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ダレモイナイ コウシンスルナラ イマノウチ(ペ∀゚)ヘ
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[399]まえがき・その四: 武蔵小金井 2003年07月31日 (木) 20時26分 Mail

 
 
 
 前述として、一応。

 ここは武蔵小金井が連載形式で投稿掲載している

 『M:西海航路』の第四部(三十一章〜三十九章)をまとめたツリーです。

 新規に読まれる方は、どうか下方の第一部ツリーからお読みになることをお願いいたします。


 それでは。
 
 
 
 
 
 
  


[423]長編連載『M:西海航路 第三十一章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時18分 Mail

 
 
   第三十一章 Menace 

   「ひょっとして貴方、探偵?」


 耳触りな音が、室内に響いた。
「いやあ、たいしたものです。」画面の向こうの若い男が、大袈裟に打ち合わせた両手をこれ見よがしに返してみせる。「是非、貴方が講じた手段についてその詳細を知りたいものです。おっと、こういう言い方は不謹慎でしょうか。失礼しました。」どうしてこうも丁寧なのだろう、とふと思う。それが染みついている……いや、身に付いているからだろうか。「我々もこういった技術に携わる者として自負するところは少なからずあるのですが、その我々ですら、今回の貴方の技量には感服するしかないのが実情でしてね。恥ずかしながら、御教授を願いたいのですよ、まったく。」それこそ、兜を脱ぐという言葉通りに男は頭に乗せていた制帽を外した。別に隠れていた訳ではないが、今以ってようやく男の素顔があらわになる。彼が姿を表してから一分も経っていないはずだが、実にもったいぶっていたように彼には思えた。
「おっしゃっていることの意味がよくわからないんですが。」桐生渉は即座に返答した。いや、否定の意味ですらないそれは、返事として成り立つのだろうかと彼は思う。「手段とか技量とか……何の話ですか?俺が御原さんを殺した、その方法についてですか?それなら……」勢い言葉が出る。だが今の渉にとって、それはさほどためらいのある言葉ではなかった。
 そう、何を今更である。
「とんでもない。」オールバックの黒髪をあらわにした男……日本人、年齢は三十代だろうか。とにかくその男は、これまた大袈裟なポーズで首を振った。「我々は技術者といっても、有機的な諸々については甚だ無知でしてね。人を殺害する方法の是非について考察することなど不可能です。」茶化すようでなく語るこの男には、何かの能力がある、と渉は思う。「絞殺とか刺殺とか……確か、色々と種類がありますね?無駄な分類のような気もしますが、それほど他人の死というものは興味をそそるものなのでしょうか?」男は理解できないというように続ける。「望む望まぬという意志に関わらず、必ず死は訪れます。自分のそれでなければ、気にしても何の意味もないと思うのですが。ましてや他に対するそれ……つまりは殺人など、どう考えてもリスクが大きいばかりで、決して良策とは思えません。ですから我々は、貴方のそういった行為については何の興味もないのです。」
「そうですか……」渉はかすかに乱れる呼吸を感じる。いや、そもそもこの男……不意に現れたこの男は、何者なのだ?
 渉は注意深く画面の向こうを観察する。相変わらずの白い部屋であり、同じ椅子が見える。そこに腰掛けた男、それ以外には何もない。背後にセキュリティが立っていることもない。
「失礼ですが、貴方はどなたですか?」軽く、息を吐く。頭痛はしていない。いや、感じなくなったのかもしれないと思う。「俺に、貴方の質問に答えなければならない理由があるんですか?」そう、いつからだろうか。渉は目を逸らさずに男を見つめ、そう思った。
 そもそも、今は何時だろう。航海四日目の……もう、昼になっているだろうか。だが、まだ食事は運ばれていない……「いやこれは、申し遅れました。我々……」男はそこで、気付いたように笑う。柔らかそうな笑いながら、渉はその瞳の色に、どこか挑戦的な……いや、油断のならない様相を感じ取る。「いや、私は宮宇智と申します。ミヤは当り前の宮殿のミヤですが、ウは宇宙のウ、最後のチは知恵のチですね。ただし、トモと書く方です。下に白が付く方ですね。まあ、ありふれていますよ。」
「宮宇智さん、ですか?」渉は聞き返す。「宮と……宇に、知……あ、智、ですか。」ミヤウチ。ありふれた読みだが、字の方はありふれていないのではと渉は思う。
「そうです。三文字ですね。」その宮宇智が笑う。声を出さない笑みもまた、渉の意識の何かを刺激した。「当て字のようですが、どうもそこそこ古い名前だそうで。私も職業柄よくこの名字で苦労するのですが、改名しようにも由緒があるのでは少し決まりが悪くて。仮にも再先端の技術に携わる者として、そんな姿勢もどうかと思うのですがね。」丁寧なようでどこか自信……いや、自尊のようなそれが見受けられる宮宇智の物言いに、渉は再び何かを感じる。そう、この男は……「おっと、これでは先程の悴山先生のようですね。今は論点を明解にしておきましょう。時間は何よりも価値がある、貴重なものです。無駄には消費できませんし、他人のそれを無駄遣いさせるなどもってのほか。それが、我々技術者の数少ない総意の一つでしてね。貴方もそう思いませんか?時間は有限、俺の仕事に余計な口出しをするな、と。」
 渉は微笑する。「時間は無限に続く、とよく言いますが。」言葉を選んだ。「個人のそれに限れば、有限と言ってもいいかもしれませんね。だとすれば、今この時間も大切にしないと。」時間を大切に、という言葉で何かを思い出す。そう、他人の時間を奪うことは最低の行為、確かそうだったろうか……「貴方の名字はわかりました、宮宇智さん。でも俺が知りたいのは、貴方が具体的にどなたで……はっきり言えば、この船でどういう地位にいる人かということです。貴方はクルーですか、ゲストですか?」不思議な感覚に渉はほくそえんだ。何だろうか、いい気分だ。子供じみた感覚かもしれないが、渉は今、はっきりとそう思った。
 そうだ。妙な……そう、高揚感とでも称すべきそれがある。それは、決して目の前の相手……宮宇智が驚いた顔をしているからではない。むしろ、自分の……何か、自分の行動に対してのそれだった。
 そうだ。俺は今、自分の態度に満足している。
「これは失礼。」宮宇智は小奇麗な椅子に腰掛けたまま軽く頭を下げた。「時間の貴重さを訴えておきながら、無駄話をしようとしていましたね。さすがに、専門の方と対等以上に話されるだけのことはあります。私などまさに別世界……いえ、別次元の作法ですな。いやはや。」芝居がかった仕草に渉は思わず失笑する。それが間違いなく演技であることは見て取れたが、この状況であえてそれを行っている宮宇智という男に少なからずの興味……いや、別の意識を持たざるを得ないこともまた事実だった。
 そうだ。悴山貴美……彼女もそうだが、実に色々な人間がいるものだ。各々が意識しているのか、はたまた自分ではそうと気付かず、言ってみれば自意識そのものから出るのか、皆が皆、強烈な自己主張をしている。無論、今まで渉が出会って来た人々の多くもそうであったろう。だがこの船……独立した小さな社会とでも言うべき場所を来訪し、何一つ勝手知らぬそこで暮らしてみて初めて、渉はそれを認識できたと感じる。
 本当に、人はそれぞれ違う。今更のように、渉はそれを理解する。まさに、人とは万華鏡のようだ。
「いえ、俺も貴方と知り合えて……話ができて嬉しいです。何しろ、ここには娯楽も何もなくて。退屈というと聞こえが悪いですが、貴方が映っているこのスクリーンで映画でも見られたらいいな、と思いますよ。部屋も適度なサイズですから、音も聞こえがいい。防音もしっかりしていますね。かなり頑丈でしょう。船の構造はよく知りませんが、部屋の一つ一つがブロック構造になっているんですか?」適当なことを口にしながら、個人用の映写室、という言い方は遠まわしに批判していることになるのだろうかと渉は思う。「そうだ。宮宇智さんは、どんな映画が好きですか?」
 自分でそんな質問をしておいてと渉は思ったが、それよりもむしろ彼を驚かせたのは、たわいないその質問を聞いた宮宇智の反応だった。吹き出すようにして背を曲げて、苦しそうに胸を抑える。面立ち……彼は間違いなく悪い顔はしていないと渉は思う……が、呼吸が苦しいかのように歪み、そして、たちまち元に戻った。「これは、参りました。ですが、私は映画とかテレビとか、ラジオも含めて……実は、まったく見ないのです。」どうも、いったい自分はこの男に好感を抱いているのかそうでないのか、渉には今一つ釈然としなかった。「だからですか。私は、こういった話題にはとんと疎くて。三十を過ぎた今まで結婚の機会に恵まれなかったのも、これが原因でしょうね。もっとも我々の大部分がそうですが。まあ、総じて一般社会に対する適合性というものが低い訳です。」宮宇智の口にした結婚、という言葉が渉の中に小さく響いた。身近なのか、遠いのか、そのキーワードとでも言うべき言葉が、渉の中で反芻する。「まあ結婚や家庭などは、引退……定年になってから考えることだというのが総意ですね。他から見れば甚だ屁理屈になるのでしょうが。」
「いえ、俺の知っている人にもそういう人がいますよ。」思い出す。テレビもラジオも新聞も、そういった社会から提供されるデータにつき何も知らない……いや、興味を示さない人物。
 だがそれでも、彼は生きている。そう、生きていけるのだ。生きている上で本当に必要なものなど、どれだけ微小なものだろう。渉は現在の自分の状況を鑑み、そう思う。
 ならば、どうしてエネルギーだ環境だと人は騒ぐのか。生きていけるならそれでいいではないか。たったこれだけ……そう、俺のいるこの空間程度しか生きていくのに必要でないのなら、どうして、こうも世界にはトラブルが発生するのだろう。隣にいる人間が、思うままにならない相手がいることが、どうにも我慢できないからか。目にした見知らぬ相手に、自分を陥れる企てがないかと、怒りや畏れを感じるからか。ならば、今の俺のようにすべてを隔ててしまえばいい。一人一人がこうして隔絶すれば、何も起こらない。押しなべて安全だ……「犀川先生ですね?御名前はかねがね窺っていますよ。犀川先生は我々の分野において、真の意味で賞賛に値する研究者の一人ですからね。特に数値的な演算における解析プログラミングでは、先生は世界的に名の知れた……いえ、現在生きておられる中で随一のプログラマと言ってもいいでしょうね。」
 この見知らぬ男が不意に画面に現れてから、渉がこれほど仰天したことはなかっただろう。男……宮宇智が自分が指導を受けている大学の助教授の名を知っていたこともそうだったが、彼の口から漏れた言葉は、その渉すら耳を疑うものだった。「犀川先生を御存じなんですか!?」思わず聞き返してしまう。そう、何だって……世界的?「先生を、その……」言葉が出ない。渉は戸惑った。
「あ、これは種明かしをしないといけませんか。」宮宇智は笑った。「なるほど、悴山博士はさすがというか……やはり私は、そういったことにはほとほと向かないようですね。」実に楽しそうだ。だが、悴山……そう、宮宇智がさっきから何度となく口にしている彼女と決定的に違うのは、この男の仕種はあくまですべてが仰々しく、わざとらしいことだろう。はっきり言えば、相手の反応をわかってやっている、とでも評すべきそれである。つまり、自分は演じているのですよ、と公言しながら言葉を発しているようなものだ。ドラマや映画で、物語の登場人物でなく俳優の名前が表示されているようなものだろうか。劇ならば零点だな、と渉は心中で冷笑し、そして、ふと思う。
 どちらがいいのだ?
 そうだ。俺を観客として考えた時、どちらの演技が、俺にとっていいことなのだ?
 悴山貴美……無邪気で、口を開けば次から次へと喋り続ける、まさに朗らかであけすけな……そう思える、思えていた、彼女がいいのか?
 それとも、この宮宇智……いや、この男だけではない。最初に現れた北河瀬粂靖もそうだ。言っていることと言いたいことは百八十度違っていても、それがこちらに、はっきりとわかる方がいいのか?
 そう、俺にとって、観客にとって、どちらが……
 どちらの態度が、好ましいのだ?
『私、精神科医なの。』そう囁いて、消えた悴山。あの悪戯っぽい……いや、少し悪びれたような、だろうか。彼女の顔を、渉は思い出す。
「まことに失礼ですが、貴方の素性……いえ、そういってはさらに失礼ですか。つまり貴方の学歴については、色々と存じ上げています。」宮宇智は渉の思考に関係なく話を続ける。「もっとも、私個人が犀川先生を知っているのは、それよりも遥かに前からの話ですが。というか現状、この分野において彼の名前を知らない者はおそらく世界にいないでしょう。特に、去年のことがあってからは。」渉は再び衝撃を受ける。
 今、この男は……何を言ったのだ?
 去年の……こと?
「偉大なる故人の名を私などが口にするのはどうかと思いますが、真賀田四季博士については……」渉は再び戦慄する。この若い男の口から、次々に出てくる言葉。そう、渉を数々驚かせるその中でも、今、この男は……「神格化、などとという言葉では到底追い付けないほどの権威を誇っているのが、我々コンピュータ・プログラムに携わる人間にとってごく当り前な……つまり、基本的な概念でしてね。まさに典範というか、そういった意識が、我々にとっての常識なのです。」渉は宮宇智の顔をまじまじと見つめる。オールバックで清潔感のある身なりと、その丁寧な……まるで従僕の如き口ぶり。だが、その眼光……いや、表情だろうか。どこか、油断のならない……!
 渉は思い出す。「失礼ながら、昨年の夏、日本……三河湾沖の妃真加島で起こった事件については良く知っています。私も真賀田博士を信奉していると自負する一人として、それを調べずにはいられませんでした。」渉の動揺は消えない。「いや実際、先程の話ではありませんが……真賀田博士については、有限の時間を無限に費やすだけの価値がある。博士の言葉、博士の行動、博士の意思、博士のプログラム……真賀田博士に関わるありとあらゆることすべてに、一千カラットのダイヤモンドよりも遥かに価値があるんですよ。そして、それは間違いなく人類全体にとって共有すべき、絶対的な最高度の価値感だ。貴方もそうは思いませんか?」そうだ、この男は……あの日、俺を、この船に……
 渉は今、それを知る。あの日、出航の日……乗船時に、横浜港で出会った係員。いや、係員だと思っていた男。
 あの男、だった。渉に、この船……月の貴婦人号のセキュリティその他を説明した、あの男。
 だが、渉は思う。そうだ、今の制服……見慣れないスーツとあの時の係員の如き制服、それぞれ格好がまるで違う。だから俺は気付かなかったのだ。そう思い、そして苦笑する。顔も言葉遣いも記憶のままなのに、たったそれだけで俺は気付かなかったのか。おそらく向こうは……いや、この男は、最初からそれを理解していたはずなのに。
 いや、もっと前から、俺を認識していたのかもしれない。
 渉は目を凝らす。見慣れない制服……なのだろうか。灰色のツナギのようにも見えるそれを着た男、宮宇智……渉はまじまじと画面の中の男を見返した。そう、熱に浮かされたように語る男。その姿も、渉にとって何かのデジャヴになる。そうだ、これほど熱っぽい……「ならばこそ、去年妃真加島で起こったことは、残された我々にとって人生のすべてを懸けるに値する出来事でした。」残された、という言葉が渉の思考の何かをざわめかせた。「偉大にして唯一絶対の存在であった、真賀田四季博士……彼女が没する時、何をし、何を考え、何を遺したのか。それを何一つ漏らすことなく収集、集積し、一切を記録し考察し研究することが、我々コンピュータ・プログラミングに携わる研究者にとって最大級の使命ではありませんか。いや、勅命と言ってもいい。まさに、それこそが神の遺志です。」唾が飛びそうなほどの熱意。いや、熱情だった。渉は、まったくと言っていい程に変貌した宮宇智の有様に戦慄を強める。
 そう、この男は……「彼女は我々にとって指標であり、道程であり、すべての示範だった。彼女が生まれて以来、彼女が示したもの、ただ、それだけを我々は研究している。彼女が十年前……いや、二十年以上前に推論し、理解し、構築したことを、今、我々は必死になって……天文学的な財力と労力を費やして研究しているんです。」皮肉に、笑う。それは、明らかに自分への……己への自嘲に見えた。「だがそれは、それでもなお遅々として進まない。まさに、音速を越えて天を舞うジェット機に負けないと、子供が手折りの紙飛行機の折り方と飛ばし方を研究しているようなものです。」芝居がかった仕草で男は肩を竦めた。「我々の投げるそれはことごとく墜落し、ちぎれ、ばらばらになっていきます。そうして幾度も挫折しながら、それでも我々はやはり、研究を続ける。それがどうしてかわかりますか?」渉はたじろぐ。どうしてだろうか。そうだ、二人は……どこか、似ている。「それは、真賀田四季博士が存在したからです。彼女は、確かに生きていた。彼女が、すべてを遺した。だから我々は、すべからくそれを信じるのです。なぜなら、彼女こそは絶対の具現者だからです。彼女にミスはない。彼女は決して誤らない。それが確実であり、100%であるとわかっているからこそ、我々は彼女を模範とするのです。バグのないプログラムはない。ミスをしない人間はいない。だが、彼女だけは違う。彼女だけは、その概念から……常識から外れることを、ただ一人許されていた。だから、我々はそれを指標にするのです。彼女の存在そのものを、典範とするのです。」宮宇智は鬼気迫る勢いで訴える。「それは、彼女の生死には関係ない。真賀田四季という存在が地上にあった、過去も未来も含めてそうであるから、私達は学ぶのです。だからこそ、学び続けられるのです。果てしなく思える未知の世界、今を以って理解できることなどほとんどないと言っていい、この不可解な分野を歩き続けることができるのです。彼女という、灯火が存在したからこそ。」深く、息を散らす。
 渉の前で、宮宇智の瞳が……少し薄い栗色の瞳がきらめいたように見えた。
「古代より多くの数学家が遺した数々の数式。それを解析、実証していくように、我々は今、真賀田四季の遺した論文やプログラムを、我々の理解できるものとして認知するために研究を重ねている。つまり、我々無能極まる研究者達の理解が少しでも及ぶように、彼女が作り出した物のレベルをひたすら落としているのです。そして、ただそれだけの作業のために、我々は日夜悪戦苦闘している。どうです、真賀田四季という存在の偉大さがわかるではありませんか?」
 渉は黙した。いや、黙し続けている。だが、心の中ではそうではない。
 そう、真賀田四季。
「彼女に追い付くためではない。そんなことは不可能だ。少なくとも、今この世に生きている我々の世代では……いや、あと百年、千年経とうと、まだ我々は彼女が立っていた位置にたどり着けないかもしれない。それほど、真賀田博士が指し示した世界は遠いのです。」嘆くように、だがやはり、熱に浮かされたように宮宇智は首を振る。「だがそれでも、我々はそれを理解するために、一歩一歩努力を重ねるしかない。彼女という存在が永遠に世界から失われた今、我々には他に手段がないのです。彼女に比べあまりに凡骨な我々に遺されたのは、彼女の表面的な意思とその指標のみ。本当の彼女は、永遠に理解できない。ならばこそ、我々は彼女に近付こうとしているのです。ほんの少しでも、そう、一ミクロンの距離でもいい。彼女に近付くことができれば……それはそれだけで人類全体の価値となり、偉大なる業績となる。そう、彼女……真賀田四季博士が生きていた証しとなるのです。」
 そこで、宮宇智は息を吐いた。深く嘆くように、沈むように。
「彼女は亡くなりました。そのことが人類全体にとってどれほどの損失か、理解している者は信じられないほど少ない。一部の研究者や企業家など、それを喜んでいるほどです。まったく、無能で無恥としかいいようがない。全人類的な視点……いや、人として各々の視点から飛躍してみれば、それがどれだけ我々人類の未来を放棄した愚かな言い草か。まったく、唾棄すべき思考だ。」悲しみに沈んだ瞳、だった。「しかし、甚だ残念ながら、彼女が去ったことによって我々の研究に拍車がかかったのは事実です。そう、我々の遥か……無限と断じていい先を歩み、ただひたすら孤高に……永遠に遠ざかり続けていた彼女は、あの日突然、その歩を止めた。そう、悲しむべきかな、永遠にです。」
 渉は息を吸う。そして、それを静かに吐いた。熱くなっているのか、それとも正反対なのか、自分のことなのに理解できない。
「もう二度と、彼女が歩むことはない。つまり、これは私個人の意思とは甚だ方向性が違いますが、彼女の死によって我々は限界を……最終的なラインを知ることができたのです。つまり、無限……数学のそれと同じく果てないものだった我々の研究の終極が……完了、つまりはフィニッシュとなるべきそれが見えた。」宮宇智は低い声で、笑った。「彼女はいみじくも、自らそれを示してくれましたね。まさに、残された……この世界に彼女を失い、永遠に取り残されるであろう我々を笑うように。そう、あれは彼女の笑いだったと、今も私は思っています。貴方は御存じですね。真賀田四季博士が遺された、最後のメッセージ……」
 渉は戦慄する。
「……すべてがFになる。」
 全身を、何かが、貫いた。
 
 


[424]長編連載『M:西海航路 第三十一章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時19分 Mail

 
 
「Final、Finish……何でも構いません。私達には、それがすべてです。彼女は歩き続けた。あのような隔絶された環境、無礼極まる牢獄に閉じ込められてなお、彼女は歩き続けた。それは、私達のためにでしょうか。無論、そんなはずはないと思います。ただ、彼女はその中で、わずかな時間を……自己の活動の一部でも我々のために費やし、おびただしい……我々から見てですが……まさに宝石とも言うべき数々の遺産を遺してくれました。かつて世界に君臨した真賀田研究所が成して来た数々の業績が、その中に確固として存在する真賀田四季の遺志が、我々の今の研究のすべてです。」
 渉は喉を鳴らす。何を飲み込んだのだろう。俺は、どうしているのだ。どんな顔をして、この男の言葉を聞いているのだろう。
 宮宇智は静かに話を続ける。「Fabled……」口にされた英語を渉は思った。童話……?「……そう、彼女は歿することによって自らを伝承の如き存在とし、すべての区切りをつけた。その行為にどんな意味があったのか、到底、今の我々が理解できるようなことではないでしょう。だが、我々はそれでもそれが知りたい。地上に生きた、生きていた至高の存在が、何を以って、いったいどこにたどりついたのか、我々はひたすらにそれが知りたい。彼女が見た、知ったものを、我々も見聞きしたいのです。それは研究者として……いや、好奇心を有する人として当然のことでしょう。そして、もしもほんの一瞬でも、その場に……彼女がたどりついたその境地に触れ、ほんのわずかでも、無限の先を垣間見られたとすれば……もう、それで何もかもが足りるはずです。それ以上のことなど、思い付く……思い至る訳もない。いや、その意義は、到底言葉などでは表せられないことです。」深く息をついて、宮宇智は腰掛けた椅子に背を預けた。今の今まで生気にあふれていたその全身から、何かが抜けていくような……そう、脱力感のようなものが彼の全身を支配していくように渉には感じられる。それは眠るような……まるで自らの意志、いや意識だろうか。それを、失ったように渉には見えた。
 そうだ。言葉では表せられない……
 その言葉が、渉の中にこだまする。
 そう、言葉では表せられないという、詞。
 それは、矛盾している。
「ですから、我々が……」深く、吐息を散らすように彼は再び口を開いた。「妃真加島で彼女の最期に立ち合うことを許された存在……あの場に常務していた者でなく、それでなお、それを認められた人達……つまり、犀川創平氏とその愛弟子である貴方に、尋常ならざる畏敬の念を抱くのも仕方のないことと思っていただきたいのですよ。」渉は再び、その言葉に驚く。「加えて、貴方があの事件で成したことは、私達にとってまさに奇跡のようなものです。匠の技……適した言い様は思い浮かびませんが、貴方の閃きと発想、そしてそれから構成された論理の組み立ては、我々にとりひたすら驚異なのです。まさに尊敬……故人を顧みてすべからく敬うべき業績と断じていいでしょう。」
 自分が誉められたのか、けなされたのか、渉にはわからなかった。
 だが、男は語り続ける。「貴方がたはまさに、真賀田四季という存在に選ばれ、そして試された者なのです。そして、貴方がたはそれを成し遂げた。それはどれほど賛美し、賞賛しても足りないことです。謙遜なさらず、どうかそれを誇っていただきたい。それが、ひいてはあの方を……真賀田四季博士という超凡の存在を意識する者にとり嬉しいことなのです。」渉は黙した。宮宇智の……いや、その端正な顔を、彼はもう見ていなかった。
 昨年の、妃真加島での事件。
 あの、鮮烈なる真夏の体験。
 純白のウエディングドレス。両手両足を失った死体。そして、出入り不可能な密室。
 死んでいた男。死にゆく男。そして、遺されたもの。
 目の前に現れたのは、ただ……
 メッセージ。
 渉は堅く、目を閉じる。今更のように、傷が疼いた。首筋のそれか、後頭部のそれか、それとも全身の節々からのそれか……わからない。
 ただ痛みが、桐生渉を苛んだ。
 そうだ、何もなかった。何も、できなかった。
 思い知ったのは、刹那。
 感じ取れたのは、一瞬。
 ただひたすらに、それは彼を打ちのめした。
 完璧、という言葉。
 作られた、詞。
 その意味が、あの時、わかった。
 この世には、絶対がある。
 ただ一人、それを許された存在がいる。
 それ以外は、違う。
 すべては、完璧でない。
 確かなものなど、何もない。
 意味はない。まったく、価値はない。
 すべては、がらくた。
 完璧を有する存在が、いる限り。
 それを遂げた者が、いる限り。
 すべてに、意味はない。
 だから、笑った。
 ただ、笑い続けた。
 白い世界。白い空。
 何もかも、どうでもいい。
 そう思って、何がいけないのだろう。
 それは洗礼だった。最初で最後の、唯一のそれ。
 だが。
 渉は今再び、笑う。
 そうだ、決めたことだ。
 彼は、笑った。笑うために、努力をした。
「謙遜など、するつもりはありません。」静かに、告げる。「貴方が、俺と先生のことを……いや、俺のことをどう聞いているか……いえ、意識しているかは知りませんが。」笑えた、と思う。「事実なんて、果敢ないものです。現実なんて、一部しか見せてくれません。」口にして、そして、渉は知る。
 そう、すべては果敢ない。ただ、それだけだ。
 あの時は、違ったかもしれない。そう、俺は熱意に溢れていた。激情に満ちていた。そこには、怒りも、悲しみも、希望も、失望も、何もかもがあった。いや、あったと信じていた。
 だが、今はもう何もない。すべては失われた。いや、元からそんなものがあったのか。元々、何もなかったのではないのか。俺は、それがあると思い込み……ただ、錯覚していたのではないか。
 確かでないそれを、確かだと思っていただけではないのか。
 そう、すべては幻想だったのかもしれない。俺は、俺自身がそうであると思い込んでいたのかもしれない。俺は、俺だ。自分は、自分だと、ずっとそう思っていた。その、ふりをしていた。俺は、俺のふりをしていたのだ。何もない俺が、何かを持っていると思って。
 そう、今は何もない。いや、たった一つしか、俺にはない。
 渉は微笑する。そう、たった一つだけでも、何かがある。それが、俺は、嬉しい。
 自分の中の、気持ち。
 思い、あるいは意志。それとも、意識だろうか。過去と感情によって導き出されたそれは、まさに意識かもしれない。渉は、眼鏡の向こうできらめていた瞳を思い出して笑う。
 そう、俺には意識がある。それは、それだけは、間違いない。
 だから、進める。今も、こうしている。
 それをしようと、思うことができる。
「真賀田博士の遺された言葉ですね。」渉は微笑を強めた。「西之園萌絵、さんですか?貴方の学友で……犀川先生の恩師である西之園恭輔博士の娘。」驚きは別になかった。「思えば、すべてはまさに彼女の手によって築かれていたのですね。かつて真賀田博士の御両親が認め、そして真賀田四季博士自身もお認めになった西之園博士の愛弟子である犀川先生が、博士の実子と、そして自らの愛弟子である貴方を連れて、真賀田四季博士の最期に立ち合われる……」
 渉は再び、じっと黙した。
 そう、悼む気持ちはもうない。いや、それは元から違ったのだ。
 彼女は、彼女ではなかったのだから。
 そうだ。何もかも、違ったのだ。
 すべては、演出。
 何もかも、虚構。
 計算され尽くした、幻想のステージだった。
 だがそれは、今や、現実となっている。
 事実は、どうだろうと。
 真実などという言葉で、どう表そうと。
 それが、現実なのだ。
 体験する現実は、何より強い。目の前のそれが、各々のすべてだ。
 だから人は、彼女を忘れた。
 その死を、受け入れることができた。
 この男も同じだ。渉は確信する。
 なぜならそれは、絶対の手による隠匿。
 おそらくは、天才によって遂げられた隠遁。
 このような男ですら、それを信じてしまう、いや、現実としてしまう、完璧さ。
 だが、それでも、違う。
 俺は……俺だけは、そうではない。少なくとも、今ここにいる、俺だけは。
 なぜなら、俺は。
 あの記憶を、あの日を、覚えているから。
 日差しの中で見た、あの笑顔。
 彼女の、あの仕草を。笑い声を。
 俺は決して、忘れはしない。
 それが、それこそが、すべてだ。
「宮宇智さん。」渉は笑う。それは、挑戦だった。「だとすると、俺へのこの待遇の理由は、それですか?」そう、想像もできぬ彼方への、未知へのそれ。「考えてみれば、実にそっくりですよね。大きなスクリーンに、無味乾燥な部屋。最低限の生活環境はあるが、外との連絡は隔絶されている。そして……」だが、渉は笑っている。「……黄色い、ドア。」
 そうだ。すべてがそのためにあるとすれば。
 それは……「さすがは……」そこで初めて、宮宇智はニヤリと意味ありげに笑った。そう、今までの態度を捨てた……そう、袈裟の下から鎧が出る、という形容がふさわしいだろうか。
 二人は、挑戦的に笑い合う。一枚の画面を、通して。「……いえ、当然ですか。我々も、貴方の力を見くびってはいませんよ。例え真賀田博士と対面したことのない存在であったとしても、あの犀川創平助教授の愛弟子である貴方を軽んずることなどできるはずもない。両者に該当するとすれば、尚更です。」どうしてか、好感を持てる。不敵な態度に渉は口許を緩めた。
「愛弟子かどうかはわかりませんが。」心ならずなことを口にして、渉は自身に笑った。そう、何が愛弟子だろうか。「俺は、先生の研究室では落ちこぼれですよ?俺が留年して、来年の卒業すら怪しいことを、貴方が知らないとは思えませんが。」
「ええ、勿論承知しています。」宮宇智は即答した。「先程も言いましたが、貴方についてはそれなりに知っているつもりですからね。」渉は口許を持ち上げる。「貴方の留年についてはN大学の教授会でかなりの問題にされていますね。そして、それを……言い方は悪いですか、強引とも思える手段で無効とし、容認させたのは亡くなられた西之園恭輔前学長の威光……つまりは、貴方の友人でもある西之園萌絵さんの存在だ。」渉はわずかに目を見開いた。「加えて、貴方が過去に大学内で為したいくつかの小事……そう、あえて小事と言った方がいいと思いますが、犀川教授の組んだプログラムとそのルーチン、さらにデータ等を利用したいくつかのクラッキング行為についても、同様に寛大な措置が取られていますね。まさに、全学長と犀川先生の政治力というか……いやはや、大したものですね。素直に感服しますよ。」
 開かれていた渉の瞳が、震えた。「ちょっと待って下さい。」瞬間、渉は声を発していた。そう……「それは……」だがそこで、彼は言葉を切る。
 そうだ。声を止めろ。それを、そのまま……そう、そうして動いてはならない。
 それは、かすかな自意識。微小な、意志。
 そして渉は、自制を遂げる。強引な変換を以って、それを。
 彼は、笑った。「驚きました。とても。いや、凄いですね……」そう、それは間違っていない。「……宮宇智さんは、どこまで知っているんですか?俺について、俺よりも詳しいんじゃないですか?」そう、小気味好い。「よかったら、教えてくれると嬉しいんですが。何しろ俺は、落ちこぼれを自称しているので。人づてで聞いた方が自分のことが良く理解できる、そういう場合は多いですから。」自嘲の響きのないそれを、久しぶりに感じた気がする。
「御謙遜を。」宮宇智はニヤリと笑う。「自分の能力を過小に見せるのは、相手によっては逆効果になりますよ?例えば、今朝の北河瀬副長との対面……あれは正直、誉められた応対ではないと思いますが。」渉は肩をすくめる。「その点、悴山博士との対話はとても素晴らしかった。高名な医師である彼女とあれほど打ち解けた対話ができるのも、貴方の知慮の為せるところでしょう。」渉は再び眉根を寄せる。「そして、次は不肖この私という訳です。強引に割り込んだのは事実ですし、正直、未だにかなり怯むところはありますがね。だが、これまでのそれは概ね良好であった思っています。何より、貴方と私……私達には、共通するべき一項目があるはずですからね。」
「一項目?」渉は尋ねた。「共通……何ですか?」
 宮宇智は笑った。「それそれ、そういう言葉が実にうまい。」脱いである帽子をまた取り去るようなポーズをする。「まったく、尊敬に値します。自らの状況に鑑み、並の神経の者であれば絶対にそうはいかないでしょうな。ましてや事態に照らして、貴方のこれまでの対応は真に敬意を払われるべきものですよ。」大袈裟なポーズ。
 渉は笑う。皮肉に。「俺は初めから、自分の意志でここにいる訳ではありませんから。」すらすらと言葉が紡ぎ出される。「その環境が多少変化したところで、それほど俺自身の意識が変わったりはしませんよ。」そう、渉は笑う。その通りだ。それが正しい。
 初めから、自分の自由意志でここにいる訳ではない。だから今の状況に対する自分の態度は、積極的なものにはなり得ない。
 静かな、冷ややかな、その言葉が、甦る。
 それは、伝えられた詞。
 それは、彼女が告げた詞。
 そうだ、それは、彼女が口にした言葉だ。
 彼女か、彼女か、それは定かではない。
 だがそれは、決して、彼女ではない。
 そう、それは、違うのだ。
 渉は瞳を閉じた。一瞬、そして、再び開く。
「畏れ入ります。」宮宇智は真摯な態度で首を垂れる。「ならば私も、正直に答えましょう。貴方のハッカーとしての能力はわかっているつもりです。研究室の教授や助手の方々を含め、貴方に匹敵するプログラマはN大学……いや、N大を含めた日本の国立大学内でもほとんどいない。」渉は堪えた。何を、だろうか。意識して、黙する。「ただ、犀川先生のみが貴方を指導する力と……そして、意志力を有していた。だから貴方も、犀川先生がいる限り凡庸な一大学生として暮らしていることを容認し、それを許容した。まあ、時として退屈しのぎに小さなプログラムでクラックを行ったり、大学内外にウィルスを流すこともあったでしょう。だが貴方にとってそれは自身の才能を、いわば……そう、試すための小さなお遊びだった。犀川先生以外誰も認めない、認めようとしない、貴方の本当の力だ。だから、貴方は大問題になる前にいつもそれを明かし、あえて公然とすることで処分を受けた。だから今まで、貴方は本気になったことは一度もない。そしてそれは、ガールフレンドの西之園萌絵さんですら知らないことだ。これらは、間違いないですね?」
 渉は頷くことはしなかった。頷けなかったのではない。そう、そのはずだった。
「だが、去年、あの事件が起こった。いや、発生させたと言うべきでしょうか。事の起こりであるあの面談が、誰の手によって……どなたの思惟によって仕組まれたか、さすがに私にはわかりかねます。だが、貴方か……犀川助教授か、どちらかである可能性は非常に高い。」彼は笑う。「しかし、驚くべきは……いや、真に驚嘆すべきは、貴方がたが、あの真賀田博士に認められ……つまりは選ばれたことです。そうでなければいくら那古野にそれありと言われる西之園家といえども、真賀田研究所に……いや、真賀田四季博士その人に面会するなど、絶対に不可能ですしね。まったく、惜しみない賛辞と……そして、羨望に堪えません。」
 男は、まさに息を散らして続ける。「貴方がた三人は、招致された。いえ、ゼミの旅行、キャンプなどと取り繕うのはよしましょう。間違いなく貴方がたは、彼女に選ばれたからこそあの地に赴けたのです。」宮宇智は真顔だった。「そして、事件が発生した。その顛末も、詳細な状況も、我々は知っています。それこそが、真賀田四季が自身の最期に用意した華々しい舞台だったのですから。」舞台。宮宇智の口にしたその言葉が、渉の笑みをうっすらと強めた。そう、皮肉をこめて。
「貴方がたは体験した。あの真賀田博士が、最期に遺した言葉を聞き、その手による至上の芸術作品の如き仕掛けを眼前にしたのです。そして、貴方がたは見事にそれを成し遂げた。つまりは、真賀田博士の期待に応えて……彼女の予想通りに、すべてをFにした。」再び、息を吐く。「つまり、Face……彼女と対面し、Follow……彼女を追い、Fill……彼女の条件を満たし、Funeral……彼女が自ら用意した、自分自身の葬儀に参列することができたのです。蛇足ですが、まさに、Fabulous……素晴らしいことですね。」
 渉は冷笑した。英語がそこまで得意と言えない渉でも、宮宇智の挙げた単語は理解できる。
 だが、それは、違っている。何もかも、すべて。
 そうだ。渉は思う。俺達に……いや、俺にふさわしいのは、そんな仰々しく、前向きな単語ではない。Failや、Flunkが正しい。
 そう、すべてはFalse……いや、Fakeだったのだから。
「お見事です。」だがあえて渉は、それを指摘しなかった。「参りましたよ。謙遜などしていませんが、宮宇智さんはあの場のすべてを御存じのようですね。俺はてっきり、秘密になっているとばかり思っていました。」そう、この男もそれに気付いていない。渉は笑いを強めた。そうだ、俺と同じだ。それに気付いたのはただ一人……
 先生、だけだった。
 F。
 それが、大文字になっている理由。
 そうだ、単語ではない。それならば小文字を使用すればいい。勿論、副次的な意味を豊富に持たせているということも考えられる(実際そうなのだろう)。だが、主旨を見抜くことができずにそれを行って満足するのは、それこそミスというものだ。俺もそうだった。西之園さんも。そして、先生が……犀川先生だけが、それに、気付いた。
 それは、十六進数のF。
 零から始まる、十六の数字。その、末端。
 十と、五。
 この世に、それを越える数字はない。
 それが、最後の文字。
 そうだ。それが、それこそが、矛盾。
「私も、研究者の端くれ……そしていわずもがな、真賀田四季博士を信奉する一人ですからね。相応の努力はしています。」自負する笑み。渉は微笑でそれに応える。ふっと、ある女性のことを思い出した。「ですが、わからないこともある。いえ、知りたいことですか。それが、私がここにいる最大の理由であることは、今更隠す必要もないでしょう。」
「知りたいこと?」
「そうです。」宮宇智は真顔になる。いや、その瞳だけが、異様に輝いた気がする。「私達のこの会話は、一切の改変をされていない本物の対話です。そして今後も、他の誰に見られることもない。私の権限がそれを可能にしています。」彼は再び、不敵な笑みを浮かべる。「私はこの船のネットワークシステムの管理責任者であり、すべてのサービス及びセキュリティプログラムのメインプログラマです。これが、貴方の最初の質問に対する私の答えです。」
 渉は理解した。それはおそらく事実であろうと思う。少なくとも、この男は……宮宇智は、自分のそれをそう自認している。それを、渉は認めた。「貴方ほどの人なら、私に可能なことがどれだけあるか理解できるでしょう。ならば、貴方が私のただ一つの望みに応えてくれれば、私は自分の権限を以って、私に可能な限りの手を貴方のために尽くすことができます。つまり……」男の目だけが、笑っていなかった。「……悴山博士ではありませんが、フィフティ・フィフティのそれと言う訳です。どうですか、桐生さん?」
 
 


[425]長編連載『M:西海航路 第三十一章(3)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時20分 Mail

 
 
 初めてこちらの名前を呼んだ宮宇智の表情には、一片の曇りもなかった。これこそがこの男の真意だ、と渉は思う。そのためだけに、御大層な今までの会話を用意したのだ。説法と言うべきそれらは、あらかじめ準備してあったのだろう。シュミレートしていたのかもしれない。俺がどんな答えを返そうと、どんな態度に出ようと、この選択肢にたどりつくように。
「興味ある提案だと思います。」渉は、表情を変えずに答える。「ですが、俺には貴方を信用するに足る理由がありません。この場での貴方自身への好感の有無に関わらず、です。」渉は慎重に言葉を選ぶ。悴山貴美をふと思い出した。そうだ、彼女は……「俺には貴方の言葉を受け入れて、信頼するに至る判断材料がない。」記憶、という言葉を渉はあえて使わなかった。「さらには、貴方の言う『望み』というものが何なのか、俺には皆目見当もつきません。貴方は既に俺の知るすべてを知っているようだし……」渉は苦笑めいた表情を作った。「例えそれに応えられたとしても、俺の身柄がどうなるかは、正直わからないのではないでしょうか。仮にも……」そう、冷笑だろうか。「……俺は、殺人犯です。既にそれは断定され、確定してしまったことのようだし、このままハワイ……アメリカの州警察ですか?そこに引き渡されれば、いくら貴方がどこの誰であろうが簡単には釈放できないと思います。それに俺としては、貴方が今この黄色いドアを開けてくれたとしても、逃げ場のない逃避行に出るつもりはないですね。」それでは罪を認めたことになる、と言いかけて、渉はそれを止めた。そう、それを言う必要はない。
「なるほど。」深々と頷いて宮宇智は真顔に戻った。「だが、貴方が私の欲する……切望するそれを持っていることは間違いありません。あえて貴方に確認せずとも、貴方の今までの所行がそれを明解に私に教えています。こういう言い方は何ですが、例え貴方自身がそれを自覚していなくとも、です。」渉は再び、緊張する。「そして、私自身の信用ですが……それは、私がこの世でただ一人信奉する方に誓って保証しましょう。すなわち、真賀田四季博士です。偉大なる彼女の名に誓って、私は必ず約束を守ります。そしてそれは、私の言動のすべてにおいて必ずやそうなるでしょう。」
「そんなものが信用する材料になると……」
「思っていますよ、桐生さん。」言葉を遮り、再び響く名前。「貴方は、私と同じだ。今までの会話で、それがよりはっきりとわかりました。貴方も犀川創平先生と同じく、真賀田四季博士の存在の重さを誰よりも深く理解している。そう、抒情詩めいた表現で言うと……そうですね、博士という存在に、魅入られている。そうではありませんか?」渉は寒気を感じた。それは、どうしてだろうか。この男の、どこか狂気めいた様相の見え隠れする人となりにだろうか。それとも、この男でなく……「違いますか?加えればあの犀川先生もまた、我々と同じではありませんか?この世でただ一人、その存在自体に価値を有する者……すなわち真賀田四季博士を誰よりも認め、そして、ほんの少しでも彼女を理解しようと……私と同じく無謀な近接を望み、幾度も挫折し、それでも、諦められない。思いを、願望を……捨てられない。すべてを彼女に、その存在に捧げている。貴方も、そうではないのですか?」
 瞬間、渉は呼吸を止めた。
 そして、時間が経つ。
 そうだ、止まってはいない。時は、流れている。進んでいる。
 今も、ずっと。
 すべてを過去にし、意識を生かし続けている。
 渉は、首を振った。実際にそうしたかどうかはわからなかった。ただ、熱さと感じる。何が熱いのだろうか。空調が滞っているのか。それとも……「生きていて、遥かに遠い。亡くなられてなお、彼女までの距離はほぼ無限だ。だが、それを目指さずにはいられない。なぜならその他のことは、すべて意味のないことだからです。我々は、それを知ってしまった。何も知らない雑多な、無知蒙昧な他の連中とは違う。我々は、我々だけが、彼女を知っている。彼女が、我々のすべてだ。それ以外はどうでもいい。だから、ただひたすらに彼女を目指す。彼女に、少しでも近付こうとする。違いますか?」
 渉は目眩を感じる。聞こえる言葉は、幻惑のように彼の精神を揺らし、刹那の時を経て、捉えかけた。
 どうしてだろうか。渉はそう訝しむ。それが、真実だからだろうか。いや、違う。確かに正しいだろう。間違いはないだろう。だがそれは、俺にとっての真実ではない。これはきっと、犀川先生に対する真実だ。いや、この男に対する真実だ。俺ではない。俺のはずがない。俺は、違う。なぜなら、俺は……!
 渉は、脈動する。
 生気が呼び起こされるように、それは、彼のすべてを支配し、征服した。
 たどりついた、帰結。
 そうだ。それが真実だ。真実など、その程度のことだ。
 他人に理解される必要はない。いや、理解されるはずがない。
 誰も、何も、他を理解できない。自分のことだけしか、理解できない。他人を、自分のものではないものを、永遠に理解できない。
 それが、真実。一つしかない、たった一つの、それ。
 この男にとって、真賀田博士は死んでいるのだ。
 犀川先生にとって、四季博士は今もどこかで生きている。
 そして俺にとって、彼女はここにいるのだ。
 それが、それだけが、真実。
 なんという下らないことだろう。
 すべてが間違っている。
 そして、すべてが正しい。
 なら、どうすればいいのか。
 真実は理解されない。それは、自分が他人になれないのと同じだ。誰も、自分以外になれない。どうしようと、どう演じようと、それは自分だ。どこまで行っても、自分自身だ。自分以外の自分など、永遠に確立されない。それは、結局、偽物だ。
 そして、事実はどこまでも果敢ない。それは、自分が意識しなくとも存在し、押しなべて誤りに満ちている。滑稽で、悲しく、どこまでも無情で無常な、ただのデータだ。
 ならば、現実か。だが、現実こそ最も忌むべきものではないか。そうだ。意志なきままに生まれ落とされ、身勝手に襲いかかる目の前の光景。放り出され、泣きわめき、それでもそれを受け入れろと怒鳴り続ける、それが現実だ。何という理不尽で、不条理なものだろう。
 どうすればいい。どこにも、自由はないのだろうか。この抑圧を……いや、暴力を破砕し、あるいは避け、すべてを解放される方法は……手段はないのか。
 たった一つ、それがあるとすれば……
 再び渉は、目を見開く。
 強かに、首を振った。
 選択してはいない。受け入れてはいない。
 それを、許容するはずがない。
 そうだ。彼女がそれを受け入れるはずがない。
 何故なら、彼女もまた、
 矛盾を、受け入れていた。
 それが、どれほど苦しいことか。過酷なことか。
 今、渉はそれを理解する。
 あの笑顔。あの仕草。あの、すべてが。
 渉は握る。拳を、強く。
 何度でも、そうしただろう。
 そうだ、決めたことだ。
 俺が、自分で決めたことなのだ。
「いいでしょう。」渉は必死に口を開く。「だが、俺の最後の質問に答えてくれていませんね。つまり、貴方に今の俺を無罪放免にできる力があるのか、ということです。」努めて、平静に。自分がそれを遂げているかはわからない。そう、目の前の男の様子でしか、わからなかった。「悴山さんにも答えましたが、俺には昨日の昼からの記憶がまるでない。だが、あの現状を見てそんな理屈が通じるとは思えません。『よくわかりませんが、気が付いたら殺人事件の起こった部屋で凶器を握って倒れていました。でも俺は犯人ではありません。』そんな訴えを、誰が信じるのですか?」そうだ。まさに他人は鏡のようなものだ。不完全で、不明瞭で、不可解な、それでもそれしかない、自分を映す鏡。
「それは些末な問題なのです。」宮宇智はそっけなく首を振る。「つまり司法を含め、そのようなことを案じる必要はまったくないのですよ。」自分が怪訝な顔をしたことを渉は知る。宮宇智は、我が意を得たりというように笑った。「つまり、私は貴方がこの殺人事件の犯人ではないとわかっているのです。」
 渉は戦慄する。宮宇智……男は、ほくそ笑むようにして話を続けた。
「はっきり言えば、私には件の殺人を行った犯人がわかっているのです。そしてそれがすなわち、この船における私の力です。これが、貴方の疑念に対する答えになると私は考えます。」黒い瞳が渉を見据える。その面立ちが端正であるからこそ、それは、どこか冷たい光を宿しているように見えた。
 渉は黙した。そうしながら、頭脳をフル回転させて男が口にした言葉の意味を考察する。
 あっけないほど簡単に見つかった、鍵。いや、答えだろうか。しかし、だからこそ渉はそれをためらった。そんなはずはない、という声。いや、違うというそれを否定する声。ためらうな、という声。考えろ、という声。何人もの自分を、意識を感じる。だが、どれもが一様に戸惑っているように渉には思えた。そうだ、落ち着かなければ……
 確かなことは、一つ。この男は、仮にも結論を下した。確かに、信用できるかもしれない。信頼すべきかもしれない。宮宇智が口にした立場を考えれば、それも可能性はゼロではない。
 ならば、どうする?
 何を、悩む必要がある?
 そうだ、それは終わる。解決するじゃないか。
 この男が何を欲しているかは知らない。
 だが、与えられた条件を見ろ。報酬を見ろ。
 それは、解放だ。
 そう、この部屋からの……!
 渉は気付く。
 そうだ、違う。それでは意味がない。
 俺は……「つまり宮宇智さん。貴方は自分の立場を利用して、俺を脅迫しているのですね?」渉は冷然とそれを告げた。一瞬、相手の頬が震えるのがわかる。「貴方の望みを叶えれば、犯人でないという証拠を渡す。でなければ勝手にアメリカなりの警察に捕らえられ、裁判され、監獄にでも入れられてしまえばいい、と。」笑う。心からのそれだった。誰に対してか、そんなものは考える必要もない。「自分を信頼してくれと言いながら、貴方は俺を信用していない。こんな一方的に話を持ち出されて、俺が喜んではいそうしますと言うと思いますか?」本当に、笑い声が出そうだった。「貴方は四季博士の名前を持ち出してまで、自分を信じろと言った。それがどれだけ滑稽なことかわかりますか?」そう、笑いたい。「貴方は、どれだけ真賀田四季という女性について知っているんです?彼女と直接会ったことがありますか?彼女の声を、じかに聞いたことがあるんですか?現実として、生きている彼女と対面したことがありますか?貴方が知る、貴方が語る真賀田四季とは、すべてただの事実……いや、貴方にとっての真実なだけではありませんか?」笑いたかった。心の底から。
 そうだ、唾棄すべきは、俺だ。
「桐生さん、貴方は……」宮宇智は絶句していた。それが、渉にとってこれ以上ない心地好さを呼ぶ。
 そうだ。俺は、この男が嫌いだ。渉は今、感情を認識する。だからこそ、言えるのだ。口にできるのだ。
「四季博士を崇拝し、彼女の研究にその身を捧げる?実に美しいことですね。崇高であり、立派な態度でしょう。俺も、博士の論文は読んだことがあります。正直、まったく理解できなかった。次元が違う、とはこういうものかと閉口しましたよ。SF映画に出てくる、遠い星の……宇宙人の言葉のようだ。」卒論を思い出して、渉は笑う。
 そうだ、あんなものがなんだというのだ。それを理由にして、どれだけ俺は時間を捨てていただろう。
「だが、宮宇智さん。貴方は考えたことがありますか?その論文が、本が、誰の手によって書かれたかを。そこに名前が書かれている。そこに、署名がされている。だから、それはその人が書いたものですか?その名前の人が、本人が、記したものですか?それが確実に、絶対にそうであると、貴方は思っていますか?」そうだ。渉はそれを理解する。そうなのだ。
 だから、俺は、こんな怒りを感じるのだ。
 違う。違うのだ。誰も知らない。誰一人、認めない。
 それが、許せない。俺は、それが、許せないのだ。
「真賀田四季博士が、複数の人格を持っていたことは知っていますか?」渉は熱に浮かされたように喋り続けた。先程の宮宇智と同じく。「それぞれが個性を持ち、別の記憶を持つ複数の人格です。彼女が出会い、そして、心ならずも別れなければならなかった人達だ。それらすべての人々が、群集のように、家族のように、彼女の中にいた。貴方は、それを知っていますか?それらの人達の名前を、挙げることができますか?」宮宇智の顔は見えない。自分は誰に話しているのだろうか、と渉は思う。
 そうだ。この言葉は誰のために……「でも、こう思ったことはありませんか?それらの人格を共有する存在、真賀田四季博士という意識……我々が真賀田四季であると認知していた人格もまた、彼女……あの研究所の地下で暮らしていた、一人の女性の意識の一つに過ぎなかったとすれば?」
 渉は震える。何の為の身震いか。
 そう、俺は、今……「真賀田四季とは、誰ですか?あの真賀田研究所の地下で、黄色いドアの向こうの密室で、十五年の歳月を経て亡骸となった女性が、真賀田四季ですか?白いウエディングドレスをまとい、自らの結婚式の如くにすべてを演出した彼女が、本当に真賀田四季だったと思いますか?」渉は震える。そう、明滅するバージンロード。観客である俺達は、ただ、その姿に絶句した。「貴方はそれを、自信を持ってそうだと言えますか?断じることができますか?100%そうであると、信じることができますか?」
 そうだ。
 あれは、あの変わり果てた姿は、彼女ではない。
 それは、彼女だったのだ。
 真賀田未来。天才を理解し得た、たった一人の存在。
 そして、彼女もまた、天才だった。
 二人の間が、どれだけ離れていたのかわかるはずもない。
 だが、それは、些末なことだ。少なくとも、俺達にとっては。
 語るべき言葉はない。知るべき事情はない。
 それは、本当のことだった。
「貴方の持つ、貴方が研究している本や論文。それらを書いたのは、本当に彼女ですか?いや、それが間違いなく研究所の彼女だとして、あそこにいた彼女が、本当の真賀田四季だという証拠はどこにあります?貴方はただ、人からそれを聞いただけではありませんか?もしも、誰かが真賀田四季のふりをしていたとしたらどうします?真賀田四季博士は、そもそも……」
「黙れ!」怒鳴り声が渉の言葉を切った。見上げれば、そこに、男がいた。「ふざけるな!お前に何がわかる!あ、あの博士の……真賀田博士の何が、お前にわかるんだ!」舌が震え、言葉が乱れている。何かが砕けた、と渉は思う。
 かすかな満足感と、そして、ひたすらに気分の悪い感覚。
 渉は首を振った。悠然とできたかどうか、それを気にする余裕はない。「何も、わかりません。俺には、真賀田四季博士のことなど何もわかりません。その理由は、俺がまったくと言っていいほどに四季博士を知らないからです。いや、例え知った、知れたとしても、理解できるはずがない。俺は、間違いなくそう思います。」それは、本心だった。「ですが、俺はそう思う……思いに至った自分自身を知っている。わからない、という自分を、俺はわかっているのです。だから、それが貴方と違う。」白い病室を、思い出す。そう、孤立していた。明らかにそうであった、自分。「おそらくそれは、犀川先生も同じでしょう。貴方のように、四季博士について一方的に解釈し、自負している部分は先生にはない。しかしおそらくはその一点でのみ、先生は貴方より、より多く四季博士を知っている。決して、彼女を理解しているのではありません。真賀田四季という存在を、先生は理解しているのです。」
 犀川創平を思い出す。そうだ。どうして今まで、俺は先生と話をしていなかったのだろう。あれからずっと、先生とこんな話をしたことはなかった。最後に交わしたのは、退院直後、あの図書館での短い会話だけだ。そうだ。もっと早く、そうしていればよかった。渉は今更のように、それを後悔する。
 そうだ、もう一つ後悔することがあった。渉は、笑った。だが、それは無知と言うことを理解したために、既にある意味解決していた。そして今は、素直にそれが嬉しい。それだけでも、この船に乗ってよかったと思う。
 そう、次に機会があれば、またそれを学べばいいのだ。
「いいでしょう……」絞り出すような宮宇智の声だった。「……なにぶん、急でしたからね。だが、貴方にはもう時間がない。今日を入れて、あと四日。とはいえ残された時間は、実質七十二時間もありません。それで、貴方の時間は終わりです。どうか、それを忘れないように。」皮肉めいた冷笑。
 だが渉は、そっくりそれを返した。「そうですね。貴方にも時間はない。俺と同じだけしか。」引きつる様相。結局北河瀬粂靖と同じだ、と渉は思った。悴山貴美は俺に何かの才能があると示唆したが、それはまさかこうして他人を怒らせる能力なのだろうか。渉は不意に、N大の研究室付きの助手である、国枝桃子を思い出した。そう、彼女も人を腹立たしくさせることではこのうえない……
「それでは、失礼します。」映像が消える。
 その言葉を口にできるだけ、宮宇智は大人だと思った。そう、北河瀬粂靖とは違う。あれは子供だ。どんなに齢を重ねたように見えようとも。そして、俺も同じだろう。渉は自嘲でなくそう思った。
 静かになった……静寂を取り戻した部屋で、大きく伸びをした。勝利したような気分ではないが、満足感がある。そうだ、残念とは思わない。負け惜しみでなく、たった一つの機会を逃したとは思わない。終わって尚更、とてもそうは思えなかった。
 そう、宮宇智。名字だけで、名前を知らない男。奴もまた、何も知らない。四季博士のことを、知らない。妃真加島のことを知らない。
 無知だ。やはり、そうなのだ。誰もが無知だ。勿論、この俺も。
 だがそれを、俺はわかっている。
 渉は笑った。今度こそ、皮肉なそれだったかもしれない。とにかく、彼は笑った。
 再び、椅子から立ち上がる。何度、こんなことを繰り返すのだろうと、ふと思った。そう、まさに映画か……何かの上映のようだ。上映時間が設定されており、その時刻になると、勝手に放映が始まる。俺は、それを見せられる。そう、見るのではない。それは半ば、強制されたものだ。
 勿論断る、あるいは拒否することはできるだろう。だが、今の俺にそんな選択肢はない。外部との唯一のコミュニケーションの門戸であるこの窓口を無視しては、俺のためにならないだけだ。
 唯一の窓口、か。そう渉は思い、そして笑った。
 そうだ、違う。もう一つある。それを、忘れていた。
 そして、彼はそれを見る。
 瞬間、目が見開かれた。
 それが、ない。
 いや、ある。だが、食事をしたトレイは消えている。黄色いドアの前に、ずっとそれは置かれていた。確かに、間違いなく、さっき……宮宇智と話し始めるまではあったはずだ。渉は思い出す。それは、確かに間違いない。
 ならば、話している間に消えたのか。それとも、たった今か。
 だが、それも小さな問題かもしれなかった。渉の興味をそそらせたのは、その前に……ドアの前に置かれている、何か、小さな物体だった。なんだろうかと渉は訝しむ。それは握りこぶし大……いや、それよりもわずかに小さい、何かだった。
 円形で、何か長い飾りのついた……!
 渉の瞳が、見開かれたそれが、震えた。
 わななく。瞳だろうか、脚だろうか。それとも、全身か。
 彼は、歩んだ。そう、脚を踏み出す。それがどれほどの力を必要とすることか、彼以外には決して理解できなかっただろう。
 それは、予感。いや、畏れるべき、一歩だった。
 それを踏み出すために、何が必要だったか。
 決意してなお、それは、想像を絶する畏怖に満ちていた。
 ほんの数歩、一メートルもなかったはずなのに。
 その距離は、無限に思えた。
 だが、桐生渉は進んだ。どれだけの時間が、かかっただろう。自分が石像であるかのように彼には思えた。青銅の像のように、重く、動かない五体。
 そして、それを、掴む。
 それは、傍目からは異様に滑稽な姿態だったろう。仮にも成人男子が、床に転がっていた小さな物品に、ロボットのようにぎこちなく近付き、そして、しゃがみこんだのだ。
 だが、関係なかった。
 そう、無関係だ。彼、桐生渉以外に、何の関係があろう。例えこの部屋が監視され、その逐一が見られていようと、渉にはまったく関係なかった。
 渉は握り締める。それを、堅く。
 触感があった。そうだ、あるのだ。信じ難いそれが、ただそれだけの意識が、渉の胸に津波のように押し寄せ、そして、さざめくように打ち鳴らされた。
 白い砂浜。緑の丘。
 今、すべてを忘れる。瞬間、確かに彼は、それを為した。
 そして、再び時間が戻る。
 渉は顔を動かす。視線を動かす。腕を動かす。
 確かめるためか。疑っているのか。信じていないのか。
 自分自身を、信じられないのか。
 様々な意識が彼の中に弾け、そして、再び、弾けた。
 手を開く。ゆっくりと、静かに。
 そっと、ただ。
 そこに、それは、あった。
 時を刻む、印。
 たった一つの、真実。
 それは、証拠。
 証しとしての、根拠。
 古ぼけた、懐中時計。一本の鎖だけが、それに付けられている。
 渉は、それを、見つめた。
 自分が、涙もろいと思ったことはない。
 むしろ、その逆だと思っていた。
 世間の常識がよくわからない。どうして皆がそうするのか、その理由がわからない。
 彼は、そんな男だった。ずっと、そう思っていた。
 だが今、渉は零れさせた。
 再び、それが、散る。
 どうしようもないくらい、それは、彼を震わせた。
 だが。
 そうだ。渉は再び、息を吸い込む。
 それは、それであるかどうか。
 意味があるかないか、それは問題外だ。
 それを、確かめる。ただ、確かめる。
 結果ではない。それをする自分を、それができる自分を、確かめたい。
 渉は、ゆっくりと返していく。
 それが、約束であるかのように。
 あの時と同じく、彼はそれを行った。
 文字盤の、裏。
 動き続ける、それ。
 鼓動の、裏。
 人の、中。
 それは、あった。
 刻まれた、二つの文字。
 M.M。
 モニタの表示。
 メールの署名。
 赤い部屋の壁。
 それは、それらと同じく、確かに刻まれていた。
 指が、なぞる。震える彼の指が、それをなぞった。
 時が、紡がれていく。過去が、継がれていく。
 今、再会できたと。
 渉は、腰掛けた。滑り落ちるように。
 黄色いドアを背にして。外界への、門を背にして。
 そうだ、閉じていればいい。ずっと、閉じていればいい。ただ、このままでいればいい。
 渉は微笑する。  
 そうだ。今だけなら、いいだろう?
 すぐ、立ち上がるさ。すぐにまた、歩き出すよ。
 約束は、忘れないから。
 だけど、今は……
 確証を抱いて、渉はゆっくりと肩を落とす。
 疲れはなかった。ただ、安堵だけがあった。
 そして、彼の胸の中で、
 確かな指標が、鼓動していた。
 
 


[426]長編連載『M:西海航路 第三十二章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時22分 Mail

 
 
   第三十二章 Meet

   「でも、それで貴方は何が言いたいの?」


 航海四日目、午後三時きっかりにそれは起こった。
 桐生渉は、少し前に遅い昼食を終えたばかりだった。朝と同じように差し入れられていたトレイを黄色いドアの前に片付け、そして椅子に腰掛けようとした時である。かすかな音……スクリーンが作動する音だろうか、それを聞き付けて、彼は振り返った。
 そして、そこに、彼らがいた。
 三人の男達。それぞれが制服を身に付けている。一人だけ違う制服を着ているのが、太い眉に細い目の男。次に、鋭い視線がどこか定まらない様子の、脂ぎった雰囲気の男。そして、この三人の中で最も大柄であるが、同時に制服がよく似合っている髭の男である。年齢は挙げた順に四十代、五十代、六十代であろうか。かなり大雑把な目測であったが、渉にとってその誤差はそれほど重要視するべきことではなかった。
 かすかな身震い。いや、慄然、という形容がふさわしいかもしれない。無論彼はそれを外面に出さぬように最大の注意を払ったが、それでもその自制を遂げることができたかは判然としなかった。だがしかし、目の前の三人が誰かを考えれば無理もないことだったろう。
 現れた男達。それは、三人が三人共に渉の知る相手だった。もっともそのうち二人は、過去に一度きりしか会っていない。だがしかしその出会いがそれぞれあまりに強烈であったために、誰だか思い出せないなどという範疇からは大きく外れていた。
 『月の貴婦人』号のセキュリティ・チーフ、深町(渉はまだ彼の名前を知らない)。
 同船の副船長、北河瀬粂靖。
 同船の船長、村上瑛五郎。
 まさに、三人が三人とも重要人物である。船員、つまりクルー側としては確実に最高度であろうと渉は察し、彼ら以外に存知する二人……悴山貴美と宮宇智(こちらも名前は聞いていない)を思う。確かに、後の二人も重要なポストにいるクルーであろう。だが既に会話をした……それは北河瀬も同じかもしれなかったが……という意味で、この三人が一堂に会する形で眼前に現れたことは、渉にとりかなりの驚きであった。
 当然のように、何のためだろう、と渉は思考する。そしてそうする中で、自分の取るぺき対処を即急に組み立てた。そう、前回……二時間半ほど前に終了した宮宇智との対面を顧みて。それは甚だ受け身なものではあったが、どこか失笑……いや、苦笑めいた感覚を抱かずにはいられない思考だった。
 そうだ、俺は、俺自身の姿をどうするべきか考えている。つまり、自分の演じる……ふりをしようとするその内容を、決定しようとしているのだ。
「お久しぶりです、桐生さん。」やはりというか、口火を切ったのは村上瑛五郎船長であった。渉はその規律と礼節を常備した仕草に安堵めいた思いを抱く。「だが、あえて言わせていただければ、このような再会となったことを非常に残念に思います。まったく、人と……」
「村上さん。」渉は視線を移す。村上船長の言葉を遮ったのは彼の左手に立った……出現以来彼らは腰掛けることはなく、立ったままである……北河瀬であった。「この男は、今や客でもなんでもない。いわば、不法乗船の密航者も同然ですぞ。我々としてはこの男を遇する理由は一つもない。まったく、今の扱いですら親切すぎるほどだ。」
 渉は心中で笑う。想像……今朝出会った時に抱いた印象のままである北河瀬の態度に。それはまさに、常なる悠然さを誇る村上船長の態度と正反対であった。言ってみれば、理性と感情、とでも言うべきそれであろうか。
「北河瀬。」あくまで静かに村上は隣の男を見やる。「竹馬の友の不幸を悼む君の気持ちはわかる。だが、私は確認したはずだ。この場への同席を許したのは、一切の私情を挟まないという君の言葉を信じたからだぞ。この上さらにオフィサーとしてあるまじき態度に出るのであれば、私はこの船を統率する者として、いよいよ現在の君の職務に対し熟慮せねばならない。」厳しい表情。渉は今更のように村上船長の人となりを知る。そうだ、まさにこの人物はそれに値する。
 村上と北河瀬。船長と副船長……「お言葉ですがね、村上さん。」侮蔑。意外なほどあからさまな男の口ぶりに、渉は眉をひそめる。そう、自分に対するそれならば別に驚くことではない。だが今、北河瀬のそれは渉にではなく……「今回の件につき、私的な感情などと思われるのは甚だ心外ですな。私はただ、このめでたい航海……我が社の最新鋭客船の**航海において、この……」渉を見る、瞳。やぶにらみのそれは、渉が今まで幾度も目にした暗い陰りに満ちていた。そう、蔑視に重ねて……今や、憎しみとしてのそれすら露骨に読み取れる視線。「……犬畜生同然の若僧が為した最低最悪の行為につき、クルーを統率する者の一人として残念に思い……加えるなら、立腹しているのです。」
 蔑みの言葉と共に鋭い視線が注がれる。渉はそれを受けても反応することはなかった。むしろ、自分に向けられたその感情が、そのままに村上船長へも向けられているという事実に少なからず驚く。
「だが村上さん、それも当然ではありませんか。この男のせいで、我々のスケジュールは大幅にかき乱された。いや、そんな言い方では到底及びませんな。何もかもが侵され、破壊され……もはや修正不可能な域にまで達している。航海の日程を滞りなく潤滑させるのが我々の最大の目的であると、貴方も常日頃よりおっしゃっているではありませんか。それを乱したこの男に憤然となるのは、船のクルーとしてあるまじきことですか?」笑った。気味の悪さに見ているこちらがうそ寒くなるような笑いだった。「私情などとんでもない。もし私個人の感情を加えたとすれば、こんなものでは済みませんよ。いいや、決して済ませはしませんとも。それでしょう?この畜生面のせいで被ったことを思えば……」北河瀬の笑いがさらに強まる。引きつるように。「そう、済ませるはずがありませんとも。まったく……」どこか尋常でない、まさにぞっとするような笑みが、再び渉に向けられた。
 北河瀬粂靖。渉は再度、認識する。この男は、とてもわかりやすい。その一点のみでは、この男に好感すら抱けると渉は思った。それは負とも言えるこれらの感情の発散時のみなのかもしれなかったが、それもまた人間的な特性であり、特徴であるとも思う。
 そうだ。基本的に人や物や道理……あるゆるものを目にしてなお、わからないものは怖く、嫌なものだ。そして、だからこそ何もかもを理解したいと思う。それが当り前かどうかはわからないが、普通な思考なのだろうと渉は思った。
 普通、か。自分のそれに内心で失笑して、渉は再び目の前の三人に集中した。そう、三人の大人。
「やめたまえ、北河瀬。」村上船長はかなり強い口調で北河瀬の言葉を遮った。「仮にも君はこの船の……」
「仮、ですか。」渉は再び驚く。北河瀬の見せた挑戦的な口ぶりに。「まったく、仮にも、とは至極便利な言葉ですな。確かに私など、長年海で暮らしてきた貴方から見れば、オフィサーとして半人前以下、それこそ『仮』もいいところの半端な未熟者でしょうな。副船長などと御大層な地位に就いてみても、まさにそれは今回の航海のみの『仮』の地位、本来その任に当たるべきである深町さんなどとは比べるべくもない訳だ。」
 初めて名を出された深町……浅黒い肌で細い目の男……は、北河瀬の言葉にかすかに首を振り、ゆっくりと口を開いた。「その点につき、私の見解も北河瀬副長とさほど変わりません。ただ、言わせて頂くならば……」深町の細い瞳が、つっと渉から……当初からずっと注がれていたこちらから外れる。「……部下の統制を含めて人心の掌握という点では、私などより遥かに北河瀬副長の技量が優っていることは間違いないと思います。」村上船長をいちべつして、彼は続けた。「私もまた、仮にもスタッフ・キャプテンという立場に置かれれば、先に北河瀬副長が下したものと同じ判断に至るでしょう。その点については、一切の個人的な感情を含めずにそういった結論を出すと思います。」
 渉は再び不可思議な感覚に襲われる。そう、この三人は何をしているのか……いや、そもそも、何をしにここに出てきたのか。
 そうだ、これではまさに……「これはこれは、実に嬉しいことだ。この道につきその人ありと言われた深町俊樹氏に、賛同を得られるとは。」深町俊樹。渉はその名前を記憶する。「何せ今朝もまた、船長には苦言を呈されてしまいましたからな。やはり私が間違っていたのかと、どうにもはやわからなく……」
「いいかげんにしたまえ。」村上はあくまでも努めた口ぶりでその場を制した。「この席はそのようなことを議論すべき場所ではない。そもそもこの場の集いはあくまで桐生氏の……」
「いいえ。」だが、北河瀬はそれを意に返すことなく……いや、むしろ焚き付けられたように表情を変えた。「むしろ、はっきりさせるには丁度いいかもしれませんな。」ニヤリと笑う。「聞いておりますぞ、船長。貴方が個人的に、この男と懇意にしていたことは。何しろ私は、仮にも副船長ですからなぁ。」嫌み、という言葉を嫌味、と当て字したとすれば、これほど濃い味付けもないのではと渉は思う。北河瀬の語尾のいやらしい響きは、むしろ自分に向けられた言葉ではないからだろうか、背筋が引き締まるほどの緊張感を抱かせるに相応しいものだった。「出航してよりこの方、貴方とこの男が極めて親密な関係を築いていたことは私もクルーやゲストなどから聞いております。もしやとは思いますが、常に公正であらねばならぬ立場の者としてあるまじき同情をこの男に抱き……あまつさえ七つの海にその人ありとまで言われた貴方の判断力を鈍らせているということはありませんか?仮にも、この……」仮、という言葉にアクセントをつけて、蔑みに満ちた瞳を向ける北河瀬。「……殺人犯に対して。」
「言葉を慎みたまえ、北河瀬。」まったく動じることもない村上の対応には感服するしかない、と渉は心底から思う。「今の君の発言は、あくまで同僚の助言として受け止めておく。確かに君が伝え聞いたという氏との関係については、概ね君の言う通りだ。」それこそ仮にも目下の……部下としての(加えればおそらく年齢的にも年下の)相手からこんなことを言われれば、怒るか、あるいは嫌みをこめた返答でもしそうなものだ。「ならばこそ、私はより桐生氏を理解するために……事態がここに至ってよりの、彼なりの事情、心情……そして何よりも、今まで釈明の機会一つ与えられていない彼の話を聞くために、この集いを設けたのだ。」渉は村上の視線を汲み取る。それは一瞬のそれであったが、例えようもないほどわかりやすかった。「この場に同席するにつき、私と同様に乗組員代表としての責任を持つ君たちの意見は重視する。だが、度を越したそれは控えたまえ。あえてもう一度言うが、北河瀬……君が短絡的に下した桐生氏に対する旅客資格剥奪の件も含めて、このようなことが二度と起こらないように、私はこの場への同席を許したのだ。」
 渉の中で様々な思考が渦を巻いた。目の前の三人の男を、渉は注視する。
 発言するべきだろうか。一瞬渉はそう考え、そして実際にそうしかけた。それが寸前で止め置かれたのは、彼が口を開くよりもわずかに早く、激情に満ちたそれが放たれたからである。
「心外、極まる!」そう、北河瀬粂靖の叫び。「私は決して、物事のプロセスを無視などしていませんがね!」その豹変は見事だった。渉は今朝の対峙を思い出す。そう、この男が激情をむき出しにした瞬間。「村上さん。こうなったからにはだ。今更、互いの立場などどうでもいいでしょう。私も、あんたの高慢で尊大な態度には辟易しているんだ。まったく、その頑固さは信じ難い。旧世代の意識とでも言うんですかな?」渉は目を見開いた。まさに何かをかなぐり捨てたような、北河瀬の態度に。「私は、最初からあんたの起用には反対だった。このM.M.号は、我が社の構想によるまったく新しい形の豪華客船だ。旧来の錆び付いたような船舶と、決まり決まった乗客サービスしかできないクルーズ・システムとはまったく違う。この船にあるのは完璧なネットワークシステムと、絶対のセキュリティ、行き届いた接客と……そして、快適な航海だ。」まさに豹変という言葉のまま、北河瀬は明朗に……一つ一つ村上に指を突き付けるようにして言い放つ。「それを世界に知らしめるべきこの初の航海において、今回発生した事件はまさに最低最悪のものだ。船主だけではない、我が社としても想像を絶する大損害……いや、顔面に泥を塗り付けられたに等しい。これが公になれば、すべてはおしまいだ。」吐き捨てるように腕を振る。渉は今一度、口許を引き締めた。「だがな、それは村上さん。あんたの地位についてもまた同じことだ。この船を追われれば、それはあんたの船長としてのキャリアの終焉を意味するんだからな。まあせいぜい、油臭いタンカーの船長にでもなるんですな。」喉に何かが絡まったような笑いを幾度か散らすと、北河瀬は続けた。「だが、それでもあんたはいいだろう。既に老人の如き思考しかできないあんたは、そのまま老いさらばえてしまえば済むことだ。だが、私や深町君は違う。彼などまだまだ若い。加えれば、彼をこの船に招聘する際、我々は数字では表せられぬほどの苦労をした。それも皆、世界最高の豪華客船として君臨することが約束されていた、この船の輝かしい未来を信じてのこと。そして、それは他のスタッフにしても一様に同じだ。村上さん、あんたのような家族もいない独り者とは違う。我々は皆、自分だけでなく家族の未来をもそれぞれに背負って、この船に乗り込んだんだ。我々には未来があり、それは絶対に必要だ。だが、それを……」ギロリ、と北河瀬の視線が放たれた。「……この、鬼畜同然の若僧が破壊したのです。それをかばうような姿勢を見せるなど、あんたこそ船長の地位にあるまじき態度だ。まさに私情を挟んで公私の分別をつけていない。とんだ名船長だ。」
 渉は正直、時折向けられる北河瀬の眼光の鋭さに怯みかけた。そう、間違いなく……決して偽りでなく、この男は俺にそれを注いでいる。渉は確信する。そしてそれは、一つの真実であると感じた。無論、この男にとっての真実である。
 そうだ。間違いなく北河瀬粂靖にとって、俺は御原健司を殺害した犯人なのだ。そして、それは彼以外の多くの乗務員、乗客にとってそうなのだろう。今回の事件のことを知る者がどれだけいるかはわからないが……おそらくは彼らにとり、それが現実なのだ。
「君の言いたいことはわかった。」それは、驚くべき自制……なのだろうか。渉にとり、ある意味理解できぬほどの冷徹さを以って、村上船長は北河瀬副船長に言葉を返した。
 だがそこでふと、渉は思い出す。いや、思い出すというより、この部屋に閉じ込められてから考えていた多種多様な問題の一つが、小さな疑念として発芽したとも言える。
 そうだ。どうしてだろうか?
 いや……違う、か。
 あの後、どうなったのだろうか?
 渉は軽く首を振る。村上の話は続いていた。「北河瀬、君が現在の職務につきそれを遂行するに難ありと自身で認めるなら、私はその任を解くにためらいはない。だが、君は副船長だ。次席のオフィサーとして私を補佐し、交替でこの船の航行を統制、管理することが君の仕事であり、事実この四日、君はそれを見事に果たしている。だから私はこの航海中、決してこちらから君を解任することはない。それだけは、ここで言明しておく。」あくまでも静かに船長は告げた。今更のように、渉は村上瑛五郎のまさに鋼鉄の如き自制心を見る。
「なるほど。航海が終わるまでは、ということですか。」だが、村上船長の気概を完全に無視するように北河瀬は侮蔑に満ちた返答をした。呆れ返ったというポーズで、首を大きく振る。「まあ、それもいいでしょう。そうなった時、あんたと私のどちらが今いる席を空席にしているか、実に楽しみなことですな。」ニヤリと笑って、北河瀬は額を拭った。汗だろうか。「いや、端からこんな地位に執着するつもりなどありませんがね。だが、あんたが言うように私の責務を果たすとすれば、これだけは断じておきましょう。まあ、助言と思って下さって結構。」再び、渉を見る北河瀬の目。「この若僧に、これ以上関わろうとしない方があんたのためですよ、村上さん。あんたはおそらく知らないことでしょうが、この男は決して……」ニヤリと、口許が持ち上がる。「……見てくれのままの、どこにでもいる凡庸な大学生などではありませんからな。」渉は、先の宮宇智を思い出す。そうなのだろうか。わからないが……「では私はこれで勤務に戻ります。船の統率者が揃って無駄な時間を浪費する訳にもいきますまい。」深町はおろか村上の承諾を得ることもなく北河瀬はきびすを返し……ふと、思い出したように振り向いた「言い忘れていたが、若僧。」冷たく、そして熱情に満ちた瞳が渉を見据える。
 それはある種、狂気めいた光を宿していた。渉は再び、先程の男……宮宇智を連想する。「残念だが、貴様の目的は果たされることはない。」目を瞬かせる。「これで、二度目の計算違いという訳だ。先生が、まさに命を懸けてお前を倒したように……私も、私の持つあらゆる力を行使して、お前のすべてを破砕してやる。いいか、すべては予定通り、滞りなく行われるのだ。この航海は、そのために計画されたのだからな。いいか、貴様の……」北河瀬、という村上の声を無視して男は続けた。まさに取り憑かれた如く、である。「……獣めいた欲望も、我々の高潔な大儀には届かない。貴様はせいぜい、その窓一つない牢獄で地団駄でも踏んでいることだな。」笑い。誰が見てもぞっとするであろうそれだった。「そうだ、丁度いい。お前の部屋にあるその画面で、明日の式を生中継してやろう。お前が潰そうとした何もかもが、すべてそのまま、滞りなく行われていく様を、そこで歯噛みしながら見ているといい。そしてそれが終われば、お前は死刑台を待つ囚人だ。絞首刑……いや、電気椅子、それとも薬物注射か?どちらにしろ、五年……いや、三年以内に決着をつけてやる。楽しみに待っていろ。」
 北河瀬は消えた。いや、画面の中から去ったのだ。ドアが開くような音はしない。遠ざかっていく足音すらしなかった。
 
 


[427]長編連載『M:西海航路 第三十二章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時23分 Mail

 
 
 まったく、よくできた映画だ。深く息を吐き、今更のように渉は皮肉さに笑った。今かけられた会話の中身についても、それは今まで同様のそういった感覚でしか捉えられない。無論、意味がわからない訳ではない。いや、むしろよりよく理解できたといえよう。新たな疑問も、納得できた部分もある。だがそれらを含めて真面目に現状を考察する以前に、今朝から……いや、おそらくは数日前よりずっと続いている、自分の精神状態を渉は熟考する。
 それは逃避ではなかった。そんなはずがない。渉はそう思う。言葉を理解しようとせず、自分へのそれと認めず、逃げている訳ではない。そうだ、それは、違う。
 これはきっと、孤独を知るための手順だ。
「桐生さん……」この人に苦悩に満ちた表情は似合わない、と渉は思う。満ちている、という表現は極端だったかもしれない。だが少なくとも、沈黙を破った村上瑛五郎が、少なからず何かを嘆いていることが理解できた。それはこの四日で彼と幾度となく対面し、そして知ったことによる、理解の深まりのせいだと渉は思う。
 そうだ。俺は、この人を理解している。
 それは大きくはない。勿論深くもない。だが、俺にとってそれは大切なことだ。渉はそう決し、それが素直に嬉しかった。そう、知らないことを理解するのは楽しいことだ「……クルーを代表する者として、今、貴方に対する彼の……」
「いいんですよ、船長。」渉は笑った。素直に笑えた、と思う。そう、苦笑にならないように努力する。「こちらこそ、お察しします。立場と私情、相反するとしたらとても辛いものですね。学生の立場で何を生意気なと思われるかもしれませんが……」渉はほんの一瞬、村上の隣の深町を見た。その視線はこちらに向けられている。おそらくは、ずっと前から。「……俺も、大学の試験で行き詰まる度に、どうしてこんなことをしているんだろうと嘆いていました。自分で入りたくて大学を選んだはずなのに、それが嫌でたまらなくなるんですから、どうにも矛盾してますよね。」だがその矛盾はあくまで俺一人のことだ、と渉は思う。
 そうだ。矛盾もまた真実と同じく、個々で別々なそれに過ぎない。それは人が誰しも違うことと同義だ。誰かにとっては矛盾でも、別の誰かにとっては矛盾ではないのだろう。
 ならぱ、一人一人の矛盾が、それが、他に理解されることはあるのだろうか。
 村上船長は黙していた。だがその瞳には、多岐にわたる感情がひしめいているように渉には感じられた。苦悩……だろうか。渉は彼の持つ、想像を絶する責務を感じる。
 そうだ。仮にも二千人を越える人命をその身に背負うということは、どういうことだろうか。渉は考え、そして首を振る。俺などに理解できるはずもない。それは、ただただ想像を絶した。
 つまりは、理解できない……未知なのだ。それだけはわかる。そして、だからこそ彼は口を開いた。そう、自分から。
「とにかく、村上船長。貴方に会えてよかった。」渉はそう告げた。「悴山さんから聞いていただけましたか?俺は、どうしても貴方に話しておかなければならないことがあるんです。」努めて冷静に渉は言った。高揚を抑えられるか自信はないが、できる限りのそれをしなければならない。
 そうだ、これ以上、この人に甘えることはできない。
「いや、失礼。それは聞いていませんが。」村上の返事は意外ではあったが、予測できていなかった訳ではなかった。渉は時間を思い出す。そう、午後の二時……半過ぎ、だろうか。悴山との朝の会見からは、八時間足らずである。「何ですかな?どのようなことでも構いませんよ、お話下さい。」あくまでも柔らかく、村上は渉を促した。まるで、わかっているようだ。渉はそう思う。
 そう、これが茶番……いや、すべてが道化芝居であると。
「その前に、いくつかお願いがあります。」渉は声をひそめた。「無論、俺の今の立場を考えると、それが聞き入れられるかどうかは疑問です。ですが、それでも言っておかなければなりません。今から俺が貴方に打ち明けることは、それほど重要なことなのです。少なくとも、俺にとっては……」俺にとっては、か。「……それが、そのことが、すべての要因なのです。今この船に起こっている事態、そのすべてが……」渉は言葉の重さに、真実に身震いする。そう、俺にとっての、真実……
「なるほど。」村上も、そして傍らの深町も、渉の言葉にそれほど興味を示してはいないようだった。だが渉はむしろ、それが嬉しかった。「ならば先に、その御要望をお聞かせ願えますかな。叶えられるかはともかく、聞くことならば、喜んで叶えることができます。」
「それで十分です。」笑顔を作れた、と思う。「聞いてくれるだけで構いません。正直、その先の判断は……」渉は皮肉めいた笑いになるのを堪える。「……俺には、できかねます。」
「わかりました。」そこで村上は、ふと思い出したように隣を見る。「そういえば、まだ彼を紹介していませんでしたな。覚えておいでかわかりませんが、彼は……」
「深町俊樹さん。船内セキュリティを預かる保安主任、ですね?」渉は先手を打つ。「そう、認識していますが。」
「その通り、間違いありません。もっとも彼の担当する保安分野は、あくまで物理的な……いわば、現実世界でのことに限られますが。ネットワークを含めたコンピュータ・セキュリティについては、担当が別になっています。」
「宮宇智さん、ですか?」渉は微笑した。出すかどうか考えたカードだった。
「そうですね。さすがは桐生さん、よく御存じですな。」村上の反応に別段変わった部分はない。渉は頷いて話を続ける。
「そういえば、俺は彼の名前を知りません。本人がいないのに失礼かもしれませんが、あの人は宮宇智……何と言うのですか?」
「ああ、彼は實という名です。名字と同じ難しい読みで……古いものですな。みのる、ですか?」實。
 渉は、かすかなざわめきが身体に走るのを抑えられなかった。
 ミヤウチミノル、か。「なるほど。ありがとうございます。深町さんも、よろしく。」渉はとりあえず声をかけてみる。だが、無表情な細い目の男に反応はなかった。会釈すらない。
「それで、桐生さんの願いとは何ですかな?まさか、宮宇智氏の名前を聞くことではないと思いますが。」いつもの笑みを保ったまま、村上がこちらを見る。
「はい。」渉は表情を戻す。「では、話の前にお願いしたいことがあります。まず一つは、お聞きしておきたいことですが……」ゆっくりと、息を整える。「……この会話は、いったいどれだけの人に見られていますか?」
 瞬間、渉は全神経を集中して画面の中の二人を注視した。そして、それが功を奏する。ほんのわずかだが……村上船長が動揺する素振りがあった。いや、眉を持ち上げた深町の方がより露骨だったかもれしない。
「すみません。答えは結構です。」渉は続ける。待つよりもそうしようと、彼はあらかじめ決めていた。そうだ、判断し、解釈するのは後でいい。時間はある。「ですが、それが二つ目のお願いというか……それを求める理由に繋がります。つまり、俺は人ばらいをお願いしたいのです。」
 今度こそ確実に、村上船長はその表情を変えた。怪訝な……いや、そうなのだろうか。渉はそれこそ訝しむ。「それは……要するに、この深町を退席させて欲しいというお話ですか?」
「視覚的にはそうです。」視覚的、という言い回しが正しいのかわからなかったが、渉はそれが面白い表現だと思った。「……ですが、俺が言いたいのはもっと本質的な意味での人ばらいです。つまり、この会話が誰にモニタされているにしろ、一切のそれを遮断して欲しいのです。」今度は本質的、かと渉は笑った。言葉とは、どうにも難しい。「勿論、俺は俺の望みとしてのそれを言っているにすぎません。どちらにしろ、そちらに伝えるべき話は伝えます。ただ、俺はその話をするにあたって、そういった措置を取った方がいいと断じるだけの訳があるんです。」渉は頷く。「はっきり言えば、俺は貴方と……村上船長と、直に対面したいのです。誰にも聞かれることのない場所で、貴方と二人だけで話しがしたい。無論、その場で俺がどういう状態に置かれようが、一向に構いません。」そう、縛り付けられていてもいい。渉は悴山に語った自分を思い出す。「ただ、そうした方が絶対にいいのではと、俺は思うのです。そして、それが俺の願い……希望です。叶うかどうかの判断は、お任せします。その後で、俺は俺の知っていることを伝えます。」
 渉は息をついた。そうだ、言いたいことは言った。その後どうするかも決まっている。いや、決めている、だろうか。
 渉は静かに待つ。どうなるだろうか。船長は、どう選択するだろう。渉はふっと、愉快な気分になった。
 そうだ。今、選択肢を選んでいるのは船長だ。俺じゃない。俺の提案を呑むか、それとも拒絶するか……彼は、目の前にある分岐点を前にして考えている。そしてそれは、俺が判断を下したからだ。そう、俺が選択肢を選んだために、船長もまた選んでいる。
 そうか。渉はふっと理解した。選択肢が、選択肢を作り出すのだ。それは自分のことだけに限らない。他人の選択肢が、自分の選択肢を作り出し……自分のそれが、他人のそれを作り出すのだ。それは、交互に……あるいは同時に、卓球やテニスの試合のラリーのように続いている。
 他人の判断が、自分の判断を呼び込む。当り前のようでいて、その結論は妙に新鮮だった。
 つまり、他人を理解するということは、その人の選択を理解するということかもしれない。
「桐生さん……」村上が口を開くまでには数秒の時間がかかった。渉は緊張する。
「キャプテン。」だが、その話を遮ったのは深町俊樹であった。「彼の発言につき、私から一つ提案があります。よろしいでしょうか?」
「言ってみたまえ。」渉と村上は彼を……深町を見る。画面越しのことだが、それが一様に揃っていた。
 深町は頷き、渉を見る。「君が、あるいは危惧していることはこちらも理解できるつもりだ。」遠回しの言い方、なのだろうか。渉が考える前に深町は続ける。「だが、超法規的な措置の有無については、今この場で結論を出せるようなことではない。船長の判断の是非はわからないが、少なくとも私個人は、この場から退席することに依存はない。その上で私にできる最大限の手段をもって、この画面を通じての面談をプロテクトすることを約束してもいい。」渉はこの常に冷徹さをまとっているような男の譲歩めいた言葉に少なからず驚く。そう、あるいは最も手強い相手と認識していた……「だが、それには一つ条件がある。それは、結果として確実に君のためにもなることだ。もっとも君が参考人、あるいは容疑者という定義を越えて自らの行為を公言するつもりであれば、今から私の言うことは逆に君のためにならないかもしれない。それをあらかじめ確認した上で、私は君に一つ提案がある。いいかね?」
 渉は村上を見た。彼はじっと黙している。白いものが混じった髭の向こうの表情は、今一つわからなかった。「はい。」
 深町が会釈する。「君の船室であった0番デッキの客室番号001、ロイヤルスイート・ルーム。」渉はふっと懐かしさを覚える。「君は、あの部屋にマスター・ロックをかけたね。我々は、それを解除するためのパスワードを知りたい。君の知るそれを教えてくれれば、私は君が先程告げた条件のすべてを果たすために尽力することを約束しよう。」渉は戦慄する。これまでも告げられる既知でない事実は多々あり、次第にそれに慣れ始めている印象さえあったが、今再び、その衝撃は渉を襲った。
 マスター・ロック?パスワード?
 それは……何だ?
 渉は必死に口から出ようとする質問を堪えた。そして、疑問の先を内面に向ける。
 そう、答えが外にあるとは限らない。むしろ、中にあることの方が多い。いや、どちらが正しいかはわからないが、内面のそれの方が納得できることは多い。渉は昔どこかで聞いたそんな話を思い出し、そして、必死に自らの心を……記憶を探った。
 俺の船室、部屋番号001。間違いなく、あの広々とした客室だろう。巨大な広間とそれに繋がる書斎、そして廊下からバスルームと寝室。外にはプール付きの緑の庭。そのすべてがひたすら贅沢に作られている。あの、何一つないものはない部屋……
 それを、ロック?鍵をかけた?パスワードで、俺が?
 カードでか?いや、そんなはずはない。渉はそれを否定する。俺は既に、船客ではない。それに、俺が持っていたゲストカードはとうにない。俺は今、何も持っていない。そう……渉はふっと、静けさに還る。
 そうだ。俺はもう、一つしか持っていない。それはたった一つで、そして、だからこそ何よりも大切なものだ。
 唯一にして、最上。
 渉はゆっくりと、ガウンのポケットに手を入れる。そして、触れた。それを、確かめるように。
 そう、確かめる。確実に、あるものを。あって、なかったもの。そして今、再会したもの。
 聞こえる音。刻む音。渉は静かに呼吸をする。
 そうだ、冷静に考えろ。わかるはずだ。俺の部屋。あの、ドイツの……そう、車椅子のホロウェイ博士と、その姪であるデビィ婦人が使っていた部屋の対面だ。彼らの部屋が000。俺の部屋が001。初日、俺はゲストカードを置き忘れて閉じ込められ、そして婦人に助けられた。その後、俺はその閉じ込められたと認識したことすら、とんだ勘違いだったと婦人に教えられ……!
 渉は思い出す。いや、それを知る。
 そうだ、そうなのか。
 カサンドラ。
 出航の日、渉を驚かせた女声アナウンス。西之園萌絵の電話を繋ぎ、部屋のドアの開閉をし、九条院瑞樹からのメールを読んでくれた、コンピュータ・ナビゲーション・システム。デビィ婦人が教えてくれた……いや、気付かせてくれた、彼女の存在。
『桐生渉様のパスコードとして登録します。』そうだ。『カサンドラを、登録します……』渉は鮮明に思い出す。人の言葉ではない。コンピュータの声を。
 それは、名前。俺が、彼女に付けた名前だった。彼女が告げた名前を、俺が、それに決めた。
 俺が選んだのだ。名前のなかった彼女を、俺はそう名付けたのだ。俺の中で、俺が、彼女を呼ぶために。
 名前。だが、それは……同時に、彼女のパスワードでもあったのだ。いや、それが本来は正しいのか。それは厳密には名前ではなく、彼女の鍵だった。
 俺と彼女とを繋ぐ、鍵。俺達だけ……二人にしかわからない、鍵。
 それは、たった一つの、名前だった。正しくなく、誰にも理解されない、名前。
 渉は、手の中のそれを握り締める。
 ゆっくりと、彼はもう一度だけ息を吸った。目の前のスクリーンには、二人の男がこちらを見ている。あの問いから、どれだけ時間が経ったろうか。渉はそれを思い、そして、それを振り払った。
 無意味だ。今は、俺がすべての決定をすべき時だ。そう、この選択肢をどうするかが問題なのだ。
 肯定。否定。そして……渉は目まぐるしく浮かび上がるそれを制する。どうしてか、それはある程度容易に行えた。
 そうだ。それは疑問だ。それは、謎だ。
 それは、矛盾している。
「意味がわかりませんが。」渉は落ち着き払ってそう答えた。「おかしくないですか?俺はもう、船客としての身分を抹消されたんじゃないんですか?そうなれば、俺の部屋は既に俺の部屋じゃない。どうして、クルーである貴方達がそれを開けられないんです?この船は、最新型のネットワーク・システムが自慢じゃないんですか?」批判するつもりでなく、渉は素直にそう思う。「また、トラブルですか?それとも、皆で俺をかついでいるんですか?あの人……北河瀬さんですか?彼が今朝、俺を怒鳴り付けて宣告したことは嘘なんですか?それとも、貴方達が俺を騙そうとしているんですか?いったい俺は、何を信じればいいんです?」口にして、渉はその自分の問いに目を見張った。
 何を信じればいい、か。
 再び、意識が霧散する感覚。それは遠く離れ、そして、手にした感触……触れているそれによってのみ、元通りになることができた。
 渉は、深く息を吐く。
 まったく、その通りだ。渉は天を仰ぐように天井を見上げる。スプリンクラーと照明……照らされた壁面は、他のどこよりも白い。
 それは、純白だった。
 ここで、この密室で、俺は何を信じればいいのだろうか。
 一方的に現れては消える人々。見回すだけでことの足りる世界。話しかけるべき相手はいない。そしてそもそも、ここがどこであるのか俺は知らない。何のために作られたか、それもわからない。そして、お前は殺人者であると認知する外界。閉ざされた空間の中で、それでも、生存だけは保証されている。
 発狂してもおかしくない、と渉は思った。そうだ。正気を保っていられることが不思議だ。
 もしも、これが続いたとすれば。
 永遠に、これが終わらないとすれば。 
 俺は、その時……
「それについては、私から説明しましょう。」村上瑛五郎の言葉が、渉の顔を上げさせた。「深町。君の提案の正当性はともかくとして、確かにその問題は避けては通れないものだ。ならばこそ、桐生さんに説明しておこうと思うが。船内セキュリティを預かる者として、異存はないかね?」深町は黙って頷く。村上は表情を変えないまま渉を見た。
「桐生さん、貴方の指摘は正しい。貴方の旅客資格は既に取り消されています。つまり、今の貴方は身柄を含めこの船の一時預かり……定員外の一名となっています。それについてはあまりに早急、かつ考慮や確認なきままの執行となってしまい、非常に心苦しく思っています。」渉は微笑する。「勿論、桐生さんがおっしゃる通り、該当客室における貴方の権利も消失しています。つまり、本来ならばあの部屋はもう無人のそれとなっているはずなのです。」村上は、そこで初めて小さく笑った。「だがそれは、桐生さんがあくまでお一人……シングルの客としての場合です。もしも桐生さんがどなたかと乗船し、同室であったとしたならば、そしてその人が今回の貴方への措置とはまったく無関係であったとすれば、桐生さんに関わる……あるいは有していた権限のすべてが、まったく同等にその人にも与えられ、あるいはすべからく譲渡されているのです。そしてそれは、部屋の管理システムを作動させるパスワードについても同じなのです。おわかりいただけますか?」
 再び、驚愕が渉の中を走り抜けた。
 意味がわからなかったからではない。わかったからこそ、それは驚きに変わったのだ。
 そう……彼女、西之園萌絵。
 また、彼女……なのか。
「御存じの通り、この船のセキュリティ・システムは非常に高度なものです。そしてそれは、あらゆる客船で古き時代からそうであったように……」村上船長は苦笑めいた笑いを浮かべた。「……お客様の船客としての等級が高いほど、高く厳しいそれとなるのです。桐生さんがお泊りになられていたロイヤルスイートは、この船の中でも傑出した一室です。その程度は、特等船室の比ではない。勿論、部屋自体の豪華さも屈指のものですが、むしろそれは、電子的……つまり、ネットワークの方でより豪華と言えるのです。」村上は微笑した。それがどこか皮肉めいたものに渉には見える。「この船のネットワーク・システムは、メインとなる巨大なコンピュータを中心に配置し、いくつかのサブコンピュータを介して個々に繋げる方法を取っています。あいにく私は専門家ではありませんが、その形はインターネットにおけるサーバの形に近いと聞きます。つまり巨大な情報の集積する場所としてのマザー・データベースがあり、それに多数の……各部屋をそれぞれ独立して統轄、管理するサブコンピュータが接続され、それがさらに末端の機器へ……個々の船室、あるいは船内各所に配置された端末等を制御しているのです。そして、あらゆるデータの管理について徹底した暗号化が行われている。外部からのネットワーク接続も、それ専用のサブコンピュータを通じてマザー・データベースに繋げられているために、セキュリティはさらに厳重です。このシステムを管理、維持するために、十人を越えるスタッフによるエンジニア・チームと、彼ら専用のコンピュータ・デッキが存在するほどです。」村上はそこで一旦言葉を切った。
 村上が語ったネットワーク・システムの概要は渉にも容易に理解できた。確かにインターネットにおける個々のサーバの形状と同じだ。要するにこの船一つが丸ごと大きなAS……自律システムを形成しているのだろう。そして、各クライアントとメインのデータベースを繋ぐ形で、仲介役の複数のサブシステムが存在する。それらは幹から枝葉に分かれていく樹木の形そのままであり、現在世界を繋いでいるインターネットの基本構造と同様で、さらにはN大学など大規模なコンピュータ・ネットワークを持つ場所でも、ほぼ同じ形式だ。
 確かにセキュリティ的にはそれが堅牢だろうと渉は思った。サブシステムが番犬のように見張っていれば、そこを通るデータを逐一チェックしてウィルスなどの通過や増殖を阻止し、あるいはデータを不法に覗き見る者の存在を察知、防衛する。そして万が一メインやどこかのクライアントでトラブルが発生しても、サブシステムがその被害の拡大を遮断するのだろう。巨大なデータベースを共有するというネットワーク最大の利点をそのままに、なおかつそれが包含してしまう危険な点……一括集中であるゆえにトラブルに脆い、という点もある程度は回避できる。もっともそれを潤滑に行うためには、メインシステムに加えてサブシステムがかなりの能力を有していなければならない。それこそメインが閉鎖され自己が独立しても、自らが担当するクライアントの端末はある程度まで運用できる力が要求される。一隻の船……二、三千人規模のネットワークにそれを構築するにはそれなりの経費が必要だろう。渉は今までのこの船のネットワーク能力を鑑みてそう判断する。
 
 


[428]長編連載『M:西海航路 第三十二章(3)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時23分 Mail

 
 
「お話はよくわかります。この船全体が一つの自律システムになっている訳ですね。でも、それとこれが……」言って、渉は気付いた。「まさか、サブシステムが……」
「そうです。」村上は渉のそれが正解であると言いたげに、ほほえみを浮かべる。「桐生さんの部屋は特別だ。貴方の部屋……あのロイヤルスイートを管理するためにだけ、一つの制御用サブシステムが存在するのです。そして、そのサブシステムは船内の他のサブシステムのどれもが及ばない、最高度の能力を有している。それは、セキュリティとしての能力でも同じです。」渉は理解した。やはり、あの部屋にしか……いや、デビィ婦人と俺、二つの部屋にしかそれはなかったのだ。
 そう、カサンドラ……彼女は。
「音声ナビゲーション……疑似的な会話を含むそれ、ですか。」渉は静かに告げた。
「そうです。私も何度か会話をしたことがありますが、桐生さんの部屋を統轄管理するサブシステムの会話能力は並外れている。試運転の段階では、何人ものお客様が、相手をアナウンスのクルーだと……つまり、人間を相手に喋っているのだろうと勘違いされたほどです。」それも当然だろう、と渉は思う。何しろ俺自身が、彼女……カサンドラを半ばそう認識してしまっている。「そして、それほどのシステムであるからこそ、サブシステムのメンテナンスは行えたとしても、その制御ブログラムの修正を含めた変更は、航海中には不可能なのです。」
 なるほど、と渉は納得する。見方によれば甚だ危険だとは思うが、カサンドラの力……そう、信じ難い応対を含めた制御能力を考えればそれも当然か、と思う。 
 そしてそこで、小さな波が渉の中に走った。
 そうだ。信じ難いほど高度なプログラム。この船の、堅牢なネットワーク。それを構築した……「宮宇智さんでも不可能なんですか?」渉は問いかける。「彼は、船内ネットワークの管理者で……システムのメインプログラマではないんですか?」
「彼は確かに最優秀のプログラマです。」村上は頷く。「まだ三十路を迎えたばかりのはずですが……あの若さでMSIのトップ・プログラマであり、世界的に名の知れた一流のコンピュータ・エンジニアですからな。」村上はごく当たり前のようにその評を下した。渉はその中の略号に耳をそばだてる。そう、確か……マイクロステート・インダストリー?「彼なら、プログラムの変更も可能でしょう。ただしそれも、時間があればのことです。あと三日では、不可能ですよ。桐生さん、つまりはそういうことなのです……深町、君が提案したのもそれが理由だな?」
「その通りです、キャプテン。」黙っていた男が再び口を開く。「彼に理性があれば、自暴自棄の如き今の状態が継続されることを回避することも可能でしょう。つまり……」渉に向く。「君がそれと知らず、あるいは知っていてかけたかは知らないが、001号室のサブシステムにかけたパスワードを教えてくれれば、我々は未だに閉ざされたままの君の部屋に入室することができる。すなわち、三日後にハワイの州警察なりに君が連行され、彼らの手によってこの船と……001号室が恐らくは扉の破壊によって開放され、中が調べられるであろう時までに、善処することができる。」深町は特異な輝きを秘めた目で彼を見据えた。「そしてそれは、この船を守りたい我々のみならず、君の今の待遇を含めた今後にも関りのあることだろう。この説明で理解できないというのならそれでも構わないが、結果として君を待つ司法の場は決して楽なものにはならない。これは脅しではなく、その世界を少しは知る者の忠告として告げておきたい。」
 これもまた、深町の本意だろうと渉は思った。先程の宮宇智實ではないが、ようやくこの場の会合……そう呼ぶべきとすればだが……が行われた理由が渉にはわかった。
 カサンドラ。船内制御サブシステム……いや、渉のいたデッキの、船室管理システム。彼女に渉がかけた、パスコード。彼らはそれが知りたいのだ。
 そうだ。求めている。俺に、それを知りたいと。
 渉は、笑う。
 どうしてだろうか。今の今まで、まったくのイレギュラー……場違いな者として無視はおろか、ことごとく邪魔とされてきた俺が、今や会う人会う人に引っ張りだこか。誰も彼もが俺の今の現状を鑑み、それを和らげてやるという言葉を手にして、俺から何かを手に入れようとしている。
 どうしてか。俺に、そんな価値があるのか。右も左もわからないままこの船に乗り、奇怪な事件に巻き込まれ、さらには不可解な密室に閉じ込められている俺に、どうして擦り寄ってくるのか。
 何もない。そうだ、俺は何も持っていない。そう、まさに今の持ち物はたった一つしかない。N大学に戻っても、何一つ財がある訳じゃない。
「桐生さん。これは貴方がこの事件に対する態度を示す機会でもあると、私は思います。」村上船長が言う。「セキュリティ・チーフの約束したことは、私もまた確約しましょう。取り引きをするなどという風に思わず、私達を信じてはくれませんか。」村上は、じっと渉を見つめて告げた。「今ここにはいない、彼女のためにも。」
 村上の口にした最後の言葉が、渉の胸に小さな響きを加えた。
 彼女。
 ここにはいない、彼女。
 渉は再び、それを思う。
 そして、打ち返される、響き。
 それは、残響。
 桐生渉にとって、今、たった一つ信じられるものだった。
 無論、船長が何を言っているのかわからないはずはない。誰のことを示唆しているのかは明らかだ。つまりは西之園萌絵、渉と共にこの船に乗り込む予定だった人物のことを言っているのであろう。
 そうだ。彼女がいれば、いや、いないからこそ、彼らはパスワードを解除できない。ツインで取ってあった部屋。その片方の旅客である西之園さんが乗船しなかったために、カサンドラ……コンピュータは俺の命じたパスコードの解除を彼らに拒絶した。おそらくは俺が意図しないままに最高度のロックをかけてしまったために、船員である彼らですら、俺の部屋に……システムを含めて立ち入ることができないのだろう。つまり、このままハワイなりに到着してこの殺人事件につき捜査されるとして、クルーである彼らが既知でない空間……ブラックボックスのように、俺の船室だけが残されてしまう訳だ。
 そして、彼らはそれがまずいと思っているのか。
 扉の破損?無理矢理?
 渉は冷笑する。違う。そんなことが嫌だから、こうしているのではないだろう。
 渉は思い出す。北河瀬粂靖を。深町俊樹を。そして、村上瑛五郎の苦渋を。
 そして、彼らが口にした言葉。この船の未来。このことが公になれば。善処することができる。
 つまり、彼らは……
 何かを、しようとしているのだ。
 渉の心に、ざわめきが走った。ひそやかな、秘めやかな、それ。
 じっと見返す。黙したまま、スクリーンの向こうの二人を。いや、去っていった北河瀬、そして宮宇智實や悴山貴美を含めて、渉はそれを考える。
 新造船。大切な**航海。集ったのは屈指の客人達。行われるのは名門の結婚式。確かに、どれを取っても醜聞……スキャンダルを好むべきものではない。むしろ絶対に避けるべきものだろう。あらゆる意味で、乗船しているすべての者達が……それを、望まないはずだ。
 だが、それは起こった。そして、人が死んだ。 
 鮮血の部屋に、屈していた男。御原健司。
 彼は、殺されたのだ。
 だとすれば、誰に?
 七分間隔で閉鎖されていったドア。そして、七分間隔で開かれていったドア。騒然とする船内。救出を求めるゲスト。ドアを開くために奮闘するクルー。そして、最後のドアが開く。そこにいたのは、二人の人間。
 死んだ者と、生きている者。
 それら伝え聞いたすべては、渉にとって現実ではなかった。だが、それは事実である。
 だからこそ、これほど冷静に考えられるのだ。渉はそう思う。
 そうだ。事実とすれば、それを行った人間がいる。
 船内のプログラムを書き換え、誤作動を発生させた人間がいる。
 一人の人間を、殺害した人間がいる。
 ならば、それは……誰だ?
 この舞台を設定し、配役を決定し、すべてを引き起こしている……
 そう、観客を忘れてはならない。俺ではないかもしれない。いや、おそらくは俺ではない、彼女……図らずも俺の現状を保持している、あの好奇心旺盛な彼女を招こうとしたのは、誰だ?
 渉は、その疑念の皮肉さに笑う。
 何もかも、西之園萌絵が周到にこの計画を……つまりは、俺が騙され、この船に乗り込まざるを得ないようにする状態を築くために全力を尽くしたためだろう。そして船側もまた、那古野を代表する名門の子女である彼女が、絶対にこの船に乗り込んでくると思い込んでいた訳だ。
 だが、西之園さんは俺を含めてすべてを騙し、先生の出張に同行してしまった。他ならぬ俺をこの船に乗せて。そして船側も、当初はそれに気付かず……あるいは、西之園さんが途中からでもこの船にやってくるという(渉自身もその確率がゼロだとは思っていなかったのだが)可能性も視野に入れて、彼女の船客としての登録をあえてそのままにしていた。いや、おそらくはすべての費用が前金で払われていたのではないだろうか。そうなればなおさら、客がいようといまいと船側としてはそのままにしておくだろう。
 そして、俺はそんなこととは露知らずこの船に乗り込んで……
 渉は出航の日の夜、村上との出会いの場を思い出す。そう、西之園さんが俺の婚約者ではと船長は茶化した。俺はそれに慌て、そして……
 そう、彼女に出会った。
 彼女、に。
 それはあまりにも突然だった。唐突で、どこまでも不意だった。
 だから、何の準備もできなかった。そんな暇はなかった。いや、もともと準備などできるはずもなかった。
 だから、言葉はなかった。
 だから、態度を示せなかった。
 ただ、俺は、見惚れた。
 奇妙だった。偶然だった。
 いや、例え必然だったとしても。
 すべてが、仕組まれていたとしても。
 俺達は、また、出会った。
 渉は目を開く。
 そこには、決意が……不敵な色があった。
 そう、今は、それだけが信じられる。
「あいにくですが、心当たりはありません。」渉は言う。「パスワード……何のことか、さっぱりです。俺の部屋は、ゲストカードで開くものだと思っていましたし、今もそれは同じです。コンピュータと話したことはありますが、パスワードなんて設定した覚えはまったくありません。」かすかな心苦しさ。だが、渉はそれを抑え付けた。「だから俺は、深町さんの提案に乗ることができません。すみません。」またか、と渉は皮肉に笑う。宮宇智と同じく、否定としての返答。
 だが、それを悔いることはなかった。自分の選んだそれを。
「そうですか。残念です、桐生さん。」村上船長は始めて落胆したような表情となった。渉にとっては極めて辛い瞬間である。この人は……そしておそらくは深町もだが……確実に、今の俺の嘘を見抜いているのだろう。そう、渉は思う。
「無駄でしたね、キャプテン。」深町は淡々とした口調で渉を見る。冷たい瞳だった。「まあ、どの道わかっていたことですが。北河瀬副長ではありませんが、我々もこれ以上愚か者につきあっている暇はないでしょう。パスワードなどどうにでもなります。これで打ち切りましょう。」諦め切ったような口調だった。聞くものが聞けば、不安をひき起こされずにはいられないであろう口ぶり。
「桐生さん。」村上船長は何か言いたそうな様子でこちらを見る。渉にとっては、初めて目にする彼の状態であった。「まだ、時間はあります。どうか悴山女史から告げられた現状をできるだけ理解し、懸命な判断をされることを願っています。あえて申しますが……」息を、つく。「……北河瀬粂靖氏の力を侮らないことです。彼は日本やアメリカの財界に名の通った人物です。亡くなられた御原健司氏との繋がりも深く、政界にも顔が利く。つまり……」
「副船長という肩書きは、あくまで仮のものだと言うことだ。」深町が村上の言葉を繋げるように渉を見据える。「こうなった以上、あの人は本気で君を潰そうとするだろう。君はあるいは、西之園家との関りを以ってそれを回避、あるいは防御できると考えているかもしれないが……」深町は首を振った。「……残念ながら、西之園家と北河瀬家では格が違う。」
「御忠告として聞いておきます。どうも、ありがとうございました。」渉は笑った。「ですが、俺は西之園さんのことなどまったく考えていませんよ。元々、俺と彼女はただの大学の先輩と後輩で……ただサークルが一緒だっただけで、端から何でもないんです。貴方達がどう聞いているかは知りませんが、彼女は俺のことなど歯牙にもかけちゃいませんよ。彼女は、別に好きな相手がいるんです。この船旅だって、その人と旅行に行く方を選んで、ドタキャンしたんですよ。俺は、騙されてこの船に乗せられたんです。」言い過ぎたかと思ったが、渉はそれこそ無意味だと笑った。そうだ、今更何も関係ない。
「行きましょう、キャプテン。」深町はもう話すことはないという風に首を振った。嘆かわしい、というポーズがよく似合うと渉は思う。「彼がこれほど頑なである以上、ここで無駄話をしている時間はありません。」
「桐生さん。」村上が再び彼を見る。「できればもう一度、貴方と談笑の席を囲みたいと思っています。」船長の面には言い知れぬ苦悩が過っていた。それが自分のせいで起こっていることに渉は再び自責の念を強める。「先程の話ですが、未だに決意が変わらないのであれば、いずれ……改めて、その機会を御用意しましょう。」
「お願いします。」渉は真顔で頷いた。「できればなるべく早く、そして……可能なら、貴方と直に話ができればと思っています。俺が言いたいのは……そちらへの希望は、ただそれだけです。」村上が頷く。渉もまた、そうした。「でも、船長。とてもお忙しそうですね。」他人事、だからだろうか。世間話のように渉はそう言い、そんな感覚に笑った。
 他人事、か。それは違うようで、果てしなく正しいように思える。
「ええ、式の準備に大忙しですよ。」村上は軽く髭を撫で付けてそう言い、渉は少しだけ目を細めた。「本当ならば今日がその日だったのですが、あいにくと言うか……御原さんがあのようなことになってしまいましたからな。当初は、式も中止と思ってはいたのですが。故人も……」微笑。「……仲人という立場にあった訳ですからな。」また一つ、小さな疑問が渉の中で氷解した。村上船長と御原健司……グリルでの対峙を、渉は思い出す。
 そんな渉を見て、村上が静かに笑みを浮かべる。「御原夫人が、健気に夫の代わりを含めて……仲人を申し出てくれましてね。もっとも、彼女は式には出ませんが。式場における媒酌人も、私が兼任……引き受けることで、どうにかなりました。こうなってはせめて、滞ることなく式を終えたいと思っています。」どこか皮肉に、村上船長が瞳を細める。
 そう、だが……「結婚式?」渉は思わず、それを口にする。
 村上瑛五郎は頷いた。「ええ。明日の正午です。昨日の騒ぎで一番デッキが閉鎖され、客室の移動を含め、未だ落ち着かない中でのそれですが。客室や会場も含めて、スケジュール的にも色々とてんてこ舞いですよ。」船長はかすかに笑う。深町は、興味もなさそうに黙して立っていた。「それを鑑みるに、先程の北河瀬さんの態度も察してあげて下さい。副船長として……そして新郎の父として、この数日、彼も気の休まることがないのでしょう。」
「北河瀬……晴之。」瞬間、村上船長は渉を睨め付けるように凝視した。渉は思わずたじろぐ。
「お二人の婚礼が、祝福に満ちた席になればと心から願っています。まあ、代理とはいえ媒酌人をお引き受けした身ですから、証人を含め精一杯努力する所存ではありますが。ですが……」微笑。「……ことここに至り、何かやるせないものはありますが。ふむ、どうにもうまく行きませんな。」それこそ、他人事のような笑いを浮かべて船長は首を振った。「それでは桐生さん、失礼します。」
 再び、静けさが部屋を包む。
 渉は、黙した。
 言うべきことを、言わなかった。言えなかった。
 機会がない?チャンスがなかった?
 それは、嘘だ。
 桐生渉。お前は、声を大にして言うべきではなかったか。叫ぶべきではなかったか。
 その事実を、告げるべき……教えるべきではなかったか。
 パスコード?そんなものを隠していて、何だというのだ。
 今更、守るべき何があの部屋にある。
 渉は目を閉じた。
 結婚式。それは明日の、正午。
 渉の中で、何かが胎動する。
 黒い、何か。
 叩き付けるような気持ちが、そこにある。
 知りたいことがある。今すぐに、確認したいことがある。
 だが、それはできない。俺には、不可能だ。なぜなら、お前が断ったからだ。彼らの問いを拒絶し、あるいは否定したからだ。
 ミスをしたのだろうか。たった一つのそれで、一瞬の決断で、何もかもが終わるのか。変わってしまうのか。二度と、取り返しがつかないのか。今叫んでも、もう、それは届かないのか。
 この船は危険だ。ここには、彼女がいる。天才が、すべてを操っている。
 それは、届かない。誰も、聞こえない。そうだ。おそらくは、そうなのだ。
 誰でもいい。誰か、話を聞いて欲しい。
 頼む、教えてくれ。彼女は、今、どこでどうしているのだ。結婚するとは、どういうことだ。どうして、村上船長がそんな役を引き受けるのだ。
 だが、声は届かない。発せられていないからだろうか。思っていても、口にしなければ駄目なのだろうか。言葉という形で発声しなければ、何も意味はないのか。
 渉の傷が疼いた。未だ、頭痛は消えていない。苦痛は、終わっていない。ずっと、あの夏から、それは消えていない。
 誰も、聞いてはくれない。
 誰も、信じはしない。
 俺の言うことなど、誰も、信じない。
 信じられるものなど、何もない。
 カサンドラ、か。
 口にすることはできなかった。それは、大いなる皮肉だった。
 誰も、信じない。渉は瞳を閉じたまま、黙し続けた。
 どうしてだろう。俺は、恐ろしいのだろうか。それで、すべてが終わったら、どうするかと。それに、震えているのか。
 考えるべきことは多い。時間は、豊富にあると思っていた。
 だが今や、それはもうない。
 渉はガウンのポケットから取り出した時計を見る。既に時間は午後……そろそろ、三時になろうとしている。
 式は、明日の正午。
 だとすれば、あと、二十一時間。
 手にした懐中時計を見つめて、渉はその時間を胸に刻んだ。
 迫る、リミット。
 刻まれていく、瞬間。
 追い詰められていくのか。たどり着こうとしているのか。
 わからなかった。わからなくて、どうにかなりそうだった。
 決めたのは目標。下したのは決断。
 だが、方法は未だ見つからない。 
 渉は笑う。
 今ようやく、それが理解できたと。
 遥かに矮小な感覚。恐らくは、比べるべくもない程度の違い。それは、間違いない。
 しかし、だからこそ、渉はそれを理解した。
 いや、理解していたと、理解したのだ。
 それは、嬉しいことだろうか。泣きたいことだろうか。
 おびただしい選択肢。畏怖に満ちた行く手と、どうにもならない世界。
 そこで、ずっと、彼女は生きていたのだ。
 渉は再び、目を閉じる。
 そして、それが訪れた。
 かすかな音。再び、いや、何度目だろうか。
 聞き慣れた作動音に、渉は目蓋を開く。手にした懐中時計は、午後三時きっかりを指していた。
 そして、振り向いた彼の瞳が……
 それが、震える。
「こんにちは、桐生さん。」   
 そこに、
 彼女が、
 いた。
 
 


[429]長編連載『M:西海航路 第三十三章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時24分 Mail

 
 
   第三十三章  Myself

   「私は、どこにもいないの」


 彼女は、笑っていた。
 何がおかしいのだろう。俺の格好だろうか。それとも、今置かれている状態だろうか。
 くすくすと、笑い出したいのを堪えているような、彼女。
 左右に分かれ頬にかかる、艶やかな漆黒の髪。両の耳元を含め顔の半ばまでを隠す長い髪が、その仕草の度にかすかに揺れた。
 美しい。信じ難いほど、彼女は美しかった。
 それは、思考の偶像。
 各々の理想を以って、ただ形を整えただけの固体。
 どんな芸術家の意匠も及ばぬそれが、今、眼前にあった。
 すべては平伏し、そして、ただ惚けるのみなのだろうか。
 それには、根拠はない。彼女の存在自体が、それに値する。そうだ、付加価値など見出す必要はない。そんなものは、余分だ。
 青い瞳が、彼を見つめる。それだけで、桐生渉は震えた。形容できぬ何かが、身体中に走るのがわかる。
 たった一度の、邂逅。
 正確には、それは違う。
 二人は、幾度も通り過ぎた。
 それと思い、そうではなかった。
 そうではないと思い、そうだった。
 それらは、すべて、現実ではない。
 終わった後、事実として補整したものだ。
 つまり、それは、彼女ではない。
 それは、彼女だった。
 渉は、今更のように痛感する。
 目の前の現実は、何より強い。
 そしてそれを、そのことを、彼女は理解している。いや、理解していた。おそらくは、遥かな昔から。
 だから、人は疑わなかった。誰も、疑わなかった。何人たりとも、それを。
 いや、今ですら、ほとんどの人がそう思っている。そう、信じている。
 ならぱ、真実とは、何か。
 声を大にしても、誰も信じない。嘲笑され、無視される。そうであるならば、本当のこととは、何か。
 本当に信じられるものは、ないのだろうか。
 自嘲、それとも倒錯か。再び思考の波が、彼をさらいかける。
「真賀田四季博士……」堪らず、渉は言葉を発した。
 限界だった。これ以上、堪えられなかった。
 どうして、その名を口にするのか。
 確認したいのか。知りたいのか。貴女が、目の前の画面の中の女性が、確実にそうであるかと。
 彼女自身に、答えて欲しいからか。
 何のために?
 そうだ、何のために……
 彼女は、何のために、現れたのだ?
「ずっと、海を見たいと思っていました。」
 渉は慄然とする。
 それは、天才の発した言葉。
「生命の起源としての海。未知を象徴するもの。人の手が及ばない、絶海の向こう……そこには、何があるのでしょうか。昔から人は、それを知りたいと願っていましたね。」彼女……そう、真賀田四季は、静かに語った。「星が輝く夜空と同じく、海の先に、その潮騒の果てに何かがある……それは世界の果て、あるいは、神様の住んでいる場所でしょうか?多くの人が船で乗り出して、そして、出会いました。」お伽話でも語るように、彼女は言葉を綴る。「ですけど、桐生さん。彼らが出会えたのは、神様でも世界の果てでもなかった。それが何か、貴方にわかるかしら?」
 渉は息を詰める。
 問いかけ。
 クエスチョン。
 彼女が、俺に。
 渉は堪える。ひとりでに跳ね上がり、震え出しそうになる手。口を開こうとして、それにどれだけの力が必要なのかと、驚き慌てる。
 そうだ、声を発することが……
 言葉をかけることは、これほど困難なことなのか。
「俺は……」みっともない声だ、と渉は自分のそれを思う。「歴史について、そこまで詳しくありません。でも、きっと……」そうだ、答えなければならない。「彼らが出会ったのは……人間、だったと……思います。」
 そう、人。
 それは、他人……「犀川先生なら、そうはおっしゃらないでしょうね。」形容し難い笑みを四季は浮かべた。「そうですね、犀川先生ならきっと……彼らが出会ったのは、詞、だとお答えになるでしょう。」
 渉はめまいを感じる。「言葉……」いや、詞、だ。
 しっかりしろ。渉は自分を叱咤する。だが、それも、口にすれば同じではないか。いや、そもそも違いがあるのか。
 コトバ……「それは、文字ではありません。文字を使わない人々は、かつて数多く存在しました。彼らには刻まれる文字など必要なかった。彼らの間では、必要なことだけが各々に口伝として伝承されたのです。結果として、無駄なものはそのつど省かれた。納得が行かないことも、理に適っていないことも、伝え聞いた者が修正するのは容易だった。これは、実に合理的な様式です。」身じろぎ一つせず画面の向こうの彼女は、そう言った。渉は今再び、自分がどこにいるのか……そして、何を目にしているのかを、忘れかける。「無駄は、害悪です。人類が生きていく上で、無駄なものは総じて必要ない。遠い昔、人類は既にそれを実践していた。理論として導かれる前に、既にそうしていたのです。彼らを無知な野蛮人と評するのは簡単でしょう。だが、それを訴える人々が果たして理知的でしょうか?文字のない人々を征服していったローマ人のように、現代の人々も古き智の存在を認めてはいない。記憶できない知識、両手に余る物資、それが何だと言うのです?手にできないそれを持ったと思い込み、触れられない数字を集積するために、彼らは他人を殺す。それが知的な存在のすることですか?」
 渉は息を詰める。 
 殺す。
 今、彼女は……そう言った。
「俺は……」渉は、首を振る。いや、振りたかった。
 何をしたいのか……否定?
 違うと、言いたいのか?
 だとすれば、何をだ?自分は違う、そうではないと、そう言いたいのか?お前は、俺だけは、違うと?
 渉は、笑った。自嘲などという言葉では、表せられないほど、強かに。
 俺は、愚かだ。
「人は、大人にならなければなりません。」真賀田四季は、再び詞を発した。「いつまでも子供ではいられない。子供でいてはならない。それは当り前のことです。でも、誰もそれを守ってはいない。」青い瞳が、こちらを見据えるようにかすかにきらめく。「人はみんな子供。子供は泣き、駄々をこね、何もかもを欲しがります。子供は無智で、無恥です。それを理解してなお子供のままでいるから、その行いはとても醜い。でも、子供だから許されると思っている。子供だから、何をしてもいいと皆が認める。桐生さん、貴方が親だとすればどうしますか?」
 再び、問いかけ。渉は、心臓の鼓動を感じた。
 生きている、自分。
 生きていると思っている、自分。
 彼女は……
 彼女は、生きているのだろうか。
「俺が、親なら……」渉は必死に、それを考える。「正しいことを、教えて……」言葉を引き出す。「ちゃんと、叱って……」
「そうですね。」四季はにこりともせずに言った。その、赤い唇だけが鮮やかに動くのを渉は目にする。「子供には、その無智ゆえの愚挙を叱るべき親が必要なのです。」そこで再び、四季はかすかに微笑した。
 渉は戦慄する。今、彼女が……天才が発した、詞の意味を思料して。
 親が、子供を叱る。
 人は、皆、子供。
 子供とは、人間。
 俺を含めた、この世のすべて。
 それを、叱ることができるもの。
 それは……
「博士……」渉はかすれたような声を発した。「……貴女が、御原さんを……?」
「叱り付けられた子供は、どう思うでしょうか。」渉の声を無視するかのように、四季は話を続ける。「今まで可能だったことが不可能になり、何もかもが抑圧されるのです。子供にとっては甚だ理不尽なことですね。驚き、子供は初めて考えるでしょう。そして、答えにたどりつきます。自由が欲しい、と。」
 心胆が、凍える。
 いや、とうにそうであったものが、さらに先へと……高処へと至る感覚。
 戦慄などという言葉では、到底表せられない。
「自由を手に入れるために、何をすればいいか。」四季は黒髪に隠れがちな瞳を細めた。ブルーの視線。「簡単なことです。子供だから叱られる。ならば、大人になればいい。大人になれば、子供ではない。必然、叱られることもなくなります。すなわち、それが自由。」
 天才が微笑する。
 それはまさに、絶世の微笑だった。
「貴女は……」渉は、もう一度、問いかけた。「そうやって、そう言って、彼女を……」絶句する。その先は、言葉にできない。呼吸すら、渉はできなかった。
 彼女……
 彼女、を。
 彼女、を、彼女、は……
「大人になるには、どうすればいいか。それもまた、考えればすぐに答えを出せますね。束縛からの解放。つまりは、自由を遮るものを排斥すればいい。それは当然の思考です。自然のすべては、そうして生命を繋いでいるではありませんか。ただ人類だけが、その摂理であるはずの理念を無視して生存し続けている。人類は子供のまま、子供として、世界を満たしてしまった。誰にも、叱られることなく。」
 それは、狂気なのだろうか。
 だが渉には、それを判断することができなかった。
 なぜなら、そこにいたのが、彼女だから。
 どうしてなのか。
 渉は、首を振る。心の中で。
 そうだ、重要なのは、言葉ではないのか。誰が生み出した……誰が口にしたかが、それほど重要なのか?
 刻まれた文字は、誰のものかわからない。ならば、発せられた言葉もそうではないのか。
 大切なのは、何だ?
 そう訴え、疑問を抱く意識が、渉の中にかすかにあった。
 だが、それは、かき消される。
 ここに、彼女がいる。俺の目の前に、彼女が。
 彼女が、語りかけている。
 猛烈な陶酔。痛烈な甘美。
 それが、渉の五体すべてを満たしかけた。いや、確実に瞬間、それは彼を満たしていただろう。
 恍惚と、悦楽。
 歓喜に咽び、瞳を潤ませるがいい。
 矛盾のない世界。
 そこに、誤りはない。
 そこには、正しさがある。
 答えが、ある。
 すべてが、わかる。
 それは……
『私は、何を信じたらいい?』
 渉は、震える。
 静止していた空間が、歪む。
 時が、流れ落ちていく。
 そうだ、
 それは、
 最高の、自由……
「わかりません……」渉は苦悶の中でそう発した。「……俺には、理解できない。博士……貴女の、すべてが……」
 そうだ。わからない。
 わからないという、こと。
 矛盾に満ちた、すべて。
 今は、それを……
 それだけを、俺は……
「それは、桐生さん。貴方がまだ、大人になっていないからです。」母親の如き柔らかな笑みを浮かべて、四季は諭す。「大人になれば、理解できます。そうなりたいとは思いませんか?そう……」その口許が、かすかに緩む。「……貴方が愛する、あの子のように。」
 渉の中で、何かが散った。
 砕片が、渉の心を……そうであったものを、強かに裂く。
 引きちぎれるような、痛み。
 その苦痛は、信じ難い。
 いや、形容などできようはずがない。
 渉は、見据える。
 瞳が震えた。これ以上はないほど、強く。
 目の前の画面の、向こう。
 そこにいる……女を、見据えて。
「貴女は……」渉は力を振り絞った。再び、どれだけの力が必要だったのか……彼は、それに成功する「俺に……そんなことを、言うために……」 自制だったのか、強制だったのか。それとも、抑制なのだろうか。「わざわざ、ここに……来たのですか?」
 画面の向こうで、彼女の表情は動かなかった。「貴方が望んだのよ、桐生さん。貴方は、私との再会を望んだ。あの夏から、ずっとそう願っていた。だから、私は貴方を招いたのです。」
 真賀田四季。
 渉は身震いしそうになる身体を必死に抑えた。今しも、何かの感情が爆発しそうだった。
「そのために、こんな……」渉は、力なく首を振る。「場所を、船を……用意したのですか?」
「いけないことですか?」唇が、再び笑みを形作った。「お客様を迎える時は、誰でも準備をするでしょう?お客様をもてなしたいと思うことは、極めて自然な発想ではありませんか?」
 渉は、再び首を振る。大きくはとても振れなかった。「俺だけ、じゃないですね。貴女が、招いた……いえ、招こうとしたのは……?」
「ええ、そうですね。」四季は認める。「西之園さんと犀川先生もお呼びしたかったのだけれど……その点は、少しだけ残念です。」
 息吹。渉は、自分が生きていると感じる。そして、目の前の画面の中……そこにいる黒髪の美女もまた、その胸が動悸していた。ゆっくりと、白い服に隠された身体が、動悸し、呼吸し……確かに、そこに、生きている。
 いや、違う。渉は理性を保つ。そうだ、間違えるな。生きているように、見えるだけだ。画面を通して、そう認知できるだけだ。
 そして、俺もまた、そうなのだ。
 生きているように、見える。生きていると、思っている。
 自分のことを、そう思っている。
 だが、それはどこまでもあやふやな、不確実な意識だ。
 なぜなら、俺は孤独だ。ここには、誰もいない。
 俺は、一人だから……「博士が、ミスをしたのですか?」渉は、尋ねる。「この場の……」言葉が見つからない。「この船の、今の……主賓は、きっと、俺じゃないはずだ。西之園さんと……そして、おそらく、犀川先生でしょう?その二人が来ないで……俺だけが、ここにいる。それは、予定と違うのではありませんか?俺は、本当に……招かれるべき……いや、招かれた、人間なんですか?そんな……」
 そんな、価値のある……
 言いかけて、渉は、言えなかった。
「謙遜しなくてもいいんですよ、桐生さん。」渉は再び慄きかける。「そう、あの時も同じように言いましたね。桐生さん、自分を卑下することはありません。もっとも、それも貴方の自慢の内、というのであれば別ですけれど。」渉は黙した。「どうか、言いたいことだけをおっしゃって欲しいわ。」
「御原さんを殺したのは貴女ですか?」渉は再び、それを問いかけた。
「御原さんを殺したのは貴方ですか?」鏡の如き即時の反射が、渉の何かを鋭く突き刺す。「意味のない質問ですね。どうか、わかっていることは質問なさらないで。せっかくの再会ですもの、幻滅したくはありません。」
「幻滅……?」渉はかすかに震いする。「今、幻滅と……おっしゃったのですか?」
 四季は、微笑する。「常若の国が、どこにあると思いますか?」 
 沈黙と、静寂。再び、霧散しかける意識。「貴女は……」渉は、必死にそれを自制する。
 そうだ、いけない。それは、できないのだ。
 しては、いけない。
「四季博士……」うわごとのように、彼は言う。そして、画面を見た。巨大な、埋め込まれたスクリーン。「この船の、システムは……貴女が、構築したのですか……?」
「いいえ。」彼女は即答する。「ですが、ネットワークの基盤となった設計思想は、私の論文から一つの解を得ていますね。不完全ですけど、形としてはかなり興味深いものです。」
「サブシステムによる管理、ですか?」渉は口にする。「真賀田研究所と同じですね?もっとも、『彼女』の能力は桁違いに優れているようですが……」
「怒りを謡え、女神よ……」渉は一瞬、耳を疑う。「ペーレウスの息子アキレウスの、かの呪わしき怒りを。」
 背筋が凍り付くような感覚。
 渉は、眼前の光景を凝視する。
 そこで、微笑する、女性。
「母上、幸先を祝って、この頭に花輪をかざし、敵の王の妃となる私の婚礼を、どうぞ喜んで下さいませ。」
 それは、詞、だった。
 渉のすべてが、止まる。
 感覚が。時間が。何もかもが……
 天才の唇から零れた言葉に、停止していく。
「もしも私に怯む気配が見えましたら、無理矢理にでも追い出して下さいませ。もし、アポロンが真実に存しますなら、アカイアの名に負う大将アガメムノンは、ヘレネよりも、もっと不吉な妃をば迎えることになりましょう。」韻を踏むように、ゆっくりと告げられる、それ。「必ずや彼を亡きものにし、一族を絶やして亡き父君と兄弟たちの仇を取るつもり。」
 甘美な響きと共に、それは、渉の耳から滑り込み……
「されば母上、我が国の運命も、また私の婚礼も歎かれることはございません。この婚礼が願ってもないよい機会、母上にもわたくしにも、憎みても余りあるこの敵を、見事に打ち絶やしてやりましょう。」
 ……そして、砕けた。
 
 


[430]長編連載『M:西海航路 第三十三章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時25分 Mail

 
 
 戦慄。
 画面の女性……真賀田四季が、じっと彼を見つめる。
「カサンドラ。」愛しい者のようにその名を呼んで、四季は続けた。「貴方は、サブシステムのことをそう呼びましたね。どうして名前を付けたのですか?その理由が知りたいわ。御自分の立場に換喩されたのかしら?」
「理由は、ありません……」渉は、やっとの思いで答える。「ただ、名前がないと……不便だと、思ったからです。」
「どうして不便なのかしら?」青い瞳が、真っ直ぐこちらに向けられていた。「二人きりの部屋なのです。名前など必要はないではありませんか。いるのはお互いだけ……どうして、相手に名前をつけようとするのです?今こうしている私達に、お互いの名前が必要ですか?ここには誰もいません。私と貴方しかいないのですよ?ここで、互いの名前が必要ですか?」
「それでは……わからなくなります。」渉は答える。「その場ではよくても、後になったら……あの時、誰と話したのか、誰と出会ったのか、思い出せなくなります。いや、思い出すだけでなく……目の前にいる時も、名前があった方が簡単です。容姿や言葉づかいで個人を特定するのは難しい。どこで出会ったどんな人、誰それではとても長くなります。だから、名前があった方が……便利です。」未だ金縛りにあっているような五体。渉は息を詰める。
「多数を識別するために名前が有効だと言いたいのですね?」渉は反射的に頷く。「でも、それはどこまで確実です?もしも名前を偽られたら、どうすればいいのですか?貴方が桐生渉ではなく、私が真賀田四季でないとすればどうします?」渉は再び、声を堪えた。「ただ、そう名乗っているだけで、本当の名前でなかったとしたら……どうすればいいのかしら?」
「名前が……」渉は、その響きに自制を取り戻す。「名前が、個人という存在を定義する上で、不完全な指標であることは認めます。」彼は、素直に頭を下げた。「なら博士は、個人を特定するためにどんな手段が適当だと思われますか?世界に、こんなにたくさんの人がいる……見分けるには、どうすればいいのです?その中から、誰かを捜したいと思っても、とても見つからない……博士なら、この問題をどう考えますか?」
 渉は、問いかけた。
 それは、挑戦なのだろうか。
 いや……それは、求める声だろうか。
 助けを、求める……
「桐生さん、この船の個人識別システムについては御存じ?」
「あ、はい……」問い返されて渉は焦る。「カードシステムによる現在位置の特定と、端末によるその有無のチェックですね……」渉は知っている限りのそれを並べた。「あと、音声認識と……もしかしたら、カード自体からも、何かのサインを出しているかもしれません。赤外線に反応するような……」それは推測していたことだった。「その履歴と現在のデータを必要に応じてチェックすることで、個人の現在位置とそれまでの動向を調べている……ですか?」
「凡庸すぎる思考ですね、桐生さん。」四季は冷ややかに言う。「この船の管理システムが、ネットワークと一体になった高度なそれであると貴方は聞いているはずです。」深い……純白と漆黒の間に浮かぶ青みがかった瞳が、彼を捉える。「ねぇ、本当にそう思っていらっしゃるの?」
 渉は、かすかにわななく。「違う……んですか?」四季は無表情だった。渉は考える。
 ゲストとクルー、カードによるシステム。カードがなければ何もかも作動しない。そうではないのか……!
 渉は、そこで、気付く。いや、思い出す。
 そうだ、違う。確かに、俺は最初そう聞かされ……そう、信じた。だからこそ、一日目にあれほどの失敗をしたのだ。カードが本人よりも大切なのかと。カードさえあれば、誰であろうと関係ないのかと。俺は憤慨した。
 だが、それは……違った。そう、違うと、わかった。
 カードは、必要なかったのだ。見せかけだった。少なくとも、あのデッキにおいては。
 サブシステムの存在。音声認識による客室機能の制御。それがあれば、カードは必要ない。そうだ、村上船長も言っていた。オフィサー……そう呼ばれる上級の船員には、カードは必要ないと。おそらく彼らも、俺のように……口頭の音声認識で、サブシステムに命令することができるのだろう。そう、それはまるで魔法のようなものだと、船長は言っていた。
 渉は一つの光景を甦らせる。そうだ、デビィ婦人。指を鳴らし、魔法をかけるような……仕草。
 そうだ。まさに、魔法だ。
「声……」渉は再び、言う。「音声による個人の認識……サブシステムの作動の理屈は、わかります。個人のそれを、声紋を識別している、そうですね?ですが……」そう、だとすれば、それを利用できない者はどうすればいいのだ。
 俺のような、特別の……ロイヤルスイートの船客。そして、オフィサーとしての船員。
 それ以外の人々は、それを使えないのではないのか。ならば、どう勘定するのだ。彼らを、個人個人を識別するのだ。カードで……結局は、そうではないのか。それが、凡庸だと言うのか。
 それとも、本当はすべての客が……いや、クルーも含めて、全乗員がそれを使えるのだろうか。あえて、オフィサーや特別な船客……それにしか、音声認識を使わせていないだけか。だとすればどうしてだろうか。ネットワークが未熟だからか。完成されていないからか。
 それは、至極もっともな理由に思われた。この船の乗員は二千人を越える……最高のそれは三千人近いはずだ。それらすべての音声を認識し、個々に他律作動させることなど、はたして可能なのだろうか。
 ならやはり、限定されている……少数の人間だけが、音声を含めた個人認識される存在として、該当するのか。
 だが、それでは……意味がない。「矛盾、していませんか?」渉はかすかに当惑する。そう、気を付けなければ……「例外があって、それで……」例外と、例外……わからない。何と言えば言いのだろう。渉は自らの思考を懸命に整えようとする。
「すべてを、等しく。」四季の一言が、渉を救う。「矛盾というものは、確立され得ないものにしかないのよ、桐生さん。それを許しては、どんな問題の答えも出ません。」いや。それは、救いではない。「答えが出ると思ったのならば、それは誤りです。矛盾を包括する答えも、それを許容する心も、すべては誤りなのです。」
 渉は、息を呑む。
 まぎれもなき、天才。
 そうだ、間違いない……
 彼女も、また、天才なのだ。
「簡単なことなのですよ、桐生さん。」四季は渉の混迷を見透かしたように言った。「私達は、何者です?」
「私達……?」渉は当惑する。
「我々は、それぞれです。一人として同じ者はいない。その中で、誰かが見つからない?一人一人の見分けがつかない?目の前にいるのが誰か、わからない?そんなはずがありませんよ、桐生さん。」渉の中で何かが目まぐるしく動き出す。「貴方のお母様は御健勝ですか?」
「え……」突然問われて、渉は戸惑う。「……はい。でも、それが……」
「お母様を、貴方はどうやって見分けていますか?」
「そ、それは……」渉はさらに困惑する。「……母は、母です。」
「同居なさっているの?」
「いえ、違います。実家に……」渉は素直に告白する。「ここしばらくは、会っていません……」いつからだろう。渉は再び、昨年の夏を思い出す。
「そうですか。では桐生さん、御実家に戻られたら、貴方はお母様をどうやって見分けるのです?」
「えっ……」渉はますます当惑の度を強める。「母は……」再び言葉を繰り返そうとして、渉は、絶句した。
 そうだ。俺は、どうしているのだ。どうやって、見分けているのだ。
 それは、当たり前だ。当然だ。できないはずがない。
 それは、どうしてだ?
 どうして、俺の母だと、わかるのだ。
 いや、なぜ……そう、思うのだ?
「なぜですか?」四季は、追い打ちをかけるように言葉を重ねる。「桐生さん、何を以って貴方のお母様は、貴方のお母様なの?貴方がそう思うから?お母様の周囲にいらっしゃる方々が、そう言うから?それが、貴方にとって信じるに足ることなのですか?絶対にそうであると、確信できることですか?」
 渉は再び、言い知れぬ感覚に心をさらわれかける。
 本当に、信じられること。
 そうだ。
 それは、違う。
「確かに、できないかもしれません。」渉は自分の答えに含まれる矛盾に首を振る。「そうですね……記憶など、定かではないかもしれない。なら、その方法は……勘ですか?」自分の言葉に、笑う。
「勘、というものの定義は甚だ不明瞭ですね。」四季は冷淡とも呼べる口調で告げた。「直感が五感を越えた何かとでも言いたいのならば、人間にそんなものはありません。インスピレーションはあくまで本人の意識下より導かれる能力であり、何一つ概念のない状態で作用するものではありません。それを自覚して行えるかどうかも、また別の問題です。あくまで不確実性のみを用いて決定すると言うのであれば、桐生さん。世にいる誰もが貴方のお母様であり、同時にお母様ではないことになりますね。」
「なら……どうしようもありませんね。」渉は遂に音を上げた。「わかりました。俺には他人を確認することはできません。誰か知らない女性が俺の母だと名乗っても、俺にははっきりと……絶対に違うと、否定はできない。」だが、渉は自棄を伴ってはいない。「今ここにいる俺だってそうだ。それに……四季博士。俺が今話している貴女も、そうではありませんか?」
「方法はあるのです。」四季は淡々と告げる。「身体や人格、言語や挙動、遺伝子や記憶……照合するべきそれに関係なく、個人を特定する方法は存在します。それは、とても簡単なことです。できると思ったならば、四千年前の人類でもそれを可能にしたでしょう。それが、自分が何者であるかという問いの答えです。」
「そんなことができるなら、博士。」渉は、笑った。「それを、教えてくれませんか。」
「すべてを捉えればいいのです。」
 渉は、眉根を寄せる。
 すべて……
 すべてを、捉える……?
「私達は、産まれるものです。そして個人の生誕という現象は、既に解明されています。ならば我々はその時点から個人を識別し、以後途切れることなく捉え、追い続ければよいのです。何も、難しいことはありません。私達には幸いにして、五感が備わっています。それを活用すれば簡単なことです。」
「意味が、わかりません……」渉は、激しい動悸を感じる。
「人はどうして、孤独を感じるの?」彼女は不意に、嘆くように言った。「人は何故、離れていくの?離れていないと不安なのですか?近くにいると、その人を憎んでしまうから?近付いていけば、いつかその人を殺してしまうから?亀を追いかけた英雄のように、知ろうとするほどに遠ざかってしまうから?」それは、泣いているような声だった。「不安になるのはどうして?誰かを愛しているから?誰かに愛されたいから?人が死ぬのが、どうして悲しいの?悲しくて、どうして泣けるのです?泣きたいとは、どういう気持ちですか?楽しくて泣くのはなぜなの?悲しいのに、どうして笑えるのです?」
「俺は……」渉は、目を閉じる。「……俺には、無理です。俺は、貴女の疑問に答えられるほど、頭が良くない。」それは、真実だった。
「それが、答えです。」不意に、四季は低い声で言った。無表情に……能面の如き表情に変わって。「不安の理由は、総じて無智です。ならば、必要なことを知ればいい。不安になりそうなことは、すべて知っておけばいい。そうすれば決して不安にはなりません。決断を下すために迷う必要もなくなります。知りたいことはすべて知り、見たいものはすべて見、聞きたいことはすべて聞けばいいのです。そこから目をそらすことは自由。知り得た知識をどうするかも自由。束縛は何一つありません。それが、桐生さん。貴方の質問への回答です。」
 渉は声を失う。
 すべてを……捉える?
 すべてを、知る……そんなことがありえるのか。
 何もかもが、わかる。知りたいことのすべてが。見たいもののすべてが。聞きたいことのすべてが……何もかも、手に入る。
 いや、そんなことは不可能だ。ありえない。もし、そうなったとすれば……「それでは……逆に、混乱して……」
「それは、貴方がまだすべてを知らないからです。」四季は冷たく言い放つ。「すべてを知る、それ自体を恐ろしいと感じるのは、それがまだ当り前でないからです。人は適応します。生まれた時点ですべてを知ることを約束されていれば、不安など感じないでしょう。すべての人がすべてを知れば、不安や恐れなどなくなります。それは、人々にとって理想ではありませんか?」
 渉は再び、絶句する。何もかもを、知って……感情、肉体、生理、状況、過去、そして未来……すべてを知り得れば、もしもそうなったら、何も不安は……
「なら……」渉は、言葉を絞り出す。「生死、は……?」
「当然、含まれます。」四季は即答する。「すべてを知るということは、自分の今も、生誕から現在に至り、それ以後もすべて知るということ。どこで生まれ、どう生き、どこで死に至るかも、すべてがわかるのです。」
「それを知って、そんなことがわかったとして……」
「無理にすべてを活用する必要はありません。個人はその完全なデータの中から、必要なことだけ取り出し、使えばいいのです。すべてを知ろうとするのも自由、何も知らないでいようとするのも自由。答えの存在を認めず、無視することも自由なのよ、桐生さん。すべてを知ってそうしたいのなら、そうすればいいのです。抑圧はありません。選ぶのは、自由。それが一番大切なことです。」
「人を殺すことも……自由ですか?」
「すべてを知って、他人を殺そうとする者がいるでしょうか?」四季は渉の目を見返す。「無知、あるいは無能というのであれば、自らのそれを導くように個人が考えればいいだけのこと。すべてを知り得る環境を手にして、それでも人を……他に干渉し、あまつさえ殺そうとする者がいるでしょうか?」微笑する、天才。「桐生さん、すべてを知るということは、人と人との違いがなくなるということです。誰もが同じになり、すべてが等しくなる。それは、素晴らしいことではありませんか?」天才は、笑った。「貴方は今、何も知らない。貴方は、無知で愚かです。その貴方が私と同じように、すべてを知るのですよ?」
 ほほえむ天才。渉は再び、呼吸を止める。
「俺は……それでも、貴女に……」息が、苦しかった。いや、呼吸なのだろうか。それは……「博士に、なれるとは……とても、思えません。」
「私になる必要などありません。」四季は首を振る。「貴方がそう望むなら別ですが、すべてを知るということを誇大に解釈してはいけません。それは決して、個人の意識の変革を無理強いするものではないのです。桐生さん、貴方は先程、私の問いに答えがわからないとおっしゃったわね。仮に貴方が私と同じだけの知識を得たとして、そう言えるでしょうか?」
「俺が、博士と……」努めて、笑おうとする。だがそれは、できなかった。「貴女と同じだけの知識を得ても、それを活用できるとは……到底、思えません。」そうだ、それは、巨大な……高層ビルの如き百科事典を手にしているようなものだ。厚く、巨大で、ページすらめくれない……そんなものを持ったとしても、その重さで押し潰されるだけではないか。
「重ねて言いますが、個人の思考のひらめきは別の問題です。私にも、貴方にも、それはありますね。」四季は、黒髪をかき上げる仕草をする。「個人のそれを計測し優劣をつけるというのであれば、それは肉体のそれと同じ、あくまで個人の才能としての大小でしょう。自分を愚か者と称して嬉しいのであれば、そうなさるといいわ。それもまた、すべてを知った上でなら許される自由です。」
 渉は息を詰める。すべてを知る……そんなことが現実にありえるのか。あくまで絵空事、理想……現実の対としての、それではないのか。
 すべてが同じ。等しくなる。イコールで繋がれる。
 そこに、疑問はない。答えは、すぐにわかる。迷いはない。何もかもが、満ちている。足りないものはない。
 ならば、人は……
 俺は……そこで、何をするのだろう。
「俺は、嫌だ……」渉は、呼吸の激しい乱れを感じる。「そんな世界は、まっぴらです……」考えてなどいなかった。ただ、本能とでも言うべき何かで、渉はそう吐き捨てた。
 そうだ、俺は、嫌だ……
「支離滅裂ですね、桐生さん。」渉は、彼女の言葉に顔を上げる。「貴方は今、どこにいるのです?」
 渉は目を見開く。そして、自分を見る。いや、自分を取り巻く、世界を。
 そこは、白い部屋。
「これが……」渉は、震える声を発する。「これが、その世界ですか……?すべてを……博士、どこに、すべてが……あるんです?」
「言ったでしょう。御存じのことは、お聞きにならないで。」四季は冷淡にそう言うと、心持ち顔を背けた。「貴方は既に、すべてを知っている。望むものは、手に入っている。それでなお、貴方はそこを出て、何かをしたいと思うのですか?その黄色いドアを開けて、事実を目にしたいと思いますか?現実を体験したいと、本当に願うのですか?」
 渉は、震えた。
 すべてとは……
 すべてとは……真実、なのか。
「何事も、向こう側から訪れる。自主的に何かをする必要はない。それは、とても満ち足りた状態ではありませんか?母の腕……母体の胎内にいるような、何事をも気にする必要のない、安息があるのではありませんか?それを、自ら破壊しようとするのですか?どうしてそんなことをする必要があります?辛く、悲しいだけの道を、どうして望むのです?自ら進んで、無知を求めるのですか?今貴方が持つ心の智を、偽りと誤りばかりの世界で失いたいのですか?そんなことをする理由が、どこにあるのです?」悲嘆……痛嘆を堪えきれないように、天才は言う。
 母の胎内。安息の時。
 そうだ、まさに、そうかもしれない。
 事実は果敢なく、現実は一部だけしか見えない。自分を無視して形成される嘘ばかりの事実と、不鮮明でどこを向いても、五里霧中である現実。それらは、すべて、不安だ。だから、怖い。だから、嫌だ。なら、知らなければいい。見なければいい。例え、そこにあるとわかっていても。
 そうだ。ここから、出たくない。ここに、ずっといたい。自分で入れられた場所ではない。自分が好きで入った場所ではない。だがそれでも、いや、だからこそ生きられる。ただ、生きられるのだ。ここなら、ずっと生きていける。疑問はない。考えることも必要ない。知りたいことは、もう……わかった。
 そうだ、すべてが……真実だけが、あればいい。誰にも理解されることのない、俺だけの真実があればいい。それは、絶対に俺を裏切らない。それは、常に俺と一緒にある。これほど素晴らしいことがあるだろうか。
 俺は、俺だ。一人でいい。ずっと、独りでいい。他人は未知だ。未知は恐ろしい。理解できない。理解されるはずもない。だから、理解されなくていい。永遠に、孤独でいい。俺は……
『急に、誰かに会いたくなったの。』
 少女が、笑う。
『そんな気持ちを、誰かに話したくなったの。』
 風の吹きすさぶ中、たった一人で少女は立っていた。
 果てしなく、淡紅色の大地が広がっている。
 彼は、見開く。瞳を、そして……
「決めたんです。」
 桐生渉は、言った。
 拳を握る。「俺は、決めたんです。信じるものを、決めたんです。やるべきことを……やりたいことを、決めたんです。ここから出て、そして……」渉は、感じる。鼓動と等しく、今、自分の中で鳴り響くもの。「俺は、決めたんです。彼女を……」渉は、立ち上がった。
「この世ならぬ喜び……」それは、聞こえてきた詞は、誰の声なのか。「……満たされながら奉仕した、お祭りも今は悲しい思い出……」渉は見つめる。
 そこに、彼女が、いた。
「私の肌の穢れぬうちに、むしり取って、風のまにまに神の御許に帰りゆけと、投げ捨てましょう。」
 詞は、紡がれ続ける。
「大将の船はどこにあるの?どれに乗ったらよいのです?さあ早く、風の変わらぬうちに、船を仕立てねば遅れるではないか。」涙、だろうか。悲しみを、哀しみを込めた声が、乳白色の部屋に、響いていく。「そなたらが連れ去ろうとするのはカサンドラならぬ、復讐の女神の一人であるということを、忘れぬようにおし。」彼女は、どこまでも美しかった。「では母上さらば、どうかもうお泣き下さいますな。おお、愛しい祖国よ、今は地下に眠る兄弟たち、また父上よ、間もなく私もおそばへ参ります。私どもを滅ぼした憎きアトレウス家を根絶やしにし、勝鬨をあげて冥土へ参りましょう……」
 悲壮美に彩られた、詞の旋律。
 一人の予言者が謡った、哀しき遺言。
 それは、偽りとされた真実。 
 その中で、渉は、微笑していた。
 手に掴むべき、事実。
 見極めるべき、現実。
 天才ならぬ、相手。
 そこにはいない相手を、じっと見つめて。
 
 


[431]長編連載『M:西海航路 第三十四章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時25分 Mail

 
 
   第三十四章 Move

   「いつか、そこに行ってみたいの」


 手にした懐中時計で、桐生渉は現在の時刻を確認した。
 七時五十分。無論午後であり、二十四時間単位で言えば十九時五十分となる。航海四日目、今日は残りあと四時間十分……いや、既に五十一分になっているから、四時間九分、が正確なところだろう。
 そして、五日目になる。航海五日目……
 結婚式の、当日。
 伝え聞いた婚礼の日時を思い、渉は今一度大きく息をついた。
 結婚式。明日の正午。つまりは昼の十二時、二十四時間の半分で行われるそれ。そして今日が既にあと四時間ほどであることを考えると、それまでの時間は……十六時間。
 十六時間、か。渉は再び息を吐くと、腰掛けていたベッドの上に背を転がした。
 考えてみれば、時間はまるでない。それが、そのことが、何という皮肉だろうと思う。無駄な時間、無意味な時間を、俺はどれだけ重ねてきたのだろうか。そして、今になってそれを後悔している。既に失われた時間を、あの時ああしておけばよかったと、自分の愚かさを嘆いている。
 だがそれも、結局は自分が選んだ結果だ。
 渉は苦笑した。そうだ、もうよそう。それこそ、こんなことを黙考している時間はない。確かに、時は有限だ。それをどう使うかは本人の勝手で、それこそ選択肢……各々が決めたその使い道は、各々にのみ責任があるのだろう。そして、だからこそ、身勝手な時間の使い方によって、他人の時間に干渉することは決していいことではない。
 他人の時間に干渉する。
 渉は、どこか懐かしいその言葉に心中で息を吐く。
 人が有限の時間を消費し続けている以上、各々に与えられ自由に使うことが許された個人の時間に他人が立ち入り、それを無駄……あるいは、ためにならない消費、もしくは浪費、だろうか。とにかく、それらを強いることはとんでもない罪悪ではないだろうかと渉は思う。勿論時間に限らずあらゆる時事への価値感は人それぞれであるだろうし、干渉されたと思わずにそれを喜ぶ場合も多々あるだろう。だが、すべての人間が等しく共有している時間に本人の意志なきまま干渉し、あまつさえそれを奪うことはどう考えても罪悪だ。誰もが自分の時間を自分の望むままに使用するべきであり、それは当然の権利として全ての人々が手にしているものであろう。無論、節約(そんなことができればだが)することも、乱費することもまた自由だ。だが、本人の意思を無視してそれを消費させる……つまり他人の時を侵すことは、大罪ではないのか。
 だとすれば禁固刑というものは、そのためにあるのだろうか。渉は思う。そうだ、罪を犯した者を罰するために、罪人とされる者の時間を奪う……いや、正確には完全に奪う訳ではないのか。どんな重罪の囚人にも少なからずの自由はある。本当に他人の時間を奪うというのは、その人間の自由を完全に奪うことだ。つまり、それは……
 人を、殺すこと。
 渉は、その理路整然とした自らの結論に慄然となる。
 そうか。自由を奪うということは、命を奪うということだ。極論すれば、おそらくそれは間違いではない。個人の自由を完全に奪うには、五体のすべてに加えて、その意識……つまりは思考をする機能をも停止させなければならない。そして、それは、生命としての個人の死だ。つまり、死とは自由の……時間の喪失なのだ。
 当り前のことかもしれない。誰もが、当の昔より理解していることかもしれない。
 だが、今の渉には、それは違った。
 死は、自由の損失。他人のそれを奪うことは、その人間の自由を……時間を奪うことだ。
 ならば、と渉は思う。
 なら、生きていることは自由なのか。
 そうだろう。渉は、そう思う。勿論、完全ではない。何の束縛も受けずに生きることは難しいだろう。だが、死がイコール完全なる自由の損失であると定義すれば、それに至らなければ少なくとも……そう、ほんの少しでも、人は自由だと言えるのではないか。例えそれがほんのわずかな動作であっても、心に思うだけでも、それは、おそらく……いや、間違いなく、自由だ。
 だが、あまりに瞭然とした死の定義に比べて、自由というものが包括するべき範疇は広すぎるように渉には思えた。だがそれは、人という心を……自我と呼ばれる要素を持つ生命として当り前のことではないだろうか。誰も彼も、一人一人が己の考え方を違えているのだ。今、自分自身が不自由だと思うことも、それこそどんな苦境でも俺は自由だと思うのも、それこそすべてがその者の自由だろう。そして、だからこそ、それが失われることは心底から恐ろしい。自分が大切にする時間についてであれば、ほんのわずかな干渉ですら、それを強かに不快に……誰もが嫌悪感を感じるであろう。だとすれば、もしも自分の自由が完全に失われる……奪われることを予感したとすれば、その時感じる恐怖は、尋常ではないはずだ。
 そうだ。それは、そんなことは、決して許されない。社会的に、倫理的になどという理由付けをする必要もなく、自由を奪われる本人にとって、それは絶対に容認できないことだ。そう、あまつさえそれが自分の了解なき……未知よりの干渉により突発的に訪れるものだとすれば、それに対する反発はとても形容できるようなものではないだろう。
 自由が……時間が侵されることへの恐怖。それは、怒りにも似ている。憤慨、あるいは逆上……だろうか。おびただしい憤怒の意識と、絶対にそうはならないという叛骨としての意識。それを渉は、今、自分の中に抱く。
 ならば、どうしてそう思うのか。
 渉は考え、そして、ふと答えにたどりついた。
 そうだ、それはおそらく……
 生きることの意味を、知っているからだ。つまり、自由が何よりも大切だと、考えているからだ。
 そして、自由とは……時間。
 自分の時間は、誰にも邪魔されたくない。すべての時間を、自分の思うままにしたい。それは、つまりはたった一人でいたいということだろう。誰にも干渉されず、誰にも関係されない状況を突き詰めれば、人は必然的に独りになる。
 そうだ。もしも世界に自分一人しかいなければ、自由は束縛されない。無論、生きていくための活動は必要だろう。衣食住のために時間を費やさなければならないかもしれない。だが精神的な意味を持つそれに限れば、一人である者はそうでない他より遥かに自由だ。家族や友人……学校や仕事、その他あらゆる社会的な束縛から離れて、何もない状態となったとすれば……それは、時間と意識の意義という意味で大きな自由であろう。何も、気にする必要がない。誰のことも、考える必要がない。自分はここにいる。自分は一人だ。何をしてもいい、何をしても、平気だ。誰も邪魔はしない。なぜならば、誰もいないからだ。自分一人しかいない。それがわかっているから、自分が独りだと知っているから、そう思えるのだ。そうできるのだ。そう、してもいいのだ。
 そして、それは、最高の自由。
 渉は、笑った。
 繰り返している。俺は、また。
 そうだ、確かに今、俺は自由だ。いや、もっと以前からそうだったのだ。この船に乗った時から……いや、もっと遥かに前から、ずっとそうだ。そうだったのだ。
 ただ、それを理解していなかった。認識していなかった。
 意識していなかった。
 つまり、孤立していたのだ。いや、孤立していると思い込んでいたのだ。すべては訪れた短い刻、つまりは刹那の安らぎなのだと解釈し、それ以外のことを考えなかった。考えることを拒否……拒絶していた。意に反した状況を、そこから受ける外圧を、不服として。
 そこには、自由があったのに。
 そうだ、自由はあった。ずっと、あったのだ。そして、今も、ある。
 だからこそ、考えられる。だからこそ、行動できる。
 だからこそ、生きていられる。
 それは、真理だろうか。それとも、矛盾なのだろうか。
 それは、わからない。そう、渉は思う。
 俺には、わからない。
 だが、どう思うのも、自由だ。
 渉は冷静な自分を感じる。いや、冷静な思考、だろうか。
 黙然のままに、渉は微笑した。
 今の状況。異質なそれ。束縛は甚だしい。
 だが、だからこそ、考えられる。思考できる。
 今まであったこと、すべてを。  
『すべてを捉えればいいのです。』
 韻を踏む、美しい女声。
 残響が、渉の心を震わせる。
 彼は、首を振った。強かに。
 そうだ。それは、違う。
 それは、違うのだ。
 だが、そこで渉は息を詰めた。
 違うとは、何だ。違うとは、誰だ。
 発する言葉に、違いはあるのか。
 誰が口にしたかで、言葉の意味は違うのか?
 誰が記したかで、文字の中身は変わるのか?
 学校で、大学で、学んできた幾つもの数式、理論……
 それは、誰が作ったのだ?そのことを考えて、誰が考えたかを知って、意味があったか?
 渉は、笑う。
 そうだ。それは、正しい。
 すべてはあって、すべてにない。
 誰だろうが、何だろうが、関係ない。それを聞いたのは、俺自身だ。それをどう使うか、どう解釈するかも、俺自身。
 そして、それが……真実。
 渉は起き上がった。背を伸ばし、そして、備え付けられた洗面台の前に行く。
 そこに、小さな鏡があった。
 映っているのは、自分。酷い顔だと思う。肌は汚れ、ギプスはみっともなく、髪もボサボサだ。ガウンはまだ奇麗だが、無味乾燥なそれはかえって自分の薄汚れた姿を晒し出す鏡になっている気がする。
 顔を洗う。センサで作動し、流れる水。飲むこともできるだろうと思い、そのまま顔を寄せてごくごくと飲み込んだ。うまい。そのまま顔と頭、すべてに水がかかり、周囲に派手に散ったが、気にすることはなかった。
 そうだ、濡れることを気にしてどうする。何しろここは、海の上じゃないか。
 派手に首を振って水を浴びると、渉は意気揚々とベッドに腰掛けた。タオルがわりに毛布で頭をこすり、さっぱりとした心地好さに身を浸す。本当はきちんとした風呂かシャワーを浴びたかったが、そこまでは望めないなと渉は苦笑した。そうだ、この部屋は行き届いているようで、そうではない。本当に人を閉じ込める……いや、拘置するためには、もっと多くの設備か必要だと渉は思う。今のこの部屋では、未完成というか……未熟だ。
 未熟。渉はその形容に子供を連想し、そして、笑う。
 そうだ。子供と大人とは、生命……有機体としての生物という範疇に限らないかもしれない。建築も、科学も、技術や芸術……それらを表す言葉も、すべてが子供であり、大人であるのかもしれない。
 それらは完璧を。あるいは完成を目指して、すべてが努力し、そうしようとする過程で生み出されてきたものだ。変わっていくものもある。変わらないものもある。それを判断するのもまた変わっていく個人である以上、それはまさに流動的な価値観であり、指標であり、目標だ。
 完全な存在。完璧な場所。そこに到達し、そしてそこに居続けるのは、大変なことだろう。
 それは、大人であるということ。
 あるいは……そのふりをすること。
 そうだ。この部屋も、大人のふりをしているのだろう。傍目からは完璧な拘置場所に見える。だがいざここに身を置いてみれば、色々と不便なことも多い。それを入室した者の意識に対して考慮した結果と見ることもできるだろう。実際、そうであるのかもしれない。
 だが、俺には、そうは思えない。
 完璧な密室などない。この世のすべての干渉を跳ねのけることができる場所など存在しない。既存という概念を外してしまえば、それは絶対的に不可能だ。
 そうだ。あの真賀田研究所ですら、そうだったのだ。
 電子メールに隠されたメッセージ。テレビのアンテナに隠された通信機器。
 それを、人は見逃した。
 そして、何よりも、彼女自身。
 そう、トロイの木馬。
 誰も、気付かない。誰も、思いもしない。
 木馬が、木馬でなかったことに。
 木馬に、なれなかったことに。
 渉は、深く息を吐く。
 黙想。とめどなく、それを重ねる自分。
 そうだ、時間はなかったのではないか。
 今は、もう。渉は頷く。
 行動する時だ。そう、決めたのだ。
 そうだ。検討は既に終わっていた。
 目算はある。だが、勝算などなかった。
 それは、関係ない。
 試してみるだけ。
 やって、みるだけだ。
 
 


[432]長編連載『M:西海航路 第三十四章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時26分 Mail

 
 
 渉は時計を見る。既に八時を回っていた。
 油断していた自分に気付く。渉は首を振って起き上がった。そのまま、扉に歩く。
 黄色いドア。そこには、何もない。
 閉ざされたドアの前で、彼は待った。
 可能性。
 ほとんどないと言ってもいいだろう。
 限られた手段の中でも、もっとも無謀なもの。
 だが、俺は。
 そう、決めたのだ。
 価値がある、ないではない。
 価値など、関係ない。他人のそれであれば尚更である。
 ただ、理由がある。
 そうしたいと思う、訳がある。
 だから、試してみる。試すと、決めた。
 冷たい予言が、渉の心を震わせる。
 そうだ、時間はない。もう、十六時間を切ったのだ。
 その瞬間。
 それが、訪れる。
 渉は、見た。
 黄色いドアが、音もなく開く。
 持ち上がる。それが、ほんの……少し。
 十センチ。そして、二十センチ。
 そして、止まる。
 彼は、それを、目撃した。
 待っていた、待ち望んでいた、瞬間。
 目の前の、現実。
 黄色いドアが、開く。
 渉は、勇む自らを抑えきれない。
 だが、今は辛抱すべき時だった。
 息を殺し、そして、待つ。
 そうだ、ほんの少し。それは、わずか数秒。
 ほとんど間を置かずに、それが現れた。
 トレイ。食事の乗った、見慣れたそれ。既に二度、彼の前に現れたトレイだった。
 それが、ゆっくりと差し入れられてくる。
 堅い床に置かれ、滑り込ませるように。
 手は、見えない。誰かも、わからない。
 渉は、ガウンのポケットに入れた時計を思う。
 そうだ。それは、関係ない。誰であろうが、関係ない。
 差し入れられたトレイが、完全に部屋に入る。
 渉の手が、ピクリと動く。
 だが。
 その瞬間、渉は見た。
 白い、何か。
 手袋だろうか。手、だった。人の手に、間違いない。
 白く細い、それだった。
 それを見定める前に、認識する前に、彼は行動していた。
 でなければ、すべてが失敗していただろう。それはまさに、刹那のタイミングだった。
 伸ばされた彼の手が、黄色いドアの向こうにある手を握る。
 手首を、掴む。
 驚愕。
 その驚きは、想像を絶した。
 あまりのことに、渉は力を失いかける。
 その手は、それは……
 人ではない。生身のそれではない。
 堅い、明らかに硬質の感触。さらには、角張ったそれ。
 呆然とし、そして、渉は何をすべきかを忘れた。
 やるべきことを、言うべきことを、忘れる。
 そうだ、名前を……
「誰ですか?」
 それは、追い打ちというには、あまりに遠慮なく彼を襲った。
 女の声。
 それは、彼が知る者の声。
 忘れようもない、声。
 渉は震えた。わななきが、思考すらも奪いかける。
 そして、その中で……
 彼は、発した。
「ミチル!?」
 どんな意識が、それを導いたのか。
 どれだけの思いが、それに込められているのか。
 渉には、わからない。
 沈黙……
 いや、違う。
 それは、なかった。
「はい、私はミチルです。」
 それは、同意。
 それは、肯定。
 それは、自認。
 その矛盾が、答えを導き出す。
 渉の記憶が、感情が……
 すべての意識が、稲光の如くにスパークした。
 そうだ、それは……
 違う。
「本当に、あの……」渉は、続く言葉を見つけられない。「……ミチル、なのか?」何かが、震える。「本物、の……?」
「本物?」即答。そして……そこに秘められた、かすかなイントネーション。
 渉は、すべてを理解する。
 何という……
 何という、皮肉だろうか。
 だがそれは、渉にとって否定的な……負の意義を持つものではない。
 いや、むしろ、それは……
「ミチル。」
「はい、私はミチルです。」まったく同じ、響き。「貴方は、誰ですか?」
「俺は……」言いかけて、渉は口を閉じる。そして、再びそれを開いた。「……私は、渉です。」
「貴方は、ワタルです。」彼女が発する声。それを、彼は聞いた。
 既視感。デジャヴが、再び渉をさらいかける。  
「ワタルは、どこにいますか?」
 再び、息が詰まる。
「ミチル……?」
「ワタルは、どこにいますか?」
 その声が、桐生渉をわななかせる。
 その、声が……「ここにいるよ。」渉は口走る。考えるよりも、先に。「ここにいるんだ、ミチル。俺が、渉だよ。」そうだ。それを止められるはずはない。そんなことができるものか。
「はい、貴方はワタルです。」声が、戻る。「ワタルは、どこにいますか?」
 三度。それは、彼を打ちのめした。情け容赦なく、深々と。
 自制心。それは、感情の荒波から彼自身を守るために、最大限の力を発揮した。
「ここだよ。すぐ目の前だ。ここに……」そして、それがようやく、彼の心を鎮めることに成功する。「……そうか。ミチル……今そこに、誰がいる?」
「誰もいません。」ミチルは即答した。「ワタルは、どこにいますか?」
 安堵が押し寄せた。それは、不思議な感覚だった。
 そうだ、嬉しい。理解したということだろうか。何が嬉しいのか。
 とにかく、渉は長い吐息を終えると、ゆっくりと言葉を発した。
「ミチル。そこには、誰もいないんだね?」
「はい、誰もいません。」ミチルは即答した。「ワタルは、どこにいますか?」
 渉の胸が、何かで一杯になる。だがそれを、彼は懸命に押さえつけた。
「ミチル、このドアを開けることができる?」渉は言う。心臓が高鳴っているのがわかる。だが、その上で冷静にならねばならない。
 そうだ……「はい。」ミチルは即答した。
「なら、ドアを開けてくれ。」渉は言った。「ミチル。このドアを、開けて欲しい。」
 その途端、渉は片手に異様な感触を受けた。思わず、手を放す。しまったと思いかけて……そして、それは、あまりに劇的に払拭された。
 黄色いドアが、音もなく開く。
 早すぎて見えなかったのか。それとも、混濁とした意識がそれを捉えきれなかったのか。
 渉がそう意識した時に、ドアは既に開いていた。
 開放。いや、解放だろうか。
 あまりにあっけなく、それは、成し遂げられた。
 渉は半ば呆然とする。自分が成したことを、受け止めきれずに。
 そして、彼は見た。
 もう一つの部屋。こちらの部屋よりもひとまわり大きいが、照明は暗い空間。人は誰もいない。そしてその先に、二つのドアが見える。
 だが今、彼の目を捉えたのは、それではなかった。
 目の前にいる、それ。
 いや、それは……『彼女』だろうか。
 大きさ、高さは……約一メートル。片膝をついた今の渉よりも少し小さい、それ。
 違うな、と渉は思う。いや、変わっているのだろうか。
 かつて彼が見た、ミチル。
 その名を持っていた、ロボット。
 真賀田研究所の最深部。あの黄色いドアの向こうにいた、ただ一人の……
 渉は、笑う。そして、大きく首を振った。
 ミチルは、かなり変貌していた。だが、まだ原型は留めている。いや、こういったものの概念を渉は明解にしてはいない。だが、なんとなく以前の形が思い出せる。
 剥き出しのさまざまなパーツで構成された胴体。特徴的な、フレキシブルなマニピュレーター、そして、下には移動用の数機の車輪。さらに頭部に当たる部分に、いくつものカメラとセンサ。臙脂に……あるいは青く明滅するそれを、渉はじっと見つめた。
 そして、カメラが動く。それが、こちらを向くのがわかる。
「貴方は、誰ですか?」
 渉は、ほほえんだ。
「私は、渉です。」そして、続ける。続けたかった、言葉。「貴方は、誰ですか?」
「私は、ミチルです。」
 それは、嬉しそうな声ではなかった。無論、抑揚はある。しかし、それはどこか淡々とした……堅い調子を秘めた声だった。
 だが。
 渉は再び、目を閉じる。
 手の中の、それ。聞こえてくる、感じられる、音。
 そして、聞こえる、声。
 スクリーン越しに聞いた、あの声ではない。そうだ、あんなものであるはずがない。
「貴方は、ワタルです。」
 それは、彼女の声だった。
 間違いない。
 彼女の、声だ。
 万感が、桐生渉を満たす。
「そうだよ。俺は、渉だ。そして……」再び、それを、口にする。
 用意していた言葉ではない。試そうと思っていた言葉ではない。すべては既に、大きく違えている。何もかもが、変わってしまった。予期せぬまま、まさに、一瞬にして。
 何という転機だろう。あまりにも、それは突然だった。
 だが。渉は、笑う。
 それは、当り前のことだ。
「……君は、ミチルだ。」渉は、言った。
 何度でも、何度でも、そう言えただろう。
「はい、私はミチルです。」
 それは、素朴な答えだった。
 それが、渉を頷かせる。
「ミチルは……」渉は、それを呑み込む。「……ミチルは、ひとり?」
 それは、用意されていた詞。
「ひとりは、孤独です。」
 何かがざわめく。渉は言葉を続けた。
 それは、あの時……あの夏の、言葉だった。
「孤独?」
 待つ。それを、待った。
 期待があった訳ではない。予測していた訳ではない。
 だが、それでも……
 即時、それは戻った。
 瞬間と、永遠。
 その場の反応にしてみれば、まさに半秒もない返答。
 彼にとっては、一年を越えた時間を経たそれであった。
 そう。十五ヶ月の時を越えて、再び。
「孤独は、最高の自由です。」
 答えは、そこにあった。
 
 
 


[433]長編連載『M:西海航路 第三十五章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時26分 Mail

 
 

   第三十五章 Marionette

   「話したら、教えてくれる?」


 扉を閉めると、桐生渉は安堵の息をついた。
 合計、三つのドアを越えたろうか。小さな部屋と短い通路を経て現れた、見慣れた船内の通路。そこに至り、渉はようやくそれを実感できた。
 外に、出られたのだと。
 窓はない。外気も感じられない。そこはただの通路だった。薄暗い照明に照らされた、回廊の一角。
 だが、聞こえるものがある。感じるものがある。
 それは音と、そして振動だった。重苦しい、響き。打ち返すように、それは、彼の足下を確かに震わせている。見える訳ではない。それらは、聴覚と触覚でのみ彼にそれを伝えていた。
 聞き慣れた、駆動音。スクリューだろうか。それを鳴動させる……船を動かしているエンジンの音。重苦しく、そして呼吸するように同じ響きを繰り返す心臓の如き音が、渉の全身に伝わっていく。その、今日までの四日間で幾度となく感じた響きが、渉を形容し難い安心感に包んでくれた。
 今いるここが、本物であると。
 そうだ。ここは間違いなく、船の中なのだ。航海を続ける、客船の中なのだ。
 そう確信を抱くことで、渉は疑いを……ずっと疑念を抱いていた自らの意識の存在もまた、認識した。そうだ、俺は疑っていた。もしかすれば、今の今まで自分がいた場所は、海の上ではなかったのかもしれないと。かすかな揺れを感じようが、それだけでは何の確証も得られない。あの……そう、意識が途切れて目覚めた後に目にした、感じたすべて……鮮血に染まった赤い部屋、あるいは単色に塗り込められた白い部屋だろうか。あれらで起こったこと、あのすべては本当にあったことだったのか、本物だったのかと、ずっと疑い続けていた。心のどこかで。
 だが今、この肌で感じる音が、重厚な響きが、渉のそれを払拭する。
 なんと単純なことかと渉は笑った。そうだ。目にした訳ではない。だがそれでも、これを耳にすれば、感じることができれば考える余地などない。この響きは、間違いない。何度となく感じ、時にうるさく、時に心地好いと思えた、揺れと響き。
 今俺は、『月の貴婦人』号の中にいるのだ。
 だがしかし、どうしてそう思うのかと自問してみれば、その根拠はすべて過去からの積み重ねにしか過ぎないと渉は思う。今までの経験が、記憶が、各々の場所で感じたそれが、それらのデータに照らし合わせてこれは間違いない、ここはきっとそうであると、俺に認めさせているのだ。
 過去が、過ぎ去った時間が、人に現実を与えている。
 渉は軽く目を閉じる。響きは、消えない。目を開いても、目の前の船内通路は変わっていない。彼の世界はそのままだった。消え去りも、歪みもしない。それは現実で、そして事実だった。
 果敢ないかもしれない。一部しか見せてくれないかもしれない。
 渉は、笑った。そして、傍らに視線を落とす。
 そこにいる、彼女に。
「ミチル。」
「はい、私はミチルです。」
 躊躇のない即答が、渉の腰までの高さしかないロボットから発せられた。
「出してくれて、ありがとう。」
「ありがとう?」
 渉は思わずほほえむ。「ありがとう、は感謝の言葉だよ、ミチル。」ゆっくりと、言う。「嬉しい時、お礼を言いたい時に、そう言うんだ。」
「そういうんだ?」
 渉は笑みを強める。苦笑した訳ではない。そんなはずはなかった。
 そうだ。どれほど、大変なことか。どれだけ、難しいことか。今更のように、いや、今初めて、俺はそう認識した。意識した、と言ってもいい。
 至難だ。どこまでも、それは難しい。
 渉はそこで、ふと思う。ありがとうと言われたら、彼女は……どう答えるだろう。
『どういたしまして。御用の際は、何なりとお申しつけ下さい。』こうだろうか。桐生渉はかつて聞いた女声を思い出し、そこでさらに別の女性を……生身の人を、思う。
『勘違いを上手にしてしまうようですが?』渉は、その流暢ながらも滑稽なフレーズを回想し、思わず笑った。
 そう、彼女もそうだ。
 だが、それでも意思は通った。意識することができた。二人ともに、俺と話ができた。そして、俺はそれが嬉しかった。
 だから、今も、嬉しく思っている。
「ミチル、この廊下には誰もいない?」渉は尋ねた。
「いいえ、ワタルがいます。」
「渉の他には、誰もいない?」
「はい、誰もいません。」ミチルは続けた。「ワタルは、孤独ですか?」
「ああ、俺は自由だよ。最高に、ね。」
 言って、渉は笑った。
 孤独、か。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。
 なぜなら俺は今、一人じゃない。ここに、ミチルがいる。確かに彼女は機械で、ロボットであるかもしれない。プログラム通りにしか反応しない、バッテリーで動く無機物かもしれない。
 だが、彼女は生きていないだろうか。生命を持っていないだろうか。
 大切なもの。かけがえのないもの。何よりも崇高で、意義のあるもの。
 それが、命?
 渉は、瞳を閉じる。あまりの皮肉に。
 ならば、どうして命は奪われるのか。人は、殺されるのか。
 人の命よりかけがえのないものは、この世にないのではないのか。それは何よりも大事で、どんな物品、時事にも優るものではないのか。一人の人間の命は、地球よりも重いと断じる者もいる。ならばそれを、どうして消さねばならないのか。奪わねばならないのか。
 それは……
 過るイメージが、渉の目をかすかに震わせる。
 車椅子の老人。そして、青い瞳。
 再会の、詞。
 彼女は、確かに、いた。
「ミチル、この船の構造はわかる?」言って、渉は首を振る。「違うな。ここのデッキの番号は?」
「デッキ番号は、Fです。」
 渉は軽く身震いした。「F?」
「Fは、すべてです。」
 渉は驚きの目差しでミチルを見た。
 機械。それは、微動だにしていない。センサもカメラも、畳まれたマニピュレーターも。
 ただ、声だけが聞こえる。
 彼女の、声。
 F。
「すべてが……」わななく。どうしようもなく。「……Fになる?」
 それは、彼の声。
 発せられた、言葉。
 紡がれた、詞だった。
「ワタルも、Fになる?」 
 その答えに、渉はぞっとした。
「違う。」言葉が噴出する。「違うよ。俺は違う。渉は、Fにならない。決して、ならない。」そうだ。渉はうわごとのようにそれを口にする。「違う。違うんだ……」
「Fに、ならない。ワタルは、違う。」ミチルはあくまで静かに告げた。
 渉は、何かを振り払うように首を振る。暑さなど感じないのに、汗めいたものを感じる。今は何月だろうと考え、そしてさらに、俺はここで、何をしているんだろうと思う。
 そうだ。急がなければ。渉は自嘲めいた感覚に、さらに激しく首を振る。「ミチル、ここから……Fデッキから移動したい。エレベータはどこにあるか、わかる?」言ってしまって、伝わるのかと思う。
「エレベータは、あります。」ミチルは言った。「ワタルは、どこに行きますか?」
 渉は自分の言動に苦笑する。部屋を出て……そして、ここに来るまでに推測したことが正しいと理解する。
 ミチルは、常に要点のみを認識する。彼女に、中庸はない。中途半端な言葉など、必要ないのだ。
 ただ、結論があればいい。迷うことのない、それが。それを、ミチルは可能か不可能か解釈する。前例を……蓄積された、自分のデータに照らし合わせて。
「俺は……」渉はそこで、言葉を止める。
 俺は、どこに行きたいのか。
 部屋から出たい。今、ついさっきまでの願いはそれだった。そして、ミチルはそれを遂げてくれた。黄色いドアを開き、人のいない部屋を通り、この……おそらくはこのデッキのメインであろう通路にまで俺を誘ってくれた。それらすべては、『部屋から出たい』という俺の言葉に反応したものだ。
 そうだ。あの部屋から、密室から出ることができた。渉はそれを認識する。ならば、あらゆる意味で、ここから動かなければならない。でなければ、あの部屋から出た意味がない。
 渉は再び、自らを笑う。それをするために、そうしたいから、俺は部屋を出たのではないのか。手段に意味があるのか。それが意外すぎる顛末によってもたらされようと、そうでなかろうと、今自分がここにいることを重視すべきだろう。
『私はこれから、どうすればいい?』
 声は、渉の中に静かに響いた。
「ミチル。ここはFデッキだね?」
「はい、ここはFデッキです。」
 渉は頷く。「なら、部屋番号……B、0、2だ。」渉は記憶の中からそれを取り出す。そう、カサンドラ……彼女が告げた、記憶の中にある客室の番号だった。「Bデッキの、02船室だね?俺は、そこに行きたい。場所はわかるかい?」
 途端、ミチルは動き出した。返事もなく、唐突に。渉は驚き、そして微笑してそれに続いた。
 そうだ。脈絡は必要ない。ただ、要点だけがあればいい。
 人は、それで生きていける。それ以外は、ただの装飾に過ぎない。
 ミチルの移動する音は実に静かだった。ゴムタイヤなのだろうか。それは前に見た時よりも数を増やし、さらには小型化されており、しかも凸凹を含めた傾斜に対応できるようになっているようだった。ミチルの速度に合わせるために、渉は早足になる。
 だが。「ミチル。」渉は彼女を呼び止めた。ミチルは数メートル先でピタリと停止する。
「はい、渉はミチルです。」
「今、ここには、渉以外に誰もいない?」
「はい、誰もいません。」ミチルは即答する。
「ミチル。渉以外の誰かがこのデッキにいたら、すぐに教えて欲しい。」もっといい言い回しはないかと渉は考える。「渉でも、ミチルでもいい。一人でなくなったら、すぐに教えてくれないか。」
「誰もいません。」ミチルは淡々と答える。「ワタルは、ひとりです。」
「わかった。」渉はほほえむ。「ミチル、B02船室に向かってくれ。」
 ミチルは再び動き始めた。渉は続く。
 時間を確認した。時刻は八時半を過ぎている。渉は、自分があの部屋にいないことがいつ気付かれるだろうかと考えた。ミチル……そう、このロボットを送った者が、彼女が戻ってこないことに気付いた時だろうか。だが、それならばもう既に騒ぎになっていてもよさそうである。ならば、次に食事のトレイを片付ける時なのだろうか。だとすれば、それは早くて九時か十時……遅ければ明日の朝になるのだろうか。
 いや、その前に俺の……渉は苦笑いをする……あの部屋に来客があれば、それで終わりだろう。今日一日で対面した数多くの人間達を思い、渉はきっとそうだろうと認める。悴山女史か、あるいは船長かもしれない。とにかく、それまでが勝負だ。その間に、俺は為すべきことを為さねばならない。もしくは、安全な場所に身を隠す必要がある。
 安全な場所か、と渉は歩きながらまた笑う。どこが、どういう風に安全なのだ?安全というなら、今さっきまでいた場所が、最高のそれではなかったか?何に照らし合わせて、俺は安全だと言いたいのだ?
 ミチルが角を曲がる。渉はそこで足を止め、九十度に曲がった通路の先を覗き込んだ。ドアが幾つかあり、人はいない。そこを、ミチルが進んでいく。その動きはあまりに飄々としており、周囲のことなどまるで眼中にないようだ。渉は半ば苦笑いをしてそれらの部屋のドアを見、通路の明かりと比べてドアの隙間等から光が漏れていないかを見極めようとした。
「ワタルは、行かない?」前方からミチルの声が届き、渉は仰天した。慌てて、走る。無論、最大限に音を潜めて。
「行くよ、ミチル。」廊下の突き当たりに停止したミチルにたどりつくと、渉はしゃがみこんで囁いた。「ミチル。このあたりに……誰もいないかい?」ここから、通路は二つに分岐している。それらの先に誰もいないことを確かめながら、渉は通り過ぎた……背後のドアを油断なく窺う。今にもそこから、声を聞きつけて何者かが出てきそうだった。
「はい、誰もいません。」
 渉は今一度息を殺す。見えるドアは、四つ。客室ではなさそうだった。「ミチル、あのドアの先に……部屋の中に、人はいない?」
「はい、誰もいません。」ミチルは再び即答する。あまりにも、簡潔に。
 渉は唖然とする。「本当?」
「本当は、嘘ではないこと。」ミチルは言い、渉は絶句した。
「わかったよ。ミチル……ここの部屋のドアを、開けられる?」
「はい。」
「なら、部屋のドアを開けてくれ。」
 途端にミチルが動き出した。互い違いに四つ並んだドアの一つ、一番近くにあるそれの前まで行くと、停止する。そして、数秒が経過し……
 ドアが、不意に開いた。鍵が開いたのではない。ドアが、いきなり開いたのだ。
 渉は驚き、今いる場所から分岐する通路の一本……その暗がりへと飛び込む。そして、身を翻して今いた廊下を覗いた。誰かが出てくるのだろうか。渉は息を呑んでそれを待ち、そして……ミチルが動いた。渉が訝しむ前で、ミチルは新たなドアの前に進み、そして停止して数秒後……その部屋のドアが、いきなり開く。
 渉の背中を、冷汗が流れ落ちた。
 ミチルは、何もしていない。そう思えた。彼女は、何も動いていない。マニュピレーターも動かしていない。
 だが、それは違う。それを知り、渉はようやく何が起こったかを理解する。センサだ。この船のすべての部屋と同じように……ここにあるドアの横にも、青白いカード認識用のセンサがある。おそらくミチルは、それに対して開閉を指示する赤外線か何か……こちらのカード等を感知して作用する機構と同じく、特定の波長の光を照射しているのだろう。テレビのリモコンのように。
 同様に、渉は先程までいた自らの部屋とその先のドア……通路に出るまでに抜けて来たドアのことを思う。それらはすべて渉自身が(鍵がかかっていないというミチルの言葉を聞いた上で)自らの手で開けていた。だが実際、ミチルは鍵を開けることを含めて、ドアそのものを開くこともできるのだろう。おそらく、この船のドアはどんな外見にしろ……すべてが、自動的に開閉する能力を、そのための開閉機構を有しているのだ。
 渉は自分の部屋を思う。そうだ、あのロイヤルスイートの……古めかしいノブを持つ木彫りのドアですら、自動的に開いたではないか。
「ミチル、もういいよ。」渉は低い声で言った。「部屋のドアを、全部閉めてくれ。」
 ミチルは即時行動した。今度は、開いた部屋の前に進む。そして、数秒立ってそれが閉まる。今までと順番を逆にして、ミチルは開いたドアのすべてを閉めていった。
「ありがとう、ミチル。」ミチルが戻ってくると、渉は思わずそう言った。「君の能力は凄いな。どんなドアも開閉できるんだね。」
「ありがとうは、感謝の言葉。」
 渉は笑う。「そうだよ。それじゃミチル、行こう。」渉は暗い通路を見る。「B02船室に、向かってくれ。」
 ミチルは再び動き出した。渉は小走りにそれに続く。
 どうしてだろうか。妙に、不安がない。このデッキに……おそらくはかなりの下層の……しかも小規模なデッキに誰一人船員がいないことが、いや、そもそも殺人犯であるはずの俺が閉じ込められた部屋に対して、誰一人見張りがついていないということが、とてつもない不安感を抱かせる要因ではなかったか。
 そうだ。俺は疑っていた。ミチルの助けで部屋を出ることになってすら、まだ。
 これが、罠ではないかと。そうだ。あの時と……あの血塗られた部屋のそれと同じく、俺を填めるために、誰かが仕組んだことではないかと、疑っていた。
 現に俺は、こうしてあの部屋から……拘置されていた場所から出ている。それは無断で、無許可な行為だ。はっきりと、逃走したと断じてもいい。そしてそれは、俺が自分の罪を認めたからだと思われても仕方のないことだろう。だとすれば、俺がこうしていることは、俺を有罪にしたい何者か……いや、有罪だと思っている者にとっても、格好の出来事に間違いない。
 だから、俺は疑った。ミチルを……このロボットを見てすら、俺は、疑っていた。
 北河瀬、そして宮宇智……男性や女性、老若男女様々な人物の顔が、言葉が、渉の脳裏を過る。そうだ、可能性はない訳ではない。誰もがそうで、それは、どれも完全に拭われていない。だから俺は、疑った。
 だが、今は違う。それは、確かめたのだ。
 それが、その答えが、あったから。
 勿論、わかっている。そうだとしても、罠かもしれない。誰かが今も、俺を見ているかもしれない。そして、ほくそえんでいるかもしれない。すべては、計画されているのかもしれない。俺は、知らずして操られているのかもしれない。正しいと信じながら、誰かの書いた筋書きに従わされているのかもしれない。
 だが、それらのリスクを背負ってでも、やるべきことがある。したいことがある。すると、決めたことがあるのだ。
 俺は、行かなければならない。
 そして、時間はもうない。そう、明日の正午までに……
 それを、遂げなければならない。
 渉は笑った。何という矮小さかとも思う。進み続けるミチルに伴走しながら、渉はかすかに首を振り……そんな中で、ふっとどこか胸を張りたいようなイメージを宿す。
 彼女を、信じる。
 その言葉が、渉の中に誇らしげに響いた。 
 そうだ。
 だが、どうしてだろう。どうして、信じられる?
 ガウンのポケット。そして、目の前のロボット。
 それが、それらが、信じるに足る物証なのか。
 渉は、首を振る。違う。だからとか、そうであるとか、そんな理由はいらない。根拠など、いらない。
 今は、ただ……
 できるから、するだけだ。
 ミチルが止まる。そこには、エレベータ・ホールがあった。小さなホールだ。渉は油断なく辺りを見たが、誰もいない。エレベータは二基あり、ミチルはその一つの前で停止している。
「ミチル……」渉は声をかけようとして、そして、それを止めた。
 エレベータの一つが、動き出している。
 上にある、現在位置を報せるライト・パネル。
 それが、変わっていく。
 1から9までの、九つのアラビア数字。
 そして、AからEまでの、六つの英字。
 それらが明滅するように現れ、そして、変わっていった。
 A、B、1、C、D、2、3、4、5、6、7、8、9、E。
 整然としてはいない。それは、むしろ混沌としていた。
 何者が、こんな付け方をしたのか。
 どうして、こんな順番なのか。
 渉がそれについて考える前に、ライトの光が最後のそれを示した。
 F。
 扉が開く。渉は身を隠す暇もない。
 だが、それは無人だった。中型のエレベータの中には、誰もいない。
 ミチルが乗り込む。カタンと、車輪が小さな音を立てた。
 慌てて、渉も続く。ミチルが方向転換をし、ドアに正面……なのだろう……にあるカメラを向けた。渉はその後ろに移動し、センサの邪魔をしないようにする。
 数秒の後、ドアが閉まった。そして、エレベータが動き始める。
 まるで芝居を見ているようだと渉は思った。ロボットに連れられて……案内されて、俺は見知らぬ客船の船内を移動している。まさに映画……SF映画のようだ。何もかも、できすぎている。本当にこれでいいのか。これが、正しいのか。
 それに答える者はいない。
 だが、それらを経てなお、これは彼にとっての現実だった。おそらくは今から起こることも、そうだろう。渉は、今更のようにそれを認める。
 そして、エレベータが停止した。渉は顔をあげる。そこにある、Bの英数字。
 早すぎる。何もかも、早い。一つ一つを吟味する暇さえない。渉は思い、そして、気付く。
「ミチル、ドアを開けないでくれ。」聞こえたのだろうか。ドアは開かない。「ミチル、このデッキに……」渉は首を振った。「……Bデッキに、人はいない?」
「いいえ、人はいます。」ミチルは即答する。
「俺は……」渉は考える。「渉は、一人がいい。B02の船室まで、ワタルは、一人でいたい。わかるかい?」
「ワタルは、ひとり?」ミチルは静かに問う。
「そう。渉は、ひとりがいい。」渉は、かすかに痛みを感じる。「渉は、ひとりのまま、B02船室に行きたい。」
「ワタルは、孤独?」
「そうだよ。渉は、自由がいい。最高に自由なまま、B02船室に行きたい。」
 ミチルは黙した。いや、違う。渉は知る。
 ドアが、エレベータのそれが、開き始める。
 渉は意を決して、それに望んだ。俺は、ミチルを信じたのか?その思いを、自分で笑い飛ばす。
 そうだ。そんなことは考える必要もない。それは、端から自明だ。
 ドアの向こうには、小さなホールがあった。さっきの……Fデッキのそれよりは遥かに大きく、装飾も施されている。さらなる安堵の感覚と、そして戦慄めいた思いが、渉に押し寄せてきた。
 そうだ、ここは船の上層に当たるデッキだ。そして、ここには間違いなく、人がいるはずだ。
 渉は油断なくホールと、そこから続く通路を窺った。相手がセキュリティでなければ、対処の……対応のしようはある。
 だが、そこには誰もいなかった。渉はほっと息を漏らす。
 そんな中、ミチルが動き出した。つかえることもなく、彼女はエレベータから出ていく。渉もそれに続き、そして周囲を見回した。間違いない、と思う。渉がかつて訪れたことのある、Bデッキだった。そう、確か航海初日、朝食……船長や瑞樹とテーブルを囲んだ、あのグリルのあるデッキだ。
 それは、御原健司と出会った場所。
 渉は油断なく周囲に目を配る。ここはそれほど大きなエレベータ・ホールではない。辺りには人影はなく、ネットワーク端末が一つだけ見える。どうしてか、そのパネルが懐かしかった。思わず、渉はあることを考える。だが、そこで彼はもっと別の事実に気付いた。
 デッキ全体が、ひっそりとしている。夜だからか。いや、だが、まだ深夜ではない。今はまだ……そう、九時になるかならないかという時刻だ。この船は、仮にも豪華客船である。あちこちで、きっと宴もたけなわだろう。
 ならば、どうしてここまで静かなのか。
 その静まり返った通路を、ミチルが進んでいく。渉は見失わない……いや、声をかけられないように、慌ててそれを追った。
 そして、さらに気付く。いや、思い出す。
 悴山女史、そして村上船長が告げた言葉。
 昨日の騒ぎ。上層デッキの閉鎖と、船客の移動。そして、日を違えた、明日の式の準備。
 なるほどと、渉はこの状況に納得する。さらにそれを転じて、彼はある予測に至り愕然とした。
 そうだ。特等を含め、上部に位置するデッキの船客がすべて移動したとすれば、俺が今向かっている部屋も、既に空室ではないのか。
 そう、彼女……九条院瑞樹の部屋も。
 何という愚かさかと、渉は自分を叱咤する。瞬間、渉は声を……ミチルに命令をしかけた。
 だが、それを寸前で思いとどまる。
 そうだ。聞いてどうする。もしもそれを知らされたとして、ならば、どうする。
 それを、信じられるのか。
 この目で見ること。体験すること。
 渉は黙し、歩んだ。ミチルはデッキの廊下を軽やかに進んでいく。渉は、その皮肉さに笑った。そうだ。考えてみれば、これもまた格好の状態じゃないか。まさに、俺が移動するために、都合良く状況が……言わば、舞台が演出されているようだ。結婚式がどこで行われるかは知らないが、今はおそらく、ほとんどのスチュワードがそちらにかかりきりなのだろう。だから、閉鎖されたこのデッキに、人はほとんどいない。客も、いない。
 まさに、すべてが仕組まれているようだ。
 ミチルを追って歩きながら、渉はその思いに笑った。
 自由であること。そう、思うこと。束縛されていると感じること。
 それらもまた、人の持つ自由だ。
 ミチルが角を曲がる。渉はそれに続いた。
 さっきの命令を理解しているのかいないのか、ミチルは不規則にも思える道順を辿って、角を幾つも曲がっていく。渉はそれに小走りで続きながら、追いつかない考えを巡らせるのを止めた。
 そうだ。信じればいい。今はただ、そうしよう。
 そして、それが、現れた。開け放たれていた大きな扉の先……廊下へと踏み込んだ、渉の前に。
 ほのかにきらめく、暗い世界。照らし出すのは、淡い月の光。
 日は、もうない。ただ、音が……終わることのない波のさざめく音が、視覚だけでなく、聴覚を以って彼にそれを伝える。いや、目や耳だけではない。磯の香り、そして漂う外気がもたらす、どこか甘酸っぱい大気の肌触りと味……渉の五感すべてが、それを伝えた。
 現実。目の前にした光景が、本物であると。
 それは、渉が先刻確証としたエンジンの響きを遥かに越える強かな印象で、渉を安堵させた。いや、安心できるなどという程度ではなかったかもしれない。それははっきりと、彼の五感からその内奥に……心に入り込み、確固とした意識となって、桐生渉に認めさせていた。
 ここが、海の上であると。今までのすぺてが、誤りではないと。すべてが、本当に起こった出来事だったと。
 過去が、現実によって確認される。蓄積された時間が、それに繋がる。 
 渉はそれを認め、大きく吐息を漏らした。
 だがそれは、考えてみればとてもあやふやなデータだ。今いる場所が、この海がどこの海か、俺は知らない。今、この船がどこを航海しているのか、俺はまったくわからない。ただ、横浜から……日本からアメリカのハワイに向けて航行していると、そう思っているだけだ。だから漠然と、ここは太平洋のどこかなのだろうと思っている。辺りに標識がある訳ではない。見渡す限り、他の船もいない。海図や六分儀などで、位置を確認した訳じゃない。ただ、何となくそう思っているだけだ。
 いや、それは俺だけじゃない。おそらくは、この船に乗っている乗客のほとんどがそうだろう。そして加えれば船員の一部も間違いなくそうであり、彼らはすべて、そうなるのが当り前だ、そう聞かされたから、そう思っているのだ。
 俺と、同じように。
 どれだけ、それと同じことがあるのだろう。どれだけの事象を、人は確実に捉えているのだろう。人から伝えられたそれでなく、自ら知り、理解できたことは、どれだけあるのだろう。ただ与えられたデータ、膨大なその一部を知り、それで自分が多くを理解したと信じて、それに安堵して、ただそれだけで、人々は生きているのだ。人は、生きていけるのだ。人類は、生きてきたのだ。
 世界は、広すぎる。渉は、夜の海をじっと見つめてそう思った。
 だが、それでも、目の前の光景はあまりに強烈だった。美しかった。大きな月に照らされた、黒い海は。 
 そうだ。これは、現実だ。だから、それを信じられる。そうだと、思っている。
 俺は……
 
 


[434]長編連載『M:西海航路 第三十五章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時27分 Mail

 
 
 気が付くと、ミチルが止まっていた。渉は我に返る。呆然として立ち止まっていたのに、声をかけられていないのが不思議だった。
 そして渉は、今自分がいる場所に気付いた。
今までと雰囲気が違う……華やかと言えばいいだろうか。船の外壁に位置するこの廊下や、壁に備えられた照明も、今までにも増して細かな装飾を施された贅沢なものだった。
 そして、少し先で止まっているミチルの前に、一枚のドアがあった。一つ先のドアまでかなりの間隔が開いており、それらの扉には、これもまた見事な彫刻が施されている。あのロイヤルスイートのそれに似ていると渉は思った。そして、ドアの横にはお決まりのセンサと、ナンバー・プレートがある。渉はその、ミチルが止まっているドアの前まで進むと、それを見つめた。
 B02。
 なるほど、と思う。今更のようにそれに納得する。デッキの番号と、二桁の数字で表された部屋番号。ここはBデッキの02号室ということであろう。
 そしてここは、九条院瑞樹が泊まっている船室のはずだった。いや、泊まっていた、かもしれないと渉は思う。そして、笑った。
 確かめるだけだ。そう、俺は確かめるために、ここに来たのだから。
 確かめる?渉は、また笑う。
 そうだ、本当は……
「ありがとう、ミチル。」渉は言う。
「ありがとうは、感謝の言葉。」ミチルは即座に答える。それが、その詞の意味を知っていることを自慢しているように聞こえて、渉は思わず吹き出しそうになる。
 だが。渉は気持ちを切り替えた。今は、目の前の現実に……ドアに集中すべきだろう。
 渉は、息を吸った。背後から聞こえる、海のざわめき。それを聞きながら、息を吐く。もう一度だけそうすると、意を決して手を持ち上げた。
 そして、ドアを叩く。
 しばらく待った。答えはない。渉は、もう一度ドアをノックする。「九条院さん?」
 また少し、待つ。だが、答えは返らなかった。
 いないのか。やはり、そうなのだろうか。
「ミチル、ここに人はいない?」
「いいえ、人はいます。」ミチルは答え、渉は自分の愚かしさに心中で呆れる。
「違うんだ。このデッキには、人がいるね?」
「はい、人がいます。」
「それじゃ、ミチル。この部屋……B02の中には、人がいる?」
「はい、人がいます。」
 ミチルの即答に、渉はかすかな震えが来るのを抑えきれなかった。
「何人?」思わず、口走る。「ミチル、この部屋の中に、何人の人がいる?」かつて、ある人物から指摘されたことを渉は思い出す。何人の人、という言い回しは、正しくないと。
「人は、ひとりです。」ミチルは、静かに答える。
 人は、ひとり。渉は戸惑いを隠せない。人は……「誰がいるか、わかる?」さらに、続けた。「部屋の中の人は、誰?」
 ミチルは黙した。いや、一秒も経たないうちに、彼女は返答していた。おそらくは、最も明瞭な方法で。
「誰ですか?」
 ドアの向こうにかけられたその声に、渉は戦慄した。「ストップ。ミチル、黙って。」周囲を見回す。照明の光度はそこまで上げられていないとはいえ、外壁に位置するここは十分に明るい。今にも周囲の角や廊下の先、はたまたドアが開いて誰かが出てくるのではないかと、渉は緊張して息を潜めた。
 そのまま、しばらく待つ。ミチルは指示通り黙っていた。そして、さらに少しだけ時間が経つ。
 ようやく、渉は大きく息を吐いた。そして、向き直る。意を決して。
 ドアのノブ。古めかしいそれに、渉は手を延ばした。それは妙に冷たかった。そのまま、ゆっくりと捻ってみる。
 鍵が、かかっていた。
 なるほど、と納得する。やはり、そうなのだろうか。渉はドアの横についた青いセンサを見る。ふとゲストカードのことを思い、苦笑した。そうだ、今の俺には何もない。
 だが。「ミチル、このドアを開けられる……」心中で首を振る。「……ミチル、このドアを開けてくれ。」
 それは、命令。いや、決断だった。
 ドアを、開ける。
 扉を、開く。
 それは、新しい一歩への決意。
 道を進むことへの、意志。
 そして、ドアが、開いた。
 安堵。
 それは、ない。
 渉の感覚が、叫ぶ。
 それは、鋭い叫び。
 いや、絶叫だった。
 異様な、冷たさ。部屋から噴出する、冷気。
 そして、それによって運ばれた、臭気。
 それは、決して、初めて体験するものではない。
 昨日。
 そして、去年。
 渉が経験した、体験した、臭いだった。
 それは、死を告げるもの。
 時を止めた、生命の証。
 渉の五体が震える。どうしようもないほど、全身がわななく。
 畏怖。そして、戦慄。
 パニックに陥らないのが、不思議だった。
 いや、当の昔から、彼は混乱していたのかもしれない。
 その中で、決断する。
 彼は、部屋に、飛び込む。
 冷凍庫に、倉庫に飛び込むような感覚。その形容が正しいのか、渉にはわからない。
 だが今、彼の全身を貫いたのは、その信じ難い部屋の冷たさではなかった。
 血と、肉の臭い。死臭に包まれた、空間そのもの。
 部屋は、暗い。窓の光も、常夜灯のそれすら見えない。すべての電源が、落とされていた。
 そして、その中で、渉は叫ぶ。
「ミチル!」
 その名を、呼ぶ。いるはずである、相手を。
 それは、真実。
 彼にとって、間違いなくそうであること。
「ミチル!」
 声は、震えていた。冷たさからだろうか。いや、違う。
 そして、答えは、返った。
「はい、私はミチルです。」車輪が、彼の背後で音を立てる。
 その皮肉に、渉は笑うしかない。
 だが。「ミチル!この部屋の明かりを……照明を、つけてくれ!」渉は叫ぶ。
 そして、数秒。まばゆいそれが、部屋を照らした。
 シャンデリア。琥珀に近いだろうか。どこか黄金色にも似た輝きに浮かび上がったのは、大きな船室だった。無論、渉のいたあの部屋には及ばない。だがそれでも、それは実に豪華な一室だった。
 ところ狭しと置かれた調度品。並んだ上質のテーブルと椅子、そして奥には大きめのベッドが二つ。さらには浴室と洗面所に至るであろうドアと、小さなバー・コーナーすらある。渉の部屋の広間にベッドを運び、ほんの少しだけ規模を小さくしたようだった。壁には花瓶や絵画が並び、シャンデリアもとても華やかだ。足下にはふっくらとした感触の絨毯。当然のように、ネットワーク端末も備えられている。
 だが今、渉の目を捉えたのは、そんなものではなかった。
 今を以って微塵も消えることのない、冷気と臭気。いや、それはむしろさらなる強かさを……異様な激臭となって、彼に襲いかかっている。
 それを、死臭を放つ、それ。
 いや、既に嗅覚だけではない。
 それは、黒々と、部屋を汚していた。
 おそらくは、そう、血だったもの。
 部屋の一角にこびりついた、それ。
 その焦点は、奥のベッド。
 部屋の奥にそれぞれ備え付けられたベッドの、片側。
 その上で、誰かが倒れていた。
 そして、おそらくは純白だったのであろうベッドのシーツが、黒々と染みになっている。
 ここから見ただけで、そのおぞましさに鳥肌が立った。
 だが渉は、足を進めた。歩いた。
 びくついてはいない。おののきに強ばってもいない。
 それは、必死の思いだった。
 確かめなければならない。
 確かめずにはいられない。
 そうだ。まさか……
 まさか、そんなことがある訳がない!
 彼女が……
 渉はベッドの横に進み、そして瞬間、安堵する。
 違う。
 それは、男だった。小柄という程ではないが、かなりやせており、着ているのは和装のそれだった。頭は半ばまで禿げ上がり、覗く頭髪は短く、ほとんど真っ白だった。口元の短い髭は刈り揃えられている。おそらくはかなりの高齢……六十は越しているであろうと思われた。
 そして、男は、死んでいた。かっと目を見開き、口を真一文字に結んで。驚きに満ちたその表情は、その容姿は、渉の想像を絶した。肌は乾き、眼球が、唇が、飛び出すようにして変色している。そして、肌もそれは同じだった。
 身体を横にし、半ば俯せになるようにして、男は死んでいる。
 そして、その背中に、おびただしい傷があった。服が……紋付の背がそれとわからないまでに裂け、ズタズタになる程のそれ。おそらくナイフか何か……鋭い刃物で行われたのであろう。それはまさに、凶行と呼ぶべき暴力の証しだった。
 そう、同じだ。渉はそれを理解する。
 御原健司……あの赤い部屋で見た亡骸と、同じ。
 渉は老人の顔を今一度見る。知らない顔だった。誰だろうかと考え、そして、その答えにたどり着く。
 ここは、彼女の……瑞樹の部屋だ。九条院瑞樹の部屋である。渉は瑞樹と、そして、もう一人の老人……九条院佐嘉光を思い出す。
 ならば、この男が、彼女の父親なのか。確かに、二人の間を取るとすれば、年齢的には合致しそうだった。八十は軽く過ぎているであろうあの車椅子の老人と、二十歳そこそこの瑞樹である。
 ならばこれが、彼女の父親。
 皮肉をこめたその結論に、渉は薄く笑う。
 瑞樹の父親が、死んでいる。殺されたのだ。
 花嫁の、父が。
 九条院、何というのだろう。また、難しい名前だろうか。渉はそんな下らないことを真剣に考えようとしている自分に驚く。
 そうだ。どうしてこうも冷静なのだ。驚きが過ぎて、あらゆる感覚が麻痺して、まともに物を考えられなくなっているのか。
 いや、違う。俺は冷静だ。渉は冷ややかにそれを認める。
 そうだ。汗一つかいていない。この部屋が冷たいからか。渉は、それに首を振る。
 そうだ。俺は、考えている。この意味を。この訳を。
 人が、また死んだ。殺されたのだ。
 つまりは、干渉されたのだ。時間に、自分のものであったそれに、他人から。
「な、何だ?」
 聞こえた声が、渉の心理を驚きに染める。
 太い声。ミチルのそれではない。それは、ドアからの声だった。渉は身をすくめる。何という皮肉だろうか。この惨状よりも、あらぬ方向からかけられた声に、愕然とするとは。
「おい、誰か……何だ、誰かいるのか?この区画は……お、おい、お前!」渉は振り向く。
 開かれたドア。いや、開け放たれていたドア。渉は自らの失敗を悟る。それは、致命的だった。あまりにも。
 そこに、特徴のある制服を着た男がいた。セキュリティだ。間違いない。その装備が……腰に下げたナイトスティックが、まさに見事な手際で引き抜かれる。
 逃げ場はない。渉は痛恨の思いに、胸をかきむしられるように喘いだ。
 また、同じだ。また……俺は、繰り返すのか。
 俺じゃない。俺が、殺したんじゃない。
 渉は、腹を抱えて大笑いしたくなる。
 誰が、信じるだろうか。まさに、すべては仕組まれているようだ。
 お前の選んだ選択肢が、ミスだったと。
「お、お前は!まさか、おいっ!」そして、もう一人のセキュリティが現れる。一人でなく、二名だ。渉はさらに絶望的な状況を認識する。二人の男は揃って若く、屈強そうだ。間違いなく、暴力的な手段ではこの状況を打破できないだろう。また、打ちのめされるのが落ちだ。
「てめぇ!どうやって部屋から……おい、チーフに連絡しろ!早く!」慌てたように了解の声が続く。そして……「く、九条院さんを……殺しやがったのか!?おいっ、てめえっ!」絶句する……まさに、動揺に満ちた声。
 そうだ。そうなるのだ。シナリオに書かれたように、決められていたように、また、そうなる。
 渉は、息を吐いた。言葉は見つからない。自分にかけるそれすら、渉にはなかった。
 ただ、彼は、両腕を上げた。いや、上げようとした。
 そして……「野郎、今更……がっ!」
 悲鳴。
 渉は、目の前で起こったそれを、信じられない。
 突然、まさに不意に、叩き付けられるようにして倒れるセキュリティの男。そして、小さな……携帯電話のようなものを手にしていたもう一人の男が、相棒のそれに目を剥き……そして自らもまた、悲鳴をあげて倒れる。
 苦痛と、驚きが入り混じった、叫びだった。
 いや、それだけではない。倒れ、呻く男達は……即時、さらなる絶叫をほとばしらせた。
 それは、情け容赦ない何か。
 まぎれもなく、外因によるそれ。
 渉の視力が、今、ようやくそれを捉えた。
 何という愚鈍さだろうか。
 ふるわれた、腕。
 それが、そのものが、男たちを、打ちのめしている。
 まさに冗談のような光景だった。
 伸ばされた腕。伸縮し、関節を曲げた長いそれが、信じ難い速度と……そしておそらくは信じられないほどの勢いを以って、ふるわれている。
 冷たく照らされた、鋼のマニピュレーター。
「ミチル……」渉の唇が、震えた。「……ミチル!」
「はい、私はミチルです。」
 彼女は、平然と、答えた。
 暴力を、続けながら。
 人を、害しながら。
 その腕を、叩き付けながら。
 体躯のいい二人の男は、打ちのめされて、もはや声もない。
 それは、間違いなく、干渉される現実だった。渉にとっても、男達にとっても。
 そして、無慈悲な凶行が、続く。
 幾度も、幾度も。
 あれは、何だ。渉は惚けたように思う。
 飛び散る、それ。
 真紅の、それ。
 赤い、それ。
 あれは……血?
「やめろ!」渉は叫ぶ。絶叫だった。決して、考えて出した言葉ではない。「ミチル!やめろ!そんなことをするな!」必死の叫び。困惑、混乱。目の前にしているそれを、渉は未だ信じられない。
 そうだ。こんなことがあるのか。こんなことがあっていいのか。
 何なのだ、これは。
 そして、彼女が止まった。腕が、関節が、折れ曲がり、再び収納されていく。
 渉は駆け寄った。ためらいもなく、倒れ伏した二人の男に。
「大丈夫ですか!?」男たちに触れる。血が出ていた。その一人の頭部に、渉は触れる。「しっかりして下さい!」
 呻きが漏れた。よかった。もう一人を確かめる。二人とも、生きている。
 そうだ、生きている。今は、まだ……「しっかりして下さい!」言葉が見つからない。
「てめ……ぇ……は……」信じ難い驚きに満ちた声が、漏れた。そうだろうと思う。渉自身が、信じられない。
「今、医者を呼びます!しっかりして下さい……」三度それを繰り返し、渉はミチルを見る。「ミチル!どうして……」
「どうして?」ミチルは聞き返す。
「今、君が……ミチルが、したことは……」
「したこと?」
「君がやったことだ!ミチルは、どうしてこんなことをした!」渉の声は震えていた。「どうして、こんなことをする!こんなことが、できるんだ!?」
「できるのは、頭が良いから。」
 渉は拳を握りかけた。いや、実際に彼は握った。激昂し、まさに化け物を見るような目で彼はロボットを睨み付ける。怒りのままに、渉は拳を目の前にいる機械にふるいかけ……
「ワタルは、ひとりがいい。」
 ミチルが静かに発したその言葉が、渉の腕を止めた。
 いや、それだけではない。
 その詞が、告げられた彼女の声が、ナイフのような鋭さで彼の胸を切り裂いた。
 ひとりが、いい。
 自由が、いい。
 自由で、いたい。
 ただ、それだけ。
 たった、それだけのために…… 
 そんなことの、ために……
『そんなこと……!?』
 少女が、語気を荒げる。
『そんなことなんかじゃない……!』
 渉は首を振った。
『そんなことなんかじゃ、ないよ!』
 彼の心が、悲鳴をあげる。意識が、砕けそうになる。何かが、身体を破って飛び出してきそうな痛み。心臓が割れ鐘のように鳴り響いているのがわかる。あちこちで、血管が破裂するのではないかと思う。頭痛が、激痛が、全身を支配し、渉はその恐怖に、屈しかけた。
「違うんだ。違う……」渉は言う。「違う。ミチル、違うよ。俺は、違う……違うんだ!」渉は、何もかもを吐き散らした。「俺は、ワタルは、ひとりでなくていい。複数でいい。だから、ひとりじゃなくていいんだ。一人は、独りは、嫌だ。ひとりは、いらない……」必死に、訴える。ろれつが回っていないことを、理解できぬまま。
 そんな彼の傍らで、別の呻きが漏れる。「くそ……通信……この……」手がわななき、手にしたそれを……掴もうとして、かすかに指が痙攣する。渉は、それに気付く。そして瞬間、それを取りあげた。耳に当てる。
「おい!大丈夫か!どうした!」声がする。
「大至急、医者を!ここは、Bデッキの02号室です!」渉は早口でそう言った。「人が一人殺されて……あと、二人が殴られました!早く、船医をお願いします!」
「てめぇは……馬鹿、か……」渉は放心したように通信機を床に置いた。横では、男……日本人であろうセキュリティが、こちらを見上げている。どこか虚ろな半眼が、何かに震えながら、渉を見据えている。「今更、良心の……呵責か……?」
 渉は立ち上がる。そして、再び男を見下ろした。今、何を言っても、意味などないだろう。
 いや、元々、意味などあるのか。言葉に、そんなものがあるのか。
 そうだ。渉は笑う。詞は届かない。目の前にした現実の前には、そんなものは意味がない。言葉は、不自由だ。
 俺は、死体があった部屋で、凶器を持って倒れていた。閉ざされた部屋で、俺はそうして……そしてなお、俺は……そうだ。俺は、彼女に、飛びかかった。
 渉は、今ようやく、それを思い出す。
 そうだ。そうだった。俺は、彼女を……
 疼くような意識。画面の向こうでほほえむ悴山の映像が甦り、渉はその皮肉さに笑う。
 そうだ。そう、だったのだ。
 渉は首を振った。今、目の前にした現実に立ち戻り、そして、苦しげに呻く男を見下ろす。
 そうだ。そして俺は、同じことを繰り返した。人が死んだ部屋に、閉ざされていたはずの部屋に入り、それを目撃され、そして、目撃した相手を襲った。そう、例え間接的に為したことだろうが、それを命じたのが俺である以上、それは俺がやったことと同じだ。
 なぜなら、彼女は疑うことを知らない。
 彼女は、命じられたままにそれをする。
 できるから、そうしたのだ。それが、間違っているなどと考えもしない。
 それが、当たり前だから。
 可能だから、そうした。できるから、した。俺が、それをさせた。
 彼女は、人形。
 俺は、それを、操ったのだ。
 全身が、痛かった。激痛が、すべての力を奪い去ろうとしているようだった。
 だが。
「すみません。俺は、行きます。」渉は立ち上がる。「ミチル、行こう。外に出るんだ。」渉は、部屋から出た。そこであることに気付き、ドアの前から……倒れた二人を、少しだけ動かす。決していい気分ではなかったが、二人がいてはミチルが通れない。
「お前は……この……人殺し……」渉は、乾いた笑いを浮かべてセキュリティの男を見返した。もう一人は、既に意識がないようだった。渉は心配する自分にさらに自嘲を強める。「九条院……佐嘉光さんまで……殺しやがった……気違い……野郎……」渉は、首を振る。
「違います。あそこで死んでいるのは、佐嘉光さんじゃない。瑞樹さんの……父親でしょう。」それは、確かではない。だが、おそらくは正しいことだった。
 そうだ、あの老人ではない。決して、違う。
 そんな渉の前で、笑いが漏れた。「今更、てめぇ……何を言ってやがる……気は、確かか……?」男が言う。渉は動かし終えると、黙って立ち上がった。そう、時間はない。「九条院の、お嬢さんにはな……父親なんて、いない……」
 ミチルが部屋を出る。それを確認し、駆け出そうとした渉の動きが、止まった。
 渉は、振り向く。「父親が、いない?」
 男が、苦しそうに笑う。こちらを嘲り、憐れむような、そんな笑い声だった。「てめぇは……そんなことも知らないで……馬鹿だ……地獄に……落ちちまえ……」
 新たな驚きが、信じ難いそれが、渉を震わせる。
 ならば、誰なのだ。
 誰……「ワタルは、どこに行きますか?」
 彼女の、ミチルの声が、渉を正気付かせる。
 そうだ。今は、逃げなければならない。行動しなければならない。
「どこでもいい。」言いかけて、渉は首を振った。「人がいない……」渉は、ぞっとして言葉を切る。その恐ろしさに、身震いした。そうだ、駄目だ。それは、口にできない。
 瞬間、渉はそれを思い付く。
「001だ。」渉は告げた。「部屋番号、001。0デッキの……01号室に行こう。」
 それは、彼の部屋。いや、彼の部屋だった、という形容が正しいだろう。
 聞いていることが確かならば、そこは、閉ざされているはずだった。そう、もしかすれば、この船の中で唯一、渉にとって絶対に安全な場所。
 それがすべて、たった一つの名前によって発生したことだという。まさに渉が思い付いた、告げられて選択した、たった一つのパスワードで。
 カサンドラ。偽りの予言者。未来を、滅亡を告げる力を持ちながら、呪いによって誰一人それを信じることなく生涯を終えた、悲劇の女性。
 巨大な木馬によって燃え落ちた、トロイアの姫。
 彼女は、孤立していたのだろうか。
 それとも、ただ、ひたすらに孤独だったのだろうか。
 夜の回廊を駆けながら、桐生渉はそんなことを考え続けていた。
 
 


[435]長編連載『M:西海航路 第三十六章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時28分 Mail

 
 
   第三十六章 Maze

   「お母さんとの約束、果たせた」


 足音が遠ざかるのを確認して、桐生渉は再び歩き出した。
 よく力が出る、と思う。心身が悲鳴をあげているのをはっきり感じ、それに屈しないことが不思議だった。極限状態のためだろうかと思い、そして笑う。そんなことを考えられるなら、それは間違いなく極限と称せる状態ではないだろう。
「ミチル、ストップ。」見覚えのあるプロムナードにたどりつくと、渉は数メートル先を進むロボットを止めた。彼女は、まさに指示通りにピタリと止まる。「ミチル、この区画に人はいる?」
「はい、人はいます。」ミチルは告げる。だが、渉が焦ることはなかった。
「その人は、近付いてくる?」
「いいえ、近付いてはきません。」ミチルは即答した。「ワタルは、ひとりです。」
 渉はほほえむ。どこか乾いた笑いだった。
 そうだ。
 俺は、ひとり。
「ありがとう。近付いてきたら、教えてくれ。」渉は笑いを消す。「渉は、ひとりでなくていい。」
「ワタルは、ひとりでなくていい?」
「そうだ。」それだけ言うと、渉はミチルに先んずるようにしてプロムナードへと入った。
 ひとけはない。それが嬉しくもあり、やはりというか不安でもあった。どうしてだろうか。人がいないのはこのデッキが閉鎖されているからで、当り前のことだ。もしも今人が現れるとすれば、それは十中八九セキュリティで……間違いなく、俺を捜している連中だろう。
 そう、殺人犯である俺を。
 渉は思い返す。ソファに突っ伏していた御原健司。そして、ベッドに横たわっていた名も知らぬ老人。
 共に背を切り裂かれ、幾度も刃物を突き立てられ、絶命していた。
 あの惨状、あの不快な臭いが、今また、鮮烈な幻影となって彼を襲う。
 嘔吐を催さないのが不思議だった。どうしてだろうかと思い、満足に食事をしていないからだろうと決め付ける。他の理由などどうでもよかった。渉はそう思う。
 そうだ。誰が、慣れるだろうか。
 人が死ぬ。人が、殺される。自らの意思に反して、命を失う。
 渉は一度、瞳を閉じた。そして、首を振る。それらの思考を振り払うために。
 周囲に気を配る。ブティックと、小さなレストランだろうか。船内のどこにでも見られる、廊下を隔てて店が軒を並べている場景だった。硝子のショーウィンドー越しに、非常灯に照らされる売り物が見える。ブティックの中には衣服……ドレスなどが見え、それが一瞬、人のシルエットに思えて、渉はかすかに背筋を寒くした。
 だが。渉は苦笑する。そうだ。ミチルがいる。彼女が、知っている。だから、違う。
 彼女は決して、嘘を言わない。それは確かなことだった。
 なぜなら、それを知らないからだ。
「ミチル、こっちにきて。」ミチルが動く。その動きは俊敏だった。かつて真賀田研究所で見たような、愚鈍と断じてもいいそれではない。まったく、違う。
 変わったのだ。
 そうだ、ミチルは変わった。変わり過ぎる程に、変わった。渉はそれを思う。そう、もはや、まったく別のロボットと言ってもいいかもしれない。機能……反応や処理の速度やその他……外見を含めた、あらゆるすべてが。
 かつてのミチルは、ただドアの開け閉めができるだけのロボットだった。渉は犀川助教授の言葉を思い出す。
『真賀田博士が遊びで作ったんだろうね……』
 そうだ。ミチルは作られた。その本当の理由は、誰にもわからない。犀川が言ったように、ただの遊びで……ドアの開け閉めをさせるためだけに作られたのか。それとも、消えた人形の代わりだったのか。鮮血を浴びて、捨てられた人形の。
 それとも……
 渉は目の前にやってきたロボットを見つめる。容姿も、中身も、変貌したロボット。多少の凹凸をものともしない移動力と、あらゆることをこなすであろうフレキシブルなマニュピレーター。周囲の状況を的確に捉えているセンサ。そして会話能力と、それらを司り、可動させる頭脳とも言うべきプログラム。
 まさに、彼女は別人だった。
 そうだ。本当に、このロボットがミチルなのだろうか。それは確実であると、100%そうであると、断言できるだろうか。これがあの研究所にあったロボットのレプリカ、そっくり同じに作られた別のロボットでないという保証など、どこにもない。俺はただ、勘違いをしているだけかもしれない。
 そうだ。本物だという証拠など、どこにもない。本当に、ない。
 ただ、似ているから。ただ、答えることができたから。その名を、名乗ったから。
 考えれば、不自然なことばかりだ。確かなことなど何もない。信じるに足る証拠など、欠片もない。
 だが。渉は黙し、呼吸をする。深く。
 本物であるか、偽物であるか。
 本当であるか、嘘であるか。  
 事実であるか、現実であるか。
 死んでいるか、生きているか。
 すべてが、正しい。
 そして、正しいは正しくない。
 それが、矛盾。
 それが、真実。
 だから……
 光が、遥かに捉えた一瞬のそれが、渉の全神経を覚醒させる。今に、引き戻す。
「ミチル!」小声で、呼ぶ。「ミチル、このドアの鍵を開けてくれ!」
 目の前にある、ブティックのドア。渉は、ミチルがわずかに位置を調整するのを待つ。二秒、いや、三秒だろうか。息を殺して、彼は待った。
 そして、ドアから小さな音。渉はそれを確認すると、手をかけて開けた。「ミチル、こっちに!」命令し、店の中に入る。ミチルが続いた。そのレスポンスの迅速さに渉はほっとする。そうだ、無駄な動作や言葉など、彼女には一切ない。
 暗い店内で、渉は声を潜めて続ける。「ミチル、ドアを閉めて。鍵も閉めるんだ。指示があるまで、喋らないで。」それだけ言い終えると、渉は床に伏せた。
 まさにぎりぎりのタイミングだった。大きな光が、今渉のいたプロムナードに届く。それがデッキ全体が照明を落としているために使われているハンドライトであろうと、渉は察した。照明の光度を上げればいいはずだが、どうしてしないのだろう。まさかできない訳ではないだろうと思いつつ、渉は店内の床に伏せて身を強ばらせる。窓からは死角になっているはずだ。
 二度、強烈なハンドライトの光が渉のいる店の中を通過し、そして、消えた。ゆっくりと、足音が遠ざかっていくのがわかる。 
 心臓が鳴っていた。当り前だと思い、そして苦笑する。
 普段はそんなことを思わない。自分の心臓が動いている、鼓動しているなどと、俺は思わない。ならば、それを意識できる状況は、普通ではないだろう。そうだ。心臓が動いていると意識する時にだけ、人はそれを自覚する。空気を吸ったり、まばたきをするのと同じだ。
 思いで、すべてが変わるのだろうか。
 考える時だけ、存在するもの。それは、果敢ないものだろうか。
 思わなければ、すべてはないのだろうか。
 生きていると思う時だけ、生きていることがわかる。
 ならば、意識することができさえすれば、それが本物でなくても構わないのではないだろうか。すべてを思うことができれば、いいのではないか。すべてを、意識することができれば、それだけでいいのではないだろうか。
 すべてを、捉えることができれば……
 すべてを、Fに……
 F……
 Find……?
 やめろ!
 闇の中で、渉は堅く目を閉じた。沸き上がる思考を、雑念として、そう決め付けて、かなぐり捨てる。今は、そんなことをしている場合ではない。
 現実に、集中しろ。目の前の、光景に。
 しばらくの間、彼はそのまま動かなかった。そして、彼の隣でミチルも静止していた。それが、そのことが、何という皮肉さだろうと思う。まさに指示されるまま、すべてを彼女は行うのだ。教えたこと、すべてを彼女は理解するのだ。それが正しいか、間違っているかなどと、思いもしない。
 なぜなら、疑うことがないから。真偽を判定することをしないから。
 それは、すべてを確かにしている証拠だ。渉はそう思う。
 ならば、どうして俺は違うのだ。ロボットでないからか。人であるからか。ならば、人はどうして疑うのか。偽りを、真偽を見抜こうとするのか。それをしなければ、いけないからか。
 渉はミチルが見せた暴力を回想する。あまりに凄惨な、無慈悲な鉄槌が下る瞬間。それを鑑み、法的に見れば誰が悪いのだろうと渉は思った。ミチルはロボットだ。人間ではない。人類のための法律では、彼女を裁けない。彼女は、個として存在しない。
 ならば、悪い者は誰か。それを製造した者か。それを教育した者か。それを、指示した者か。
 そうかもしれない。間接的に、それを指示した者。もしくは『人でない』ミチルを使って、凶行に及ばせた者。いわば、彼女はナイフのようなものだ。ピストルのようなものだ。誰も、ナイフが犯人だとは主張しない。ピストルが、撃ち出された弾が、真犯人だと訴えはしない。
 彼女は、道具。
 操られる、人形。
 人形が、したこと。
 渉は、ただ、立ち尽くした。
 生命を持たなければ、犯人ではない。命がなければ、人は殺せない。生命がなければ、生命は、消えない。
 何というあやふやな定義だろうと渉は思う。そしてそれが、たまらなくおかしくなる。笑い出したかった。どうしようもなく、ただ、笑いたかった。
 存在しなければ、犯人ではない。
 いなければ、違う。
 そして、彼女はいない。もう、いないのだ。
 だから、違う。彼女は、犯人ではない。
 何という単純なことだろう。
 どれだけの時間が経ったのか。渉は目を開け、ゆっくりと上体を起こした。
「ミチル。」
「はい、私はミチルです。」声は、実に明解に返ってくる。
「そのドアの向こうに、人はいない?」
「はい、誰もいません。」
「このデッキに、人はいない?」
「いいえ、人はいます。」
「この区画に、人はいない?」
「いいえ、ワタルがいます。」
「わかった。ありがとう。」
「ありがとうは、感謝の言葉。」
「そうだよ。ミチルは頭がいいね。」
「頭が良いのは、それができるから。」
 どこまでも抑揚を同じくするミチルの声が、渉の目を再び閉じさせる。
 暗い。そこは、どこまでも暗かった。
 頭が良いのは、それができるから。
 頭が悪いのは、それができないから。
 それが、教えられたことだった。
 もしも、俺なら……
 俺は、それが……
 渉は目を開けて立ち上がった。身体が強ばっている。よほど緊張していたのかと思い、首や手首、肩を動かして深呼吸をする。懐中時計を出して、窓から差し込む廊下の光で時刻を確認した。
 十時、三分。
 部屋よりの脱出から、約二時間が経過していた。先程の騒ぎを含めて、間違いなく今の状況の何もかもが知れ渡っているだろうと渉は思う。無論、船客のすべてにではないだろう。人を二人殺した……しかも、残虐極まる方法で……男が(加えれば、人を害することのできるロボットと共に)船内をうろついているなど、千人を越える船客に報じられる訳がない。そんなことをすれば、間違いなくパニックだ。
 渉は再び、その皮肉さに薄く笑った。
 そうだ。誰も、知らない。誰も、気付かない。
 それが、正しいことを。本当に、そうであることを。
 正しいは、正しくない。正しくないことが、正しい。本当に信じられることなど、どこにもない。
 だが、それは、事実だった。現実だった。
 二人の人間が殺されたという、事実。
 犯人は俺であるという、現実。
 どこかに、殺人犯がいる。二人の人間を殺し、生命を奪い去った人間がいる。そいつは、この結婚の……ブライダル・クルーズの執行役である、仲人を……媒酌人を殺した。そして、もう一人……誰かはわからない、九条院瑞樹の部屋にいた老人を殺した。
『佐嘉光さんまで……殺しやがって……』渉は、苦悶の中で発せられた痛罵の一節を思い出す。
 そうだ。それはわからない。おそらくは、違う。あの男は、死体をはっきりと確認した訳ではない。
 だが。渉は胸の奥から沸き出してくるような何かに唇を噛んだ。
 俺も、同じだ。あれが、あの老人が、本物の九条院佐嘉光であると、確証するに至る根拠はない。
 ただ、威圧された。ただ、畏怖した。だから、確信した。そうであると。そうで、あろうと。だが、それはあの男も……セキュリティの男も同じであったと思う。確信……いや、それが当り前、誰もが既知とする常識であるとでも言いたげな、あの男の態度。嘲りの、笑い。
『手前は、馬鹿だ。』
 渉は拳を握る。
 ならば、誰なのだ。
 車椅子の老人は、誰なのだ。あの夜、俺が出会った、あの老人は……
 真賀田四季と共にいた男は、誰なのだ!
 胸のつかえに、その苦しさに、渉は思わず天井を仰いだ。
 何もかも、わからない。
 彼は、誰だ。
 彼女は、誰なのだ。
 伝えられる名前。口にされた名前。聞かされていた、名前。
 それらは、本当なのか。どれが、嘘なのか。どうやって、見極めればいい。どうすれば、わかるのだ。
 何が、正しくて。何が、信じられることなのか。
 誰も、教えてくれない。
 誰も、知らない。
 だから、わからない。
 本当に、信じられるもの。
 そんなものが、どこにあるというのか。
 渉の心が、再び、弾けた。
 それは、ある。
 そうだ。あると、信じている。
 そうでなければ、ならない。違うことは、嫌だ。それは、許せない。絶対に、駄目だ。
 変わりはしない。変わってはならない。同じでなくてはならない。ずっと、そのままでなければならない。そうでなければ、わからない。でなければ、気付かない。気付けない。ずっと、そうであって欲しい。そうだと、思いたい。思い続けていたい。そうでなければ、許せない。気が、すまない。疑いを、持ちたくない。信じていたい。ずっと、そうしていたい。
 だが……
 それは、矛盾だ。
 そう思うことが、既に、そう思っていない。
 それを、信じていない。
 信じるということを、信じていない。
 渉は、気付く。 
 完全であろうとすること。
 それこそが、不完全なのだ。
『犯人は……孤独、でした。』
 すべては、変わっていく。
 終局を、目指して。
 それは、岐路。
 それは、帰路。
 迷宮の果て。
 渉は今、そこに至る。
 出会った。
 惹かれた。
 そして、今も、想い続けている。
 恋?
 愛?
 そんな詞に、意味などあるのだろうか。
 ただ、考えていただけだ。
 あの夏から、ずっと。
 彼女の、ことだけを。
 ただ、それだけだった。
 それ以外は、何もない。何も、できない。
 できないのだ。
 してはいけない。
 その狭間は、ない。中庸は、ない。
 すべては、終わっていた。当の昔に、幕は降りていた。
 知ることもなく、知らされることもなく、それは、終わっていたのだ。
 幻想の、舞台。
 録画された、映像のように。
 映写される、フィルムのように。
 ただ、彼の目の前を流れていったもの。
 手は、届かない。入ることは、できない。
 渉は、ゆっくりと立ち上がる。
 部屋は、店の中は、暗かった。かすかな光の中で、彼は微笑する。
 笑えたかどうかはわからない。顔中が汗だくで、手が震えているのかもしれない。全身が、痙攣しているのかもしれない。
 だが、彼は、顔を上げた。
 そして、それに、目を向ける。
 広くはないブティックの、一角。他のそれより一段高い場所に作られた、小さなステージ。
 渉は、歩み寄る。
 そこに、ウエディングドレスがあった。
 楚々なマネキンに着せられている、それ。
 純白のドレス。まるでそこにいるように、フレアの裾が丁寧に整えられ、消えていない淡いライトが、あらゆる方向から、彼女を照らしている。
 ヴェールの下の、単色の顔。輪郭以外は目鼻の凹凸すらないそれが、渉に、ある光景を思い出させる。
 いや、違う。渉は笑った。
 忘れるはずがない。忘れられる、はずがない。忘れたことなど、ない。
 それは、彼が初めて目にした人の死。
 それは、殺された女性。
 彼女、だった。
 奪われた。すべてを。あの瞬間に。
 その彼女が、いた。
 結婚式。たったひとりの、華燭の典。
 それが、願いだったのか。
 たった一つの、たった一度の、望みだったのだろうか。
 閉鎖された空間。電子の牢獄。狂った季節。ひとりの、世界。
 そこで、ずっと、そんなことを考えていたのか。
 渉は黙した。ずっと、黙していた。
 黙祷なのか。哀悼なのか。
 馬鹿な。渉は自分を笑う。心の底から、笑う。
 そうだ。そんなものはない。
 あるのは、現実。理不尽な、それだけだ。
 渉は、唇を拭う。頬を拭う。すべてを拭い去る。
 できたかどうか、そんなことは関係ない。知る必要もない。
 ただ、そうした。何度でも、そうしただろう。
 思い知る。思い知らされる。知るほどに、距離が遠ざかる。果てしなく、彼方へ。
 お前も、たったひとりだと。
 
 


[436]長編連載『M:西海航路 第三十六章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時28分 Mail

 
 
「ミチル。」
 渉は、呼ぶ。
 名前を。
「はい、私はミチルです。」声は、答える。彼に、応える。
 彼女の、声が。
「博士は?」
「博士?」
 渉の喉が、かすかに震えた。
 忘れようもないほど、一句一句。
 すべてが、甦る。
「真賀田四季は?」
「真賀田四季?」ミチルは、静かに問い返す。
 そうだ。渉は頷く。
 それは、正しい。
 それが、正しい。
 何も、間違っていない。
 すべては、あの夏から、始まっていた。
 そして、今も、続いている。
 終わっていたのに、続いている。
 間違ってなど、いない。
「真賀田……」声が、震えた。「……未来は?」
「ミキは、ひとりです。」
 渉は、目を閉じる。
 ミキは、ひとり。
 未来は、独り。
 独りは、孤独。
 孤独は……
「未来さんは……」渉は、今一度、目の前にいるロボットを見つめる。「……真賀田未来さんは、この船にいる?」
「はい、この船にいます。」
 渉は呼吸を止める。鼓動を止める。次の言葉が出てこない。いや、それはある。だが、それを口に出せない。
 それが、どれだけ、恐ろしい言葉か。
 詞は、偽り。それは、不自由。何もかも、誤り。
 永劫の如き時間が経つ。
 ただ、流れていく。
 そして、彼は、口を開いた。
 誰かが、それを言わなければならない。
 言いたくはない。断じて、決して。
 それは、それだけは、選んではならない。
 そう、信じていた。
 そうだと、思っていた。
 だが、渉は、口を開いた。
 この地上で、ただ一人。
 それを、彼は、詞にした。
「未来さんのいるところに、行こう。」 
 途端、ミチルが動き出した。
 渉の心臓が、呼吸が、大きく躍動する。
 それは、信じ難いものを目にした人の作用。
 いや、違う。
 俺は、気付いていた。そう、思っていた。
 彼女を……
 彼女を、ずっと、想っていた。
 気が狂っているのかもしれない。
 それは、倒錯の果ての破滅なのかもしれない。
 わからない。
 自分のことなど、理解できない。
 渉は、ただ、進んだ。
 ミチルが、無人の通路を進んでいく。
 渉は、黙って続いた。
 辺りを気にすることはない。
 もう、どうでもいい。
 そうだ。完璧を相手に、そんなことをする必要はない。完全を目指して、努力する必要はない。
 なぜなら、それは、遂げられている。すでに、遂げられていたのだ。
 ならば、遂げる必要はない。遂げようとする、必要はない。
 求めることは、完全ではない。
 エレベータ・ホールは無人だった。
 渉は、やってきたそれに乗り込む。
 金属の密室が、動き始めた。
 すべてが、自動的に。
 すべてが、そのままに。
 運ばれていく。
 近付いていく。
『心なんてものは、ありません。』
『私を安定させ、現実に固着させたと言えるでしょう。』
『役に立つ、立たないを越えて、現実は私達に干渉します。』
『私には、そのチャンスはありませんでした。』
『あなたは、泣きましたか?』
 飛躍する意識が、彼の思いを確認させる。
 記憶と、感情。
 意識することで、それが、存在する。
 渉は、確かな鼓動を感じた。
 生きている。
 ここに、確かに、生きている。
 重苦しい響きが、彼の視線を持ち上げさせた。
 半ば閉じられかけていた瞳が、それを見る。
 エレベータのライトパネル。
 数字は、なかった。
 ない。どこにも、ない。
 存在しない数字。存在しない人間。存在しない名前。
 扉が開く。
 渉は見開いた。目を。そして、心を。
 それは、記憶の再生。
 忘れようもない。たった二日、いなかっただけだ。
 だが、時間が関係あるのか。
 十五年。十五ヶ月。例え数千年であろうとも、時間など、意味があるのか。
 それは、渉の船室があるデッキだった。
 渉は再び、驚愕の目差しでミチルを見る。
 ロボットは、静かに進み出た。渉も、思わずそれに続く。
 何かが、押し寄せて来た。渉の中に。
 違ったのだ。
 そうではない。
 ミチルは、ただ、命令のままに動いただけだ。
 俺の、命じたこと。
 部屋番号、001。
 このデッキに、移動しただけだ。
 そうだ。
 俺は、また……
 だが。
「もういいわ、ミチル。」不意に、声がした。
 それは、天からの声。
 そして、それは、
 彼女の、声だった。
「ミチル、戻りなさい。」
 小さな、擦れる音がした。
 ミチルが、転進する。
 そのまま、開いたエレベータの中に。
 そして、閉まる。
 ランプが、変わっていく。
 だが、渉は振り向かなかった。
 振り向きは、しない。
 彼は、廊下の先を。
 暗闇を、見つめていた。
「桐生さん。」そして、静かな声が彼を呼ぶ。天からの声が。
 彼の、名前を。
「貴方達は、大人になったかしら?」
 それは、彼女の声。
「真賀田未来さん。」
「はい。」
 それは、挨拶か。
 それとも、交錯か。
 虚偽と、真実。
 下らない。
 渉は心底から、そう思った。
「どうして、こんなことを?」
 声を発する。言おうと思って出した言葉ではない。それは、無意識の如く彼の中から発せられた。
「ここまで来て、そんなことをおっしゃるの?」調った女声は、その問いが心外であるかのように響く。
 どこか、誇り高く。
 どこか、果敢なく。
 そして、それは、穢れていなかった。
 そうだ。渉は、それを理解する。
 彼女は、美しい。美しすぎた。
 ずっと、そうだった。初めて出会った、あの瞬間から。
 光と闇の、明滅するノイズの中。
 純白の衣装をまとった、あの出会いから。
「わかりました。」渉は、告げる。「今、そちらに行きます。」
 それは、宣告。
 それは、決意。
 それは、選択。
 彼は、歩き出す。
 角を、曲がる。
 そして、進む。
 彼方に、星が見えた。
 どこからか、波の音がした。
 まるで、あの時のように。
 そして、そこに、
 ドアが、あった。
 渉は、ためらいなくそれに手をかける。
 既に、決めていたことだった。
 正しいは、正しくない。
 自分で決めて、それを選ぶ。
 それが、約束だった。
 ただ、一つ。
 ノブを捻る前に、彼は、告げた。
「カサンドラ、桐生渉だ。ドアの鍵を開けてくれ。」
 そして、瞳を閉じる。
「認識しました。」女声は、再び聞こえた。正しく、そして、違っている、声。「おかえりなさい、桐生渉様。」
 彼は、ドアを開ける。
 それは、軽かった。
 本当は、重かったのかもしれない。
 だが、関係なかった。
 中が、見える。
 暗い。
 黒い。
 何もかもが、閉ざされている。
 窓も、閉ざされている。
 光は、ない。
 それは、闇だった。
 渉は、そこに踏み込む。
 恐怖など、ない。
 そこには、希望があった。
 たった一つの、望み。
 彼の、想い。
 すべてが、そこにあるはずだった。
 渉は、ドアを閉める。
 そして、息を吐いた。
 真の暗闇。
 真の孤独。
 だがそれは、孤立ではない。
 そうだ。俺は、そう信じている。
 沈黙と、静寂。
 渉は、笑った。
 声もなく、笑う。
 そして、彼は、語りかけた。
「久しぶりだね……」
 どれだけの想いを、托せばいいのだろう。
 どれだけの願いを、乗せればいいのだろう。
 それは、足りない。指で数えても、足りない。詞にしても、足りない。
 それは、どこにもなく、
 そして、限りがなかった。
「……ミチル。」
 それは、彼にとっての、真実。
 他人の理解とは無関係な、彼だけのものだった。
「ふふふ……」
 笑い声。
 淡い、かすかな、幼いそれ。
 闇の中から、
 目の前から、
 それが、届く。
「……それ、私の名前じゃないよ。」
 笑い声。
 彼が、
 彼女が、
 二人が、笑った。
 笑い続けた。
 おかしそうに。
 楽しそうに。
 同じように。違うように。さわやかに。
 二人は、ただ、笑っていた。
 
 


[437]長編連載『M:西海航路 第三十七章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時29分 Mail

 
 

   第三十七章 Moon

   「おやすみ」


 静寂。
 それが、世界。
 静かだった。
 寂しい程に。
 果敢ないほどに。
 世界は、黙していた。
 何も、ない。
 そこには、ただ、
 繋がれる、ものが、
 詞だけが、あった。
「ミチル。」
「それ、私の名前じゃないよ。」
 声が、答える。
 闇の中から、それが、届く。
 リフレイン。
 桐生渉は、ただ、瞳を閉じた。
 存在が、消える。
 それが、現れる。
 何も、見えず。
 何も、感じられない。
「真賀田未来さん。」
「はい。」
 明答。
 それは、明確に。
 一瞬の、躊躇もなく。
 漆黒の中から、戻った。
 彼は、ただ、言葉を紡ぐ。
「どうして、こんなことを?」
「つまらないことをおっしゃらないで……」幻滅したように、声が響く。「既知を確認することも、脈絡を取り繕おうとすることも、ここでは無用です。」
「違う……違います……」渉は、首を振った。「貴女じゃ、ありません。俺は……」そして、動作に意味などないことに気付く。「未来さんに、話があるんです。未来さんと……」いや、動作だけではない。「未来さんに……俺は……」
 意味など、あるのだろうか。
 すべてに。
「ふふふ……」笑い声が、流れるように、届いた。「……ねぇ?渉は、誰のことが好きなの?」
 無邪気な声。
 彼は、身震いする。
「わからない……」思ったことを、そのまま口にする。「……ずっと、わからないままだった。わからなかった……今も、そうだ。本当に、どうしても、わからない……」わからない。ただ、それを口にする。繰り返す。「どうしてか……どうしてなのか……わからない……俺は……ずっと……わからないまま……ずっと……ずっと……」
 何度も、何度も。
「わからない、と意識することが、最も優れた思考なのですよ。」諭すように、声が、届く。「0か1か。無か有か。すべては、その二つしかなかった。その絶対を打破したのは、人の思考だけです。」
 言葉が、渉の瞳を開かせる。
 だが、そこは、闇だった。
 その、闇の中に。
 彼女が、いた。
「既知を、既存を、越えることができる唯一のもの。」流れる、声。「それだけが、感情も、記憶も、超越することができました。人をして、新たな地平に進ませることができたのです。」
 それは、違う声。
 同じであり、違う。
 それは、確かに、
 彼女の、声だった。
「でも、きっと、それを知ってしまったのが、皆さんの不幸だったのね……」優しげな声が、さらなるそれとなり、彼の耳を打つ。「無いものと、有るもの……それだけではないことに気付いてしまったから、人は、とても大変なことを考えるようになった。それが何か、わかるかしら……桐生さん?」
 渉は、震える声でそれに答える。「間が……あると……」
「そうだ。」声が、する。「到達するには、越える瞬間を定義しなければならない。定理として数式を作り出したのも、間としてのそれを求めたからだ。無から有になるその狭間を、人は求めた。限られた命の中で、それを、求め続けた。それが、数学というものだ。」
 闇の中の声が、力強くそう言う。
 渉は、震える。「でも……」
「個としての生命が、それを求めることは理不尽です。」
「だけど、人はそれを知ってしまった。考えてしまった。」
「どうして?心があるから?」
「心なんてものは、ありません。」
「復素数だって、存在しないよ?」
「思考することができるから……考えることができるから、そうじゃないかしら?」
「近付こうとしても、無意味だ。」
「遠ざかっても、近付けないね。」
「そうだと、認めてしまえば……定義してしまえば、済むのではありませんか?」
「それだけは、できなかった。」
「矛盾してる。答えが欲しいんじゃないの?」
「欲するという意識が、既に距離があることを認めてしまっている。」
「ええ。誰もが、それをわかっている。」
「でも、わかっていない?」
「そう、わからない。わかっていながら、わからないふりをしている。」
「そうか、正解なんだ。でも、間違ってるんだね。」
「正しいは、正しくない?」
「それは、桐生さんの詞ね。」
「うん、そうだよ。渉に教えてもらったの。」
「やめてくれ!」
 桐生渉は絶叫した。
 叫びが、悲鳴が、それが、部屋に響く。
 静寂。
 それが、密室に、甦る。
 いや、違う。
 ずっと、そうだったのではないか?
 何も、誰も、
 詞など、発していない。
 本当は、そうなのではないか?
 ここには、誰もいない。
 世界には、誰もいない。
 俺は……彼女は……
「頼む……頼むから……」渉は、息を散らした。自分が呼吸していると思う。生きていると思う。必死に、それを、意識する。
 俺は、生きていた。そして、生きようと思う。生きていたいと思う。願う。そう、思っている。
 そうだ。だから俺は、生きている。今、ここに、生きている。産まれて、死ぬまでの間、ここに、生きている。
 渉は歯を食い縛った。
 思わなければ、それを無くしてしまいそうだから。そう……亡くしてしまいそうだから。「頼む……彼女を……ひとりにして……やってくれ……」
「私は、ずっとひとりぼっち?」
 声が、届く。
 せつなく、果敢なく。
 それが、彼の胸を、切り裂く。
「孤独なまま?自由なまま?そうなの?私は、ずっと、そう?」笑っているのか、泣いているのか。「ねぇ、どこへ行ってもいいの?何をしてもいいの?ねぇ、そうなの?自由だから、何をしてもいいの?自分のやりたいことを、すればいいの?渉は、言ったよね。自分で、やりたいことを決めろって……」無邪気なのか、苦悩なのか。「……ねぇ、渉。人を、殺しても……いい?」
「やめてくれ!」渉は叫ぶ。「駄目だ!駄目だ……駄目なんだ……」
「矛盾してる。いいのに、駄目なの?どうして?」彼女は、問いかける。「それが、ルールだから?ルールは、間違ってないの?ルールは、絶対に正しいの?それとも、正しくないの?」憤るように、哀しげに。「ルールにあれば、人を殺してもいいの?ルールに無いから、人を殺してはいけないの?ルールにあるから、人を殺してもいいの?いいって教えられたら、そうしてもいいの?駄目だって、どうして言えるの?正しいことなんて、ないんでしょう?信じられることなんて、一つもないんだよ?正しいは、正しくないんだもの。そうでしょう?渉は、私に、本当のことを教えてくれたんだよね?」
「ミチル……」自分の声が、渉の耳に届く。それは、哀しいほどに弱々しかった。惰弱だった。
 情けなかった。泣きたかった。
 俺は……愚かだ。
 どうしようもなく……愚かだ。
「……それ、私の名前じゃないよ。」
 そうだ。渉は、首を振る。
 笑いたかった。
 笑って、いたかった。
 どうして、笑えないのだろう。
 どうして、泣けないのだろう。
 泣きたいのに、笑いたいのに、
 俺は……
 
 


[438]長編連載『M:西海航路 第三十七章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時30分 Mail

 
 
「渉さんのことが、好きです。」
 闇からの声に、渉は目を見開く。
「一目惚れって、そういうのなんだね。」無邪気な、笑い声。「初めて出会って、その場で、たちまち恋に落ちるんだよね?私ね、たくさん本で読んだよ。それで、みんな、幸せになる。幸せに、暮らせるんだよね?」くすくすと、楽しそうに。ただ、彼女は続ける。「でも、ねぇ、渉。恋って、何?愛するって、どういうの?愛される、じゃないの?」
 静寂が、あった。
 黙していたのか。
 黙すしか、なかったのか。
「ねぇ、渉。大人になれば……それが、わかる?」
 声だけが、それを、破る。
 彼女達の、声が。
「誰かのことを、考えること。」
「人を、求めること。」
「その人に、近付きたいと思うこと。」
「ずっと、いっしょにいたい。」
「他人の人生に、干渉すること。」
「どこまでも、誰よりも、近く……」
「ひとりに、なること。」
「あなたが、好きです。」
 彼は、世界を失う。心を失う。
 意識が、感じられない。
 記憶も、感情も、ない。
 思考だけが、
 想いだけが、
 そこに、残った。
 失いながら。
 消え去りながら。
 彼は、言葉を、発する。
 かけるべき言葉。
 言うべき言葉。
 それだけが、渉の口から、漏れた。
「二人の人間を殺したのは、貴女ですね?」
 それが、答えだったのか。
 それが、問いだったのか。
 それが、結論だったのか。
 事実と、現実と、真実。
「そうです。」
 答えが、戻る。
 あまりにも、あっけなく。
 あまりにも、安易に。
 答えは、彼の手に、握られた。
 再び、めぐりあう。
 そこに、至る。
 どこまでも、果てしなく。
 それは、無限だった。
「それは……」 
 詞に、できない。
「さあ、どうしてかしら?」
「そうすることを、決めていたからです。」
「本当に、そうなの?」
「命は、限りがある。」
「しなければならないことだ。」
「それは、あらゆる生命体に許されたことです。」
「そう、教えられて来たから。」
「そうすることが正しいと、信じていたのね?」
「愛していたから……」
 渉は頭を抱える。
 それは、苦しすぎた。
 耐えられない。
 そんなことは、無理だ。
 できるはずがない。
 無か。
 有か。
 生命には、限りが……
「貴女は誰です?」
 渉は、震える声を発した。
「あなたはだれです?」
「意味のない質問ですね。」
「わかっていることは、おっしゃらないで……」
「残された時間は、あとわずかです。」
「ゲームは、まだ続いているの?」
「ナナは、孤独です。」
「リセットしますか?」
「早く、大人になりなさい……」
 渉は、首を振る。意味のない動作だった。意味のない言葉だった。
 そして、それは、彼を打ちのめす。
 何もかも、現実で、
 何もかも、虚無だった。
 すべてが、正常で、
 すべてが、狂っている。
 すべてが……
「桐生さん。」言葉が、冷ややかに発せられる。「二人の人間を殺害させたのは貴方ですね?」
 絶叫が、渉を、破砕する。
 それは、砕け散っていく意識。
 違えていた、理由。
 信じていた、過ちだった。
 永遠の闇。
 誰も、いない。
 誰も、見えない。
 声だけが、する。
 それが、伝える。
 何という世界だろう。
 世界は、こうなった。
 こうなってしまった。
 面影は、ない。
 変わってしまった。
 何もかも、変質した。
 そこには、誰も、いない。
 ひとりだけだ。
 未来は、ひとり。
 自由?
 最高の?
『絶対、許さんぞ』
 甲高い笑い声。
 人が、発した声。
 それを、理解する。
 理解していたと、理解する。
 人が死ぬ。
 人が殺される。
 この手で、人を、殺す。
 誰が悪いのか。
 何が悪いのか。
 どうして悪いのか。
 愛したい?愛されたい?
 果敢なく、一部しか見えない。
 俺が殺した。
 俺が、犯人なのだ。
 矛盾している。
 その通りだ。だが、それは間違っている。
 正しいは、正しくない。
 どちらが正しくて、どちらが誤っているか。
 どちらが真で、どちらが偽か。
 虚実の、真偽。
 矛盾に満ちた、定理。
 考えることは、疑うこと。
 呼吸すること、鼓動すること。
 疑いはしない。生きていることを、疑いはしない。
 名前が、姿が、声が、記憶が、感情が。
 それを、今に、刻み付ける。
 自分が、生きていると。
 死んではいないと。
 だから……
 考え続ける。考えることを、止めない。
 手を伸ばすと、消えてしまうから。
 どこを見ても、断面に過ぎないから。
 だから、考え続ける。
 それが、例え、バグであっても。
 単なる、異常であっても。
 それを、止めはしない。 
 それが、今、
 受け入れられた。
 そうだ……
 それが、答え。
 同じになること。
 一つになること。
 それが……
 俺の、
 望みだった。
「あなたになりたい。」
 声が、する。
 声が、聞こえた。
 それは、目の前から。
 否、遥かな彼方から。
 それは、無限で、
 そして、永遠だった。
 浮かび上がる、シルエット。
 忘れたことなど、ない。
 それは、ずっとそのままで、
 そして、変わってしまっていた。
 蒼く、淡く。
 ほの暗い、その中に。
 彼女が、いた。
 舞い散る、黒髪。
 触れ合ったのは、手か。
 それとも、肌か。
 彼は、ただ、それを感じる。
 生きている。
 生きていた。
 失われて、
 産まれて、
 そして、失われる。
 その狭間に、人が、いる。
 それは、永遠に、狭間で、 
 始点も、終点も、ない。
 自ら、望むことなく。
 自ら、願うことなく。
 生死は、訪れる。
 彼の腕の中で、彼女が喘ぐ。
 抱擁が、せつない今を、
 激しい鼓動を、象る。
 熱く、激しく、
 二人が、結ばれる。
 夢と、現実。
 理想と、真実。
 ただ、それだけが、あった。
 そして、散っていく。
 どんなに、呼んでも。
 どんなに、叫んでも。
 それは、届かない。
 それは、わからない。
 すべてを、重ねても。
 すべてを、壊しても。
 すべてを、抱いても。
 それは、縮まらない。
 ひとつに、なれない。
 それが、生命だった。
 冷たいほど、果敢なく。
 優しいほど、せつなく。
 結ばれるほどに、何も、見えない。
 ずっと、そうだった。
 どうしても、そうだった。
 始まりもなく、終わりもない。
 永劫で、一瞬。
 時間だけが、刻まれていく。
 時が、過ぎ去っていく。
 未だ、来ることのない……
 終点を、目指して。
 ひたすらに、流れ続けていく。
 一欠けらの、涙のように。
 一しずくの、想いのように。
 ずっと……
 それは、続いていく。 
 波の音が、繰り返す。
 あの日の、思い出のように。
 幼き日の、子守歌のように。
 天窓より、届く、
 光と、音。
 どちらが、求めたのか。
 どちらが、望んだのか。
 世界を包んだ、闇の中で。
 どこまでも、薄く。
 どこまでも、蒼く。
 どこまでも、果敢なく。
 月の光が、眠る二人を照らしていた。
 
  
 


[439]長編連載『M:西海航路 第三十八章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時30分 Mail

 
     
   第三十八章 Memorandum

   「数えても数えても、数え足りない」


 眠ることは心地好い。
 考えてみれば、不可思議な表現である。眠っているということは意識を失っているということで、そこには個人の意思はない。循環器による身体機能の維持のみが行われる状態には、個人の思惟は何一つ作用していないはずである。だがそれを、どうして心地好いと思えるのか。
 眠りに落ちていく瞬間が、心地好いのか。それとも、眠れると思う……それを考えることが心地好いのだろうか。眠った後の爽快感、疲労が回復している状態が心地好いから、そうであると思えるのだろうか。
 そうだ。眠りは、それそのものは、決して心地好いものではない。その前後、言わば始点と終点において心地好いだけだ。その最中に、心地好いと思える……それを意識できるはずがない。皆、眠ることは心地好いと思っているだけだ。信じているだけだ。
 ただ始まりが心地好いから、その間も同じであると思う。終わりが心地好いから、そこまでもそうであったと信じる。
 答えがあれば、解に至るまでのすべてが肯定されるのか。それが、正しいのか。それが、当り前……自然なのだろうか。いや、とてもそうは思えない。
 現に、世界はどうだ。社会はどうだ。そうでないことが、どれだけ多いのだろうか。
 希望に胸を膨らませるスタートライン。了して涼味豊かなハッピーエンド。
 そうであれば、いいのか。そうであれば、それまでの何もかもが、救われるのだろうか。
 最後に笑っていられればいい、と言う人もいる。だが、最後とはいつだ?人をして、その最後の瞬間とは、たった一つしかないではないか。
 だとすれば、それは、無意味だ。なぜなら、最後には……
 最期には、笑うことなどできない。
 そこには、何もない。命を奪われた者に、笑う暇などない。それは断たれ、そして、それ以後は決してないのだ。笑う暇など、あるはずもない。そこに至る末期の瞬間に笑っていようとも、命が断たたれれば、そこに笑いなどない。笑えるはずがない。
 それでも、笑っていた?笑えた?笑うことが、できた?
 それは、違う!
 ただ、笑っているように見えるだけだ。笑っている、ふりをしているだけだ。笑っていたと、思い込んでいるだけだ。
 そうだ。本当に笑えるのは、喜びを浮かべられるのは、命を奪われた者ではない。
 それは、きっと……
 そこで、桐生渉は目を覚ました。
 いや、覚ましていたのだ。どこか漂うような思考の中で、彼はそれだけをはっきりと認める。
 周囲の状態を把握する前、まどろみの中で、俺は今の思考をしたのだ。それはまるで目覚めると忘却されていく夢のような、鮮明だがおぼろげな、矛盾に満ちた思索だった。そしてそれに、それを考えた自分自身に、渉は笑う。
 そう、笑える。皮肉に、それとも楽しげにだろうか。それは、わからない。
 だが、それでも、俺は笑える。それは、俺が生きているからだ。
 今、生きていると思う。生きられた、と思う。昨日も。そして、今日も……
 航海、五日目。
 そして、今日が……
 渉は、かすかな笑みを以って、軽く首を振る。何かを、戒めるように。
 そうだ。それは、もう違う。すべては変わってしまった。あまりにも、あっけなく。
 いや、あっけなかったかどうかはわからない。長い道程だったようにも思える。果てしなく遠かったようにも感じる。そしてまた、一瞬の出来事だったようにも。
 どちらかは、わからない。決められない。だが、一つだけわかっていることがあった。
 何もかも、もう、違う。俺も、そして、彼女も。
 すべては、変わったのだ。
 現実が、どうであろうと。事実が、どうであろうと。
 変わることが、できたのだ。
 渉の心に、言い知れぬ高揚感が沸き上がった。だがそれは、どこか殺伐とした……かすかな背徳を宿した、感覚だった。
 だがそれでも、それは彼にとって新鮮なそれだった。新たな息吹を感じる、確かなそれだった。
 彼は、全身でそれを感じる。風を、感じる。
 そうだ。
 俺は、もう…… 
 かすかな気配に、渉は顔を上げる。滑らかな感触の寝台から上体を起こし、日光……まさに朝のまばゆい光に包まれた寝室を見渡した。
 そして、そこで、気付く。
 それは、予測していた光景ではなかった。予想していた姿ではなかった。予期し得た、状況ではなかった。
 驚きが、渉を貫く。
 違う。
 ここは、違う。彼女は、違う。
 驚倒すべき、瞬間。
 渉は、今が現実なのかと思う。それを、疑う。眠っている間の、夢ではないか。これは、違うのではないか。まだ俺は、まどろみの中にいるのではないか。寄せては返す波のように、迷走する思考を続けているだけなのではないか。
 だが、それは明快に否定される。明確に、拒否される。
 これは、現実だ。間違いない。
 なぜなら、俺は、ここにいる。ここで、生きている。そう、信じている。それを、信じられる。
 ならば、これは……
 彼女は、誰だ?
 渉の傍ら。手を伸ばせば届く距離で、白色のシーツを巻いて眠る、少女。
 肌は抜けるように白い。艶やかな黒色の髪は、細い首に至る程度で奇麗に断たれ、うなじから細い肩に繋がるラインが露出していた。閉じられた目、かすかな寝息を立てている口許は調い、その薄手のシーツ越しに窺えるしなやかな身体のラインと共に、渉の呼吸を止める程の麗容さを醸し出していた。
 だがそこで、渉は気付く。嫌が応にも、それに。異質なものに。違ったものに。
 眠る少女の、白い肌。その顔の……頬に、首筋に、かすかに残る何かの跡。いや、それだけではない。形ばかりのようにまとわれたシーツから露出する少女の足や二の腕にも、かすかな何か……そう、細い筋のような、あるいはあざのような、幾多のそれがあった。そしてそれは、彼女の手に一層顕著だった。ほっそりとした白い手は、よく見れば無数のささくれだった痕跡に包まれている。その数は、筋跡は、想像を絶していた。手首などのそれも確かに多いが、手の……指のそれに至っては、皮膚の筋とどちらがそれか判別できない程に痕跡が走り、幾重にも入り組んでいる。
 怪我……だろうか。確かにそれは、傷跡に見える。頬や口許のあざなどは新しいそれに見えるが、指や身体に走るそれはどう見ても一朝一夕にできたものではない。だがそれらの傷跡に目を引き付けられつつも、渉はどこか、それらの痕跡を問題にしない少女の美しさに感嘆めいた感情を覚えた。そう、彼女は美しかった。渉は、その肢体に目を奪われる。だがそこで、噴出してきた新たな疑問が彼の思考を動かした。
 そうだ。彼女は……この少女は、誰だ?
 彼女は、何者なのだ。そして、ここはどこだ。
 渉はベッドから部屋を見回す。客室のようだった。ベランダもあり、リビングのスペースもかなり大きい。かなり上等の部屋と思われた。間違いなく、特等船客のレベルである。だがそこで、渉は気付く。この部屋は、九条院瑞樹の部屋に酷似している。あの、死臭に包まれた、冷たい部屋。おそらく同じタイプの客室なのだろうが……!
 眠る少女がかすかに呻き、渉は思考を止めて緊張に身を包む。息を潜め、渉が見守る前で、少女は身じろぎをすると、その身体を大きく返した。隣の渉に背を向けかけていた状態から、渉の側に向き直るように寝返りを打ってくる。渉は思わず身を退け、半ばベッドから降りた。少女はそのまま大きく吐息を散らし……そして、再びリズミカルな寝息を立て始める。
 渉は安堵し、静かにベッドから身を下ろした。あどけなく眠る少女……はだけられたその白い肌はあまりに無防備であり、そして、そこには渉に目を逸らすことを許さない程に、はっきりとした幾筋もの痕跡が刻み付けられていた。どこまでも瑞々しい若い肢体とあまりに不釣り合いなその傷跡に、渉は眉根を寄せる。
 だが、そんな中ですら、渉は思う。純粋に……ただ、この少女は美しい、と。穢れていない、と。
 そうだ。俺とは違う。共に生まれたままの姿であろうとも、俺とこの少女は、違うのだ。
 俺は、奇麗ではない。俺は、正しくはない。無論それは、表面のそれなどという些末な問題ではない。
 俺は、変わった。俺は、もう、違う。俺は、普通ではない。一般ではない。俺は……
 渉は、首を振る。そして、笑った。軽く伸びをすると、今の状況に、目の前の現実に意識を集中する。
 ここが、どこなのか。この少女が、誰なのか。
 一つ目の問題は、ある意味で既に解決していた。なぜなら、窓の外が見えるからだ。渉は歩を進め、そこから外を見る。遥かな先まで、ブルーの大海原が広がっている。そして、船のデッキ……甲板が下に見えた。目測と今までの経験から、この船室がかなり上部のデッキにあることがわかる。そうだ。俺の部屋には及ばないが……
 瞬間、渉は目を閉じた。
 それは、想望。
 あまりにも鮮烈すぎる、イメージの奔流だった。
 だが、これは、違う。違い過ぎる。
 だとすれば、何なのだ。俺が考えるべき現実とは、何だ?
 渉は黙した。ふと思い、意を決してバスルームらしきドアに向かって歩く。なるほどそこは確かにそうであり、おそらく少女のものであろう、大量の化粧道具らしきものが化粧台に置かれていた。渉は納得したようにドアを閉めると、そのままシャワーのスイッチを入れた。
 熱い湯が、彼の全身に叩き付けられる。肌が痛いほどのそれが、彼の心身を目覚めさせる。
 朝が、来たと。一日が、始まったと。
 また、俺の、一日が。
 弾ける飛沫の中で、渉は笑った。
 そう、また、だ。目覚めれば、知らぬ場所。起き上がれば、知らぬ相手。何度、同じ思いを体験しただろう。思い返すに、この航海が始まってから此の方、俺は一度として既知の場所で目を覚ましていない。目を開ければ、眠りから覚めれば、そこには必ず見知らぬ別の現実があった。容赦なく、叩きつけるように襲いかかってくる、想像を絶する現実。それらは一つとして同じでなく、そしてまた、すべてが驚く程に新奇なそれだった。良いか悪いかなど判断できるはずもなく、それを考えるより先に、次々に新たな事象が現れる。ページをめくるように、それが眼前に表れる。それはまさに、一虚一実とでも形容すべき日々だった。
 そして、今朝もまただ。目覚めれば、俺は見知らぬ部屋にいる。見知らぬ相手がいる。それが、俺に寄り添って、眠っている。
 これが、現実なのか。これが、俺のいる世界なのだろうか。渉は、皮肉に笑う。
 言葉は届かず、わかりあえず、ただ翻弄されて行くだけしかないのか。答えはどこにも見つからず、誰からも与えられず、次々に新たなそれが現出するだけなのか。考える暇はない。どれが大切か、その是非すら見極められぬまま、ただ、流れ続ける。零れ落ち続ける。
 それが、生命なのか。
 渉は首を振る。そして、一気にシャワーの温度を下げた。凍りつくような冷たさのそれを浴びて、全身の感覚を再び覚醒させる。
 渉は、目を閉じた。
 そうだ。それが、どうしたというのだ。だから、何だというのだ。
 俺は選んだ。俺は決めた。そして俺は、それを見つけた。いや、そこに至った。至っていたと、理解した。自分に、気付いた。そうだ。それが、そう思い込んでいるだけでもいい。
 そうするだけだ。どうなろうと、関係ない。
 世界がどうなろうと、現実がどうなろうと、俺は、進むだけだ。
 自暴自棄と一笑に付されるだろう。誰一人、それを理解できるとは、してくれるとは思えない。
 だがそれが、真実ではないのか。個人個人の、人の想いではないのか。
 渉はバスルームを出た。少女はまだ眠っている。残った水滴を拭く途中、髭がわずかに伸びていると渉は気が付き、そういえばろくにそういった身仕度をしていないなと思う。確かに、そんな暇はなかった。そうだ、すべては、速すぎた。あっという間だった。
 渉はとりあえず、バスタオルを巻いただけの姿で手近なソファに腰掛けた。そして、黙したまま考える。
 この部屋がどこか、この少女が誰かは、それほど問題ではない。それは、彼女が目覚めればおのずとわかることだ。それより重要な問題は、俺がどうしてこの部屋にいるのかということと、さらにはこれからどうするのかという、これからについてだ。
 そうだ。俺はまた、運ばれた。まさに魔法の如く、俺は、また場所を違えた。
 北河瀬晴之の部屋で昏倒し、悴山医師の医務室で目を覚ました。
 夜の廊下で意識を失い、デビィ婦人の船室で目を覚ました。
 白いエレベータの中で屈し、血まみれの部屋で目を覚ました。
 無論、あの血ぬられた部屋でさらに意識を失った後、黄色いドアとクリーム色の壁を持つ密室で目覚めたこともある。さらに考えれば、そもそも西之園萌絵に騙されてこの船に乗り込み、出航翌朝、あのスイートの『既知でない』寝室で目覚めたこともそれに加えられるかもしれない。
 そして、誰が行ったかわかっているか否かという定義で分別するのならば、あの派手な髪の色の女性……富名腰、だったろうか……北河瀬晴之の部屋から彼女が連絡してくれた医務室に至るものと、同様に偶然に俺を見つけたというデビィ婦人が船員を呼んで運んでくれたという、三日目朝に至る二つについては、それに当てはまる。
 ならば、その前後について今を以って何一つわかっていないのは、あの三日目の白昼に起こったものであろう。
 渉は、悴山貴美より聞いた奇怪な事件の顛末を回想する。七分置きに閉じていったドア。そして、正午を境に、七分置きに開いていったドア。そして、最後……七分に加えてもう七分、十四分を空けて開いた最後のドア。それらは体験者でない渉にとり未だ現実感の薄い内容だったが、ただ二点……その発端と終端において、彼自身に比類なき鮮烈なイメージを刻み込んでいた。
 白いエレベータの中で、こちらを見つめる少女。
 赤い部屋で目覚め、目にした死の光景。
 そうだ。亡骸と共に、俺は目覚めた。その手に、凶器を握って。そして、壁に血で刻まれた……
 渉は、そこで瞳を閉じる。
 届くのは、声。
 聞こえないのは、詞。
 ならば、人は、どうすればいいのだろうか。
 言葉のない世界。
 そこで、人は、どうすることができるのだろう。
 わかっていることがある。わからないことがある。
 そうだ、今も……
 渉は、目を開く。部屋があった。未知の部屋。未知の少女。
 そして、未知の、時間。
 それは、消えはしない。それらは常に、そこにあった。あり続けた。変わっていくはずなのに、確かに、ここにある。
 彼は、笑った。声を出さずに。そして、再び大きく伸びをする。肩と首を鳴らし、部屋を見回した。
 贅沢な一室だった。ネットワークの端末も当然のようにある。だが、今の俺には無用のものだ。渉はもはや船客でない自分を再確認する。そうだ、今は、この部屋のドアが開くのすら定かではない。俺にとってこの船は迷宮で、そして、閉ざされた牢獄のようなものだ。外界と通信することも、情報を手に入れることも、できない。日本で、世界で何が起こっているのかも、知るすべはない。
 わかるのは、目の前の現実だけだ。そして、それすらも、どれほどあやふやなことだろう。それは、どこまでも万華鏡のように変わり続けていく。
 まぶしい肢体を惜し気もなく晒して、眠り続ける少女。十代……その半ばか、後半か、もしくは二十そこそこだろうか。彼女が眠るのは、渉自身が目覚めたベッドでもあった。だとすれば、俺と彼女は恋人同士なのだろうか。
 恋人、か。
 渉は、瞳を閉じる。
 あれは、刹那の安らぎだったのだろうか。
 それとも、最高の自由だったのだろうか。
 どちらでもあり、どちらでもなかったのかもしれない。
 そうだ、それは……
 わからない。
 彼は、また、笑った。
 
 


[440]長編連載『M:西海航路 第三十八章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時31分 Mail

 
 
 そして、立ち上がる。再び、部屋を見回した。着用していたガウンはどこにも見当たらない。渉はさらに少しばかり部屋を調べる。ガウンも、渉が捜すもう一つの物も見当たらないが、リビングのテーブルの下に小さなハンドバッグを見つけた。この少女のものだろうか。それは半開きになっており、何か小物が覗いている。渉は少し考えると、その鞄を取り上げた。
 飾り気のない黒色のハンドバッグ。開けてみると、そこには古ぼけた手帳が一冊と、同じように使い古された万年筆が一本入っているだけで、それ以外には畳まれた白いハンカチが一枚しか入っていなかった。女性のバッグというものにつき講釈などできるはずもない渉ですら、これが甚だ若年な少女の持つそれらしからぬ中身だろうということはわかる。ありがちなコンパクトなどの化粧用具や、そういった……大学の女生徒がよく取り出しているような小物が、まったくない。あまりにも簡素すぎるそれだった。財布も身分証も、何もない。あるのは、古ぼけた手帳一つだけだ。
 だが、そこで渉は気付く。そうか、それも当り前かもしれない。この船に乗り込む際に、俺達船客は共通の身分証明書であるパスポートを船側に預けているのだ。加えるなら、財布やクレジットカードを含めた貴重品も、必要に応じて。そして、この船の中ではあらゆるサービス利用が船側から渡されるゲストカードで事足りる……いや、ほとんどのサービスを利用するのにそれが必須である以上、無理に別のカードを併用しようとする者がいるとは思えない。さらに盗難などのことを考えれば、航海中は無用となる貴重品や現金などは預けてしまうのが安心だろう。事実俺も、ゲストカード以外のそういった品々はすべて預けてしまっているではないか。
 渉は今更のように、この船の皮肉な管理体制を認識する。そうだ。この船に乗り込んだら先、他人を識別する方法などあるのだろうか。身分証はなく、持つのはカード一枚だ。確かにそこには名前が刻まれているだろう。だがそれを見せあうことなく、いや、例えそうしたとしても、俺達は互いを何者で、どこの誰だと理解できるのだろうか。人の言葉を、それを、信じられるのだろうか。考えてみれば、俺が今までこの船で出会った人達は、そのすべてが既知の人ではない。ほんのわずかな例外を覗いて、すべてが未知の人々だった。
 そうでなかったのは、たった三人だけだ。いや、四人……だけだ。
 真賀田四季。
 真賀田未来。
 ミチル。
 そして……九条院瑞樹。
 一時、渉は信じ難い事実に慄然としかける。だが、彼は激しく首を振ってそれを、その思いを振り払った。
 そうだ。俺が知っていたのは、ただ『彼女達』だけだ。あえて加えれば、九条院佐嘉光と宮宇智實もそれに当てはまるかもしれない。
 だが、それらの……彼らの不確かさはどうだ。いや、それは、瑞樹もまた同じだ。
 九条院瑞樹も、同じなのだ。
 渉は、皮肉に笑う。
 ただ、西之園萌絵から聞いた名前。ただ、諏訪野老人から聞いた名前。宮宇智實に至っては、元より身分すら怪しい。
 ならば、果たして先の人々は、確かなのか。彼女達が、そうなのか。
 真賀田の血を引く、三人の女性。
 三人……?
 渉は、息を詰める。胸に、歪むような圧迫感があった。深く息を吸い込むと、それを散らすために大きく息を放出する。ふと、喉の渇きを感じた。唇をなめる。乾いていた。何かが、あるいは、何もかもが。
 再び、目を落とす。そこにはハンドバックがあった。渉は、心中を捉えようとする思念を変えようとするように、古ぼけた手帳を手に取る。左開きでメーカーもわからないが、どうやら日本製のようである。確かに眠る少女は肌が白いとはいえ、面立ちを含めて日本人らしく見える。渉は何か手がかりがないかと手帳を開き……
 書き込まれたおびただしい数の文字が、渉の目を見開かせた。
 それは、言葉だった。刻まれた、詞。
 だがそれは、理解できない。彼には、理解できない。
 日本語ではない。似ているが、英語でもない。横のラインにびっしりと刻まれた筆記体のそれは、筆圧がとても濃く、そして、何よりも荒々しかった。
 そうだ。異様だ。これは、正常ではない。渉は反射的に、そして漠然と、それを直感する。
 詞は確かにわからない。一見、整然と書かれているようにも思える。だが、よく見れば一つ一つの字は書かれる中で変則的に歪み、縮み、ある文はどう見ても書き殴られ、またある文は震えるように所々が飛び、筆圧で紙を破く程ににじんでいる。そのぶれかたは、とても平常な心境で記したようには思えなかった。
 そして、それは、すべてが同じだった。ページをめくると、また、そういった乱れた文字。次もそうだった。そして、また次も。
 渉は形容のできない何かを感じてメモ帳から目を逸らす。深呼吸をした。
 そうだ、俺の勘違いかもしれない。人の手帳を盗み見ているという罪悪感で、正常な判断ができないだけかもしれない。この手帳があまりに古いので、そう見えるだけかもしれない。
 だがやはり、何かの思いに囚われて、渉は再び手帳に目を落とすと、さらなるページをめくっていった。英語のアルファベットに似たその文字は、めくるたびに延々と、まさに隙間もほとんどなく続いている。絵や記号のようなものは一つもない。それは、何かの文章なのだろうか。そうであるとは思うが、ピリオドやコンマのような句読点ばかりで、感嘆符や疑問符などが皆無なために把握できなかった。
 だが、それを見ていく内に、渉は気付く。
 そうだ。俺は、知っている。俺は、この字を初めて見たというわけではない。これは、確か……
 渉は今一度、目の前に並ぶそれらをじっと見つめ……そして、答えにたどりつく。
 独語。
 そうだ、これは独語だ。間違いない。これは、ドイツの……
 ページをめくろうとした渉の指が、そこで、かすかに震えた。
 独語を解していた、一人の女性。いや、ドイツで生まれた女性、か。白金にも似た短髪の、ふくよかな物腰の優しげな女性。
 そして……そう、もう一人。その女性と会話している、一人の少女。その姿が、渉の脳裏に浮かぶ。
 そう、彼女……
 渉は、思わずベッドの少女を見る。違う。そうだ、それだけは間違いない。なぜなら、彼女は、彼女だった。俺は、それを確かめた。確かめることができた。いや、端から、そう信じていたのだ。確かめるという形容は、違う。そう、違うのだ。
 ならば、何を考えている?俺は今、何を思っている?
 そんなことがあるはずがない。絶対に、違う……!
 たまらなくなって、渉は手帳を閉じた。元に戻してしまおうと、置いてあるバッグに片手を伸ばす。だがその最中、渉の持つ手帳から何かがポトリと床に落ちた。
 渉は驚いてそれを見る。落ちたものはどうやら紙片で、まさか古かった手帳を壊してしまったのかと彼は焦る。慌てて、床に落ちていたそれを取り上げた。
 片膝をついたままそれを観察すると、渉はほっと息をついた。確かに紙片だが、外れたページではない。いや、手帳のページだったのかもしれないが、それは意図されてちぎられ、奇麗に折り畳まれていた。おそらく手帳のどこかに挟まれていたのだろう。同様に古いものらしく、裾が黄色く変色している。メモの切れはし、という形容がまさにふさわしい。渉は何の気なしに……いや、興味をそそられて、それを開いてみた。また、独語の何かだろうか。
 そして、渉は、呼吸を止めた。

 A∩B={x|x∈A,x∈B}
 
 紙片には、それだけが書かれていた。非常に奇麗な字である。まさに教本というか、お手本のようだった。大学でこういった筆記がうまい教授を渉は何人か知っていたが、これはそれらの人々に優るとも劣らないほど字体が流麗だった。まるで教科書をそのまま書き写したような……まさに、活字の如き筆跡である。確かに紙は古く、字を記したインクもかなり色あせていたが、そんなことは問題ではなかった。いや、それらはまさにこの整然とした一行に比べ、あまりに脆弱に思える。
 しばらくの間、渉はその美しく整った字で記された数式を見つめていた。無論、理解できない訳はない。むしろ、単純すぎると断じられるそれだった。まさに、書体共々、すべてがお手本のようだ。
 だが渉の目は、それに引き付けられていた。この一片の紙片から、目が離せない。いや、紙片ではない。ここに刻まれた、文字から。その数式の持つ、説明する、意味から。
 Aと、B。
 二つの集合。
 ある要素、条件を満たす数字の集まりとして二つを比較する時、互いに存在する……
 渉は、言葉を詰めた。思考を切った。それを、閉じた。
 思わず、手が震える。身体が、わななく。何を理解したのか。何を、知ったのか。彼は、気付かない。気付けない。
 そう、気付きたくない。
 渉は、息を吐いた。深く。どこまでも、深く。
 そして、丁寧にメモを閉じる。手帳を開き、どこに挟まれていたのかわからないために、適当なページにそれを挟んだ。そして、ハンドバッグに戻し、元の場所にそれを置く。
 渉は立ち上がる。髪を含め、身体もすっかり乾いていた。部屋の空調は良好に保たれているようだ。そして、未だ少女は目覚めない。まさかと思いつつ、遠目にもそのふくよかな隆起が鼓動しているのが窺えた。どこか安堵めいた思いと共に口許を緩めて、彼は部屋のキッチンに向かう。
 唇が乾いている。だから、コーヒーが飲みたいと思う。そう思うと、腹も減っていることに気付いた。そうだ、朝食を採ろう。熱くて濃いコーヒーを、思い切り飲もう。
 そう決めると、心がどこか楽になる。渉は含んで笑い、部屋の一角に作り付けられた小さなキッチンに立つ。冷蔵庫を開け、品揃えの見事さに唸った。確かにあのロイヤルスイートには及ばない。だが、渉が今まで暮らしていた……そう、西之園萌絵の手により引っ越しを促される以前の、あのN大男子寮の部屋にあった冷蔵庫の中身などと比べると、それはまさに次元が違える豊富さだった。男女二人なら、楽に三、四日は食べられそうである。
 軽く口笛を吹き、そして渉は再び少女を遠目にして、今度はニヤリと笑う。そうだ、まさに物語の……映画のようではないか。いつも目覚めては驚かされているのだ。時には、俺が驚かす側に回ってもいいだろう。
 渉は鼻歌混じりで朝食の準備を始めた。できるものはたかがしれていたが、それでも構わない。サラダとベーコンエッグ、バターとチーズにハム、トーストにコーヒー……だろうか。デザートに甘いものもいいかもしれない。フルーツも何種類かあった。
 愉快だ。渉は心底からそう思う。まさに刹那的な、一瞬のそれかもしれないが、この船に乗ってから一番楽しいと感じられる瞬間かもしれないと渉は思う。だがそれもまた、積み重なる過去として消えて行かざるを得ないものだろう。この一瞬の悦びを、永遠に留めておくことは不可能だ。だがそれでも、誰かわからぬ少女と自分のために朝食を作っているこの時間は、渉にとりたまらなく愉快だった。
 電熱式のコンロが作動する。フライパンから油が跳ねるのを避けるために、渉はクローゼットに向かった。開けると、なるほどそこには何枚かの衣服がある。おそらく船側が用意したものであろうが、何着かのドレスを含め、卸し立てのような上質の衣服ばかりだった。しかし残念ながら男物のそれはなく、渉はワイシャツの一枚でもないかとさらに奥を探して……
 そして、それに、気付いた。
 手が、止まる。それを、じっと見る。
 何かが、震えた。
 指が、伸びていく。ゆっくりと、だが、はっきりと。
 そして、触れた。
 ぞっとする感触だった。どうして、これほど不気味なのだろう。
 あれほど、滑らかなのに。あれほど、心地好いのに。
 どうして今は、こんなに気味が悪いのだろう。
 渉は、それを取り上げる。クローゼットの奥底から、持ち上げる。
 目の前に、現れたもの。それを彼は、見つめた。
 心底から、ぞっとする。もし自制を……そういった思考を働かせなければ、瞬く間にそれを投げ捨てていただろう。目の届く範囲から。目の前から。現実から。渉は、それを確信する。
 だが今、彼は、じっとそれを見つめた。
 それは、人間の髪だった。
 漆黒の、黒髪。
 いや、違う。馬鹿め。
 そうだ、これは……
 それを、模倣したもの。真似たもの。
 その、ふりをするもの。
 長い、漆黒の髪の、それはかつらだった。
 その長さは、ゆうに腰までもありそうである。それを持つ渉の、二の腕から先を覆い隠すほどの黒髪が、まるで生き物のようにも見えた。手にしてなお、いやむしろ、だからこそ、不気味さは抜けない。拭い去れない。
 だが。
 渉は、割れ鐘のように鳴り響き始めた心臓を感じる。
 そうだ。これは、何だ……?
 いや、違う。これが、何かではない。
 俺は、何を……
 何を、考えている?
 渉は振り向く。寝台の少女。
 そんな、馬鹿な!
 そうだ、違う。そんなはずがあるものか。
 それは、絶対に、違う。それだけは、間違いない。そんなことが、あるはずがない。
 俺が、そんな間違いを……そんなことを、するはずがない!
 俺は、それほど馬鹿ではない。愚かではない。俺は、絶対に……
 渉は、息を止める。
 絶対。
 100%、そうであるということ。
 彼は、恐慌する。我を失う。どうしようもないほど、はっきりと。
 そして、渉は、歩を進めた。そのまま、少女に歩み寄る。
 確かめなければならない。それを、知らなければならない。
 わからない。わからないから。わからないのは……
 それは、絶対に、嫌だ。
 そうだ。わからないのが嫌なのではない。それは、違う。
 答えは、既に出ている。もし答えが出ていなければ、出ないのならば、それは嫌ではない。不快ではない。
 答えが出ているから、嫌なのだ。その答えを否定されるのが、嫌なのだ。
 自分が間違っているのが、怖い。間違いであると知るのが、それを知らされるのが、怖いのだ。
 心にある、浮かんでいる、一つの疑問。だがそれは、既に疑問ではない。答えに至れない、それではない。解を導くことのできないそれではない。
 イコールはある。既に、それはつながれている。疑問として浮かんだ時、既に答えに導かれている。
 それは、始まった時に、既に終わっていた。
 間は、ない。絶対に、ないのだ。
 そうだ。今も、そうだ。今も、そう思っている。それを、確信している。
 だから、俺は……
 渉は、ベッドサイドに至る。どこかで、お湯が沸騰する軽やかな音がした。だが渉はただ、唖然と目の前で眠る少女を見つめた。まさに無垢な姿態が、そこに晒されている。
 手を伸ばす。伸ばしかける。あざの残る顔……それを、渉は、真正面から見る。捉えようとする。
 そして、触れた。肌は、暖かい。生きている。渉はそれを知る。そして前髪を少し、震える指で、そっと、払った。
 安堵が、かすかに彼の中に過る。
 違う。そうだ、間違いなく、違う。そうだ、そのはずだ。当たり前じゃないか。渉は安堵しつつ、そして、だがそれを完全に受け入れられない自分に、再び狼狽する。
 どうした?俺は、何を考えている?
 そうだ。これは、違う。彼女は、彼女ではない。そうだ。それは、間違いない。ならば、どうして落ち着かない?安心、できない?
 そうだ。だが……
 だが?
 渉は、自問する。
 そうだ、だが、しかし……
 彼女を、どこかで……
 渉は、じっと、少女の顔を見つめた。
 傷ついた、あどけない寝顔。子供のようだ。いや、もしかすれば、ほんの子供なのではないか。早熟なだけの、十を越えたばかりの少女なのではないか。
 渉は、再び、そっと手を伸ばす。何をしようとしているのか。それも、定かでないまま。
 だがそこで、少女が大きく震えた。
 そして、開かれる。
 渉が驚きに目を見張った、まさにそれと同時に、少女の瞳が、大きく見開かれる。
 青い、瞳。
 渉は、戦慄に身を包む。
 それは、確かに青かった。海のような、空のような、神秘的なきらめきを放つ、濃いブルーの瞳。
 彼は、震える。その輝きに、震える。二つの青い輝きに見据えられて、彼は、すべてを止める。
 そうだ、彼女は……
「わた……る……くん……?」
 日本語。いや、それよりも渉を驚かせたのは、意識を現実に戻したのは、その声だった。
 はっきりと、記憶が甦る。そして、感情が訪れる。
 生成されるのは、意識。
 そうだ……
 y=f(x)……?
 それを、渉に教えた者。
「ふふ……」寝ぼけたような笑い声が、渉の耳に届く。「……おはよう、桐生君。」
 悴山貴美が、そこにいた。
 
 
 


[441]長編連載『M:西海航路 第三十九章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時31分 Mail

 
 
   第三十九章 Metamorphosis

   「現実とこの世界に違いなんてないよ」
 
 
「おはよう……ございます。」
 惚けたように、桐生渉はそう言った。
 沈黙。そして、かすかに唇を震わせ始める白い少女。痛ましい傷跡もそのままに、彼女はくっくと笑い始め……瞬く間に、腹を抱えて笑い転げた。「ふふ……駄目、苦しい……あはは……!」肩を揺すって、笑う。ころころと、自分の艶姿をよそに、彼女はただ、おかしそうに、楽しそうに、笑っていた。
 何がおかしいのだろう。俺が、笑われているのだろうか。憮然としつつも、だがそれは渉自身もどこかで納得でき得るものだった。
 そうだ。彼女は、俺を笑っているのだ。ならば、何かおかしいのか。それもまた、考えるまでもなく容易に察することができた。
 あまりに滑稽で、だから、笑っているのだ。何も知らない、何も気付かなかった、道化の俺を。
 彼女は……
 渉は、身震いを抑えられない。手にした黒々とした物は、まだそのままだった。
 黒い髪。そして、目の前で笑い続ける、白い少女。
 渉の中で、何かが沸騰した。それは、単純な思考だったのかもしれない。いや、きちんとした思考と呼べるのだろうか。それはある意味でとても無垢な、そしてだからこそ明快な、彼自身の心中より噴出する感情だった。
「おかしいですか?」渉は吐き捨てるように言う。「そりゃ、おかしいですよね。俺は、ピエロですか?猿回しの猿ですか?何も知らず、何もわからず、何も思い付けず、ただ、他人の書いた筋書通りに動いて、翻弄されて、もがいてのた打ち回って。傍目から見りゃただの間抜けな……どうしようもない馬鹿ですよね。」少女が……悴山貴美が動きを止めた。きょとんとした目でこちらを見る。今更何を言っているの?とでも言いたげだ。そしてそれが、渉の神経をさらに逆撫でした。
 そうだ。俺は無知だ。無恥で、無智な……ただの、愚か者だ。
 渉は笑った。憤激の中で、嗤った。
 打ちのめされ、翻弄され、無理だとわかっているのにあがこうとして、また、同じように失敗する。すべてを、繰り返す。何度も、何度も。呆れるほど、懲りもせず、延々と。
 どうして、これほど苦しまねばならないのか。どうして、こんな目に遭うのだ。周囲を見ろ。世界を見ろ。すべては彼女のように、笑っている。俺を、笑っている。ドジな奴だと。愚かな奴だと。
 そして、それを知るたびに、傷つく。それに気付くたびに、やるせなくなる。どうしようもなく、ただ。
 自分が、嫌いになる。何もかも、嫌になる。他を求め、裏切られ、疲れ果てる。事実を知り、現実を悟り、膝を屈する。
 だから、変わりたいと思う。それを、願う。求めて、望んで……
 変われたと、思った。ようやく。永遠と思える、道程の果て。
 だが、それが、また……
 渉は、手にしたそれを、渾身の力で掴む。目の前の白い少女を、青い瞳の娘を、睨み付けた。
 そうだ。そして、それはまたも、一瞬にして崩れ落ちた。変貌した。変わり果てた。一夜にして、灰になった都のように。その興亡は、あまりにも素早く……そして、突然だった。いつも、いつも……
「こんな、もので……!」彼は、叩き付けた。憤りのままに。「俺は、貴女は……何を……!」だが、言葉がない。それは、見つからない。
 渉は、激昂のままにただ、彼女を睨む。ベッドの上の少女を。
 白い裸身。生まれたままの姿の彼女は、だがそれでも美しかった。
 傷ついている。渉はそれを見取る。身体中の傷。潤んだ青い瞳。それが、すべてが、痛ましい。そして、どうしようもなく、許せない。やるせない。
 だが、それでも、彼女は奇麗だった。そして、彼女は憎らしかった。俺を笑った、彼女の心が。こんな風に俺を見る、彼女の目が。
 心と、体。
 心は、ない。それは、感情と過去に導かれて意識されるものだ。
 だから、怒りを覚える。そして、美しいと思う。どうしようもなく、やるせなくなる。
「桐生渉君……」悴山……白い少女は、はにかむように、呟く。
 彼の名前を。
 そうだ、それは……
 俺の、名前。
「私ね……海が見える、小さな町で生まれたの。」かすれたような声だった。渉は、声を失う。色を失う。それは……彼女の、声。「両親のことは、よく知らない。ただ、曾祖父か曾祖母……どちらかは、西欧の人だったらしいの。だから、私は日本人の父母から生まれたけど、こんな西洋人みたいな肌や目の色をしてた。時々、こういうことがあるんだって。でも、ほら……髪だけは奇麗でしょう?本当はもっと長かったんだけどね……色々あってね、少し前に切っちゃったの。」下を向いていた少女の瞳が、渉に向き直る。「本当に小さかった頃は、みんなが自分と違う理由がわからなかった。違っていることはわかったけど、どうしてそうなのかがわからなかったのね。でも、両親が共に亡くなって、親戚の家に引き取られて……」微笑して、軽くウインクする。それがあまりにも不似合いな仕草に見えて、渉は戸惑った。「その後は、渉君にも話したわよね?」
 渉は、にべもなく頷く。感情は消えていた。静まったのか、別のものに変わったのか、それはわからない。「はい……色々あって、家を飛び出して、アメリカの学校に……」初めて会った夜、語られたことだった。渉は、迷惑と思いながら聞き流していた言葉を、彼女の過去を思い出そうと必死になる。「……すみません。あまり細かくは、どうも覚えてなくて……」
 少女……悴山はクスッと笑った。「私ね、持病があるの。」呟く。「肝レンズ核変性症……うーん、きっと、説明したってわかんないわよね。とにかく、ちょっぴり珍しい病気なわけ。だから……ま、こんなことになってるの。そうなんだって理解したのも、結構大きくなってからだったわ。でも、昔のことを忘れてる訳じゃない……」笑った。「記憶力ってね、子供も大人もその程度に差はないのよ。小さな頃のことは覚えてないっていうのは、決して子供の脳が未発達で、記憶力が定かでないからじゃないの。それはね、まったく逆なのよ。ただ、小さな頃は印象を詞にできないだけ。目にした光景や出来事は、ずっと覚えているの。ほら、美しい、とか、奇麗だ、とか……美麗だ、とか、端正だとか……大人は、そんな飾り文句をたくさん知っているだけ。それらをキーワードにして、イメージの再生や、転送のために使っているだけなのよ。」白い少女……悴山貴美は、シーツの上で膝を曲げた。「でも、それはね、とても不幸なことだと思うわ。言葉を数多く知っていることは、決していいことばかりじゃない。それはね、その詞を知ることで……その意味を、綺麗だとか汚いとかそういう詞の意味そのものを、実際に経験したんだという錯覚を本人に与えてしまうの。でも実際は、自分が本当に体験したことじゃないのよね。」抱えるように、それが、揃う。「私達はね、何かを心から奇麗だって思う前に……物事を知覚し、こういうことなんだって認識する前に、言葉としてその形容を知ってしまっているの。つまりは実体験するのではない、データとしての形しかない知識……活字や映像、つまりは文献によるそれを含めたテレビやラジオ、その他のメディアによる情報を、既に大量に与えられてしまっているのよ。」悲しそうに、渉を見る。「実体験している、目の前の現実として直視した結果の知識なんて、考えてみればほとんどないのよ。でも、子供の頃はそうじゃない。見るものすべてが新鮮だって、大人は美辞麗句として言うけど……それは、子供の頃は当り前なのよ。でも、歳を経るに従って……いえ、人が歴史を重ねる毎に、それらの割合はどんどん減少していくわ。現実として与えられていない、データとしての知識だけが、どんどん私達を満たしていくの。そして個人が、個々の記憶としてしかそれらの情報を取得、蓄積できない以上、その実体験と……いわば、仮想によるその他のデータを区別することは、とても難しくなるわ。」
 膝を抱えた少女は、笑った。とても果敢ない、微笑だった。
「それは、おかしいって思うかもしれないね。例えば桐生君と私が、こうして大きな船に乗って海に出たって体験。それと大航海時代、七つの海を巡った帆船の冒険物語を読むこと。その二つが同じものだ、どちらが実体験した現実か区別できなくなるなんて、おかしいって思うかもしれないね。そんなことを考えるのは、夢見がちな子供だから、一般常識がないからだって、思われるかもしれない。でも、私は違うと思うの。本で読んだ世界、仮想として得ることができた仮初めの現実……それはね、全部本物なのよ。例え一瞬後には否定されても、笑い飛ばされて自分でも嫌になってしまっても、そうなるまでは、読んでいる時や体験したその瞬間には、すべてが本当のことなの。タコみたいに脚がいくつもある宇宙人だって、波間に漂う幽霊船だって、雲の上にある不思議な国だって、全部が全部、本物だった瞬間があるのよ。」笑みが、深まる。だがそれは、渉に目を背けさせるほど悲痛なそれだった。
 まるで、自分の言葉をまったく信じていないような。「でも、それらはすべて、あっというまに否定される。そんなものはないって。月は石ころで、海はただ水があるだけで、雲の上も歩けないって。確かめたから、科学的に解明されたから、元々誰かが創作した話だから、全部がそうだ、間違いだって言われる。ただの空想で、お伽話しなんだぞって。現実は、全然違うんだからって。本物と偽物の間には境界があって、大人になればそれがわかるって。でも、それってつまらないわよね。ネタばれ、ばっかりして……どうして、考えさせてあげないんだろう。その子自身に、確かめさせてあげないんだろう。すべてが、誰も彼もが聞かされたそれを信じていけば、いつか、それが当り前になる。それが、正しいことになる。本当のことになる……」少女は、笑った。「……つまり、リアルになっちゃうのよね。正しいか正しくないかなんて、関係ない。」
 渉は、目を見開く。
「どうして、それを教えるの?決め付けるの?だって、それを知っている人も、確証なんて掴んでないじゃない。きっと同じように、他に言われてそう思い込まされて、自分もそれを信じているふりをしてるだけでしょう?そうしないとみんなに笑われるから、馬鹿だって思われるから、蔑視されるのが嫌だから、みんなの真似をしてるだけでしょう?間違うのが嫌だから、わかっていないと思われるのが嫌だから、わかっているふりをしてるんでしょう?本当は、何一つわかってないのに……誰もことも、何のことも、何一つわかってないのに、知っているふりをして、みんな一緒に、偉そうにふんぞり返っているんでしょう?本当に信じられるものなんて、何にもないって、どうしてわからないの?どうして認めないの?」
 泣いていた。
 少女が、泣いていた。
「どうして、同じ教科書で勉強するの?どうして、揃って同じことを学ばなくちゃならないの?実践するでなく、どうして人はただ、誰もが等しいデータだけを得ようとするの?理論として理解すれば、それでいいの?理屈として学んでしまえば、それでいいの?それで、満足できるの?他と同じになったから、もう笑われないから、それでいいの?そんなに、他人が怖いの?自分を知られるのが、怖いの?誰かに近付かれるのが、それほど怖いの?ねぇ、桐生君、同じでなきゃ、駄目なの?桐生君も……」震える、青い瞳が、彼を凝視した。「……すべてを知らなければ、駄目なの?」
 渉は、震える。
 頼りなく、力なく、ブルーの瞳が、消えそうなそれが、彼を見つめる。
 声が、聞こえた。
『すべてを捉えればいいのです。』
 渉は、首を振る。「わかりません……」わからない、という選択肢。便利だ、と渉は思う。とても楽で、簡単で、そして……どうしようもないほど、果敢ない答えだった。「その答えがあるかどうか、見つかるのかどうか、俺にはわかりません。誰かが答えを知っているのか、いつかそれがわかる時が来るのか、何もかもわかりません。でも……」渉は、笑った。「……ふりをすることは、誰にでもできます。知っているふりをすること。何もかも、理解したふりをすること。大人になったふりをすること。皆と同じふりをすること。」目を閉じて、息を吐く。「それをするには、知識が豊富な方がいい。自分の無知を簡単に露呈させないために、たくさんの事実を……真偽雑多なこの世の事実を、数多く知っておけばいい。そうすれば、容易に現実を構築できます。」渉は、別の笑いと共に目を開く。「それは、正しくない。でも、正しいんです。だって、全知全能を傾けて作り上げた、本物そっくりの事象は……それは、それがどんなに誤っていようが、現実と呼ばれることになります。いや、全能の力などいらないかもしれない。何かを見、体験した者の過半数でも、実は今の光景はこれこれこういうことであると思い込ませてしまえば、それでいい。実際に体験した、その目で何かを見た者が、真相に気付いた人間がどれだけいようが、彼らより先に、もっと広い範囲で別の真相を報じてしまえば、それはおのずから本当に起こったことに……事実を陵駕して、大衆が認める現実のものに……本物になってしまいます。例えこの世のどこで一度も起こっていないことでも、大多数の人々にこんなことがあったと報しめてしまえば、その手段さえあれば、それは現実のこととして伝わってしまうんです。そしてそれは、いつかそれが間違いだと理解していた人ですらも、彼らの記憶の中の光景ですらも……」渉は、目を閉じる。「……個人個人が信じていた真実すら、変えてしまうかもしれない。」
 そうだ。
 渉は、はっきりとそれを認める。
 自分の中の、真実。たった一人、俺だけがそうであること。
 それが、変わっていく。変わろうと、している。
 変わりたいと思った。変わることができればいいと、思った。変えてしまいたいと、思った。
 それは、自分の心ではない。
 そんなものは、存在しない。
 それは、過去と感情で形成される、ただの意識だ。
 自分の中にある、真実。ずっと、そう思っていたこと。
 それを、変えてしまう。
 それが、変わる。
 渉は、目を開く。
 刹那……
 それが、過った。
 白い、裸身。
 朝の光の中で。
 彼女が、渉に、身を重ねる。
 唇が触れ、吐息が混じり合う。
 そして、渉が驚くより早く、少女は……それを遠ざけていた。
 それは、ほんの短な距離。
 だが、永遠の如き、距離だった。
 目の前にいる、ひとりの少女。
「私、渉君が好き。」顔が、上がる。
 ブルーの瞳が、悪戯っぽく……輝いていた。
 何かを、宿し、きらめいて。
 それは今にも崩れ去り、弛んで折れてしまいそうなほど、果敢なげだった。
「この言葉も、確かめられないね。あははっ……!」
 言葉のないまま、渉は、抱き締めた。
 咄嗟の行動。考えてしたことではない。考えて、できたことではない。
 ただ、たおやかな身を、その細い肩を、抱き締める。
 彼女は、驚くほど華奢だった。非力だった。
「桐生……駄目……」首を振る、白い少女。その姿が、今を以って見知らぬ肢体が、まぶしかった。「渉君……?」
「俺は、知りたい……」どこか浮かされたように、渉は言う。彼女の耳元に、囁く。「何もかも、わからない……確かじゃないから……知りたい……」
 だから、それを、求めるのか。
 それは、繕いではないのか。聞こえのいい名目ではないのか。
 たった、一瞬。一夜前ですら、定かにならない。
 何もかも、定かでない。
『私は、どこにもいないの……』
 笑い声が、した。
 渉は、抱擁を強める。
 愛しいのか。憎いのか。
 愛しくて、だから、憎くてたまらないのか。
 哀しすぎて。どうしようもなく、果敢なすぎて。
 それが、確かでないから。
 それが、確かめられないから。
 
 


[442]長編連載『M:西海航路 第三十九章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時32分 Mail

 
 
「他人なくして、自分はない……」
 声が、渉の目を見開かせた。
 瞬間……
 風が、通り過ぎた。
 腕の中から、何かが、
 果敢なく、消えていく。
 渉は、驚きと共に見つめる。
 少女は、ベッドの向こう側で……降り立つと、クルリと、回った。光の中で。
 可愛らしく。どこか、ふざけたように。どこか、淋しそうに。気に入りのお芝居が、たった今、終わってしまったように。
 茶目っ気たっぷりの仕草で、彼女は渉に、横顔を向ける。
「ありがと、桐生君……」それは、大人びた響きの声だった。「素敵な彼女に、悪いことしちゃったわね。あはは……ね、黙っておいてね?妬かれたら、困っちゃうから。ふふ……」
 悴山貴美は、もう一度大きく伸びをすると、そのままきびすを返した。
 そして、歩き出す。バスルームへ。「ちょっと、待っててね。あっ、あと……さっきから、お湯が沸いてるわよ。」渉は驚く。そして、音に気付いた。ずっと鳴っていた音。「安全装置があるから、電熱器は止まると思うけど。でも、水が足りなくなっちゃうんじゃない?」悪戯っぽく笑うと、悴山はバスルームに消えた。だが、ドアは開いたままである。「ね、その朝食、渉君が準備してくれたんでしょ?」
「あ、ええ……」渉はテーブルの上を見る。中途半端な、料理や皿が並んでいた。
「ありがと。私って、料理はどうも苦手なのよ。そりゃ、やり方はわかるけど……」シャワーの音が鳴り始めていた。「……そうだ。結婚したら、桐生君がお料理はしてくれる?」湯の弾ける音の中で、とんでもない台詞が渉を驚かせる。「洗濯や掃除は……あ、でもそれも駄目なのよね。困ったな。ねぇ、桐生君。Househusband……」流暢な英語のアクセントが、小気味よく聞こえてくる。「……あ、婦人でなく、夫って書く主夫のことね?それは、嫌?桐生君が家事全般を担当してくれたら、私、頑張って稼いじゃうけど。その方面は、割と不自由させない自信はあったりするのよ?ま、今まではゲームくらいしか使い道なかったけど……」
「け、結婚って……」渉は焦った。どこまでも矛盾した彼女の物言いと、先程の時間を思い返し、彼は焦る。「俺は……あの……」まさに、子供だった。
「もう、ジョークよ!Take a joke!」シャワーの音にかき消されぬようにか、悴山が大声で怒鳴る。「駄目駄目、こういう時はね、女性の話に合わせなきゃ。『そうだね、ハニー。海の見える丘の上に赤い屋根の家を建てて、子供は三人くらいは欲しいかな?』とか、真顔で言えるくらいでなきゃ駄目よ?」
「あ、すみません……」渉は少しげんなりとした。正直、変わり身の早さについていけないと思う。
「もう、謝らないでよ。何だかこっちが恥ずかしくなるじゃない。仮にも裸のつきあいをしちゃった仲なんだから……」渉は、再び、焦った。「……あ、こら!今、色々と想像したでしょう?」
「ち、違います!」何をしているんだ、と渉は思う。「俺は……」
「はいはい。ところでお湯は?止めた?」渉は気付き、慌ててキッチンに走る。悴山の言葉通り、電熱器は既に止まっていた。お湯はまだ湯気を立てているが、水を足してもう一度沸騰させなければならないだろう。渉はそれを沸かし直す。ふと気付くと、隣のフライパンの上でバターが黒く焦げていた。何というか、燦々たる有り様である。
「ねぇ、もしかして……朝食は、全滅?」渉は驚いて振り向く。バスルームのドアは開いているが……彼女は、見えない。「新婚初日から、ルームサービスなの?ちょっと、せつないわね……あはは!」 笑い声。
「誰が、新婚初日なんだか……」大声で言うと、渉はフライパンを小さな流しで洗い始めた。「大丈夫です。すぐ、できますから……ゆっくり、シャワーでも浴びてて下さい!」どうしてか、怒鳴ってしまう。
「了解。ふふ、こっちもかなり時間がかかるから、丁度いいわ。何だかお腹も空いたし……ねぇ、桐生君。今は何時?まだ、八時前よね?」
 フライパンの焦げをフライ返しで削ぎ落としていた渉は、悴山の問いにその手を止める。そして、部屋を見回して……時計が見当たらないことに気付いた。
 時計。確かにこの部屋には時計がない。渉は自分の部屋を……ロイヤルスイートを思い出す。あそこには大きなアンティークの時計があった。確かに格下かもしれないが、この部屋も特等のそれだろう。時計がないはずは……
 そこで、渉は、ふと気付く。
 時計……「悴山さん……」何?という聞き返しに、渉は続ける。「その、俺の着ていた……持っていた時計を、知りませんか?」
 鎖のついた、古い懐中時計。
 短い沈黙があった。「知らないけど?」いや、沈黙などあったのだろうか。「渉君、時計なんてしてたっけ?何?ブランド物の?」はしゃぐように続く、笑い声。何がおかしいのだろう。
「いえ……」渉は言葉を濁す。いや、よく考えれば、そもそも……
 俺は……「ねぇ、渉君。」言葉をどう口にするか考えていた渉に、声が届いた。先程のように言葉を返すと、悴山が続ける。「あのね、『M.M.』って……どういう意味だと思う?」
 渉は、戦慄する。
 耳にした、言葉。目にした、言葉。
 刻まれていた、証。
 それは……「あの……それは、御原さんの……?」そうだ。渉は、自分に戸惑う。詞に戸惑う。
 それに、どんな意味が隠されているのか。「うん、そう。あの、壁に書かれてた……あまりにもそれっぽくて、思わず吹き出しそうになっちゃったけど。笑っちゃうというか……ね?」渉は、驚きに目を瞬かせる。
「笑った?」
「うん。そりゃ、分別も慎みもない言い方だけど……でも、渉君だってそう思わない?」悴山は、子供のように訴える。「血まみれの密室の壁に、書き殴った血文字……有象無象のミステリィもかくや、ってシチュエーションじゃない?そりゃ、ドラマとかじゃよく見るけど……現実にああ来られると、何というか驚く前に、少し戸惑うというか……やっぱり、ちょっと呆れちゃうわよ。うーん、演出が濃すぎるって言えばいいかな?」
「演出……?」渉は、思い出す。それは、それでもやはり、衝撃と戦慄に満ちていた。
「うん。」あっけらかんと悴山は言い返す。「だって、ドアであれだけ私達を焦らせて……最後の十四分間で、もういてもたってもいられないほど焦らせて、そして開いたドアの中に、鮮血で染まった亡骸と、ナイフを持った桐生君と、壁に訳のわかんない血文字よ?」ため息のように。「もう、それだけ一挙にやられると、どこか食傷気味っていうか……ほら、SFとかでもさ、細かい設定が突っ走っちゃって、いつか荒唐無稽というか……書いてる人はきっと凄いに違いないって思ってるけど、傍目からはなんのこっちゃ的な理論が登場することってあるじゃない?」渉は、悴山の説明の意味がよく掴めずに眉を寄せる。「そういうのって、感心する前に、まず呆れちゃわない?こっちの物差しが届く以前っていうか……うーん、何て言ったらいいかな?」
「積み重ねられると、いつか訳のわからないものになる……ですか?」
「あ、そうそう!桐生君、上手ね。それそれ、そんな感じよ。もう……」貴女の所論です、と渉が言う隙もなく、悴山は喋り続ける。「……まさにそのまま。わかったから、もう少し冷静に考えさせて?みたいな。おふざけでしてるなら、趣味が悪すぎるわよ!なんてね。もう、どうにも……」
「おふざけ……?」渉はあまりに他人事な悴山の物言いに、それこそふさけているのかと呆れた。本当に、彼女は殺人事件の話をしているのだろうか。まるで、それこそ昨日読んだミステリィの書評をしているようだ。
「うん……だって、あれだけのことをする必要がどこにあったの?」悴山は、まるで渉を問い質すように話し始める。「船のプログラムを変更して、九時間も間を持たせて、徹底的にナイフを突き立てて、全然関係ない桐生君まで連れ込んで、おまけにあんな血文字まで残しちゃって。」渉は、再び驚きの顔をバスルームの戸口に向ける。「それに比べたら、もう一つの方はまだ単純だけど。冷房で遺体を保存……というか、むしろ逆に変質させて、他には目新しいことはしてないしね?こっちの『M.M.』が血文字じゃなかったのは、どうしてかって思うけど。その辺りも含めて、どこか周到そうに見えて、その実は統一性のなさというか……ポリシーの不一致みたいなものを感じるわよね。まあ、見立てがどうとかいうのはともかく、多数に対してのメッセージじゃないと言われればそれまでだけど。でも、殺された人の……悪いけど格付けみたいなものじゃ、御老人の方により演出の気が配られてもいいとは思うんだけどね。」
 渉は、強ばる。
 今……「あ、ごめんなさいね桐生君。私、さっきから酷すぎること言ってるわね。うん、駄目なのよ……どうしても、こうなっちゃうの。医者だからって理由は、まったく理由になってないけど……どうにも、ね。私、言いすぎよね。ごめんなさい。」
 彼女は……「いや……悴山さん、今……」『M.M.』……老人……?
「ん?なぁに、聞こえない?あ、やっぱり……」シャワーの音が止んだ。「……ごめん、渉君。悪いこと言っちゃったわね。君は、複雑な立場なんだし……あーあ、やになっちゃう。ね、私のこと、軽蔑した?」
 血文字じゃ……なかった……?「悴山さん。もう一つ……いや、もう一人って……」気を、落ち着ける。「御原さんじゃなくて……その……」冷たい部屋。凄まじい臭気。そして……
「ああ、九条院佐嘉光さんのことね。ヘンテコな名前よね、サカミチって。どう見ても当て字だけど……何代も続く名門らしいし、本当はどんな字を書くのかしら。私は漢字なんて大嫌いだし、想像したくもないけど……ほら、あれかな?常用漢字にないって奴。しかもコンピュータの辞書にも入ってなくって……困るのよね。あはは……」
 渉の胸を、冷たい何かが流れる。
「その……『M.M.』が……御原さんと同じに……あったんですか……?」
「あ、うん。あれ?渉君は見てないの?」怪訝に、聞き返される。それが、当たり前であるかのように。「あったわよ、『M.M.』。ベッドのすぐ横の壁に、ナイフで刻んであったの。もう、無理矢理壁に傷をつけて……最後のピリオドなんて、ナイフがそのまま突き刺さってたのよ?何と言うか、その手の演出もかくやよね。」
 渉は、眩惑じみた感覚に叫びそうになる。
 馬鹿な!
 そんなものは、なかった。
 確かに、ない。
 気付かなかった?それとも、見忘れた?
 そんな……そんな馬鹿なことが、あるのか!?
 確かに、俺は遺体を前に動転していた。誰かわからない老人が、誰なのかと。そして、セキュリティに見つかって、それから……
 渉は、そこで気付く。
 見知らぬ老人。死んでいた、男。
 九条院佐嘉光。
 やはり、本当に……彼なのか。
『お前さんは、わしの本当の名前を知っておるかの?』
 言葉が、甦る。あの夜、聞いた言葉。
『お前さんをこの航海中に殺すと、ここで予告しよう。』
 それは、宣告。
『すべて、わしがわしの欲のままに計画したことじゃ。』
 身震いが、抑えきれない。
『言葉は、不自由じゃよ。』
 青い、瞳。
 それが、闇の中で輝く。彼を、見つめている。
 俺を、見ている。
 彼女が……「悴山さん。九条院、佐嘉光さんが……」渉は、その名を恐怖と共に口にする。「本当に、死んでいたのは……あの部屋で亡くなっていたのは、本物の佐嘉光さんだったんですか……?」
「そうよ。」あっさりと、声が、届く。それが当り前であるかのように。疑う余地など、皆無と断ずるように。「間違いなく、九条院佐嘉光さん。勿論死体は冷房のせいで変質しちゃっていたけど、まさかミイラ化しちゃった訳じゃないから。それこそ、御原さんに続いて……ううん、あれ以上の大騒ぎよ。冗談抜きで、あのおじいさんは最重要人物……チェスで言えばキングだし、日本財界を裏で支える超大物だった訳でしょう?それが可愛い孫娘の結婚式で誰かに殺されたなんて、とんでもないを通り越して、みんな言葉すらないみたい。詳しくは私もよくわからないけど、佐嘉光さんが間接的に支配していた財閥……九条院家の影響下にあるグループはとんでもなく多いみたいだから、これから大変でしょうね。後継者争いとか……まぁ、私はその手の話に興味もないけど。」
「それが……どうして、本物だとわかるんです?」渉は、言葉を口にする。「死んでいた人が、本物の佐嘉光さんだって……確認したのは、誰ですか?」身震いが、また、走った。
「どういうこと?そりゃ、沢山の人が彼を見たわよ。だって、この船に乗っている人はみんな、九条院家か……格下だけれど、お婿さんの北河瀬家のシンパだし。あ、この言い方もよくないわね?うーん、とりあえずこの船の……特等以上の船客のほとんどは、その手の親戚筋を含めた一族一派の人達しかいないって訳。だから、見間違えるわけないわ。」
 そうなのか。本当に……そうなのか。渉は、あの亡骸を思い出す。冷たい部屋に、横たわっていた無残な亡骸。
 そうだ。違っていた。違っていたはずだ。背格好含めて、顔つきも、髪も、年齢も。そうだ……「あ、あの……九条院さんの……」渉は、舌の震えを堪える。「お孫さん……瑞樹さんは、確認したんですか……?」
「桐生君、どうしたの?そこが気になってるのは、どうして?もしかして、あの部屋にいたのは本物の佐嘉光さんじゃないって言いたいの?あの死体は実は違う、殺されたのは人違いの誰かかもしれないって?」おかしそうな声が、返る。シャワーの音は止んでいるため、彼女の声が反響を宿して聞こえた。「どうしてそう思うのかわからないけど……ごめんなさい。それについては、絶対にそうだって保証できちゃうの。」
 渉は顔を上げた。バスルームの向こうにいるであろう、彼女を見通すように。「それは、どうしてですか?」
「だって、私自身が確認したから。」悴山はさらりと答えた。渉が戸惑いの声を発する前に、彼女は続ける。「これ、オフレコでお願いするけど……実はね、私、九条院家の関係者なの。船医のバイトってことになってはいるけど……その正体は、何だと思う?」くすくすと、楽しげな声。
「え……」渉は当然のように当惑する。そして、その中でかすかな……悴山と出会って以来、幾度かあった何かが、彼の中にふっと思い起こされた。「悴山さんは……」悴山貴美。精神科医。若くして渡米し、アメリカの大学を卒業……医師免許を修得して、国籍も……確か……「まさか、佐嘉光さんの、主治医だとか……」
「Yay!」奇妙な英語が届く。「桐生君、冴えてるわね!」
 渉は驚く。「ほ、本当、なんですか……?」
「うん、当たらずしも遠からじ、ね。まあ、八十五点ってとこかな?」悴山の弾んだ声が返る。「桐生君は九条院のお嬢様のこと、よく知ってるわよね?」渉は驚きを顔に出さないように努めて……それに、意味がないことに気付いた。
「あ、はい……」複雑な感情が、渉の中に渦巻く。どう答えればいいのだろうか。決めたつもりでいて、それは、こうなってみるとまるで答えが出ていない。「九条院……瑞樹さん、ですよね……」いや、言葉にできない。
「そうそう。その、ミッちゃんのこと。」
 渉は息を詰める。「ミッ……ちゃん……!?」言って、彼は、咳込んだ。
「あら、大丈夫?熱いコーヒーでも飲んだ?」咳込む渉は、悴山のその茶化したような声に……また、沸かし過ぎているお湯に気付く。「ずっと裸でいるから、風邪でもひいたら大変よ?」渉はさらに、自分の格好に気付く。「クローゼットに、シャツとかない?何でもいいから、適当に羽織ってないと駄目よ?」
 とりあえずキッチンで水を一杯飲み干すと、渉は悴山の忠告を無視して、疲れたように椅子に腰掛けた。朝食を用意しかけているテーブルをぼうっと見つめる。どこかに何か、重たいイメージがあった。
「あの、ミッちゃん……ですか?それって、瑞樹さんのこと……なんですか……?」
「うん。あ、ミッちゃんって呼んでるのは私だけだから。」悴山はおかしそうに言葉を紡ぐ。「やっぱり、あの子からは何も聞いてない?うーん、らしいというか、やっぱりそうかというか。そうね、ライバルとか思われてたら、それはそれで面白いんだけど。あははっ。」渉は訳がわからなくなりかける。「あぁ、ごめんね。つまりね、発端はあの子の方なのよ。あの子、私がやめろやめろって言うのに、どうしても私のことを『先生』って呼ぶの。そりゃ貴美って呼ばれるのは全然好きじゃないけど、ほとんど年も離れてない女の子に先生って呼ばれ続けるの、結構しんどくて。あ、カレッジとかだとそうでもないけど、ほら、やっぱり雰囲気というかさ。同じ屋根の下で暮らしてる上に、二人っきりでも相手にそう呼ばれるの、私、嫌いなの。背中がむず痒くなっちゃうのよね。」本当に窮屈そうに悴山は嘆きの声を発した。渉は思わず苦笑しつつ、ふっと、彼女……瑞樹の言葉を思い出す。
 そうだ、確かに……「『先生』って、彼女……言ってました。あれは……」そう、何度か耳にした気がする。てっきり家庭教師か何かだろうと思っていたが……
「あ、私のこと話してた?どんな風だった?小姑か……鬼婆みたいな感じ?あんな生意気でペラペラ喋るうるさい女は、口にチャックでもしてミシガン湖に放り込んでやりたいとか愚痴ってた?」吹き出す悴山。渉は逆に焦る。
「いいえ。そんなことは……」でも……「信頼、してるみたいでした。よく、わかりませんけど……」
「信頼、か。」悴山は考えるように語尾を持ち上げる。「信用、よりは高得点ぽい表現よね。まあ、頼りにされてばかりだと困るんだけど。特に、桐生君みたいな殿方とのおつきあいの問題は、一人身の私としても答えるに色々と複雑なのよね……って、また訳のわかんないこと言ってるわね、うふふ。」渉は怪訝に表情を変える。それを察したかのように、バスルームからの声もトーンを落とした。「あ、ごめんなさい。えっと……そうそう、私が九条院瑞樹さんの主治医だって話よね。」
「はい……えっと、瑞樹……さんが……?」渉は、どこか不安になる気分を抑えきれない。
「そうなの。話したと思うけど、私は今はアメリカ国籍だし、あっちで医療とか研究とかに携わっていたんだけれど……ある日ね、声がかかって。」少し、黙する。「その手の個人契約というか、専属の主治医の話ってね、割と多いのよ。私は元々興味なんてないから、片っ端から蹴っていたんだけど……わざわざ日本から使いを立てての招致で、しかも相手が有名無実の正反対というか、調べてみたらとんでもない家柄じゃない。一世紀以上続いてる旧華族の某というか、旧家の長老というか……おまけにね、私の方も色々と複雑な事情が絡み合っちゃって。まあ、私が大嫌いな分野の話なんだけど、それでもほら、ちょっぴり政治的な配慮というか、今回は簡単に蹴れないというか……まあ、タイミングも悪かったのね。魔が差したっていうか……らしくもなく、話しだけ聞いてみようと思って……気が付いたら、引き受けちゃってたのよ。」陳謝か、あるいは弁明だろうか。まさに子供の言い訳のように悴山は言葉を並べる。互いに見えないままながら、渉はその様子を想像して失笑した。
「すると、それで日本に……?」
「そう。まあ、期間限定だしね。はるばる太平洋を横断して、お嬢様のお守りをする羽目になったって訳。そしたらさ、これがまた……とんでもないお嬢様でね。おっと、いけない。」
「とんでもない……?」渉は、自分でもビクリとする。
「あ、ううん。そうね……まあ、渉君もあの子と何度か会ってる訳でしょう?楽しく食事をしてたとか……悪いけど、立場上、色々と小耳に挟んじゃうから。」渉は苦笑して頷き……肯定の返事をする。ふっと、彼女はバスルームで何をしているのだろうと思った。身体を拭くにしては長すぎるし……着替えてでもいるのだろうか。だが、衣服など何も持っていかなかったはずだ。「だったら、たぶん気付いたと思うけど……あの子って、とんでもなく知識が偏ってるでしょう?特に、一般常識というか……社会生活を円滑にこなす上での最低限のマナーみたいなもの、ほとんどと言っていいほど知らなかったの。もう、初めて会った時にはひっくり返っちゃったわよ。まさに、コロンブスの生タマゴ状態よね。」
「コロンブス……」面食らっていた渉は、その言葉でふと思い出す。「悴山さん、そういえば、俺に……」
「あ、気付いてくれた?だったら嬉しいけど。」まさに我が意を得たりというような響きの彼女の声に、渉は微笑した。
「気付きましたよ。」あの場で直接、ではなかったが。「御原さんの、死亡推定時刻が……」
「よろしい。それでこそ、先生も人目をはばかりつつ、それとなく御注進した甲斐があったわね。あはは。」悴山は妙な物言いをした自分がおかしかったのか、またころころと笑い声をあげる。「そうじゃなくても、渉君のことは疑ってないけどね。信頼する、って言葉はちょっと違うけど……そうね、患者としての君を信用してる、かな?」
「患者……俺を、ですか?」
「うん、そう。伊達に、医師免許持ってる訳じゃないんだから。まあ私独自の方式というか、誰にもわからない特別な見立て方があるってこと。桐生君は、それにパスしたのよ。だから、私は君のことを信用してる。勿論、証拠もあるわ。物的に見ても状況から判断しても、二つの事件とも君は犯人じゃない。」
 断じてくれることは嬉しかったが、渉には悴山の真意が汲み取れなかった。「片方はわかります。つまり、御原さんが殺された時間、俺は医務室で……」
「そう。私にしかわからないことだけどね。君はあの時間、私の目の前で寝てたんだから。美人の彼女に担ぎ込まれて、真夜中……十二時過ぎまであのベッドで眠ってた訳でしょう?まあ、私の見積もりが違って、退室直後に君が御原さんを殺しに行ったという可能性もなくはないけど……」あの、直後。渉は戦慄の時間を思い出す。
 そうだ。再会したのだ。あの場で、あの時間に。
 俺は、そうだ……俺のことは、どうでもいい。
 彼女は……彼は……
 何をして、いたのだ?
 
 


[443]長編連載『M:西海航路 第三十九章(3)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年08月26日 (火) 00時33分 Mail

 
 
 何をしに……「まぁ、アリバイは別にしても、もっと確かな証拠があるしね。これもまぁ、私にしかわからないというか……うーん、気付けないはずはないんだけどな。どうも、セキュリティの皆さんは頭が固くって……でも、渉君の行動だけをトレースしてたら無理もないか。私だって面と向かって否定するのをためらっちゃうほどだしね。何というか、直球というか……百マイルくらいの豪速球よね、桐生君って。あ、それとも水たまりを避けようとして、車に撥ねられそうになるタイプかな?」
 渉はまた眉をひそめた。何を言われているのかよくわからないが、誉められているのではなさそうである。だが……「確かな、証拠?」
「うん、そう。そりゃ、私だって専門じゃないし、死亡推定時刻は大雑把にしか判断できないわよ。漠然と、殺されたのはおそらく二日目の夕方から夜中までだろうって思っても、はっきりとは断じられないじゃない。でも、最大でプラスマイナス六時間の誤差が生じたとしても、桐生君が犯人じゃないって根拠は明白だもの。桐生君は、わからない?」
 渉は考える。「それは……」御原健司がその時間に殺されたとして……朝、ドアが閉じられ、そして七分置きに……「俺は……」俺は、昼に……あの白いエレベータで、昏倒して……「そうだ。俺は、頭に怪我を……」
「ピンポーン。流石は名探偵桐生君。お見事な推理です。」はしゃぐように、悴山の笑い声が届く。
 渉は息を吐いた。自分に呆れる。なまじ自身に記憶があるから、そんなことにも気付けないとは。「俺が、怪我をして倒れていたから、ですね……?」
「そう。渉君が後頭部に負っていた傷は、どう見ても数時間……二、三時間以内のものよ?それで、殺された御原さんはどうひいき目に見ても十二時間以上前に亡くなってる。だったら、どうしてセキュリティの皆さんが言うように、襲われた御原さんが抵抗して、君のことを殴り返せるの?殴られた渉君が、逆上して御原さんを滅多刺しにして……その半日後に、意識を失えるの?そんなこと、あるわけないじゃない。あるとすれば、御原さんを殺した渉君が、十二時間近く部屋の中にいた挙げ句、暗闇の中で何かにぶつかって、自分で昏倒したって顛末しかないわ。それじゃ、あんまり君が間抜けすぎるじゃない?しかもよりによって、昨夜怪我したばかりの後頭部を、念入りに何度か叩き付けて倒れたの?そんな偶然、逆立ちしたって起こりっこないわ。よっぽど、渉君が自虐行為を好む人でもない限り、ね。」
 そうだ。「確かに、そうですね……」渉は声を出して笑う。俺はその前夜、それこそ偶然に暗闇の中で転び……頭を缶か何かに打ち付けて昏倒したばかりだ。
「ふふ、そんな風に笑えるなら、いい兆候ね。正直、君の生命力というか……体力には敬服するわ。これでも医師の端くれだけど……君みたいに気合の入った怪我をして、忠告も聞かずに動き回る患者、初めてよ。外科が専門じゃなくて、ホントに残念。後頭部の傷とか、首を含めた身体中の怪我とか……ふふ、手当するの大変なんだから。昨夜だって、二時間くらいかかったのよ?」
「え……」渉は驚く。思わず、後頭部に手をやって……「あ……これ……」初めて、それに気が付く。ずっと填まっていたギプスが、ない。その代わりに何か、湿布のような……テープのようなものが、そこに張ってある。それはとても薄く、注意深く探さないと気付かないほどピッタリと貼り付けられていた。
「それはね、医療用のドレッシング。あ、ドレッシングって言ってもサラダとかにかける奴じゃないわよ?うーん、日本語だと……創面被覆材かな?フィルムが、傷口の保護をするの。かなり薄いでしょう?皮膚呼吸は大丈夫で、水分やバイ菌とかは通さないの。患部を清潔に保つためのものなのよ。渉君、シャワー浴びたかったでしょ?」
「ええ……」渉は今更のように、解放感に気付く。いや、それだけではない。あの白い部屋を脱出してからこの方、ずっと忘れていた……自分自身の、怪我。「ええ……全然、気付きませんでした……」ギプスのそれだけではない。痛みも含めて、それがあったのかと信じられなくなるほどだ。あった気もするし、確かに感じていた気もする。だが、それを上回る何かを、俺は考え続けていたとでも言うのだろうか。ただ思うことで、考えることで、俺は傷みを堪え、無視していられたのだろうか。確かに今も、痛みはそれほど感じない。まるで、感覚が麻痺しているようだ。果たして傷が、本物なのだろうかと疑ってしまうほどに……「つっ……!」フィルムの上から後頭部に指で触れて、渉は伝わってきた痛みに苦笑いする。やはり、傷は、ある。それは、本当のことだった。
「そうなのよ。それって最新式のだから、優秀でしょう?自分でつけてるのを忘れちゃうくらいのフィット感だし……それにね、張った後も、一週間くらいはそのままで楽勝なの。まあ、照り返しとかあるから……特に太陽の下とかだと、よく見ればわかっちゃうんだけどね。でも、患部とか保護するにはもってこいでしょ?私もインプリントポリマー……って、あ、ごめんね。桐生君にはつっまんないわよね、こんな話。」
「いえ、そんなことは……面白いです。」渉は頷く。だが、そこでふと気付いた。「でも、昨夜、俺は……」そうだ。「あの、悴山さん。どうして俺がここにいるのか……教えて、くれませんか……?」渉は、何かを呑み込む。
「うーん、実はね、そこがちょっと説明しにくいというか……割と、問題なのよね。」悴山は、何か思い悩むように唸る。「ねぇ、渉君……一つだけ、先に聞いてもいいかな?」
「え、はい……何ですか?」
「うん、あのね……」悴山は、ためらいがちに、ゆっくりと尋ねる。「……渉君は、これからどうするつもりなの?」
「え……」渉は言葉に詰まる。
 それはまさに、返答に窮する質問だった。
 これから、どうするのか。どうするべきなのか。何がしたいのか。
 俺は……「あの、悴山さん……今の、船の状況は……」そうだ。彼女は知っているはずだ。俺が、あの部屋を出た後……そうしてから、この船で何があったのか……
「ストップ。」悴山は、何かを堪えるようにそれを言い放つ。「そんなこと、どうでもいいの。今は……」そして、何か……かすかな、声が聞こえる。
「悴山さん……?」
「いいの、渉君……あのね、答えて欲しい……」何を、しているのか。渉は気になった。そうだ。バスルームで……長すぎはしないだろうか。「……これから、君は、どうするの……?」
「悴山さん?」渉は何かを感じる。それは、たまらない……不安のようなものだった。「何か……」
「駄目!」叫び。まさに立ち上がりかけていた渉の四肢が、硬直した。「来ないで。絶対に、来ては駄目。来たら、渉君を……絶対、許さない。」苦しげな、悲痛な声だった。その鬼気迫る叫びに、渉は声を失う。「いいから……大丈夫、すぐ、元に戻るから。今は、質問に答えて。ただ、それが……私は、どうしても知りたいの。」彼女は、笑いたいように言葉を紡ぐ。だが、それはやはりどこか、普通ではなかった。「船の状況は、まだ教えられない。そんなこと、関係ない。ただ私はね、君の気持ちが知りたいの。これまであったこと、君が体験したことと……それと、感情……それだけで、いいから。今はまだ、他のことは知らなくていいの。それを教えてくれたら、私も君の知りたいことを教えるわ。だから、お願い……」声が、震えていた。「……答えて、渉君。これから、貴方は……どうするの?」
 渉は、再び、風を感じる。
 あの、夏。
 白昼夢にすら思えた、一時の邂逅。
 再会した。そう思った。そう信じた。
 約束を、果たすために。
『自分で決めたの。』
 そうだ。彼女は、決めたのだ。
 どれほど、辛かったろうか。どれだけ、苦しかったろうか。
 それでも、笑っていた。俺に、あの笑顔を、見せてくれた。
 だから、俺は……
 なら、俺は……
 俺には、何ができた?
 何が、決められた?
 何一つ、決めていない。何一つ、決められない。ただ虚しく日々を過ごし、自堕落に暮らしていただけだ。
 過去を引きずり、思い出だけ求めて。何もせず、何もできないと決め付けて。
 時間は、流れていたのに。世界は、流れていたのに。
 すべては、止まっていなかった。終わっていなかった。
 そうだ。今も、続いている……
 渉は、顔を上げた。「俺は……」そうだ。「……決めたことが、あるんです……たった一つだけ、決められたことが……自分で、そうするって、決めたことが……」渉は、笑う。まさに子供のようだ。たった一つ、何かにしがみついて、それだけで……俺は、歩こうとしている。生きようとしている。「俺にしかできないこと、俺が、しなければならないこと……いや、そんなのはこじつけですね。俺は……」自分勝手な言い分で駄々をこねる、俺はまさに子供のようだ。「どんな理由でもいい。いや、理由なんて関係ない。俺は、それがしたい。それをするって、決めたんです。」笑える。そうだ。どうしようもなく、笑いが零れる。「俺は、彼女か好きです。彼女のことが、何よりも大切です。だから、他のどんなものと引き換えにしてもいい。何を、侵してしまってもいい。自分自身がどうなっても、俺は、彼女を……」
「彼女を、殺すのね?」声が、静かに返った。「ミチルさんを、殺す。それが、桐生君の望みなのね……?」
 瞬間、絶句した。
 突き付けられた、答え。
 それは……違っていた。
 間違っていた。
「何を……」そう、正しくない。「……何を、言っているんですか……?」そうだ、そんなことがあるはずがない。渉は、必死に……懸命に否定する。それを、否定する。その言葉を、その思いを、否定する。
 俺が、そんなことを考えているはずがない。俺に、そんなことができるはずがない。
 何故なら、俺は……俺は、彼女を……「そうかしら?」嘲るように、嘆くように、声が聞こえた。「それは、嘘。貴方は、本当にそれを考えている。いや、もう決めてしまった。それを、すると。それを、行うと。桐生渉、貴方は決めた。ミチル……彼女を、その手で、殺すと。」冷たく、言い放たれる言葉。「……でも、それは、どうして?」
 彼女の声が、部屋に響く。
 彼は、首を振った。激しく。痛みすらも、傷口の有無など関係なく、激しく。
『自分を殺してくれる誰かを、捜していたんだそうだ……』
 痛かった。痛くて、仕方がなかった。
『自分の人生を誰かに干渉してもらいたい……』
 否定することに、意味があるのだろうか。それはもう、真実なのに。
『……それが、愛されたいという言葉の意味だ。』
 繰り返す。今もまた、意味のない動作を、繰り返している。
 そこには、言葉しかないのに。
「挫折したから?」笑い声。「途方に暮れたから?」泣き声。「届かないから?」怒号。「愛しいから?」嘲笑。「一つになりたいから?」悲鳴。
「彼女は罪人だ。」嗚咽の中で、誰かの声がする。男のような太い声だった。「彼女は、人を殺している。彼女は、自分の二親を殺した。血の繋がりの有無ではない。両親を殺すつもりで、彼女は人を殺したんだ。それは、紛れもない殺人だ。」抑揚もなく、それは、訴える。「だから、彼女は、裁かれなければならない。人を殺すことは、決して許されない。彼女は、罰を受けねばならない。彼女は、のうのうと生きていることはできない。彼女がこのまま生き続けることは、許されない。何故なら、彼女は、罪深い存在だ。彼女は、いてはいけない存在だからだ。」
 やめてくれ……
「彼女に、名前はない。国籍も、戸籍もない。この世界に、彼女が存在する証しは一つもない。どこにも記録されておらず、人の記憶など、曖昧で役に立たない。名前すらない彼女を、それと確認することはできない。彼女は、決して見つけられない。彼女は、どこにも存在しない。彼女のことを、誰も知らないからだ。だから、彼女は、生きていない。」
 お願いだ……
「存在しない人間なら、いなくなっても構わない。それは、当然のことだ。生きていない人間だから、殺しても構わない。それは、罪にはならない。どこの誰かわからない者を、この世に生きている証しのない者を排除しても、罪になどなるはずがない。彼女は、どこにもいない。彼女は、いてはいけない。その過ちが修正され、真に正しい状態になるだけだ。間違いで、なくなるだけだ。矛盾が消え、元通りの心地よい世界になるだけだ。彼女の存在など、元より誰一人認めない。ただ、この世界に百人もいないだろう人間が、彼女がいたかもしれないと思っているだけだ。現時点でその中の何人が、彼女という個人を覚えているだろうか。そんな希薄で些末な生命に、何の意味があるのか。」
 頼む……
「考える必要などない。考えるだけ、無駄だ。思うだけ、無意味だ。何故なら、彼女はどこにもいない。名前すら、ない。顔も、格好も、どうなっているか、誰もわからない。だから、いらない。もう、必要ない。これ以上、考えたくない。気持ちを、割きたくない。感情を、揺さぶられたくない。記憶を、ねじ曲げられたくない。心を、捉えられたくない。もう、二度と……想いたく、ない。」
 後生だから……
「もう、嫌だ。そう思う、それを考えてしまう、自分が嫌だ。この、気持ちが嫌いだ。こんなことを考え続ける、自分が大嫌いだ。俺は、狂っている。完全に、どうかしている。何もかも、捨て去りたい。元通りに、なりたい。だから、その方法を探した。見つからないのに、探そうとした。過去に、戻ろうとした。あの夏を迎える前に、戻りたいと思った。」
『まさか、桐生さんじゃないですよね?』 
 渉は、振り向く。
 悪戯っぽく笑っている、彼女。
『やっぱり桐生さんが原因じゃないんですか?』
 彼は、震えた。恐怖に、震えた。
 後生だから、頼む、お願いだ、やめてくれ……
『二人の人間を殺させたのは、貴方ですね?』
 闇よりの、告知。
 そうだ……俺が、全部……
 何もかも、俺が……
 だから、俺が……
 俺が、終わらせなければ……
 すべてを……
「……桐生渉!しっかりしなさい!」渉の全神経が、覚醒する。いや、引きずり出される。
 痛み……焼けつくようなそれと、共に。その激痛は、頭蓋に届くほど強かに、彼の脳裏を駆け抜けた。
 数瞬、そして……
 叩かれたと、彼は、知る。
 そして、目の前に、彼女がいた。
 白い指先。それをふるった、一人の女性。
 悴山貴美。
 だが。渉は、目を見張る。
 彼女は、変わっていた。
 顔の傷跡は、消えていた。
 いや、消したのだ。渉はそれを理解する。
 足首、手首……そして、うなじ。光の元でじっと見つめると、素肌と……白い肌と黄色との違いが、はっきりわかった。クリームか……何か、特殊なローションのようなものだろうか。先程説明されたフィルムではないが、それらを……ずっと、こんな作業をしていたのか。
 呆然と、渉は、それを認める。
 変わる。変わってしまう。自分の傷跡を、彼女は消してしまった。最初から、消していた。俺は、それに気付かなかった。違っていた彼女を、そうであると、本物だと認識した。ならばこそ、先の彼女を見て、誰だろうかと、疑問に思った。同一人物だなどと、思いもしなかった。
 彼女の言葉が、聞こえるまで。
『桐生さん、こちらは九条院さん。』
 渉は、その皮肉さに、笑う。
 同じだ。そして、まったく違う。
 何も、秘密はない。何も、隠してなどいなかった。ただ、そこにいただけだ。偶然、出会っただけだ。俺達は、そのまま、再会した。
 だが、それが、安息に思えた。それを受け入れることが、受け入れてしまうことが、楽だった。その先に踏み込むことが、逸脱することが、怖かった。再び、相まみえることが……
 そうだ……俺はただ、刹那の安らぎが欲しかった。
 何という、愚かな選択だったろう。
 たった一つ、ボタンをかけ違える。それだけで、俺は、こうなってしまった。ここまで、変わってしまった。
 あの島に、行かなければ。
 この船に、乗らなければ。
 言葉が、人を導く。言葉が、人を惑わす。
 だから俺は、それを……
 終わらせなければならない。
「桐生渉は、思考化声を含む思考混乱、観念逸脱に加えて、思考保続の症状を発症している。」低い声が、聞こえていた。「原因は過去の肉体的及び精神的ショックによるものである可能性が大。加えてその事件の中心人物であると推測される人物『M』に対し、患者は極めて重度の両価性を有している。それは彼にとり道徳より逸脱した状況認識を招き、さらには極度に反社会的な行為に及ばせる程までに危険な状態にあると断じられる。」機械のような、淡々と読み上げる声が、渉の耳に届く。「即時の措置入院及び、厳重な管理体制による治療及び観察が必要であるとの結論を出さざるを得ない……」
 涙が、零れた。
 それを、流すことのできる者。
 矛盾していた。
 正しいは、正しくない。
 渉は、前を見据える。
 少女が、ほほえむ。
「決めたんです……」   
 首を振る、ひとりの人。
 傷跡は、消えている。
 白い手袋。白い衣。
 それはまるで、華燭の典を迎える花嫁のようだった。
 華やかで、どうしようもないほどに美しく、そして、果敢ない。
 すべてに覆い隠された下で、彼女はどれだけ傷ついていたのだろう。
 誰も、それを知らない。それに、気付かない。
 他者から、見えなくできる。他人から、知覚できなくなる。そうと、認識されなくなる。
 それで、本当に消えたことになるのだろうか。それは、他人から見てそうであるだけではないか。それとも、鏡の中の自分の姿を見て、傷はなくなったと思えるのだろうか。思い込めるのだろうか。それは、隠忍ではないのか。苦しみ悶えるほど、辛いことではないのか。
「結婚式は、午後零時に行われます……」震える少女の声が、聞こえた。「花嫁の祖父である人物が亡くなられたことは、ごく一部の関係者を除いて知らされていません。同じように仲人であり、媒酌人を務めるはずであった人物の不幸も、一部の関係者を除いて箝口されています。」悲愴……いや、悲壮な、響きだった。「そうまでして結婚式を強行する理由が、どこにあるのでしょうか。この殺人を行った者の真意がどこにあるのか、わからないはずはないでしょうに……」慈しむように、嘆くように。「そして、船は既に……その道を、予定と違えています。これもまた、誰にも知らされることなく、ごく一部の人々の決定によって為されました。二つの凄惨な殺人事件の処理を、外国の司法によることをよしとしないという名目のもと、航路の変更が決定、夜陰に紛れて転進が行われたのです……」渉は、振り向く。その目で、現実を見る。
 窓よりの光は、どうしようもなくまぶしく。
 海はただ、昇り行く朝日の輝きを映し出していた。

 船が目指す、西の海の果てへと。
 
 
  



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