女はそれを取り上げると、鞘から引き抜いて、私を睨み付けたの。私は、それを見ていたわ。呆然としていたんじゃない。自分がしたことで、何が起こったかが……はっきりと、わかったから。私が嘘をついたから、本当じゃない名前を名乗ったから、罰を与えられるんだって、理解できたの。」目を閉じる。堅く。「彼女が構えたナイフが、私に迫って……」
 その時の光景を、よみがえらせているのか。
 記憶の中の、過去を。
 今、生きている自分が……
「でも、刃は振り下ろされなかった。彼女が止めた寸前で、新しい父が……彼女の夫が、それを制止したの。ナイフを持った手首を、そのまま掴んだのね。それは、錯乱した妻を食い止める、夫の懸命な姿だった。だから私も、すぐに謝ろうと思った。悪いことをしたんだってわかったから、彼女に謝ろうと思ったの。私は瑞樹じゃない、関係ない子供なんだって。ごめんなさい、違うから……って。でも、そこで……血が、私の顔にかかったの。」低く、笑う。「暖かい血だった。シャワーみたいに降り注いで……でも、シャンプーみたいに、ぬるぬるしていたの。私が見上げると、彼女の腕のナイフが、彼女自身の胸を刺していたわ。その手首を掴んでいるのは……男だった。新しい、父だった。彼は、叫んでいた。やめろとか、やめてくれとか、みっともなく、自分が錯乱したみたいに、声を張り上げて叫んでいたわ。そして、私の見ている前で、妻の胸からナイフを引き抜いて、彼女の喉元に切り付けた。また、血が飛び散って……私に、かかったの。私だけじゃないわ。奇麗な応接間の壁に、床に、置物やテーブルや、椅子に……それが散って、辺り一面が、真っ赤になった。彼女の白い服もそうよ。白い服が、見る見る赤く染まっていって……」どこか虚ろな表情で、彼女は自分の手を見た。「すぐに家政婦や下男が、走り込んで来たわ。そうしたら、新しい父が叫んだの。『妻が自殺した!自分を、ナイフで……早く、医者を!救急車を呼んでくれ!』って。それから、大騒ぎになって……大人達が走り回るその部屋で、私は倒れた女性を……自分を殺した男の手に抱かれて、ぐったりとしている彼女を見つめていた。彼女には、もう意識もなかった。眠っている……ううん、死んでいるように見えたの。それから、彼女はソファに寝かされて、止血がされて……その横で立っている小さな私のことなんて、みんな無関心だった。やがて、救急車が来て……その時だった。みんなが、外から聞こえるサイレンの音に気を取られていたとき……彼女が、刺された女の人が、うっすらと目を開けて、私を見たの。」かすかに、うつむく。「私は、何て言ったらいいかわからなかった。どうすればいいかも、わからなかった。謝ることすら、思い付かなかった。そうしたら、彼女が何て言ったと思う?彼女は、私に……『瑞樹』って、そう言ったの。」
 笑っても、泣いても、怒っても、喜んでもいない。
 彼女は、ただ、言葉を……
 詞を、重ねていた。
「それが、私が聞いた、最初で最後の彼女の言葉だった。その後、どうなったかは知らない。彼女が救急車で運ばれていって、私は家政婦に連れられて別の部屋に移された。私は一睡もできなかった。そして、次の日の朝になると……私が横になっている大きな寝室に、新しい父が……あの男が、戻って来たの。彼は、目を赤くして……泣き腫らしていたわ。能面みたいだった顔が、汚れていた。嬉し涙かもしれないって私は思ったけど、男は私の枕元に腰掛けると、言ったの。『怖い目にあわせたね、瑞樹』って。『お母さんはいなくなってしまったけど、私が、お父さんがいるからこれからは大丈夫だよ』って。『もう、心配なく生きられる』って。『どんなことでも、お父さんが叶えてあげる』って。真顔で……言ったのよ?」首を振る。「それは、私にとって異様な光景だった。まるで、この男はさっきの事実を忘れているみたいに見える。自分が何をしたのか、どうしてああなったのか、わかっていないみたいに見える。本当に、この男が人を殺したの?ううん、人を殺すという、元々よくわからなかった詞の意味が……この男の態度で、わからなくなったの。」乾いた笑いを浮かべて、彼女はもう一度首を振った。「でも、そんな男の……新しい父のことなんて、正直もうどうでもよかった。その時の私には、昨夜見た女の人の……彼女が口にしたただ一つの言葉の方が、ずっと大切だった。あの人は、私を瑞樹って呼んだ。瑞樹と名乗った私に、怒った……殺そうとまでしたあの人が、私を、瑞樹って呼んでくれた。それは……どうして?」真剣な顔の彼女に問われて、渉は答えに詰まる。「今際のきわで、意識もまともでなかったから?目も虚ろで、頭の中には命より大事な我が子のことしかなかったから?そうね、確かにそうかもしれない。誰でも、どんな人でもそう思うかもしれない。でも、私は……私はね、そうは思わなかった。絶対に、そう思えなかった。あの人の目、あの人の表情……あのほほえみが、たった一つの詞が……私には、忘れられなかった。あれが、お母さんなのかと思った。そして、もしそうなら、だとしたら……あの人が、子供だった私を、嘘をついた私を……許してくれたのかもしれないって思ったの。だから、私が瑞樹に……そう名乗っても、これから瑞樹の代わりになっても、私の子供になってもいいのよって、言ってくれたんだって……そう、思ったの。許してくれたんだって……そう、思ったの。そう、思えたのよ……」悲しい目だった。
「偽善?都合よく、起きた物事を捉えただけ?誰もがそう思うかもしれない。でも、私には違った。私にはそれが……彼女が、私を許してくれた……認めてくれたことが、真実だった。誰にも理解されなくていい。それが、九条院家の跡継ぎだった彼女……お母さんと、その娘……私が交わした、約束だった。嘘をついた私を、お母さんは許してくれた。だから、私もお母さんの言葉通りに……瑞樹として、これから生きていこうって。これからずっと……九条院瑞樹として、生き続けようって。不遇な生涯を終えた、同い年の一人の子の代わりになって……私が、生きようって。そう、決めたの。自分で……そう、決めたのよ。」
 自分で、決めた。
 渉は、黙する。
「私は結局、そのままその家で……新しい父の子供として、九条院の家で暮らすことになった。九条院家の娘夫婦……その一人娘である、瑞樹になったの。でもね、渉君。私はそれを、決して半端では済ませなかった。そうなるのなら、完璧に……絶対に誰からも見破られないように、瑞樹にならなければならない。本当の、本物の瑞樹として生きなければ、私のすることに、何の意味もないって思ったの。そうじゃない?ゲームをしながら、勝ち負けなんてどうでもいいって言うみたいに……うわべだけ瑞樹って名乗って、私自身の好きなようにしてしまったら、それは何でもない、ただの偽善よ。あの人に……お母さんにも、嘘をついたことになる。私の嘘を許してくれたお母さんを、私を瑞樹と認めてくれたあの人との約束を、果たせないことになる。それだけは、絶対に許せない。だから私は、そのために必要なことをした。模倣じゃない、イミテーションじゃない……本物の、本当の九条院瑞樹になるって、私は決めたの。」
 渉は、何かを過らせる。
 誰かのふりをすること。
 本物を……リアルを、追求すること。
「それじゃ、君は……本当の、かつて生きていた、瑞樹さんの……」渉は、それに言葉を詰まらせる。「まさか、本当に……そのまま……」
 何かが、震えていた。
「御名答。」明るく、笑う。それが、渉の何かを震わせた。「そうよ。私はね、できる限りのことをして……生きていた時の彼女を、その病気について、徹底的に調べた。先天性の異常で、重い病気を患って生まれた彼女……幸い、屋敷には年老いた乳母や人のいい家政婦がいて、私にその子のことを細かく教えてくれたの。私はそれらを聞いて、勉強して……それを、始めたの。瑞樹の……生きていれば、こうだったであろう瑞樹のままに生きていく、ふりを始めたの……」笑う。どこか、ぞっとするような顔で。「勿論、父や屋敷の使用人達は、そんな私に驚き慌てたわ。でも、私は何を言われようと、どうされようと絶対に止めなかった。ううん、これがふりをしているかどうかなんて、問題じゃなくなるほどまで徹底的に……リアリティをね、追求したの。次第に、ゆっくりと段階を進めていって……本当の瑞樹が生きていたらそうなっていたであろう段階まで、自分の状態を変えていったの。」誇らしげに、息を吐く。「奇行を繰り返す私に、医者や家庭教師、色々な人が現れて、治療をしようとした。でもね、私が本当に何をしようとしているか……病気のふりをしていることに気付いた人は、一人もいなかったのよ?病院で検査をされても、私にはそれを覆す……あるいは誤魔化すことが可能だった。それは、病気が極めて特異であることが……つまり、一般的じゃなかったことが、大きかった。」目を閉じる。「そうしている内に……私が瑞樹と同じ病気だということは、本当のことになった。つまり、過去が改竄されたの。それは、考えてみれば当たり前だった。だって、瑞樹という娘がいて、彼女が死んで、私が代わりに連れられて来たことを……その事実を知っているのは、ほんのわずかな使用人達だけだった。勿論、その子が婿養子に殺されたことなんて、誰一人知る訳もない。だから、私が瑞樹であり、その私が病気であることは、元から現実だったのよ。それが奇跡的に治ったというシナリオを描こうとしていた、新しい父の方が遥かに不利だった。だから、私が勝つのは……当然だったの。」渉を見て、そして、笑う。「こうして、私は名実共に本物の九条院瑞樹になった。それと共に私は、もう一つのことも確信するに至った。このまま瑞樹として生き続ければ、じきにそれが、また、きっと起こるだろうって。つまり、私の新しい父……九条院瑞樹の父が、もう一度、あの時と同じことをしようとするだろうって。つまり、彼が私を葬って、新しい瑞樹を見付けようとするだろうって思ったの。」渉は、まじまじと彼女を見返す。「だって、父にはそうするしか手がない。婿入り養子である父には、自分勝手に誰かと再婚して男子を誕生させることなんてできない。だから、彼にできることは……私を、もう一度……自分の言うことを聞く娘に、取り替えるしかない。私は、それを待っていた。その日を、私は待ち望んでいたの。どうしてだと思う?」
 渉の中で、瞬間が、甦る。
「私は、罰を受けたかったの。だって、私のせいでお母さんは死んだのよ?ううん、それだけじゃない。本物の、本当の瑞樹……彼女を殺させたのも、結局は私のせい。私がいたから、私が代役になれると踏んだから、彼女はもう生きている必要はないと決め付けられて、殺されたの。全部、私のせいなのよ?二人の人間を殺したのは……殺させたのは、間違いなく私自身の存在なの。私がいたから、私が生きていたから、二人は死んだのよ?だから、私は罰を受けなきゃならない。お母さんは許してくれたかもしれないけど、本当の瑞樹の方は許してくれるはずがないもの。そして、そのために一番いい方法は、殺されたお母さんや本物の瑞樹みたいに、今の父によって殺されること。ね、そうすれば……私は、真の意味で瑞樹と同じになれる。そうすれば、お母さんもきっと……私のことを、喜んでくれるだろうって。だから私は、徹底的に瑞樹としてふるまった。父の我慢が限度を越える日を……自分が殺される日を夢見て、私は生きていたのよ。」
 渉は、身を震わせる。
『わし自身が、死を熱望しておるからじゃよ。』
 声が、聞こえた。
『誰かが己を殺しに来る、わしは、それをひたすらに望んでいるのじゃ。』
 彼は、目を見張る。
 黒い髪が、散った。
 そこにいる、彼女。
 彼女が、そこに。
 ならば、彼女とは、誰か?
「そんな、ある日……私の前に、一人の老人が現れたの。」渉は、その顔を凝視する。「彼は執事に押される車椅子に腰掛けて、私の前に現れた。そして、私に……自分が、死んだ母の親であり、今の父にとっての義理の父……つまり、私の祖父なんだと説明した。その上で、彼は……私の目の前で、義理の息子である新しい父……私に興味はおろか、嫌気がさしていた彼と、二人で話をしたの。私はいよいよ、自分が殺される時が来たんじゃないかってわくわくしたわ。でも、違った。私はね、その老人に預けられることになったの。郊外にある、その老人が住んでいる別荘で……私は、しばらく静養することになったの。」
 微笑する。
「私は、老人に引き取られ、前の邸宅もかくやという大きな別荘に連れていかれて……そして、大きなベッドのある子供部屋を与えられた。勿論、私は瑞樹のままでいた。今までのように奇行を繰り返そうとして……そこで、知ったの。その老人は、瑞樹の祖父は、新しい父や前の屋敷にいたどんな人間とも違う……ううん、今までに私が出会った、どんな大人とも違うということに。」渉の視線を受けて、彼女は力なく首を振った。「祖父は、すべてを見抜いていた。その老人は、私がわざと……自分で意識して、すべからくこういう振る舞いをしているんだって、わかってしまっていたの。ううん、それだけじゃない。彼は、私がどうしてこんなことをしているか……それまで、見抜いていたのよ?老人は私の前で……しわがれた声で、その話をしたわ。お前はもらわれて来たその日に、目の前で母の死を目撃した。しかもそれは、瑞樹の父……老人にとっての義理の息子である男が、老人にとって唯一無二の実子である長女を殺した、その現場を目撃したためだろうって。彼は、真顔でそう言ったの。」震えていた。「そして、私がその死に対して特別な感情を抱いて……生きていた瑞樹、殺された瑞樹のままに、九条院家の唯一の血筋として、自分が生きなければならないと思ったのだ……そうだろう?って……言ったのよ……」傍目からそれとわかるほど、彼女は激しく身震いしていた。「私、あれほど怖いと思った時はなかった。だって……初めてだったのよ?そんな大人に出会ったのは、生まれて初めてだった……私の考えが、ばれてしまった。この老人の、彼の考えは……まったく、読めなかった。そして今も、何を考えているか全然わからない。そんな人に出会ったのは初めてだった。信じられなくて、だから、怖かった。生まれて初めて……怖いと思ったの。」
 震えている。そう、渉は、思った。
 俺も、震えているのか。
 そうだ。
 あの……夜のように。
 
 


[454]長編連載『M:西海航路 第四十二章(3)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時06分 Mail

 
 
「他人が、自分と違うことはわかっていた。そんなこと、知らないはずもなかった。でも、何を考えているのかわからないのは初めてだった。例え目の前で自分の妻を殺した男でも、私にはその思考の流れがすぐにわかった。私を誉める大人も、蔑視する子供も、どうしてそう思うのか理解できた。だって、それは全部……私が、そうなると思ってした、あるいは、必然として起こってしまうことだから。だって、そうでしょう?何かをして、今何をしているから、だから、どうなる。周囲から私と私のしたことがどう見えて、結果として、どう思われ、対処されるか。そんなこと、考えればわからないはずがないわ。私は、ずっとそうしてきた。それが普通なんだと思っていた。だから、その老人の……私の祖父である男が何を考えているかわからなかった時、私の今までのすべてが、壊れてしまった。どうすればいいのか、何をしたらいいのか、わからなくなった。そして、それが……たまらなく、どうしようもなく、怖かった。」怯えるように、低く。「私は、与えられた部屋に閉じこもった。誰とも、話をしなくなった。それでも、老人は私に何もしなかった。瑞樹を演じていた私を責めたり、それを周囲に言いふらしたりすることもなかった。それが、私にとっては尚のこと恐怖だった。こうなったら、いっそのこと逃げてしまおうかとも思った。部屋には白いドアがあった。私は、いつあの白いドアが開いて、老人が入ってくるんだろうって……それだけを、恐怖していた。ドアには鍵もあって、天窓には格子がついていた。その部屋が、奇行を繰り返す私を閉じ込めるために作らせた部屋だということはわかっていた。前の屋敷にも、同じ物があったから。だけど、そこでも私は、あの老人のさらなる行為に……愕然とした。」口許が、歪む。「彼は、私に……無造作に、鍵を渡したの。まるで、私が逃げ出したいって思ったことをわかっているように。ううん、間違いなくわかっていたのよ。だから、私はもっと怯えた。何もかも、気付かれているんだって。鍵を手に入れても、私が逃げ出すことが出来ないことまで、わかっているんだって……そう、思ったの。」息が、散る。「そして、それは事実だった。私はね、本当に逃げようとした。半ばまで、逃げかけた。でも、できなかった。だって、どこに行けばいいの?何をすればいいの?私には何もない。本当の両親はおらず、身寄りもない私に、行くあてもするべきこともなかった。」虚しく、吐息だけが、散った。「その時、私はわかったの。瑞樹として生きていた……ううん、九条院家の跡取りである瑞樹になることを決めた時、私はそれ以外のあらゆる道をなくしてしまったんだって。今の私は、九条院瑞樹でしかない。ううん、そのふりをしていた、一人の子供でしかない。そして、それを老人に見抜かれてしまったから、もう、私は私ですらない。それが……ようやく、わかったの。」息が、乱れていた。「私は、部屋に戻った。それでも、怖かった。それからも何度、逃げ出そうと思ったかわからない。でも、駄目だった。あの老人がいる。彼が、私のすべてを見ている。彼には、私が何を考えているかわかる。どこに逃げても、必ず見つかる。だって、私には彼が何を考えているかわからない。でも、向こうは違う。だから、かなわない。かなわないから、怖い。あの老人に、会いたくない。あの老人のいる、世界が怖い。だから、私はずっと、その部屋にいた。たった一人で、ずっと……」
「でも、君は……」渉は、たまらなくなって言葉を紡ぐ。「だって、君は、西之園さんに……出会って……笑って、そして、友達に……」
「そう……桐生君。私はね……私は、出会ったの……」彼女が、顔を上げ……渉は、驚く。「……私は、あの日……彼女に、出会ったのよ……」誇らしげに、言う。その豹変に……渉は、思わずたじろいだ。「彼女が、扉を開けてくれた。彼女が、示してくれた。彼女が、何が出来るか……教えてくれたの。彼女が、私の足りない部分を……すべてを、満たしてくれたのよ。だから、私は、ここにいるの。今も、生きているのよ。生きていられるの……こうして……」手を掲げるように。恍惚として、声が響く。「すべてが、満ちたの……あの日、すべてがFになったの……」
 すべてがFになる。
 Full……
 完全に……?満ちる……
 ミチル……
「それは、とても短い間だった。でも、私にとっては一生分……ううん、それ以上の幸せだったの。刹那でも、それは、無限だった。本当に、束の間の逢瀬だったけど……永遠の、瞬間だった。」
 ゆっくりと、手が握られる。白い、手袋……「だけどそれは、あまりにも突然に終わってしまった。でもね、そのことは、私にとって……真の意味での、するべきことの指標となる出来事だったのよ。あの事件が、私にそれを教えてくれた。私に、道を……決めさせてくれた……」
「決めた……?事件……」
 彼女は、ほほえむ。「そう。決めたの……自分で、決めたのよ。あの日、あの事件について知らされたあの日……私は、そうすることを決めたの。瑞樹として生きることを決めた、あの時と同じように……私は、それを、決めた。だって、だからこそ……私は、生きていられるんだから。彼女はね、私に……それを、教えてくれたのよ。彼女が、まさに身をもって……それを、示唆してくれたの。最後の教導を……私に、してくれたのよ……」声を出して、笑う。
 渉は、言い知れぬ何かにぞっとする。
 何が……「それは、そのことが、私に道を示した。そのために何をすべきで、どう行動するのが正しいか。決断したら、それですべてが始まった。そう、老人によって……九条院佐嘉光によって終わらされたゲームが、もう一度……最初から、リスタートしたの。私は、瑞樹に戻って……ゲームを、リセットしたのよ……」笑い声。
 渉は思う。彼女は、誰なのか。
 そして……「こんなに楽しいことはなかった。私は、すべてから解放されたの。だから、私は進んだ。ずっと、そのためだけに生きていたのよ。そして、その日はあっという間に訪れた。障害なんてあるはずもない。それは、完璧で、絶対だった。それは、決してミスをすることがなかった。私はそうして……私は、そうして……」
 目を閉じる。
 ゆっくりと、彼女は屈した。
 泣いているのか。だとすれば、嬉しいからだろうか。それとも、悲しいからなのか。
「共有すること。等しくなること。交わること……人は、そのために生きているのよ……」面を上げた彼女に、渉は息を呑む。「彼女と再会するために、私は生きて来たの。ただひたすら、そのために……生き続けたの。彼女と再会するためなら、どんなことでもできた。何でもしたのよ。こんなに素晴らしいことってないわよね?そうよね、渉君……貴方も、きっと……そう思うわよね?」
「西之園さんは……そんなことを、望んでない……」渉は、自分の言葉の意味に……その意義に、愕然とする。「俺は、そう思います……きっと……」
 言葉は、不自由……
「渉君は、まだわかってないのね……」悲しげに。「萌絵……あの子はね、私と同じなのよ。違うけど、同じ。だから、私達は出会ったのかもしれない……ううん、それもまた、計算されていたのかもしれない……」ただ、笑う。「萌絵も、私と同じ。等しくなるために……再会するために、交わるために……ここに、来た。そのために、すべてをかなぐり捨てて、何もかもを企てた。私があの子を利用したみたいに、萌絵も……貴方を利用したのよ。私達は、やっぱり……出会ったあの日のように、そっくりだった。昔と同じ……あははは……」
「利用……?」
 口許が、緩む。「貴方が、この船に乗り込んだという事実。あの子が、乗っていないという現実。でも、それは正しくない。正しくて、正しくない。真実は、それぞれの人の中にあって、誰にも理解されない。私が、悴山貴美。あの子が、九条院瑞樹。なら、誰が西之園萌絵なの?誰にとって、何が正しいの?絶対に正しいことなんて、この世にあるの?自分がそうだと思っていれば、それが正しいの?世界の誰一人それを信じていなくても、自分がそう思っていれば、それは正しいことなの?それを決めたのは……決められるのは、誰なの?」
 渉は、答えられない。
 それが、答えだったから。
 そして、彼女もまた……表情を、変える。
「でも……私達は、等しく失敗した。ううん、まだ終わってはいない。でも、とっくに終わっていたのよ。だって、すべては……用意されていたんだもの。何もかも、準備されていたんだもの。私達が失敗することは、すべて……プログラムされていたのよ。何もかもが、決まったままに動いて……そこには、一つのバグもない……」また、落ちる、雫。「絶対は、この世界にあるのね……私は、結局……それに、届かなかった。結局、それを知ることしか……私には、できない。あの人には、なれない……交わることなんて、できっこない……だから、渉君。お願い……萌絵を、あの子を……止めて。」
「俺が……」渉は、呆然としかける。「俺が……西之園さん……を?」
「私と同じ道を……あの子に、歩ませたくない。あの子には、絶対に……ふふ、おかしいな、何を言ってるんだろ……」首を、力なく振る。「萌絵のことなんて、どうでもよかった。萌絵がどうなろうと、いいと思ってた。だって、あの子は私を知らない。私は、あの子を知ってるのに……あの子は、私を知らない。あの子なんて、関係ない……友達なんて、いないもの……そんなの、絶対……」潤んだ瞳を見開いて、彼女は、渉を見た。
 奇麗な顔だった。
 それが、例え幾多の傷を隠していても、
 それが、何人の他人に上書きされた表情でも。
 彼女は、美しかった。
「ね、桐生君。私は、止めに行くのよ。貴方と、同じ。私も、止めに行くの。渉君しか、萌絵を止められないのと……その理由と、同じ。私しか、あの人を止められない。それが、わかったの……だから、それをするの……成功するか、しないかじゃない。できるか、できないかじゃない……生きているから……」涙が、零れた。「お願い……渉君……」
 彼は、黙した。
 何が、あるというのか。
 だが、それは、必要だった。
 渉は、口を開き……
「瑞樹……そんな……そんなこと……!」
 西之園萌絵が、暗闇の中に、声を響かせた。
 すべてが、立ち戻る。それを、取り戻す。
 語られた、事実の前に。
 彼女が、気付く。
「何てこと……あの子を……瑞樹を、止めないと!駄目よ!きっと、殺す……殺すつもりなのよ!どうして、どうして行かせたんですか!」当惑し、錯乱しかけて……そして、彼女は、叫ぶ。「デボラ!デボラ!お願い、答えて……答えなさい!デボラ!」
 それは、魔法の言葉だった。
 彼女の……名前。
「認識しました。」女声が、再び……「西之園萌絵さん、命令をどうぞ。」
「デボラ、このドアを開けて!」振り向きざまに、萌絵は入って来た扉を指差す。
「このドアは、真賀田未来さん以外の人には開けられません。」
 目を見開いた萌絵が、絶句した。渉を一べつして、そして……「なら、リセットしなさい!システムすべてを、エマージェンシー・リセット!」
「そのコマンドの使用には、パスワードが必要です。パスワードをどうぞ。」軽やかに、返事が戻る。
「すべてがFになる!」
 萌絵の言葉に、質問が返る。「あなたは、誰ですか?」
「私は、真賀田四季です!リセットしなさい!」
「パスワードが無効です。もう一度、繰り返しますか?」
「ミチル!私は、真賀田ミチルです!」一拍の、間。「私は、真賀田未来です!」
「パスワードが無効です。緊急プログラムへの連続アクセスに対して、警告を喚起しますか?」
 萌絵は、肩を落とす。泣き出しそうな顔だった。その視線が、一瞬……渉を向き、そして、口許が引き締められた。
 それは、怒りだろうか。「デボラ!スーパーユーザの、宮宇智實さんを呼び出しなさい!」渉は、どこか狂態めいた萌絵の顔を見る。「桐生さん、ご存知でしょう?彼は船内ネットワーク・システムの管理責任者です。彼には、全システムに対する強制アクセス権がある。だから、桐生さん……」焦っているのか、勝ち誇っているのか、萌絵の表情は捉えきれなかった。「……こんな茶番なんて、無意味なんですよ。彼は現在、MSIのトッププログラマです。同時に、世界最高の……」
「認識しました。」そして、彼女の声がする。萌絵が笑みを強め、渉は緊張の度を強める。「宮宇智實さんは現在、船内管理システムにおけるスーパーユーザではありません。宮宇智實さんのシステム管理権限は、十三時間〇九分前に失効されています。」
 萌絵の驚愕は、彼女にふさわしくほんのわずかな時間だった。「なら、私の権限は!デボラ、黒峰那々のスーパーユーザ権限はどうなっているの!」
「黒峰那々さんのシステム管理権限は、十三時間十分前に失効されています。」 
 萌絵は、屈した。蒼白で、音も立てずに……彼女が、それを失う。
 そして、渉が……その身体を、支えた。
「桐生さん……」萌絵が、目を震わせて渉を見る。混乱し、当惑の果てにあろうとも、彼女もまた奇麗だと渉は思う。「私……」腕の中で、彼女は……瞳を、潤ませていた。
 それが、何なのか。
 渉は、ゆっくりと息を吸う。そして、静かに吐いた。
 上を見る。廊下が続く、暗い天井。
「桐生渉です。カサンドラ、すべてのシステムを緊急リセットして下さい。」
「認識しました。桐生渉さん、パスワードをどうぞ。」
 渉は、瞬間、それを甦らせる。
「A∩B={x|x∈A,x∈B}。」
「あなたは、誰ですか?」
「それは、俺にもわかりません。」
「認識しました。ただ今より、すべてのシステムをエマージェンシー・リセットします。再起動には一分が必要です。さようなら、桐生渉さん。」
 そして、照明が落ちる。すべてが落ちる。
 ただ、赤い光だけが、残った。
 蓄電池による光。非常灯。赤い、光だった。
 魔法。
 部屋には、静けさが甦る。
 その中で、彼は、理解した。
 生きている者だけが、意志を持つ。
 生きている者だけが、意志を以って人を生み出すことができる。
 生きている者だけが、意志を以って人を殺めることができる。
 だから……
 人は、その起点として複数であり、その終点として、必ず複数であらねばならない。
 だから、人は、孤独ではない。
 勿論、人は違う。どこまでも、別個だ。
 だが、それでも、人は同じだ。生きている者として、人と違う人は、必ず、共通する部分を持つ。
 それが、人を殺すことでも……
 人を愛することでも、概念的には同じなのだ。
 肉体でも、精神でも……
 人は、人と、交わっている。
 A∩B={x|x∈A,x∈B}。 
 等しくは、なれない。数字のように、虚数のように、孤独であり、それが当たり前だろう。
 だが、人であるから、それらもすべて、どこかで交わっている。
 生きているから。
 だから、人は……それを求め、生きている。
 拍手が、鳴った。
「ブラボー、桐生さん。」
 渉が、萌絵が、顔を上げる。
 ゆっくりとした、両手が打ち鳴らされる音。通路に備えられたスピーカーからのそれであろう、極めてクリアな拍手と……音声が、闇に響いた。
「いや、実にお見事です……」そこで、少し声が歪む。「……おっと、失礼。いや、元々こういうことには慣れていないもので。ですが、桐生さん……それと、西之園さんにもですね。お二人には、お礼の言葉もありませんよ。」
「この、声……」萌絵が、目を見開く。「まさか……!」
 渉もまた、それに行き付く。信じ難い……帰結を以って。
「貴方は……」見上げる。「山根……さん……?」
 姿は、ない。だが、耳にしたその声が……詞が、彼に思い出させる。
 あの夏、彼と彼女を案内した者。犀川創平を加えた彼ら三人を、あの黄色いドアに導いた人物。
「ええ。お久しぶりです、お二人とも。」
 それは、真賀田研究所の副所長……
 山根幸宏の、声だった。
 
 
 


[455]長編連載『M:西海航路 第四十三章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時07分 Mail

 
 
   第四十三章 Magic

   「貴女は幸運でしたね」


 二人が降り立ったエレベータ・ホールは、今までのそれと一風変わった作りをしていた。
 桐生渉は興味深くそれを窺う。印象が違う、という言葉が最もふさわしいであろうそれは、無機的というより機能的なエナメル質の壁や床の作りといい、まるで……「研究施設みたいですね、桐生さん。」西之園萌絵の表現は、渉も無言で頷き返しに足る説得力があった。しかも、当然のようにそれは最新式のようだ。どちらかといえば警備員でも立っている方が自然かとも思うが、それこそ電子的なセキュリティが存在するのだろう。
 背後でエレベータが閉まり、二人は黙して顔を見合わせる。だがその沈黙の理由について思案する前に、二人をここに案内した男の声がかけられた。
「ようこそ、お二人とも。M.M.号の中央管理区画へ。」山根幸宏は、大袈裟に手を差し伸べて挨拶をした。「楽にして下さい、と言いたいところですが、あいにくここには、そういった談話室のようなものがないんですよ。スペースのほとんどを器材に取られてしまって……」山根は笑った。「まあ実際、働いている人間は僕を含めても十五名程ですし、それぞれに個室がある以上、無理に顔をつきあわせる必要がないと言えばそれまでですか。まあ、集まって仕事をする部屋もあるにはあるのですが……それは後にしましょう。とりあえず、僕の部屋で良ければ案内します。」含むところを露骨に見せて、彼は、それでも愛想笑いを浮かべた。
 山根幸宏。桐生渉と西之園萌絵は、その……目の前にいる人物を凝視する。
 灰色のTシャツによれよれのズボン、そして羽織った白衣。そこにいたのは、まさに昨年二人が出会ったままの真賀田研究所副所長、山根幸宏だった。
「これは、参りましたね。桐生さん、そんな、幽霊でも見るような目で見ないでくださいよ。」頭をかいて、山根は言う。「でも、そんな様子ですが、それでいて桐生さん。貴方は実は、僕がいることに薄々気付いていたんじゃないですか?」山根は口許をかすかに緩めた。身だしなみも整わない不精髭ながら、どこか憎めない……いや、ある種超然とした雰囲気も、相変わらずである。「能ある鷹は……の見本みたいなものですからね、桐生さんは。あっと、誉めているんですよ、これは。ははは……でしょう、西之園さん?」
「そうですね。」話を振られて戸惑ったのは、西之園萌絵ではなく渉の方だった。「その通りだと思います。桐生さんって、とぼけて何も考えていないように見えるくせに、それでいて必ず本道……物事の中心に関わっていますよね。まるで……」萌絵は、ふっと声のトーンを落とした。「……犀川先生みたい。」
 今更のように気持ちを入れ替え、渉は苦笑する。「全然、違うよ。」そうだ。それはむしろ、西之園萌絵自身がそうなのだろうと思う。常に物事の中心に身を置き、それから外れることをよしとしない。「それに、犀川先生だって違うと思うけどね。」そうかもしれないと渉は思う。萌絵と犀川は、どこかで、決定的に違う部分がある。そしてその部分でのみ、自分が犀川に似ていると評した萌絵の指摘が正しいかもしれないと渉は思った。
 それは、何だろう。受動的と能動的……パッシブとアクティブと呼ばれる潜水艦のソナーのようなものだろうか。自分の状態を望ましいように保ち、あるいは望む位置に運ぶために周囲に信号を発し、ある意味それらを自らの行為によって巻き込んでいく西之園萌絵。正反対に、傍目にして自分からはそう見えず、なるべく社会的な責任を……状態の変化を回避しようとする犀川と自分。渉は国立大学の助教授である犀川創平と自分を比べることの荒唐無稽さに笑ったが、だがそれでもどこか確信めいた感覚をそこに宿した。能力や経験、知識や性格などの定義に関わらず、犀川と自分には似たところがある。そして、おそらく犀川は当の昔にそれに気付いているのではないか。だからどうだという訳ではないが、犀川の指導を受けた数年、それを遠回りに示唆するような彼の発言があったことを渉は思い出す。
 そうかもしれない。だとすれば、俺は留年し来年の卒業も甚だ怪しげな今になってそれを理解したのかと、渉は自分に笑う。そしてもう一つ、西之園萌絵が自分に対して叫んだ言葉……渉と犀川の関係に嫉妬したような彼女の言葉も、あながち全否定されるべきものではないのかもしれないと彼は思った。
「まあ、それはともかく。」黙してしまった二人に、山根が再び声をかける。努めて明るいのは、先程二人に声をかけ、ここに導いた時から変わっていない。「遥々ここまで来ていただいたのですから、それなりのもてなしをしなければならないと思っていますよ。あいにく今回は、去年の夏のように宴席を催すという訳にも行きませんでしたが。」山根は笑い、渉は昨年、真賀田研究所の所員達が彼らN大の生徒を歓迎してくれたパーティを思い出す。考えてみれば、人付き合いが不得手な超エリート集団であった彼らが、よくあんな場を開いてくれたものだと渉は思い、今更のように不思議な感動を覚えた。「ですが、その準備までにはほんの少し時間がかかります。その間、僕の部屋で暇でも潰しましょう。」ドアが並ぶ区画に入ると、山根は一つのドアの前に立ち……瞬く間にそれが開く。「どうぞ。」三人は部屋に入った。
 部屋に入った途端、渉はさらなる幻惑めいた感覚を抱く。壁にかかる和凧と、棚に並ぶ盆栽。それはかつて、真賀田研究所で見た山根自身の私室と瓜二つだった。渉が萌絵を見ると、同じような表情で目線を返してくる。
「山根さん、これ……」山根はいくつかある椅子の一つに腰掛けると、無言のまま、白衣のポケットから煙草を取り出した。うながすように他の椅子を勧めながら、テーブルの上のライターで煙草に火をつける。
「はは、驚かれましたか?」ゆっくりと煙を吐き出すと、山根はどこか苦笑いにも似た表情で首を振った。「キッチンに、向こうにはバスルームもありますよ。」渉は山根の口にした言葉の意味に気付き、身を強ばらせる。「無論、わざとあの部屋……真賀田研究所と同じ作りにさせています。他のデッキはともかく、このエンジニア専用の区画については、徹底的に口を出しましたからね。役得というか、譲れない部分ですよ。人間、過ごしやすい環境というのは、十年二十年と変わらないものですからね。」
「質問に答えていただけますか、山根さん。」山根の言葉を無視するように、萌絵が鋭い言葉を投げかけた。渉は彼女を見る。「いったい、これは……いえ、どうして貴方がMSIに?宮宇智さんはどうしたんですか?」萌絵の表情は、その口調と同じく極めて鋭かった。渉は先程の、彼女との対峙の時間を思い出す。
「はは、そうですね。実は、そういった質問に答えようと思っていたんです。」山根は余裕のあるポーズで煙草の煙をくゆらせると、萌絵の方をチラリと見て告げた。「僕は去年の末……つまり、約一年前からMSIの社員です。役職は開発部の主任。無論プログラマとしてのものです。それと宮宇智君のことですが、彼は既に、MSIを任意退職しました。」
「退職!?」愕然とした萌絵の声が響く。「どうしてですか?理由は?彼ほど優秀なプログラマを……」
「理由は情報漏洩です。」山根はさらりと言う。「まあ、社内規約に対して著しい違反があったということですね。彼は確かにMSIのエースとも言うべき世界的な逸材でしたが、残念ながら利潤を旨とする株式会社の立場上、自社の利を損ね他社に益をもたらす行為はどう考えても評価に値しないでしょうからね。まあ、僕も自分を棚に上げるつもりはないですし、ここに集まったプログラマが揃って人格者とは縁遠いことも認めます。だが、それでも彼の行為は目に余った。これが独断先行と言うだけなら、何のとがめもないのですがね……」
「どうやって彼を?船外に対する一般の通信は不可能なはずです!」萌絵は食い下がり、渉はその言葉に驚く。「第一、彼は船内ネットワークの……!」萌絵が、そこで口をつぐんだ。
「御明察、と言うのが正しいでしょうか、西之園さん。」山根は吸い終えた煙草を灰皿で消し、新たなそれを取り出す。「つまり、そういうことです。彼はあらゆる意味で外部の存在である貴女のコンタクトに応じ、遂には我々が実行中の極めて重要なプロジェクトに対し、多大な損害を被らせかねない行為に及びかけた。しかも、それに乗じて、さらなる個人的な利益を追求しようと謀った。」チラリと自分に目を向けた山根に、渉は再び驚く。「西之園さんは知らないかもしれませんが、宮宇智君は昨今MSIの競争相手として急浮上して来たB社……そこの幹部とも接触していました。カリフォルニアにある彼の自宅を含め、メールサーバ等から抽出されたそれらのデータが僕の所に届けられています。さらには西之園さん、貴方が日本の関連企業……MSIとゆかりのある某コンピュータ会社を通じて彼に送ったメールも同様です。」
「そんな……そんなの嘘です!」萌絵はきっぱりと否定した。「そんなもの、ありっこないわ!あったとしても、それは**(確認後掲載)です!だって……」
「レッドマジックのセキュリティが、他人に秘匿されたメールを参照させる愚を犯すはずはない、ですか?」
 渉は目を見開く。山根は、新たな煙草をゆっくりと取り出すと、黙ったままそれに火をつけた。
 萌絵は黙している。その表情は、山根と同じく読めなかった。自分は今、どんな顔をしているのだろうと渉は思う。
「西之園さん、貴女は頭がいい。おそらく僕やここで働くエンジニア……さらには、旧真賀田研究所の人間を含めた誰よりも頭がいいでしょう。そしてそれは、時と場合によるのかもしれませんが……あの犀川先生すら越えるものだ。」山根は静かに語る。「僕は、貴方と真賀田女史……彼女が誰であり、現実にその言葉を紡いでいたのが誰であろうかに関わらず、です……貴女達二人の会見の映像を何度も見た。僕が十五年間研究所で勤務した中で、あんな彼女を見たのは……あんな言葉を聞いたのは、初めてのことです。」肩を軽く上げてみせると、山根は不敵に笑う。「あれを見て、僕は確信しました。おそらく貴女は、真賀田女史が唯一認めた存在なのです。勿論、それは犀川先生や桐生さんにも少なからず関係していることでしょう。ですが、貴女だけはその中でも特別だと僕は思う。そしてそれは、僕と同じくあの映像を見た宮宇智君にも同じだったでしょう。」
「まさか……!」萌絵は目を見開く。「宮宇智さんが……」
「それですよ、西之園さん。」微笑する。「そんなはずはない。貴女が、宮宇智實の考えていたことに気付いていないはずがない。貴女が彼を利用したように、彼自身も貴女を利用した……そうしようとしていると、貴女が考えていないはずはないでしょう。」萌絵の長い睫毛がかすかに震えた。「そして、貴女は彼を御することができると思った。何しろ、貴方が相手にしようとしていたのは、世界最高、最大の知性を持つ存在です。それを相手にする以上、凡百とも言える彼程度の知性をコントロールできなくてどうしますか。そしておそらく貴女は、彼が今回のプロジェクトで得たデータを私的に利用することも読んでいた。それでいてなお、貴女は彼の能力を欲した。いや、必要だった、ですか……」深く、煙が散る。「……この航海の途上で、真賀田の名を持つ女性を捕らえるために。」
 萌絵は一瞬、顔を背ける。何かを……歯を食い縛っているのだろうか。整った横顔は、やはりというか決して均整を失わなかった。
 そして一転、萌絵は山根を睨み返す。「ありもしないことを並べたてて、私の自供を促す気ですか?」萌絵はせせら笑う。「よくある手だわ。つまらないミステリィの探偵って、そうやって根拠に繕われた好い加減な推理をするんです。そうすると、犯人が観念して告白を始めるんですよ。俺がやったんだ、でも仕方なかったんだって。そして、犯人以外誰も知らない……喋ると自分に不利になるどころか、そのままなら確定しない可能性が高い自分の罪を確かにしてしまうことまで、全部喋るんです。馬鹿みたい!」萌絵は昂ぶったように鼻を鳴らす。「私、昔からそういう犯人の態度が気に入らなかった。どうしてこれだけの準備をしたり、手品師顔負けのトリックを考えて実行する能力があるのに、精神的に少し追い詰められただけで、都合よくペラペラ全部を話しちゃうの?お約束って奴ですか?それとも、種明かしをしないのは禁じ手だから?犯人自らがすべてを語るのが、一番正確だから……それが間違っていないのは常識だから?本当に、そうなんですか?ねぇ、桐生さん!」
「えっ……」渉は、降って沸いたような萌絵の言葉と……その剣幕にたじろぐ。
「どうしてなんです?教えて下さい!」萌絵は、どこか必死だった。渉は、ふとかつてのことを思い出す。カクテルバーで、読んだミステリィについて二人で語り明かした夜。萌絵はそんな時も懸命で、そして一途だった。
「俺は……」
「桐生さんだって、私が全部を企てたって思ってるんでしょう?本当にそうですか?本当に、私が全部、企てたことですか?人が死んだのも、ハワイ行きが目茶苦茶になったのも、全部私のせい?私が犯人……実行犯にそうさせるべくしむけた、真犯人だって言うんですか?」渉は窮する。だがその中で、彼の思考は働き続けていた。
 そうだ、止まることはない。それは、決して、できないのだから。
 悴山貴美……否、九条院瑞樹。
 九条院瑞樹……否、真賀田ミチル。  
 そして西之園萌絵もまた……別の、存在だった。
 名を変え、あるいは姿を替え、彼の前に現れた三人の女性。
 翻弄され、戸惑い、そして今、ようやく答えを見出した。いや、そう思った。
 だが、決着はついていない。幕は、降りていない。
 船は、動いている。
「山根さん。俺も一つ、聞きたいことがあります。」萌絵の問いを無視するように渉は言った。「貴方が、俺達に正体を明かすきっかけになった、さっきの出来事……あれは、何だったんですか?」
 山根は笑った。そして、頷く。「そうですね。何しろ桐生さんは今回の件につき最大の功労者です。勿論、お答えしましょう。」
「宮宇智さんは、俺が何か知っている……自覚せずとも、それがあると言っていました。」渉はあの、どこか憑かれたような様相の男を思い出す。「彼は、俺が何かを持っていて、それと俺の自由を取り引きしようと持ちかけた。この事件の犯人が誰か、知っていると。」萌絵が息を呑み、渉はあえてそれを無視した。「それは、さっき俺がしたシステムのリセットと……関係が、あるんですか?」
「そうですね。関係があるのは間違いありません。というより、桐生さんは当然察しているでしょうが、宮宇智君が貴方との対面で示唆したものと、先程の貴方の行為とはまったく同じものです。そして同時にそれは、我々に……今回の計画にとっても最大の成果となるものだった。つまり桐生さん、貴方が告げた船内のネットワーク・システムをフルリセットするためのパスコード……それが、我々MSIのプロジェクト・チームにとって、至宝とも言うべきデータなのですよ。」山根は感服したように告げる。
「あの数式が、何だって言うんですか?」萌絵が横槍を入れる。「A∩B={x|x∈A,x∈B}?あれは、ただの集合の解説じゃないですか!意味のある方程式ですらない……AとB、二つの集合が共有する要素xの集合として、共通部分が定義される……ただ、それを示しているだけじゃないですか!中学生だってわかる数式だわ!それが、どうして……」萌絵は理解できないというように首を振る。「あの、真賀田博士が言った数字の定義……『7は孤独』ということと関係があるんですか?桐生さん、どうしてあんな式を……」
「7は孤独、ですか。」山根が静かに言う。「そして、BとDもそう……女史が告げた言葉ですね。」微笑し、そして少し含むように言う。「若きピアニスト、黒峰那々……西之園さんは、意識して招待客の中から彼女を選んだのでは?」
「それとこれとは関係ありません!」萌絵は叫ぶ。「答えて下さい、桐生さん、山根さん!どうして、あんな式が答えなんです?どうして、それがパスワードになるんです?現代最高のセキュリティを持つはずのレッドマジック・バージョン5が、どうしてそんな不可解なパスワードで……しかも、名前も知らない人の言葉でリセットされるんですか?」
 レッドマジック。
 再び、今度は萌絵の言葉から紡がれた詞が、渉の目を閉じさせる。
 
 


[456]長編連載『M:西海航路 第四十三章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時07分 Mail

 
 
 レッドマジック……赤い魔法。
 真賀田研究所の再先端の技術を担い、保護していた、最高のセキュリティと開発能力を持つネットワークOS。現行、主流となっているUNIXなどを遥かに陵駕するその性能は、すべての設計の根幹を担うただ一人の人物……真賀田四季博士によって作り出されたものだった。
 そしてそれが、真賀田研究所で使われていたレッドマジック・バージョン4が……あの事件の、すべての鍵を握っていたのだ。
「レッド・マジック……」渉は、その言葉を口にする。
 どれほど、どれだけ、長かったろう。
「バージョン……ファイブ……?」
「バージョン6は、未完成だったんです。」萌絵は早口で言う。「桐生さん、覚えていますか?真賀田四季博士のコンピュータに残されていたテキストファイル……真賀田四季、栗本其志雄、佐々木栖麻……三人の名を以って署名された、メッセージ。あの、すべてがFになる、の言葉と共に残されていたものです。」
 萌絵の口から語られた三人の名前を、渉は思い出す。いや、思い出す必要すらなかった。
 忘れられるはずもない。
 真賀田博士。生まれてまもなく死んだ博士の双子の兄。そしてアメリカで彼女の世話をして、交通事故で亡くなった女性。
 真賀田博士の中にいた、人々。
 そう、『彼女』の中にいた……「もちろん、覚えているよ。レッドマジック・バージョン6だけは、コンパイラと一緒に……最後のプレゼントとして、残しておこう……」渉は、静かに答える。
「私、あの言葉がずっと気になっていたんです。あのメッセージの意味……真賀田四季博士が、罪の意識から残した言葉?すべてがFになると重ねて、事件を誰かに……自分の行為を誰かに止めてもらうために残したメッセージ?」萌絵は、そこで笑う。「ううん、そんなはずがない。だって、あの場所であのメッセージを打ったのは……真賀田四季博士自身じゃないんですから。そうですよね、桐生さん?あそこにいたのは、十五年間……ううん、十四年間ですか?最初の一年を除いて、あそこで暮らしたのは……真賀田四季博士じゃない。彼女の妹、三歳年下の未来さんだった。二人は裁判の時の面会時間を利用して入れ替わった。未来さんは四季博士になって、研究所に戻り……四季博士は、未来さんになって山梨の実家に戻った。そして療養を終えて、遠縁の親族を頼ってアメリカに渡り、小さな事務所に……MSIと関係のある会社に就職した。そうですよね、山根さん?」山根は黙して新たな煙草に火をつけた。萌絵は不敵に笑う。
「彼女はそこから、すべての指示を出していた。MRI……真賀田研究所の地下で暮らす妹の未来さんに、自分として……真賀田四季としてどう振る舞い、どうプログラムをするか、レッドマジックのメール表示の落し穴を利用して、誰にも気付かれることなく情報のやり取りをしていたんです。無論、研究所内部での細かい打ち合わせもあった。そういう場合は、四季博士の娘……ミチルさんの存在を知っていた唯一の人物であり、彼女の父親でもある新藤所長が、テレビに隠された無線を通じてヘリコプターから連絡をしていた。真賀田四季博士と新藤所長……ミチルさんの両親でもある二人の協力で、十四年に至る隠匿が成功したんです。」山根に訴える萌絵の表情は、冷静さという点で先程の渉とのそれより遥かに上だった。
 渉は黙す。それは、誰あろう彼自身が解明したことだった。レッドマジックに隠された扉の開閉プログラムと、無線による通信を見抜いた犀川……そして、中にはいなかった四季の存在と、ミチルの存在……『M.M』の意味を看破した渉によって、あのトリックは説き明かされ、事件は解決に向かったのだ。
 解決か、と渉は皮肉に笑う。すべてが覆され、一般には誰一人信じていなくても、それは、解決と呼べるのか。
「でも、私は思ったの。あの三人のメッセージと、すべてがFになる……スケジューラに残ったテキスト。それを同一視していいのかって。だって、矛盾しています。レッドマジック・バージョン6は未完成だった。コンピュータに残っていたのはバージョン5と、それのコンパイラだけだった。そして、栗本其志雄さんの、道流を置いていくのは忍びない、というメッセージ。どうしてそうなるの?ミチルさんは、脱出している。計画を書き替えたのは、未来さん本人なのよ?本来の計画では、母を……未来さんを殺して脱出するはずじゃなかった。その証拠に、『できることなら、もう一度会って話がしたかった……』って、あの時四季博士は……未来さんを装って研究所を訪れた彼女は言っています。それに、焼却炉から取り出されたマネキンの燃えかす……それらが、あの計画の本来の姿を示しています。未来さんとミチルさんは、二人で脱出するはずだった。そうですよね、桐生さん?」渉は黙した。それは、犀川があの事件の後、彼に告げたことだった。
 あの日……あの、夏の終わりの日。「だから、メッセージを残したのは四季博士じゃない。あれは、未来さんがしたのよ。そうだとすると、メッセージの意味は簡単に理解できる。彼女もまた、四季博士と同じ多重人格者だった。彼女もまた、天才だった。そして、彼女の中の人格が……姉の四季博士の人格が、あのメッセージを残した。なら、出たがっていた道流って誰?あのロボット?そんなはずはない。あれは、ただのお遊びで作られたロボット。道流は、ミチルよ。名前なんてない、そんなことは決めていないって、博士も……あの子も言っていたけど、本当は違ったのよ。」萌絵は、再び……浮かされたように語り続ける。「真賀田未来さんは、あの子のことを道流と呼んでいた。ううん、例え口には出さなくとも、心の中で道流と名付けていたのよ。だってそれは、姉が……彼女のお姉さんが両親を殺した時に、捨てられてしまった人形の名前だったんだもの。姉が、研究所に唯一持って来た人形……それが、ミチルだった。だから、未来さんは、捨てられてしまったミチルの代わりに、四季博士の娘にその名を付けた。結局、四季博士の命じた通りに名前など呼ばなかったのかもしれない。だけど、心の中ではミチルと……道流と呼んでいた。」萌絵の視線に、渉は思わず顔を背けた。
 真賀田ミチル。真賀田道流。
 両親の返り血を浴びて、血まみれになって捨てられた人形。
 実の叔父との間に生まれ、聞かされるままに人の命を奪った少女。
 名もなきその少女の、たった一人の遊び相手だった稚拙なロボット。 
「だとしたら、あのメッセージは?どういうつもりだったの?コンピュータの中のメッセージは、どうやって残されたの?真賀田博士……いえ、あの部屋にいた未来さんが、何を考えたと思います?私は、それに気付いたの。それは、とても恐ろしい……」萌絵は、眉根を寄せて唇を噛んだ。悲愴に満ちた表情で、そして、言葉を続ける。
 何かを、確かめようとするように。
「ミチルさんは、母親を……両親を殺すために育てられた。そのまま、育てた未来さんを四季博士と……つまり、自分の母親と思っていたならば、あの部屋から出る時に彼女……未来さんは死ぬわ。でも、あの日現れた四季博士は、できるならば未来さんともう一度話がしたいと言っていた。これは、矛盾です。だから、私は思ったの。未来さんが本当の母でないことを、産んだのは別の人物であることを、おそらくあの日……ミチルさんが十四の誕生日を迎える日の直前、あるいは同じ日に、伝えることになっていた。そうすれば、そこにいるのは自分の母でなく、叔母ということになる。ミチルさんが両親を殺して大人になるためには、新藤所長と、もう一人……本当の母親である、真の真賀田四季……つまり、アメリカからやってくる未来さんを殺さなくてはならない。そして、本当はあの日、それが……それが、行われるはずだったんです。」萌絵は声を震わせる。「すべては、それを遂げるために計画されていた。完璧にプログラムされていた。そして、部屋から出るのはウエディングドレスをまとった、ただのマネキン人形のはずだった。私達は注意を逸らし、記録に残らない一分間の空白の間にエレベータで脱出した未来さんとミチルさんが屋上に出た時、ヘリコプターがやってくる。そこに、誰が乗っていますか?」
 山根幸宏も桐生渉も、西之園萌絵の問いかけめいた口調には反応しなかった。だが、萌絵もまたそれを無視するように言葉を続ける。
「そこに乗っているのは、新藤所長と、そしてアメリカから訪れた未来さん、ではない……本物の真賀田四季、つまり、ミチルさんにとっての両親です。そして、ミチルさんは幼い頃から両親を殺して自由に……大人にならなければならないと、いわばマインドコントロールをされていた。そんな彼女が、二人と対面したら……何が起こるのか、誰にだって推察できます。」萌絵は嘲るような顔で渉を見る。「そして、それこそが、真賀田四季博士が十五年前に計画したことだった。『もう一度会って話がしたかった……』彼女がそう言ったのは、その時を……存命する、真賀田の血筋を持つ家族四人で会合する……いえ、十四年の時を経て互いに再会する、その瞬間のことを示唆していたんです。おそらく、そこには短いにしろ会話があったでしょう。正体の告白を含めて、もしかしたら、四季博士は何らかの陳謝を口にしたかもしれない。自分の妹を地下に閉じ込めていた責任を感じていたのかもしれない。それは、新藤所長も同様です。彼が実の姪にしたことは、人として決して許されないことだった。ヘリコプターから降り立った両親は、共に未来さんと娘さん……ミチルさんに謝り、そして、それが正しいと信じるミチルさんの刃によって斃れるというのが、あの計画の全容だった。すべてがFになる……つまり、すべての終焉が、真賀田四季博士自身が、実の叔父もろとも自分の娘によって殺されることが……そして、十五年……いえ、十四年間をあの密室で過ごしていた未来さんとミチルさんが解放され、自由を得ることが……あの計画の、目的だったんです。」
『貴女を含めた三人の、自由の為にですね?』
 真賀田四季博士は、そう尋ねられて笑った。
 あの笑みを、絶世のそれを、渉は思い出す。
 自由とは、何だろうか。
 死が、自由だろうか。
 死を選ぶことは……「でも、それは失敗した。その原因は何でしょうか?それは、犀川先生や私や桐生さんがあの場にいたこともあるでしょう。でも、それらはあくまで事実を暴いたという事後の活動にすぎない。私達は結局、事件そのものを防ぐには至っていない。」山根が、そこで意味ありげに笑った。萌絵はそれを無視して続ける。「なぜなら、すべては私達の到着する前に行われ、そして、事件に気が付いたと同時に、終わっていたからです。私達には、結局何も出来なかった。真賀田四季博士が組み立てたシナリオの中では、どうすることもできなかった。でも、計画は失敗していた……その原因は、間違いなく未来さんにあります。未来さんがシナリオを書き換えたということが、去年の、あの妃真加島での事件を明るみに……いえ、私達の知るべくそれとなった、最大の原因でしょう。そして、四季博士にとって致命的なミスを引き起こしたのは、この計画の根幹となっていた未来さん自身だった……これは、皮肉です。」萌絵は笑っていなかった。
「未来さんが重い病に犯されていたことは、桐生さんに対するミチルさんの告白からも、ほぼ間違いないことでしょう。」渉は、萌絵の視線に目を閉じる。「でも、だからといってそれが、彼女が姉の身代わりに自らミチルさんに殺される理由であったとは、とても思えません。でも、こう考えたらどうでしょうか。未来さんは、四季さんを愛していた。それも、常人には理解できないほどの強い愛情です。未来さんは、幼い頃から姉である四季博士に心酔し、その命令には何があろうと絶対に服従していた。それは、おそらくは四季さんの提案による十四年の研究所生活……牢獄にも等しいあの地下での入れ替わりを快諾したことからも窺えます。もしも二人の意志が統一されていなければ、これほど完璧な入れ替わりと、長年誰にも疑われなかったという結果は発生しなかったでしょう。おそらく新藤所長が手引きをしたのでしょうが、二人は綿密に打ち合わせをして、そしてことに及んだに違いありません。」渉は、感情のままに吐き出された萌絵の言葉を思い出す。「ですが、その未来さんは、最後の最後で姉の四季博士を裏切った。本当は殺されるべき……実の娘を成人させるべく死地に訪れた姉の身代わりになって、四季博士として娘に殺されたのです。それは、どうしてか考える必要もないほど簡単なことです。誰だって、愛する人の……最愛の人のために、何かがしたいと思うでしょう。それが、人として出来る行為の限界であったとしても……それを選択してしまうほどまで想いが強ければ、それが為されても不思議ではありません。」渉は、萌絵を見て思う。彼女は、自分の言葉を、信じているのだろうか。
 俺は……「ならばこそ、私はあの残されたメッセージが、彼女の手によるもの……未来さんの手によるものだと私は思います。あれは、四季博士の計画にあったメッセージではない。四季博士の計画では、『すべてがFになる』という言葉しか残さないはずだった。そうでなければ、出たがっていた道流を置いていく、という言葉や、最後のプレゼントと称されたレッドマジックバージョン6が未完成だったことが説明できません。けれど、あれが未来さんの手によるものと仮定すれば……その意味もわかります。道流、つまりミチルさんを置いていくということは、四季博士の計画から彼女を外す、つまりは彼女を、自分のたどったような真賀田の一族としての人生……宿命とも言うべき道から外す、という意味だったのではないでしょうか。そしてそれはきっと、育ての親として彼女が与えた、唯一の……最期にして、最大の愛情だったんだと思います。だから、彼女はミチルさんに一人で逃げるように指示をした。ある意味で、ミチルさんを四季博士という存在から守ろうと……解放しようとした。」渉は驚いて萌絵を見つめる。「それは、姉の身代わりになったという行為と矛盾しているようにも見えます。でも、未来さんにとって、二人は共に愛する家族だった。その二人を守るために彼女が取れた方法……それが、この手段しかなかったことは間違いありません。そして、それは……成功したんです。そうですよね、桐生さん?」
 渉は黙した。そして、頷く。
 萌絵の言葉の、正しさに。
 そうだ。彼女は、正しい。
 真賀田四季にとっても、ミチルにとっても、正しくないかもしれない。
 だが、真賀田未来は、それを遂げたのだ。自分の命を捨て、姉の計画を失敗させて……
 二人の家族の、命を救った。
 渉は、殺された新藤清二のことを思う。
 真賀田未来は、彼をどう思っていたのだろうか。
「そして、レッドマジック・バージョン6が完成していないというのはもっと簡単な理由……それが本当に完成していないのを、未来さんは気付かなかったんじゃありませんか?いくら未来さんが天才で、人並み外れたプログラマだったとしても、レッドマジックほどの優秀なOSを作り上げるのは、四季博士自身でなければ無理なはずです。そして、バージョン6の完成はまだ中途だった。でも、病床の未来さんには、それを把握しきれていなかった。だから、あんな言葉を残したんです。そうじゃないですか、山根さん?」
「ある面では、それは間違いありません、西之園さん。」渉と同じく、黙っていた山根が萌絵に頷いた。「レッドマジックのバージョン5は、最優秀なネットワーク用マルチタスクOSとして完成していました。そして、バージョン6が未完成だったという認識も、あながち間違いではありません。MSIであれに関わることのできたプログラマのほとんどが、そう思っていたでしょう。僕だって、当初はそう思ったほどです。」萌絵が何か言いかけるのを、山根は制する。「待って下さい、西之園さん。その前に、桐生さんの質問に答えましょう。それがイコール、貴女の疑問に対する答えになるはずです。」
「桐生さんの?」萌絵が二人を交互に見た。「パスワードの件ですね?どうして、あんなものがパスワードとして認識されたんです?」
「あんなものなんて、とんでもない。あれこそが……いえ、桐生さんが先程行ったリセットが、どれほど大事なことだったか。」山根は肩をすくめてみせる。
「どうしてです?デボラの……この船のネットワークシステムのリセットなんて、誰にでも……スーパーユーザの権限を持つ者ならば誰にでも可能なことじゃありませんか?それが、どうして……」萌絵の問いに、山根は微笑だけを返した。
「オペレーティング・システム上で稼動するサブシステムに対する、フルリセットのパスコード。」彼は、静かに告げる。「OSも、デベロッパー・ツールも手に入っていた。だけど、どうしても構築されたネットワークシステムをクリアに……フルリセットする方法がわからなかった。それがわからない以上、そのOSを以って築かれたシステムに依存する、すべてのネットワークは不確実性を有するブラックボックスのようなものです。いつ何時、何が発生するかわからない。つまり、宝の箱を手にしていても、それに合う鍵がなかった。勿論、我々はありとあらゆる方法を試しました。でも、それはどうしても見つからなかった。社内では、バージョン6の利用を諦めるという声すら出ました。だが、そんなことができるはずもない。それは、知識の退化です。だから、この計画が立てられた。」
「バージョン6……計画って……」萌絵が、かすかに身震いしたのが渉にもわかった。「それじゃ、山根さん……」萌絵が、驚いたように山根を見つめる。
 
 


[457]長編連載『M:西海航路 第四十三章(3)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時08分 Mail

 
 
 山根は微笑した。「レッドマジック・バージョン6……四季博士が我々に残した、最後の作品です。そして、僕がMRIを辞めた後、MSIに入社したのも、それを触りたいからだった。技術者の性という奴ですかね、ははは……」山根は笑う。
 萌絵はじっと山根を見た。「山根さんが亡くなられた新藤所長と共に、MSIと密接に関わっていたことは私も知っています。」低い声でそれを告げられた山根の顔から、笑みが消える。「でも、去年の事件……山根さんは刺されて入院し、その後は一線を退いたと聞いていました。どこか外国で、静養していると……」
「そのつもりだったんですよ。」山根は笑みを取り戻して言う。「ヨーロッパのどこかの国で、のんびり暮らそうと思っていました。こういう言い方はなんですが、僕の怪我は、いわゆる瀕死の重傷だった。退院までに半年かかり、その間僕は色々なことを考えました。でもそこで、解散したMRIを通じて……MSIから、話が持ちかけられたんです。」山根は、また煙草に火をつける。「彼らの雇用条件は異例の高額でした。僕が真賀田研究所の副所長というキャリアを持つとしても、その報酬は明らかに破格のものでした。僕は当初は断るつもりでしたが……」山根は、ふと思い付いたように顔を上げる。「そういえば、西之園さん。宮宇智君と貴女が示し合わせていることはわかっていましたが……貴女は、彼に何を約束したんです?よろしければ、教えてくれませんか?」
「何も。ただ、桐生さんの話を彼にしました。あることないことでっちあげて……彼は、それに興味を示したんです。」萌絵は少し悪びれたように言う。「あとは、知りません。さっき山根さんが言ったように、彼も彼なりの利益を得られると踏んで私の誘いに乗ったんだと思います。」
 淡々と語る彼女に、山根が大きく頷く。「なるほど。それで彼も僕と同じ結論に至った訳ですね。道順違えどもゴールは同じ、という奴ですか。」
 部屋に、短い沈黙が訪れた。渉は、ふと気付いたことを口にする。「山根さん、もしかして、水谷さんや島田さんもここに……」
「いや、彼らは違いますよ。」山根は笑って首を振る。「もっとも、この仕事は辞めてないみたいですけどね。MSIは僕同様、あの二人にも声をかけたらしいですが、彼らは断ったそうです。おそらく道徳的な理由だろうとは思いますね。水谷さんなんかは、ああ見えて正義感が強いっていうか……正直な人でしたから。島田女史は、日本の大手ソフト会社に入社したらしい。ま、噂で聞いた程度ですがね。他の研究所のメンバーも、それぞれ元気にしてるみたいですよ。まあ、元々まとまりなんてなかった連中ですから、気にすることもないとは思いますが。僕自身が、誰よりそうですからね。」山根はそこで、思い出したように表情を変えた。「さて、話を戻します。おっと、その前に……西之園さんが先程、桐生さんに話されたMSIとMRIの関係に関しては、まあ、概ねその通りだと言っておきます。」渉は驚く。閉ざされたドアの奥で交わされた会話……それを聞いていたのが当然とでも言いたげな山根の態度だった。「失礼、桐生さん。西之園さんと違い、貴方はそれを知りませんでしたね。もっとも西之園さんも、まさかここからモニターしているのが宮宇智君ならぬ、僕だとは思っていなかった訳ですか。」萌絵が目尻を吊り上げ、山根は煙草を消した。「まあ、それはともかく……MSIとMRIの関係についてですが、無論、僕だって何もかも把握している訳じゃありません。確かにMRI……真賀田研究所では副所長でしたが、それも成り立て、実の所すべてを知っていたのは、MRIでは新藤所長ただ一人だった。僕は下っぱ……プログラマ達を統率する役目でしたからね。だから、MSIのことはそれほど詳しくありません。そして、MRIからMSIに入社した今も、その状態はあまり変わりませんね。まあ、興味がないと言ってしまえばそれまでですが。」山根は再び、煙草に火をつけた。うまそうにそれをくゆらせて、再び話し始める。「西之園さんの説明と被りますが……昨年の事件があってから、MSIは役員を総入れ替えし、経営方針を変えました。それは一見、アミューズメントやオンラインゲームなどに力を入れて、今までのMRIとの関係を白紙にし、新しい姿に生まれ変わったように見えたでしょう。でも、それはあくまで表向きのことです。実際は姿変われど、中身変わらず……人間と同じですよ。着飾って変装するのは簡単だ。かつらや化粧で、誰でも別人に見えますね。名前だって簡単に変えることができます。MSIは市場を変えたように見えましたが、それはあくまでうわべだけのことです。何しろ、彼らは……いや、僕はれっきとした社員ですから、我々ですか……我々は、とんでもない宝を……遺産を、手に入れていたんですからね。」
「遺産……?」渉は尋ね、萌絵が眉をひそめる。
「真賀田四季博士の遺産ですよ。桐生さんも、昨年夏を終えてからの世間の風聞は聞いているでしょう?真賀田四季博士が新藤所長を殺して、自殺した……海に身を投げて、亡骸は見つからなかった、ですか?」愉快そうに告げる。「僕も新聞やラジオで聞きましたよ。何冊か本も読みましたし……本当に夏が終わってから、しばらくずっと大騒ぎでしたね。あれだけの情報操作をするために、MSIはどれだけの資産を使ったのか想像もできません。」渉は驚いて山根を見、そして表情を険しくしている萌絵を窺う。
 山根は続けた。「真賀田四季博士が生きている。いや、そもそも十五年前……正確には一年後ですが……その時点から研究所の地下にいたのが、女史の妹の未来さんだった。そして、二人は共謀して……新藤所長も含めてなのは、間違いないと思いますが……何かをしようとした。それが何だったのか、今さっき西之園さんが語った通りなのか、僕にはわからないし、わかりたいとも思いませんね。ですが、それは失敗した。博士の妹の未来さんと新藤所長が殺害され、それを実行した子供は何処ともなく逃走した。勿論、アメリカから来日した未来さん……本当の四季博士と思われた女性も、未来さんの遺体と共に即日その消息を断った。そのすべてを世界が知ったら、どうなると思いますか?」山根は肩をすくめた。「真賀田四季博士の力。それは、プログラム的な……数学的な分野だけのことではありません。女史の思考は我々俗人にとって驚異であり、それはすなわち女史の思考……それが生み出す恩恵に預かれないものにとっては脅威に他なりません。過去十五年……いや、それ以前から、MSIが真賀田博士のプログラムによって世界に威を誇り、ありとあらゆるコングロマリットから優遇されてきたことが、それを示しています。」山根は、深く煙草を吸い込む。「だが昨年夏、その絆……いや、鎖と言った方がイメージ的に正しいでしょうか。それは、断たれてしまった。彼女は……研究所の地下にいた女性は、もういない。だが、その事実のすべてを世界が知ればどうなるでしょうか?おそらくすべての個人が、団体が、ありとあらゆる国家と組織が彼女を欲するでしょう。四季博士の持つ叡智は、まぎれもなく百年に一人……現代の最高度にして、存命する唯一絶対のそれです。誇張でなく、それを巡って戦争すら起こりかねない。真賀田四季という存在は、それほどの力を有しているのです。」
「だから……」渉は、自分が震えているのではないかと思う。「彼女は、死んだと……」
「そうです。真賀田四季博士が生きていることは事実です。だが、現実にしてはならない。それをするために、MSIはありとあらゆる手段を講じました。だが反面、それによって彼ら……MSI自身が手にしていた威も断たれます。さらに彼らは、今までのMRIとの関係に終止符を打って見せるため、役員を解任し、方針も転換してただの一企業となったように偽装した。いや、ある意味でそれは本当のことです。偽装でなく、彼らは実際に自分達を変化させた。そして、彼ら自身がそれを行ったからこそ、世界は真賀田四季博士の死を信じたのです。他のどの組織がそうしても、ここまで完全に情報操作をすることは不可能だったでしょう。」山根は笑った。「でも、彼らにはそこまでしてもいい理由があった。いや、世界に真賀田四季博士を死んだと報じることで、彼らは自分達の手に入れた最後のカードを最も有効で有益なそれとしたのです。つまり、自分達の持つカードを絶対の切り札とするために、莫大な労力を費やして四季博士の死を偽装したんです。すべてはそのためだった。そして、彼らは時を同じくして僕に声をかけました。無論、秘密裏に。そして僕は、彼らの持つ切り札を……遺産を、この目にしたのです。」
「それが……レッドマジックの、バージョン6……あの、地下のコンピュータに残されていた……」
 渉の言葉に、山根は頷いた。「レッドマジック・バージョン6。そのためのコンパイラと共に、四季博士が托してくれた最後のOS……いわば、MRIとMSIにとっては彼女の最後の贈り物……世界的に見れば、四季博士の遺産という訳ですね。そして、この船のASのルーティングプロトコルはすべて、レッドマジックのバージョン6で組み立てられているんです。」
 赤い魔法。
 萌絵が、かすかに震えたのが渉にはわかった。「バージョン6が、完成していたんですか?それじゃ、宮宇智さんは……」首を振る。「山根さん、貴方のプロジェクトというのは……」
 山根はそれには答えず、話を続ける。「僕がレッドマジック・バージョン6に触れたのは、言った通り病院を出て、静養を考えていた去年の末でした。無論、当初そんなつもりなどなかった。正直、あの事件では痛い目を見ましたからね。僕は元々、命がけで何かをするようなことは好きじゃありません。」渉は茶化すような山根の顔を見つめる。「でも、何度目かの使者としてやってきた宮宇智君が、僕にバージョン6を見てみないかと言ったのです。そして、実際にこの目でテストし……走らせた時、僕は、笑いました。」
「笑った?」
 渉の問いに、山根は声を出さずに笑う。「そうです。笑うしかなかった。自分が子供になったのかと思いました。僕は、自分の能力を自慢する気はありません。いっぱしのプログラマなどと、誇るつもりもありませんが……それでも、開発者として最低限の知識はあるつもりです。しかし、バージョン6を見た僕の知性は、正直あまりの負荷にそれを理解することを拒絶し、一秒も経たずに笑い飛ばすしかないところまで行きついたんです。」頭をかいてみせる。「それは、どうにも理解できない。強いて言えば、桐生さんや西之園さん、貴方達建築学科の大学生に、百万世帯を一千毎に分割管理するネットワーク・システムの基本設計を依頼するようなものです。うーん、比喩が悪いかな?とにかく、すべてが理解できなかった。難易度がどうとか、そういうレベルではありません。それはまさに、別の世界の言葉だった。混乱と不能……通訳が必要な異国の言葉を耳にした時のように、どうにも手が付けられなかったんです。」山根は呆れたように首を振った。「僕は途方に暮れました。そして、その前の……バージョン5に戻って、その理由がわかりました。元々、四季博士は飛躍的な思考をされる方だ。いや、彼女にとっては普通の昇華の形でも、我々にしてみればそれは幼稚園児がいきなり大学に進むような……いや、理系の学生が文系に進むような、でしょうか。いわば、筋違いの路線変更にすら見える。レッドマジックも、バージョン4に行くまでには、大変な道がありました。桐生さん、西之園さん。四季博士が構築されようとしていたネットワークの理想形は何だったか覚えていますか?」
 渉は目を見開き、萌絵がすかさず口にした。「仮想現実は、いずれただの現実になる……!」自らの言葉に驚いたように、萌絵の瞳が揺れる。「現実は、遅れて認識される幻……都市も、人々の触れあいも、単なる、プログラムとなる……そうならざるをえない……」
「そうです。すべてがバーチャルリアリティで構築され、個人個人が電子的以外のそれから隔絶し、最低限のエネルギーしか消費しない社会……つまりは仮想空間のみの交流を持つ、電子環境の社会体制です。そして、レッドマジックのバージョン6は……そのためのネットワークの構築を前提にして作り上げられたOSだった。」山根は静かに告げた。「そのブログラム・ソースは、想像を絶する高度なプロテクトで覆われていた。その理由は理解できます。すべてをネットワークに頼り行われる、幻の現実としての仮想世界……その世界を組み立てているプログラムのソース……つまりは世界の構成物を含めた正体は、決して知られてはならない。私達に、世界がどうして成り立っているか概念としてしか理解できないのと同じでしょう。地球があり、宇宙がある。宇宙創造の秘密を知ったとしても、人が宇宙全体を組み替えることはできない。ですが、すべてをプログラムに依存した世界で、そのプログラムを変革できるとすれば……それは我々人類が、宇宙全体の構造を変化させられることと同じだ。そんなことがあっては、すべては無意味です。何もかもが瓦解してしまう。」山根は軽く息を吐いた。「レッドマジックのセキュリティの高さも、そんなことが理由なのかもしれませんね。まあ、宇宙その他は半ば冗談ですが、我々が手にしたのは、完璧なバージョン6だった。だが、その内部は理解できない。ソースは一つも解析できない。それでも、それは最高にして絶無の能力を有しているのは間違いない。いわば、ファンタジーゲームの伝説の剣のようなものですね。神様が作った神秘の鉱石でできた、最強の剣、ですか?使うことはできますが、それがどうしてあるのか、どういう成分比率をしているのかは理解できない。MSIが手にしたのは、そういうものだったのです。」笑う。
「なら、それをどうすぺきか。簡単ですね、テストをする訳です。実験をして、確かめる。それによって、何かわかるかもしれない。プログラムの中身が暴けなくとも、プログラムの動作を含めた観察によってそれが把握できる。そして、一つのプランが提案されました。仮想空間をシュミレートするための一つの世界……外界から隔絶した、それなりの人数を有する一つの場所を設定し、そのネットワーク管理をすべてレッドマジック・バージョン6を使用したプログラムで行う。」渉と萌絵は、同時に息を呑んだ。「そのために最適な条件……環境、人員、その他あらゆることを考慮してMSIが作り出した実験の場が……」
「この船……月の貴婦人号……」
 M.M.号。
「そうです。そして、そのテストは素晴らしい結果をもたらしてくれました。」山根の視線を受けて、渉は目を見開く。「構成されたネットワークの全機能、履歴を含めたデータのフルリセット……部分的でない、管理者であるスーパーユーザのみに許されたコマンドの実行方法を、桐生さんが解明してくれた訳です。数学における、集合を示す数式……真賀田四季博士ならではの、皮肉……いや、我々に対する導きなのでしょうか。」
「そんな……それじゃ、システムの緊急停止をする方法もわからないのに、この船を動かしていたんですか!そんな、そんな目茶苦茶なことが……」萌絵は、絶句していた。「……山根さん!貴方がたは、自分達が組んだプログラムのリセット方法がわからなかったって言うんですか?そんなこと、そんな馬鹿なこと……信じられない!」
 山根は難しい顔をし、そして、ふと気付いたように笑った。
「そうですね。まあ、百聞は一見にしかず、でしょうか。」笑う。「すみません、ずいぶん時間が経ってしまいましたね。もう、準備も終わったでしょう。お二人とも、こちらへ。」立ち上がり、山根は部屋の外へ出た。「馬鹿なことだとは思いますよ。ですが、それでもこの船は動いている。ネットワークは存在している。それが、現実です。」渉と萌絵が、その後に続く。
 通路を抜け、三人は大きな部屋に入った。そこにはデスクが並んでいる。ワークステーションに囲まれた大きなデスクが五つあり、部屋には誰もいない。だが渉と萌絵を驚かせたのは、その机の前に設置された椅子……いや、シートと呼ぶべき装置の形状だった。
「これは……」
「山根さん、これ……」
 それはすべて、車の……いや、戦闘機やF1などの座席の如き、複雑な構造のコックピットだった。「研究所の……」二人が同時にそれを口にし、山根は笑う。
「その通りです。VRカート……お二人ともに、体験しているんですよね。僕は、あの会合に欠席していましたが……」皮肉めいた笑いだった。「なら、話は早いですね。どうぞ、好きなシートに。座ったら、僕の指示通りにして下さい。少なくともあの時のものよりは、扱い勝手がいいはずです。」
 二人は顔を見合わせ、そして頷いた。
 それぞれ、適当なシートを二人は選ぶ。山根も同じく一つのシートについた。妙な気分だ、と思いつつも、渉は自分のそれを止められない。そして、萌絵もそれは同じようだった。
 腰掛けた渉に、山根の声が届く。「今から手順を説明します。まず両足を……」指示のままに、渉は脚を指定された部分に置き、幾つかのスイッチを入れる。途中、萌絵が着衣について質問したが、山根が笑って着替えるかをどうかを聞き返し、萌絵は黙った。
 最後に大きなゴーグルを着用する。ベルトを回し、止め……少し手間取った渉だったが、それに成功した。だが同時に、視界が闇に包まれる。
「オーケー、桐生さんも終わりましたね。それでは、二人とも目を閉じて下さい。いきなり光が入ると、目が眩む時があるんです。」山根の声は、顔の上半分を覆ったゴーグルの耳元から聞こえた。渉は黙して目を閉じ、萌絵が了解する。
 暗闇。渉は、ふっと思い出す。
 そうだ……あの時も、こうだった。萌絵と二人で、指示に従って、これを身に付けて……
 そして、出会った。そして、再会した。
 懐かしい感覚。今まで、この船旅で一度も……一度たりとも感じなかった、感覚だった。
 どうしてだろうか。高揚しているのか。今から何が起こるか、半ば理解しているつもりだった。レッドマジックの作り出した、VRの世界……そこに入るのだろう。それは、現実ではない、仮想の世界だ。
 現実……?
 現実とは、何だろうか。
 渉は黙した。そして、山根が開始の言葉をかける。
 次の瞬間、彼は、光の中に落ちていった。
 
 
 


[458]長編連載『M:西海航路 第四十四章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時08分 Mail

 
 
   第四十四章 Mirror

   「自分の内側を映す鏡なんてないよ」


 光が、満ちていた。
 網膜に突き刺さるような光。桐生渉は目を閉じ、そして、我知らずの間に身を縮めていた。四肢を曲げ、丸くなり、ただひたすらに眩しいだけの光から目を逸らそうとする。
 だが、それはできなかった。不可能だった。目を閉じようとする試みが、身体を伸縮させる行為は、すべて無駄に終わった。
 なぜなら、それは、意味のない行為だったから。
 そこには手もなければ、足もない。閉じるべき目蓋すらない。そこにあるのは、知覚……言うなれば視覚、それだけだった。そして、それを止めることもまたできない。ただ、目の前の……いや、そこにある光の世界、すべてを知覚することだけしかできない。
 やめてくれ、と彼は思う。いや、願う。懇願する。
 どうして、こんな目に遭うのだ。
 何故、こんな痛みを味わわなければならない。 
 光に貫かれて、渉の意識が喘ぐ。存在しない唇から、悲鳴があがる。
 その光景は、まさに言葉のままに彼を苛んだ。
 気が狂うのではと思う。
 そして、そう考えられる間は、正気であるとも思う。
 ならば、狂気を狂気と認識できる限り、狂気に陥ってはいないのだろうか。
 自分を正気だと……正常だと思える限り、人は正常なのか。
 目にしたものと、そうであるもの。
 現実と、事実。
 その狭間には……何も、ないのだろうか。
 渉は、目を見開く。例え、そんなものがなくとも。
 目の前の、光。 
 これは、見ているのではない。
 見せられているのだ。
 すべてが……
「桐生さん!しっかりして下さい!」
 西之園萌絵の叫びが、桐生渉を我に返した。
 そこには、空間があった。
 異様な感覚。だが、もう眩しくはない。あれほど彼を苛んでいた輝きは、既に消失していた。
 そこにあるのは……いや、いるのは、白い肉体。
 西之園萌絵の、心配そうな顔だった。
「西之園さん……うわっ!」渉は驚きに目を見張った。肩までの断髪を揺らして自分を……横たわっているのだろうか、渉を覗き込んでいる萌絵。その姿は、全裸だったのだ。
「ど、どうしたんですか……桐生さん?」渉は思わず顔を背けようとして……それが、できないことにさらに驚く。
 いや、違う。視線そのものが、そこから動かない。認識される世界……視界が、完全に固定されている。それどころか、目蓋すら閉じることができない。
「こ、これは……どうなっているんだ?」渉はおののく。これでは、光がないだけで、今さっきのそれと同じではないか。「西之園さん、どうして裸なのさ!?」渉は怒鳴るように叫ぶ。
「えっ、裸……?嘘ですよね?桐生さん、私がそういう風に見えているんですか?山根さん!」萌絵が叫ぶ。
「ははは、これは失礼。」山根幸宏の声が聞こえた。「桐生さんのゴーグルに、西之園さんの情報が反映されていないようですね。どうも、少しショックが強すぎたようですから……桐生さん、山根です。わかりますか?」声はするが、山根の姿は視界内に見えない。
「あ……はい。聞こえますが……山根さんは、どこにいるんです?」
「おや、僕のことも見えませんか。それでは桐生さん、今から僕の言う通りにコマンドしてください。デボラ……いや、桐生さんの場合はカサンドラ、ですか?彼女に相対する時のように、口頭でコマンドを発声するだけです。それで『山根幸宏、西之園萌絵、認識』と命じて下さい。」
 渉は言われるままにそれを口にした。途端、目の前に……「山根さん?」二人が、現れる。いや、萌絵の方は元からいたのだが、何も身に付けていなかったその姿が、一瞬で普段目にするようなカジュアルな姿となった。下はグレイのジーンズに、上は赤いタンクトップである。山根の方は、先程と同じTシャツに白衣の姿だった。
「あ、見えました……って、これはどうなっているんです?」渉は山根に疑問をぶつける。山根は頷いて笑った。
「ほら、VRカートと同じですよ、桐生さん。」萌絵が横から言った。「去年、妃真加島で乗りましたよね。乗り物はありませんけど、私達、あの時と同じように、ネットワークの中の仮想空間にいるんです。」萌絵は両手を上げて、クルリと回って見せた。
「VR……そうか。」シートに乗ったことを渉は今更のように思い出す。ほんの数分も経っていないはずだが、どうしてかあの出来事が、遥かな昔にすら彼には思えた。「それじゃ、今見えてるのは……」
「立体映像……というか、ゴーグルから認識している、視覚と聴覚に対してのみの情報ですね。」萌絵は笑って片手をこちらに差し出した。渉は手を貸して貰い、その場から立ち上がる。
「うわっ……な、なんだ……?」渉は異様な感触……いや、感覚に声を漏らす。それは、ある種隔絶したような……感覚器官から伝達される情報がなかったことによる、疎外間とでも称すべきものだった。
「この世界……私達は仮に、M世界と呼んでいますが……ここには、知覚として視認と聴覚だけしか存在しません。今桐生さんが感じたであろう違和感は、自分の身体が動いた、と視覚が認識したのに、全身からの感覚……要するに、フィードバックがなかったことによるものです。最初は戸惑いますが、すぐに慣れますよ。」山根は愛想笑いを浮かべたまま言った。「この世界には、上も下も前後左右もありません。当り前ですが、電子の領域であるM世界には、距離の制約というものが存在し得ないのです。必然、本来ならば肉体の映写も不必要なのですが、それではこの世界に入る者の精神に及ぼす作用が大きすぎるために、言わば感覚器の避難的措置として存在させています。M世界においては、本来すべての場所に等しく存在することが可能であり、当り前になる……というのが、まあ、とりあえずの理想なのですが。」
「M世界……?」渉は山根の口にした言葉の意味を掴みかねる。「つまり、VRの仮想世界における……法則、のようなものですか?」
「M世界のMって、何の略ですか?」萌絵が渉の問いを無視して尋ねる。「やっぱり、MagicのM?それとも、MetaphysicalのMですか?」
「Mathematical……というのは冗談ですが、色々です。西之園さんがおっしゃったような意味もありますし、Modulus、Modernなんてのもあったかな。まあ、私が現時点で一番それらしいと思っているのは……Monitor、ですか。」
「絶対値、現代世界……あるいは、監視ですか。」萌絵は渉を見る。「でも、山根さん。サブシステム……デボラによるモニタだけで、既にこの船のすべての状況は認識できるのではないですか?こんな大掛かりな仕掛けによる仮想空間が、必要なんですか?」
「確かに、現状ではデボラ……音声認識サブシステムによるサポートで、この船のすべての機能をコントロールすることが可能です。西之園さんが宮宇智君と組んで他の船室をモニタしていたことや……」山根が、軽く首を捻る。「桐生さん、貴方がデボラ……いや、カサンドラですね。彼女にプログラムさせて、西之園さんを誘い出したように、です。」渉は黙した。萌絵は悪びれた様子がないが、渉としてはそうもいかない。
「正直言えば、俺は……あそこまで完璧に、状況を設定できるとは思いませんでした。」素直に告白する。「山根さん、カサンドラ……いや、デボラ、ですか?この船のサブシステムがあれほど優秀なのは、どうしてなんですか?まるで……」
「まるで、人間のよう?」山根は言い、渉は口を閉ざす。「それは、桐生さん。我々この船のネットワークシステムの構築に関わった、すべてのエンジニアに対する最高の賛辞です。いや、素直に嬉しいですよ。」山根はそう言うと、ふっと表情を戻した。「だが実の所、真にその賞賛を受けるべきは我々ではなく、膨大なデータより築かれたプログラムのすべてを他律作動させ、潤滑に動かし得る究極のOS……レッドマジック・バージョン6にあるのですが。」
「このVR……M世界も、すべてレッドマジックの……バージョン6があったから構築できているんですね?」萌絵が問い、山根が同意する。「でも、レッドマジックはあくまでOS……オペレーティング・システムです。結局、プログラマが優秀でなければ、これほど凄いことはできないんじゃありません?」
「それはですね、西之園さん。人類という種族が奇跡のように発祥したことと、私個人が結婚でもして、子供を一人作ったことを同列に置こうとしているようなものですよ。」山根は笑う。「一例を挙げれば、カーレースにおける最高のマシンを、最高のドライバーが乗りこなす状態……それがシステム構築の理想であることは事実です。だが残念ながら、今の我々がしていることはそれとは違う。先程述べた通り、今の我々は……言わば三歳の子供が難解なゲームソフトを親からプレゼントされて、どういうゲームか、操作法すら理解できないが、それでも画面が点滅したりキャラクターが動いたりするのを見て楽しむ……そんな状態なんです。」山根は、萌絵と渉を交互に見て続けた。「私達は確かに、最上で最高のカードを手に入れることはできた。だが、それをどう使うべきなのか、理解していない。いや、それに何ができるのかすら、その可能性すらわかっていないのです。考えても見て下さい。バージョン4に隠された時限トリックですら、我々MRIのメンバー全員がですよ……七年もの間、誰一人として気付かなかったんです。それを今度は、バージョン5のソース解析すらままならない状況で、バージョン6を分析しなければならない。これが発見されて十五ヶ月……本格的に稼動させて、まだ半年も経っていません。すべては途上……いや、まだ半歩を踏み出したような状況で、何もかも実験中ということなのです。」渉は、萌絵と顔を見合わせる。「だがそれでも、これだけのことが行える。我々がかつて手にした……人類が開発し、積み重ねて来た、どのようなOSをも越えているんです。一つのことをしようとする間に、十のことができるのですよ。わからないコマンドをおっかなびっくりいじっただけで、子供の落書きのようなリストを組み合わせただけで……今まで構築されたどのネットワーク・プログラムよりも優れた管理システムが構築できたんですよ?」
 渉はふと、宮宇智實を思い出す。山根幸宏の様子は対照的なほど客観的だったが、どこか似ていると渉は思う。そう、集合の中の共通部分。二人は似ており、だが、違う。
 だが、彼は思う。それは、誰もがそうではないか。山根幸宏と宮宇智實だけではない。西之園萌絵と、悴山貴美。そして……
 真賀田四季と、真賀田未来。
 二人は、似ていた。似過ぎるほど、似ていた。
 だが、それでも、二人は違ったのだ。
 それは、人だから。
 ならば、だとすれば……
「桐生さん?」西之園萌絵だった。渉は気が付き、素振りを返そうとして……それに、意味がないことに気付く。
 デジャヴ。そうだ、光に満ちていても、これは、同じだ。
 ならば、どうすればいいのか。「デボラと同じように、命じて下さい。ただし……重要な点ですが、自分の存在とその行動を、コマンドに含む必要があることです。医学用語で思考化声と言うらしいですが、要するに何々をどうするか、という命令と共に、自分がどうなるかを口に出す必要があるのです。例えば……」そこで、山根は白衣のポケットからライターと煙草を取り出した。一本の細長い煙草を取り出すと、悠然とそれに火をつける。
 渉は目を丸くした。現実ならば何も不思議はないが、確かにここは……VRの世界である。山根がうまそうに煙草を吸っている様子を、渉はまじまじと見つめた。「山根さん、それは……」
「ははは、勿論現実には吸っていませんよ。あくまでも、桐生さん達から見て吸っているように見えているだけです。でも、どうです?かなり真に迫っているでしょう?」山根はそう言って、大きく煙を吐いた。すこしくぐもった呼吸と声が発せられ……これが作られた仕草であるなどとは、とても思えない。
「さっき、山根さんが部屋で煙草を吸っていたデータを、そのまま使っているんじゃないですか?」萌絵が指摘する。「山根さん、時間がかかるっておっしゃっていましたね。あの山根さんの部屋で、山根さんと私達二人を撮影して、それをデジタイズして利用しているんじゃないんですか?」
「さすがは西之園さんですね。まあ、概ねその通りです。さらに桐生さんに種明かしをすると、今のはこうです。『コマンド。デボラ、灰皿とライターを用意してくれ。山根は、煙草を吸う』。これを口頭で言うだけです。桐生さん達もできますよ?」
「なるほど、簡単ですね。」渉は驚いて萌絵を見る。萌絵は優雅にポーチから……そんなものをどこに持っていたのかわからなかったが……シガレット・ケースを出すと、山根のそれよりさらに細い煙草を取り出していた。「桐生さん、火、いただけますか?」
「えっ……!」渉は、再び驚愕する。そう、まさに勝手に……渉の身体は動き、手が差し伸べられ、山根が渡したライターを受け取ると、そのまま点火した。さらには、萌絵が唇に含んで寄せた煙草に、それを丁寧に添える。
「ありがとうございます。」悠然と煙草を吹かすと、萌絵は片目を閉じて見せた。その、今までの何もかもを忘れたような超然とした態度はある種敬服すべきものかもしれなかったが、それでも今起こったことの異様な感覚が、渉には不可解だった。そう、まるで、自分が自分でないような……
「今のは……俺じゃない?」渉がそう言うと、萌絵が呆れたように目を丸くした。
「もう!桐生さん、どうしたんですか?桐生さんって、私よりずっとコンピュータが得意じゃないですか?国枝先生の一番弟子だって……」言われながら、渉はようやく……自分の口にした言葉の意味を、おぼろげに理解した。
「そうか。ようするにここにいるのは……いや、あるのは俺自身じゃない。いや、俺自身ではあるけど、それはあくまで映像の中の俺であって、その中の視点が……視覚と聴覚だけが、あの部屋に……」いや、この部屋だろうかと渉は苦笑する。「……つまり、VR装置のシートに座っている俺とリンクしている。だから、俺の挙動は……いや、俺を含めて西之園さんや山根さんの行動も、全部、デボラに対するコマンドで勝手にそう動く……動いて見える、だけなんですね。」
 そこにいるのは、自分であって自分ではない。渉は理解した。知覚があり、まさに信じ難いほど本物そっくりに見えるが……それは、偽物なのだ。
「その通りです。このM世界における絶対的な概念は……すべてが可能である、ということです。すべてを見、すべてを聞き、すべてを知り、すべてを行える……何もかもを知覚し、あらゆる出来事を捉えられる、それがこの世界の基本法則です。」
 渉は、山根の言葉に目を向ける。「すべてを……」捉える……
「危険じゃありませんか?」萌絵が言った。「すべてが可能なら、不可能はないということですよね?認識力不足の人が、そういう言葉を言われたら……私欲のために、他を無視して……すべてを巻き込むんじゃないかしら?そうしたら……」
「モラル、という言葉は確かに無意味になりますね。ですが西之園さん、それはそれでいいんですよ。何よりも、これが私達人類が接触する……いや、踏み出すべき新たな領域であるということであり、そしてもう一つは……現実問題として、唯一にして最大の単位が個人であるこの世界では、個が何をしようとも、他には関係がないのです。つまり……」
「すべてが、仮想空間の出来事だから、ですね……」山根の返答を、渉は継いだ。「……この世界では、何もかもが思いのままになる。億万長者になることも、大統領になることも可能だ。そして、人を……気に入らない相手を、殺すこともできる。だけど、でも……」息を、継ぐ。これは、現実にしたことだろうか。それとも、この世界でしたことだろうか。「……すべては、幻だ。何をしようと、すべてが仮想現実の中の出来事に過ぎない。今、西之園さんが俺を動かして煙草を吸わせた……それは、あくまで西之園さんの仮想現実を、俺が……俺と山根さんが、そうであるとして見ただけだ。山根さんが煙草を吸ったのも、俺と西之園さんがそれを見てそう思っただけだ。実際には、したことじゃない。そして、本来は……本当は、俺達はそれを知覚する必要もない。すべてが……自由だから。」
「御名答。その通りです。強いて言えば、ここは夢の世界のようなものですね。しかも、永遠に覚めることのない……いや、覚める必要のない夢です。M世界……VRという生活環境が標準として完成すれば、そこには当り前の単位……個人としての人間が、別々に、隔絶して存在するだけです。人は誰もが、一人ずつ違う。互いに相容れないからこそ、社会は幾多の問題と危険をはらんできました。それが人類……地球、という言い方でもいいでしょうか?それを危うくする事態すら引き起こしかねないことは、少し知恵があれば誰にでも理解できます。そして人類に残されたエネルギーを有限として判断しなければならない以上、人は進んでVRの環境に身を置く必要があります。」そこで、山根は苦笑する。「まあ、これはすべて、四季博士の著作からの引用ですが。私個人は、少なくとも私が生きている間にそんな世界が来るとは思っていませんがね。」
「他人と実際に握手をすることも、宝石のような貴重品になる……」萌絵が呟いた。
「握手はできますよ、西之園さん。誰とでも……そう、犀川先生とでも握手することができます。」彼は煙草を吸った。「要するにそれを、現実のそれと個人が認識できるかの問題です。今、桐生さんが指摘したように、映像として与えられた情報を、真実のそれであると認識……言い方を変えれば、誤認できるかどうかということですよ。」山根は、どこか虚しそうに笑った。
 目の前の現実。まかり通る、事実。
 自分の中の、真実。
 それを、認識することができれば、自分で選ぶことができれば、それでいい。
 すべてが、偽りでも。それを信じられれば、それで……
 すべてが、本物となる世界。 
 なんという、果敢なさだろうか。 
「さて、説明はこのくらいにして……」山根の声が、遥か遠くから聞こえたように渉には思えた。「……そろそろ、本題に入りましょうか。桐生さん、西之園さん、貴方がたの健闘……ははは、とにかく、お二人に、僕なりのお礼をしたいと思います。この、レッドマジック・バージョン6が作り出した世界の中で、貴方たちが知りたい……いえ、知るべき真実を、今からお見せしましょう。」
「知るべき……真実……?」
「お二人はミステリィ研究会にいるんですよね。」山根は言った。「僕はほとんど読んだことはありませんが、ようするに、今から事件の種明かしをするということです。いや、種明かしというより……記録されたそのままを、見て貰うといった方が正しいでしょうか。」
 萌絵は黙し、渉は言葉を思い出す。
『私には、この事件の犯人が誰かわかっているのですよ。』
 宮宇智實の、詞だった。
「山根さん、それじゃ……」渉は、険しい表情で山根を見据える。「この船は、全部……」
「そういうことです、桐生さん。」渉の言いたいことはわかっているというように、山根は頷く。「この世界……M世界は、モニタの名の通り……現実世界を見ることができます。いえ、それだけじゃない。干渉することすら可能なのです。デボラを通じて、何もかもをコントロールすることができる……つまり、M.M.号に張り巡らされたコンピュータ・ネットワークが、イコールこのVR空間そのものとなっているのです。この船のすべての部屋と通路に設置されたセンサ、端末……ありとあらゆる電子機器に、今僕たちはアクセス可能……いえ、現実にアクセスしているんですよ。」山根は、そこで煙草を消した。そして、真顔になって告げる。
 渉は思う。『コマンド、山根は煙草を消し、真顔になる。』だろうか。そう思うと滑稽な気もしたが、そこで渉は、何か言い知れぬ不安を感じた。
 本当に……
 本当に、それだけなのか……?
「先の事件では、犀川先生を含めたお三方が探偵役になりましたね。僕はあの場にいられませんでしたし……あいにくというか、この船に先生はいらっしゃらないので、今回は僕を加えて、三人でということで……西之園さん、どうしました?」渉は、彼女を見る。萌絵は、動いていない。
「いえ……何でもありません。お願いします、山根さん。」山根は頷いた。
「というわけで、今からお見せしましょう。では、まずは……」
 そして、再び光が放たれた。
 
 


[459]長編連載『M:西海航路 第四十四章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時09分 Mail

 
 
 そこは、船室だった。
 男がいる。部屋を闊歩し、身振り手振りを加えて、男は何かを怒鳴っていた。
 その男が誰かは、渉にはすぐにわかった。御原健司である。そして、苛ついたように部屋を歩く御原の言葉の先に……一人の、少女がいた。
 渉は、息を詰める。
 艶やかな黒髪。そして、透き通るような肌。カクテルドレスと言うのだろうか、赤い布地を胸元を中心に巻き付けたような衣装をまとって、少女はうなだれていた。
「まったく、常識知らずにもほどがある!」御原の怒号が、渉の耳に届く。「今朝受けた、私への侮辱!あんな屈辱を受けたのは生まれて初めてだ!今夜、私がどれだけの来賓に頭を下げなければならなかったか、お前はわかっているのか?」怒り心頭、という形容がこれほど似合う様子もなかっただろう。「しかも、あれほど二度と近付くな、関わるなと言い聞かせたのが……これは、一体何だ!」御原は、部屋の隅……そこにあるネットワーク端末にカードを触れさせると、怒りでわなわなと指を震わせながら、何かを選択した。
 部屋に、男の声が流れ出す。「桐生渉です。メールをありがとう。」渉は、驚きに目を見張った。「九条院さん。君が悪いんじゃない。悪いとすれば……」それは、紛れもなく渉自身の声だった。
 いや、それが何であるか、気付かないはずもない。
 瑞樹への返信。音声メールによるそれ。
 流れていく、自分の言葉を聴きながら、渉は半ば呆然と……目の前の男女の光景を見つめていた。「……君がどういう人生を送って来たのか、俺は知らないけど……もう少し、自由にしていいと思う。」
 蒼白な少女に、御原が叫ぶ。「君は悪くない?馬鹿を言うな!すべては瑞樹、お前と……このろくでなしが悪いのだ!」怒号。「出会った翌日にデート、声のラブレターかね?ああ、たいしたお嬢さんだな?この分では、今夜これから密会し、挙げ句はそのままあの男のベッドで一夜を明かすつもりだな?きっとそうにちがいない!」怒鳴り付ける。少女が、その剣幕に身震いしたのが渉にはわかった。「そんなことは、断じて許さんぞ!私は仲人だ!この世にいないお前の両親の代わりとして、佐嘉光翁よりお前の監督権を頂いた身だ!その私の言葉も聞かずに、身勝手な男づきあいを……しかも結婚式の行われる船中で繰り広げるなど、正気の沙汰ではない!」吠える、という言葉のままに御原は喉を震わせた。激情のまま、言葉がぶつけられていく。「北河瀬君が気を効かせてくれなければ、このような手紙……メールか?それのやり取りもわからなかった!まったく、何が自由だ?好きにすればいい?大人のふり?子供だと?ふざけるな!そんなことをぐたぐたと語り、聞き入るのが、すなわち子供の証拠だ!この、馬鹿めが!」瑞樹の前で、その細い体に怒鳴り声を叩きつけるように御原は吼えた。「私の目を盗んで、すべてを台無しにするようなことを企ておって……しかも、お前は知らないだろうが、この桐生という男はな、とんだ食わせ者だ!大学では教授のプログラムを盗用して違法行為、真面目に勉強などまったくせず、留年し女に博打に夜遊び三昧……しかも、お前の幼馴染み、だったか?あのいまいましい西之園家の小娘をたらしこんでそのマンションにただで居座り、県警本部長でもある西之園の立場を悪用して、那古野で我が物顔、好き勝手のし放題だ!とんだプレイボーイのドンファンという訳だよ!それを、温室育ちのお前は何も知らずにふらふらと……まさに蝶のように引き寄せられていったわけだ!」
「でも……それは、嘘です……」消え入りそうな声を、瑞樹は発した。
「嘘なものか!全部、本当のことだ!」叫びと共に、男の……御原の手が瑞樹の細い肩に伸しかかった。「馬鹿め!いったいお前は、奴の素性をどこの誰から聞いたのだ?全部、奴自身が語った……お前の心の中で、理想として築いた奴自身だろう!あの男にどんな甘い言葉を吹き込まれたか、想像に難くないわ!助けてやるとでも言われたか?籠の中から救い出してやるとでも言われたか?」そのまま、華奢な少女の肩を荒々しく揺さぶる。「今となっても、まだお前は自分の立場を理解していないようだな!九条院瑞樹!いや……」男の顔が、歪む。醜く。
 御原は両手に力を込め、瑞樹の身を引き寄せると……わずかに屈み、その耳元に囁いた。
「……ミヤマ・ミチル。」
 少女の瞳が、見開かれた。細い切れ長の瞳が、信じ難いほど大きく。
 それは、淡い……薄茶色の瞳だった。
「ミヤマ……ミチル……」視線がかすかに揺れ動きながら、ゆっくりと……御原健司を見つめる。「……どうして?」
「ふん、やはり気付いて……いや、知っていたようだな?」御原はうそぶき、勝ち誇る。「大方、あの紀比良……お前の死んだ父が今際のきわに、言伝でもしたんだろう?どうした?驚いているのか?誰も知らないはずのことを、私が知っているから驚いたのか?」少女に向けた薄笑いが、さらに醜く歪んだ。「私が、どうして仲人に選ばれたと思っている?何も、北河瀬の奴と旧知だったからだけではないぞ。私はな、お前の……いや、九条院家のすべてを知っているのだ。何しろ、それが私の……御原の家が存在した元々の理由なのだからな。」吐き捨てるようにそう言うと、御原はニヤリと笑って瑞樹を睨め付けた。「私を覚えていないか?ふん、そんなはずもないか。あの時お前はまだ、ようやく歩けるようになったような幼子だったからな。いいか、私はな、お前の育ての親同然だったんだぞ?」御原は顔を顰める。「まったく……あれから、二十年にもなるか。こうなって考えてみれば、お前と私とは、端から切っても切れない腐れ縁だったということだな。死んだお前の父……二人の父、か……?」含んだように、笑う。「……お前を見捨てて逝ったあの連中に比べれば、今こうして面倒を見ている私こそが、お前にとって真の父親のようなものだな。何しろ孤児となったお前を助けて養い、今の身分に添えてやったのも、すべてこの私が段取ってやったことだからな。そして今、お前と私にとってまさに至上の……最高の舞台を準備することができたというのに、お前とくれば、恩知らずにも……今更、それを蔑ろにするようなことをしおって!いいか、お前は私に返しきれない恩があるはずだ!それを、思い出せ!そして、決して忘れるな!お前は一生、私に感謝し続けなければならんのだ!」
 御原が、瑞樹の体を突き飛ばす。そこにはベッドがあり、少女はかすれるような悲鳴と共にそこに転がった。ドレスが乱れ、華奢な身体が人形のようにシーツに崩れる。
 息を荒げながら、御原は淫猥な視線で瑞樹を見下ろした。「いいか、よく聞け。私達は二人とも、九条院の名を得ることで……それを利用することで、ここまで這い上がって来た。でなければ二十年前、お前も私もあの田舎の片隅で一生を終えていただろう。お前は路頭に迷ってのたれ死にか、せいぜいどこかのクラブで男でも取らされていたところだ。私はきっと、二流の政治家だった親父諸共に政界を追放された間抜けな二世として、一生笑い者だっただろう。それが共に生き延び、今の地位にあるどころか、約束された最高の座すら手中にある……いいか、過去も現在も未来も、すべては既に決められているのだ!」御原は叫んだ。「お前は九条院家の女当主として北河瀬の息子と結婚、奴を婿入りさせた暁には、大財閥として九条院家を再興させ、奴との間に次期当主となる息子を産み……私は十年後、約束された総理の椅子に座る!それが佐嘉光翁が案じ、北河瀬と私が完成させた完璧なシナリオだ!それを破談させるような勝手な振る舞いなど、絶対に許さん!」
 寝台の少女は蒼ざめていた。その上に伸しかかるように身を起こした御原は、荒々しく息を吐いて獣のように少女を見下ろし、笑う。その指が、瑞樹の……ドレスの胸元から、うなじへと滑った。「七年……いや、八年か?お前の父、紀比良が心臓発作で急死した時……お前はあの小心者から、何もかもを聞かされたんだろう?まったく、子供の件含めて……九条院の名に怯え続け、人に威張り散らすだけで、最後まで役立たずの甲斐性なしだったな。そのお前はといえば、ふん、精神的ショックによる一時的な精神障害だと?」馬鹿にするように御原はその唇を歪める。「どうせ仮病だったんだろうが、よくぞまあ、あの佐嘉光翁が出奔を許したものだ。それとも、翁なりの考えがあったというところか。ふむ、そうかもしれんな。今の状態を考えれば……ほとぼりがさめるまで、お前を世俗から隠しておくつもりだったのかもしれん。」御原はどこか納得できないように首を傾げる。「とにかく、だ。お前は留学の名目で外国の療養所とやらに逃げ果せ、正統を失った九条院家は、佐嘉光翁の跡目を巡って親類縁者で醜い争い三昧……かつての威光は、すっかりなりを潜めてしまった。まあ、他ならぬ私自身、お前のことを忘れかけていたくらいだからな。」にやついた御原の目が、ギラリと輝く。「だがそこへ、老翁からの招引だ。まぁ、先がない老人が、末期の夢を見ようとしているんだろうとは思うがね……」凄みを見せて、不敵に笑う。「だが、それでもこの話には乗る価値がある。お前と北河瀬の倅が新たな財閥を築き、私は北河瀬と共にその後見となり、奴は財界、私は政界にそれぞれ君臨する。実によくできた筋書きだ。それを証拠に、その話の旨味にあやかろうとして、鼻の利く連中がこの船にわらわらと集まっているじゃないか。私達はせいぜい、戦前の夢を見たがる老人にいい夢でも見せてやればいい。幸せな夢に老人が眠りについたあと、私達がそれを共通の真実にするのだ。そのために……いいか、決して不埒な真似は許さんぞ。今日のレセプションのような、うわついた様子などもってのほかだ!しかもその原因が、こんな……正直さなど欠片もない結婚詐欺師の如き男が出した、メールのせいだとはな!」
 瑞樹が目を閉じる。身震いして怯えるその様子は、まさに叱られた子供の如き様相だった。それを見て、御原はようやく身を起こし……ゆっくりと立ち上がると、ベッドから降りて自分の着衣を正した。
「まあ、わかればいい。」振り向きもせずにかけられた声からは、硬さが消えていた。「もう遅い。今日は部屋に戻って休みなさい。明後日の挙式まで、お前も私も忙しい身だ。下らない男の話になど、心を割く暇など一分もない。いいね?」ぞっとするような、猫撫で声だった。
 瑞樹もまた、ベッドから身を起こして……
 そして、御原に笑った。
 何の曇りもない、何のわだかまりもない、笑顔だった。
「はい……」
「そうか。わかればいい。家内が部屋で心配しているだろう。早く戻ってやりなさい……おっと、その格好は、ちゃんと直して行きなさい。」自分がそれをしたことに自責でもあるのか、御原は瑞樹に背を向けると、ソファに腰掛けた。
「わかりました。でも、おじさま……このドレス、着替え直さないとならないので、少しだけ……時間を下さい。急ぎますから……」
「ああ、いい。きちんとしていきなさい。化粧室に、あれの化粧品等もあるだろうから、自由に使いなさい。そうだ、もう遅い。部屋までは私が送っていこう。」
「はい。ありがとうございます、おじさま……」瑞樹は言いながら、御原の背後でゆっくりとドレスを脱いでいった。
 赤いドレスが外れ、白い裸身が晒される。そして、瑞樹はドレスをベッドに並べ……
 ふと、御原にその身を向けた。 
 ゆっくりと、手を掲げる。
 持ち上げた少女の手に、それが握られていた。
 ナイフ。
 装飾の施された、鋭いナイフだった。
 鞘はない。既にそれは刀身を晒し、船室の照明に……夜のブラインドが降りた中の照り返しを受けて、鈍く光っていた。
 少女は、歩む。すぐ目の前の、ソファに向けて。御原は何かを考えているのだろうか、腕を組んで黙していた。
「おじさま……」瑞樹が、口を開く。「お父様の死については、詳しく御存じなかったのですね……?」
「なに……?」
「振り返らないで下さい。私、着替えていますから……」首を曲げかけた御原は、背後に……そう、まさに背後に迫った瑞樹に気付かず、そのまま腕を組み直す。
「知らないとは、どういうことだ?紀比良のことか?原因は確か、心臓発作……急性心不全ではないか?」
 ナイフが、振り上げられた。「それは、違ったんです……」
「違う?」振り向きかけ、再び……自制なのか、それを止める御原。瑞樹が、微笑した。
 ナイフを、持ち上げたまま。
「はい。父は、病死ではありません。私が……」
 それが、さっと、
「……殺したんです。」
 振り下ろされた。
 悲鳴はない。
 鮮血もない。
 言葉はなかった。何もない世界で、ナイフが、男の背に突き刺さっていた。
 そして、瞬間。
 それが、途切れる。
 いや、流れ出す。
 時間が、瞬間が、光景が。
 まさに、一時停止した映像を、再び再生するように……
 引き抜かれるナイフ。
 ほとばしる悲鳴。
 そして、飛び散る血。
 再び、それが、振り下ろされる。  
 白い肌。
 少女の、生まれたままの姿に、赤い点が散った。
 足に、手に、腹に、胸に、顔に。
 彼女と、男と、その周囲に……室内すべてに。
 赤い血が、ほとばしる。
 そしてまた、凶器が振り下ろされる。
 何の、呵責もなく。
 何の、思いもなく。
 刃は、振り下ろされ続けた。
 幾度も、幾度も。
 悲鳴は、既にない。
 力も、既にない。
 だが、刃は止まらなかった。
 やめてくれ……
「やめてくれ!」
 渉は、叫ぶ。
 それは、切望だった。
 そして、それは遂げられた。
 一瞬にして、場面が変わる。
 少女が、部屋から出ていく。悠然と、赤いドレスを身にまとって。シャワーでも浴びたのだろうか。返り血のすべては、綺麗に消え失せていた。
 血まみれの部屋。事切れた男が、その骸だけが、そこに残された。
 そして、時が飛躍する。いや、進む。
 過去だったものが、より現在に近付く。
 部屋の中に、チャイムと共に声が響いた。
「朝早く失礼します。悴山です。御原さん、メールの件で少しお話をよろしいでしょうか。」
 扉の前にいるのは、悴山貴美だった。白衣をまとった彼女は、少し疲れたような顔で部屋のドアの前に立っている。その手にはカードがあった。
 だが、室内から答える者がいるはずもない。
「御原さん、朝早く申し訳ありません。できるだけ早くということでしたので……」そこでふっと、悴山は口を閉ざした。
 ゆっくりと、辺りを見回す。早朝の通路には人は見当たらない。悴山は静かに声を発した。
「デボラ、悴山キミコです。」渉は耳を疑う。キミコ……?「108号船室の、御原健司さんの所在は?」
「認識しました。御原健司さんは、108号船室内にいらっしゃいます。」キミコ、と名乗った悴山に、デボラは平然と答える。
 悴山は眼鏡に隠れかけた眉をひそめると、言葉を続けた。「デボラ、108号室の扉を開けて。」
 そして、それが開く。
 悴山貴美の表情が凍り付いたのは一瞬だった。そして、彼女は即座に部屋に駆け込み……「デボラ、ドアを閉めて。」明かりが付いたままの部屋の中を……惨状を見渡す。
 数分、だろうか。いや、それは一分にも満たなかったかもしれない。
「デボラ、悴山キミコです。今より、108号室を完全閉鎖。システム管理者権限において、この部屋に関するすべてのネットワークを切断。環境維持装置も停止状態に。」
「了解しました。コマンド実行後はネットワーク管理者以外、該当船室からのサブシステムを含めたすべての操作が不可能となります。再起動時間の設定を行いますか?」悴山はほんの少しだけ目を閉じると、口許を緩めて顔を上げた。
「デボラ、本日午前七時二十分より第一デッキすべての客室システムにおいて、全機能の一時停止による復旧テストを行います。無作為に選んだ一室の全環境及びネットワーク・システムをこの部屋と同様に完全停止、あるいは切断すること。さらにその処置より七分経過毎に、新たに無作為選出した船室一つを完全停止。同様の処置を第一デッキの客室四十すべてに行い、しかる後、無作為に再選考した一室より全システムを再起動、ネットワークの復旧を行うこと。ただし、108船室はこの無作為選出の中には含まず、機能停止は先のコマンドの通りに行い、システムの再起動はすべての船室の完全停止及び完全復旧の後、さらに七分後に行う。」
「了解しました。該当船室内に居るゲスト及びクルーには、ネットワークと環境維持装置の機能停止に関わる注意を喚起しますか?」
「今回に限り、その必要はありません。同様に、これ以後すべてのサブシステムによるアナウンスも必要ありません。このテストは、あくまで緊急の場合を想定して行います。108号室の閉鎖は、一分後に行うように。では、命令を実行して。」
「了解しました。」悴山は身を翻し、早足で部屋から出た。廊下を見渡し、人がいないことを確認すると、そのまま何事もなかったかのように歩き始める。
 渉は、信じ難い思いを隠せない。
 めまいに似た感覚があった。
 あの夜。いや、あの翌朝……
 彼女が、これをしたというのか。
「どうして……」
 
 


[460]長編連載『M:西海航路 第四十四章(3)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時10分 Mail

 
 
「桐生さんのせいじゃありません。」突然、耳元で萌絵の声がした。渉が顔を上げると……そこに、険しい表情の彼女がいた。「瑞樹……いえ、悴山貴美……彼女があんなことをしたのは、私を……私を、誘い出すつもりだったんです。」部屋を見下ろす……一望にできる空間に、渉と萌絵は立っていた。それはまるで、天からすべてを見下ろすお伽話の存在のようだと渉は思う。「ううん、勿論それだけじゃない。私だけじゃなくて……そうですね、山根さん?」
「うーん、まあ、そうでしょうね。」山根の姿もまた、萌絵と同様に中空にあった。
「悴山貴美がこんな騒動を起こしたのは、御原さんが殺されるという事態が彼女の予定に……少なくともこの時点でそうなることが、彼女達の計画になかったからでしょう。」萌絵は言う。「悴山貴美……いえ、本物の九条院瑞樹であったはずの人……彼女が何を考えていたのか、何を目的としていたのか、それは私にもわかりません。でも、彼女がミチルさん……」虚しく、笑った。「……昨年夏より行方不明になっていた真賀田四季博士の娘と出会い、二人で共謀した上で、この航海において何かを為そうとしていたのは間違いないと思います。山根さん、真賀田四季博士の娘さんが、オペレーティング・システムのスーパーユーザ権限を有していることは、最初から御存じでしたか?」
「まさか。」山根は両手を上げて降参するようなポーズを見せた。「ただ、予測はしてはいました。何せ、真賀田四季博士の作り上げたレッドマジック・バージョン6です。四季女史の身内である未来さんや、ミチルさん、ですか……?四季博士の娘さんに、OS作成者としての管理者権限がある可能性も承知してはいました。そしてそれが、我々本来のスーパーユーザ……ネットワーク・エンジニアの持つシステム管理者権限を上回る可能性も、当然考慮されてはいました。」
「山根さん……貴方達MSIは、それを探り出すためにも今回の航海を計画したんじゃないですか?」萌絵はきつい目で山根を見つめ、山根は肩をすくめた。「とにかく、瑞樹は……入れ替わった二人の瑞樹は、共にその権限を有していたことになります。おそらくミチルさんの持っていた権限が、瑞樹にも与えられたんでしょう。でも、その中で事件は起こった。それは……ミチルさんの中の瑞樹の人格……そしてその中の、本当の瑞樹……その子が、その人格が起こしたことです。」萌絵は、微笑する。「ミヤマ・ミチル。どんな漢字を書くのか、それはわかりません。でも、おそらくそれが、瑞樹……七年前まで九条院瑞樹を名乗っていた、私の幼馴染み……その人の、本当の名前だったんでしょう。ミチルさん……皮肉すぎる名前ですよね。本当、出来過ぎてます……」萌絵は渉を見つめ、哀しげに笑う。「……彼女は白い肌と蒼い瞳を持った、黒い髪の奇麗な女の子だった。それが、片親の……父親の事故と共に身寄りを失い、養護施設を運営していた男……御原健司に引き取られた。そして、九条院家の養子……いえ、重い病気だった瑞樹という名の女の子の身代わりとして、生きることを強要された……」萌絵は、首を振る。何かが、許せないとでも言いたげに。「私が出会った瑞樹は、とても明るい女の子でした。はしゃいで、知らないことに何でも興味を持って、いつも真剣で……私と本気で喧嘩したのは、私に言い籠められなかったのは、あの子だけだった。私の頬を叩いたのも、あの子が……あの子が、最初で最後だった……でも、桐生さんが二人目になりましたね……」萌絵は頬を押さえて渉を見る。渉は、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。
 だから、頷くしかなかった。「彼女と君の出会いの話は、諏訪野さんに聞いたよ。二人で、トランプをして、それから探検して……」
 萌絵は、笑う。「そうだろうと思いました。でも、桐生さんは御存じないですよね。私、諏訪野に全部を話していないもの。」目を細めて、くすくすと笑う。そして、思いきったような顔で萌絵は言った。「私ね、あの勝負で瑞樹に勝てなかったんです。瑞樹は、私よりも頭が良かった。私はそれまで、一人も自分より頭のいい相手に出会ったことがありませんでした。あの時……あの夏の日、九条院家の別荘で、私は瑞樹に出会って……世の中に、自分より頭のいい相手がいるって、知ったんです。」それを告げた萌絵は、何か、とてつもない重責から解放されたように叫んだ。「私、瑞樹には、何をしてもかなわなかった!あの子は元気で、いつもはつらつとしていて、器用で、何もかもうまくできた!それだけじゃありません。あの子は、本当に頭が良かった……信じられないくらい、頭が良かったんです。勿論、私と彼女の差はほんの少しかもしれなかったけど……だけど、だからこそ彼女との差が私には認識できて、それが悔しかった。でも、悔しかったけど……嬉しくも、あったんです。だって、瑞樹と私は同い年だったから。」萌絵は笑う。西之園萌絵のこんな笑顔を見るのは初めてではないかと、渉は思った。「それまでの私は、世界の全部が怖かった。だって、みんな愚かで……信じられないくらい、平然と嘘ばかりついている。他人を卑しめて、自分の利益ばかり求めて、自分に不利になると知っているから、本当のことなんて、一つも教えてくれない。だから、私は自分を装った。彼らの……大人達の道具にされない、翻弄されない自分を築くのに懸命だった。それは、私が周囲から期待された通りのおしとやかなお嬢様の姿で、私はそれを演じ続ける自分に満足していた。何も知らない、知りたくもない他人からなら、愚鈍に見えたって、思われたっていい。馬鹿なふりでもしてやれば、何もできない子供のふりをすれば、みんな安心して私から目を逸らす。みんなと程度を合わせれば、それでいい。そう、思っていたんです。それが正しいんだって……」萌絵は、泣き出しそうだった。「でも、瑞樹と出会った。彼女と出会って、私は知った。私が、一人じゃないってこと。私みたいな……ううん、私より頭のいい女の子がいた。彼女の才能に嫉妬する前に、私は彼女が生きていることが……存在することが、ただ嬉しかった。だから、私はすぐに彼女が好きになった。瑞樹も、私を好きになってくれた。あの子は、私のたった一人の友達だった。学校でも、家でも、誰一人本気で相手ができない、話ができない私が、ただ一人……本気になれる相手、本気の私を受け止めて、それでも打ち負かされない……嫌な顔をしない相手だった。瑞樹だけが、私と同じ……たった一人、私を理解してくれる存在だった……」
「自分より頭の良い大人に、会ったことがない……ですか。」山根が、そこで呟く。萌絵は、目を見開いて彼を見た。
 渉は思う。これは、目の前の光景は、本当に映像なのか。それとも、現実の萌絵の姿を……シートに腰掛け、ゴーグルを付けた彼女自身の素顔を投射しているのだろうか。
 彼女は、今、泣いていなかっただろうか。
「話を……戻します。」萌絵は静かに告げた。「とにかく、瑞樹……ミヤマ・ミチルさんは、あの夜……御原健司の正体に気付いた。自分の……いえ、この婚礼の仲人であった彼こそが、身寄りのなくなった自分を九条院家に売り渡した男だった。しかも彼女の言葉によれば……御原健司は、本物の瑞樹さん……治ることのない重い病だった子供を殺害した、その犯人です。彼女にとっては、自分がこうなったすべてを企てた、張本人とも言うべき相手だった。だから、彼女は……」笑った。嘲るような笑いを浮かべて、萌絵は首を振る。「……そう、彼女は……瑞樹となったミヤマミチルの人格を有していた真賀田四季博士の娘は、その場で彼を殺害するという、極めて短絡的な衝動に身を委ねた。それはいみじくも、育ての親を殺すという……真賀田四季博士の娘である彼女が、生まれてからずっと正当だと信じ込まされていた行為とも一致します。御原健司が言っていたように、幼い彼女をどんな形にしろ養い、その養子先を手配したのは彼なのですから。そう考えてみれば、彼女は……真賀田四季博士の娘は、また、自分の親を殺したのです。しかも、同じように……自分の自由を、得るために。そして……」
 萌絵は黙し、そして……山根が、軽く手を振ってみせた。了解した、という素振りにも見え……
 次の瞬間、目の前の場面が変化した。
 そこはまた、別の船室だった。かなり大型の……先程の御原の部屋より、一回り大きなそれである。そしてそれを見た渉は、息を呑んだ。
 ここがどこか、わからないはずがない。
 その部屋のドアが開き、ドレスの……先程の赤いドレスの瑞樹が入ってくる。
 部屋には、老人が待っていた。
「九条院佐嘉光……」共にその光景を見下ろす、萌絵が呟く。渉は眉をひそめ、長椅子に腰掛けた老人を見つめた。
 やはり、違う。だが。渉は頭の中の老人を……車椅子に腰掛けた相手を払拭した。
 俺が、間違っているのだ。あれは、違う。ライトを俺に浴びせ、おそろしげな言葉をぶつけてきた彼は……違うのだ。
 そうだ。今ならはっきりとそう感じる……いや、信じてもいいと思える。あれは全部、夢だったのだ。無様に転び、脳震盪を起こした俺が見た、まぼろし。心の中にあった記憶と感情が築いた……イメージの、思念の虚像。まさに白昼夢のようなそれだ。それを証拠に、あの後俺は倒れ、翌朝は人のいい向かいの部屋の婦人に助けられた。現実には、あの接触……老人との対峙の前に、俺は廊下にへたり込んでいたのだ。無理をして動いたせいだろう。そう考えれば、つじつまが合う。
 そうだ、何もかもが夢だったのだ。現実は、今目の前に展開されている……再現されている、光景。
 これが、事実であり、現実だ。
 疲れたような老人を、瑞樹が肩を貸して、寝台へと連れ添っていく。何事か、たわいのない言葉を交わして二人は話している。そして、瑞樹は老人を……九条院佐嘉光をベッドの一つに横たわらせると、ほほえみながら身を上げて……
 再び、ナイフが振り下ろされた。
 同じ、ナイフだった。
 御原健司の命を奪った凶器。
 それが、眠ろうとしていた老人の背に突き刺さる。
 老人の眼が、見開かれた。だが、悲鳴すら発することはない。そんな躊躇を許さぬように……ナイフは引き抜かれ、そして、振り下ろされた。
 再び、繰り返される行為。
 感覚が麻痺しているのが渉にはわかった。
 目の前で、命を奪われていく生命。
 それを目にして、俺は、平然としている。
 横たわる老人の背が、血の滑りに染まった後……瑞樹は、ナイフを引き抜いた。
 そして、それを……ナイフをじっと見つめて……
 少女は、笑い声をあげた。
 身の毛もよだつような、甲高い笑いだった。
 生きていた、もう生きていない老人を前にして、少女が笑う。
 渉は、それを見つめた。それを、聞いた。
 これが、事実だ。そして、現実なのだ。
 二人の人間の命は、こうして奪われた。
 夢ではない。これが、正しいことだ。
 誤っていたのは、俺。
 すべては、俺が、したことなのだ。
 疑っていた。疑いたかった。あの夏の日の記憶も、いや、あの仮想世界の会話すら、夢だったのではないのかと。
 大切だったからこそ、疑いたかった。
 俺が、何をしたというのだ。
 俺に、何ができたというのだ。
 俺が解決した?俺が、答えを見出した?
 何という、愚かさだろう。
 俺は、
 彼女を、
 殺した。
 時計など、なかった。約束など、していない。言葉など、交わしていない。
 そうだ。詞など、信用できない。約束など、論外だ。
 目の前の現実は、何より強い。
 それこそが、絶対ではないのか。
 光景が、巻き戻る。
 いや、それが、また移動したのだ。
 亡骸の部屋。
 悴山の命令で、既にすべての機能が停止しているのだろう。部屋は漆黒に包まれ……そして、どうしてかその状況が、渉には見えた。しかし、今更不思議だと思う感覚は、既に彼にはない。
 そして、現実が再生される。 
 部屋の扉の前に立ったのは、長い髪の女性だった。
 瑞樹ではない。既に夜が明けてかなり経つのだろう、通路には太陽の光が満ちていた。そして、渉にはその少女が誰だか理解できた。理解できないはずもなかった。
「西之園さんか……」虚しく、声が流れる。
「桐生さん、今度は気付いてくれましたね。」いつからそこにいたのだろう、萌絵が低い声で言った。「前に挨拶した時は、気付いてくれなかったのに。」クスッと、笑う。
「前に……挨拶……?」渉は眉根を寄せ……そして、萌絵がくすくすと笑ってその手を持ち上げ、ひらひらと揺らす。細い指先が揺れ……そして、渉はかすかに目を見開いた。
 航海初日の朝……「そうか……」くすんだ茶色の長髪と、確か……サングラス。
「桐生さんって、やっぱり……鋭いのか鈍いのか、わからないですね。」萌絵の口調はおかしそうだったが、渉を見つめる目は笑っていなかった。「私、何度も桐生さんに再接近してるんですよ?」おどけて見せる萌絵だったが、渉にはもはや、その表情の真意は別の部分にあるようにしか見えなかった。
 彼女は、まだ疑っているようだ。俺を……
 俺の、何を?
 渉はその視線から逃れるように、眼下の光景に集中する。
「デボラ、扉を開けて。」長髪のかつらをかぶり、シックな洋装に身を包んだ萌絵が、そう命令して扉を開ける。次の瞬間、萌絵の顔に緊張が走り……まさに一瞬の躊躇の後、萌絵は飛び込むように部屋に入った。そして、暗闇……漆黒の闇に包まれた部屋に、手にしたライターで火を灯す。
 明々と照らされる部屋の中で、萌絵は亡骸をじっと見下ろし、その状態を観察した。その手際は驚くほど良かった。動揺も、何もない。まるですべてを予期していたように萌絵は御原の亡骸を探ると、すっと立ち上がった。そして、部屋を見回して、数歩進む。
 ライターに照らされたその顔は、炎が揺れるために、どこか恐ろしい様相だった。
 萌絵は壁面の一つに歩くと、確認するようにその何もない壁……いや、部屋の他の部分同様に返り血が散った壁を見つめて、御原健司に振り返った。
 そして、おもむろに手袋を取る。手首までをおおった、白いそれを取り……
 指が、走った。
 渉は、身を震わせる。
 血糊を……未だ男の背……傷口で滑るそれを指先で取り、彼女は何をしたか。
 立ち戻り……そして、壁に、指が触れる。
 それが、たどる。
 二つの、英字。そして、ピリオド。
 まるで黒板に計算式の答えを書くように、萌絵はそれを行っていった。
 そして、終わると共に身を翻す。部屋のドアの前に来ると、ライターを消して再び呟いた。「ドアを開けなさい、デボラ。」それが開き、彼女が退室する。血で汚れた手には、白い手袋が戻っていた。
「死者に対する冒涜と言われても、構いませんよ。」萌絵は、低い声でそう言った。「桐生さんに恨まれるのだって、承知しています。でも……目的を達成するためには、必要だったんです。それが、彼女の用意したトラップだったことは認めます。でも、結果として……彼女自身も、自分でそれに引っ掛かったのよ。自分で仕掛けたそれに……そうですよね、山根さん?」
 萌絵の声に、山根は何も答えなかった。
 ただ、光景が再び変わる。
 喧騒が現れた。混乱が、御原の亡骸のある部屋の外に……デッキ全体に巻き起こっている。
 今度は何号室が開いたぞ、という叫びと、それに呼応して臨時の放送が流れ、セキュリティやスチュワードが、それぞれ緊迫、あるいは当惑した表情で廊下を行き交う……それが、悴山がかけた扉の開閉プログラムによる騒ぎの光景であることが渉にもすぐにわかった。
 まさに、百聞は一見にしかずということだろうか。この一番デッキを中心として、船全体が上へ下への騒ぎに揺れているようだ。
 この騒ぎの中に……まさに渦中に、自分がいたのか。渉は今更のようにことの重大さを認識できたような自分に、苦笑めいた思いを抱く。


[461]長編連載『M:西海航路 第四十四章(4)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時10分 Mail

 
 
 と、その時だった。
 騒ぎの中、未だ閉じたままの一室。御原健司の亡骸のあるその部屋の前に現れた者がいた。
 車輪のついた担架。誰かを乗せたそれが運ばれ、部屋の前で止まり……「デボラ、悴山キミコです。扉を開けなさい。」静かな声と共にドアが開き、中に入る。
 担架には、俯せに男が乗せられていた。いや……「桐生さん、ですね……」そうだ。渉は、萌絵の指摘にぞっとする。
 自分が、いる。目を閉じた自分が、昏倒している自分が、担架に乗せられている。
 それを運んで来たのは、悴山貴美だった。先程と違い、白衣をまとっている。
 そして、ライトが付いた。悴山が手にした、小さな懐中電灯だった。悴山はそのまま、部屋を横切る形で担架に乗った渉を運ぶと、御原が事切れているソファのすぐ隣にそれを止めた。
 その顔は、眼鏡の奥の瞳は、無表情だった。渉がかつて見た、悴山の……子供のような顔ともまた、違う様子だった。
 そして、彼女は渉にライトを当てる。うつぶせになって、身動き一つしない自分がそこにいた。
「ごめんね……渉君……」囁き、だった。「……わかってる。謝られたって、君には許せるはずもないよね。だけど、ごめん……本当に、ごめんね……」そして、悴山の手が……持ち上げられた。
 戦慄。
 渉は、震えを抑えきれない。
 肉体がないはずなのに、おののきが走る。
 ナイフ、だった。
 アンティークの、ナイフ。
 担架から出したのか、それとも、白衣の下に忍ばせていたのか。
 あの、ナイフだった。
 二人の男を殺した、それ。
 御原健司と、九条院佐嘉光を殺害したナイフ。
 それが、今、悴山貴美の手にある。
 殺されるのだ、と渉は思った。
 俺は、殺される。
 いや、違う。
 否定する心は、確かにある。
 そうだ。これは、過去の映像だ。そして今、俺は生きている。この時より未来のはずの今、俺は生きている。
 だから、俺が殺されるはずがない。
 だが、そんな思いは、目の前の悴山の動きに否定される。
 ナイフが、構えられた。片手にライトを手にした悴山は、あくまで冷徹に……凶器を手にしたもう片方の腕を、渉に向ける。
 殺される。間違いない。彼女は今、俺を殺そうとしている。
 恐怖があった。これほど恐ろしいことなのかと、渉は思う。
 命を奪われる、瞬間。
 自由が、時間が、奪われるということ。
 渉は、枯渇するような思いに目を閉じた。
 だが、それはできない。
 すべてを得ることの世界。
 ならばこそ、得ずに済ませることは不可能なのか。
 だが、それは、違った。
 その瞬間は、既に終わっていた。
 ナイフは、動いていない。
 いや、震えていた。
 渉の背中……首筋、あるいは後頭部だろうか……そこに突き入れられようとしていたナイフは、だがしかし、そこで止まっていた。
 彼女の、手によって。
 悴山貴美。否、九条院瑞樹。否……
 ミヤマミチル。
 彼女は、手を……ナイフを構えた手を震わせて、目を見開いていた。
 ライトが、照らした壁面。
 そこに映る、壁。御原の血で汚れた壁面に、それが……
 赤黒い文字が、刻まれていた。
 M.M.。
 どれだけの時間、それを見つめていたのか。
 やがて、彼女はかすかに笑った。声もなく、ほんのわずか、口許を揺らすだけの、微笑だった。
 そして、彼女は立ち上がり……担架から、渉の身体をその場に転がした。
 そして、ナイフを渉の手に握らせる。ゆっくりと、丁寧に……指を一本一本、固めていく。
「ごめんね、桐生君……」その途中で、彼女は再び囁いた。「あはは、今度の謝辞は、少しだけ意味があるかもしれないわね。まあ、これも甚だ無責任だとは思うけど……渉君、あと三時間……私が助けに来るまで、頑張ってね。」
 彼女はさらに、渉を運び込んだ担架の車の跡を丁寧に消すと、それを引きながら戸口に立ち……二つ三つのコマンドを口にして、静かに戸口から消えた。人のいない合間を条件として開けさせたドアの向こうには、彼女を見咎める何者もいなかった。
 渉は、それを見送り……そして、息を吐く。
「瑞樹は……いえ、ミヤマミチルさんは……桐生さんを殺せなかったんですね。」萌絵が、呟く。渉はその、まるで殺すのが正しかったとでも言いたげな口調に、萌絵を見た。「軽蔑してくれても、構いません……言ったでしょう?私、桐生さんが殺されるのも……殺されても、構わないって思ってたって、言ったじゃないですか……だから……」萌絵は、笑う萌絵の顔が、渉がかけようとした言葉を止めた。
 涙、だった。
 涙が……零れている。
「西之園さん……」萌絵は、泣いていた。
 この世界で……
「あれ……もしかして、泣いてます……私……?」萌絵は、驚いたように目を見開いた。「もう、いやだ……山根さん、やめてください……私、涙なんて……コマンドしてない……悲しくなんてないもの……それに、嬉しくもない……桐生さんが、助かったのなんて……」萌絵の声が、震えていた。
「俺が助かったのは、君のおかげだね……ありがとう。」
 萌絵が、感極まったように嗚咽する。
 命令しなければ、泣くこともできない世界。
 自分が声を発しなければ、何も見えない世界。
 それが、本当に……自由だろうか。
「山根さん、経緯はわかりました……それで、結婚式は……?」渉は聞く。その声に、西之園萌絵が、目尻を拭って……頷いた。
 山根は、笑った。愛想笑いではない、それだった。
 そして、映像が変わる。
 大広間……大ホールに、着飾った人々が集まっている。
 そして、明滅する光。その中で……
 白いウエディングドレスが、会場を横切っていく。
 何人かの男達……セキュリティが、それを腕ずくで止めた。
 ドレスが、マネキンが外される。会場の人々が、困惑に包まれる中、それを運んでいたミチルが……ロボットが、機能を止めた。
 その会場の一角で、悲鳴が上がった。
 百人を越す衆目が、声のした方向を……大きな扉を見る。
 それは、閉ざされていた。だが、視点はそこで、大きく動く。
 何もかもが、見える。渉はぼんやりと、そう思う。すべてが、捉えられるからだ。
 見えないものはない。逢えない相手はいない。
 閉じた扉を潜った先には、果たして……悲鳴があがった現場があった。
 血を流す、男。押さえた肩口から滴る鮮血が、床を汚していた。苦悶の表情で、信じ難いと両目を見開き、目の前の……凶器を手にしている、相手を凝視する。
 それは、一人の少女。
 ウエディングドレスをまとった、九条院瑞樹……否、ミチルか、あるいは道流か……
 真賀田四季の娘が、ナイフを手にしていた。
 傷を負っている男は、北河瀬粂靖だった。燕尾服を着た彼の横で、惚けたように立ち尽くしているのは、渉が一度だけ会った無精髭の青年……北河瀬晴之だった。黒のモーニングを着た彼は、新郎としてここまで来たのだろう。だが今、状況は彼の関与するところではないようだった。
 そして、少女の手にしたナイフが、構えられる。再び、悲鳴があがる。周囲に並んだ、数人の……おそらく極めて近しい親族であろう、男女からだった。
 そして、ナイフが突き出された。
 だが。
 北河瀬粂靖を……新郎の父の命を奪うための刃は、それを止められていた。
 目の前に、飛び込んで来た人によって。
 それは、悴山貴美……いや、九条院瑞樹でもあり、ミヤマミチルという名を持っていた、一人の女性だった。
 彼女は、白いワンピースを着ていた。ただ白いだけの、地味すぎるデザインのそれだった。周囲の人々からして、あまりに素朴で、簡素だった。
 まるで、自分の存在がそうであると主張するように。
 そして、彼女の……その身体が、ナイフを止めていた。
 胸に、真紅の染みが形作られる。
 飛び込んだミチルの胸に、真賀田四季博士の娘のふるったナイフが突き刺さっていた。
 刹那、二人の視線が交わる。
 淡い蒼の瞳と、薄い茶色の瞳が、重なった。
 声はない。
 言葉は、詞は、一つもなかった。
 そして、崩れ落ちる。二人が。
 セキュリティが、飛び込んだ。
 押さえつけられる、少女。介抱される、女性。
 騒ぎが、広がる。デッキ全体を包んでいく。
 そして……
「これで、解決ですね……桐生さん。」
 西之園萌絵の声が、渉を振り向かせた。
 勝ち誇っている訳ではない。だが、彼女は笑っていた。目を、潤ませたまま。
 泣き笑い、なのだろうか。
 渉は、再びそれを……眼下の光景を見下ろす。
 解決……
 これが……
「まあ、あっけない幕切れと言うのも僭越ですかね。」山根が肩をすくめる。「どのみち、僕は満足の行く結果を得られました。事件そのものには、興味はありません。船は速度を速めています。明日の夜には日本に着くでしょう。本当にありがとうございました、桐生さん、西之園さん。これで……」
「俺は、信じられない……」
 渉は、呟いた。
 萌絵が、山根が、彼を見る。
 渉は、繰り返した。
「わからない。俺には、信じられない……」
 それは、どれほど虚しさに満ちていただろう。
 渉の前で、二人が表情を曇らせる。
 憐れみ、だろうか。それとも……
 場違いな者を蔑視し、排斥する、そんな視線なのだろうか。
 そうだ。何という子供じみた態度だろう。渉は、自分自身にすらそう思う。
 だが、それでも、彼は止められなかった。
 そうだ。たった一つだけ……
「わからない……こんなことを、こんな光景を見せられても、俺には、理解できない……」渉は、それを口にする。「馬鹿だと思うかもしれない。いや、事実……馬鹿なんだろうと思う。目の前の現実から目を背けて、自分の好きなことを……自分にとって好ましいことだけを理解しようとしているだけなんだろうと思う。」誰に言っているのか。渉は、そう思う。「俺は、頭なんて良くない。山根さんや西之園さんみたいな、優秀さなんて欠片もない。だけど……」
 そうだ。他人に向けている訳ではない。口にしている言葉は、今発している詞は、他人に向けたそれではない。
「でも、俺には……まだ、わからない……」
 矛盾している。
 そうだ、俺は、自分が信じられない。自分の中の、今の状況を認め……あまつさえ容認しとうとする意識が……その存在が、信じられない。どうにも、わからない。
 自分が、理解できない。理解できないと主張する自分が、理解できない。
 だから、言葉を発する。
 どうにかして、わかりたいから。
 他人に、それを見付けたいから。
 わからない、理解し難い、現実。
 信じ難い、事実。
 それらを、理解したいから。たった一つでもいい、自分の中に取り込みたいから。
 他人の中に、自分を見付けたい。
 ほんの一部でも、共有できる部分が欲しい。
 他人は、鏡だ。
 それを見て、自分を知る。
 だが、この世界ではそれができない。
 なぜなら……
 すべてが、偽りだから。
 すべてが、自分の言葉で作られている。
 見えるものすべてが、自分の思ったままのそれだ。
 例え現実の光景としても、そこにいるのが他人の制御する映像でも、それはすべて、自分自身の前にしかないビジョンだ。
 存在しない、本物。
 それは、確かに真実かもしれない。
 だが、現実ではない。
 事実ですらない。
 リアルな、レプリカ。真の、模倣だ。
 何という世界だろう。
 すべてが、あり、
 すべてが、ない。
 渉は、笑った。
 二人に、笑う。
 自分に、笑う。 
 そして、声が……
「他人は、自分を映す鏡……」
 彼を、彼だけを、捉えた。
「他人の目を通して、自分を見る。貴方は、あの子にそう言いましたね……」
 違えようはずも、ない。
「なら、桐生さん……」
 それは……
「……鏡の中の貴方は、貴方自身ですか?」 
 彼女の、声だった。
 
 
 


[462]長編連載『M:西海航路 第四十五章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時12分 Mail

 
 
   第四十五章 Magata

   「教えて、お母さん……」


「真賀田……」桐生渉は、言葉を口にする。「四季、博士……」
 それを、目にする前に。
 彼女のシルエットを、捉える前に。
 彼は、そう言った。
 それは、名前。
 限りなく、絶対で……
 あまりにも、果敢ない名前だった。
 彼は、目を閉じる。「きっと、また……貴女が現れると思っていました。」落ち着いている自分に気付く。「前の……あの、黄色いドアの部屋でも同じでしたね。北河瀬粂靖、悴山貴美、宮宇智實……そして、村上船長や、深町俊樹……」どうしてだろうか。理由がわかっていながら、それでも渉は、自問する自分を止められなかった。「彼らが俺に突き付けた事実。それは、俺にとって不可解だった……どうにも、理解し難いものばかりでした。」呼吸、をする。呼吸ができると、知覚する。そうだ。ここが、例えどこだろうと……「でも、目にした現実……未来さんの形見である懐中時計と、真賀田研究所のあの部屋にいたロボット……それが、俺に進む路を……行き先を、決めさせました。促した、と言ってもいいでしょう。意志とは別の、現実としての指標、とでも言うべきでしょうか。」苦笑、だろうか。自嘲……いや、どこまでも哀しく、渉は自らのそれを認めた。「そして、何よりも貴女の出現……本物の真賀田四季ではない、偽りの貴女の登場が……」渉は、目を開く。「真実を、捉えさせてくれたんです。」
 そして、彼は、振り向いた。
「貴女は、誰ですか?」
 そこに、彼女がいた。
 磨き上げられた輝石の如き艶やかな黒髪と、穢れ一つない白い肌。
 裾の長い、彼女のためにデザインされたような白い衣。
 すべてが、あの日のままに。
 あの、仮想空間での対面と同じく。
 彼女は、高処から……
 遥かなる場所から、彼を見下ろしていた。
「あの日、西之園さんも同じように問いかけましたね。」無表情のまま、彼女は口を開く。「それが、あの子には新鮮な驚きだった。そして、それが……あの子の決意を、促したのよ。桐生さん、貴方のように……あの子も、西之園さんの言葉で……彼女に出会ったことで、それを決めたのです。」
 長い睫毛が、かすかに震える。
 閉じられていく、蒼い瞳。
 渉は、身震いする自らをきっぱりと跳ね付ける。
 そうだ。それは、決して同じではない。
「もう、いいかげんにして下さい。」渉は、首を振る。「貴女は、真賀田四季博士じゃない。あの時、俺の前に現れたスクリーンの映像……今だって、それは変わらない。例え、どれだけリアルで……どれだけ、四季博士の言葉を使ってみせようとも、貴女は、決して、彼女じゃない。」そこにいる、天才。渉は、ありったけの力をふるってそれを見上げる。「貴方は、誰です!操っているのは、山根さんですか?それとも宮宇智さん……やっぱり、西之園さんが関わっているんですか?俺に、四季博士の……いや、未来さんであるべき女性の姿を見せて、これ以上どうしようって言うんです?真賀田の名を使って、俺に、何をさせようって言うんです?」叫び、だろうか。「彼女は、もういない!未来さんは事実として死に、四季博士は現実として死んだ!同じ存在……真賀田という姓を共有していた二人は、あの夏、互いに自らの死を迎えたんです!それを……そのまぼろしを、何度甦らせれば気が済むんですか!俺にそれを見せ付けて、これだけのことをして……何が得られるって言うんですか!」
 渉は、睨み付ける。
 美しすぎる、女性。
 その姿は、どこまでも揺るぎなく。
 だからこそ、哀しすぎた。
 仮想空間の中の、絶対。
 それは、矛盾だった。
「泣かないで、桐生さん……」優しげな声が、渉に届く。「あの子の死を、悼んでくれることは嬉しいわ。でも、もうその必要はありません。貴方の言うように……あの子は、もう……どこにもいないのですから……」
「やめて下さい……」
「あの日……あの子は、驚きながら答えましたね。」彼女は、渉を見つめながら言う。「私は、真賀田四季だと。貴女が不審に思うような、別の人格ではないと。桐生さん、貴方も、あのビデオを何度も見たの?山根さんのように、繰り返し……何度も、何度も……」
 渉は、目を背けた。
 だが、それでも……言葉が、聞こえる。
 彼女の姿が、見える。
 見たくはない。聞きたくはない。
 だが、それは知覚される。されてしまう。
 目にし、聞いたから。それを、知ってしまったから。
 だから……それは二度と、消えることがない。
 消したくても、消せない。
 目を覆っても、耳を塞いでも、消えることがない。
 記憶のように。
 思い出のように。
 どこに……
 どこに、自由があるのだろう。
「それが、囚人のジレンマ。」静かに、ただ、流れ落ちた。「個としての存在が、必然として抱える矛盾です。桐生さん、貴方がかつて、あの子に説諭してくれたこと……」
 波紋が、散った。
 それは、何だったのか。
 渉は、見上げる。
 そこにいる、存在……
「貴女は……」震える。声が……うわずる。「真賀田……四季、博士……?」
 天才は、微笑した。
「どうして、そう思われるのかしら?」蒼い瞳が、ただ、輝く。「桐生さん。貴方は今まで、何人の真賀田四季に出会ったのです?そして、何度それが、偽物だと思われたのかしら?」濁りなど一切ない声が、彼に届く。「桐生さん、私が本物の真賀田四季であるとするなら……その証拠とは、何ですか?」
 そうだ……
 彼は、認める。それを、悟る。
 大きく、息を吸った。
 それが、現実の行為であると信じて。
 もう、誰もいない。
 山根幸宏も、西之園萌絵も、既に消えていた。
 だが、ここに、いる。
 そうだ……
 俺は今、仮想空間の中にいるのだ。
 赤い魔法で作り出された、まぼろしの世界の中に。
「貴女が誰で、俺が誰か。この世界では、それを考える意味はありませんね。いや……」渉は、息を吐く。「そもそも、存在するという証しが……生命という定義が、この世界にはない。誰もが電子の中に明滅する、一片のデータにすぎないからです。映像として、音声として……極限化すれば、ただの数字として……0からFまでの十六進法の数字として存在している、ただの数の塊のようなものでしょう。」そうだ。それを……数字を、共有している。すべてが……Fになっているのだ。「それでも、この世界で俺達が生きているとするならば、それは肉体のない、思考そのもの……つまり、俺達は全員、心だけの存在ということになるでしょう。」渉は、彼女を見る。「以前、ある女性が言いましたね。心などというものは、存在しないと。貴女も、そう思いますか?彼女のように……そう、思いますか?」
 彼に見つめられ、彼女がほほえむ。
 いや、性別さえ、意味がない。
 彼と、彼。
 人と、人。
 二人は、ただ、対峙した。
 無限の距離が、あり……
 そしてそれは……限りなく、近い。
 言葉すら……詞すら、いらないと思う。
 表情も、仕草も、姿も……
 何もかも、完成されているのに……
 すべてが、不完全だった。
 これが、生命なのだろうか。
「人は、一人一人違う……」赤い唇が、動く。「……限りないほど、異なっている。同じものは、一つとしてない。それが、ある時は個性、特性などともてはやされ、その反面で我……エゴと蔑まれ、人を別個のそれと決め付けて来た理屈です。」ゆっくりと、瞳が移ろう。「束縛され、隷属することを非としながら、逸楽でしかない生のためにそれを黙諾し、是とする……それが、人の世界です。何という理不尽なことでしょうか。」どこまでも、蒼い瞳だった。蒼天の彼方だろうか、それとも紺碧の絶海だろうか。物語として語られる深甚の輝きの如き瞳が、彼を見据える。「人は、ひとりですか?本当に、貴方がたは他と異なっていますか?自分が絶対に他と違うと、立証できますか?」
 笑う。
 彼女が、笑う。
 すべてを、否定するように。
「名前?年齢?血液型?戸籍?指紋?声紋?それとも、遺伝子かしら?肌や目や髪の色で、自分の証しを立てますか?」白い手袋を填めた手が、自らの頬にかかる黒髪を跳ね付ける。「すべては、無意味です。人が心ある者として自らを意識しながら、その心自体を確然とした定理として示すことができない以上、体躯を源とするデータなど何の意味も持ちません。」首が、振られる。「人は、似過ぎているのです。あまりにも、人間は同じすぎる。だから、人は……誰も、孤独を知らない。多数の中で、ただ独り……誰もが孤立していながら、孤独そのものを、知り得ないのです。」
 人は……
 人は、孤独ではない。
 慄然が、訪れる。
 そうだ、それは、まったく違うものだ。
 自分に、無知であること……
 自分を、知っていること……
「でも、だから……」渉は、声を出す。「俺達は、生きている……生きることが、できるんじゃないでしょうか……?」声を出さなければ、どうにかなりそうだった。「この世界……このM世界は、確かに、人類の夢……すべてが叶う、理想郷かもしれない。でも、それはあくまで、仮想としての現実……つまり、ただの真実です。」渉は、首を振る。「この世界は、真実だけでできている。つまりそれは、他の意思を介さない、自分以外の誰にも理解される必要のない、自らにとっての正解だけがある場所です。そこではすべてを捉えられ、何もかもが可能かもしれない。でもそれは、意識として……貴女の言うように、心として別個でありながら、それを確立できず、他のすべてが似通っている俺達人間にとって……あらゆる同期であり……死と、同じです。」
 そうだ。
 死……
「何もかもが叶い、他を必要としない世界。それは個人を尊重しているように見えて、個人を放棄している。そこでは、個性は……自我は、消えてしまう。自分一人しかいない世界……そこには、自分の名前すら必要ではない。それは、そんな世界は、間違っている。少なくとも、俺は……そう思います。俺は、こんな世界は……そんな未来は……まっぴらです。矛盾していても、間違っていても、苦しみばかりでもいい。俺は、今の世界で、生きてみたい……そう、思います……」
 子供なのだ、と思う。
 そうかもしれない。いや、そうなのだ。
 大人のふりなど、できない。
 だから……
 そうだ、だから……
 彼女は、名前を……欲したのだろうか。
 誰かに、なりたかった……
 なって、みたかったのだろうか……?
 生きる……
 生きてみる、ために……
「人は結局、自分はひとりであるという認識を捨てられないかもしれません。」渉は、言葉を続ける。「誰もが、自分を知らず……傍目から見たら、呆れるほど孤立しているのかもしれない。でも、どこかで交わっている……共通し、重なる部分があると思うことは、できるんじゃないでしょうか?」ただ、思うままに。「人は、誰でも……誰かと重なりたいと、同じでいたいと、願う……信じることが、できるはずです。だから、そのために進むことが……生きることが、できる。孤独を知らなくとも、孤立に気付かなくても、生きていけるから……誰もが、生きているから……生きたいと、望んでいるから……」堪える。「俺は、そう……信じたい……」
 詞、だった。精一杯の、言葉。
 それは、あまりにも、稚拙で、
 そして、果敢なかった。
「なら、桐生さん……」天才は、問いかける。「生きるとは、何ですか……?命がある、それが生きるということですか?ならば、数字に命はありませんか?生きているという定義は、何に基づきます?失われるもの……壊れるものが、生きているの?壊れないものは生きていないの?なら、壊れないものは、何ですか?どんな物質も、どんな思考も、必ず破砕されます。ならば、この世のすべては生きているのではないのですか?」渉は、眩むような何かを感じる。奔流のような……溢れ出す、それ。「感情も、記憶も……すべてが生きているとは考えられませんか?」
 それは、惑いだろうか。
 それとも、歎きだろうか。
 渉は、見上げる。
 一人の、少女がいた。
 誰よりも、孤独で……
 そして、果敢ない命。
「俺は……あの夏、貴女の作り上げたシナリオに屈服しました。」目を逸らさない。逸らせなかったのかもしれない。「俺達は、事件を解決なんてしていない。あれは全部、貴女の予定通りだった。勿論、貴女にとって最善の……理想的なルートからは外れていたかもしれない。でも、それでも、貴女の手のひらを……貴女の思考を飛び出すことはなかった。俺達の存在……西之園さんや犀川先生の闖入すらも、貴女の計算に入っていたはずです。」思い出す。すべてを……「事件の後、犀川先生は、俺に言いました。貴女は……真賀田四季博士は、死を求めていた……他人に殺されたいと、願っていたと。貴女は、貴女以上の存在に殺されたかった。そのためにあの事件を起こしたのだろうと、先生は言いました。」犀川の顔を思い出す。そうだ、先生は……「それは、俺には理解できなかった。すべてを企てておきながら、自分の死をフィナーレとする舞台を築きながら、そこにおいて自らの命を奪う相手を……自らの計画通りに手を下そうとする相手を、貴女以上の存在であると認められるはずがない。」震えているのだろうか。「でも、今は……貴女の思考が、その理由が……あの夏の事件の真意が……わかります……いや、わかったような……気がします……」笑った。
 そうだ。あの、夏……「未来さん、だった……」渉は、それを形にする。「未来さんが……貴女は、自分の娘じゃない……いや、自分の娘よりも、自分の妹自身に……未来さんに、それを期待していた。彼女こそが、自分を越える存在だと……同等以上になれる人間だと、願っていたんです。」痛かった。叫び出したいほど……「貴女が、彼女を……未来さんを、あそこに幽閉した。彼女が閉じ込められた場所……あれは、この世界と同じだ。そこにいるのは、幼子一人を除けば、誰もいない世界です。すべてはモニタの向こうに現れる数字でしかない。一方的に与えられる情報があるだけで、それに意味などない。望みは、すべて叶えられる。」笑いたかった。「でもそれは、閉鎖された、自分一人しかいない世界の中でのことです。パッチワークをしようと、絵を描こうと、誰もそれを知らない。自分が……決して、見えない。」渉は、あの狭い部屋を思い出す。自嘲というには、あまりに意味のない時間。「貴女は、そこに隔離された未来さんが……貴女に従属していた、それまでの彼女ではない、本当の深意を……彼女自身を現すだろうと予測した。そして、その結果……十五年後、あの計画と共に自らを越えてくれるであろうと期待したんです。でも、貴女の願いは果たされなかった。思いもかけない、ありえるはずのない干渉が……病気が、彼女の命を奪ったからです。それが……それだけが、貴女にとって、最大の誤算だった……」
 天才は、ただ、彼を見下ろしていた。
「確かに、未来さんの命を奪ったのは、貴女の娘が手にしたナイフだったかもしれない。でも、既に未来さんは瀕死の状態だった。彼女は残り少ない命を娘に与え、それは結果として、貴女の計画を破綻させる要因となった。新藤所長と……父と共に、母と認知され殺されるはずだった貴女は、花嫁衣装を着た、本来人形であるべきダミーが未来さん自身であるということを知った時、すべてを理解したはずです。貴女を超えるはずの未来さんは、まさに偶然訪れた……天の悪戯のような病気で、その命を断たれてしまった。そしてなお、彼女は貴女の計画を破砕してしまった。貴女が尽くした手段の一つ……貴女の娘を刺客とする方法すら、中途半端に終わらせてしまったんです。」渉は、嘲りの笑いを浮かべる。あまりにも、冷酷だと感じる。
 そう、自分自身が。
「でもそれは、貴女から見ればそうである……俺達から見れば、そう思えたというだけです。西之園さんの言うように、未来さんは、愛する姉……貴女を庇って死んだ。最後の最後に貴女に逆らい、他ならぬ貴女の命を救うために、自分が実の母であると装ったまま、育てた娘に殺された……俺も、そう思っていた。ずっと……そう、思っていたんです。献身……そんな言葉では表せない、彼女の行為を……でも、それは……違ったんです。」どれだけの、傷を受けたのだろう。
 今……感じる苦痛は、どの傷がもたらしているのだろうか。
 どうして、生きていられるのか……「未来さんは、貴女の予測を越えていた。いや、あの瞬間だけ……彼女は、貴女を超えたんです。貴女の計画を、彼女自身が……自分にとっての死のために、利用したんです。病気の存在など、関係なかった。未来さんは、貴方の計画のすべてを……死を欲する貴女の思想を完全に理解していた。その上で、彼女は……貴女ではない、自分の死を望んだんです。」目を閉じる。「すべてを教え、天才として育て上げた貴女の娘……それを、そのまま……計画のままに自分と、そして新藤所長を殺させ、解き放つ。すべてがFになる……あの計画の根幹となる、虚構のはずだったストーリーを……彼女は、その手で成し遂げてしまった。西之園さんと犀川先生を呼び、貴女に真賀田四季に戻るチャンスすら与えず、未来さんは……すべてを準備して、いや、成し遂げて……あの舞台の幕を上げたんです。」渉は、あの日見た夕陽を思い出す。「貴女は、矛盾していた。自らの存在を……真賀田四季という存在であることを放棄しても、貴女は自由を得られなかった。両親を殺害し、妹を身代わりとしてすら、貴女は……自らの願いを叶えられなかったんです。あまりにも違う世界……貴女から見れば、貴女以外のすべての人間は、同じものでしょう。貴女はたった一人だった。いや……貴女は、自分を、他と同じだと認めることができなかった。未来さんを使って、この計画を準備して、そして実行させてなお……貴女は、そう考えていたんじゃありませんか?誰も……誰一人、貴女の思考に……知性に、着いて来られなかった世界に、貴女は既に、絶望していた……」
 超越……
 いや、違う……「自由へのイニシエーション……」天才は、微笑する。「……生命は、その存在は、永遠に立証できない。生命とは何か、誰にも理解もできない。ありとあらゆる法則、原理が解明されても、それだけは答えが出ないのです。そして、理解されないものは、自然ではありません。」冷たい、笑いだった。
「だから、バグだと……」途切れそうな言葉を、彼は形にする。
「そうです。生命の存在、そのものがバグなのです。生きていることを考えることができ、命というものがあると認識できる……それなのに存在してしまっているということが、間違いなのです。事実や現実においてどれだけ理由付けを重ねようとも、決して……それだけは、変わることがない。人が、生命がバグであるということ……それだけが、唯一の絶対なのです。」
 
 


[463]長編連載『M:西海航路 第四十五章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時13分 Mail

 
 
 寒気、だろうか。
 それとも、あまりにもせつないのか。
 これが、狂気なのだろうか。
 人類史上、最高の叡智を持つはずの、女性……
 真賀田の姓を持つ彼女がたどりついた、ただ一つの……絶対だというのか。
「だから……貴女は……いや、貴女達は……自らの死を……完全な消滅を……迎えようとした……」
「ゲームを始めましょう。」軽やかな声が、聞こえる。
 渉は、目を疑った。
 そこに……二人の、女性がいる。
 真賀田四季が、二人。
 いや……
「こんにちは。お名前は何というの?」
 一人の真賀田……『彼女』が、尋ねる。
「私は、ミチルです。」『彼女』が、答える。吹き出しそうな顔で。
「ミチルさん?どんな字を書くの?」悪戯っぽい顔で、『彼女』が聞き返す。
「道具のミチに、流刑のルです。」『彼女』は、吹き出した。
 声をあげて、『彼女』が笑う。
「駄目よ。詞を言わないのは禁止。笑ったから、ゲームオーバー。点数は、5点ね。」
「あーあ、失敗しちゃった。悔しいな……」
「なら、もう一度する?」『彼女』が、ほほえむ。
「もう一度、してもいいの?」『彼女』が、目を輝かせる。
「いいのよ。だってこれは、ゲームだから。楽しむためにしているんだもの。」
「そうなんだ。だったら、すぐに始めようよ。」
「やめて下さい……」渉は、哀願した。「真賀田博士、お願いです……もう、やめて下さい……」
 蒼い瞳を細めて、彼女はほほえみを返した。「咎められもせず、叱られもせず……楽しかった。何もかもが、楽しかった……」歌を……紡ぐように。「私達は、同じだった……どこまでも等しく、だからこそ、私達は、すべてを共有できたのです……理解を、連ねていくことができたのです。」懐古……なの、だろうか。「身体も、意識も、想いも……すべてを共有して……重なっていることが、私達には幸福でした。それが違えられたのは、たった一度だけ……あの日、すべてが……変わってしまった……」
 真賀田という名の……女性。
 渉は、ただ……立ち尽くした。
「桐生さん。今回のゲームは、どうでしたか?」ふと、すべてを忘れたかのように笑う。天才の……笑みだった。「貴方にとってのゲームは、満足の行く結果に終わりましたか?貴方は、十分楽しみましたか?」
「ゲーム……」渉は、息を堪える。「これが、この船の事件が……この航海が、ゲームですか……?」確かに、そうかもしれないと思う。西之園萌絵、山根幸宏、九条院瑞樹、悴山貴美……否、あらゆる人間が、俺の前に現れた。そして、皆が……俺を、利用した。俺を、駒のように使って……俺の動きを、楽しんでいたのかもしれない。「こんな、悲劇が……」
「勝ち負けのないゲームです。」少女のように、笑う。「納得のいかないフィナーレでしたか?そうですね。西之園さんや山根さんと違い、貴方は、理解したくないと思った。あの結末に至る場面を、理解しなかった。なら、桐生さん……このようなストーリーならば、どうです?」
 不意に、世界が揺れた。
 いや……違う。渉は咄嗟に事態を理解し……そして、身構える。
 世界が、構築される。
 それは、あまりにも速く……
 そして、鮮烈なリフレインだった。
「……それが佐嘉光翁が案じ、北河瀬と私が完成させた完璧なシナリオだ!それを破談させるような勝手な振る舞いなど、絶対に許さん!」
 轟く怒号、そして、悲鳴。
 渉は、目を見開く。
 男が……御原健司が、ベッドに転がされた少女……九条院瑞樹にその身を伸しかからせる。
 抗う少女……だが、非力な少女をあしらう、男の腕力は凄まじかった。
 白いドレスが、シーツが、乱れる。
 絶句しながら、渉はそれから目を逸らすことができない。
 やめてくれ……
 思う。いや、嘆願する。
「やめてくれ……!」
 その、瞬間だった。
 伸びる腕。それが、男の首……まさに首根に巻きつく。
 獣のようにぎらついていた御原健司の眼が、これ以上ないほどまで見開かれる。
 何が起こったのか。理解しようとするかのように、彼は……振り向いた。
 いや、振り向こうとした。
 だが、できなかった。
 自らの背に刺さった、ナイフ。
 それを、振り下ろした者を見ることもなく。
 目撃したのは、組み伏せられていた少女だった。
 瑞樹は、それを見上げる。驚きに、両眼を見開いて。
 この世のものとも思えない、激情に満ちた表情。
 怒り、だった。
 壮健なる老船長……村上瑛五郎が、凶器を手にしていた。
 咆哮、そして、引き抜かれる得物。
 血が流れ落ちる。御原の顔が、苦痛と恐怖に歪む。逃げ出そうと、ベッドから這い降りようとする。
 だが、村上のたくましい腕が彼を逃すことはなかった。
 逃げようとする男を、自分の側に引きずり寄せ、そして……再び、振り下ろす。
 繰り返し、幾度も。
 鮮血が、散った。部屋に……犯人に、少女に。
「桐生さん、これならどうですか……?」静かな声が、渉を現実に引き戻す。「ほら、御覧なさい……」
 渉は、それを見下ろした。
「……桐生さんには、招致しておきながらの体たらく、謝らなければなりませんな。後はこちらの芹澤より指導させますので、どうか一つ、享受してやって下さい。」
 一礼をし、去る人物。
 記憶が、甦るように。映画の一シーンが、再生されるように。
 渉は、その時間を思い出す。
 村上瑛五郎が、部屋から出ていく。いや、出ようとする。
 そこで、瑞樹が現れた。正装の少女は、軽く腰を屈めて船長と何事かを会話し……
 そして、部屋に入る。そこには、芹澤航海士と……そして、渉がいた。
 そうだ、ここで……再会……
 だが、視点は留まらない。
 世界は、その場を離れ……船長を追った。
 村上瑛五郎。彼は、そのまま船内を歩いていく。堂々と、まさに、渉が知る彼のままに。
 夜の船内は、出航直後ということもあって、どこか慌ただしく……その半面、にぎやかだった。村上は回廊を巡り、すれ違う人々に会釈や挨拶を投げかける。クルーもゲストも、彼の……船長のそんな態度に感服したように、敬意を以って言葉や仕草を返す。
 そして、村上は歩き……
 部屋に、たどりついた。
 それは、瑞樹の……いや、老人の部屋だった。
 その前に立ち、彼は顔を上げた。カードキーを取り出すこともなく、詞を呟く。
 魔法の言葉。
 それが聞こえなくとも、渉にはそれが理解できた。
 そして、ドアが開く。
 明るい部屋。静かなそこに入り、背後でドアが閉まる。
 村上の目差しが、それを……老人を、捉えた。
 疲れたようにベッドで眠る、老人。
 村上は、歩く。そして、その姿を見下ろす。
 その手に、刃が……
 ナイフが、あった。
 御原健司を殺した……
 いや、違う。渉はそれに気付く。
 御原健司を、殺す……ナイフ。
 村上は、じっと老人を見下ろす。
 冷たく、暗く、そして……何か、狂おしいほどの焔が覗く、瞳。
 そして、彼は、言葉を発した。
 ただ、一言。
 同時に、ナイフが突き下ろされる。
 一突きだけではない。
 ためらいもなく、何度も。
 そうしなければ、絶命しないというのだろか。
 そうしなければ、我慢できないというのだろうか。
 凄惨な時間が経過し……
 すべてを終えた村上が、部屋から出ていく。
 その顔は、どこまでも晴れやかだった。
 行われた惨劇を……残された惨状を、まったく記憶していないような。
 渉は、呼吸する。動悸に、唇を噛む。
「こんな……!今のは……船長が、どうして……」震える声を、整えようとする。「貴女は、俺に……こんな……!」だが、それは無理な相談だった。
「ゲームは終わったのです。貴方が納得の行くエンディングを迎えられれば、それが、幸せではありませんか?」
 渉は、見上げる。
 見下ろしていた世界から、顔を上げる。
 そうだ。渉は思い出す。いや、再び認識する。
 すべてが捉えられ、自由になる世界。
 正しさも、間違いも、何もない。
 そこにあるのは、真実。
 自分、だけの……他人の理解とは無関係の、世界。
 そこに今、悲鳴が響く。
 驚いた渉が、顔を向ける先……
 それは、バージンロードへと続く、装飾された廊下の末端だった。
 居並ぶ親族が、挙式に参列するべく集った人々が、驚愕に我を失っている。
 おののく、北河瀬粂靖。
 腰を抜かしてただ惚ける、黒のモーニングを着た新郎。
 その、どちらを狙ったのだろう。
 鋭い刃は、目標を違えていた。
 ナイフを突き出したのは、村上瑛五郎。
 だが、男に振り下ろされるべき刃は……
 ウエディングドレスを着た少女の身体によって、止められていた。
 血が、零れる。身を呈してそれを止めた、少女の胸元から。
 村上の瞳が、震える。彼は、自分が刺した相手を凝視して……そして、さらなる驚きに声をあげた。
 自分が、何をしたのか。
 何が、起こったのか。
 膝が、震える。目を、見開く。
 ヴェールの下の、相手。胸元を貫かれた、ウエディングドレスの少女……
 それは、悴山貴美だった。
 無垢な少女のような、純粋な、そんな表情で、彼女は……悴山は、一言だけ、詞を発した。
 村上だけが、それを聴いたのだろうか。
 一瞬の後、
 喧騒と混乱が、場を呑み込み……すべてを隠していく。
「桐生さん。このエンディングなら、どうですか……?気に入りますか……?」
 声が、彼を……現実に引き戻す。
 そうだ、現実……「やめて下さい……こんな、ありもしない……」首を振る。「あるはずのない、結末……経緯……何が、何が言いたいんですか、博士……真賀田博士……」何度も、首を振る。笑おうとして、それは、できない。「俺が、こんな……喜ぶとでも……いえ、信じるとでも、思っているんですか?こうなれば……これなら、俺が犯人じゃないからですか?ミチル……いや、彼女達も……俺も、犯人じゃない……だから、村上船長が犯人だと……こんな、都合よく作り出したまぼろしを……見せるんですか?」
「どうして信じられないのです?」不思議そうに、彼女は尋ねる。「なら、貴方にとって今目にした光景は誤りで、先程の映像が……山根さんが再生し、西之園さんが真実と認めた場景が正しいのですか?」
「違う……」首を振った。「そういう問題じゃなくて……貴方が、貴方達が……誰だろうと、どれだけ存在しないシーンを……現実にない映像を作り出しても……それを、見せても……そんなものには、何も意味もない。現実に、起こっていないことをいくら作り出しても、そんなものは……!」
 声が、途切れる。
 彼は、止まる。
 目にした光景。誰もが知る現実。
 何が……
 何が現実で、何が、現実でないか。
 昨年、真賀田研究所で起こったことは、何か。
 世界に知らしめられた現実は、何か。
 それは、相違している。だが、誰も知りはしない。認めはしない。
 本当のことを叫んでも、誰も、信じはしない。
 正しいか、誤りか。
 本物か、偽物であるか。
 それらは……「桐生さん。貴方は、目の前に起こった出来事のすべてを、信じられるのですか?そうでなければ、すべてを信じられませんか?目の前で繰り広げられたことならば、すべてを信じることができますか?それが正しいと、自分の中で認めることができるのですか?」
 信じられない、現実。
 信じようとしない、事実。
 自分の……
 俺の中の……
「貴方は、誰ですか?」
 声は、再び……
 彼に向けて、問いかけられた。
 すべてが、反復する。
 そう……
 俺は、誰だ?
 桐生渉?那古野市N大学工学部建築学科四年?
 下らない。
 誰が、それを保証してくれるのだ?それが正しいと、誰が認めてくれるのだ?
 家族か?役所か?友人か?戸籍がそうであり、履歴書に書かれていれば、そうなのか?母親が、俺を自分が産んだ息子だと言ってくれれば、俺はそうだと信じているのか?先輩や後輩が俺をそう呼ぶから、俺はその名前なのか?
 なら……もしもそれが違っていたら、誰かの認識が間違っていたら、どうすればいいのだ?
 皆がそう言い、俺がそう信じているならばいい。
 だがもし、どちらかが破綻すれば?
 ある日、誰かが俺のことを別人だと……お前は桐生渉でないと告げたら?
 ある日、俺が……俺自身が、自分を疑問に思ったら?
 自分が……その存在が、俺という人間が、信じられなくなったら?
 彼は、愕然とする。 
 そうだ。
 他から与えられて認識する定義になど、意味はない。
 自らが自らである証しなど、他の誰にも立てられない。
 それはどこまでも、個人の中の個人……自己という意識だからだ。
 人と人は、似ている。人類……いや、生命として、すべては同一だ。矛盾していようとも、それは、同じだ。
 ならばこそ、人同士は補完できる。補完されるために、他人がいると言ってもいい。
 誰もが、他人の姿に自分を映し……誰もが、自分の姿に他人を映して、生きているのだ。
 だから、人は、複数であらなければならない。
 だが、顧みて自分の中は、どうだ。
 人の心……意識は、どうなのだ。
 何かを嫌い、恨み、妬み、憎しみ、慾を抱き……
 それがすべて、自分の中にある。俺の中に、確かにある。
 敵意も、殺意も、害意も、悪意も……邪念も欲念も、すべて俺の中に、存在している。
 心の中にあるからこそ、それは否定できない。
 それでも、それは制御できない。消すことも、必要に応じて取り出すことも、使い分けることも、できない。
 それらは、まさに理不尽に現れ……
 そして、理不尽に消える。
 理解できない。解析できない。
 心の中にあるものが、自分が、わかっていながら、わからない。
 多数の自分。幾多の自分。人を殺すことすらいとわない、自分。
 それが……
 恐ろしい。
 怖い。
 世界よりも、他人よりも……
 自分が、恐ろしい。
「鏡の中の自分には、心なんてないよね。」声が、聞こえる。「だから人は、鏡の中の自分を見ても平気でいられる。そこにいるのは、自分の中の他人だから。本当の自分は、本性なんて言葉じゃ表現できないほど複雑なそれは……誰にも、自分の中の、誰にだって見えない。だってそれは、人の考えがたどりつけない、ずっと深い場所に……個我の意識とでも言うべきものの、真の底辺にあるものだから。」彼女の……声。「あの人は、それを……深層の知、と呼んだよね。」
 渉は、顔を上げる。
 そこにいるのは、誰か。
 いたのは、誰か。
「君は……」
 だが、それは、無意味だった。
 名前に、何の意味がある。
 彼女は既に、それを求めていない。
 いや、ずっと以前に、彼女はそれに気付いていた。
 俺が……
 俺だけが、今、それを知ったのだ。
 十五ヶ月も、かかって。
 俺は……たった、それだけを知った。
 何という、愚かさだろう。
 できたことは、一つもなく。
 ただ、気付いただけだった。
 翻弄され、促され、認め……そして、知ったのだ。
 すべてが、去年と……
 あの夏と、同じ。
「さよなら、渉……」
 一陣の風が……
 また、声を……世界をさらう。
 返事をする暇もなく。
 再び、すべてが消える。
 その手の中から。
 その、心の中から。
「……ありがとう。」
 強制ログアウト。
 そこには、ただ……
 慨嘆だけが、あった。
 
 


[464]長編連載『M:西海航路 第四十六章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時24分 Mail

 
 

   第四十六章 Miki 

   「自分で決めたの」


「桐生さん!」
 桐生渉を現実に引き戻したのは、西之園萌絵の叫びだった。
 否、それは違う。現実がここにあると、彼は認識した。 
 不確かで、果敢ないもの。それにも関わらず、これほど明確に届くもの。
 生こそが……命こそが矛盾であると、訴えかけるように。
 渉は、それを目にする。
 眠っていたような、一瞬の間。
 目蓋を開いた彼の前に、萌絵がいた。部屋には他に誰もいない。山根幸宏の姿もなかった。SF映画に出てきそうな明滅するゴーグルが、コードをちぎられるようにしてパネルの上に放り投げられている。そしてそれを行ったであろう……渉を呼び起こした萌絵は、今にも泣き出しそうな、そんな悲しい顔で彼を見下ろしていた。
 どうして……
 どうして、悲しいのだろう。
 渉は、思う。
 哀れみだろうか。俺を、憐れんでいるとでもいうのか。彼女の中の何が、それをさせているのだろう。彼女の中の何が、今を……そう、知覚させているのだろう。
 計画が、彼女の思い通りにならなかったからだろうか。だとすれば、思い通りとはなんだろう。自分で思索した未来が、自分の予定と違える結果を生じたからだろうか。それを、現実として認識してしまったからだろうか。それが、正しいと。
 それが、絶対だと。
 取り乱したように自分を揺さぶる萌絵。渉は、それが途方もなく憐れな姿に感じられた。
 何と果敢なく、そして、一部しか見ていないのだろう。
 だが、そう考える自分は違うのだろうか。いや、そんなことがあるはずもない。
 俺自身が、どこまでも……そうだったのだから。
 ヘッドセットと、ディスプレイ、そしてキーボードを含めた操作板。まるで漫画に出てくるそういったシーンのようだ。子供の玩具かもしれない。実際、そうなのかもしれなかった。こういった大掛かりな器材に手を触れ、目にするという……印象を伴う行為によってしか、それを正しいと認められない者への。つまり、それは、子供への玩具だ。
 遥かな知性を持つ者が、未熟な年少者に与えるもの。それを使って遊ぶことで、知恵を、経験を積む。
 この船も、レッドマジック・バージョン6も、すべてがそうであったのかもしれない。
 親が子供に与えた、玩具。
 それを巡って、喜怒哀楽する人々。子供にとっては、玩具は玩具ではない。それはリアルで、真剣に遊ぶに足るものだ。自分がつまらないと思うものでは、子供は決して遊ばない。大人のように、楽しんでいるふりをしたりはしない。逆に言えば、子供は皆それが本物だと信じて、それを自分の宝物だと認識して、本気になって泣き、笑い……そして、争う。
 それは、世界も同じではないだろうか。金銭も、地位も名誉も、大きく異なっているとは思えない。肉体的な充足も、精神的な欲求も同じだろう。宗教も思想も意識も、すべてそうなのかもしれない。
 それが、リアルだから。本物だと、信じるに足る理由があるから。
 真剣である以上、それは当人にとっては遊びではない。そして、それを巡って共に戯れるのが同じ認識を持つ相手である以上、それぞれは集団としての……集合の認知に、いわば常識として受け止めざるを得ない。つまり、玩具を玩具でなくしてしまうのだ。結果、それは正しくなる。
 あくまで、大人から見て玩具なだけだ。彼らからは、そう認識できるだけだ。
 だとすれば、この世のすべては遊戯……ゲームなのかもしれなかった。  
 新しい何かを見つけ、それを巡って戯れる。選択肢を吟味し、選んで進む。その中で誰かが笑い、誰かが喜び、誰かが泣き、誰かが怒る。そしていつか、その玩具に飽きて……また、新しい玩具を欲しがる。それを、探そうとする。
 いつまで、それを与え続ければいい?子供が、成長し……大人になるまでだろうか?
「桐生さん!」叫びと共に萌絵が大きく肩を揺さぶり、渉の思考も中断を余儀なくされる。「大丈夫ですか?とにかく、早く起きて下さい!急がないと……船が、沈むんです!」
 萌絵の言葉が、渉の意識に侵入する。
 ああ、そうなのか、と思う。
 船が沈む。無論、そうなのだろう。西之園萌絵が俺に対して嘘を付く必要は、もうない。だからという訳ではないが、それは間違いなく本当のことなのだろうと渉は思う。
 だから、そうなのだな、と認識した。
 正気を失った訳ではない。それがどういうことなのかは理解しているし、緊急事態だということも当然認識できた。とても重要で、大変なことだろう。一刻を争う、つまりは一大事である、という萌絵の様子は至極当然だろうとも思う。
 だが、どうしてかそれがしかるべき比重を得られない。自分の中で、軽視されていると言ってもいい。
 船が沈む。自分が乗った船が。それはどうやら本当らしい。だとすれば、予定通りなのだろう。そうだ。偶然であるはずがない。沈むべくして、船が沈むのだ。
 ならば、その理由は何だろう。意味は……いや、意義は、どこにあるのだろう。
 殺人事件の証拠を、隠滅するためか?確かにその効果はてきめんだろう。ここがどこの海かは知らないが、これだけの大型客船である。沈んでしまえば引き上げなど簡単にできるはずもない。指紋や血痕を含めた状況証拠のほとんどは意味を無くしてしまうだろう。
 それとも、犯人が逃走するためか?確かにそれもあるだろう。システムリセットが行われている現在、おそらくゲストとクルーを識別、特定個人を追跡する能力をデボラは失っているはずである。だとすれば、俺を含めたすぺてがイレギュラーな存在だ。そうだ。俺達は主だった貴重品を含め、パスポートすら船に預けてしまっている。ゲストカードが……いや、船内ネットワークが個人をチェックするシステムを……その記憶を失った今、誰が誰の持ち物であるか迅速に判別することもできないだろう。相手の言葉や容姿、自分の記憶を信じるしかなく、それはハイテクに支えられたこの船にとってあまりに皮肉な事態だ。誰が誰を名乗っても、正確にわかるすべはない。ただ、目の前の他人に対する記憶と、自分の感情をもって結論を出すしかない。
 渉は、ふっと思った。遠い昔、世界はこうだったのかもしれない。
 ならばこれは、それを知る何者かの……痛烈な皮肉だろうか。いや、違う……皮肉と言うには、あまりに次元が違いすぎる。そうだ、こちらがどうあがいてみても……微苦笑、と称するのが関の山だろうか。
 天才の嬌笑。
 矛盾を秘めた、それでも息を呑まずには……心を奪われずにはいられない、笑い。
 それを、垣間見た気がする渉だった。
「この、船が……」口にしてみる。「M.M.号が……沈む……」その実感のなさに、渉は暫し声を失う。まさに、絶句である。
「そうです!レッドマジックの干渉で外への連絡はできないし、緊急警報装置は全部故障……ううん、使えないようにされていたんです!山根さんだってパニックだわ……コンピュータのデータが全部駄目になるかもしれないんですよ?船と共にレッドマジックのプロトタイプ・プロトコルまで失ったら、間違いなく彼は……ううん、MSIは破滅です。これだけのプロジェクトだもの……」萌絵は、冷笑する。「きっと、やったのは真賀田四季女史の娘……ミチルさんです!自分を……どんな形にしても、真賀田という天才を閉じ込め、利用していた組織……社会に対する最後の復讐なんです!あの子が、瑞樹にも隠して……計画が失敗したら、自分が倒れたら、こうすることにしていたのよ!何もかも巻き込んで、すべてをなかったことにするつもりなんだわ……あぁ、信じられない!」
 ミチル……
 あ、そうか。ロボットじゃない、彼女のことか。
 だが確か、悴山さんの本名もミチルのはずだ。
 彼女は、貴美で、キミコで、瑞樹で、ミチルだった。
 渉は、笑う。
 名前が、どれだけ虚しいものか。
 それは、詞と同じだった。刻まれた詞。口にされる言葉。
 記した者は、誰か。それを口にした者は、誰か……「とにかく、起きて下さい!早くしないと……救命艇で脱出するんです!」
「あぁ、わかったよ……」渉は萌絵の助けを得て、半ば強引にシートから降ろされた。全身が痛い。まるで、何時間もこれに座っていたかのようだ。「そういえば、西之園さん。今は、何時……?」不意に思いつき、尋ねる。「もう、夜になったの……?」
「夕方です!十六時四十一分!」怒ったような萌絵の返事。もう五時間近く経つのか、と渉は思う。今は、航海……何日目だったろうか。「船が沈むまで、まだ一時間以上はあるそうです。でも日没が近いから……とにかく、早く!急ぎましょう!」
 扉を出る。山根の姿はやはりなかった。このデッキ……エンジニア専用の区画にも、もう誰もいない。渉はこのデッキに入ってから一人も他人の姿を見ていないことを思い出した。元から、いなかったのかもしれないとも思う。
「桐生さん、エマージェンシーの手順は覚えています?」エレベータホールまで来ると、萌絵が心配そうな顔で聞いて来た。「桐生さん、最初の……出航時の訓練の時にいなかったから。緊急避難の方法、何も知らないんじゃないですか?」
「あ……そうか。」渉はまだ、どこか惚けたように言った。「いや、大丈夫……確かに、欠席したけど……」呑んだくれた自分と、その原因が目の前にあることを思い出す。「夜に、呼び出されて……船長にさ。そこで、みっちり指導されたから。」そうだ。渉は思い出す。
 出会ったのだ、村上瑛五郎に。そして……
 再会した、彼女に。
 白い少女。
 九条院瑞樹。
 真賀田ミチル。
 渉は、おかしさに笑う。
 若い船員……芹澤といったろうか。彼に何度も注意されながら、俺達は……学んだ。互いに笑いあい、ふざけあうようにして……楽しんだ。
 そうか。
 渉は、今更のように思う。
 彼女は、俺に逢いに来たのだ。
 思えば、すべてがそうだった。
 彼女に対し、俺から逢いに赴いたことは一度もない。
 すべて、彼女が……彼女自身が、俺に逢いに来たのだ。
 夜の訓練。朝の食堂。そして、昼のプール。
 偶然を装っていたかどうかなど、関係ない。
 渉は、想いに息を吐く。
 エレベータが到着した。
 二人は無言でそれに乗り込む。先客は一人だけで、何とエレベータの中で煙草を吸っていた。中背で少し痩せた……渉を含め、二人がよく知る相手だった。
 萌絵は、黙っていた。渉が話しかける。「先生、お久しぶりです。」挨拶、か。再び渉はたまらなく笑い出したくなる。何という馬鹿馬鹿しい行為だろう。言いたい言葉と、言わなければならない言葉。それらをすべて形にせずに、安易にこうして言葉をかける……そうしてしまう、自分がいる。
「ああ、桐生君か。そうだね。もう……」その人物は片手を上げて袖をめくり、腕時計を見た。「丁度、一週間になるね。最後に桐生君と逢ってから……」
「168時間ですね。セコンドで言えば、604800秒ですか?」それは計算した訳ではなく、記憶の中から取り出された数字だった。
「実数ではそうだね。だけど実際には144時間だ。この船は日付変更線を二度行き来しているからね。」煙草の煙が、吐き出される。「残念ながら、二度目のアナウンスがないために調整ができていない。今がどこかわからないけど、おそらく僕たちは十一月三十一日と十二月一日の間……暦のエアポケットみたいな場所にいるんだ。いや、海だからシーポケットかな?」
「先生、そんな言葉ありません!それに桐生さんも……どうして、そんな平然としてるんですか!?まさか、とっくに……私の知らないところで顔を合わせてたんですか?ふーん、桐生さん、さすが先生の愛弟子ですね。恩師の行動は、端から予測済みなんですか?へぇ……」萌絵が非難をこめた視線で訴える。まさにそれこそが皮肉だろうと、渉は思った。
「西之園君、愛弟子なんて言葉をよく知ってるね。」N大助教授の犀川創平は平然とそう言い、煙草を吹かす。「知ってるかい?愛弟子と恩師は、等号じゃつながらない場合が多いんだ。むしろ不等号……アンイコールの方だね、そっちである割合が多いと思うよ。まあ……恋愛感情みたいなものじゃないかな。」犀川らしくない言葉が、渉と……萌絵を驚かせる。
 だが、驚きながらもその意味は理解できた。できないはずもない。犀川がここにいるということが、すべての証明ではないか。純然たる証拠、と断じてもいい。
 そうだ。彼もまた……再会したのだろう。
「先生……」口を尖らせて何かを言いかける萌絵を制して、渉は言った。「……彼女と、逢ったんですね?」
「君と同じにね。」犀川は眉一つ動かさずにそう言った。そのまま黙して、大きく煙草を吹かすと……それを小さな吸い殻入れで消して、顔を上げた。「……まだ、あの部屋にいるんじゃないかな。」
 犀川は渉を見なかった。
 渉も、犀川を見ていない。
「俺、行ってきます。」エレベータの停止ボタンを押した。「先生、西之園さんと一緒に脱出して下さい。俺も必ず行きますから、心配しないで。」
「ちょっと、桐生さん!?」萌絵が口をポカンと開けてこちらと……犀川を交互に見た。「先生、彼女って……」
「桐生君、インスピレーションは刺激されたかい?」犀川は一度だけこちらを見て言った。
 渉は、笑う。そして、頷いた。力強く。「俺、大学を辞めます。」
 犀川が頷いた。「君が、そう決めたのなら。」言って、犀川は微笑した。「悪いね。何だか指導教官らしくなくて。」
 渉は首を振る。萌絵かまた何か言いかけるのを、犀川が言葉で制した。
 エレベータが止まる。ホールは無人だった。渉は降りる。萌絵の声は無視し、振り向いた。
「必ず脱出します。先生達も気を付けて。それじゃ。」犀川が軽く手を挙げた。目を剥く萌絵を制しながら、その犀川の顔がどんな表情をしていたのか、渉には形容できなかった。
 犀川創平と西之園萌絵を乗せたエレベータが下降していく。渉は深呼吸をした。
 現在地を確認する。エレベータ・ホールに人はいなかった。大きなそれだが、見渡す限り誰もいない。照明は明るい。壁に並んだネットワーク端末の一つで、何かが点滅していた。
 非常警報のサイン。赤いそれが、点滅している。
 エレベータを呼んだ。本来ならゲストカードが必要な行為で、それがいらない非常事態である今がありがたかった。まあ、もしもゲストカードが必須であるとすれば、だがと渉は思い、そして、そこでおかしくなる。
 そうだ、愉快だ。
 たまらなく、おかしい。何がおかしいのだろう。
 無論、そんなことは自明だった。
 自分が、ひたすらおかしいのだ。
 渉は、エレベータに乗り込む。運のいいことに無人だった。そして、それが動き出す。
 そうだ……
 そう、だったのだ。
 すべてが、虚構……現実と認識される、虚構だった。
 玩具のように。
 それは事実のようで、そして違う。現実と思って、それが違う。
 ただ、本人にはリアルなだけだ。それに対して、真剣になれる価値を持つだけだ。
 何もかも、端から、ない。偽物だろうが、本物だろうが、すべてが……
 個人が認識し、ただ、自分の中の真実として、あてはめているだけだ。
 現実も、事実も、真実も……
 あらゆる事象が、明快な定義すら持たない。
 そのすべてが、そもそも過去なのだから。体験することは二度とない、過ぎ去った時間だからだ。
 生きている限り、過去は作られる。虚構であろうとなかろうと、関係なく。
 進むべき道……
 未来が、今、あるからだ。
 その間は、ない。現実は、認識した時点で過去になっている。だから、未来こそが本物なのだ。偽りではない。それだけが、本当だ。
 手にした途端、過去となり消え去るものだとしても。
 踏み込んだ瞬間、その違いに呆然とするものだとしても。
 見つからず、終わるかもしれないとしても。
 だが、それをしようとすることはできる。
 届くかどうか、試すことはできる。
 触れようとすることは、できる。
 思考した瞬間、触れようとした瞬間……
 手を伸ばした瞬間、それは、既に未来ではないから。
 過去と未来の狭間は、ない。真の現実が、存在しないのと同じく。
 だが、その矛盾した狭間に、俺達は生きている。生きて、しまっている。
 そして、生きているから。生きていられるから。
 過去を得て……記憶としてなお、満足することなく……未来に、手を伸ばすことができる。自らの力で。
 他人に、それを求めることはできない。
 鏡の向こうに、決して手が届かないように。
 だが、自分だけは……
 誰とも、何とも、違うと思う。
 宇宙。地球。世界。社会。生命。人類……何でもいい。  
 すべてが他と等しくとも、己だけは違う。
 人と同じことは、できない。どれだけそれを学び、真似し、模倣の限りを尽くしたとしても……それは決して、同一にはならない。同一にはなれない。
 未来が、一人一人違うように。
 
 


[465]長編連載『M:西海航路 第四十六章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 01時30分 Mail

 
 
 エレベータが止まった。渉は、足を踏み出す。
 見慣れた場所だった。広くはない。狭いというほどではないが……渉は、毅然とその先を見つめる。
 通路があった。そして、聴こえていた。
 歌声が、響いていた。

 ねんねん ころりよ おころりよ
 坊やは 良い子だ ねんねしな
 寝て 起きたら なにょやらっか
 ねれば 良い子だ こめのぼこ
 ねらね よたぼこ むぎのぼこ……

 渉は、歩く。曲がった、その先。
 ドアが、あった。二つ。対面ではない、少し位置を違えて、通路の両脇にそれがあった。
 渉は、意を決して歩を進める。ドアの前にたどりついた。
 巨大な木製の扉。近付いてみれば、それは、わずかに開いていた。
 息を止め、渉はノックをする。軽く、数度。
「どうぞ……」中から声が聞こえ、渉は目を見開いた。
 驚きは、ない。
 ただ、それだけが、こみ上げる。
 彼は、ドアを開けた。
「静かにして下さいね。やっと、この子が寝付いたところです……」指を一本唇に当てて、彼女は言った。「……さあ、おかけになって。お話をうかがいたいわ。ずっと、そう願ってきましたの。それが……ようやく、叶いました。」
 ソファに、横たわるようにして眠る小さな人影。その横に座した女性が、振り向いてほほえむ。
「言葉が……今は、通じるからですか?」渉も、笑う。彼女のような、悠然とした……暖かいほほえみが浮かべられたかな、と思う。「いや、違いますね。今は、詞を……聞いて欲しいから、ですか?」笑っているつもりだった。自分の中では、そう認識できたからいいのだろうとも思う。「デボラがリセットされたように……貴女も、貴女の中の人格も、リセットされたのですか……?」
「デボラ……デビィ……それもまた、同じことです。私の中では、違いなどありません。」渉は、うながされてソファに腰掛ける。「それよりも、今は……貴方のお話を、聞きたいわ。」
 静けさを、彼は感じた。
 何から話すべきか。
 何から、答えるべきか。
 何を……
 どうやって、詞にすれば、いいのだろう。
 ありとあらゆることがあり、そして、どれもが不明瞭だった。
 喜びと悲しみが、合一する。怒りと笑いが、合致する。
 それらは、遍在しているようで……偏在していた。
 何という、矛盾だろう。人の心とは、そうなのだろうか。
「揚棄……止揚とも呼ばれる理念を知っていますか?」黙した渉の前で、彼女が微笑する。「弁証法といって、数学的な形式論理学とは対を成す思考方法です。」
「いえ……知りません。」渉は首を振った。
「そこでは、矛盾を否定しません。矛盾する思考……αはαであるが、αでありかつαでない場合があるという状態に陥っても、それを正しくないとして否定することなく、両者が共にあるとして包括し、より一歩広げた部分からさらなる思考を続けようとする方法です。存在に対するアンチテーゼを加えたものを、ジンテーゼという合致した一つの考えとして認識する……その考え方を、ドイツ語ではアウフヘーベンと言いますね。」彼女は、ゆっくりと語った。「その起源は、昔……ギリシアの哲学者達によって築かれました。彼らはそれを、dialektike……『対話』、と呼んだのです。」
 渉は、詞の意味を捉える。
「対話……」
「言葉は不自由です。我々の言語は、あまりに未熟すぎる。揚棄という概念ですら、その中ではあまりに果敢ない。つまり、言葉が正しく思考を伝えられないのです。けれど、人は詞として物事を思考するすべを身に付けてしまった。それが楽しくて、面白くて……ゲームのように、人同士が問答し……言葉を重ね合うことを止められなかった。」
 ゲーム。
 渉は、思い出す。
「バグがあっても、どちらもそれを許容することができればいい……」コンピュータと対話し、笑い、悔しがっていた少女。「バグはバグとして、認めてあげることも必要だと……」彼女は、笑っていた。真に楽しそうに。そして、泣いていた。彼の胸で、確かに。
 子供のように。
 幼子のように。
 あんな風に……
 あの地下で、あの白い世界で、彼女も遊んでいたのだろうか。
「正しいは、正しくない……」
 彼女は、笑った。
 若年の乙女のように。
 年老いた老婆のように。
 時間など、人の定めた概念に過ぎない。
 月日も年月も、絶対的な定義ではない。
 過去と未来の狭間の、瞬間だけが……
 絶対だと思える。
 それは、矛盾していた。間違ってもいるだろう。
 だが、それでも、正しい。
 彼は、笑う。
 泣くことはなかった。
 それは、おかしいからだ。
 十五年の歳月。
 そうか、と渉は思う。
「未来さんが、あの部屋に……黄色いドアに入ってから、十五年……」
 彼女は、頷いた。
 それが、今なのだと……
 今日なのだと、思う。
 十五年前……この瞬間……
 彼女は、彼女となり、
 彼女は、彼女となったのだ。
「あの子は、四季の可愛い妹でした……」女性は、静かに言った。「でも、未来はもういません。四季も、もういません。桐生さん……私は、誰ですか?あの日、幼い頃のようにふざけあって、互いに入れ替わったそっくりな姉妹……私は、その、どちらですか?」
 渉は、それを、見た。
「この子と出会い、この子を追いかけて……再会したのは、誰ですか?あの子を産み、育て……そして、殺されたのは誰?今、生きているのは……誰ですか?教えて下さい、桐生さん……私は、誰ですか?」
 永遠に終わらない、
 決して見つからない、
 間違いなく、
 誰にも、答えが出ない。
 それが、矛盾。
「貴女は……」
 渉は、ただ、詞を紡いだ。
 支離滅裂な、答えだったろう。
 正しいと思ってなどいない。
 間違っているとも、思えない。
 それを聞いて……
 彼女は、ただ、頷いた。
「すべては……未来さんの弔い、だったんですね……?」
 それに、答える者はなく。
 彼は、黙って席を立った。
 すべてが、終わることもなく。
 すべてが、始まろうともしない。
 ドア……
 それだけが、開かれた。
 渉は、感じる。
 船が、揺れている。
 彼女の柩が。
 月の貴婦人。
 Mistress of the Moon。
 M.M.。
 Miki Magata。
 彼は、もう一度、
 最後に、たったひとり……
 月夜の海に、果敢ない想いを散らした。
 
 
 


[466]長編連載『M:西海航路 終章』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 02時14分 Mail

 
 
 
   終章
  

 『月の貴婦人』号の沈没にまつわる大事故は、世界的なニュースとして大きく報道された。負傷者は三十八名、行方不明者は五名。その中には御原健司や九条院佐嘉光、そして悴山貴美の名もあった。もっとも、この情報はあくまで後日の発表に過ぎず、すべてのデータをコンピュータ・システムに頼っていた船会社の、まさに手落ちと非難された全情報の消失によって、事故についての明確な事実は判明しなかった。そして、それは何者かの手によって行われたはずの殺人についての捜査も同じだった。データ不足か、司法による捜査の手際の問題か、はたまた別の何かが作用したのか、行方不明となった者達について確かな発表が行われることはなかった。そして人々の常として、大衆は年が明けてしばらくするとその事故の話を忘れていった。
 桐生渉が目覚めたのは、N大学付属病院の特別病棟だった。大きな個人用の病室で、目を開けた前には家族がいた。親戚もおり、何年も会っていないような縁遠い従兄弟までもがいた。彼彼女らがようやく帰り、検診が終わると、控え目なノックと共に西之園萌絵が現れた。
「ごめんなさい、桐生さん……」萌絵の目には涙がたまっていた。渉は首を振ろうとし、そしてそれがうまくいかないことを改めて認知した。全身がギプスで固められているのだからそれも当然だった。
「もう、いいよ。」渉はそれだけ言った。萌絵は声を震わせて横を向くと、瞬く間に平然とした顔で向き直って、事件のあらましを……その後の顛末を説明し始めた。それがしたくてたまらず、そのための社交辞令として涙目になってみせたように思えて、渉は思わず吹き出しそうになった。
 おおよそは家族や親戚が話してくれた通りだったが、さすがに萌絵の話はより細かい部分で詳しく、そして真に迫っていた。その中には、渉自身が知らない情報もふんだんに含まれていた。萌絵自身が疑ってかかっているものもあり、それらの解釈について尋ねてくる萌絵の様子はまさに以前と変わらないようで渉は笑った。以前とはいつだろうと思いつつ、それほど昔ではないと思う。
 渉が萌絵の話に意識を集中したのは、話がある人物に触れた時だった。「それで、あの人は……すべてを話したそうです。」すべてか、と渉は思う。何が、どこまでで、誰にとってすべてなのだろう。「彼が、御原さんの部屋を訪ねて……そうしたら、激しく叱責される彼女の声が聞こえて。それで、衝動的に……」萌絵はどこか納得していない様子だった。「でも、警察はそれほど信憑性はないだろうって……叔父様も、取り上げるかどうかは難しいって言ってました。御原家の方が、当主の不義を……つまり、彼の政治家としてのキャリアというか、派閥がどうのって、表ざたにしたくないらしくて。私、それを聞いてとても腹が立って……でも、叔母様にそのことを相談したら、御原なんて小さな家、明日にでも派閥ごと潰しちゃいましょうかって言うんですよ?そこまでは、私もさすがにためらって……」萌絵はそこで何かを思い出したのか、赤くなって言葉を濁した。「あと、佐嘉光さんの件ですが……こっちは、完全に不問になりました。」並べる話に渉がほとんど動揺もしないのが不思議なのか、それとも気に入らないのか、萌絵は刺のある響きで説明を続ける。「まあ、それも当り前ですよね。自分が本物の九条院佐嘉光だって人が、出て来ちゃったんですから。」
「本物……?」渉がその言葉を口にすると、萌絵は嬉しそうに顔を輝かせた。
「そうです。勿論、表立っては発表されてませんよ?でも桐生さん。出てきた人は、あの殺された佐嘉光さんと瓜二つで……どういうトリックでしょうね?双子?それとも影武者かしら?確かに調べたら、九条院家では何年か前に、執事が一人行方不明になっていて……巽也さんっていう、佐嘉光さんの身の回りの世話をしていた人なんですけど。でも、彼と佐嘉光さんは年齢も体格も全然違うし……私、以前に佐嘉光さんとは何度もお会いしているから、絶対に間違えない自信かあったんです。でも、自分が本物で、船には乗っていなかったっておっしゃる佐嘉光さんは、本当に正真正銘の九条院佐嘉光さんでした。だから……」萌絵は自分が直接、その佐嘉光本人に面会して来たのだと説明した。渉は相も変わらずのその行動力に舌を巻く。
「そのことは、犀川先生には話してないの?」
「勿論、言いました。そうしたら、先生が何て言ったと思います?『西之園君、鏡を見たことはある?』って……もう、いつもの意味のないジョークですよ!まったく……!」不満を撒き散らす萌絵をよそに、渉は笑った。犀川の言った言葉の意味は、よく理解できる。
「西之園さん、鏡を見たことはある?」そう言った途端、萌絵は目を剥いて渉を睨んだ。「いや、違うんだ。ほら、鏡に映った自分を、本当の自分だって……」言いかけて、渉は言葉を切った。
 それが正しいと、誰が決められるのだろう。
 結局、自分自身だけだ。
 萌絵が矢継ぎ早に言葉を浴びせ掛ける。渉は首をすくめて天井を仰ぎ、そして今更のように萌絵の服装を指摘した。「紫のスカートが似合うね、西之園さん。」そう言うと、萌絵は赤面した。「髪も伸ばしたら?犀川先生、きっと眼鏡をかけ直して驚くんじゃないかな。『見違えたよ、西之園君』とかさ、らしくないこと言って……」萌絵が目を剥く。らしくないのは自分の発言だったと渉は理解した。猛然と萌絵の反撃が開始され、犀川が現れるまでそれは続いた。
「あ、先生!」萌絵が一瞬で態度を変転させる。渉はその姿に心底から感服した。「先生、聞いて下さい!桐生さんったら、助かったのがまだ信じられないみたいなんですよ?桐生さんのおかげで、大勢が助かったのに……」渉は怪訝に眉根を寄せ、萌絵が驚いたような顔になる。「あれ?桐生さんですよね?あの事故の夜、一人残った船から何かの手段で……部屋のノートPCを使ったとか……衛星回線を通じて、ですか?とにかく、レッドマジックを介さずに自宅のコンピュータに繋げて、そこからメール形式で、大学のサーバを経由して救難要請を各所に出したのって……まさか、違うんですか?桐生さんなんですよね?」渉の目が丸くなる。
「例の、僕のプログラムを流用してマルチポストした奴だね?まあ、非常時だから咎めたりはしないけどね……桐生君、あれはウィルス紛いだから、あまり多用しない方がいいと思うよ。大学でもかなり騒ぎになったし、まあ、結果的に通報が迅速に届いて、二千人以上の命が救われたって、君を持ち上げるマスコミの方が凄いみたいだけど。西之園君、その話はしてないの?桐生君、親御さんからも聞いてないのかい?」犀川が煙草を吸おうとして、ここが病室であることに気付いたかのように渋い顔をする。萌絵はただ、そっぽを向いて肩をすくめた。
 渉は、ただ呆然とするしかなかった。
 通報……ノートPC?確かに、持ち込んではいた。しかし、間違いなく、一度も使っていないはずだ。あの部屋に置いたまま……
 それが、なんだって?レッドマジックを介さずに……自宅の……救難?犀川先生のプログラム?メール形式で、マルチポスト?俺が、救った?
 そんな、馬鹿な。俺はあの時、ただ……
 瞬間、だった。
 過去と、未来の狭間で……
 渉は、理解する。理解した、自分を認める。
 help……
 from M.M.。
 西之園萌絵が送り付けたメール。
 彼女がそう言い……
 渉が、そう信じていたもの。
 笑い出したくなった。
 だが、声が出ない。
 だから、ベッドに身を預けた。毛布は暖かかった。地に足がついているからだ、と思う。
 それこそ、馬鹿馬鹿しい考えだった。
 渉は、目を閉じた。犀川と萌絵の会話が子守唄のように聞こえてくる。普段なら考えられないことで、だがそれを気にしないでいられる自分がいた。
 含み笑いは、消せはしなかったが……
 今は少しだけ、眠りたかった。


 翌年の春、渉は退院し、ドイツへと渡った。
 二年間の海外留学。犀川が勧めたことだった。
 無論、N大生としてである。大学の教授連は、桐生渉を……M.M.号の沈没という世界的な大事故の救出活動における、最大の功労者と認知された生徒を手放すことをよしとしなかった。その点で渉は別段固執するつもりはなく、そして通例としても留年は留学期間を挟めばOKだ、という免罪符のような定義も持ち上がってしまっていた。その実、犀川がかなり骨を折ってくれたのだろうと渉は察し、旅立つ前に改めて礼を言いに行ったが、犀川は真の功労者だと言って国枝桃子助手を紹介した。相変わらず憮然……いや、超然とした態度の国枝を前にしては、渉には一言もなかった。勿論、国枝から別れの言葉など出るはずもなく、彼女は今は忙しいからと即座に踵を返した。
 出発前夜の送迎会は、西之園萌絵のマンション……その最上階の二フロアをすべて占有する、彼女自身の自宅で行われた。当然、そこには諏訪野老の姿もあった。渉は初めて目にするその豪華さにただ圧倒され、集まった学生達にろくな挨拶もできなかった。犀川研の先輩連に渉は弄ばれ、萌絵に連れられて来たミステリィ研究会の面々といえば、彼女にかしづく家来のように場を奇怪な雰囲気に満たした。
 出発自体は静かなものだった。新幹線は神戸まで瞬く間に渉を運び、そして港では船が彼を待っていた。渉はドイツまで海路を選んでいた。それは彼自身のわがままのようなもので、家族を含めた反対意見を彼は全て無視した。小さいが、風格のある客船に渉は乗り込み、船は南の海をゆっくりと回って西へ西へと航海した。一人の船上だったが、渉にはするべきことが多かった。独語の勉強はその最たるものだったが、とにかく一人で考える時間が彼には与えられ、それは渉にとって最も貴重なものだった。無論、乗客や船員に知り合いもできた。有意義な旅だったと断ずることができるだろう。
 春とはいえ、ドイツはまだ寒かった。到着した渉を大型の車が待っており、それは渉を乗せて遥かに続くアウトバーンをひた走った。
 半日かかって、車は大きな街に到着した。有名な大学都市で、空気といい雰囲気といい、とても活気があった。その街の少し外れ、小高い丘にある大きな屋敷が彼の居候先となった。想像以上の豪華な作りに渉は驚いたが、さらに現れた屋敷の主人が、渉の度肝を抜いた。
 日本から留学した渉を待っていたのは、流暢な日本語の挨拶を口にした、頭頂から顎の先まで豊かな白い毛に満ちた太った老人だった。彼は齢を感じさせぬ元気な足取りで渉に近付き、力強く彼の手を握り締めた。渉は自分が童話に出てきそうな老人の容姿と、発せられた流暢な日本語のどちらに驚いたのだろうと考えたが、結論に至る暇もなく、そのまま彼に引きずられるようにして居並ぶこの屋敷の人々……老人の一族郎党に紹介された。
「グ、グーテンターク、ドクトル・ホロウェイ……」渉がどもりながらそこまで言うと、家族の何人かが吹き出した。間違いなく渉の片言の独語の発音にであり、渉は赤面したが、同時に彼らは一斉に渉に詞と笑顔を投げかけ、次々に握手を求めた。老若男女に囲まれ、その激しくも暖かい歓待ぶりに、渉は少なからず感激することになる。
 騒ぎが一段落すると、渉は屋敷の最上層にある彼が住むことになる部屋に案内された。掃除を含めて色々と準備をしておいてくれたのだろう、小ぢんまりとした綺麗な部屋に荷物を入れて窓を開けると、眼下遥かに美しい市街が見えた。
 異国の街並みだった。どれくらいの間、これを見続けるのだろうかと渉は思い、自分の中に期待があるのか、不安があるのか、希望が……それとも別の何かがあるのだろうかと考えた。おそらく、そのどれでもあり、どれでもないのだろう。
 そこでふっと、渉は屋敷の庭……そこからこちらを見上げている小さな姿に気付いた。帽子をかぶり、可愛らしい服を着た、まだ年の頃も若い……小学校の低学年くらいだろうか、そんな少女だった。おそらくこの家の子供なのだろう、少女は渉をじっと見上げている。渉は少し戸惑い、そして笑って手を振った。少女はにこりともせずに、そっぽを向く。渉は苦笑いをしそうになり……そこで意を決し、荷物もそのままに部屋を出ると、階段を降りて庭へと出た。
 そこに、青い目の少女がいた。肌は白く、まさに人形のような可愛らしさだった。背は渉の腰までしかない。つばの広い帽子をかぶっており、そこから長い髪……黒い髪が、覗いていた。
「グーテン……」声をかけようとして、渉は頭をかいた。だがそこで、思いつく。「渉……渉、桐生。わかるかな……渉。」自分を、指差す。
 少女は、どこか怪訝に渉を見つめて……横を向きかけ、つっと元に戻るようにして、彼に向き直った。
「ワタル……?」少し、舌足らずな発音だった。渉は、頷く。「ワタル、キリュウ……」二度目で、たちまちしっかりとした発音になる。渉は驚きつつも、笑顔で何度も頷いた。
「うん、そうだよ。とても上手だね。」少女は嬉しそうな顔も見せず、何かを考えるように首を傾げてから、自分自身に向けて小さな指を向けた。
「キミコ。」腰を屈め、頭を軽く下げる。「キミコ、ミヤマ……」どこか悪戯っぽく、それでいて大人びた仕草だった。
 渉は黙した。そして、短い……彼にとってはそうではない時間を置いて、少女に手を差し出した。何かがにじんで、慌ててそれを堪えようとする。
 そんな渉を不思議そうに見上げながら、青い目の少女はそっと手を伸ばして……初めてほんの少しだけ笑うと、彼の手を握り返した。
 小さな、とても暖かい手だった。
 
 
 
 



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