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ダレモイナイ コウシンスルナラ イマノウチ(ペ∀゚)ヘ
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[338]まえがき・その三: 武蔵小金井 2003年05月27日 (火) 19時45分 Mail

 
 
 
 前述として、一応。

 ここは武蔵小金井が連載形式で投稿掲載している

 『M:西海航路』の第三部(二十一章〜三十章)をまとめたツリーです。

 新規に読まれる方は、どうか下方の第一部ツリーからお読みになることをお願いいたします。


 それでは。
 
 
 
 


[343]長編連載『M:西海航路 第二十一章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時03分 Mail

 
 
   第二十一章 Maternity

   「お母さんから教わったの」


 光が満ちていた。
 まばゆいそれではない。やわらかく、暖かい、いたわるようなそれだった。
 まるで……そう、母親の胸に抱かれているようだ。穏やかで満ち足りた気分を与えてくれる光をそう形容し、桐生渉は満足げに心を休めた。あまりに稚拙な表現だとも思うが、それこそそんな瑣末な意識など取るに足らないと無視する。
 そう、そんなことはもうどうでもいい。
 これで十分だ。このままでいたい。
 何も、欲しくない。
 堅く目を閉じ、肉体だけでない……思考そのものを解放するように放り投げる。
 方々で凝り固まっていた無数の考えが次々に浮かび、そして、海原の泡沫のように散っていく。
 そう、まるで漂っているような……浮かんでいるような感覚。母の胎内、羊水に浸かるとはこういうものだろうか。無論、そんな記憶が残っているはずはなかった。だが、思い出としてなら存在してもいいのではないか。今の渉は、そんな風に考える。
 そうだ。もしも、母の胎内にいたという思い出があるとすれば、それはすべての人間が共通に保持している体験のはずだ。例え体外受精としても、結局は母体を使って成長、出産する以上、それは同じではないか。すべての人類が、唯一、等しく共有できる思い出……そんなものがあるとすれば、たった一つそれだけなのかもしれないと渉は思った。
 そう、それだけだ。その後は、何もかも違う。生まれ出る瞬間から、一人一人が何もかも違っている。周囲の環境、そもそも生誕した時代……すべてが、何もかも違うのだ。一つとして同じなものはない。それは例え双子だろうが、三つ子だろうが各々違うはずだ。
 だとすれば、赤ん坊が泣き叫ぶのはそれが理由ではないだろうか。暖かく充足した母体から引き剥がされ、産まれ落ちなければならないという無慈悲な現実。安楽な場所……皆が等しく共有する満ち足りた世界から取り上げられ……そう、ある意味個々の自分として別個に扱われるのは無上の苦しみであろう。そう、それはまさに隔離だ。そうなる過程には肉体だけでない、耐え難き精神の痛みがあるのではないだろうか。今まで安穏とした場所にいられた者が、引き離され孤独になるという苦痛。それが嫌で、悲しくて、だから赤子は泣くのではないだろうか。一人になるのが嫌だと訴えて。これから訪れる、孤独の世界に恐怖して。
 孤独、か。
 孤独……
 渉はその言葉を、胸中でかき消すように散らした。
 そうだ。他人のことなど、結局はわかりはしない。
 ならば、自分のことはどうか?
 俺は、どうなのだろう。
 俺は今、孤独だろうか。
 いや、誰しも見方を変えれば孤独だろう。個体として存在している自分自身がある限り、ほんの少しでも孤独でない者などいない。
 ならば、どれだけ孤独であるかだ。逆に言えば、どれだけ孤独でないか。
 だがそこで、渉は思わず苦笑した。
 そう、『どれだけ』とは何だろうか?何に比して、どれだけなのか?誰が、その大小を決めるのか?
 勿論、それはわかっている。そんなことは自明だった。
 馬鹿馬鹿しいほど、わかりきったこと。
 ならば、それについて考える意味はない。理由も、価値もない。
 結局、孤独なのだ。そう思っている限り、人は永遠に孤独なのだろう。
 そう、確かに孤独かもしれない。これまでもずっと、孤独だったのかもしれない。そして、これからもずっと、孤独なままかもしれない。永遠に……そう、産まれ落ちて生きている限り、永久に孤独かもしれない。
 だが、俺は。
 それでも、俺は。
 俺は……決して。
 決して、孤立したくない。
 いや、違う。そう、それも違う。
 誰しも、孤立しているのだ。孤独と同じく、孤立していない存在はいない。
 自分のことが何もかもわからない以上、人は孤立しているのだ。
 すべてわからないから、孤立してしまうのだ。
 だから、俺は。
 孤立していると、決して思いたくはない。
 思い、か。
 思いで、すべてが変わるのだろうか。
 思考で、何もかもを変化させることができるのだろうか。
 そんなことが、可能なのだろうか。
 そう、俺が俺であること……
 この意識とは、思考の結果に生じるものなのか?
 意識が、思考を生み出しているのか?
 目の前にある、現実。
 それは、意識したからこそ現実なのか?
 それとも、始めに現実があって、それを意識したということなのか?
 わからない。
 だが俺は今、考えている。
 考えている、俺がいる場所。
 ここは、現実か? 
 もし、現実でないとすれば……
 桐生渉は目を開いた。
 そこに、光があった。
 朝だ。窓……天井の一面がガラス張りになっており、その先には広々した青空が覗いている。燦々たる日差しが、偏光となって渉を……ベッドに横たわっている彼を照らしていた。
 上体を起こして、周囲を見回す。そして渉は、深く安堵の息を吐いた。
 見慣れた寝室、自分の客室だ。昨日の朝と同じく、二つあるベッドの片方に自分が寝ている。
 そう、直方体の部屋を構成する六面のうち、五面までは渉が見知った物であった。ならば、可能性としてほぼ間違いはない。だとすれば、今するべきは残る一面の謎を解明することだけだ。渉はそう考え、天井を見上げた。
 そう、唯一勝手知らぬガラス張りの天窓……いや、ほぼ天井の半分近くがガラスのそれに変わっている。その天井には傾斜がつけてあり、ここより上層のデッキは見えないようになっているようだ。ここから覗けるのは広い……そう、昨日の朝と同じ青い空だけだ。
 少しの間観察して、渉は天窓の下にシャッター……いや、普段の天井としての開閉機構が備わっているのを確認した。スライド式のトップライト・カバーとでも言うのだろうか。その支えとしての骨組みの間に、スプリンクラーと照明が見事に配置してある。なるほど、天窓が閉じた場合でもできるだけ寝室の景観を損なわないように作られている訳か。
 見る限りは天窓それ自体を開閉することまではできなさそうだが、天井の半分以上に渡る天窓の大きさと場所を考える限り、明かり取りとしてのそれだけで非常に複雑かつ金をかけた作りだった。おそらく、船全体におけるこの部屋の位置からすべて計算、設計しないとこの機構は不可能だろう。
 だが、それもまたわかりきった……当然なことかもしれないと渉は思う。ここは俺の客室で、間違いなくこの船で最も贅沢な予算を以って作られた、最上級の貴賓室だ。考えるまでもなく一泊の料金は六桁のそれであろうし、もしかすればそれ以上である可能性すらある。勿論そういったことは専門ではないし、そのような部屋料金の平均を予測できるほど経験も知識も豊富ではない。だが、それでもこんな部屋を七日間もの間貸し切りにするとなれば、総費用は天文学的な数字になるだろう。
 だが、渉はそこで苦笑した。いや、そもそも、である。完全ではない(であろうと思うが)にしろ、この新造のハイテク豪華客船を一週間レンタルすること自体が、間違いなく天文学的な費用を必要とするだろう。まったくもって、たいしたものだ。流石は……と渉はいつも通りの活発な令嬢の姿を思い描き、そして首を振った。これでは、本当に俺は女々しい奴だ。
 とにかく、と渉は大きく伸びをして肺の中の空気を入れ替えた。この寝室には天窓以外に窓はなく、その天窓は開いていなかったが、それでもエアコンは作動しているのだろう、新鮮な空気を感じる。周囲が閉塞しているためにすがすがしい、とまではいかなかったが、これだけの陽光の下ではそういった気分に近い大気を感じる。まさに疑似体験か、と渉は思い、いやこの光は偽りではないだろうと自問自答した挙げ句、ようやくベッドから降り立った。
 航海三日目か。首を軽く鳴らしながら、渉はふっとそう意識した。
 そうか、もう三日目なのだ。七泊八日……丸一週間に及ぶ航海の中で、今は三日目の朝。前半の終わり、というには少し早いかもしれなかったが、それでも既にこの環境に適応……いや、順応と称した方がいいだろうか、そうなりかけている自分自身を感じる。
 そう、俺は今、心身共に静寂に包まれた、穏やかで落ち着いた朝を満喫している。五年近くを過ごした、にぎやかで目まぐるしい男子寮の朝とは、徹底的に異なる環境だ。勿論、西之園萌絵に借り受けたマンションでもそれは同じだが、結局半月ほどの滞在であり……何よりもここの待遇が、遥かにあの高級マンションを陵駕してしまっている。
 そう、すべてが一流……いや、超一流だ。まさに、この世の天国。
 だが、と渉はかすかに笑った。だからといって、これが当り前……そう、俺の日常だとは決して思えない。確かに、これは現実かもしれない。目の前にある、れっきとした事実かもしれない。だが、俺にとっては結局のところまやかしだ。あと四日経てば、過ぎたこととして消え去るであろう、まぼろし。勿論、経験……体験としての記憶は残るだろう。思い出になるかもしれない。俺の人生を顧みても、最上の生活環境であるのかもしれない。
 だが、それだけだ。俺にとって、これは……この船の生活は、決して現実ではない。いわば、大がかりなバーチャル・リアリティ……仮想現実空間をゲストとして体験しているようなものだ。呼吸もできるし、食事も睡眠も、娯楽も……そう、不快な対立すらもここにはある。まさに小さな世界であったが、だがしかし、それだけだ。いつか必ず終わりを迎える、決して永続できない世界。どれほど豪勢で、愉快で、波乱に満ちていようが、結局は目覚めてしまう夢のようなものだ。面白おかしく作られた物語、テレビ画面の中に映し出されるゲームと同じようなものだろう。時間が来れば、予定された結末にたどりつけば、ゲーム・オーバー。端からシステムを閉じてしまえば、それで終わることができる。所詮、その程度の場所なのだ。
 だがそこで、ふと思う。
 終わった後、どうなるのか。
 そこに、何が待っているのだろう。それから、何が始まるのだろう。
 少しの間、黙して……そして、渉は苦笑と共に首を振った。
 馬鹿馬鹿しい。始まるも何もない。その先は、俺にとっての現実が待っているだけだ。そう、俺は大学四年の留年生。そこには後のない卒論審査と就職、それらが待ち構えているだけじゃないか。うまく行けば……そう、行かない訳にはいかないが……来年の春にN大を卒業し、新しい生活が始まる。そうだ。N大を卒業し、犀川先生のゼミからも、西之園さんのマンションからも離れて……俺は一人で、新生活を始めなければならない。
 一人で、か。
 渉は言い知れぬ不安のようなものを感じた。一人の自分。だが反射的に、何を子供のように、とその思いを嘲る。桐生渉、お前は幾つだ?そんなに大学にいたいのなら、どうして大学院に進まなかった?
 答えは自明だ。俺は、それに興味を感じなかったからだ。
 ならば今、どうして不安を感じるのか?
 それも簡単だ。要するに、大学の生活が……日々、のらりくらりと学生生活を謳歌しているのが楽だと思っているのだろう。そして、仕事という大人としての義務を受け入れるのが嫌なだけだ。学生という身分を放棄するのが、俺は嫌なのだ。まさにどこにでもいる怠惰な大学生だな、結局は俺もただの俗物なのだと渉は自分を笑い、そして深々とため息をついた。
 安穏とした状況から引き離されるのは、苦痛か。
 確かに、そうだ。赤子も大人も、それは同じだろう。
 ならば、誰が引き離すのか?そうせざるを得ない……そうならなければならないのは、なぜか?
 子供が生まれる。学生が卒業する。それは、どうしてか?
 そんなことは決まっている。子供が生まれるのは必然ではないか。生徒が卒業するのも当り前だ。なぜなら胎児は出産されるものであり、学生は卒業するものだからだ。生まれない胎児は流産してしまう。卒業できない学生は退学する。
 だから、生まれなければならない。卒業しなければならないのだ。
 だが、そこで渉はふっと顔を上げた。
 根元的には、それもまた違うのではないか。
 そうだ。
 子供が授からなければ、出産という結末にも導かれない。
 学校に入学しなければ、卒業を示唆されることもない。
 だが。その時点で、両者は決定的に違う。
 そこに自分の意志があるか、ないかだ。
 学校に入学するのは、あくまで自分の意志だ。例え周囲のそれ……親や教師に言われ、そうさせられたと反論できる余地があるとしても、そこには絶対的に個人が……当事者である自分自身が拒絶可能な選択肢が存在する。それを幼さゆえに選べない、また選ばないのは個々の事情かもしれないが、『絶対に選ぶことができない』という状況、選択肢はない。そう、極論……あくまでも極論だが、自意識を持つ個人には、究極の選択肢が常に存在する。それは万能で、かつ無限大に強力なものだ。だが同時にそれは、選んでしまえばすべてを終わらせてしまう。だが人は常に、その究極の選択肢を持っているのだ。
 いや、持たされているのかもしれない。自分が好むと好まざるとに関わらず、それは目の前に存在している。常に、どんな時も。
 それを考えるのは決して平静なことではない。苦痛かもしれない。いや、間違いなく苦痛だろう。そう、苦しく、痛く、泣き叫びたい現実。
 ならば、それを生じさせたものは何か。
 苦痛の根元は、どこにあるのか。
 それを思索してしまうのは、それを意識しなければならないのは、なぜか。
 こう考えるに至る状況を生み出した、根元は……何なのだ。
 果てない苦しみと共にある今を、自分を、己を作り出したものは何なのだ。
 そんなものがあるとすれば、それこそがすべての元凶ではないのか。
 そう、俺のこの苦痛を……今を生み出したのは、誰だ。俺はどうして、ここにいなければならないのだ。
 俺は……人は、どうして生まれた?生まれたいから生まれるのか?確かにそういう言葉は多い。赤ん坊は生まれたがっていると、多くの親が、大人がそういう。
 だが、それは本当なのか?赤ん坊は本当に、生まれたがっているのか?
 自分の意志でなく生を受ける。いや、生を受けてしまった胎児。母体から、引き剥がされる生命。
 それは悲痛に満ちた、耐え難い苦しみなのではないか?
 だから、泣くのだ。ありったけの悲しみを、批難を、怒りをもって、目の前のそれに。
 自分を作り出した、存在に。
 渉は息を吐いた。激しく首を振る。
 どうかしている。こんなことを考えて、どうなるというのか。
 そうだ、今更なことだ。俺は、生きてしまった。そして、今ここに生き……いや、行きついている。今更生まれた理由を模索し、それを考証してどうなるというのか。自分が生まれたことを否定して……そう、後ろ向きに生きてどうする。決して変えられない過去などより、今から先の……そう、未来はまったく不明ではないか。俺にとって重要なのは過去でも、今目の前にある現実……この空虚な豪華客船でもない。卒論と、さらにはその先の卒業……そして社会への就職だ。
 そう、取るに足らないことだ。そして、それをいつまでも悩む必要はない。意味もない。俺にとって、重要なことは違うはずだ。それが、最優先すべき事柄のはずだ。それが、俺が望むもののはずじゃないか。
 そうだ。『それ』が……それだけが、俺の望んでいることだ。それ以外のことなど、どうでもいい。
 俺は、それだけを……
 渉は立ち上がった。そして、皮肉に笑う。
 取るに足らないとは、どちらか。
 優先すべきと思っているのは、どちらか。
 俺が望んでいるのは、何か。
 渉は首を振った。
 下らない。
 そんなことはわかっている。わかりすぎるほど、わかっていることだ。
 ならば、それこそ今更だ。考える必要はない。考慮する意味もない。
 俺は……
 渉は、さらに続こうとする思考を振りきった。きっぱりと、切断するように思考を封鎖する。それは難しいことに思われたが、渉は猛々しく首を振って自らのそれを無理強いさせた。
 まったく、朝から気が滅入る。昨日と同じく朝風呂でも浴びて気分を治すかと思い、そこで渉は自分が見慣れない格好をしていることに気付いた。そう、淡いブルーのパジャマ。袖もゆったりとしているそれを、自分は上下ともきちんと着ている。
 こんなものがどこにあったのだろうか。渉は部屋を見回した。いや、何もかも用意してあるこのロイヤルスイートに、ないものはないだろう。あの巨大なクローゼットの中に、これが収納されていても何も不思議ではない。
 だがそれでも、俺には見覚えがない。そして、それが渉の意識の何かをかすかに突く。そう、見たこともないものを着ているというのも奇妙な話だ。だがそれよりも、もっと大事な何かがあった気がする。第一、俺はどうしてここで寝ていたのか。そもそも、眠りについた記憶がない。俺は昨夜、何をしていたのか。また、やけ酒でもして……違う。そうだ、思い出した。俺は怪我をして、そして……!
 
 


[344]長編連載『M:西海航路 第二十一章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時04分 Mail

 
 
 渉は両目を見開いた。全身に、大きく震えが走る。それは弛んでいた全身に震えが走る……いや、今の今まで眠っていた意識が覚醒する、という表現がふさわしいであろう変転だった。
 そう、渉の意識は目覚めた。心身が、最大限の緊張を以って動き出す。鳥肌が立つようにそれは瞬時に跳ね上がり、そして、強大無比な認識……『自覚』と呼ぶべきそれが、渉の心を駆け巡り、専有した。
 静寂なる朝。
 だが、閑寂ではない。閑静に包まれてもいない。
 言うなれば、嵐の前の静けさであったろうか。
 そう、すべては……そうだ、閑却するべき小事であったのだ。
 この静けさが、何を意味しているのか。
 陽光に照らされた寝室の中央で、渉は不動のまま黙していた。
 昨夜、何があったのか。
 何が、起こったのか。
 俺は、何を体験したのか。
 それは、記憶。
 まさに戦慄すべき、一夜の記憶であった。
 渉は無意識に片手を握った。そう、手のひらの感触。指の感覚。それが、確かにある。そして、再び手を開いた。
 次に、目で見る。そう、俺の手はここにある。そして、ここには何もない。
 それはあって、そして、それはない。
 渉は目を閉じた。息を吐き、ゆっくりと目を開く。
 刻まれる、秒針。
 静かなる、歯車の音。
 それは聞こえない。だが、聞こえるのだ。
 聞こえないはずのそれが、はっきりと聞こえる。
 あって、なきもの。
 そう、存在している。部屋はここにある。そして、俺はここにいる。
 ならば、これは現実だ。今俺は、ここに存在している。
 この、海の上に。
 そこまで確認すると、渉は思わず笑った。そう、笑ったのである。不敵なそれか、馬鹿馬鹿しさからのそれか、それともまったく別の意味で笑ったのか、それまでは考えない。
 そう、俺は生きている。今は、それでいい。だからこそ、こうして考えることができる。思うことができる。
 そうだ、それが可能なのだ。
 ならば、進もう。いや、進まなければならない。選択肢は数あれど、それを選ばないことはできない。
 そう、俺にはできないのだから。
 渉は寝室を出た。短い通路から、洗面所に入ろうとして……ノブを捻った渉の動きが止まった。
 鍵がかかっている。
 鍵、だと?
 心臓が鼓動するのを感じる。消えていない緊張。その中で、渉はゆっくりと目の前の扉を見つめた。
 どうして、鍵がかかっているのだ。 
 誰かが使っているのか?いや、そんなはずがない。この船室には俺だけのはずだ。
 ならば、誰かが鍵をかけたのか?違う、ノブには鍵穴などない。だが、向こう側から鍵をかけられるタイプだとすればどうだ?しかしそうなると、向こうに……バスルームに誰かがいるということになる。
 渉はそこで、ドアの脇についた小さな青いセンサに気付いた。青い……そう、自分の着ている寝巻きと同じ色の、光。
 青い、光。
 黙してそれを見つめた後、渉は大きく首を振った。意思を取り戻す。そう、そんなことではない。今は、どうして目の前の扉……俺の船室にある浴室のドアに鍵がかかっているのかを考えなければならない。
 誰かが中にいるとは考えにくい。現に、何一つ音などしていないではないか。そして、このドアにはセンサがある。だとすれば、誰かが外から鍵を閉めることが可能なのだ。そう、俺が閉めることもできるはずだ。カード……ゲストカードがあれば。
 そう思い、次の瞬間渉は笑った。そう、それも今や必要ない。少なくともこの俺の船室の中では、そんな道具に頼る必要はないのだ。そう、そのはずじゃないか。
「カサンドラ、ドアの鍵を開けてくれ。」渉は目覚めてから初めてとなる声を発した。「洗面所のドアだ。わかるな?」
「認識しました。」天よりの声。聞き慣れた女声に、渉は驚きではなく……いわばその逆の、安堵そのものである思いを抱く。そう、彼女がいる。いや、いてくれるのだ。コンピュータ(しかもその中の一プログラム)を『彼女』と称する自分をどうかとは思いもするが、そんな考えこそどうでもいいと、渉は笑って首を振った。そう、カサンドラはカサンドラだ。女声であるのだし、彼女、と呼んで何の不都合もない。
 カチッ、という音が目の前の扉から鳴るまでは、渉の命令から半秒もかからなかった。そしてそれが、カサンドラの瞬時の応対が、渉の中の安堵感をさらに強める。そう、彼女がいるならば安心だ。俺の声が届く場所にいる限り、安心していい。
 だが、本当にそうだろうか?
 渉は身震いした。張り詰めていた緊張感が、警告のように自分を刺激したのだと自覚する。
 そう、そうだ。確かに、そうかもしれない。可能性は否定できない。
 だが、だとすれば……俺は、どうすればいいのだ。何もしない……ベッドで縮こまっている、そんな選択肢を選ぶのが正解か?何もしないで、それで満足か?それでも、お前は後悔しないか?
 桐生渉。お前はただ座して、その時を待つのか?
 渉は首を振った。こめかみを手で抑える。気付くのは、包帯の感触。そう、あれは夢ではない。そして、これも夢ではない。
 これは事実だ。そして、現実なのだ。
 そうだ。だとすれば。
 だとすれば、俺は。
 俺は、どうすればいい?
 渉は笑った。
 そう、まさに堂々巡りだ。
 過去を見る俺。
 未来を見る俺。
 そんな俺が、今に生きている。
 ならば、行こう。いや、行くべきだ。
 理由?
 簡単だ。
 俺が、生きているから、だ。
 今生きているから、それができる。
 だから、そうするだけだ。
 逃げかもしれない。茶化しているだけかもしれない。本来あるべきものから、目を背けているだけかもしれない。
 だが、それでも。
 俺は、そうしたい。
 立ち止まっていたくはない。
 だから、進むだけだ。
 渉は笑った。奇妙な感覚に意識を任せながら、洗面所のドアを開く。たちまち、湯気がもうもうとそこから漏れた。昨日もそうだったが、今日も当たり前のように朝風呂が沸かしてあるようだ。しかも、この湯気の量はまるで、『早く入って下さい』とでも訴えているようじゃないか……と、渉はほくそえみ、バスルームと一体になった広い洗面所に足を踏み込んで……
 湯気の中に、白い裸身が浮かび上がった。
 意識が判断するより前に、渉の視覚がそれを捉えていた。そう、湯船の横に誰かが立っている。いくつかあるシャワーの一つより振り注ぐ湯を浴びて、こちらに背中を向けている姿。
 しなやかな……いや、少しばかりふくよかにすら見える、美しい体躯。輪郭以外は湯気で隠された中に、完璧とも言える背筋のラインがあった。
 そして、ふっとその顔が……濁りのある短い髪を貼り付けた横顔が、揺れる。
 女だ。渉は、まさに目を奪われる光景の中で、裸身を晒した女性が肩越しにこちらへ振り向くのを見つめていた。動きは取れなかった。美しさ、と言えば良いだろうか。淫猥な念などではない、そこに至る余裕すらない……ある意味裸体の美しさそのものに見とれるという、ギリシャ彫刻を前にした者が抱く、自然な思念が生じていたのだろうか。そして、その整った面立ちが渉を見据えて……
「桐生渉?起き抜けでいなければ、正しいのですか?」目線が合致し、少しばかりの距離を置いて……渉と女性が視線を交わす。そう、渉がそれと気付き、判断する前に……新たに聴覚が伝えた情報が、渉自身の思考を決定付けていた。彼女が、誰かを。
「あ……」渉の舌が震える。「す、すみません!」叫んだ。うなじ越しに目を細め、ゆっくりとほほえんだ女性……シャワーの中の、デビィ・ホロウェイ婦人に。「あ、あの、俺……すみませんでした!」まさに首まで赤面し、渉は脱兎の如くに洗面所から飛び出した。そして、叩き付けるようにドアを閉める。
 何という……
 渉は喘いだ。息が詰まる。深呼吸もできないほど。
 そう、何という……馬鹿な奴だ。
 それと共に、起きてから抱いたいくつかの疑念が氷解していくのを感じる。知らなかった天井のギミック。着ていたパジャマ。そうか、そうだったのだ。確かにそれならば納得が行く。無論、筆頭のそれ……俺がこうなる羽目に至った理由まではわからないが、それ以後のことは自明となった。
 だとすれば、だ。
 そう。だとすれば……俺は、とんだ三枚目だ。
 渉は息を吐いた。今さっき覚醒した何かが、緊張し続けていた心身が、今の大失敗で一気に破砕……いや、見る見る萎縮していくのを感じる。自分自身への情けなさと、他人……そう、デビィ婦人への申し訳なさで渉は頭をかき、再び包帯に気付いた。そうだ、俺は……
 そして、背後で音。「お風呂は、桐生渉が入りました?」目の前のドアが開き、そこから濡れ髪のデビィ婦人が顔を出した。「渉は、僕と一緒に入りましたね?」渉の心臓が大きく跳ねる。
「ノー!」渉はとっさに叫んでいた。「ノー!ノー・サンキューです!」
「No,thank you?」デビィ婦人が目を丸くする。渉は何度も頷いた。考える余地はなかった。「そうなれば、どうしても入りますね?僕は、当然です。それでも信頼できませんか?」渉は赤面した。耳まで赤くなっているであろう自分を感じ、まさに子供だと自覚する。
「結構です!」叫んで答えつつ、同時に今の返事は不適切な語句なのではないかと思う。案の定、デビィ婦人は当惑したように口許を抑えて……そう、まるで乙女が恥じらうようにして、湯上がりのほのかな頬をさらに赤く染めているではないか。「い、いえ、違います。」渉はさらに焦った。「そんな……そういうつもりじゃないんです。つまり、誤解です。俺が悪くて……」まさにコメディドラマの三枚目の台詞だ。渉は情けなさに頭をかきむしりたくなった。穴があったら入りたいとは、こういう場合に相応しい言葉だと思う。「ごめんなさい……本当に、すみませんでした!」結果、渉はそれを実践した。すなわち、すぐ近くの別の扉を開けて、その場から退散したのだ。一目散に。
 それはまさに、数日来慣れ親しんだ場所であったからであろう。渉は反射的に広間への扉を選択し、そこに入って扉を閉めると、豪壮な扉によりかかる形で深々と息を散らした。
 まったくもって……
 そう、まったくもって、だ。
 俺は、まったく……!
 だがそこで渉は、再び緊張しかける意識に身を強ばらせた。そうだ、あの婦人……デビィ婦人は、俺のように一人ではない。もう一人……そう、博士だ。世界屈指の建築学博士であるジェームズ・ホロウェイ博士、彼女の伯父である人物が、この部屋を利用しているはずだ。
 渉は汗を拭った。先程の湯気のせいだろうか、首筋にまでそれが流れている。
 そう、犀川助教授ですら手放しで認めるホロウェイ博士……彼が、自分の姪に対して俺が行ったことを知ったら、どう思うだろうか。いや、そんな下世話な話ではない。俺の蛮行……いや、愚行を知ったら、博士がどう思われるか、だ。自分の評判などどうでもいいが、ただでさえ西之園さんのために迷惑を被らせてしまったホロウェイ博士に、これ以上の不快感を与えたくはない。渉はそう思い、博士が部屋にいない……そう、この事態に気付いていないことをひたすら願った。
 呼吸を整えて広間を見回し、ようやくほっとする。とりあえず、ここに博士はいない。以前、彼が腰掛けていたソファにもいない。それと共に、渉はここが確かに自分の船室ではないことを認識した。そう、おそらくは婦人の持ち物であろうが、こまごまとした台所用具や本……向こうには折り畳まれた車椅子もある。その、銀色のパイプでできた簡素な車椅子に気付いて、渉は心底から安心した。この広間に博士はいない。おそらくは隣の部屋……あの客間(いや、書斎か)にいるのであろう。朝……渉は大きな時計で時間を確認する……既に九時を回っているとはいえ、まだ眠っているのかもしれない。
 よかった。そう思った直後、渉は自身の無恥に呆れた。桐生渉、お前は既にホロウェイ婦人……あの親切なデビィさんに対して、取り返しのつかない程の失礼を働いてしまっているんだぞ。それを他人に知られないからといって安堵するなど……
 頭痛を覚えたように頭を手で抑えて、渉は窓際の……バー・コーナーの椅子に歩いた。慣れ親しんだその一脚に腰掛け、息を吐く。勿論、慣れ親しんだのは自分の船室のそれで、厳密な意味でなくてもこの椅子とは違うのだが、そこまでは気にしない。いっそこの部屋を去ってしまおうかとも考えたが、流石にそれこそ非礼以外の何物でもないであろうと思い留まる。当然ながら、自分がそうしたいかどうかなどは別問題だった。
 気持ちを落ち着け、窓の外の景色を眺める。確かに景色は同じだ。だが、同じでも、たった一つだけ違う点がある。それは、窓の外の光景、その左右があべこべになっている……いわば、丸ごと逆になっていることだった。渉の船室では窓に対して左から流れていた海原が、こちらの部屋では右方向から流れている。いや『船が航海している』と言った方が正しいか。結果、渉の部屋は船首に向かって右側にあり、ホロウェイ博士のそれが左側に位置しているのだとわかる。さらに頭の中の図面として二つの部屋の構造を当てはめ、渉はこの部屋がホロウェイ博士とその姪であるデビィ婦人の船室であるとさらなる自覚を得て、結果、先程の自分の行いに羞恥心を募らせた。
 まったく、俺はどれだけの失態を繰り返すのだろうか。この船に乗り込んで、今までどれだけのミスを重ねただろうか。昏倒し、叱責され、泥酔し、騙され……思い返してみれば、それはもう数限りない。その度に嘆き、悲しみ、悔やみ、そしてもうごめんだ、こりごりだと自覚する自分がいる。だが、その自省の結果はどうなのか?
 そうだ。渉は認めた。結局、何も変わってはいない。俺は反省した後も新たな失敗を重ね、再び、嘆くだけだ。何一つ、うまくは行かない。いや、例えうまく行ったと思えることでも、さらなる日を重ねて省みれば、結果、災厄を招く因子の一つとなってしまっている。
 ならば、本当に正しかったことはないのか。
 俺の人生には、何もないのか。
 このままずっと、大小様々なミスを繰り返すだけなのか。
 そうかもしれない。
 所詮、俺は凡人だ。ただの大学生で、並以下の能力しかない人間だろう。
 何もできはしない。そう、俺は何も知らない。この数日で、それを思い知ったではないか。
 まさに俺は、無知蒙昧で厚顔無恥だ。
「出ていませんか?」突然の声。渉は驚き、顔を上げる。
 首を巡らせた渉の目に、先程自分が飛び出してきた大きな扉……寝室や洗面所に続く扉を開けて、顔を覗かせているデビィ婦人が映った。「桐生渉には、食事をしていますね?朝食は、もう食べることを許せません。ですけど、待っても無駄ですか?」デビィ婦人は真紅のバスローブ姿であった。渉は、先程の遭遇を思い出して戸惑う。
「あ、あの……」デビィ婦人が片手を持ち上げると、どこか芝居がかった仕草で広間の一角を指し示した。渉はそちらに向き、広間の中央にある大テーブル……そこに、何かが乗せられていることに気付いた。そう、たくさんの皿とカップ。まるで朝食のような……「僕は、待っていませんね?」デビィ婦人が、微笑を残して扉を閉める。
 渉は思わず立ち上がった。だが、婦人は既にいない。まさか、追いかけて聞き返す訳にもいかなかった。
 とりあえず、渉はバー・コーナーからテーブルに歩む。はたしてそこには、渉が察したものが整然と並んでいた。パンにサラダ、種々様々なチーズとハムとソーセージ、そしてミルクにコーヒー、デザートとしてのフルーツ等々……まさに婦人に似合いの『ヨーロッパの家庭の朝食』とでも呼ぶべきそれが準備され、並べられている。既に自責の思いで胸をいっぱいにしていた渉ですら、食欲を覚える程の見事な盛り付けだった。
 だが、そこで渉は気付いた。朝食のための個々の食器が、二人分しか用意されていない。
 どうしてだろうと思い、次に渉は苦笑した。首を振る。
 何を考えているんだ、俺は。婦人の部屋にいるのだから、婦人の作った朝食を食べるのが……いや、御馳走されるのが当り前か?桐生渉よ、航海三日目でもう精神がブルジョワの仲間入りを果たしたのか?立場をわきまえろ。元々、西之園さんがあんな企てをしなければ、そもそもこんな場所にいられなかったのではないか。
 そして、再び扉の開く音。「桐生渉、どうかしていますね?」
「あっ、いえ……すみません。」渉は振り向くと同時に謝る。情けない、という感覚。
「謝るには、間違っていませんね。」変わらぬ笑みを湛えて、部屋に入って来たデビィ婦人。赤いバスローブを薄茶色のガウンに着替えた彼女は、まだ濡れている頭髪にタオルを巻き付けながら続けた。「桐生渉は、とてもいいです。けれど、駄目かもしれません。」短い髪が隠れ、グリーンの瞳が渉のそれを見据える。「一つだけ勘違いをしましょう。やはり、決して悪くないとは思えません。」
 ほほえむデビィ婦人。肌と同じ純白のタオルの隙間から、幾筋かの頭髪が濡れて素肌に張りついている。その白金のような色と緑の瞳を見つめて、渉は思わず先のバスルームでの出来事を思い出していた。何かが、少しだけ高まる。
「す、すみません。」渉は頭を下げた。「その、さっきは……とても失礼なことをしてしまって。本当に申し訳ありません。俺……」言い訳を並べようとして、渉は首を振った。そう、結局、してしまったことだ。今更、自分を取り繕ってどうする。「すみません……」だが、それ以外の言葉が見つからなかった。この婦人……デビィに伝わらないと思った訳ではない。おそらくは自分の言うことを理解しているとは思う。だが、それでも……いや、だからこそ渉には次の言葉が見つからなかった。自分に向けた……そう、己を罵倒する言葉なら、いくらでも浮かんでくる。
「嬉しかったですか?」渉は息を詰まらせた。「桐生渉は、僕と入りたくはない?それにしても、よい始まりではないですか。謝りを続けて、どうしようもないはずはありませんよ。」
 渉は顔を上げた。そこには、優しげなデビィ婦人の顔があった。だが、それはどこか違う……そう、ほんの少しだけ心外な色の覗く、まるで怒っているようにすら見える顔だった。教え諭すとでも称すればいいだろうか。「指摘されると、謝りは勘違いです。桐生渉は、どうしても必要がありませんね。」そして、そんな婦人の表情が……グリーンの瞳が、渉の心に何かを導く。
 そうか。
 そう……そうなのかもしれない。
 もし、そうだとすれば。
「朝食は、お見舞いによい?」まさに突然に、渉はそれを理解した。婦人が何を言っているか、何が言いたいか、それではない。「後で、食べてしまっていますね。しかし、僕は御馳走するのですか?」そうだ。おそらく……いや、間違いなく、そうだったのだ。だとすれば、簡単なことじゃないか。
 そう、無用だ。そんなことをする必要はない。彼女も、そして……おそらくは、俺も。
 渉は息を吸った。そして、静かに吐く。もう一度そうして、渉は言葉を選んだ。
 そう、言葉を選び、用意する。
 だがそれを、詞にはしない。する必要がない。
 しては、いけないのだ。
「デビィ。ありがとう。俺。謝る。繰り返し。悪い。その通り。反省。朝食。御馳走。デビィ。手作り。食べる。空腹。幸せ。」ゆっくりと、単語……十五のそれを並べていく。一つ一つ、正確に。
 デビィ婦人が、目を見開いた。翡翠のような、濃緑で深い色あいの瞳。それは、とても美しかった。
 そして、ほんの少しの時が流れる。
 彼女は頷き、ほほえんだ。
 そう、ほほえんだのだ。
「桐生渉。怪我。倒れる。救助。船員。夜。運ぶ。船室。眠る。起きる。朝食。作る。食べる。一緒。嬉しい。」
 一つ、一つ、ゆっくりと言葉を並べる婦人。
 量ったかのように、その数もまた、十五であった。
 そして渉もまた、精一杯の表情でほほえみを返した。
 互いに見つめあい……そして、小さく吹き出す。
 どちらが先だったのか。
 渉からか、緑色の目の婦人からだったのかは、定かではない。
 二人は、共に吹き出して……そして、おかしそうに、愉しそうに笑い続けた。
 窓の外には、変わらぬ青。
 桐生渉の航海三日目は、こうして明けた。
  
 


[345]長編連載『M:西海航路 第二十二章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時05分 Mail

 
 
   第二十二章 Mermaid

   「私、海に行ってみたかった」


 歓声と共に、水しぶきが散った。
 振られる手。ガラスのように透明度の高い水中から、彼女が上体を出して手を振っている。
 桐生渉は当初、この女性は泳ぐのは苦手かもしれないと推測していた。だが、それはまるで逆だった。水に浸かっている方が自然であるかのようなはしゃぎぶりと優美な泳ぎ……そう、まさに水を得た魚のように彼女は嬉々としている。普段見せる朗らかでふくよかな母親の如き物腰と、今目にするまるで年若の少女のような無垢な態度。その二つを共有する視界の中の女性に、渉は少なからず敬服していた。いや、それは敬服というよりもむしろ、敬慕という方が正しかったのかもしれない。
 だが、渉はそれを自覚できるほど平静ではなかった。とにかく彼は水中の女性……陽光の中で眩しい水着を身につけた彼女に手を振り返した。
 デビィ・ホロウェィ婦人。
 婦人が嬉しそうに手を振り、そして言葉のないまま渉と笑い合う。何やら少しだけ気恥ずかしかったが、そんな思いを渉は押しやった。そう、そんなことはどうでもいい。それに、彼女もそんなことは……俺が物怖じすることなど望んでいない。
 そう、いくらここが船客でごった返していようと。
 喧騒。スイッチを切っていた聴覚を再起動させたように、渉は周囲の混雑する状況を認識していた。
 人、人、人。軽く見積もって二、三百人はいるだろうか。年齢制限のある児童を除いた老若男女……彼彼女等はそれぞれ個性ある水着をまとい、楽しげに陽光の下、大海原に浮かぶ巨大なプールではしゃいでいる。
 船の後部甲板に備えられた大プール。50mサイズであるそれは、はたして豪華客船という肩書きを持つこの船にふさわしい豪勢な作りを誇っていた。純白のプールに澄んだ水、そしてきらめくようなステンレスの手摺と素足に心地よい敷石。プールサイドにはデッキチェアとパラソル、そしてテーブル。そこで日光浴、あるいは水で戯れる人々は、空腹あるいは喉が渇けば少し先に見えるプール・バーか、階段を上がった先のカフェに入ることもできる。勿論こちらからのオーダーも可能であり、何人かのウェイターが忙しそうに行き来していた。
 とりあえず、ごったがえすという形容は似合わないかもしれないと渉は考えた。どれほど人がいても、寿司詰め……そう、いわゆるシーズン中の海水浴場や市営プールのような状態ではない。ていのいい高級ホテルのプール、だろうかと渉は乏しい知識を総動員して比喩を巡らせると、かすかに目を細めて辺りを見回した。
 そう、大勢の人がここにはいる。今まで船内通路でそう思うことは幾度かあったにしろ、いざそういった『一般』の人々の中で過ごすのはこの船に乗ってから初めてかもしれないと渉は思った。思えば今までは、すべてが『特別』だった。そう、俺一人しかいない『特別』な客室。『特別』なランクの船客しか入れないレストラン、パーティ会場……それらが当り前になるうちに、俺は指針となるべき……いや、基準としていた何かを忘れかけていたのではないだろうか。
 だが今、渉は久方ぶりになつかしさのような親しみある空気を感じていた。そう、雑踏に戯れるとでも言うのだろうか……当たり前の世界、その一員としての自分を。
 再び、プールの中からデビィ婦人の合図。渉は笑って、手を振り返す。緑色の瞳の婦人は、渉の合図を心待ちにしていたように満面の笑みを浮かべると、澄みきった……そう、まさにマリンブルーという名がふさわしい水の中に身を委ねた。
 そうだ、俺は別段、何も気にしていない。第一、気にする必要がない。見ろ、人はこれだけいようとも、俺と彼女を興味深げに見る者はいない。それもそのはず……と渉は目線を放つ。金、そして赤に、茶色……様々な色の髪、そして渉のそれと違う、デビィ婦人に似た白い……あるいは褐色、黒色の肌を持つ人々。
 そう、このプールにいる日本人の割合は半分にも満たなかった。東洋系の人種をすべて加えても、その数は三割に達しないのではないかと渉は目測する。スチュワードやウェイターも、外国人ばかりだ。勿論、今のこのプールの状況が、イコールこの船の客層だとは限らない。たまたまかもしれない。だがしかし、渉にとっては今この場のそれだけでよかった。
 そう、気にする必要はない。知り合いは見渡す限り一人もいない。いや、気にするまでもなく、そもそもこの船に俺の知り合いなど一人もいないじゃないか。そう思って、渉は笑った。
 なら、何をしようが構わないはずだ。ここには西之園さんも犀川先生もいない。親類縁者は勿論のこと、大学の友人もゼミの先輩後輩も一人もいない。ここにいるのは、俺がこの数日で知り会った何人かの人物だけだ。そして彼彼女らもまた、この船に乗り込んでいるであろう二千人を越える乗員・乗客の中では……そうだ、このデッキの人々を例に挙げるまでもなく、ほんの微々たる……そう、微少なるそれに過ぎない。
 だとすれば、衆目を気にし、世間体を危惧しようとする俺の意識そのものが愚かしい。
 楽しむべきだ。そうだ、西之園さんもそう言ってくれたじゃないか。そして俺もまた、それを自認し口にした。ならば、それを実践するのがもっともな道だろう。
「桐生渉?」気が付くと、彼女……ワインレッドのビキニをまとった婦人が渉の前でほほえんでいた。「楽しい?」屈み込み、悪戯っぽい顔でこちらを見る緑色の瞳。「無理強い?」
 渉は首を振った。デビィ……ホロウェイ婦人に。「否定。」笑う。「楽しい。俺。考えごと。少し。」今一つうまくない、と自責する。
「了解。」婦人が頷き、そして目の覚めるような純白のビーチタオルでその体を覆った。「乾く。喉。休憩。飲み物。買い求める。」はきはきとした声で並べながら、軽く短髪を振る。
 渉は頷いた。この『会話』方法に気付いた……いや、始めた自分よりも、遥かに彼女の方が順応している、と思う。その理由はと考えて、使う言葉が俺にとっては母国語であり、むしろそれが弊害になっているのかもしれないと渉は考えた。いかにももっともらしいが、それだけかもしれない。
「ええ。俺が買ってきます。」デビィ婦人がおかしそうに片目を閉じ、渉は失敗したことを悟る。「購入。俺。可否?」
「否認。」婦人が叱るような仕草で笑う。「桐生渉。待つ。デビィ。運ぶ。」渉は降参するようなポーズで婦人に対した。婦人が笑い、そして歩き出す。
 人込みをぬって、プール・バーの中に消えていくデビィ婦人を見送ると、渉は深く息を吐いて身を沈めた。安物ではない、しっかりとしたデッキチェアの心地よさ。そして、綿菓子のような雲が浮かぶ空から、降り注ぐ暖かい陽光。まさに、楽園にいるような気分だった。
 プールに行こう、とデビィ婦人が渉を誘ったのは一時間ほど前のことだろうか。朝食を前にして、婦人の会話……あの奇天烈な日本語の曰くをようやく理解した渉が、この『他人から見れば奇妙極まる』会話を重ねた挙げ句に出て来た提案。「誘い。デビィ。プール。桐生渉。二人。可否?」そう、確かこうだったろうか。悪戯っぽい顔の婦人の誘いに渉は少なからず驚いたが、少し考えた後、それを承諾した。
 そう、今すぐに行うべき何かがある訳ではなく、とりあえずの用事もない。おまけに自分は怪我をして安静にしていなければならない身であり、だからといって部屋で黙しているのも気乗りがしなかった。ならば、向かいの船室の美貌の婦人の誘いを断る理由はない。そう、俺はまぎれもなく彼女に助けられたのだから。しかも、二度……いや、三度も。
 カード・キー……ゲストカード紛失時の騒動と、カサンドラというナビゲーション・システムを認識したという二点だけで、彼女に返しきれない程の大きな借りを作ってしまっていると渉は自覚する。それに加え、三つ目となる昨夜のそれ。
 そう、廊下で我を失い、昏倒していたという俺を助けてくれたこと。
 渉は、朝食の際に婦人から受けた説明……そう、『文節』という概念を放棄した単語によるそれによって得た情報を整理した。
 昨夜遅く……いや、今日の午前零時過ぎ、か。彼女の伯父であるジェームズ・ホロウェイ博士が酷い船酔いにかかり、デビィ婦人はスチュワードを伴って医務室に向かった。その途中、廊下に座り込んでいた俺を見つけ、船員の手助けで彼女の……博士達の船室に運び込んだ、という。
 渉は息を吐いた。そう、きっと大騒ぎだったのだろう。彼女の性格から察するに、間違いなく俺の頭の傷を心配したはずだ。おそらくは向かいの……俺の船室に入れようとするスチュワードを説き伏せて、自分が介護するからと彼女と博士の……自分達の寝室に入れてくれたのではないだろうか。
 返す返すも、渉はデビィ婦人の親切気に頭が下がった。そう、おそらく彼女はほとんど眠っていないのではないだろうか。俺の容態を気にして、もしかすればつきっきりで看病してくれたのかもしれない。さらに彼女は俺のために朝食を準備し、そして、怪我をした俺を元気付けようとして、このプールにまで誘ってくれたのではないか。俺が、どうにもうかない顔をしているのを察して。
 うかない顔、か。渉は首を振った。
 そう、今はもうはっきりと記憶している。思い出している。
 それは、忘れようとしても忘れられない事実。いや、現実か。
 そうだ。
 彼女の存在。
 彼女が、ここにいる。
 彼女は、ここに。
 渉は息を詰めるようにして目を閉じ、天を仰いだ。光を感じ、まぶたを開く。朝と違う仕切られていない空に、輝く太陽と真夏……いや、真夏然とした青空が広がっている。素晴らしい天気だった。そして、目の前には人々がそれぞれの憩いに興じるプール。
 だが。
 これは現実だろうか。これは、事実なのか。
 これは、この光景は、本物だろうか。
 再び目を閉じると、渉はゆっくりと首を傾けた。
 しかし、消えない。目を閉じても、消えることはない。光景ではなく、それは……疑念とでも呼ぶべきその感情は、今や渉の心の奥底に、黒い染みの如くに着床していた。意識するしないに関わらず、次第に大きく……そう、まるで細胞分裂を起こし肥大してくるような圧迫感。それが何か考えることすら背筋がうそ寒くなる、それは、桐生渉という個性にとり危険極まる、最大級の因子であった。
 彼女が、ここにいる。
 それが、あらゆる事象を越えて唯一絶対の意味を持つその言葉が、渉の今、そのすべてを支配していた。いや、支配しかけていた、だろうか。その事実に比べれば、他の存在……現実と呼ばれる目の前の空間など何だというのだ。そう、俺は……
 渉は視線を走らせた。プールサイド。そして、彼方のデッキ。上層の……見上げるそれ。そして、窓の一つ一つ。巨大な煙突。
 そこには人がいる。そして、誰もいない。
 そうだ。
 彼女は、ここにいる。どこにもいない、彼女が。
 それが真実だった。そして事実であり、現実なのだ。
 息が詰まった。寒気……いや、熱さだろうか。言い知れぬ何かを感じ、渉は激しく首を振る。気が狂いそうになる思考の輪廻から、脱却するように。
 落ち着け。落ち着くべきだ。今は……今はまだ、自分の目の前の状況を考えろ。そうだ、俺にとっての今、すなわち現状を……それが先だ。そう、その方がいい。おぼつかないままにしてはならない。そう、そうでなければ俺はまた……
 渉は沸き上がってくる感情を必死に堪えた。そして、自分でも驚くほどの強硬な自制で、それに成功する。
 二度、三度と息をつくと、渉は再び視線を戻した。
 目の前の、人々でにぎわうプール。
 そう、とにかく俺は昨夜、あの婦人……そう、デビィ婦人に助けられた。
 結果、ホロウェイ博士とその姪である彼女に、途方もない借りを作ってしまったことになる。今までに挙げた三つのことだけでも十分すぎる程のそれだが、さらに加えれば、そもそも彼女(というか伯父であるジェームズ博士)は、この俺をこの船に乗せるために……そう、俺と同じく西之園さんの『策謀』によって乗船をよぎなくされたのだ。そして、俺がその核となっている以上、婦人と博士にとり俺自身が無責任でいられる訳はない。そんなデビィ婦人が、しかも当の俺自身を気遣ってプールに誘ってくれたのだ。断る理由や資格など、俺にはまったくない。
 ようやく自分を取り戻したように、渉は深く息をついた。まったく、自分の思考を整理するとはどれほど難しいことか。今更のようにそう思い、渉はデッキチェアに身を委ねた。それ以上のことは考えない。
 そう、デビィ婦人に俺は借りがある。だから彼女に対し、できることはしなければならない。そして何より、俺自身がこうしていて楽しくない訳じゃない。
 うぬぼれに似た自意識に、渉は再び苦笑した。桐生渉、気持ちを切り替えたと思えば、今度は何を考えている?確かに彼女はまぎれもない美人だし、見た目妙齢の淑女かもしれないが、それでも間違いなく婦人であり夫人……そう、夫という存在がいるはずだ。確認した訳ではないが、あの年齢まで独身である訳がない(年齢もまた、確認してはいないことは無視する)。ホロウェィ博士の家系がどうであるのかは知らないが、おそらくは皆がそれぞれ、立派な研究者なのではないだろうか。そして、一族で最も優れた学者であるジェームズ博士の身の回りの面倒を見るために選ばれたのが、彼女……デビィ・ホロウェイ。
 ほとんどが想像で作られた背景に、渉はまさに身勝手に納得した。そうだ、まさに似合いの状況だ。デビィ婦人……彼女には、おそらく温和で勤勉な夫がいて、子供も勿論たくさんいる。可愛い男の子や女の子に囲まれて、普段はアメリカか……そう、ドイツの屋敷で、洗濯をしたり料理を作ったり、クッキーを焼いたりしているのだ。そんな光景が、あれほど似合う……いや、イメージしやすい女性がいるだろうか。
 渉は笑う。苦笑ではなかった。そう、それでいい。それで何もかも納得できる。無論、違っているかもしれない。何もかも間違いかもしれない。あくまでも俺の想像であり、現実はまったく違うのかもしれない。いや、当然違うのだろう。
 だが。渉は再び笑った。
 俺の中では、それでいい。人の……他人のことなど、端から何もかもわかるはずがない。
 数多くの女性のシルエットが渉の心中に浮かび、そして、消えた。
 そうだ。彼女が本当はどういう人間で、どういった暮らしをしているのか、それを知ろうとする必要はない。勿論彼女が自分の意志で俺に話してくれるのなら別だが、俺からあえてそれを問い正す必要などまったくない。どうせ、七日……今日を入れなければ、あと四日の間だけしか共にいないのだ。その後は、俺と彼女は関係なくなる。別人になるのだと渉は思い、それは他人の誤用だと自分に笑った。
 そう、別人……他人になるのだ。今は親しくとも、共に笑い合えても、手を触れ合わせることができたとしても、時が過ぎれば……今が終われば、俺達の関係は終焉する。そうだ、まるで映画の、物語の登場人物のように。
 結局、幕が降りるまでの舞台なのだ。俺にとって、この船が現実ではないのと同じように。それが過ぎれば、もう関係はない。
 だが。渉は目を閉じる。光が消え、喧騒が途切れた。
 だが、そこで俺達は出会った。
 たった七日。冬の一週間を過ごす、この船で。
 ほんの数日。夏の三日足らずを過ごした、あの島で。
 彼女と、俺は。
 渉の心が震えた。どうしようもなく、ただ。
 それでも。そう、それでも。
 知る必要はない。知ろうとする必要はない。
 俺が、自分のことを伝える必要がないのと同じく。
 そう、必要ないのだ。欲してはいない。俺も、そして彼女も、欲してはいないのだ。
 時間が経てば、時が来れば、それで終わりなのだから。
 だから、必要ない。
 言い聞かせるように深く念じ、そして、渉は激しい痛みに身を強ばらせた。
 だが。
 そう、だが。
 俺は、それでいいのか。
 それで、いいのか? 
 そうだ。俺は、無理に考えまいとしている。必要ないと断じて、何もかもを隠そうとしている。忘れようとしている。
 必要がない?そんな定義に意味があるか?
 彼女のことなど、知らなければいい?知る必要はないだと?
 どうして、そう思うんだ?
 瞬間、息が詰まった。答えを隠す暇はなかった。
 そうだ。
 それは、自明だ。
 つまり、怖いからだ。
 彼女のことを知るのが、怖いからだ。
 いや、それも違う。本当は……
 俺のことを知られるのが、怖いからだ。
 それを知った俺を、それに気付いた俺を、彼女に知られたくないからだ。
 そうだ。俺は、自分を知られるのが、怖いのだ。
 自分のことを、俺の心を知られるのが、怖いのだ。
 誰にも話すことができない、真実。
 知っている、事実。
 気付いてしまった、現実。
 それは、秘密という言葉で形容するのがふさわしいように渉には思えた。
 そう、秘密だ。
 俺が知る、秘密。
 知ってしまった、秘密。
 俺だけが知っている、秘密。
 誰にも、それを話すことはできない。話すのが怖い。知られるのが怖い。
 だから……
 だから、資格がない。
 そうだ。
 俺には、尋ねる資格がない。聞く資格がない。知る資格がない。
 俺には、何の資格もない。
 彼女に、俺は……
 
 


[346]長編連載『M:西海航路 第二十二章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時06分 Mail

 
 
「渉……さん?」呼吸が止まった。
 かけられた声……渉が予期していたそれではない。予測していた相手ではない。だが、確かにその相手である、声に。
 そう、それは『彼女』の声。  
「やっぱり、渉さんですね……こんにちは。」黒く長い髪が、肌に沿って滑らかに滑り落ちていく。漆黒の滝のようだと渉は思い、そして、かすかなデジャブと……さらなる息を潜めて、それを見つめた。
 彼女……そう、九条院瑞樹。
「お、おはよう……」思わず朝の挨拶をして、渉は自分に苦笑する。今はもう、とっくに昼だ。「こんなところで会うなんて、奇遇だね?九条院さんも泳ぎに来たの?」当り前だろう、と自分を笑う。そうでなければ何だというのだ。
「はい。でも……恥ずかしい。渉さんに、私……」雑踏と呼んでも差し支えなさそうなプールサイドの一角で、瑞樹の頬はほのかに染まっていた。手にしていた桜色のビーチタオルと同じ程度に。そして、その畳まれたタオルを持ち上げて、自分の体を隠そうとする。そう、目の醒めるような青のセパレーツが、渉の目をいやがおうにも奪っていた。「あの……私、おかしくないですか?こういう場所、初めてだから……」瑞樹の声は、人々のそれに消え入りそうなほど小さい。
「全然。」渉はそう言い、反射的に立ち上がった。「おかしくないよ。むしろ、その……奇麗だよ。」急激に、心身が熱くなる。今の季節はどうだったか。確かに今日は暑いぐらいだが……「うん。似合ってる。可愛い水着だね。その……九条院さんに、よく似合ってるよ。スタイル、いいね。」通り一遍なことしか言えない自分に呆れ、渉は頭をかいた。どうして、冷静に言葉を選べないのか。そう、デビィ婦人の時のように。
「えっ……や、やだ……」案の定、瑞樹は渉の賛辞に羞恥心を募らせたようだった。「……あ、あの。渉さん、私……本当に、変じゃ……ないですか?」言いながら、自分の体を懸命にタオルで隠そうとする瑞樹。渉は思わず口許をほころばせた。
「ああ、変じゃないよ。でも、そうして隠してるのはちょっと変かな。プールなんだから、水着でいなきゃおかしいよね。」瑞樹が驚き、そして困ったようにうつむく。渉はまた笑った。「大丈夫。ほら、これだけ人がいるんだから。外国の人もたくさんいるし、何も恥ずかしがることないって。」
 渉はわざと大袈裟に視線を外し、プール全体を手で示した。50mプールが設置された甲板は、まさに常時一定量の船客によって循環しているようだ。確かこことは別にプール……子供用の水深の浅いそれや、船の内部に作られている屋内プールもあったはずだと、渉は船のデータを思い返す。
「そ、そうですよね。ごめんなさい……」見返すと、瑞樹はためらいがちにタオルを外していた。「きゃっ!わ、渉さん……」振り向いた渉に真っ赤になり、再び体を隠す。渉もどうしてか、当惑して思わず瑞樹に背を向けた。
「ご、ごめん。大丈夫だから……」どうして、こういう言葉しか出ないのか。渉は自分の話術……いや、ボギャブラリーのなさを嘆いた。そう、デビィ婦人とならあれほど意識せずに単語が並べられるではないか。婦人と瑞樹に、何か違いでもあるのか。共に間違いなく美人だ。年齢は確かにかなり違うが……いや、あの婦人はいくつなのだろう。
「い、いいんです。ごめんなさい、渉さん。私……やっぱり、勇気がないですね。」消え入りそうな瑞樹の声。その懸命な調子に、渉は自然と微笑を浮かべた。「あの……えっと、もういいですから、こっちを向いて下さい。渉さん……」その台詞に、渉はさらに赤面した。頬だけでなく、熱くなる自分の意識を感じる。「私……」
「え、ああ……いいかい?」ゆっくりと、心を落ち着けて振り向く。
 瞬間。
 通り過ぎるような感覚が、渉の唇に走った。
 刹那の、感覚。
 風景が消失する。意識が、個人だけを捉える。
 それは、ほんの一瞬。
 その一瞬に、永遠があった。
 目の前にいた少女が、背伸びをした瞬間。
 重なる唇。そして、今はもう離れている唇。
 呆然として、渉は相手を見つめる。
 舞う黒髪。そして、白い肌。
 深いブルーのセパレーツを着た少女は、泣いていた。
 いや、違う。見間違えたのだ。
 泣いてはいない。笑っているじゃないか。
 そう、彼女は。
 瑞樹は、笑っている。
 微笑し、俺を見ている。
 そして、駆け出した。
 何もなかったかのように。
 ほんの、出来心だったかのように。
 そうなのかもしれない。
 気まぐれな、ただの悪戯心だったのかもしれない。
 だが、それでも。
 立ちすくむ渉の前で、黒髪の美少女がプールに飛び込む。
 人が変わったように。
 歓声をあげ、人魚のように、水中に消える。
 もう一人の瑞樹。
 はしゃぎ、泳ぐ、天真爛漫な姿。
 どちらが……
 そう、どちらが本物の、彼女なのか。
「桐生渉?」かけられた声に、渉は我に返る。
 正気を取り戻す。いや、自分を取り戻したのだ。
 自分?
 ならば、自分とは何だ?俺とは何だ?
 自問する声。目覚ましのベルのように、鳴り響き、訴える声。
 だが、答えはない。
 渉は振り向き、そして相手を見た。
「遅い。飲み物。謝る。待ちわびる?」デビィ・ホロウェイ婦人が、そこにいた。飲み物……カクテルか何かだろうか。色とりどりのフルーツを散りばめた、凝ったドリンクが二つ乗せられたトレイを手にしている。
「あ、ええ……了解。嬉しい。」首を振り、渉も努めて笑い返した。顔の筋肉……というより、全身が強ばっていたのを渉は感じる。それと同時に、ようやく……そう、今更のように、何か熱い感覚が全身に打ち寄せてきた。そう、まさに今更、である。
「彼女。愛らしい。恋人?」デビィ婦人がテーブルにトレイを置きながらクスリと笑った。渉の熱が、急上昇する。「紹介。了承?」悪戯っぽい……そう、先程の瑞樹が一瞬見せた、過ぎ去る横顔に似た表情。女性とはこういうものか、と渉は思う。それは決して悪意ではない。だが、それでも……
「あ、いえ。違うんです。彼女と俺は……」口走って、そして渉は目を閉じた。「いえ。彼女……俺、恋人。否定。二人。友達。」そう、そうだ。外国人なら不思議に思わないはずではないか。今、俺が……
 そう、俺が、したことを。いや、彼女が俺に、したことを……
「渉さん……?」横合いから、『彼女』の声。渉は飛び上がりそうになり、そちらを見る。
「あ……」九条院瑞樹は濡れた長髪のほつれを整えるようにしながら、渉に相対していた。その華奢な体で泳いだからだろうか、ほのかに頬が……いや、体全体が火照っているようだ。渉はそんな少女の肢体に、再び目を奪われた。「く、九条院さん……」先程の瞬間を思い出す。
「あ……あの……ごめん……なさい……」瑞樹は蚊の鳴くような声でそう言った。まさに、ばれた悪戯を謝る子供のような素振りで。「さっきは、私、その……」
「い、いいんだ。いいんだよ。俺は、気にしてないから……」渉は早口でそう答えた。同時に、気にしてない、という言い回しが正しいのかと、頭脳をフル回転させる。だが、答えは出てこない。「え、ええっと……」
 瑞樹は目をそらした。そして再び渉を見た時、その表情には明るさが戻っていた。「あの、渉さん。そちらの方は……?」考える必要もなく、隣のデビィ婦人のことだとわかる。少しだけ不安げな表情だった。どうしてだろうと渉は思い、そうかと納得する。
「ああ、うん。この人はデビィさん。デビィ・ホロウェイさんっていって……俺の、向かいの船室に泊まってる人。」婦人をいちべつする。「デビィさんはドイツ出身で、今は伯父さんとアメリカに帰る途中なんだ。」そう、確かホロウェイ博士は、アメリカの有名大学の講師として……
「そうなのですか。ありがとうございます。」瑞樹は一礼すると、デビィ婦人に向き直った。「はじめまして。九条院瑞樹と申します。」丁寧に頭を下げる瑞樹に、デビィ婦人が嬉しそうに頬を緩める。瞬間、渉はまずい、と思った。彼女の口から、あの日本語が出るとすれば……!
 だが、渉を絶句させたのは当のデビィ婦人ではなかった。顔を上げた瑞樹……そう、デビィ婦人でなく……少女の口から漏れた、聞き慣れぬ語句の響き。渉は目を見開いた。それは日本語でもなく、英語でもない……
 いや、違う。聞き慣れぬ訳ではない。確かに、俺にはまったく理解できない、だが、何度か聞いたことのある音韻だ。これは……独語だ。
 流暢に並べた言葉を切ると、瑞樹がほほえんで腰を屈めた。水着とはいえ、それはとても仕草として整っており……渉は思わず息を呑む。そして、その瑞樹の前でデビィ婦人が両手を重ね、嬉しそうに声をあげた。
 ダンケ……?わからない。渉は今程外国語を学んでおけよかったと悔やんだことはなかった。そう、何も独語に限ったことではない。英語にしても、俺は片言を聞き語れる程度の語学力しか持っていない。読み書きは多少できるにしても、それだけだ。もっと勉強しておくべきだった。そう、国際力等々をうんぬんするつもりはないが、今の状況……そう、外国人が過半数を越えているプールサイドを見ていると、沸々とそういう気分が募ってくる。
 そんな渉の前で、デビィ婦人と九条院瑞樹は独語の会話を続けた。渉にとって意外だったことに、瑞樹はデビィ婦人に警戒……いや、物怖じする様子もなく、むしろ渉に対するより遥かに朗らか……そう、まさに嬉々として、女同士の会話を弾ませている。それはデビィ婦人の人となりがそうさせるのかもしれないと渉は思ったが、それよりもかえって独語という異国の言葉を話している瑞樹の姿そのものが生き生きとしているように見える。渉は、先程の行為を含めた少女の意外な一面を黙って観察した。
 一方のデビィ婦人はといえば、まさに彼女らしい。はきはきと、身振り手振りを加えて瑞樹と話している。一体どんなことを話しているのだろうかと渉は底知れぬ興味を覚えたがが、そう思ったとほぼ同時に、デビィ婦人……いや、瑞樹と婦人、二人の視線が渉に向けられた。
「えっ、俺……?」思わず声が出ると、二人が顔を見合わせてクスリと笑う。そして、また言葉が交わされる。渉は何か取り残されたような……いや、憮然、と称した方がいいだろうか。そんな気分になりつつ、それでも二人の交わしている語句を少しでも理解しようと全注意力を傾け……ナイン、と、ヤーという否定と肯定の(確かナインがNoで、ヤーがYesだったはずだが)言葉以外はまったくもって理解不可能という結果に途方に暮れた。
「桐生渉。」そして、そこに声がかけられる。渉は、動物園の珍しい生き物の如くに自らを感じた。「デビィ。交替。彼女。恋人。否定。友達?」口許に手を当てて、デビィ婦人が微笑する。「デビィ。邪魔。帰室。二人。有意義。認可?」
「えっ……」渉は目を瞬かせる。「……ふ、不明。意味。わからない。」瑞樹の視線を感じる。恥ずかしさのようなものが急激に募った。先程の熱とは、別の感覚。「説明。疑問。帰室?」
 だが、渉の心境を完全に見抜いているかのようにデビィ婦人は首を振った。そう、まるで母親のように、悠然と。「桐生渉。さようなら。」さらに、もう一度瑞樹の方に向き直る。
 そして、抱擁。 
 瑞樹の瞳がかすかに見開かれ、その華奢な体を包んだデビィ婦人が、何事かを少女の耳元に囁いた。何を言ったのか、何を言われたのか、瑞樹の頬が、かあっと赤くなる。
 そして、悠然と……いや、にこやかに去っていく異国の婦人。半ば呆然とする渉と、身を強ばらせたままの瑞樹が、後に残された。
 人込みの中、二人が見合う。
「あ、あの……」渉は言葉を発した。だがその瞬間、彼女には理解できないのではないかと危惧する。「状況。了解?」
「え、ええっと……」そして、それは瑞樹も同じだった。「……グーテンターク?」
 二人は互いの顔をまじまじと見つめ、そして、次の瞬間、吹き出した。
 おかしそうに、楽しそうに。
 初めて出会った時のように。
 そう。
 当り前のように、二人は顔を見合わせて笑っていた。
 
 


[347]長編連載『M:西海航路 第二十三章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時07分 Mail

 
 
   第二十三章 Masquerade

   「もういいでしょう?そろそろ帰りたいの」


 プールを見下ろす小さなカフェで、二人の談笑が花を咲かせていた。
「……それじゃ、九条院さんはドイツにいたことがあるんだね?」
「はい。私、大学はドイツだったんです。」九条院瑞樹は自分の水着と同じ色のマリンブルーの飲み物をかきまぜるようにして、大きなストローを動かした。ビーチ・コートを羽織っているとはいえ、やはりまだ自分の格好に照れているような、未だにどこか抜けきらぬためらいがあるような仕草である。「でもその時には、萌絵さんにとても悪いことをしてしまって……」
 瑞樹の口から出た名前に、渉は二人の……九条院瑞樹と西之園萌絵のいきさつを思い出した。「そうか。確か、急に留学が決まって……」萌絵か、諏訪野老か……どちらかに伝え聞いた話を思い出す。「西之園さんに教える暇が、なかったとか……そうだっけ?」
「はい。」小さな、どこか力の入らない同意。「本当に、あの時のことは、後になってもずっと申し訳なくて……」瑞樹は心の底から後悔しているように語尾を濁らせた。
「あ、ごめんね。思い出したくないことだった?悪いね……」渉は思わずそう言い、瑞樹が驚いたように顔を上げた。
 そして、潤んだ瞳……そう、不思議な色の瞳が、確かに潤んでいたように渉には見えた……それを、閉じる。「いいえ。でも、西之園さんは勝手に疎遠にした私を……七年も経ったというのに……それでも、私を許してくれました。」顔を上げ、嬉しそうに渉を見つめる。誇らしげにすら見える瑞樹の表情に、渉は何か、自分が知らぬ……そう、諏訪野老から伝え聞いた以上の結び付きが西之園萌絵と九条院瑞樹の間にあった……いや、あるのではないかと感じた。
「西之園さんは、細かいことは気にしない人だからね。」瑞樹を元気づけようとして、渉はとんでもないことを口にした自分に気付く。「い、いや。違うな。豪胆って言うか……それも違うか。西之園さんはさ、ほら、あの通りの……」しどろもどろになる。どうにも、うまい表現が出てこない。直情径行、融通無礙、唯我独尊……ゼミ仲間で噂される形容が、渉の脳裏に次々に現れる。「ううん、その、元気な人だから。」だが、まさか口には出せない。「九条院さんと再会したら……そうだね。きっとあははって笑って、抱きついてきたり……」イメージが浮かび、渉は連想するようにそれを重ねていった。「きっと一日中フェラーリであちこち連れ回して……根掘り葉掘り、今までの話を聞きたがるんじゃないかな?」まさに目に浮かぶ、とはこのことだろうか。渉は豪快に車を飛ばす萌絵の隣で縮こまる瑞樹の姿を想像し、そのほほえましさに笑った。「俺も時々やられちゃうけど、西之園さんのディスカッションは物凄いよ。彼女の考察をまともに論破できる奴なんて、誰も……」いや、一人だけいた。「……学生仲間には、誰もいないくらいさ。大学院の先輩を含めてもね。」
「そうなんですか?」驚いたように瑞樹は聞き返し、渉が頷くとさらに……そう、意外そうにその目を丸くした。「うふふ、変わっていないと思ったら……やっぱり彼女、ちょっぴり変わっているんですね。」含むように笑う瑞樹。ほんの少しだけ、寂しそうな表情が覗いたのは気のせいだろうかと渉は思う。
「変わっているって?西之園さんが?」もちろん、変わってはいるが、と渉は心中でひとりごちる。
「ええ。」瑞樹の表情は元に戻っていた。「でも、秘密です。萌絵さんに失礼になりますもの。」それどころか、澄まし顔すら浮かべて少女はドリンクを吸う。
 渉は唇を曲げた。「それはずるいなぁ。頼むから、少しだけ教えてくれない?西之園さん、そういうことには口が滅法堅いから……後で俺が聞いても、絶対に答えてくれないよ。」それこそ萌絵に聞かれたら形相が変わりそうな発言である。「ね、少しだけならいいんじゃない?」大袈裟な身振りで渉は催促した。
「まあ……」瑞樹が我慢できないように笑った。「……うふふ、渉さんはお上手ですね。」本当に楽しそうに、その口許が緩む。瞬間、何かデジャブのような感覚が渉の心を過った。「はい。じゃあ、えっと、うーん、少しだけ……」瑞樹は考えると声をひそめ、心持ち顔を渉に近付けた。
 渉もまた、それに応じる。二人の距離が縮まった。そして、瑞樹が囁くように告げる。小さな唇だった。
「萌絵さん、昔はとてもおしとやかな人だったんです。」視覚からの情報に気を取られていた渉は、聴覚から届いたデータの処理を少しばかり遅延させた。「あっ、ですけれど、今の萌絵さんを私は知りませんから……その、昔は、というのは私の知っている萌絵さん、という意味ですから。」
 渉は目を瞬かせ、そして頷いた。「う、うん、それで……?」
「はい。萌絵さん、その……こういう言い方はなんですけれど、あまり喋らない人だったんです。無口、って言うと悪口みたいですけど……でも、いつも物静かに、お人形さんのようにしていて。可愛らしいお洋服が似合っていて、いつもしとやかで……私、小さい頃からずっと見とれていました。髪も長くて奇麗で……言葉遣いも誰よりも丁寧で、とってもうらやましかった。」瑞樹は吐息のようなそれを漏らすと、思慕の記憶に思いを巡らせるように続けた。「私なんて、言葉も足りなくて、いつも泣いてばかりで。萌絵さんみたいに、おしとやかで愛らしい女の子になれたらって、ずっと思っていたんです。」
 お嬢様の西之園萌絵。人形……そう、西洋人形のような萌絵をイメージしようとして、渉は見事に失敗した。そうするべきデータが……いや、今の萌絵をそう変換するには、あまりにも無理がありすぎたのだ。「本当に?」変換どころか、別のそれを置換することすらできない。そう、根底から何かがおかしい、そんな気がする。「にわかに信じられないけど……」とんでもないことを言っているとは、自覚できなかった。それよりも、目の前の少女の口から出たそれが、渉にとって突拍子もなさすぎたのである。
「はい。」だが、大真面目で瑞樹は言う。「本当です。嘘なんて、つきません。」真面目に……そう、嘘の付き方すら知らないような瑞樹の真摯な表情が、渉の胸中で複雑に展開する。
「でも、その……」そうだ。とはいえ、今の話を素直に信じろ……いや、鵜呑みにしてくれという方が無理である。現在の(とはいえ、渉が知る限りだが)西之園萌絵は、外面も内面も実にボーイッシュ……というか、男性的だ。ドレスはおろか、スカートですら履いている姿は一度たりとも見たことがない。性格も果てしなくポジティブで、少しでも興味を示せばどんな内容や状況だろうと顔を出し(顔を突っ込む、という方が正しいかもしれないが)、即決即断、見切りをつけるのも認容するのも誰にも負けないほど早かった。そして、口を開けば出てくるのは院生顔負けの博学ぶりと、老獪とすら形容されそうな明晰な論述。本気になった彼女の理論武装に対抗できる学生を、渉はN大学の中でも(院生を含めて)ほんの数人しか挙げられなかった。
 その西之園萌絵が、かつては無口で虫も殺さぬ、おしとやかで容姿端麗なお嬢様だったなど……まるで、そう、別の人間の話を聞いているようだ。「驚いたな……」渉にはそれだけしか言う余裕がなかった。まったくもって、驚きである。
「ええ。でも、萌絵さん、私にはこっそり教えてくれたんです。お友達だからって……」
「教えてくれた?何を?」面食らい続けている渉の前で、嬉しそうに瑞樹が頷く。
「萌絵さん……実は、わざとそうしていたんですって。周りの人達から期待されているから、期待通りにしている、それだけだから、って……私にだけ、絶対に秘密だけど、特別にって……教えてくれたんです。」渉は目を丸くした。「あっ、でも私、渉さんに話してしまって……渉さん、どうか他の人には秘密にして下さいね。これ以上の失礼をしたら、私、萌絵さんに申し訳がなくなってしまいます。」
 渉は何度となく頷いた。瑞樹の言葉の意味を、必死に考えながら。「わざと……?期待されているから?」口にしてみても、今一つ理解が及ばない。それほど、渉の中に築かれている西之園萌絵像というものは強固だった。確かにそれは二年足らず……そう、一年と七ヶ月程度のものかもしれない。そういう意味では、目の前の少女は遥かに萌絵と共に過ごした期間は長大だ。そう、いくつからだったろうか……そう、確か……五、六歳?
「私、当時はまだ小さくて、よくわからなかったのですけど……」そこで、瑞樹は少しだけ目線を外した。「……今になってようやく、その意味がわかってきたって……そんな風に、思えるんです。」噛み締めるようにそう言うと、瑞樹は遠くを見るような表情で続けた。「でもやっぱり、萌絵さんは凄いなって。あんなに小さい頃から、それを理解して、実践もして……私は今になって、ようやく気付き始めて……同い年とは思えないですね。萌絵さんは、凄い人です……」そう呟くと、瑞樹は目の前の渉をじっと見つめた。
「あ、ああ……」意外なほど近くにいる彼女に、渉は思わず身を引く。「その、意味がわかったって……どうしてなの?」フォローするように言葉が出た。
「それは……」瑞樹は、少しだけためらいがちに言葉を続けた。「……渉さんが、教えてくれました。」渉はまた、目を丸くする。
「えっ?俺……?」
「はい。渉さんが、私に教えてくれたこと……」頬を白い手で抑えて、瑞樹がはにかむように笑った。渉は訳がわからず、ただ照れる。
「俺、何か言った……っけ?」わからない。明解でない、という方が正しかったろうか。渉はまさに困却していた。
 瑞樹が笑う。「まあ、意地悪なんですね。」さらに、渉の惑いが増す。「わかりました。渉さんがそんな意地悪をするなら、私もこれ以上は教えません。萌絵さんに、叱られてしまいますから。」
「あ、それはずるいよ。」渉が言うと、瑞樹が不思議な色の瞳をきらめかせた。「いいじゃない、西之園さんがいるわけじゃないし、こっそり教えてよ?」日本人離れした美貌、という形容はありふれているが、彼女の瞳の色は特にそうかもしれない。何というか……まるで、そう、外国人のような彩りときらめきを放つそれ。
「駄目です。」渉に見つめられ、瑞樹はおかしそうにうつむき……首を振った。「萌絵さんはいませんけど、でも、お手紙は届いているでしょう?私、これ以上渉さんに秘密を教えてしまったら、萌絵さんにお返事が書けません。」
 渉は再び……そう、これ以上はないほどに目を丸くした。
「手紙……メール?九条院さんにも届いているの?」絶句し、直後渉は、自分自身に呆れていた。「そうか。そうだよ……ね。」当り前じゃないか。あの西之園さんが、俺にメールを出して、彼女……幼馴染みで結婚式の当事者である瑞樹にメールを出さない訳がない。
「ええ。今朝も、お返事を頂いて……嬉しかった。私、手紙を書くのは大好きなんです。」今日はまだ萌絵からのメールを確認していないことに渉は気付く。昨日は届いたはずのメールがどうしてかと思い、すぐにその理由に思い至った。
 それも当り前だ。俺は、昨夜から部屋に……自分の船室に戻っていないじゃないか。「俺、今朝はまだメールを見てないよ。きっと……そうだね。こんな豪華な船旅をしてる俺達を、うらやましがっているんじゃないかな?」まさに適当なことを言いながら、渉はやはり一度は部屋に戻っておくべきだったと後悔した。
 そうだ。デビィ婦人に誘われるまま、部屋に戻る必要もないと思って勢いプールに繰り出したのだ。どうせ元から身一つであり、ゲストカードさえあればいい、と。
 今は、そう思った理由もわかる。確かに明朗極まるデビィ婦人に圧倒されていたあの場の雰囲気もあったが……俺は、あえて戻らなかったのだ。そうだ、部屋に戻りたくないという俺の意識が、それを無視させたのだろう。
 そう、俺は部屋に戻りたくなかった。どうしてかわからないが、自分の船室、あのロイヤルスイートに戻るのが嫌だったのだ。
 どうしてかわからない?ふっと、渉は心中で笑った。
 本当に、わからないのか?
 その笑いは、嘲るような響きを秘めて渉の中を駆け抜けた。自嘲と言うには、あまりにも鋭すぎる指摘。それは渉の心身を苛み……スイミングキャップに覆われた頭を……後頭部をうずかせるように収束していった。 
「萌絵さんがいらっしゃらなくて、本当に残念でしたけれど……」瑞樹が、ドリンクをほんの少しだけ飲んでから渉に言った。「……でも、萌絵さんはとても素敵なプレゼントを下さいました。」そこまで言って、頬を染める瑞樹。渉も思わず赤くなる。
「あ、ええっと……」子供か俺は、と渉は呆れる。だが、体は意志と無関係に動いた。「そ、そうだ。そろそろ行こうか?いつまでも水着でいると、風邪を引いちゃうかもしれないし。」
「えぇ……はい。」瑞樹はほんの少しだけ残念そうにすると、頷いて席を立った。俺は、こんな炎天下の如き気候で何を言っているのかと渉は自分を非難する。「あの、渉さん。先に行っていて下さい。私、着替えてから……その。」頬を赤らめて、瑞樹が見上げてくる。「よろしかったら、あと少しだけ……おつきあいしてくれますか?渉さんが、時間があるならで構わないのですけど……」
「え?」渉は一瞬、返答に窮した。だが、即座に判断する。「ああ。勿論。構わないよ。俺は。どうせ暇だし。」言葉を区切って答えると、デビィ婦人を思い出す。そう、にぎわうプールサイドに渉と瑞樹を残して、したりという様相でいなくなってしまった婦人。あれはやはり、そういう心遣いだったのだろうか。それはともかく、もしかすれば渉の傷の看病で眠っていないかもしれない婦人が、今は自室でゆっくりと休んでいることを渉は願った。
 そうだ、俺は何を考えている。「オッケー。むしろ大歓迎、かな。俺も、この船を色々見て回りたかったんだ。昨日一昨日は、そんな暇がなかったから。」どうしてなかったのか、それは考えない。
「うふふ……はい。とても嬉しいです。」心底から嬉しそうに瑞樹がほほえみ、そして、そんな自分の言動に照れたように先へと歩く。「あっ、私が払います。とても楽しかったから……」プールを見下ろすカフェのレジで、瑞樹が渉に告げる。プールに入る時に受け取った、細いチェーンのついたカードケースを取り出していた渉は笑った。
「いいよ。俺に任せて。」瑞樹を制してそう言いながら、渉はこのカードの真の持ち主……そう、彼の旅費を領収するであろう存在を思った。「男の役目だよ。九条院さんとプールに来られただけで、最高級のディナーより価値がある。」どうも、言い回しが下賎な気がする。もっといい言い回しはないのか。
「わかりました。ありがとうございます、渉さん。」渉は頷いた。店員がお辞儀をする前で、レジのセンサにカードをかざして……涼しげなメロディが響いた。
 二人はカフェを出た。階段を降り、相変わらず人でにぎわうプールサイドを出て、更衣室に別れる。渉は再びゲストカードを使って個別に仕切られたそこへ入り、水着を着替えた。結局、ろくに水には入れなかったなと思い、頭に触れる。水泳用の帽子……そう、これが包帯と傷を隠してくれたのだ。大きめのそれを取り、そして、ふと思う。このままでは、瑞樹が気付いてしまうだろう。無用な心配をかけないように、どうすればいいだろうか。
 しばらく考え、そして渉は決意した。小さな金具を取り、包帯に手をかける。大丈夫のはずだ……と、ゆっくりとそれを外していき、ガーゼを取り去る。傷口に触れて、確かめた。
 よし、大丈夫だ。血は(当り前かもしれないが)止まっているし、傷口もかなり乾いている。髪の毛をなでつけ、備え付けられた鏡で渉は頭部を確認した。これなら、よほど近くで観察しないかぎりわからないだろう。
 十分ほど後、渉は着替えを終えて外に出た。さすがに瑞樹はまだ来ておらず、渉はしばらくプール入り口のプロムナードで暇を潰した。
「お待たせしました。」結局、瑞樹と再会したのはそれからさらに二十分は後だった。流石に女性は、と渉はわずかに苦笑したが、目の前に現れた瑞樹の格好を見てたちまちそんな陳腐な思いを払拭した。
 目の覚めるような……そう、水着と同じく声を失うような、紺と紫のドレス。大胆に……とまでは行かないが、それでも彼女の白い両肩が露出している。裾は広がっておらず、オフ・ショルダーの上半身と対称的に、ストレートに足首まで続いていた。「……渉さん?」
「あ、いや……」渉はまじまじと視線を送っていた自分を恥じた。「ごめん。」瑞樹は何のことかわからないように首を傾げた。
「すみません。こんなに待たせてしまって……退屈だったのではありませんか?」表情を変え、心配そうに瑞樹が聞いた。渉は慌てて首を振る。
「そんなことないさ。俺も、少し前に出て来たばかりだしね。」下手な嘘だった。「それに、このプロムナードは面白いよ。お店が色々あってさ……アクセサリーとかも売ってる。」
「うふふ、そうですね。何か、萌絵さんに似合うものはあるかしら?」瑞樹が笑った。「実は私、約束したんです。萌絵さんに、素敵なおみやげを用意するって。渉さん、よかったら選ぶのを手伝ってくれませんか?」
「ああ、いいよ。」これが動機かなと、渉は今更のように瑞樹の発言を思い返す。「でも、急ぐ必要はないんじゃないかな。まだたっぷり時間はあるし……」ふっと、何かが心を過る。だが渉は、それに注意を払わずに瑞樹に向き直った。しばらく前から考えていたことを、伝えるために。「今はさ、それより別に、一つ……俺が誘っていいかな?」
「えっ……」少し驚いた顔で瑞樹がこちらを向く。渉は咳払いをした。「何でしょうか……?」
「その、ね。今はいい時間だし。俺と、昼食はどうかな?」たったこれだけのことを言うだけで、渉はかなりの神経を酷使する必要があった。「たくさん泳いだし、お腹が減ったでしょ?」当然の如く、その労力に見合う効果があるかどうかは別問題である。
 一瞬、瑞樹が黙った。まさにほんの一瞬だったが、渉にとってはそれだけで数種類の不安を生み出す要因となる。
 そして、瑞樹が頷いた。「はい……!」頬が、嬉しそうに染まっていく。
「よし、決まりだね。」胸を撫で下ろしながら、渉は今更のように自分の稚拙さに呆れた。「じゃ、どこにしようか?」自分達に与えられたグリルを考えて、それを即時却下する。確かにあそこは最高級かもしれないが、この状況……そう、まさに今の俺達には論外だ。「九条院さん。何か、食べたいもののリクエストはある?」
「あ……いえ。渉さんに、お任せします。」照れたように瑞樹が答える。
「オッケー。じゃ、そうだね……」渉は辺りを見回した。考える必要もないほどあっけなくそれが見つかる。「あれで調べてみよう。きっと、お勧めの店とかがあると思うからさ。」備え付けられたネットワーク端末。しかも、この大プールに続くプロムナードに設置されたそれは、かなり大きなものだった。家族連れでも見られるような、大画面を持つそれ。
 瑞樹と共にその大型端末の前に来ると、渉はカード……主に防水目的であろうケースはプールの受け付けで返していた……をそれに当てた。勝手知ったの如くに端末が作動し、そして渉はカテゴリーを選択しようとして……端末の隅で小さな赤いサインが明滅していることに気付いた。

> New mail has arrived.(3)

 なるほど。渉は横の瑞樹を見る。彼女は気付いていないようだ。どのみち、今はメールを見ている時ではないだろう。なまじその一つが、間違いなく西之園萌絵からのものであるとなれば尚更である。残り二通は誰からだろうと思ったが、そこでふと、昨夜出会ったおしゃべりな女医を思い出した。そう、悴山といっただろうか。彼女が、俺にメールを出すと言っていた覚えがある。残りは……
 渉はそこで首を振った。そう、どのみち急ぐことじゃない。メールのことは放置し、とりあえずレストランのリストを出力させる。大小合わせて十五ものそれが映し出された。店舗の規模も、扱う料理の種類も様々だった。総合的なそれから始まり、和食、洋食……スペイン、中華、イタリア、トルコ、フランス、インド……まさに世界を旅する豪華客船にふさわしいと渉は納得する。
「九条院さん、どれにしようか?」渉は瑞樹に尋ねた。「混んでる店もあるみたいだね。」リアルタイムに更新されているのだろう、画面にはそれぞれの店の混雑状況が表示されている。どうやって測定しているのだろうと渉は思い、そうか、ゲストカードがある以上楽なものだ、と納得した。そう、前提……いや、必然としてすべての船客がこのカードを使う以上、そういったデータの集計は容易だろう。
「えっと……どうしようかな……」瑞樹の目は困ったように大画面を右往左往した。「迷ってしまいますね。どれも、素敵なお店ばかりで……」
「そうだね。一週間じゃとても回りきれないな、これじゃ。」渉は茶化すように笑いかける。瑞樹も微笑して応じてくれた。「じゃ、とりあえず近いのは……このイタリアンかな?同じデッキにあるし……そこの通路の、ちょっと先みたいだね。どう、九条院さんはパスタとか好き?」
「ええ、構いません。」つつましやかに同意した直後、瑞樹はほんの少し頬を赤らめて笑った。「私、パスタは大好きです……ペペロンチーノが、特に。」
「そうなんだ。じゃ、行ってみよう。」瑞樹が頷き、二人は歩き出した。渉の予想通り……というか、まさに船内見取り図のままなのだが、プールから一つ角を曲がったところにその店はあった。イタリア料理の看板と、通路からガラス越しに厨房の中が見える。そこで、外国人であろう太ったシェフがピザの生地を回していた。
 
 


[348]長編連載『M:西海航路 第二十三章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時08分 Mail

 
 
 二人は店内に入る。これも予想(というか情報)通りなのだが、比較的空いていた。もっとも、誰もいないわけではない。丁度お昼時なこともあって、テーブル席の半分は客で埋まっていた。家族連れも多く、子供が泣いたりはしゃいだりして、親がそれをなだめている。勿論、日本人だけではない(比較的にそれと思われる客層は多かったが)。先のプールと同じく、渉はそんな他国籍の雑踏とでも評すべき眼前の光景に、少なからずの感銘を抱いた。
 だがふと気付けば、傍らのロングドレスの少女……瑞樹もまた、渉と同じく黙してそれらの光景を見つめていた。物珍しいように……そう、まるで初めて目にするかのように、一つ一つのテーブルとそこにいる親子、老夫婦、あるいは恋人達を熟視している。そして、その人々の挙動一つ一つに瑞樹は反応していた。子供がスプーンを落として親に諌められれば可哀想な顔をし、老夫婦が幸せそうに語り合う光景にほほえみ、恋人たちがピザの切り分けを巡ってふざけあえば、どこかはにかむように瞳を潤ませる。渉はそんな瑞樹の姿を見つめて……そして、今更のように納得した。
 そうだ。やはり、彼女は何も知らないのだろう。そう、彼女も、また。
 そう、俺と同じだ。俺もまた、何も知らなかった。この船に乗ってこの方、幾多の失敗を重ね、その度に思い知った。自分は、何も知らないと。
 だから、知ろうと思った。知りたいと願った。
 何もかも知らないことばかりだから、それを知りたいと思う。
 今、彼女……瑞樹もきっと、俺と同じように思っているのだろう。知らない世界……目の前の未知を、既知のそれとしたいと。
 奥のテーブルに案内され、腰掛けた後も、渉は少しの間瑞樹のそうした様子を眺めていた。だが、自分達に向けられるウェイターの視線に気付き、愛想笑いをして向き直る。
「あの、九条院さん……?」ためらいがちに声をかけると、瑞樹が驚いたように渉を見た。「ごめんね。注文したいんだけど……何か、リクエストはある?」どうしてか、小声になりながら、メニュー……運ばれて来た日本語によるそれを見せる。
「うふふ。よろしければ、お任せします。」瑞樹はつつましくほほえんだ。「桐生さんが好きなものなら、何でも構いません。」言って、頬が染まる。
「そう。わかった、任されるよ。」渉は軽く手を上げてウェイターを呼んだ。都合のいいことに(いや、意識してそうしているのだろうが)日本人のウェイターで、渉はいくつかのメニューについて尋ねながら、数種類のパスタと肉、魚料理などを注文する。前菜も飲み物もまとめて頼んだ。費用はともかく、食べきれるのかと思ったが、構わずすべて注文する。当然、ペペロンチーノのパスタも忘れなかった。
「でも、デビィさんには驚いたね。俺達を置いて行っちゃうしさ……」料理を待つ間、渉は何の気なしにそんな話を振った。
「えっ……あ、はい。」瑞樹はまだ興味深そうに店内を見回していた。ある意味ではマナー違反であり、ようやく自分でもそれに気付いたのか、瑞樹が恥じらうように目線を下げる。「そ、そうですね。とても素敵な方でした。」笑顔で頷き、瑞樹は氷の浮かぶ水を含んだ。
「あの時、どんな話をしたの?」渉は聞く。「ドイツ語で……俺のこと見てさ、二人で色々と話してなかった?」
 瑞樹が途端に赤くなった。「えっ、あの……その、あれは……」しどろもどろになり、そして視線をそらす。「やっぱり、駄目です。私……」
「ふぅん。やっぱり、俺に言えないような話なんだ。」渉はわざと憮然とした顔を作った。「まあ、二人で俺をからかっていたことぐらいはわかるよ。何しろ俺は、ドイツ語も全然できないしさ。ダンケシェン、しか言えないしね。」
「か、からかってなんていません。」瑞樹が慌てたように言う。語尾の跳ね上がり方が、少女の著しい動揺を示していた。渉は心中で失笑する。「その、あの時は……そうです、私が……私が、からかわれたんです。私の方が。渉さんじゃありません。わ、私です……」繰り返し、信じて欲しいように瑞樹は訴えた。「私、デビィさんに……その、渉さんに……あ……」言葉が濁る。瑞樹の頬が、さらに朱に染まった。
「俺に、何?」渉は大真面目に尋ねる。心中の興味は別の意味で高まった。「ああ、わかった。デビィさんのことだからね……きっと、俺に口説かれないようにって、注意をしていったんだろ?」適当なことを口にして、わざとらしく肩をすくめる。「あーあ、信用ないな。まぁでも、無理はないかもしれないね。俺だって九条院さんの水着姿、見違えちゃったし。」
「わ、渉さん……!」瑞樹の紅潮した顔からは今にも湯気が出そうだった。そしてそれが、渉の心を……いや、渉自身を、声を放って笑わせた。「も、もう……!」瑞樹が、真っ赤な顔のまま非難を込めた目差しを送る。
「はは、ごめんごめん。」そこで、ふっと思い出した。そう、今も鮮やかに残る……瑞樹の感触。「少しだけ、借りを返せたかな?」
「借り?」瑞樹が首を傾げ、渉はしたり顔で頷いた。
「ああ。九条院さんにはさ、素敵すぎるプレゼントを貰ったからね。」指を一本立てて、自分の口に触れるギリギリで振る。何という仕草だと自分でも思ったが、それでも渉はそうしていた。衝動的行為、という単語が頭を過る。
 効果はてきめんだった。瑞樹の頬が、これ以上はない程まで一気に染まり……「お客様。」そこへ、前菜が運ばれて来た。
 二人は瞬時に平静を……いや、テーブルを少しばかり揺らす程度の仕草でかしこまった。「よろしいでしょうか、お客様?」渉はキツツキのように幾度も頷く。
 まったく。渉は自戒した。桐生渉、まったくもって、お前は……
 未だ火照ったような熱が残る中で、渉は顔を上げて再び瑞樹を見た。頬を染め、うつむくように身を強ばらせている少女。その肩口からの白く細い線が、瑞樹の小ささ、幼さを察しさせる。だがそれは同時に、今ここにいる自分……渉自身のそれを自覚させることと同義だった。
 だが、それが。渉はそこで、あえて思う。非難する心に対して、反発するように。
 そうだ、それがどうした。その通り、俺も彼女も、まだ子供だ。勿論、年齢的には二人共成人のそれかもしれない。だが……そうだ。俺も彼女も、いつも大人でいなきゃならない理由はない。そう、大人の……大人のふりをし続ける必要はないのだ。
 大人のふり、か。渉はその子供のような言い分に苦笑し、そして首を振った。
 そう、俺自身がそれを本気で信じているのか、それはわからない。だが、何かの真似をする……ふりをする、それは、そのこと自体は、何も大人と子供、それのみに限らないはずだ。そうだ。すべての身分、立場がそれに該当する。
 渉は、ふっと記憶を手繰った。いつだったか、午後の光の差し込む講堂で聞いた話。個人の役割……発端は確か、それについてだったろうか。それから、話が変わっていって……
 ……考えるまでもなく、生徒と教師という立場がそうじゃないか。我々は一様に、それらのふりをしているだけだ。実際にそれが効果を発揮するのは、この狭い大学の敷地内だけにすぎない。大学生という立場も、助教授という立場も、絶対的な地位じゃない。そんなものは、元からないんだ。例え自分の周囲には通用しても、少し足を伸ばせば通用しない。日本の一大学の生徒だなんて肩書きは、ほんの少し場所や時間を変えるだけで意味などなくなる。助教授、という立場はそれよりほんの少しだけ広いかもしれないが、それもさらに違った場所から見れば微々たる……いや、むしろ生徒より程度の低い地位だろう。決して自慢できるものじゃない。
 そもそも、我々は『人類』という定義で自分たちをくくっている。さらには、不可解極まる『生命』という定義もある。そういった一つ一つの定義に自分が該当すると思い込み、一生懸命にその枠に収まる『ふり』をしているのさ、我々は。僕にはよくわからないが、そうしていないときっと、安心できないんだろうね……
 確かに、その通りだと渉は思った。学生と教師、助手と助教授、学生と院生……所属する研究室やクラブもそうだ。俺がいるN大学の中でも数多くのそれがある。さらに外を見れば、何もかも……そう、ありとあらゆる職種、立場がすべてそうだ。政治家、社員、店員……いや、そもそもは年寄りや若者、男や女という身体特徴的なものまで、すべての表現がそうじゃないか?そのほとんどが自分では決められないように思えて、その実は……そうだ、決してそうじゃない。何もかも決まっていると思っているだけで、何も決まっていない……そう思える。
 そうだ。若い、という形容。大人、という形容。子供、親……それらはすべて、『かつて』誰かが定義したものだ。決して、世界の始めからそうだった訳じゃない。そう、それは大学や……そうだ、この船という一つの環境を見ても同じだ。
 例えば、俺と九条院さんは特等の船客だ。だから、俺達は一等やその下の船客の人達では受けられないサービスを受けられ、部屋も当然のように上等だ。だが、それはどうしてか?誰が、それを決めたのか?
 そうだ。結局、それは自分が決めたことだ。他人の決めた範疇に収まる……それを許容するという認識は、他の誰でもない、自己の認可……つまりは自分のせいだろう。そして、進んでそれを求めるのも、立場を得る代価として、相応の待遇や報酬を得られるからだ。何も、自分がその立場にふさわしいからじゃない。自分が、そう呼ばれる資格があるからじゃない。いや、例えそれを認められたとしても、それは結局、同じようにそのふりをしていた他人が決めたことだ。絶対的なものじゃない。絶対的に評価を下すことのできる存在など、どこにもいない。そんな、神の如き存在はいないのだ。
 だから、不安を抱く。そうであるから、根源的に確立していないから、不安になる。
 だからこそ、人は何かの、誰かのふりをしたがるのだろうか。名前、肩書き、資格……何でもいい。とにかく自分を括ってくれる、確立させてくれるものを求め、それをひたすらに欲して、人は行動するのではないか。金銭、地位、名誉……すべてが人とその社会が作り出したものだ。この世の始まりから存在したものじゃない。経済に支えられた個人の富。国家や企業に支えられた個人の立場。道徳や倫理感、マスコミにすら支えられている個人の名誉……それらの考え方を当り前として受け入れて、一つでも多くのそれを求めて、ひたすらに生き続ける。
 そうだ。それが、それこそが矛盾している。
 今の俺達がそうだ。俺も九条院さんも、今は自分達の立場そのものが辛い。本来求めた……いや、拒否できるはずのそれを自ら受け入れながら、それを捨てることもできずに、だからこそこうしている。それは、今の俺達は、視点を変えれば実に滑稽に見えるだろう。そして、何と打算的なのだろうと思うかもしれない。
 そう、脱ぐことはできる。捨てることはできる。それが容易かそうでないかは関係ない。ただ、可能なのだ。決して不可能ではない。だから、それをしないのは俺や彼女、自分達の責任だ。そうだ、自分が脱ぎたくない、捨てたくないからこそ、脱ぐこともせず、ただそれを許容しているのだ。わずかな時間、ほんの一瞬、それを忘れて、脱いだ気になって、こうしている。
 渉は深く息を吸った。自分が今いる場所、それを思い出す。目の前にあるはずの現実、そこにいる人々……それを、思い出すために。
 そう、事実を振り返るように。
 ……だからね、苦しくなるのは当り前だ。晴れてぽかぽかと暖かいのに、厚着のままでいたら疲れるだろう?だったら、それを脱げばいい。誰も強制なんてしていない。そりゃ、脱ぎ続けていたら寒くなって風邪を引くかもしれないけど、厚着をし過ぎて疲れ果て、過労死するよりよっぽどましだ。脱ぎ捨てたら大変だって?また着ればいいじゃないか。
 犀川創平助教授のそんな言葉が、渉を微笑させた。
 そうだ。だからこそ、俺達は今こうしている。俺も彼女も、互いの立場と状況を忘れている。
 俺は一介の大学生で、彼女は日本有数の大財閥……その当主である老人の孫娘だ。そして、この船は彼女の結婚式のためにレンタルされた豪華客船。無論この船のすべてがそのためにある訳ではないだろうが、少なくとも最も大事な部分は彼女と……そう、もう一人の男との挙式のために動いている。スケジュールはきっと分刻みであろうし、招待された関係者のすべてが、それを祝うためにこの船に乗り込んだのだ。
 そして、俺もその一人だ。自分でどう思っており、経緯はどうであれ、俺は彼女の結婚式を祝うために乗り込んだまぎれもない招待客だ。その俺が今、当事者の一人である彼女と、誰にも知られることなくここで過ごしている。そして彼女もまた、俺にそれを望んだ。互いの立場を、そのふりをするのを、止めて。
 それは正しいことか?間違っているのか?いや、他人がどう思うかなど関係ない。俺と彼女……いや、俺自身の心はどうなんだ?俺は、彼女を……
 
 


[349]長編連載『M:西海航路 第二十三章(3)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時09分 Mail

 
 
「桐生さん……?」渉は目を開いた。周囲のざわめきに、自分を取り戻す。とっさに辺りを見回した。
 安堵か、消沈か。辺りは何もかもそのままだった。何もなくなってはいない。すべてはそこにあった。
「渉さん……どうかしたのですか?」心配そうな瑞樹の顔。視線を下ろせば、目の前には前菜の皿が並び、ワイングラスが添えられている。
「あ、ご、ごめん……今、俺、ぼうっとしていた?」瑞樹が微笑し、小さく首を振る。「そ、そう?ごめんね。プールに入って、のぼせたかな?」訳のわからないジョークだった。それを聞いた瑞樹が、クスッと笑って口許を押さえる。
 渉はようやく、緊張を解いた。しかし、どれだけ惚けていたのだろう。「そ、それじゃ、いただこうか?」少しどもりながら、瑞樹を見る。瑞樹はつとめて物静かにグラスを手にした。渉もそうして、そして、自然と二人の視線が合致する。
 渉の中で、再び熱が発せられた。「そ、それじゃ……昼間だけど、乾杯しようか?」気の利いた台詞一つ思い付けない自分を嘆きつつ、渉は赤いワインの注がれたグラスを瑞樹の方に向けた。
「はい。」流石というか、瑞樹は手慣れたようにそのグラスを掲げる。「それでは、素敵な航海に……」色々な感情を含めたような微笑が、渉の目を引き付けた。
「あぁ、そうだね。素敵な航海に……」渉は馬鹿のように反復する自分に呆れ、それでも、瑞樹のグラスにそれを近付け……
 レストランの中に広がったざわめきが、二人の動きを止めた。 
 騒然……いや、歓声、といえばいいだろうか。とにかく、店の客がそろってざわめく。渉は……そして瑞樹もだが、何事かとそちらを見た。
 何の騒ぎだろう。とりあえずまずい……いや、自分達に関係のあるそれではなさそうだ。どちらかといえば嬉しそうな……そう、店内の客が、口々に何かを囁きあっている。数種の言語がまざっているが、日本語のそれが当然ながら一番拾いやすい。あれが、とか……あの人、とか……船長……船長?
「船長!?」渉は思わず声をあげていた。そう、レストランにいる他の客と同じように。
 そう、そこに彼はいた。渉の印象いわくの『壮健なる海の男』、村上瑛五郎である。
 見慣れた制服に制帽をかぶった村上船長が、イタリアン・レストランの入り口に立っていた。そこでウェイターと何事か話している。そんな村上船長を、客が物珍しそうに……いや、それよりは確固とした敬意、だろうか。まるで都会でタレントを目にしたような様相で、口々に噂している。
「村上さんだよ、九条院さん。」言われなくても間違いなく気付いていたであろうが、瑞樹も渉の言葉に、驚いたように……いや、嬉しそうな顔で頷き返した。その気持ちは渉にもよくわかったので、渉の気分もさらによくなる。
 その、まさに衆目を一心に浴びる船長はウェイターとにこやかに話していたが、やがてかすかに顔をしかめる……いや、眉をひそめると、嘆くように首を振った。そして、店内をいちべつして……そこで、その視線が一つのテーブルの客と合致する。
 桐生渉と、九条院瑞樹。
 ニヤリと、まさに不敵な笑みを浮かべた船長には、その視線を受けるこちらが怯んでしまう程の迫力があった。渉は思わず目をそらしかけ……別段、俺は何も悪いことはしていないと彼に向き直る。と、そこで目の前の瑞樹に気付いた。そう、そうだ。俺達は今……
 いや。渉は心中で首を振る。何を考えている。違う……そうだ、俺は、俺達は、何も悪いことはしていない。俺は、そうは思わない……
「これはこれは。」足音が近付き、顔を上げるとそこには彼がいた。「お嬢さんと桐生さん。お若い二人につきましては、本日の御機嫌はいかがでしょうかな?」村上瑛五郎はいつも通りの口ぶりでテーブルの二人に相対した。たっぷりと芝居がかった仕草で、それが逆に渉の緊張をほぐしてくれる。「地獄に仏、とは不適切な表現かもしれませんが、これはまったく奇縁という他はありませんな。昼食を求めて飛び込んだ大の気に入りの店で、偶然にもお二人に出会うとは。この店にはよく?」
「あ、いえ。今日が初めてです。ね?」同意を求められて、瑞樹は目を瞬かせた。
「は、はい。私も、渉さんに紹介されて……」それは違う、と渉はとっさに思う。だが、間違っているかまでは思索できなかった。
「ふむ、そうですか。それは実にお目が高い。この店のパスタソースは格別ですぞ。ふむ、まだアンティパスタまでですな。どうです?よろしければ……」
「ど、どうぞ。船長ならいつでも大歓迎しますよ。」渉は先手を打った。この人に対してそれができることは滅多にない、と自分でも思う。それが果たして、自分の意志で取れたことかははなはだ怪しいが。「この店、俺達が来た時はすいていたんですけどね。」確かに、いつのまにか席はすべて埋まっていた。厨房に面し、その様子が直接見えるカウンター席もしかりである。そんなに時間がたったのかと渉は思った。だとすれば、俺達は……いや、俺は今まで何をしていたのだろう。
「光栄ですな。ですが、私も年波相応の立場をわきまえているつもりでしてな。野暮なことはしたくないのですが……お嬢さんはお気に召しますかな?」村上船長は謙遜するような仕草で瑞樹に対する。芝居がかっているそれは、おそらくは笑いを取るためなのだろうと渉は察した。
「まあ……うふふ。」はたして、それは的中した。「ええ、はい。私も、渉さんと同じです。船長さんでしたら、いつでも歓迎しますわ。」
「ふむ、それは感激ですな。それでは一つ、御相伴に預かりますかな。」制帽を脱いで仰々しく頭を下げると、開いている椅子を引き、村上船長はどっしりと腰掛けた。途端に、ニヤリとその口許が緩む。「船旅の楽しさは、めぐりあいの楽しさですからな。先日までは見知らぬ間柄だった方々とこうして席を並べ、日常のしがらみを忘却して思いのたけを自由闊達に語らう。それこそが、船の旅の最大の楽しみというものです。」すっかり普段の調子を取り戻した船長が、よく通る太い声で笑った。
 渉は頷く。「本当ですね。俺も、お二人と出会えて本当によかった。それだけで、この船に乗った甲斐がありましたよ。」甲斐、かと渉は自分を笑う。
「甲斐、ですか?」即座に船長に突っ込まれて、渉は息を詰めた。「ふむ、すると桐生さんは自ら好まれてこの船に乗られたのではないと?それはゆゆしい発言ですな。」呼吸の次に、目が白黒する。
「え、いや、それは……」ウェイターが船長のための前菜を運んでくる。注文をしていないのに、と渉は思い、彼はこの店の常連で、しかも船長だぞ、と首を振る。そうだ、今重要なのはそんなことじゃなく……「ち、違いますよ。俺は、その……」
「本当なのですか、渉さん?」予期しない方角からの追撃……瑞樹の声に、渉はさらに色を失う。見れば、彼女はつつましやかに前菜に手をつけながら、悪戯っぽい瞳でこちらを見ている。「そういえば、渉さん。確か、この船に、乗せられてしまったようなもの……と、おっしゃったことが……」
 これは罠だ。渉は瞬時に思った。二人はきっと共謀して……「そ、そんなこと言ったっけ?」いや、そんなことがあってたまるか。いや、違う。とにかくまずい。赤信号だと渉は危惧する。そう、これは最高機密であり、そしてなお、それが最もばれてはならない相手……そう、九条院瑞樹その人が目の前にいるではないか。
「ふむ、これは大変複雑な事情がありそうですな。」フォークとナイフを手にした船長が笑った。「是非にとまでは言いませんが、どうですかな?こうして二度目の食卓を囲んだ仲です。私とお嬢さんだけには、ことの真相を話してくれませんかな?」余裕とユーモアにあふれた視線。渉は困惑した。
「し、しかし……」しかし、という言葉を使った自分は、既に隠さねばならない事情があることを告白しているのも同じだ、と渉はさらに怯む。「……い、いや、そんな、俺はただ……」だが、言葉は見つからない。それどころか、何一つ対応策は浮かばなかった。
「ふむ、これは少し調子に乗り過ぎましたか。いや、失礼。」ひたすら困惑に窮する渉に、船長は瞬時に態度を変えた。渉にとってはまさに救われた瞬間、である。「ですが桐生さん、嵐の後に凪ぎ、雨の後に天気、と言います。今ある苦難も、越えた先には楽があるものです。どうかこの船に乗ったいきさつを顧み続けることなく、今より先の航海を楽しんでいたたきたいですな。」船長は口許の髭を軽く撫で付けた。「……と、これはまた年寄りが余計なことを申しましたか。気を悪くされぬように願いますぞ。」
 渉は首を振った。そう、雨の後に天気……まさにその通りだ。西之園さんによって引き起こされた災厄が、俺をこの船に導いた。あれはまさに災難だった。俺は嘆き、怒り、激憤したものだ。だが、そこで俺はこの人達と出会った。船長……そして、彼女と。
 瑞樹もまた、村上船長と共に言い過ぎた自分を恥じているようだった。そんな彼女に、渉は微笑して大丈夫だと首を振る。はにかむように頷き返す瑞樹、そしてそんな二人をほほえましく見守る村上船長。
 パスタとピザが運ばれてくる。そして、その先のメインの肉と魚料理。村上船長が芝居じみた仕草で己の空腹を訴え、瑞樹がくすくすと笑う。すっかり今までの話を忘れたようで、渉はほっとしながら……だがそれでなお、一抹の不安……いや、自分が両者に隠しごとをしているという事実に胸を痛めた。
 そうだ、俺は決して正直じゃない。自分がここにいる理由、行きついた理由、それを明かすことなく、彼彼女等と相対している。それに比べて、この二人はどうだ。船長として比類なき風格を持つ村上瑛五郎と、深窓の令嬢として眼前の未知を懸命に学ぼうとする九条院瑞樹。それに比べて、一介の大学生……いや、自分が乗船する経緯すら語れぬこの俺は、どれだけ卑屈な存在かと、渉は嘆いた。
 そうだ。西之園萌絵に謀られたことを伝えられないだけじゃない。本当は、そんなことじゃない。違うのだ。そんなことは、告白してしまってもいい。些末なことだ。ただ、親友である九条院さんがその事実を知ったら、西之園さんとの交友関係に問題を生じるかもしれないというだけだ。それすらも、俺が適当に改変してしまえばいい。俺は西之園さんに騙されて、二人きりと聞いて船に乗ったら、彼女はドタキャンされて……そう、これでいい。別に嘘はついていない。俺の側からは、何も。
 そう、今、渉の胸を黒くしていくのはそんな感情ではなかった。もっと差し迫った……いや、それすらわからぬ、だが確実に存在している、ある出来事がそれを為していたのだ。
 そうだ、目の前の現実ではない。それは真実か、あるいは事実か。いや、どちらでもないのかもしれない。それは存在し、だがしかし、存在してはいない。
 それを、俺だけが知っている。
 誰も、それを知らない。
 なのに、俺は……
 目の前の二人。テーブルと、さらに先にいる人々。談笑し、イタリアンに舌づつみをうち、そしてさらに窓の外の回廊には船客とスチュワードが流れていく。彼らはこの豪華客船の船旅を心底から楽しそうに……いや、楽しんでいる。
 そうだ。
 ここに、彼女がいることも知らず。
 すべての人々が、生きている。
 無知。
 無知なのだ。
 誰も、知らない。
 まだ、知らない。
 なら、それは……その時は、いつか。
 喉を通りかけた肉片を戻しそうになって、渉は唇を噛んでそれを呑み込んだ。
 嵐の後に凪ぎ。雨の後に天気。そう、船長は言った。
 確かにそうかもしれない。どしゃぶりの雨もいつか上がる。曇り空もいつか晴れて、雲間から陽光が注ぐだろう。その後にまた雨が来て、雲が出るかもしれない。それは繰り返されることで、だがしかし、永遠に一方であるということはない。決して。
 そんなことはありえない。
 そんなことは、絶対に。
 絶対に、ないのだ。
 渉はその言葉を呑み込むように堅く目を閉じた。虚しい響きが、喉を通してもまったく満たされない腹に……胸に、響く。それはまるで、乾ききった植木にかすかな小雨が落ち、何の意味もなく弾かれ消えるような、空虚なそれに満ちていた。
 そうだ。俺は間違っている。すべてが間違いだ。
 正しいことなどどこにもない。完璧など、100%などどこにもない。絶対は、ない。   
 それを否定することを、たった一人だけ許された存在。
 絶対を為し得る、ただ一人の存在。
 真賀田四季。
 彼女という存在が、ここにいる。
『渉はこれから、どうするの?』
 誰かが言った。
 誰かが問いかける、声。
 目を開き、そして、渉は少女に笑った。
 これから考えるって、そう言っただろ?
 だから、考えてる。今も、まだ考えてるよ。
 考えても考えても、見つからないけど。
『じゃあ、今度は、そっちが決める番だね』
 ああ、そうだ。
 決めなきゃならない。
 俺は、決めなくちゃならない。
 考えるのは、決めるため。
 決めるために、考えている。
 だから、決断を下さなきゃならない。
 いつか、必ずそうしなきゃならない。
 結果がなくては、過程と呼ばない。
 答えがなければ、問題にはならない。
 そうだろう?
 わかっているさ、そんなこと。
 笑う少女。その表情に、仕草に、すべてがあった。言葉がなくても、何が言いたいか、どう思っているかがわかる。
 そうだ。その通りだ。
 俺は、矛盾している。
「渉さん……大丈夫ですか?」渉は目を覚ます。いや、覚めていたのだ。そして目の前には、幻影の少女がいた。
 いや、違う。
「ふむ、どうしましたかな。船酔いではないといいのですが……プールで水でも飲まれましたかな?」船長も心配そうに彼を見ている。渉は首を振った。つとめて笑おうとして、本当に気分が悪くなっていることに気付く。何かが痛い。何だろうか、このうずくような頭痛は。
「大丈夫です……すみません。ちょっと、寝ぼけていたんでしょうか……」無理矢理に笑みを浮かべる渉に、二人がそれぞれに彼をいたわった。そんな仕草に渉はさらに申し訳なく……いや、自分自身の不実とも言うべき現実……いや、事実を噛み締めていた。
 そうだ。いっそのこと、ここで……
 その時。
 村上船長を呼び出す、エマージェンシーのベルが鳴った。
 
 


[350]長編連載『M:西海航路 第二十四章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時10分 Mail

 
 
   第二十四章 Moribund

   「お母さんは、私に言ったの」

 
 小さな電子音。
 グランド・デッキと呼ばれる甲板フロアにあるイタリアン・レストランにおいて、桐生渉と九条院瑞樹は聞き慣れぬその音に目を瞬かせた。
 その音……目覚まし時計のタイマーの如き規則正しいリズムのそれ……は、この客船の船長である村上瑛五郎の懐中で鳴っているようである。
「おや?ふむ。少し失礼しますぞ。」村上船長が軽く頭を下げ、同時に服の内ポケットよりそれを取り出す。小さな、数センチ四方の金属質の……ライターのような道具だった。
「村上だ。」それを左手に握ると、村上船長は口許に触れるギリギリの距離で言葉を発した。それはまるで、マイクで喋っているようで……次の瞬間、かすかな音が渉の耳に届く。それは周囲で食事をする喧騒の中でほとんど聞き取れないような小さな音だったが、だがしかし、人の話す声に間違いない。目を心持ち逸らしつつ、渉は思わず、船長の動向に意識を集中する。
「何!?」怒気をはらんだ声に、渉は思わず船長を見る。白の混じった眉をひそめた、険しい表情。「それをどうして、今まで黙っていたのか。深町は何をしていた?」そしてまた、かすかな音。村上が誰かと会話をしていることに間違いはない。おそらくあの小さなライターのような物は、彼専用……あるいは乗務員が携帯する小型の通信機器なのだろう。
「わかった。それについては後で彼と話そう。」渉は、テーブルの向こうで瑞樹も同じように船長を見ていることに気付く。ためらいがちに、それでも好奇心に勝てないように……いや、村上船長の物言いにだろうか。少し怯えているような、少女。「とりあえずドクターを呼んでおけ。ああ、構わん。私も、すぐに行く。」ドクター……博士?違う、医者か?渉は何事かと緊張の度合いを高めた。怪我人か何か……「ああ、当り前だ。非常の場合はそれもやむをえん。CCにもその旨伝えておけ。御自慢のシステムにトラブルが発生すれば、プログラムならぬ人間がそれを直すしかないのでしょうか、とな。」辛辣な物言いの船長に渉は身をすくめる。だが、聞き慣れぬ言葉が……シー・シー?「こちらは十五分で到着する。以上だ。」小さな音。
 村上は軽く息をつくと手にした小箱……通信機であろう、それ……を胸元に戻す。そして、おもむろに二人を見た。
「楽しい食事中に、まことにぶしつけな事態と相成りました。」仰々しく、笑う。だが、そんな村上の態度に……そう、演じている部分があることに渉は気付いた。そう、今までの『演じていた』それではない。「ふむ、お二人には聞き苦しい台詞を耳に入れてしまったようですな。これは実に申し訳ない。」村上に見つめられて、渉は瞬間、目をそらしたが……当然の如く、心情を読み取られてしまったようである。
「あの、船長さん……」瑞樹だった。心配そうな顔で、口髭を撫で付ける村上船長を見る。
「いやいや、お気になさらず。ちょっとしたトラブルでしてな。そう……」一瞬、だった。村上の表情が、瑞樹と重なる。そこに過ったそれは、まぎれもない思慮……いや、苦慮、だろうか。苦悩とでもいうべき何かが走ったのを渉は見逃さなかった。とすれば、その原因は今の通信に間違いない。「……多分に電子的なそれが発生したようです。なにぶん、ハイテクを名うっておりますからな。コンピュータエンジニア達も、日々メンテナンスに苦慮しておりますよ。まあその結果、我々実務を担当するクルーにとり、楽を得る部分も少なからずあるのですが。」その言い方は明らかに矛盾している、と渉は思った。加えれば、まったくもって彼……村上船長らしからぬ物言いである。
 そう、おかしい。いや、これはただならぬそれ……事態ではないのか。勿論、俺の洞察力などたかが知れている。だが、逆にそうであるからこそ……そう、俺が察することができる程にこの人物が動揺したということであり、それを引き起こすような出来事が発生したのだ。渉はそう考え、そして次の瞬間、戦慄した。
 まさか。
 流れ落ちたそれは、冷や汗なのだろうか。海に反射する陽光もほがらかで、満天下のプールで快適な午前の時間を過ごし、今は暖かいイタリアンのランチを目の前にしているというのに、寒気を感じる。
 それは、木枯らしの如き一陣のそれ。
 今の季節に、相応しいはずの風。
 船長が笑った。「ですが残念なことに、一船員としての立場ではいられないのが船長というものでしてな。代わりがいない、という意味もありますが。つまらぬことでも、私がいなくては手続き上仕方ない場合があるのですよ。」村上船長の仕草がより大袈裟になっていく。「まったく、これほど楽しき場に加わりながら、席を立たねばならぬとはまさに無念の極みですな。」渉は冷ややかに……いや、食い入るような視線で彼を見つめた。
 そう、明らかに何かが違う。いや、間違いない。彼は、何かを隠している。この人は、それを俺達に伝えたくないのだ。
 ならば、それは、何か。
「お二人にはどうか、このまま愉快な午後の語らいを続けられることを祈っておりますぞ。」村上は食器を揃え、ナプキンを畳んだ。「元より私の参加は、奇遇が為し得たこと。食前の一席だったと思い、どうかお気に止めずに。いや、これほど念を押してはむしろそれも叶いませんか。」笑う船長。渉はじっと彼を見た。だが、そこでふと気付く。テーブルの向こうの瑞樹。
 そう、彼女もまた、どこか怪訝……いや、真摯な瞳で村上を見つめていた。
 そうか。渉は理解する。彼女も、そうなのだ。瑞樹も気付いている。この事態に。
 ならば、俺は。俺達は、どうすればいい?
 村上が席を立つ。渉は瞬間、目を閉じた。今までの自分。この船に乗った自分。現在、そして過去……過ごし、去った、日々を思う。
 そして、これから。このまま、俺は瑞樹と食事をする。その後はどうなるのか。簡単だ、楽しく過ごせばいい。船長もそう言っている。俺達は二人で、こうして人込みに……世俗にまぎれて、楽しく過ごせばいい。そうだ、そうすればいい。それが、現実なのだから。例え、事実はどうだったとしても、それを知らなければ……!
 渉は目を見開いた。「待って下さい。」立ち上がる。椅子を戻し、去ろうとした船長が振り向く。「船長!」
「なんでしょうかな?」振り向いた村上の顔には、一片の奇異的な様子もない。渉はまさに、相手の技量を感じた。
 だが。そうだ、渉は確信する。だからこそ、なのだ。
 これほどの人物が、動揺する出来事。「今の話は、俺達にも関係のあることじゃないですか?」渉は言った。大声ではない。だが、それは確かに、問いかけだった。「いや、俺達というより……九条院さんに関係のあることですね?違いますか?」それは、信じるという響きを持つ声。
 村上船長が大きく目を見開く。物々しい様子で、渉は演技だと感じる。「おやおや。どうやら、余計なことを言い過ぎましたか。」自認するような口ぶりに渉は拍子抜けした。もっときっぱりと否定されるかと思っていたのだ。「ですが桐生さん。御安心下さい。単なるソフト上のエラーですよ。こういっては何ですが、よくあることなのです。無論、私に連絡が必要な度合いということで重大さを思い量られたのかもしれませんが、それは杞憂というものです。この手の連絡は、大事小事に関わらず、すべて私に知らせる規則になっていましてな。おかげで、四六時中船内を巡り歩いていますよ。」渉が反論しようとする前に村上は手を上げてそれを制した。周囲をちらと気にしながら。「お嬢さんに関係のあることと言えば、確かにそうです。しかしそれは時局に鑑みて、この船で起こるすべてのことがそうではありませんか?この航海で最も重要な式典を考えれば、ひいてはエンジンシリンダに発生した錆の程度まで関わってくるでしょう。些細なことで、船旅におけるよき気分を害されることはありません。まさに杞憂であると、乗組員を代表する者として、そうお答えさせていただきます。」
 村上は一礼し、渉は言葉を失った。「しかし……」圧倒……まさに有無を言わせぬ調子で語った船長に対し、渉は必死に踏みとどまる。そう、負けては……いや、甘受してはならない。
 そうだ、認めては駄目だ。
 何もできない俺を。何もしない俺を。
 停止した俺。停滞する俺。
 また、声が聞こえる。誰かの声。
 彼女の、声だった。
「船長さん。私も、渉さんに賛同します。」渉は目を見開いて振り向く。
 立ち上がる姿。そこに、彼女がいた。
 九条院瑞樹。
「お嬢さん……」
「大変に失礼ですけれど、私……先程の船長さんのお話を聞いてしまいました。」村上船長が眉をひそめる。「ドクター、とおっしゃっていましたね。お医者さまを必要とする事態は、ソフト上のエラー、という船長さんのおっしゃりようと矛盾しています。」かすかに目を見開いて、船長は瑞樹を見つめた。「いえ、おそらくソフト上のエラーで、どなたかの健康が損なわれる可能性があるということなのではありませんか?」船長の驚きが強まる。渉もまた、それは同じだった。初めて見る……瑞樹の表情。「私に関係のあることであれば、その旨をぜひお伝え願いたいです。杞憂とおっしゃられましたが、私達からすれば、船長さんのその心遣いこそ杞憂ですわ。私達、子供ではありません。」村上……いや、渉の方がより、驚きを表に出していたであろう。それほど、瑞樹の物言いにはよどみがなかった。「重要な式典、と私のことを思いやって下さるのでしたら、私のために乗船なさったどなたかが健康を害するかもしれないという事態に至り、私自身がどう思うかも考えていただけないでしょうか。」伏せるように、少女の目線が落ちる。「それを杞憂として一笑に付すなど、とても私にはできません。」頬にかかる黒髪を軽くかき退けるようにして、瑞樹は再び眼前の村上を見据えた。「それに……船長さんは先程、十五分で到着するとおっしゃられましたね。もう、五分はたっていますわ。このままでは、約束された時間内に間に合わないのではありませんか?」
「それは……」村上は困惑していた。いや、当惑だろうか。だが、それも当然だろうと渉は思う。渉自身、流暢かつ道理立った瑞樹の物言いに心底から仰天していたのだから。「では、お嬢さんは私に何をお望みでしょうか。時間がないと気付いた今、私がお二人を無視して走り出すかもしれませんぞ。」
「それは望むところです。」瑞樹は澄まして、そして、笑った。「私、駆けっこは得意ですもの。」渉ですら、まじまじとその顔を見る。「船長さんが走り出したら、追いかけてしまいますわ。きっと、渉さんと一緒に。ね、そうでしょう?」悪戯っぽい笑顔がこちらに振り向く。渉は何か、先程のそれとは別の、戦慄めいた……言い様のない感覚に襲われた。驚き……いや、むしろ……感銘、だろうか?
「あ、ああ……」渉は返事をする。すっかり、雰囲気に呑まれてしまっている自分を感じる。「そ、そうだね。俺も訳がわからないのは嫌だから……船長、九条院さんの言う通りです。気分を害するというなら、このまま放っておかれた方がよりそうなりますよ、俺達。」
「桐生さん……」村上船長は絶句している……ように見えた。この人物をここまでへこませられるものか、と渉は自分に驚く。
 だが、そこで渉は気付いた。違う。断じて俺の成果じゃない。俺など、何の役にも立っていない。そう、一本取ったのはまぎれもない、彼女だ。「……ならば、どうしろとおっしゃるのです?事実を御説明しようにも、時間の猶予はもうありませんが。」
「俺達も同行させて下さい。それで解決します。」渉は言った。同時に、何か重荷のようなものが動いたような感覚を抱く。「勿論、船長と……九条院さんにそのつもりがあれば、ですが。」重圧感が外れたのか、それとも、逆に圧し掛かったのか。
 村上船長が自分を見る。渉は目を逸らすことなくそれを見返し……そして、船長は瑞樹を見た。少女は、無言で、しかしはっきりと頷く。そして、また渉へと視線が移る。
「お願いします。ソフト的なトラブル、と言いましたね。もしそれが本当なら……」渉は唾を飲み込む。「……もしかしたら、ですが。その……大変なことに、なるかもしれません。」語尾がかすかに震えてしまったことに渉は気付かない。
 村上はほんの少しの間だけ黙し、そして、再び二人を交互に見た。その数秒に、どれだけの思惟が彼の中で交錯したのだろうかと渉は思う。「よろしい。」そして、彼はそう言った。「話は後で。とりあえずはお二人共、私についてきて下さい。」
「ありがとうございます……!」渉は安堵の念と共に頭を下げた。その向こうで、瑞樹も優雅に一礼する。
「礼を言われることではありません。」村上がきっぱりと言い放つ。「加えて、これは遊びではありませんぞ。お二人が道楽気分で同行を求めているならば、私は断じてそれを許しません。それでよろしいですな?」村上の表情は真剣極まるそれだった。ようやく、普段のらしさを取り戻したような気がする。渉は少なからず威圧されつつ、だがむしろそのことが嬉しかった。
 渉は頷く。「はい、勿論です。邪魔になるようなら、俺達はすぐに帰ります。」瑞樹を見る。彼女も頷いた。
「見学させていただきます。でも決して、遊びのつもりではありません。」
「わかりました、ならば行きましょう。勘定はいりません。私についてきて下さい。」言うなり、村上は早足で歩き始めた。駆け足という訳ではないが、その勢いは半端ではない。
「行こう、九条院さん。」渉は瑞樹に言う。
「はい。」二人は歩き……いや、早足で船長に続いた。
 店を出る。人でにぎわうプロムナード。船長は周囲に目もくれずにその中を歩いていく。その歩幅は、とてつもなく大きく早かった。たちまち、渉と瑞樹は混雑の中に船長を見失いそうになる。
「急ごう、九条院さん。」渉は傍らの瑞樹に言った。瑞樹は周囲の雑踏に少し困惑したように頷き、先に消えかける村上船長のシルエットを渉は捉える。まずい。
「は、はい。ごめんなさい。渉さん……」大柄な体躯を誇る船長でも、この大小様々な通路とホールで入り組んだ大デッキで見失ったらおしまいだ。渉は瞬時にそう判断した。しかも、彼の行き先は皆目わからない。さらに重ねれば、俺達がはぐれてしまうことは、彼にとって都合がいいはずだ。そして、俺達にはそれに文句をつける筋合いなどまるでない。
「九条院さん!」渉は、手を差し伸べた。そして、自分の靴……ヒールの高いそれを正していた瑞樹が、目の前の手と、そして渉を見て……ほほえみ、頷く。
 渉も頷く。それ以上、二人に言葉はなかった。必要がない、渉はそう感じる。
 互いの手が触れた。絹のような白い肌、華奢な指先、そして滑るような感触の掌……それに比べて、自分の手はどんなに不細工だろうかと渉は嘆く。まったく別の作り……そう、精根込めて彫り上げられた芸術作品と、効率を重視して量産された廉価製品。そんな陳腐な比喩が浮かび、そして次の瞬間、渉は目を見開いた。
 瑞樹が、駆けて行く。彼に手を引かれて。いや、彼の手を引いて。
 言葉はなかったが、彼女は笑っていた。
 そうか。渉は俗念を払拭した。今は、それよりも大切なことがある。
 そうだ。俺は、そう決めたのだから。
 渉は走り出す。瑞樹と共に。
 
 


[351]長編連載『M:西海航路 第二十四章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時11分 Mail

 
 
 雑踏。まさに船内屈指の大通りとなっているそこを、スチュワードと船客、見知らぬ人々の間をかき分けて二人は進んでいく。
 早足で、そして時には歩幅を短くし、そしてまた走る。やがて、二人は消えていた船長の後ろ姿を捉えた。今、大きな角を曲がろうとしている。そこはかなり狭い通路で、甲板へ出るメインの通路とは別方向に続いている。そこへ、船長は早足で入っていく。さらにまた、その通路から別の通路へ。
「こっちだ、九条院さん!」瑞樹はそれに気付かなかったようだ。渉は彼女の手を引いて、そこに飛び込む。小さなドアが並んでいた。少し先に、開けた場所があるようだ。船長は見えないが、おそらくそこしかないであろう。渉と瑞樹は進む。
 そこはいくつかの通路が分岐、交差する大きなエレベータホールだった。渉達が来た狭い廊下や、その数倍の幅はある大きな廊下も連なり、黄色に塗られた二基のエレベータ……見たこともないほどに巨大な扉を持つそれと、小さなそれが対照的に配置されている。大きな方は3……4メートル四方はあるだろうか。渉は正四角形の巨大な扉を見上げて、息を呑んだ。小さな……そう、荷物用なのだろう、小型のエレベータが対になってあるために、余計にその異様が目立つ。
 まさにそれは、お伽話に出てくる巨人と小人の如き光景だった。
 そして、その前に船長がいた。「ふむ、追いつかれましたか。」ニヤリと笑う。「いや、失敬。ですが、たいしたものですと言わせていただきましょうか。新米船員ならば、間違いなく今の道程ではぐれていますからな。」
「ありがとう……ございます。」渉は息を正す。今更のように、結構なスピードで船長を追いかけていたことを知った。見れば、横の瑞樹もかなり息を乱している。「大丈夫?九条院さん……?」瑞樹がほほえんで……少し苦しそうだったが……頷いた。渉は笑い返し、そして繋いだ手に気付く。
 どちらからともなく、二人は手を離した。そう、まるで悪戯を親に見られて慌てる子供のように。その前で、船長が再びニヤリと笑う。
「ふむ、若いお二人には食後の運動……いや、これは重ねて失礼ですな。ふむ、何しろ、前菜程度しか食せませんでしたからな。まさに無念。」腕を組み、そしてちらと横合いの……そう、巨大な黄色のエレベータを見上げる。「今度は、私から正式に招待させていただきましょう。あの店の料理は、是が非にでも味わってもらいたいですからな。」笑う。
 このエレベータを待っているのか。渉はようやく理解した。そしてもう一つ、あれだけの速度でここまで来ながら、息一つ切らしていない船長に気付く。
 渉は敬服し、笑った。「ありがとうございます。招待、楽しみにしていますよ。」ようやく、呼吸が落ち着いてくる。
「なぁに。裏を返せば、どうにかしてこの船を気に入っていただきたいという腹黒い算段が為せるわざかもしれませんぞ。」ブザーのような音が響き、村上がパネル……エレベータの横にある端末を操作した。「船旅は一期一会が常とはいえ、我々もまた、サービスを提供する商売人であることに変わりはありません。」渉は笑った。ほんのわずか、心の奥底で何かが揺れる。
 重苦しい音がして、扉が開き始める。スライド式の二重扉が滑らかに動き、そして……
 まさに何もない広大な室内が、あらわになった。
「どうぞ。本来は人を運ぶための物ではありませんが、御安心を。時として、人よりも大事と称される物を運ぶこともあるエレベータです。」村上が中を示す。渉は頷きエレベータに入った。瑞樹も……「お嬢さん、どうなされましたか?」
「え、あっ……は、はい。ごめんなさい……」瑞樹は頷き、ゆっくりと歩んで渉に続いた。その妙に緩慢な動作を前に、渉は心配になる。
「どうしたの?もしかして……走って、気持ちが悪くなった?」船長が入ってくる。中は一転して乳白色……かすかなクリーム色に染め上げられている。まさに事務的というか、機能的なエレベータだった。扉の横には外と同じ端末のパネルがあり、船長が素早くそれを操作する。カード一つ使わない手際に、渉は流石はと納得しかけ……ふと、それが気になった。
 扉が重苦しい響きと共に閉まっていく。今まで三人がいた、エレベータホールが消えていく。
「船長……?」まさに巨大だ、と渉は閉鎖された空間で思った。どこか無機質な香りを秘めた、四方を白い壁に囲まれた場所。その大きさは、実際のところエレベータホール以上かもしれないと渉は思う。いや、このエレベータ……おそらく大型のシャトルエレベータなのだろうが……その仕組みを考えると、それは間違いないだろう。これほど大きな物は、それこそ高層ビルのような巨大建築でなければ必要もないし、作られることもない。そう思い、そして渉はこの船の構造を思い出す。
 そうか。この客船は、高層ビルと同じようなものだ。地上60メートル、全幅300メートル……高さこそ中程度とはいえ、述べ床面積として考えればまさにまぎれもなき巨大建築である。そこに13を越える各階層が横に長く広がり、それらを縦に結ぶエレベータが動脈としていくつも配置されている。そして今俺達が乗っているこのエレベータは、おそらくはメインの大動脈としての一本に間違いない。「……なんですかな?」多分、荷物運搬用のそれだろうが……「桐生さん?」
 呼ばれてはっとする。頭の中で船内の図面を引いていた渉は、その懐古的な……まさに懐かしい感覚から現実に引き戻されたて戸惑った。「い、いえ。」だが、そこで思い出す。先程の船長の手際。「その……船長は、ゲストカードは持っていないんですね?」そう、違和感のようなそれがあったのだ。それはこの船に乗って以来、ずっと目撃し、利用し、すっかり慣れてしまったこと……そう、カードによるあらゆる機器の操作、という点だった。
「無論、私はクルーであって、ゲストではありませんからな。」笑う船長。渉は自分の馬鹿さ加減に首を括りたくなり……そして、そこでまた気付いた。
「ですが、その……スチュワードは、カードを使っていますよね?」そうだ。渉は何度も目にしていた。客室スチュワードがエレベータをカードで使用し、扉をも開ける姿。あれはどうなのだろうか。
 村上船長は眉を持ち上げた。これはしたり、と言いたげな顔だ。「ふむ、それはよい観察眼ですな。」そして、口髭を撫でつける。「確かに乗務員用のカードは存在します。ゲストカードではなく、クルーカードと呼ばれていますが。」足下の違和感を渉は覚える。減速が始まったようだ。「ですが、一部のスタッフには……そう、オフィサーと呼ばれるのですが。私を含めたそれらの乗務員に限っては、通常、カードを使用する必要がないのです。」
 オフィサー……つまりは会社の役員、軍隊の士官のようなものだろうかと渉は思う。つまり、この船の各部署における重要なポストにいる人物達だろう。「それは……」小さく足下が揺れる。だが、そうだ。今重要なのは、それではない。「……どうしてですか?いや、どうやっているんですか?カードを使わなくてもいいというのは……」そうだ。この船の機構と明らかに矛盾している。「何か特別なチェック方法が……」
「あいにくですが、それを教示することはできません。」きっぱりと村上は言った。「おわかりとは思いますが、我々乗務員には、職務規定というものがありましてな。そこには往々にして、企業秘密という厄介なものが内在しているのです。この船の成り立ちを考えていただければ、そういったことが多々あるというのも理解していただけるかとは思うのですが。」苦笑めいた村上船長の物言いと共に、重苦しい音が響いた。停止……したのだろう。「まあ、強いて言うならば、それは……そうですな。魔法のようなものですか。」
「えっ……?」追考したように加えられた村上の言葉が、渉を戸惑わせる。今、船長は……?
「ですが残念なことに、詳細を語りたくとも時間がありません。さあ、行きましょう。」扉が、ゆっくりと開き始める。
「えっ、ああ……はい。すみません。」渉は熱くなりかけていた自分に気が付く。「俺、失礼なことを……すみませんでした。」頭を下げる。パネルの操作をしていた船長が、また、ニヤリと笑った。
「謝られることではありませんぞ。私を含めたオフィサーも全員、カードは持っています。お客様にあらぬ誤解や不安を抱かせぬためにも、我々もまたすべからくカードを使ったように見せかけるようにと、私も常々言い聞かせてはいるのですが。」船長は外に出ろという仕草をした。「例えば、出航の宵に桐生氏に船内規定を指導した芹澤。あれは、カードを使っていませんでしたかな?」
 渉は瞬時に思い出す。「あ、確かに……」これ見よがしといわんばかりにカードを使っていた彼を思い出す。それを見て、渉もカードの重要性をより深く認識したのだ。そう、あの時はまさに、そのカードのせいでとんでもないトラブルにまき込まれた直後だった。「そ、そうでした。」
「そうでしょうとも。しかし当の私がそれを実践できぬとは。ふむ、指導者失格ですな。」肩をすくめて嘆くように船長は言う。渉は笑いながら外に……乗り込んだ時と同じく、ひとけのない静かなエレベータ・ホールに出た。そうしながらも彼……芹澤航海士の一つ一つの仕草を思い出し、なるほど、と思う。そうか、彼も間違いなくオフィサーの一人なのだろう。そうか、本来彼には、カードの必要はなかったのか。だがそれをあえて使ってみせることで、ゲストカードの必要性と……誰もがそれを使うのだというイメージを、こちらに与えた訳だ。
 納得し、渉は今更のように乗員達の技量に感心する。だが、カードがない者がどうやってシステムを利用するのだろう。渉は思った。何か、特殊なパスワードのようなもので……「お嬢さん?どうしましたか?」
 村上船長の声に渉は身を強ばらせる。何事かと思い、そして、それに気付いた。
 渉、そして村上を残して、未だにエレベータの中にいる瑞樹。
 どうしたのかと渉は思い、瞬間、あの必死の追跡と、先のホールで気分が悪そうにしていた瑞樹を思い出す。「九条院さん、大丈夫?」エレベータの中に駆け戻り、渉は瑞樹に声をかけた。
 瑞樹はエレベータの真ん中で、蒼白になっていた。身を縮ませ、両手で自らを……その存在を模索するようにして、左右の肘にまで腕を回している。顔はうつむき加減で、艶やかな黒髪に隠れた目許は……明らかに、普通ではない色を覗かせていた。
「く、九条院さん……?」渉はその変わりように驚く。どうして、今まで気付かなかったのか。「大丈夫……?」あらわになった白い肩が震えている。渉はそれに手をかけた。瞬間、瑞樹の身体が痙攣するように大きく震える。だが、目は渉を見てはいない。その視線が……食い入るようなそれが、ゆっくりと持ち上がっていく。初めて見る……そう、異相とでも言うべき瑞樹の変貌だった。
「九条院さん!」渉は叫んだ。瑞樹の体は氷のように冷たい。いや、馬鹿な。そんなはずがない。
 少女の肩を激しく揺さぶる。「しっかりして!」だが、反応はない。揺すり、声をかけながら、渉はこんな乱暴をしていいのかと自問した。だが……「瑞樹さん!」初めてではなかったが、意識してそう呼んだのは初めてだったろうか。
 そして、反応があった。震えながら己を抱いていた、白い手が持ち上がる。そして、その手が渉の手を……自身の肩を支えているそれに、触れてくる。「瑞樹……」それが果たして自分の声なのか、渉にはわからなかった。ただ、反応を見せた少女の瞳を……血走ったように、激しくわななくそれを見返す。言葉が届かないならば、視覚がそれを成せばいい、と渉は心底から思った。そうだ。頼む。眼力でも何でもいい、どうか……
「つっ……!」渉は呻いた。瑞樹の手が、自分の二の腕から首筋に滑り……そして、そこに強烈な力で触れ……いや、掴んできたのだ。淡いマニキュアを塗ってあるのか、瑞樹の白い指先には、整った爪が整然と覗いている。そして、回された両腕、手先のそれが……信じ難い程の力を以って、渉の首筋にめり込む。「くっ、ぁ……!」
 爆ぜるような感覚に渉は喘いだ。同時に、首筋から……胸元や背筋に、冷たい感覚が走っていく。まるで流れ落ちるような……いや、まさに流れ落ちているのであろうそれが、何を意味しているのか渉には認識できなかった。ただ、両手で自分の首を絞めつけてくる瑞樹……黒髪の少女の瞳の中に、自分……いや、目の前に存在する何者かに対する、強烈な意識を感じる。
 そう、意識……彼女の中に秘められた、刻まれた、意志。
 頑強で、誇り高く、決して揺らぐことのない、激しい輝き。
 それは、まさに戦慄し、畏敬を抱かせる感情だった。
 それが正しいのか、正しくないのか、そんなことは関係ない。
 そうだ。そんなことは、決める必要がない。無意味だ。
 ただ……そう、ただ、彼女は強い。渉は今、心の底からそう思う。そして、肩口からの手を離し……それは、首よりの激痛で既に力を失いかけていたためかもしれなかったが……そのままゆっくりと動かして、少女の頬に……髪に隠れるそれに……触れた。
 ああ、彼女は鞏固だ。
 彼女は、完成されている。出来上がっているのだ。渉は、それを確信する。
 そしてそれが、そのことが、とても美しいと思う。
 そう、彼女は奇麗だ。表も裏も、内面も外見も。俺とは、俺などとは、違う。
 そうだ。俺と彼女は、違うのだ。何もかも、まったく違う。
 俺は、完成されていない。まったく無価値な、未完成の、がらくた。
 だが、彼女は違う。彼女は、完成している。いや、完成したのだ。完成して、いたのだ。
 そう、
「おめ……で……とう……」
 渉は呟いた。言いたいから言ったのではない。口が勝手に動いたのでもない。
 それは、誰にも伝えたくないから、言葉になった。
 少女の瞳が震えた。
 瞬間、指が、離れる。
「桐生さん!お嬢さん!」叫びが聞こえる。必死な、遠くからの、声。
 ああ、何という遅さだろう。渉は笑った。何という、判断力、行動力の欠如。
 どうして、気付かなかったのか。今まで、ずっと見ていなかったのか。
 いや、違う。
 見てはいたのだろう。
 だが、気付かなかった。
 いや、違う。
 気付いてはいたのだろう。
 だが、動かなかった。
 そうだ。その通りだ。ずっと前から、そうじゃないか。
 できなかったんじゃない。しなかったんだ。
 したく、なかった。
 するのが、怖かった。
 泣きそうなくらいに。
 ただ、怖かった。
 硝子細工が、割れるような音。
 渉は顔を上げる。
 そこに、彼女がいた。
 渉は安堵する。
 彼女がいてくれる。
 その姿が、一歩、下がった。
 顔面は蒼白だ。黒髪の下で、切れ長の瞳が見開かれている。
 口は半開きになり、砕けた破片のような涼やかな音階が、そこから漏れている。
 そして、その目は、渉を見ていた。
 俺を、見ている。渉は、それに満足する。
 そう、彼女が俺を見ている。俺のことを考えている。俺を思っている。
 それが、嬉しかった。
 白い世界。眩しすぎる空間だと、渉は思う。
 不意に、膝が揺れた。力が入らない。どうしてかと思い、嬉しくて仕方ないのだと解釈する。
 そうか、俺は、満足しているのだ。
 彼女を見つめる。目を逸らすつもりなどなかった。
 ずっと、そうしたかった。だから、そうしていた。
 これからずっと、そうするつもりだった。
 できるか、できないか。
 そんなことは、無意味だ。
 彼女が、自分の両手を見つめた。そして、渉を見る。
 そしてまた、自分の手を。
 それは、白くはない。
 純白の、砂浜。
 まさに敷き詰められた白砂のようにきめ細かであった白い手は、その指先は、染まっていた。
 赤に。おびただしいほど、真紅に。
 そして、彼女が俺を見る。そう、俺を見てくれる。
 渉は笑いたかった。ほほえみたかった。
 きっと、そうしてやれば、彼女は喜ぶ。
 唇がわななく。指先と同じ、赤い唇。
「私、は……!私は……っ!」
 懐かしい声。あぁ……そう、そうだ。
 そうだ……
 今は、言える。
 今は、答えられる。
 そうだ。それを、ずっと考えていた。
 ずっと、それを考えていた。
 それを、伝えたかった。
 答え。
 そう、答えが、あると。 
「ミチル……」
 渉の唇が動いた。視界がぐらつく。
 心臓の音がした。鳴り響いているのか、止まろうとしているのか。
 膝が落ちる。身体が落ちる。
 だが、
 彼は、
 笑っていた。

 白い部屋の中で。
 桐生渉は、笑っていた。
 
 
 


[352]長編連載『M:西海航路 第二十五章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時11分 Mail

 
 
   第二十五章 Murder

   「だって……それしか方法が思いつかなかったから」


 さて、話は少しばかり時と場所を移す。

(読者の中には、本章及び次章の表記のあまりの違和感に、戸惑いを含め何か特定の状況を察する方がいるかもしれない。だがそれは杞憂というものである。なるべくしてこうなったのであり、決して筆者が某かの激情にかられてこうなったのではない。少なくとも窮状、あるいはやけっぱちなどという考えからは遠く離れていると思う。ならばどうしてこのような注釈を入れるのかと問われれば、残念ながらそれにつき明朗とした返答を以って返すことができないのもまた事実である。自分はあくまで執筆者であるのだが、同時に純粋な意味での読者でもいたいと常日頃から望んでいるのだ。あらゆる意味でこういったジャンルの執筆者がその二重螺旋的スタンスを守ることは難しいと思われるが、それでもやはり、必要にかられてそれを行わざるを得ない場合もあるのである。)
(前置きが長くなった。このような執筆者の陳謝、あるいは言い訳めいた記述を不快に思う読者もいよう。勿論作者としては唯一絶対に物語の構成と展開について責任を負うべきであるとはいえ、それら全てが結局の所何かの思惟の結実、あるいは副産物として発生するのもまた現実であり、今一度ここにその旨を明記しておくものである。)

 その人物は苛立っていた。
 原因は明瞭だ。たった今起こった事実……いや、その人物にとっての現実が、その人物の胸を激しく動揺させていたのである。
 自分は、何をしていたのか。
 自分は、何をしてしまったのか。
 それが、わからなかった。これが過去形であるのは、今となってようやく、自分が何を行ったのかがよくわかったからである。そう、それは既に過去のことであった。つまりは『行う』という未然の形容ではない、『行った』という、決して戻らない事実であった。つまりはしてしまったこと、為してしまったこと、やってしまったことである。
 だがそれは、断じてその人物がしたいことではなかった。そう、自分がやるべきことではなかった。
 だがしかし、してしまったことである。それを今、その人物は理解した。
 それは同時に、激しい痛みを伴う認識だった。そう、今思い返しても、涙がにじみ出てきてしまう程だ。
 どうして……どうして、あんなことをしてしまったのだろう。
 それは悔し涙だろうか。確かに考えるに多大な後悔の念を**させるそれには間違いなかった。だが、先の状況に鑑みて果たして自制できたかと問われれば、絶対的にそれは不可能だと結論を出さざるを得ない。それは自意識の意向を無視して身体が勝手に動いた、とも言えるであろう。そう、決して意識してのものではなかった……極論として言えば、無意識下のそれが勝手に為し得たように思えた。
 そこで、その人物は首を振った。そんなはずがない。意識を離れて、肉体が動くはずがない。だがそれならば、眠るという行為は何か。気を失う、昏倒するという状態は何か。
 そもそも、心とは何だろうか。あくまでそれは副次的な電気的信号の産物であり、脳という肉体器官への付属物なのだろうか。いくつものそれが、たった一つの埋まれ落ちた『躯』にしがみついているのか。剥がれ落ち、振り落とされ、消えない様に。必死に、歯を食い縛っているだけなのか。
 弛むような感覚の中で、その人物は深く息を散らした。
 そう、そうかもしれない。母の胸に抱かれる、というありふれた形容。それはまさに、眠ること……意識を失おうとすることと同義だ。今、自分もこの熱した液体の中でそれを感じ、意識の中のある部分がそれを強烈に要求しているのがわかる。同様に、そうすればどれだけ気持ちがいいかと、巧みに訴える心もあった。
 そう、失うことを求める意識。それは確実に存在している。そしてそれもまた意識の一つ……心である以上、すべては明らかに矛盾していた。いや、自己破壊を認め、それを求める意識が存在するとすれば、それはどれほど逆らい難い欲望と興味に満ちていることか。誰しもこのまま何もかも捨てて、眠ってしまいたいと思う時はあろう。だが、次に目覚めるかどうかを気にする者はほとんどいない。それはなぜか。
 目覚めるのが当り前だから?
 普遍なる定義として、そうであることか当然だから?
 違う、とその人物は思う。なぜなら自分もまた、それを、その状態を知っている。何もかも破棄し、世界のすべてがどうでもよくなったことがある。誰もいない。自分自身が、どこにもいない。そうなったと、自分で認めた時。そう、それは未知の感情ではない。
 だが、今は違う。思考を瞬時に切り替え、彼女(そう、七面倒な形容はもうやめよう。ここからはありのまま彼女と称することにする)は黙して湯船に身を浸す。暖かい、湯の中に。
 そう、彼女は自分の思考の持つ能力をよく理解していた。それは彼女の意思のそれに比べ非常に明解かつ確固としたもので、何も知らぬ他者が見る限り多大にうぬぼれ、誇大妄想としてこの若き娘に察したであろう。だが当の彼女はそんなことを気にしたことは一度もない。既に彼女は、自らの能力のなんたるかを熟知していた。
 どこまでも思弁であり、しかし、比肩なく優秀である。
 そう、彼女は己が持つ力の意義を悟っていた。だがそれは、前述したようにうぬぼれなどから来るそれではない。傲慢など皆無だ、そう断じることができる。その理由もまた明瞭だった。彼女は、自分より遥かに高処にいる者を知っていたからである。
 既に今より遥かに若年にして、彼女は自らの能力を越える存在をはっきりと認識していた。そう、確かに自分の能力は比肩なき度合かもしれない。だがそれは、あくまで同等……ほぼ互角と定義できる存在が見当たらないという意味であり、決して彼女を陵駕……いや、超越する存在がいないという意味ではない。そう、比肩はいざ知らず、比類するべき相手はいた。無論、それは多数ではない。むしろ、極端に少ない……複ではなく、個に近いとまで言えただろう。だが、こういった定義を以って解を導くに、数の意味などあるのだろうか。
 それが何であるかに関わらず、人は皆、自分の能力の大小を常に気にかける。それは往々にして自らが他に比べてどれだけ優れているか、あるいは劣っているのか、それを比較、あるいは把握したいという思念の産物である。そしてそれらはおそらく、あわよくば自身がその能力分野の頂点として比類なき第一の存在になりたいという、夢物語とも思える意識が為したものかもしれない。だがそれもまた、他人という存在がいなければ成り立たない比較としての定義にすぎない。そして定義という言葉がそもそも区別するために生まれている以上、その思考もまた人が持って生まれた絶対的な概念、潜在する感情であるのかもしれなかった。そんなものが、あるとすればだが。
 彼女は再び大きく息を吐いた。顎まで浸かるほど湯船に身を沈める。思いきって湯に晒した髪が、今はとても心地好かった。
 とにかく、彼女は知っていた。自分より遥かに高処に位置する他者が存在することを。そして、それが今現在に照らし合わせてどうであるのか、そのこともまた、よく理解していた。
 そう、わかりやすく言えば……今はまだ、という定義である。
 すべての事象がその時局を同期させて考えることが不可能なのと同じく、個々の能力もまた決して原状と時世によるそれを考えることなく評価はできない。もしも絶対的に個人が持つある能力とその最盛期を測定することができたとすれば、それはおそらく(今それを思索する彼女を含めた)多くの者が考えるような客観的な序列にはならないであろう。
 そう、人間の持つ思考力につき最大の意義(あるいは価値、とするべきだろうか)が知識や速度でなく瞬間における発想の飛躍だとするのならば、人類は誰もが押しなべてそれにつき最大の度合を保有する可能性がある。無論それは単純に『今日は君、冴えているね』などという言葉で括れてしまう程些末なことかもしれないが、もしも瞬間のそれを緻密に計測できたならば、おそらくほとんどの人間に大小や優劣は生まれないであろう。落下するリンゴを見て引力の存在を思いつくのも、湯が満ち満ちた風呂に入って浮力の存在に気付くのも、『その時はたまたま冴えていたんだね』と結論付けられてしまえばそれでおしまいではないか。瞬間における個人の思考の鋭さを計り、定義することはおそらく不可能だ。比較、測定しようにもそれを絶対的に評価できる存在がいないのだから。それはイコール定義という言葉の意味であり、欠点とも言えた。もっともその効果の及ぼす意義は大きく、だからこそ人は常に今の自分と今の他者を比較して自らを知ろうとするのであろう。結局のところ、他者の優劣をそれで決定付けられるはずはないのだが、反射として帰着したデータを元に自らの能力を考察し、その程度を押し測ることはできる。それがつまり、定義の価値となるのだろう。
 そう、そのためにも自らを越える存在はいなくてはならない。
 ほぼ体温と同じ温度のぬるい湯の中で、彼女は努めて冷静にそう思った。他者、しかも自らに量れぬ相手が現実として存在する。それは重要なことだ。そう信じる根拠は、感情などという定義があやふやなものではない。ただ『他者』という究極的に異質な存在に囲まれた世界の中で、尚且つ常に疑いを持って思考、あるいは思い計らなければならない相手がいるというのは、気分の悪いことではなかった。そう、今はそう思う。それは、不満でもやるさせなでもない。
 矛盾。まさにそれであった。だが今はもう、彼女はそれを受け入れていた。
 天井は低く、バスルームはさほど広くない。だがそれでも一人の場所はいい、と彼女は心底から思う。世界は喧騒に満ちている。そこから離れて昔懐かしい孤独を感じた時、初めて何もかもを冷静に考えることができる。普段の自分はそうではない。望むと望まざるとに関わらず、必ず誰かが彼女の傍にいた。自分は真の意味での孤独を感じたことはないのではないか、と彼女はふっと思う。そう、必ず誰かがいてくれた。勿論それには感謝している。感謝していないはずがない。そうでなければ、自分は決してここまで成長できなかったであろう。それだけは、本当に心から感謝していた。
 皮肉にしか聞こえない響きを以って、彼女は瞳を閉じた。
 そう、矛盾している。牢獄としか形容できない空間。そこに落ち込み、閉塞して、もがいていた自分を思い出す。
 虚無と無限の包括された世界。その痛ましい記憶は、未だ無慈悲に彼女のすべてを犯し続けていた。解放されることを望んでも、それは決して叶わなかった。短かったのか、長かったのか、それすら理解できない程に彼女はさまよい、そして、喘いだ。何もかもを唾棄し、破壊し尽くしたいと願う時間があった。迷夢の果てに、結締としての終焉すら見定めていた。
 だが。
 そこに、光が差し込んだ。
 出会い。
 彼女はゆっくりと瞳を開いた。長い睫毛の下から、特徴的な瞳が……かすかに薄く、形容し難い彩りのそれが、虚空遥かを凝視する。整った口許がゆっくりと変形し、そして、世にいるほとんどの男性が目を見張るであろう、絶世の微笑が形作られた。
 そう、彼と出会った。あの人と、出会った。そして、思った。
 それを、否定するつもりはない。
 それは、否定できない。
 それが、それこそが、矛盾。
 許せないほど、違う相手。
 憎らしいほど、異なった存在。
 身体も、精神も、何もかも相反している、憤るしかない、やるせない個体。
 だが、それが何だと言うのだ。
 そうであるから。いや、だからこそ。
 矮小な定義など欲しくない。
 いや、定義などできるはずがない。
 異なっている。
 違っている。
 同じではない。
 それが、人ではないのか。
 彼女はゆっくりと身体を起こした。湯が、弾けるようにその瑞々しい肌を滑り落ちていく。先程までの嘆き、あるいは苛立ちは、いつのまにか消えていた。それは彼女自身が意図して消したのかもしれない。彼女はいつも自分の思考の推移を監視、制御していた。抑制するそれだけは未だ未発達であると自覚していたが、他は概ね成功している。事実、それらが彼女自身の管理を押し退けて弾け、あるいは解放されることは、滅多にない。だが反面、そういった時だけ自分が本物になれる、彼女はいつしか、そんな気がしていた。
 本物。その定義は未だ彼女の中で不明瞭だった。何が本物で、何がそうでないか。思春期を損壊している彼女にとって、それはもう一つの意味を持っていた。それは、彼女がずっと目指してきたものでもある。
 大人、という定義。
 大人という意味を先の定義に当てはめようとすれば、それはさらに難度を増す。その問題は今の彼女にとって最大の関心事でもあった。かつて彼女はそれを必死に求め、それこそ未熟だと言われれば烈火の如く怒ったものである。だが今現在、その定義は彼女にとって、是が非か、というわかりやすい位置関係にはなかった。
 本物のふりをする必要はない。完全になろうとする努力、おそらくはそれが重要なのだ。大人であるというイメージを他人に植えつける、それをこなすことができればいい。自分にとっての大人など、誰の中にも存在しない。
 その考えが、答えかもしれないものが、今、自分の中にある。
 それを教えてくれたのは、彼だった。そう、あの人ではない。例えそれがどういった経緯であろうが、彼が誰にそれを伝え聞いていようが、現実として自分にそれを教えてくれたのは、彼だった。
 桐生渉。
 彼女はゆっくりと息を吐くと、そのまま完全に身を起こして立ち上がった。小気味のいい音と共に湯が水滴となって弾け、蒸気が舞い踊る中に、彼女の持つ女性として完璧な美のラインがあらわになる。
 心を捉えた青年の名前を反芻して、彼女は大きく身を逸らした。だがそこで、当然のように別の名前がそこに浮かぶ。どこか忌々しげに眉をひそめると、彼女は軽く髪を振って思考を打ちきった。
 
 


[353]長編連載『M:西海航路 第二十五章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時12分 Mail

 
 
 バスルームを出る。部屋には誰もいなかった。偶然だろうとは思う。そんな細やかな気遣いができるような相手ではない。そう、あの男は極めて非人間的なのだ。その定義が極端に欺瞞と憶測に満ちていることは無視する。そう、何ならば非人情とでもすればいい。どのみち、そんなことを気にする神経は持っていない。
 タオルをまとったままベッドに腰掛けた。ならばこそ、今は幸いである。そう、好期と言ってもいい。この数日で無理矢理にそれを為した幾度もの時間を思い、彼女は自分のことながらその無謀さに呆れた。
 すべてを計画した自分が、すべてをないがしろにしようとしている。
 ドライヤーで髪を乾かし終えると、彼女は再び立ち上がった。いっそのことこのまま黙ってベッドに倒れ込み、すべてを放棄して寝てしまおうかとも思う。不貞寝、という言葉の意味はよくわからなかったが、そうすることである人物から何らかのリアクションをひき出せるかもしれないと思い、そして、それは無駄だと気付いた。そう、なんという馬鹿な考えだろう。
 クローゼットを開ける。着るべき服は用意してあった。ここでは選択の余地はあまりない。無論買いに行けばいいのではあるが、彼女は既に自分が何をすべきか、何をしようとしていたかを思い出していた。
 服を着る。上下ともに簡素なそれは、最近の自分を鑑みても非常に珍しいほどに地味だった。だがそれも当り前である。そう、わざとそうしているのだから。目立つことが許されない状況で、服装を気にしてどうなるというのか。元よりそんなものに意味などない。感性が異なる相手に見られるとなれば、特に。
 そこで、ふと思う。だからこそ人は、同一性を求めるのではないか。異なっている相手、価値感、思考形態、理念、ポリシー……何でもいい、自らと違う他者の存在は基本的に不快である。それは間違いない。誰もが自分の意見を否定されれば、いい気分はしないものだ。反面それを受け入れ賞賛、あるいは賛同してくれる相手は快く感じるであろう。それはつまり、自分に近い存在を欲しているということだ。だがそれは、突き詰めれば自身そのものと同一となる存在を求めているのではないか。ならば、どうしてそれを自らに求めないのであろう。これほど理解しやすい存在はいないはずだ。ならばどうして、誰もがそうしないのか。
 彼女は鏡を見る。そこに、一人の女がいた。こちらを見つめている、存在。
 そう、できないのはなぜだろう。人は、誰もが独りだからだろうか。肉体が一つだから、自分も一つだろうか。それがもし、違うとすればどうだろう。いや、現実に違っているのではないか。
 自分はさっき、一つの肉体に多数の意識が付随していると考えた。それを突き詰めることができれば、そこには『論拠より答えを算出する自分』と、『答えを評価して欲しいと期待する自分』がいる。努めて冷静に見ると、その二つは明らかに別個の思念だ。前者はあまりにも冷徹で無感覚であるし、後者は転じて感情的で横暴だ。だとすれば、これに『答えに賛同し納得する自分』を加えることができれば、それでいいのではないか。求めていたものは絶対の評価などではなく、ただの賛同なのだから。
 そう、他者の賛辞を聞き、自分の答えが正しいそれであると判断、認識するのもまた自らの意識である以上、自身のそれを自身が満足できないはずがない。いや、他者のそれなど、どれだけ分厚いフィルターを通しているであろうか。誰もが偽りと詭弁、そして打算で動いているのだ。そんなあやふやで疑念に満ちたそれなどより、自らの思考によるそれは、どれだけ純粋で心地好いだろう。そうだ、自分の中の他者、とでも呼べる都合のいい存在がいてくれればいいのだ。それは絶対に自分を裏切らない。例え嘘をつき、侮蔑し、こちらに背を向けたとしても、自我を共用し自意識と共にある以上、いつかは必ず納得しわかりあえるだろう。そう思うだけで、心地好くなる。そうだ、そうなると、他者へ向ける期待というのはいかに脆く、恐怖と欺瞞に満ちていることか。
 そうだ、他人は何をするかわからない。今は親切でも、次は違うかもしれない。過去は過去でしかない。データによるそれは、100%には成り得ない。だから、怖い。
 そう、わからないことが、怖いのだ。
 足首まで整えたところで、彼女は残された手首を見やった。それは、ほんの少し前に何かを為した手だった。激情、まさにそれがふさわしいだろうか。自分か為したことではある。それは実感していた。感触も残っている。はっきりと、今も、この手に。
 私が、それをしたのだ。
 彼に、あの人に、それを。
 大好きな、あの人に。
 愛している。そう、それを断ずるに、もうためらいはなかった。
 私は、彼を愛している。心の底から。
 いつからかはわからない。出会った時は、違ったと思う。いや、明確にそれを否定できる。
 なぜなら私は、悪意を覚えたのだから。いや、それも正しくない。もっと正しくは……
 首を振った。自分の思考を、その飛躍を今は恐怖する。いや、それだけではない。そもそも、自分が理解できない。
 どうして?
 理解できない。
 どうしてそうなったのか、やはり、理解できなかった。
 首を振った。そして、意を決してそれを取り上げる。
 手にしたのは白い手袋だった。それを両手に填めた。極めて薄く創られたオフホワイトのそれは、数秒もしない内にしっくりと肌にフィットする。
 準備は完了した。彼女はクロゼットの小さな鏡で自分の姿を確認すると、それを勢いよく締めた。
 そのまま戸口に歩く。息を整え、外に出ようとして……そして、多くのことを忘れている自分に気付いた。
 苦笑する。何が準備完了だ。まさに、頭隠して……とは、このことではないか。
 クロゼットを再び開ける。さっき脱ぎ捨てたドレスの中から、目的のそれが覗いていた。微笑し、それを取り上げる。
 ダブルベッドまで戻ると、彼女はサイドテーブルの小さな引き出しを引いた。そこにあるケースを開けて、先週購入したばかりのサングラスを取り出す。さらにもう一つの小道具を見つけてから、おもむろにサングラスをかけた。
 たったこれだけで、世界が変わる。その陳腐なイメージに笑い、そしてふと気になって、自らの手を見た。
 それは、フィルターがかかったように冷めていた。琥珀のように、淡くはかない色に染まった世界。
 だが、どうしてだろう。薄く、赤く、見える。光のせいだろうか。歌のように、光を抜けて、自らのそれが透けているのか。
 首を振り、彼女は今度こそ部屋を出る。今は行動すべき時だ。時間はあまり……いや、ほとんどないはずだ。
 やはりというか、エレベータホールに着く頃には彼のことが気になった。だが、今はそれよりも重要な目的があると自分を納得させる。こういった時、彼女の気持ちの切り替えは驚くほど早い。
 船内に人は多かった。無論、今日に関わらず初日からこうであったが、今の彼女にとってはむしろ歓迎すべきことだった。そう、なによりこの姿で活動しやすくなる。
 彼女を含め数人が乗り込んだ大型のエレベータが上昇する。そして止まり、扉が開いた。彼女は降りる旨を言わずにそのまま素早く降りる。他にそのデッキで降りる者はいなかった。背後で閉じるまで、そのままでいる。そして、エレベータホールを見回した。都合のいいことに、無人である。
 船首方向を見定めた。十分も歩かないだろうと計算する。それでもかなりの長さだったが、この客船の複雑な構造では仕方がない。彼女の頭には、既にこの客船の克明な見取り図が展開していた。そこから、最適なルートを利用する。
「お客様。」だがしかし、五分も歩かずに船員に呼び止められたのは計算違いだった。通過しようとしていたプロムナードでの、いきなりの遭遇。「大変失礼ですが、ゲストカードを御提示願えるでしょうか。」細い目の男。彼女は少なからず驚く。この相手が誰か、知っていたからだ。
 そう、この船の保安主任。そして加えれば、もう一つ重要な肩書きがあった。この男は、この船でおそらく三番目に高い地位と権限を有している。名前は確か……そう、深町俊樹。年齢は四十五歳、国籍はアメリカ。
「あ、はい……ごめんなさい。あの……な、何ですか?」戸惑い、動揺している風を装った。経歴から見る相手の技量を考えれば、それをするのは極めてスリルのある行為である。
「いえ、実はこの先の一区画で、機械的なトラブルが発生しておりまして。現在、お客様の使われるゲストカードの認識に不都合が生じているのです。その為に失礼ながら、この1番デッキを御利用される方には、個々にスチュワードが御案内するようになっております。お客様は、臨時放送をお聞きになりませんでしたか?」
「あ、いえ……」彼女は少しばかり状況を修正する。それを下したであろう事情も推測し、少なからず感心した。確かに効果的だ。いや、彼女にとっては甚だ問題なのだが。「すみません。私、お風呂に入っていて……」それは嘘ではなかった。今となっては、無駄な時間を浪費したかと思ってしまう。「あの、私、別のデッキの者なんです。こちらのデッキに知り合いを尋ねて来て……」これも、厳密に言えば嘘ではない。
「なるほど。申し遅れました、私は船内セキュリティの深町と申します。重ねて失礼ですが、貴女のゲストカードを拝見させていただけますか?」丁寧な詞と違い、深町の口調は強かった。いや、むしろその度合を増したと言えるだろうか。万事休すだ、と彼女は思う。そう、今更のように自分のミスに気が付いた。まさに、してはならない相手への油断、である。
 瞬間、彼女は数種の手を考えた。甚だ危険なものから、自分に対して嫌気を覚える程度のことまで。だがやはりというか、最有力かつ最も効果的な方法は、最初に候補に上げた方法だった。
 彼女は決意する。仕方がない。ある部分のそれは、もう諦めるしかなかった。大事の前の小事、そんな使い古された言葉が浮かぶ。
「ごめんなさい。あの、私です……」彼女はサングラスを取る。目の前の男……深町俊樹の片方の眉が持ち上がった。核心を晒すために、彼女は頬にかかる髪をゆっくりと手で払い、相手をじっと見た。
「まさか……!」絶句、だろうか。その瞬間、彼女は自分の変装が完璧に効力を発揮していたと軽い満足感を得た。そう、彼はその道のプロである。しかも、事前に自分と逢っているのだ。その彼ですら、今の自分に気付かなかった。「いえ、その……失礼しました。ですが……」何事かを口にしようとして、そしてためらう。「その……お嬢さん?」
 深町俊樹は堅物に見えて、実は滑稽な人物なのかもしれないと彼女は思った。いや、滑稽という形容より、愉快というその方がいいだろうか。とにかく当初は鉄面皮の如き印象だった彼が少なからず動揺するのは、まさにさっきまでの自分の窮地を仕返しできたようで心地好くはある。
 だが。彼女は瞬時にその思考を払った。今は、そんな余裕はない。遊んでいる場合ではないのだ。
 再び髪を払う。「話は聞いていますね。」彼は頷いた。彼女は微笑する。「ならば、今は私に行動の自由を下さい。このチャンスを逃す訳にはいきません。今回の機会がどれほど希少なそれか、理解できない訳ではないでしょう?」彼の顔が険しくなる。その表情に、彼女はさらなる好感を覚えた。先程といい、相手から受ける緊張感が自分は好きなのだろうか。それは新しい発見かもしれなかった。
「わかっております。」低く、頷く。「残念ながら、私は表立って御助勢はできませんが。部下も、何も知りません。あくまで私個人です。申し訳ありません、お嬢さん。」
「私が望んだことです。」彼女は微笑した。「目的を達するためには、最大限まで注意を払わねばなりません。」そう、ここで名乗り出るつもりはなかったのだ。例え、この計画の協力者であっても、である。「リスクは承知しています。それに……貴方が私の行動を見逃してくれる、それがどれだけの助けになるか。ここではとても言い尽くせないほどです。」深町は無言で頷いた。その瞳には彼女に対する様々な感情が過っていた。同じ瞳を、見たことがあると思う。見慣れている、かどうかは考えない。「すぐに戻ります。今は、少しだけ時間を下さい。」
「わかりました。五分だけ時間を空けます。それが、今の私にできる最大限です。」彼女は頷いた。多くはないが、それで十分である。「ですが、もう一度だけ確認させて下さい。」彼女は男を見る。「本当に、そのようなことが起こるのですか?」
「起こるのではありません。既に起こっているのです。」自分自身で、その言葉を噛み締める。「残念ですが、発生してしまったことを回避することはできません。私達には、過去の改竄は不可能です。ですが……」ゆっくりと、息を止める。「……あの人には、それが可能なのです。」
 見上げた先の深町は、わずかな間を置いて頷いた。「わかりました。三十分……いえ、あと十五分もすればこのデッキはセキュリティで埋め尽くされるでしょう。決して時間をお忘れなきよう。」彼女は頷く。「では、こちらへ。」
 深町が早足で歩き出す。彼女も続いた。やがて、前方を進む深町が、こちらを手で制する。彼女は素早く、近くの隔壁に身を滑らせる。客室前の通路を照らす照明の影になったそこに隠れると、深町が先へと歩いていった。そこで、何事か話している。英語で指示を出しているようだ。そしてそれを了解し、早足に立ち去る数人の足音。
 彼女は顔を覗かせた。船室の扉がいくつも並ぶ区画へ続く場所で、深町が細い瞳をこちらに向けている。軽くその首がしゃくり上がった。彼女は影から出ると、努めて早足で歩き出す。深町はそこに立って、彼女の来た方角を睨んで不動の姿勢を取った。それだけで、どうすればいいかが理解できる。
 深町の脇を通り過ぎる。顔を見ることも、礼を口に出すこともなかった。本当に自分がそれをしたいのか、それも考えない。今はそれより、別のことに彼女の意識が集中していた。そう、時間はない。あと五分。
 目的の部屋に到着、部屋番号を確認するまでに三十秒かかった。ここに間違いない。
 一呼吸置く。時間はないが、焦ればそれだけ結果として時間のロスとなる。
 そして、彼女は詞を発した。
 扉が開く。何と簡単だろう、と思った。だが、感心している暇はなかった。
 いや、そんな意識を活性化する余裕はなかった。
 それに気付き、瞬間、眉をひそめる。同時に、今の自分が非常に危険な状態にあることを理解した。そう、既に選択を躊躇する時間はない。彼女は神速と呼べる判断を以ってそれを決し、部屋の中に飛び込んだ。続け様に詞を発する。背後で扉が閉じた。
 暗黒、だった。予測できたとはいえ、部屋の中はまったくもって暗い。天気のいい昼間とは思えなかった。だが、今彼女の感覚が割れ鐘のように伝えてくる不快感に比べれば、そんな思いなど何ら問題ではなかった。もしも彼女が事前の心構えをしていなかったら、とっくに嘔吐し足下の絨毯の上に屈していたと思う。それほど、その状況は凄まじかった。
 目を瞬かせる。何も見えない。まさに、この部屋は眠っているのだ。そう、形容的にも何も間違ってはいない。彼女はそう考えて理性を保つ。時間はあと三分半。
 それを取り出した。あらかじめ用意してあった、小さなターボライターである。電子的な要素が皆無な機器。こういった状況では、最後にこんな原始的な存在が勝利するのかもしれない。ふとそう思った。
 構える。既に火力は最大に設定してあった。事前に効力は試しており、部屋の天井を焦し、スプリンクラーを作動させるまでには至らない。少し臭いが残ることが気がかりだったが、この部屋の状態では、既にそんなことを気にする必要がなかった。
 そして、彼女は、点灯させた。

 きっかり別れて五分後、彼女は歩哨の如く廊下を見張っている深町の元へと戻ってきた。長髪がやや下向きかげんな表情を隠し、その面は窺えない。深町は姿勢を正して彼女を見ようとしたが、瞬間、彼女は首を振ると、黙って男の横を通り過ぎた。そして、それだけで彼には十分なサインとなる。
 直後、小さな電子音が深町の胸で鳴った。立ち去る彼女は当然それに気付いたが、振り向くことはなかった。深町が話し始め、そして、去り行く彼女とは別方向に向かって小走りで歩き出しても、彼女はもう気にも止めなかった。
 回廊の果てに、小さなホールがあった。かなり大きな消火栓と非常口がある。防火扉と対になるそれは、通常時は使用できないものだ。そこまで来ると、彼女はゆっくりと詞を発した。低く、抑揚のない、乾いた言葉だった。
 扉を開ける。非常階段がそこにあった。船の白い外壁に取り付けられており、遥か下には甲板が見える。海は青く、空はとても美しかった。だが、彼女がそれを見ることはなかった。
 扉を閉じ、非常階段を降りる。いや、そうしようとして、彼女は手すりに触れかけた手を止めた。
 じっと見つめる。細い指先だった。白い手袋で隠れた、そこには自分の手がある。あるはずだった。彼女は、じっとそれを見つめる。
 それは、にじんでいた。
 何か、濃い色を以って。
 ゆっくりと、手を握る。感触が思い出された。再び感じた、感触だった。もう二度と、感じたくなかったそれだった。だが、それはまた、再び彼女の元を訪れた。
 一年、だろうか。ちょうどではない。概念的には、二年であると言ってもいい。
 だが、それはまるで昨日のことのようだった。
 あの時も、海は青かった。空も、白かった。
 そして、彼女の手は、
 赤く、染まっていた。
 
 


[354]長編連載『M:西海航路 第二十六章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時13分 Mail

 
 
   第二十六章 Monitor

   「私、それを見ていましたの」


 彼は、ずっと動けなかった。
 動かなかったのではない。動けなかったのだ。
 爪先から指の先まで、まったく動くことができない。
 それは、静止とも呼べる状態だった。
 彼にとっての時間。
 それは、止まっていた。
 勿論、そんなことはあり得ない。
 時間は個として存在し得ない。それが停止することはない。象徴的な意味として、劇作家の詞に登場するだけだ。
 現実として、絶対に、そんなことはない。
 誰の時間だろうが、どこの時間だろうが、止まることはない。
 そんなことは、あり得ない。決して、ない。
 だが、それは本当だろうか?
 時間は、止まる。
 命は、永遠。
 人は、わかり合える。
 それらすべては、不可能なことだろうか?
 そんなことは、わからない。
 そう、わかるはずもない。
 だが、それでも。
 彼は、止まっていた。
 いや、違う。
 二つは、同一ではない。
 彼は、違う。
 彼も、止まっていた。
 だが、違う。
 彼は、動かない。
 もう、動かない。
 二度と、動けないのだ。
 流れ落ちた鮮血が、床を染めている。
 美しかった室内は、血で汚れ、鼻をつく臭気が漂っていた。
 誰もが、顔を背ける。その場の状況は、それほど凄惨だった。
 事切れた彼を、誰もが注視する。
 もう、二度と目覚めない。
 もう、二度と動かない。
 彼は、死んでいた。
 そして、悲鳴が、あがった。

 話はさらに、ほんの少しだけ時と場所を移す。
 その部屋は、静寂に包まれていた。
 ほぼ一系統の色に塗り込められた一室。広くはないが、だかそれはこの場を利用する者の環境への依存度から鑑みて、十分すぎる程の大きさだった。
 部屋の主たる個人は、鎮座して動くことはない。これがその人物のスタイルであり、それはこの数年、いやおそらくはもっと遠い……そう、十年という単位で括れる遥かな昔から変わることがなかった。無論その人物とて人類として定義される生命体の一員であるから、衣食住に必要な最低限の活動は行う。だがその最低限というラインは、およそ世間と呼ばれる一般的範疇から見て想像を絶する程度の低さだった。けれども絶世の想像、というラインもまた一般的な……言い方を変えれば、俗世の人々の意識としての漠然とした形容、すなわち定義であり、ここに座す人物に近しい職種……あるいは周囲の人々にとってはそれすらそこまで異常、という訳ではなかった。
 それで生きられるのだからそれでよく、それ以上は別にどうでもいいのだ。生活というものは個人で別々であるのが当り前で、個人のそれに常、つまりは一般的、という生活スタイルを要求するのは最悪の暴力に近い、そうその人物は思っていたし、正常という言葉は人それぞれであるのが当然だろうとも思っていた。要するに、人は一人一人違うのだ。それにつき日本のある大学の研究者が執筆した本をその人物は読んだことがあったが、それもまたおおよそで同じ結論に達していたはずである。
 とにかく彼……(さて、ここからは前章と対照的に、その人物のことを『彼』、と形容しようと思う。だがそれは決して、その人物の生物学的性別が男子、であるという事実や根拠を示唆しているのではない。無論その人物が男女どちらかの姓を有していることは人類である限り押して知るべしであるが、別の範疇から見て男女のそれというのもまた一つの形容、つまりは定義に過ぎないのであり、加えれば古来より『彼』、という言葉は男女に関わりなく用いられたといういきさつを持つ。Man、という言葉が男子だけを表さないのと同じく、それにWoをつけることで女性のみを示す言葉となるなら、彼に女をつければそれは女性のみを表す形容となる。特にこの事実に際し意味ありげな記述をするつもりはないのだが、もしもこの章における記述が気になる方がいたとすれば、前以って注釈されたということをほんの少しだけ気に止めて置いていただきたい。とどのつまり、男女の姓の表記の有無を気にされることは決して本意ではないし、それに気を取られてはいけない、とも思うのだ。だがそれも結局は作者の私意的な考えであり、決して強制されるべきものではないが、ここにあえて書き留めておく。)
 とにかく、その人物こと『彼』は今、デスクに座したまま一服を終えたところだった。だがそこでふと、自分に喫煙の習慣がいつからできたのだろうか、と思う。世間一般の範疇からすればごくごく最近、つまりは自分が若いという自意識を捨て(そんなものが本当にあったとすればだが)、年老いた、つまりは大人になったと認識してからであろう。そう考えて、そしてその思考を直ちに捨てる。次にそれから派生したいくつかの問題に少しばかり気を配るが、それはそうしてみた瞬間に無意味なものとなり、また捨てられた。今はもっと重要なことがある。
 とにかく、人は違うのだ。そう、人は誰でも違う。だがそれでも、違い過ぎる、とまでは彼は結論付けない。なぜならそれこそが今現在における彼の命題であり、研究の最大のテーマでもあったのだから。どれだけ人は違うか、その上限と下限を見極めること。それが昨今彼が最重要のテーマとして考察し続けていることである。勿論それだけではなく、常時三桁に近い題目が彼の心中に常駐していたが、もっぱら見回すに最大のものはそれだった。そして結果、その問題は植物の根の如く彼の中の複数の問題へと伸びて分岐し、非常に多くの結論に対して関連性を得、今では相当な比重を有するまでに達していた。だがそれは鑑みればほとんどすべての問題がこの大命題を基点としており、つまるところそれ以外はどうでもいいとも言えただろう。彼自身の興味を含め、この問題だけが唯一、些末ではない、と断じられることなのかもしれない。
 彼はそう思考し、くわえた煙草を大きく吹かしてゆっくりと椅子でくつろぐ。この椅子は長年使い慣れたものだった。勿論今の職場がかつてのそれと意識的及び物理的な位置として場を違えている以上、腰掛ける椅子もまた別の物である。だが、それでも同じ材質、製造過程を経た物を注文し彼自身がその座り心地に満足している以上、それはまったく同じとして許容し納得するに足りた。
 そう、それもまた彼にとり大きな研究テーマである。先程挙げた個々の人間の差違の度合と同じく、ここしばらくで非常に重要度を増したテーマの一つ。それはある種、イミテーションの研究とも言えた。つまりはレプリカ、コピー……そう呼ばれる個体に対する観念の研究である。つまるところすべてが一つしか存在し得ないこの世界において、人はどれだけ複製のそれを認め許容できるか、であった。
 これは、彼が最も得意とするいわゆる電脳空間的な分野……つまりはコンピュータ・ネットワークを環境の基準として個人が存在するであろう近い将来において、最大の比重を占めるであろう事柄だった。今現在の彼の考察では、精神的及び物質的なあらゆる媒体の中で、電子的な処理の中にこそ最も高純度の複製が存在し得る。おそらくは人類の文明が始まってから、これほど個々が近似的、あるいは相似的な領域はないであろう。それがあまりにもわかりやすくそうであったために、研究者達は発祥以前からこの領域における個々を識別、もっとわかりやすい言い方をすれば、『区別』することに集中しなければならなかった程だ。こんなことはまさに人類の歴史が始まって以来のことである。だが、彼にしてみればそのすべては無駄であり、無意味なそれであった。ただ無意味なだけならば良いが、愚かしくも構築されたそれらの旧態依然とした意識と集団的概念は彼の研究にすら少なからずの影響を及ぼしていた。それを構築するためにどれだけの労力と時間が費やされたかと思うと、彼には言葉もなかった。まったくもって、嘆かわしい。
 なぜなら、確実に個々は違うのだから。電子の領域に限らず、それはすべてにおいてまったく違う。間違いなく、絶対に、個と個が完全な一つになることなどありえない。相似は相似であり、同一であることは決してない。数学的分野において算出された数式が持つ完璧な定理の如く、すべからくその一つ一つは個々の、それ固有の絶対的な存在としての意義を保有するものだ。疑わずとも自身はあり、自己はあり、存在はあるのだ。それが絶対的な真理として永遠にまかり通る世界において、個々の識別法を模索し、あまつさえ無理矢理に確立しようと懸命になるなど愚の骨頂である。100%確実に別個であるそれらをどれだけ近しく、そう、類似的な意義を以ってあるままに比例させることができるか、その行為にこそ最大級の価値があり、惜しみなき労力を費やすべき人類の大命題ではないか。
 そう、自分は自分であり、決して今目の前にいる他人ではない。自分は誰でもない、それがこれほど明解にわかっていて、どうしてそんなことを自己以外のすべてに求め、あまつさえ強制的に押しつけようまでとするのか。個、としての自身がいるならば、他、としての存在が残るすべてである。そんなことは四千年も前から自明なのに、どうして今更、個々の存在をやっきになって主張しようとするのだろう。ようやく人類が長年夢見た原始とも言うべき最大かつ最後の開拓地に手をかけることが可能となったというのに、そこに至り繋いだ手を放し逆行するが如き行為を必死に奨励するというのはどういうことか。
 けしからん、とでも言いたげに彼は手にした煙草を消した。黒い飲料を入れた緑色のカップがある。それを手にして少しだけ飲んだ。
 勿論研究者を自認する者として、彼もまたその『無駄な常識』とでも言うべき人の感性が大きな問題だとは理解している。一度手に入れた物を手放すことを惜しむ慣習がある以上、現在の……個々を名前やその他おびただしい無意味なデータによって区別する生活環境を好み、均一としての思考及び存在世界を拒否、あるいは反発する者がいるのは当り前だった。だが、それを許容し乗り越えたと自身を騙すことによって他への拒絶感や自身の敗北感を抹消するように、この問題も将来的には必ず解決されるであろうハードルではあった。何よりも人の存在がそうではないか。誰もが自己の確立を口にしながら、その実ありとあらゆる手段で自己以外の存在、つまりは『他』を己に取り込もうと日々やっきになっている。精神、肉体……いや、経済や環境、と言った方がいいだろうか。あらゆるカテゴリーで人の歴史は常にそちらに大きく傾いていた。それはどう考えても矛盾しているが、だが歴史というサンプルを顧みた結果として、どちらが人類が本当に欲してきたことかは明白だった。そう、行動は言葉より雄弁、である。
 ともかく、彼の研究は続いている。今はそのクライマックスと言ってもいい。研究段階の一つとして、彼はかなり大がかりな実験を行っているところだった。それは昨今滅多に喜怒を生じなくなった彼の意識にとって最高に快い瞬間の連続でもあった。エンジニアとしての一面も持ち、それで糧を得ることの多い彼にとって当然のことだったが、己の理論によって描かれた設計図によって『結果』が組み立てられ、現れていく様は実に面白い。まさに休日に大の大人が模型工作に励むように、彼にとりここ数日はまさに充実した時間だった。それが最終的に是となるか非となるかはいわば彼の中では二の次であり、そのプロセス、得られる高揚感こそが貴重だと思う。
 そう、昔から彼の仕事はずっとそんなことの繰り返しだった。時間を費やして研究し、生み出した物は、その時点で彼の手を遠く離れ、他人……つまりは彼以外のすべての物となる。勿論研究者として生み出された物の行く末など自明であったし、その後を気にしても仕方ないとわかってはいたが、結局は達成してなお彼の中に残るような物は一片もなく、翌日からは新たな問題に向けて押し着せられた如き別の研究を始めるだけであった。それは終わりの虚しさというにはあまりに漠然とした私的な感覚であったが、それもまた彼は今までの人生と呼ばれる期間において既に味わい尽くしていたし、今更、他のことを始める程の気概は(そして、確実に加えるならば時間は)もうなかった。ならばこそ、自分の物である研究過程こそは最大の娯楽であり、楽しまねばならない。それは彼のささやかなポリシーであり、主義だった。
 新たな煙草を取り出して火をつけると、彼は続けて三つの問題を片付けた。それぞれ緊急として持ち上がって来た……つまりは彼の元に届けられた物だが、彼にしてみればそれは馬鹿げているほど幼稚で歪雑な、いわば無価値すぎる問題だった。一つなど、わざと間違ったまま送り返してやろうかと思った程だ。だがそれもいささか大人げなかったのでとりあえず九割ほどのルーチンをフォローしてリプライする。半日もせずに同じようなトラブルが発生するだろうが、担当者がその理由に気付かず、またおうむ返しに自分のところに送ってきたら問題である。その時には間にいるスタッフを呼びつけて担当者の是非を問い正さなければならない。結果として関わった者全員を排することになるであろう。そういう意味ではこれは無宣告のテストとも言え、彼は同じようなことを時々行っていた。そう、完璧なものを返すことは、決していいことばかりではない。
 短くなった煙草を足下のダストシュートに放り込むと、彼は息を吐いて首を傾けた。疲労はないが、高揚感が足りない、と思う。充足しているのは事実だが、取るに足らないことが多すぎる。望んでいるのはもっと大きなケース、いわば真の意味でのトラブルであった。その考えは彼の持つ実験の完遂を期待する意識と比較して明らかに矛盾しているのだが、この場合はどうしてかそれが彼の中での正解となる。そう、あえて言うならば虚数を混ぜた計算式のようなものだ。おそらく彼以外のすべてはそれを認知してはいないが、彼にとってはそれが正しいことだった。つまりは決して見えないはずの結果を見る、それをじっと待っている……とも言えよう。
 いや、切望している、だろうか。否定の意味で彼が出した結論が復す、いわば発信者であるこちらに呼び戻されることを、彼は心の底から願っていた。もちろん心の底、という形容もまた漠然としたイメージに過ぎない。心には上も下も、内も外もない。そこには混沌とした意識の数々が、思考の指標として無節操に転がっているだけだ。そこから必要となった物が取り出され、必要ないものはいつか忘れ去られ、捨てられる。意識しない記憶の損壊や喪失は彼にとっておよそあり得ない話だったが、それでも努めてそれを為し得ることはできた。ようするに不必要な項目としての意識、つまりは記憶の修正、削除である。 
 この思考能力のことを告げるとほとんどの者が彼の異常性を返事に示唆した。だが彼にとりその指摘の根拠はあべこべだった。意識というものはそのすべてが知識であり記憶である。視覚や聴覚、感覚を介している以上それは100%確実なことだ。そして人は誰でもそれを……記憶を自ら忘れていくではないか。ならば、意識的に記憶が消去できないはずがない。恐ろしいホラー映画を見た後は一人で歩けない、というのは映画を見た恐怖の記憶を再生し脳裏で鮮明にしたくないからである。暗闇が恐ろしい、というのは暗闇の中に得体の知れない害意を持つ他者が存在している、というイメージを頭の中に構築しているからであり、そこに入ることができない、というのはその意識を何とかして忘れようと自制心が壁となって発現しているからであろう。そう、誰にも嫌いな飲食物はある。それを食べない、あるいは飲まないというのは意識が記憶しているその『嫌いな味』を『まずい味』、つまりは無駄なそれとして変換し、価値のないものとして定義するためではないのだろうか。そしてそれらは、決して知識や経験に基づくものではない。誰でも知らないものには少なからずの不快感を示す。未経験、未知とはそれほど恐ろしいのだ。その最大かつ最悪のものとは他人であり、記憶である。だからこそ人はすべてを変革し、自らの記憶、つまりは過去を改竄しようとするのではないのか。
 つまりは、誰でも常に自分の知識を操作し続けている、ということである。それはすべて、自分にとって都合のいいように、という人間本来の欲の為せる産物なのだ。ならば、誰にでもそれは可能なのであり、口でどう言おうと現実として行っている、ということだ。ただ、それに気付いていない、あるいは意識的にできない、していないと思い込んでいるだけであろう。つまり言い方を変えれば、そうである『ふり』をしているだけだ。
 新しい煙草が必要になった。前回睡眠を取ってから吸った煙草の数に照らし合わせ、少し吸いすぎだな、と彼は思う。ならばこれで止めようと思ったが、前回同じように考えた時はそう思って吸わなかったことを思い出した。ならば、今回は吸うのが自分にとって『正常』である。彼は新しい煙草を取り出し、それに火をつける。
 結局のところ、自己にすら複製が存在する。いや、自己の意識、にすら。それに比べれば肉体というものの複製という問題は遥かに稚拙な問題であり、取るに足りないと言ってしまえる。だがその反面、自我、あるいは自己意識というものは、その個性の画然さに比して非常に複雑難解である。そう、真の自己というものは普段、決して表層には出てこない。この場合の表、という概念は他人に対する自己とその振る舞い、であり、押しなべて思考する基盤となる漠然とした判断の根拠であった。
 上司に対して媚へつらう部下がいるのと同じく、他人に対して都合のいい自分を演じる人間は多い。いや、多いというよりもそれはほぼ大多数の人間が程度の差こそあれそうである。それらはほとんどの場合私、つまりは個としての自分の利益のためであり、人が生存という生命体としての本位を旨とする有機体の一種である以上、決して非難するような事柄ではない。何しろ、意識としての個々の中にすら別の自己が存在し、その極めて似ているが実はまったく違う自分自身達が、常に嘲笑と侮蔑を以って『仕事をしている自己』を批判し続けているのだ。それは他人に媚を売りへつらう人間を目視した者が感じる憤りとほぼ同じものであり、つまりは自分を差し置いて形成されている『他』への妬みと不快感の産物であるのだろう。だがそれもまた結局のところ、人が自ずから保有する『ふり』をしている、集団的心理の一形態である。
 だが、彼にとっての命題であり最大のテーマである個々の差違、近似の度合いというものに対して、これほどやっかいな障害はなかった。すべからく他者、あるいは自身にすら仮面を使用する個人の中核となる真の意識……つまりは自我とでも呼ぶべき部分に対し、同じ人としてそのカテゴリーに含まれる研究者自身がどれだけ迫ることができるのだろうか。いや、肉薄、という言い方がふさわしいかもしれない。つまり、人は人としてどれだけ他人の意識に肉薄することが可能か、という問題である。勿論それに対する備え、対策の研究は行っている。この実験は、そのためにあると言ってもいい。つまりは、個人の本性を見極めるために最も都合のいい状況を作り出せばいいのである。
 人が意識して自身を構築するのは、つまるところ自己とその周囲の状況に対して、である。そして今回観測するポイントが集団の中における個人である以上、現在彼が見つめるこの『船』の環境はかなり有意義であった。勿論、欠点も多い。だが実験の常として前提となる定義の指標が必要不可欠である以上、人が生息する世界すべてをそのケージとすることはできなかった。それは人員と資材、そして技術的に相当に困難である。ならばその十万分の一程度とはいえ、外界から隔離された一つの社会とでも言うべきある環境を構築、設定し、その中で行われる個々の活動を観察する。それが今回、彼の出したプランだった。
 閉塞した環境における人類のエレメントデータの計測。一部の学者が喜びそうな、そんな仰々しい名前でもよかったかもしれない。彼はこれまで相当数の研究論文を執筆し学会で評価されて来たが、それらはすべて彼の名義ではなく別の人物の名によるものであった。それは彼が身を置いていた環境がそれを余儀なくさせていたこともあるが、第一に彼自身が名声などというマイナスの要素しか持たない物に端から嫌悪感を持っていたからである。それはマンモスの牙が一生涯に渡り成長し続けることに似ている。他者を排斥し自らを顕示する得物は欲のままに大きくなるが、過度に及べばそれは凶器となって自らを傷つけ、矛盾としか思えぬ結末を呼び込む。それと気付いた時にはもう遅いのだ。だから彼は以前より何かに自分の名前を冠することは好まなかった。世界と彼を包む状況が劇的に変化した現在に至ってもそれは同じである。それは例え、一部の研究者の間には彼個人が望む望まぬにも関わらず彼の名が絶大な効力を発揮し、まさに奉られているという現実と矛盾している。だがそれは結局、気にしても仕方のないことだった。結果としてそう思う彼らの認識は間違いではあるのだが、今更こちらから否定する気も起こらない。何しろ、それを知る者は彼以外にいない。自分の本意を誰に話したところで理解されないことはわかっていた。それが真の意味で理解できる者は、この地上にただ一人しかいないのだから。
 とにかく、と彼は自身の思考の数箇所の矛盾点に気付くとそれを修正し、必要な残り二つの問題を片付けて、その後で軽く首を振った。
 そう、楽しくて仕方がないのは事実だ。まさに、待ち遠しい。
 
 


[355]長編連載『M:西海航路 第二十六章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時14分 Mail

 
 
 そう思った途端、目の前のモニターの片隅に赤いメッセージが現れた。音による警告はなかったが、それに気付かない訳もなく彼は瞳をわずかに見開く。勿論そうする方がより劇的であろうという意識によるリアクションである。誰が見ている訳でもなかったが、それは彼にとって内面のそれをできるだけ補正しようとする、オーバーアクションであるとすら言えた。
 まさに今、待ち望んでいた事態が発生したのだ。
 いや、そうなるべくしてすべてを準備し、こうしてじっと観察していたのであるから、それは彼が引き起こしたとも言えるであろう。無論、彼はいかなる他者からそう言われようとも否定はおろか、おそらくそれに込められる彼へのおびただしい悪意、非難を顧みてすら一片の呵責として感じるところはなかった。それどころか栄誉としてそれらの声を受けたであろう。そう、それもまた理解される必要も希望もなかった。なぜなら、彼の中には彼らしかいないのだから。
 とにかく彼はデスクの左のモニターをいちべつすると、その前に並ぶキーをタイプした。結果を待つ数秒の間に、さらに別のキーを叩き、マウスでいくつかの項目を選択、プログラムを走らせる。途中で、一度だけ正面のスクリーン隅にある赤い文字を見やった。それは未だ消えない。どのみちそれがシステムのエラーによる誤報である可能性は極限まで低かったが、それでも確かめずにはいられなかった。そう、そんな無駄なことをしたがるほど、心が震えている。
 左のモニターに結果が出た。それを読むと、彼は満足そうにほほえんだ。続けて、もう一つの画面を見る。見慣れた文面による報告がされていた。返事は決まっていたので、数個の単語を並べて即座にリプライする。これで準備は終わった。いや、準備は既に終わっていたのだ。迎える準備、だろうか。いや、それも終わっている。つまるところは、相対すべきそれだろうか。そう、今こそ彼自身が動く時である。
 椅子のロックを外すと、彼はそれをゆっくりと引いた。時計を見るまでもなくかれこれ八時間近くこうしていたことがわかったが、それは別におかしなことではなかった。勿論人としての小用は足している。ある意味では自分自身もまた閉塞した空間にいる訳であり、それを彼自身もわかってはいた。だが、自身をサンプルにしてはいない。なぜなら、そんなものは既に自明だったからだ。言い方を変えれば、過去において嫌というほど観測し、手にしていたからである。今更、自らのデータを取る必要はない。
 立ち上がる。無機質な大型のワークステーションに埋め尽くされた室内は、子供の頃に一度だけ見た児童用の漫画に出てくる研究室のようだった。その時にも何も感じなかったが、今その場に存在しても何も感じない。彼は近代的、という形容あるいは思想を真の意味で理解できたことは一度もなかった。だが、懐古的だ、という言い回しならよく理解できる。それは矛盾かもしれなかったが、誰にも未来の記憶がないのと同じく、彼にとっては別に不自然ではなかった。第一、である。ノスタルジーという言葉は、響きが奇麗ではないか。
 ほんの少しだけ歩き、軽く手を挙げる。彼はこの八時間で唯一の言葉を発した。手を挙げる必要はないとわかってはいたが、やはり身についた癖というものはなかなか抜けない。勿論意識してそれを排除することはできるが、彼はあえてそうすることを止めていた。合理的なものがすべてにおいて優っているとは限らない。そう、人間臭い行動、というものが便利、あるいは必要とされる時もある。常に完璧を突き詰めることほど意味のないことはない。それは、必要であるから不完全で、不完全だからこそ効果があるのだ。
 外に出た。退出するのは何と簡単だろうか、と彼はつくづく思う。入るには想像を絶するほどの時間と用意が必要なのに、出る時にはまるで何もないと断ぜるほどの障害しかない。まさにそれは逆説的、だと思う。そう、実にあべこべだ。本来すべては、その逆のはずではないか。もっともそれは、内と外という概念を仮想しての場合だ。内へ解放され、外へ抑圧されることもまた多い。ならば自分はどうかと考えて、確かに眼前にネットワークを有していない今は閉塞しているとも言えるであろうと結論する。そう、人は動くことによって自らを狭める。それが本来の『行動』という行為の目的だろう。
 狭い廊下を歩き、彼は別の部屋へと入った。小さな部屋で、デスクに腰掛けていた人物が驚いて立ち上がる。彼は手を挙げて、それ以上の行動を抑止した。もっともあまり役には立たなかったようだ。その人物……年齢二十七歳、男性……は彼の前で頭を何度も下げると、何やら興奮した口調で何事かを喋った。それはおそらく彼に対する何かの私意を詞にして表したもので、加えるならば独善と断じられる恣意をおびただしく含んでいた。彼は再び久方ぶりの口を聞き、その男性の言葉を今度こそ完全に停止させる。
 目論見はうまくいったようで、男は玩具の兵隊の如きにかしこまった態度となり、彼は部屋を出る。今の男が発した言葉は当然残らず記憶していたが、すべてにおいて何の価値もないと思い男の存在を含めて何もかもを記憶から抹消した。
 次の部屋は彼にとってなじみのある場所だった。勿論今の部屋もそうではあるのだが、機能としての力を持つ場所とそれを繋げる場所のどちらが重要かとするのならば、それはやはり本体であろう。それは結果よりもそこに至るプロセスを重要視する価値感と矛盾する、と彼は思う。だがそれを考えることに集中するよりも先に、眼前に急がねばならない問題があった。とりあえずそれが今は最重要と定義する彼は、そちらを進んで思考する。
 部屋には四人のスタッフがいた。この比較的大きな部屋は総勢十四名のエンジニアが利用し、その内の五名による八時間の交替制によってこの部屋で勤務を続けている。それが彼の定義した最小限にして最も有効な作業形態で、同時にここにいる者達はすべて彼自身が選抜した研究者達だった。優秀、だろうとは思う。皆、世界各国の研究機関でトップ(かそれに近い場所)にいた者達だ。勿論足りない部分も各人に多々あったが、それを各々の得手とする能力で補い合うように配置してある。それは同一性の研究、という彼のテーマの一環でもあった。すなわち法秩序や倫理観、あるいは敵愾心とでも言うべきものが衝突する中で、彼ら一流を自負する人材が互いにとりどれだけ近寄れるか、である。
 目下のところ、それは彼にとって有用な結果を出していた。そもそも、ひいき目に見ずとも彼らは優秀である。無論日々意見の衝突は起こり、互いを非難するにまったくもって自制が効かないのは子供のような連中であったが、それはむしろ彼としては奨励したい程のことであった。道義や倫理を重んずる者など必要ないのだ。第一に能力であり、そして、それ以外はほとんど価値はない。勿論彼らの担うデータの重要性に比して、セキュリティの心配という面はある。だがそれも彼にとっては解決済みの問題であった。図らずも彼らの研究テーマが、彼ら自身を束縛しているのだ。それに真の意味で気付いている者はこの十四人のチームの中でも数人だろうと彼は推測していた。だが、それを乗り越えてなお私欲のために動く者がいて欲しいと彼が思っていることは誰も知らない。そう、それは今の実験の目的と非常に酷似していた。
 案の定、まがりなりにも自分達の上司でありこのプロジェクトのリーダーでもある彼が現れても、その出現に注意を払った者は在室している四人中、一人だけだった。他はドアの開閉音すら聞こえなかったかのように自らが占有したデスクでシステムに向かっている。わざと背中をつき合わせるような配置をしている訳ではなかったが、彼らの背中が一様に他の研究者達との交流を拒絶しているように見えて彼は内心ほほえんだ。そんなことをしなくとも、自分達はそれぞれ違うということがわからないのだろうか。それとも、わかってなおそうしてしまうのか。
「あの、チーフ……」一人の研究者が彼に近付いた。唯一、自分に気付いた人物である。二十三歳、女性。当り前だが、彼女の名前と素性その他も彼はすべて記憶していた。スタッフの中でも若い方で、同時にかなりの才を持った人物である。彼は努めてにこやかに彼女に相対する。
 最初は現状の報告だった。要求していないにも関わらず自分にそれを報告するのは私意としての利己の現れだろうが、そういった姿勢も好ましいと彼は表立ってにこやかにそれを了解する。続けて彼女は二つ三つのほとんど意味のない事後報告をした。それについて軽く二言三言を返すと、彼女は不意に奇妙な仕草をして彼に近付く。
「あの、チーフ……」最初に言葉を発した時とまったく同じ台詞で彼女は彼に切り出した。何も語れとは言っていないと思う間もなく、彼女は非常に特徴的な物言いで彼にある事柄を報告する。それは彼のスタッフの一人が現状に関して不平を吐き、別のスタッフと喧嘩になりかけたという話だった。加えればその話の中心には彼の話題があったという。彼女は名前を告げずにそれを話したが、聞くまでもなく誰の話かは予想がついた。「……すみません。でも、私、チーフが心配で……」使う必要はないのに丁寧な日本語で彼女はそう言うと、心持ちわずかに自分の身を彼に近付けた。何とも形容し難い表情である。少し熱でもあるのかもしれないと思い、そして彼は首を振って笑顔を見せた。なに食わぬ顔で彼女の侵攻を食い止める。
 この二十三歳の女性がおよそ論理的に解明できない何かの恣意を自分に対して抱いていることを彼は気付いていた。それが人類社会を見ても非常に珍しくかつ変わった感性だということも彼は理解していた。だがそれこそ個性と呼ばれる自己確立のの定義として括れてしまう無意味な意識の最たる要素ではないか。自分のスタッフがどのような性癖、あるいは性的嗜好を持っていようが彼には関係なかった。能力としてのそれに滞りがあるのであれば考えもするが、そうでないならそんなことに構う必要はない。
 もう二言だけ彼は女性に対して言葉を使った。流石、というか当り前のことであるが、彼女は自身の立場を思い出し持ち場へと去る。その明らかに矛盾を抱えた表情と態度が彼には極めて好ましかった。万が一にも余暇としての時間があれば、彼女の誘いに乗って一風変わった趣向とやらを確かめてみる手もある。無論それがどういう過程を踏むか知らないはずもなかったが、考えてみれば、久しくそういった場に居合わせてはいない。
 入室して三分が過ぎた。大幅な遅延である。彼は本来の目的である空いた席に向かい、そこに腰を下ろす。直前まで使われていたであろう熱がそのまま残っていた。これをぬくもり、あるいは人肌のそれ、と形容する場合があることは知っている。だがそんなものは幻想であり、懐炉による暖などと何ら変わりない。ただそれをイメージすることによってそういった甚だ疑似的な幻想を形作り、その結果に心地好さやあるいは気味の悪さを感じたがる者がいるのであろう。
 そう、あまりにも無意味な思考だ。彼は苦笑してそれを払う。どうやら先の女性の態度が少なからず自身に影響したらしい。なるほどこれがこういった特例な事象の生み出す力であろうか、と彼は笑った。まったく、これが笑わずにいられるだろうか。
 デスクにはすべての機器がそのままに残されていた。当り前だがシャットダウンすることはおろかスリープされることもこの部屋の機器についてはありえない。常時すべてがフル稼動しているのだ。そのための部屋であり、いわゆる一般的な個人用コンピュータは各スタッフの私室に備わっている。勿論この部屋のシステムがいかに群を抜いて優れているとはいえ、考えてみればスタッフの部屋すべてに同機材を搬入、設置すればいいだけの話であり、そうなれば結果個人が部屋から外に出る必要などまるでないのだが、彼はあえてそれを無視していた。そう、それが必要とされる場合があるのだ。効率などよりも重視するべきことが存在している場合、である。
 シートにつくと、二つ三つの操作をしてあるプログラムを呼び出す。必要とされるものは既に用意されていた。先にこの席に座していた者がしたことであろう。何の感慨も得られないとはいえ、彼にとりそれはこの他者の能力を再認識させる一つの機会となった。そう、確かにその通りだ。完璧をむやみに求めても、いい結果になるとは限らない。
 一分もかからずにすべての準備が終了する。彼は時間を確認すると、何の気なしに部屋を見回した。四人のスタッフはそれぞれのシートで自らの作業に集中している。相変わらずその背中からは周囲を拒絶するピリピリとした空気が感じられた。それを今一度確認し、彼は満足そうに目の前のモニターを見ると、一つのキーを叩いた。
 当り前の音が鳴り、それを気にする者はもう誰もいない。
 ほんの少しの間を置いて、ゆっくりと立ちあがる。
 彼は、誰にも気付かれることなく部屋を出た。
 そのまま歩いていく。二つの扉をくぐると、いかめしい作りのエレベータ・ホールがあった。いつも通り、肩幅の広い二人のセキュリティが歩哨のように不動の姿勢で警備をしている。彼らがその題目と別に、何から何を守っているかは今更考える必要もなかった。勿論彼ら自身もそれをわかっているのだろう。とにかくこちらには見向きもしない。彼は黙してその間を抜けた。
 エレベータを待つ必要はなかった。瞬く間に彼は目的のデッキに到着する。エレベータホールには何人かの船員がいた。挨拶などという無意味なこともまた意味がなく、彼はさっさとそこを離れて目的地を目指す。通路は光に照らされとても明るく、何の障害もない。どのみち、この船内の構造を文字通り完璧に熟知している彼には必要のないことだったが。
 急いだことが功を奏し、予定通りのタイミングで目的の区画に到着する。およそ無駄と思える数のセキュリティがひしめき、その中でスチュワードその他が文字通り右往左往している。彼は努めて静かにその中を通り抜けた。
 ようやく最後の場へと到達する。最終的な目的地であるドアの前には、既に多くの関係者が集まっているのが見えた。ひとまず彼はここにいる全員を確認、照合する。
 田所徳之進、男、六十九歳。
 村上瑛五郎、男、六十一歳。
 深町俊樹、男、四十五歳。
 鶴岡幸範、男、三十七歳。
 宮宇智實、男、三十三歳。
 遠山城一、男、二十八歳。
 ロバート・グロス、男、二十六歳。
 芹澤和久、男、二十五歳。
 北河瀬晴之、男、二十五歳。
 黒峰那々、女、二十三歳。
 悴山貴美、女、二十二歳。
 予定された構成と若干の違いはあったものの、概ね彼が予期した通りのメンバーだった。
 さて、ここからが本番である。彼は何の気なしに一呼吸を置く。不意に動悸を感じ、そして苦笑した。まさに無意味、だ。必要のない場所で必要のない行為を行う、だがしかしそれは、どうして人間らしいではないか。今ほどそのらしさを身にしみて感じる時はなかった。だからこそ、それを大事だと思う。だが大事ではあるが、大切とは思わなかった。とにかく今は、するべきことをするのである。
 彼は動き出した。その場へと進み、声をかける。居並ぶ人々か彼に気付き一斉にこちらを見た。彼は用意しておいた愛想を吐き出す。たちまち、彼の正体を察した人々が安堵の吐息を放った。彼は冷静に現状と事態の是非を告げる。そう、必要のない場所で必要のない行為を行う、それは人間らしい。
 不備。不良。不明。不可解。不可思議。不慮。不壊。不興。不快。不機嫌。不利益。
 不、という言葉で形成された多くの単語が感覚器を通じて彼の中に流れ込んでくる。人々が口々にもたらすそれは、混沌としてはいたがデータとして一応の整然さを伴っていた。無論、見当違いであり勘違いをしている意見も多い。だがそれらもまた彼にとって重要なデータであった。是も非も、比較するためのサンプルとして有益なそれとなる。この場の言葉を彼は一つとして聞き逃すつもりはなかった。もっとも彼の能力を考えれば、聞き逃すこと自体がほぼありえなかったが。
 とにかくそのすべてがネガティブ、つまりはマイナスとしての意味を持つそれである。現状を快く思っている者は一人もいない。彼はそれを確認するとほくそえんだ。勿論、居並ぶ人々のそれがあくまでうわべだけのそれであり、内心は違うかもしれないということはわかりきっている。だが、それはそれで構わなかった。ただこの場において総意が生まれ、それが発生する現実をもたらしているということが、何にも増して重要だった。そう、誰が意図したかは別として、である。
 彼は場を見回す。皆一様な表情であり、それは実に滑稽でもあった。皆が揃って彼の言葉、意見を待っているようだ。一人など彼に詰め寄りかねない態度を取っている。自分を相手に何という愚かさかと思うが、いやそれは一概にそうではないかもしれないと彼は思った。ほとんどありえないが、彼が本来の意味の彼であり、こうしている……つまりは、裏で彼らの反応を記録しているという事実に気付いている……あるいは疑っている可能性はある。そう思うと実に愉快で、彼はさらに示唆めいた発言をしようかという気になった。だがそれはあいにくと予定にない。少し残念に思いながら、彼は静かにそれを告げる。用意されていた、はっきりとした詞。
 落胆と失望、そして怨嗟の声。瞬時に吹き出したそれは、彼の予想通り……それを告げた彼ではなく、本来それと直接関係がないはずの対象へと吐き散らされた。居並ぶ人々が互いにその意思を形にし、場が一時、騒然とする。
 感慨深くその場を彼は観察した。この反応こそ彼が予定する次の段階にとって必要不可欠なものであった。その多くは彼にとって予想通りの内容であったが、嬉しいことにまったく別なそれもある。彼は少しばかりデータを修正すると、予定された次の段階へと事態を移した。そう、いよいよクライマックスである。
 彼の言葉と共に、騒然とした場が静まりかえった。彼はほほえんでそれを示す。まるで訓練されているように、すべての人物がそちらへと体躯を翻し、それを見つめた。
 彼はある動作をする。ほんの小さなそれでよかった。
 そして、それは、訪れた。
 扉が開く。
 そう、それは開いた。
 彼の目の前で。
 再び、ドアが開いたのである。 
 
 悲鳴は、悲しんで鳴くという本来の意味とは別の理由を以って放たれた。
 恐怖。
 そして、恐慌。
 無論、すべてがそうではない。努めて冷静な者もいる。落ち着き払っている者もいる。そう、不自然なほどに動じていない様相のそれもいた。
 だが、彼らは、いや、彼彼女らは、見ていた。
 食い入るように、逸らすことなく、それを。
 広い船室だった。豪華な装飾がされている一室。
 開いたドアの先、ほんの少し先に踏み込んだ、彼彼女らの眼前。
 ブラインドとパワーウインドが降りた、完全な暗闇の中。
 光があった。幾筋ものそれ……踏み込んだ幾人かが手にした強力なハンドライトが、そこに注がれている。
 洋装のリビング。大きなベッド。数々の調度品。
 その一つ。硝子のテーブルに向けられたソファに、彼は腰掛けていた。
 動くことはない。
 そう、動くことはない、彼がいた。
 突っ伏している。眠っているのだろうか。定義としてはそれも正しいだろう。言葉は便利だ。
 だが、今この場にいる者にとっては、詞の包み隠してくれるイメージなど不必要だった。
 彼らが知りたいのは、事実。
 目の前にある、現実。
 それは決して覆ることのない、絶対の結果だった。
 真実と呼びたいのなら、そう呼ぶがいい。
 彼は、死んでいた。
 背中を、何かによって裂かれて。
 鋭利な刃であろう。
 突き刺され、切り裂かれ、何度ふるわれたのか。
 刃による傷は、無数にあった。
 ずたずたにされた、衣服の背。
 何かがほとばしり、吹き出した跡。
 部屋は、床は、壁は、家具は、すべてが赤く。いや、むしろ赤黒く、汚れている。
 その中で、男は死んでいた。
 それが、踏み込んだ彼らの知りたかったこと。
 なら、どうして?
 いや、誰が?
 悼む心はもうない。いや、元々そんなものがあったのだろうか。
 それは瞬時の変心とでも言うべき、残酷な思考の連鎖。
 あまりにも現金な、不遠慮極まる欲念の追求。
 だがそれは、だからこそ自然であった。
 そして、彼らは気付く。
 同時に、ライトが照らした。
 その存在を。
 一人ではない。
 そう、腰掛けたまま突っ伏し、二度と動かなくなった男ではない。
 もう一人、誰かがいる。
 その事実に、悲鳴があがった。そして、それを制する声。
 勇敢だろうか。それとも、単なる好奇心からか。
 進み出る者がいる。
 そして、覗き込む。ソファの裏。ベッドの影。
 絶句。
 いや、それは違ったかもしれない。
 だがその事実を確認するや、すべての者達が騒然となった。
 それはある意味、先程受けた初見の衝撃を越えたもの。
 無知からのそれもある。既知からのそれも。
 だがそれらはすべて、各々の思考より導かれた、ここに至る顛末を想像した故のそれであった。
 それをあえて、ここで語ることはしない。
 いや、語ったとしても無意味だろう。
 人には想像力があるのだ。人だけに、人にしかない力である。
 今は、結果を伝えるまで。
 それだけが、真実に近付くための布石となる。
 たった一つの、真実。
 それは、既にわかりきっていたこと。
 当然の概念として、誰もが考えていたこと。
 だが今、そのすべては崩れ去ろうとしていた。
 握られた凶器。
 赤く染まった、ナイフ。
 それを手にして、彼は、倒れていた。
 一言も発しない。発せられない。発することが、できない。
 その、世界で。
 桐生渉は、笑みを浮かべていた。
 満足そうに。
 彼は、笑っていた。
 
 


[356]長編連載『M:西海航路 第二十七章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時15分 Mail

 
 
   第二十七章 Matricide

   「外に出たかったの」


 割れるように、押し寄せるように。
 ただ、痛みだけがあった。
 心地好さなど、どこにもない。
 ただ、苦しかった。
 解放されたい。楽になりたい。
 ひたすら、そう願った。
 方法はわかっていた。
 でも、それをすることができなかった。
 臆病だったのだ。
 そう、ただひたすら、怖かったのだ。
 考えるだけで、身体の芯から震えてしまうほど。
 足がすくんで、身動き一つできない。
 それほど、思い知っていた。
 幾度も。幾度も。
 だから、何もできない。
 嘲った。
 嘲られた。
 それでも、怒りは湧かなかった。
 ただ、焦燥だけが募った。
 歯がゆかった。
 何もかも、嫌になった。
 その時、出会った。
 そして、知った。
 そうしても、いいのだ。
 それをしても、構わない。
 怖れることはなかった。
 してしまえばいい。
 堂々と、すればいいのだ。
 そうしたいのだから、そうすればいい。
 それは、当り前のことだった。
 そして、それを、ようやく理解できた。
 だとすれば、簡単だ。
 そう、方法はわかっている。
 ならば、すればいい。
 したいのだから、すればいい。
 だから、そうした。
 だから、俺は……
「……ワタル!」     
 桐生渉は目を覚ました。
 途切れていた、という感覚はなかった。
 一本のラインが、真っ直に伸びるように。
 傾いていた起き上がりこぼしが、元に戻るように。
 あくまでも自然に、彼の意識は再生した。
 そして、目の前。
 そうだ、眼前に誰かがいる。それが、女性だとわかる。そして、彼女だと思う。いや、違う。間違いない、という確かな意識。そう、それは確信だった。
 彼女だ。彼女が、いる。
 そう、聞こえる。俺を呼ぶ、声が。
 彼女の声。俺を、呼んでいる。俺を求める、そうだ……助けを呼ぶ、救いを求める、声。
 ならば、どうするのか。どうしたいのか。
 渉は手を伸ばす。ままならないそれが、どうにももどかしい。
 ただ、応えたい。応えなければ、と思う。
 何故なら、俺にしか、俺だけにしか、それができないのだから。
 そうだ。俺だけしかできない。俺が、俺がやらなければならない。
 この地上に、ただ一人。俺だけが、できること。
 それは彼のエゴだった。
 限りなき利己を宿した欲念。
 そう、そんなものは言い訳に過ぎない。
 本当は、違う。何もかも、違う。
 すべては理屈だ。
 いや、理窟だった。そう、まさに創られた意識によって穿たれた窟の如く。
 自分ですら、気付かない。
 他の誰も、知らない。
 その奥底にあるものは、何か。
 わかろうとしない。わかりたがらない。わかるのが、怖い。
 そう、それは確かに存在する。
 だが、形容できない。
 言葉などというものでは、表現できない。
 ならば、どのような手段で表現可能なのだろう。
 いや、そもそも、表現することが必要なのか?
 表すということは、人に伝えようとすること。
 それは、本当に必要なことだろうか?
 他人に示唆し、その反応を見て、自分の利としたいからではないか?
 だとすればそれは、満たされぬ自己への補完に過ぎない。
 完成されていない自分。間違っている自分。
 それを、認めたくない。それが嫌だ。それは、たまらなく不快だ。
 すべてがそうであるならば、諦めもしよう。
 自分を含めた何もかもがそうであるなら、許容しよう。
 だが、違う。それは、断じて違う。
 それに、初めて気付いた。そして、思い知った。そう、思い知らされた。
 お前は、違うと。
 そう、俺は違う。何もかも、違う。
 ならば、俺は、どうすればいい?
 帰趨する意識。そう、ずっとそうだった。あの日から、今まで。
 ずっと、それを、それだけを。
 だから、俺は、そうした。
「ミチル……!」渉は声の限りにそう叫んだ。途端、割れるような痛みが後頭部から全身へと閃く。その激痛は、想像を絶していた。「がっ……!」苦悶の表情で、身をよじってもがく。手が、足が、痙攣し、渉は言葉にならない叫びをあげてそこに屈した。
「い、生きているのか!?」
「ひ、人殺し!先生を、先生を……!」
「マジかよ……こいつが、殺したのか?」
「下がってください、ドクター!」
 飛び交う叫び。初めて聞く声が多かった。いや、それがほとんどだろうか。だが残念ながら、渉はそれらの語意を冷静に分析できるような状態ではなかった。そう、奇妙な話である。語句ははっきりと意志でき、捉えられる。だが、それを判断し、思考することができない。それはあまりに異様な、だがどこか懐かしさを含んだ感覚だった。
 だがそんな中ですら、閃光とも称すべき激痛の瞬間は続いていた。苦痛に呻き、のたうちまわる彼……その身に、誰かが重なる。渉はそれだけを感じ、必然、それを求めた。
 痛い。たまらなく痛い。頼む、誰か……「桐生君!しっかりして!人が死んでいるのよ!貴方は、まだ死んでいないでしょう!目を開けなさい!」激情を宿した、それは叱咤。耳元に、鼓膜も破れよと、怒鳴りつけるように。
 叫んだ。それが、彼女の声。
「ミチ……ル……!」呼応するように、渉は叫び返す。その片手が、何かを掴む。衣服か髪が……あるいは人肌そのものだろうか。何でもよかった。渉はそれを掴んだ。放すはずがない。そうだ、二度と……二度と、俺は……!
「ドクター!下がって!」怒鳴り声が聞こえる。
「手を出さないで!彼を殺したいの!?」叫び……いや、怒鳴り返すそれは、女性……女声のそれでありながら、恐ろしいまでに強烈な意志を秘めていた。生半可な道理を萎縮させる……そう、まさに、信じられない程の気勢をみなぎらせた一喝。「渉君、気をしっかり持ちなさい!私はここにいるわ!貴方が錯乱してどうするの!?ミチルさんに笑われるでしょう!笑われてもいいの?ミチルさんがどう思う?答えなさい!桐生渉!」
「ミチ……ル……!」そうだ、俺は……俺は、彼女を……!
「渉!」叫びが聞こえる。俺を、呼ぶ声。
「くっ……あ……!」渉は喘いだ。何かの思考……いや、意識が、さらなる閃光……そう、まるで焚き付けられるフラッシュライトのように脳へと刺し込まれ、幾度も心神を貫く。思考の到達する速度すら遥かに上回る勢いでその光は彼の中を駆け抜け、そして、散った。
 浮かび上がるのは、一瞬の記憶。
 永遠の、思い出。
 停止した、時間。
 それは、生への抵抗。
 渉は目を開いた。目の前に、女がいる。
 自分を、見下ろしている。
 あの、少女が。
 そう、白い服の、女。
「お前……が……!」渉の中で、何かが爆発した。
 とどめを刺さない、右手。猛るような、漆黒の黒髪。
 その瞳だけが、薄茶色のそれが、自分を見ている。
 俺を。いや、違う。俺を見ているんじゃない。俺を見ているが、俺を見てはいない。
 それは正しい。だが、違う。
 そうだ。正しいは正しくない。
 俺も、そうしている。だから、わかる。
 彼女は、似ている。
 そうだ、似ている。彼女は、似ている。
 相似。近似。どこまでも、はっきりと。
 だが、違うのだ。決定的に、完璧に、二人は違う。
 それが、おそらく。
 そうだ、間違いない。
 たった一つ、それだけが、可能な方法だ……
「真賀田……」呟く。忘れられない名前を。
 その名前で、すべてを思い出す。
 何もかも、すべてを。
 そうだ、彼女が……
 お前が……「てめ……え……が……!」再び、渉の口から叫びがほとばしった。擦りきれたような、だが、それでもはっきりとした強さを秘めたそれ。「この、ひと……ごろ……し……!」声と共に、まさに信じ難いほどの力が振り絞られた。意識したのか、していないのか。そんな自覚をする前に、渉の身体は躍動していた。
 そう、目の前にいる女に。
 白い服の女。
 この事件の、犯人に。
 掴みかかる。ありったけの力を込めて。頭部を、いや、全身を襲う激痛の中で、ここまで動くことのできる自分が信じられない。だが、今はよかった。そう、理屈などいらない。それが可能なら、動けば、それでいい。
 俺は、こいつを……
 殺人犯を、決して許しはしない。
 これ以上、誰も……「西之園さんも、犀川先生も……やらせねぇぞ!」絶叫。「人殺し!人の命を、何だと思ってるんだ……!」悲鳴が聞こえる。心地好くすら感じられる、自分のものではない、他者のそれ。「許さねぇ!絶対に……許さねぇぞ!」華奢な身体を組み伏せる。そう、今ならわかる。こいつには、たいした力はない。俺の方が強い。圧倒的だ。
 そうだ、俺はこいつより強い。俺の方が上だ。だから、それは当然なのだ。俺が勝つ、そのことは。
 そう、俺はもう敗北しない。俺は、二度と負けない。そんなことは、もうごめんだ。絶対に、嫌だ。
 腕をふるう。「博士を……!四季博士を……殺しやがって……!」そうだ。誰を殺したのか。何を殺したのか。それを理解しているのか。理解していたのか。
 そうだ。間違いない。
 この女は、自分の……「親殺し!」そうだ。渉は叫ぶと同時に理解していた。そうだったのだ。「母親を……自分の……てめぇは……!」感情のままに、ただ。「新藤所長も……山根さんも……誰も彼も、殺しやがって……!」突き立っていたナイフ。背中に。そして、胸に。「西之園さんも、先生も……殺すつもりなんだろ!」見開かれていた瞳。事切れた顔。「もう、やらせねぇ!もう、誰も……殺させねぇぞ!」死んだ人間。生きていない人間。
 あの顔が、忘れられない。
 それが、記憶。
 死んでいた者。生きていた者。
 その間は、ない。
 そう、絶対に、ないのだ。
「母親を!」叫んだ。「この、人でなし!」憎かった。「馬鹿野郎!」どうしようもないほど、憎かった。「どうして、どうして……!」そうだ。
 どうして、そんなことをしなければならない?
 どうして、そんなことをする必要がある?
 それしかなかった?仕方、なかった?
「嘘を……」振り上げた。「嘘を、つくな!」振り下ろす。
 何かが散る。自分のそれか、彼女のそれか。
 それは、何か。
 汗か。血か。それとも、別の何かだろうか。
「お前は……がっ!」
 それは答えではない。いや、それもまた、答えだったのか。
 渉の心身に訪れたそれは、激しい衝撃だった。例えようもない、痛烈な一撃。その凄まじさに、彼は息を散らす。
 一体、どれだけの時間が存在し得たのか。
 数分?それとも、数秒?刹那という形容がふさわしい、測れぬ時間?
 そもそも、測れぬ時間が存在するのか?
 いや、時間とは、そもそも正しいのか?
 ふとそう思った渉の身体に、再びそれが振り下ろされる。
 砕け散る、何か。同時に、さらなる激痛……いや、今までのそれとは比にならない程の痛みが彼の全身を苛む。
 叫びがあがった。悲鳴という名の、絶叫。
 無慈悲に、怒りのままに、それが振り下ろされる。
 感情のままに、行動する。まさに渉がしたのと同じ行為が、渉自身に振りかかった。
 応報?報復?
 それはおうむ返しとも言うべき、暴力の連鎖。
 しかも、一人による行為ではない。複数の手による、過酷なそれだった。
 そして、腕の関節が悲鳴をあげる。首がねじり上げられる。犬猫のように、無理矢理に吊り上げられる。全身が、動かなくなる。
 轟く罵声。その言語はもはや、渉には識別できない。
 ただ、個人を罵倒する。その非道を。その悪虐を。
 まさに、すべては反復していた。
 その最後に待つものは、帰趨するところは、どこだろうか。
 彼はまた、ふっとそう思う。
 それは、計算式で表せるような気がした。
 そう、答えが解る訳ではない。それは、個人個人で別だ。
 なぜなら、人は違う。どうしようもないほど、違っている。ならば、指標としての常識など意味はない。
 置かれるぺきは、数式。誰もが己をそれに当て填めて、そこから導かれる解を、己のものとする。それ以上のものに、価値はない。他のすべては、人に干渉するだけだ。差違を知らせ、余計な迷いを生じさせるだけだ。そんなものは、必要ない。
 人には、数式があればいい。それが、欲しい。それこそが、すべてだ。
 そこに、不純はない。
 それは、混ぜられてはいない。
 そこには、絶対がある。
「やめんか!」鋭い叫び。再び、渉の意識が散る。「全員、動くな!私の前でこれ以上の暴力行為を働く者は、誰であろうと即刻処罰する!」
 気概。雄々しいほどの意気に満ちた、それ。
 沈黙しようとする場。
 だが。「しかし、キャプテン!こいつは人殺し……」
「黙れ!私の宣告した暴力の範疇に、手段の違いなどない!その口も手も、すみやかにすべての暴力を止めたまえ!」
 渉は顔を上げた。激しい痛みの中で、それはおぼろげだった。
 眩しい。自分に注がれた、幾つもの光。暗い場を……そこを照らし出している、ライト。
 それらが構えられた向こうに、誰かがいる。いや、たくさんの人がいる。前にも、横にも、そう、俺を背後から捕らえている奴も。
 彼らは、何者なのだ?
 渉は、怪訝な顔でそれらを見た。そう、いるのは……見知らぬ人々。
 ライトの中に、浮かぶ顔。渉は見回す。できる範囲、最大限に。頭も、首も、肩も、動かなかったが、その中で、懸命に。
 そう、彼らは何者なんだ?警官?いや、それは早すぎる。連絡はまだできていないはずだ。システムのリセットは、まだ……
 いや、まさか、もう行われたのか?今はいつだ?あれから、どれだけ時間が経った?あの女は……そう、俺が捕まえようとした女は……どこに行った?
 渉は目を瞬かせた。それだけでも、割れたひびが広がるように頭が痛くなる。何かが身体を伝っている感触もある。それは異様に冷たかった。体奥はとても熱く、灼熱のように感じるのに、肌は冷たい。気持ちが悪かった。
 そう……ここは、何だ?この部屋は……見たこともない。
 渉の中で、数々の疑念が渦を巻くように乱れ流れた。
 そもそもここは……真賀田研究所の中なのか?
 俺は……「先生……西之園さん……」自然に声が出る。そう、そうだ。二人は、無事なのだろうか。まだ、談話室で眠っているのか。幸せそうに。二人で。
 いけない。こうしているうちに、犯人が……「誰か……」守らなくては。知らせなくては。そう、俺が見たものを。「システムのリセットは?誰か、警察に連絡して……」
 沈黙、がある。周囲の男女。どうしてか、電源が落ちたような暗黒の部屋の中で、彼らは黙して渉を注視している。年恰好も実に様々だ。だが、渉が知る相手はいない。そう、それが不可解だった。
 彼らは研究員だろうか?確かに、渉とてこの施設のすべての人間を知っている訳ではない。
 だが、どうして既知の相手が一人もいないのか?水谷さん、島田さん、望月さん、長谷部さん、弓永先生……どうして、メインスタッフでもあった彼らが、ここには一人もいない?
「この、人殺しめ……!」沈黙を破ったのは、誰か……離れた場所にいる若い男が口にしたその一言だった。吐き捨てるような、侮蔑に満ちたそれ。
 人殺し……犯人?「そうだ、あの女は……白い服の女は、どこに?」そうだ。渉は思い出す。「そうだ、俺は彼女に殴られて……」ハンマーだった。まさに油断していたことを渉は自覚する。この痛みもそのせいだろう。ならば、今はそれほど時間はたっていないはずだ。「捕まったんですか?先生……西之園さんは無事でしたか?誰か、談話室に……」そして、思い出す。「そうだ!山根さんは!?山根さんが大変なんです!部屋の浴室で、犯人に刺されて……弓永先生は来ていませんか?早く、病院に……いや、警察に連絡して下さい!システムのリセットは成功したんですか?」渉は懸命に訴え、周囲を見回す。自分がどうして拘束されているのか、そんなことはどうでもよかった。それよりも、早く……!「レッドマジックは止まったんですか?誰か……」戻るのは視線だけ。まるで居並ぶ全員が生きていないようだ。
 誰も反応しない。誰も、答えない。渉は恐怖を感じる。苦痛を越える程の、何か。「お願いします!早くしないと……!」
「訳のわかんねぇこと言ってんじゃねぇ!てめぇ、今更言い逃れをしようってのか!」低いその声は、だがしかし、渉には届かなかった。
 それを告げられた時。
 それと同時に、渉は、気付いたのだ。
 
 


[357]長編連載『M:西海航路 第二十七章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時16分 Mail

 
 
 死んでいる。
 瞬時に、それが認識できた。助かる望みなど皆無だ。無情な、残酷なそれである。
 男が、死んでいた。どうして、今まで気付かなかったのだろう。まさに渉の目の前……ライトの注がれるリビングのソファに着席した一人の男が、その前のテーブルに前のめりになるようにして、事切れている。
 その背中が、真っ赤に……そう、黒光りするぬめぬめとした色で、染まっていた。ライトの中に照らされるそれは、スーツであろうか。黒か、紺か、何色だったかもはや識別できないそれは、鮮血で見事なまでに赤黒く染め上げられている。幾筋も傷がつき、布地はぼろぼろになっていた。どれほどの回数凶器をふるえば、ここまでできるのだろう。
 そして、流れ落ちた血。いや、その行為で吹き出し、飛び散った血だろうか。それはソファはおろか、部屋の壁、家具、テーブル、そして床に、幾つもしみを残していた。どれだけ出血したのだろうか。いやそもそも、一人の人間からこれほど血が出るものだろうか。そんなことを考えてしまう程に、部屋の惨状は凄まじかった。何もかも、血にまみれている。まさに、そこは赤い部屋だった。
 渉は唖然とした。これに、この事態に、今の今まで気付かない自分……いや、今更のように臭気を感じる。途方もない嘔吐を催すそれ。よくこれで平気だったと感心し、周囲の人々にもそれを思う。どうして皆、平然としていられるのだろう。それを上回る何かが、彼らの心にあるのだろうか。だとすれば、それは……そう、この男が死んでいるということだろうか。
 確かにそうだ。渉は認めた。男が、死んでいる。殺されているのだ。また、新たな犠牲者だ。
 渉は冷ややかにそれを認めた。所員だろうか。おそらく、そうだろう。黙し、ほとんどの者が動かないその場で、渉は無念の如き思いに唇を噛んだ。
 眼を見開き、事切れた男の横顔がかすかに見える。中年……いや、確実に五十は過ぎているだろう。それでも壮年という言葉がまだ似合いそうな、体躯もいい男性の顔だった。勿論、渉はそれが誰か知らない。だが、ふと渉は思う。山根副所長が言っていたこと。
 そうだ。確か、この研究所にはこういった年齢の者はいないのではないのか。四十歳……それが定年であり、最年長の自分があと三年であると、山根さんは言っていた。それを越えるスタッフはいない……死んだ所長以外では。渉はそう聞いていた。
 なら、この部屋の……そう、彼は……誰だ?望月さんのように、警備の人か?それとも弓永医師のような……いや、まさか警察の人間か?警察が来てくれたのか?ここで、死んでいるのは……殺されたのは、誰だ?あいつが……あの女が、やったのか?これも……
「御原さんを……殺しやがって……!」若い男の声が、再び。
 瞬間、渉の身体に何かが走った。
 高揚感?何の?渉は自問する。今俺は、どうして……いや、何を思ったのだ?
 男が死んでいる。彼が死んでいる。御原という名前の男が、死んでいる。
 その名に、心当たりはない。
 ならば……どうして?
「待って下さい……彼を、桐生君を……乱暴に扱わないで……」女の声がした。渉は……部屋にいる者が、瞬時にそちらを向く。ライトも。
 白い服……白い服の、女だった。
 それは正しい。だが、違う。渉はそれに気付き、愕然とする。
 彼女は、違う。
 そこに、一人の女性がいた。肩に届くぎりぎりで断った髪の下で、細めの目が見開かれている。ライトに照らされたその瞳は、不思議な彩りを秘めていた。「船長……」彼女が口にした詞の意味を考えるのとは別に、渉はさらなる事実を悟り、息を呑む。
 その女性……年齢は二十歳程度だろうか。白衣をまとった彼女は、床に伏し……横たわるような姿勢で、数人の男女によって介抱されている。ライトのせいだろうか、相当に色白にも見える肌……そして、その白衣に、何かが散っていた。
 血?渉はそれを思い、そして同時に、彼女の口許、そして、手……白すぎるそれにも、おびただしいそれが散っていることを知る。頬やそこかしこに、あざのようなものができていた。いや、あざというより……そう、切り傷のようなそれに見える。しかも、真新しい傷跡に見えた。
 そう、たった今、つけられたようなそれにすら見える。
 いや、間違いない。だからこそ、彼女はこんな衆目の中で倒れ、介抱されているのだ。おそらく、何かの暴力を受けたのだろう。だとすれば、それはどうしてか。こんな……十人を越えた数の大人がいる場所で、誰が、彼女を襲ったのか?それが……
「ドクター、どうかしてるんじゃないですか!?」声がかかる。身なりのいい……制服を着ているのだろうか。見慣れぬ装束の若い男だった。「彼が今、貴女に何をしたか……」こちらをチラリと見る。渉は怪訝に眉間を寄せた。何が……
「だからこそ、言っているんです……皆さん、落ち着いて……どうか、理性を保って下さい……」苦しそうに、それでもしっかりとした口調で彼女は言った。「桐生君……いい、私がわかる?私の名前が言えるかしら?昨夜のこと……覚えている?」それはまるで教師の如き、どこか場違いな響きの問いかけだった。
「あ……」渉は、思わず反応する。「いえ、わかりません……貴女は、誰ですか?どうして、俺のことを知っているんですか?それに、ここは……皆さんは、研究所のスタッフですか?」渉は見回す。「亡くなっている人は……誰なんです?犯人は……そうだ、あの女は……?俺は、どうして……助かったんです?」ふと思った。もしかすれば、既にここは、妃真加島ではないのではないだろうか。俺はとっくに、どこかの……そう、那古野の病院か何かに運ばれて……
「健忘……見当識障害……」小さな呟きと共に、女性がゆっくりと、ほほえむような表情で渉を見つめた。「……大丈夫よ、桐生君。すぐに思い出せるわ。とりあえず、深呼吸をしてみなさいな。ゆっくり、鼻で吸って、口から吐いて。ね、してみなさい……」その優しげな物言いに、渉は思わず頷きかけ……
「何をしてるんです!?チーフ、早くこいつを……この野郎!」渉は目を見開く。腕がねじり上げられる感覚。再び、苦痛が戻り……そして、ふと気付く。何かを握っている、自分に。
 渉は驚いた。自分のことなのに、今の今まで気付かなかった。驚くほど……そう、堅く握り絞めている、何か。未だに、右腕がそれを、堅く握り絞めている。そして、男の腕が、幾重もそれに絡まっている。凄まじい力だ。まるで、どうしてもそれが欲しいかのように。おかげで、それが見えない。
 何だ?俺は、何を持っている?だが、やはり視線が届かない。首根っ子から押さえ込まれて、動けない。
 だが、そこで渉は思った。そう、腕は動かせなくとも、手の力は制御できる。動かすことはできないかもしれないが、そう、力を抜くことなら……
「落としたぞ!」
「危ない!」
「早く、こっちへ!」
 同時にあがる声。そして、渉は……未だ強靭な力によってねじり上げられながら、それを見た。蹴り飛ばされ、そして、素早く拾われる、それ。
 一本の、ナイフ。きめの細かい装飾と、何か……そう、貴石か何かがはめ込まれているのだろうか。ライトに煌めく美しい柄を持った、鋭い刃物。
 しかし、その刃は、輝く柄とは対照的に、暗かった。いや、滑っていた。汚れ、浸されていた。
 それが何なのか、どうしてそうなったのか、考えずともわかる。この部屋を見てそう思わない者は、おそらく一人もいないであろう。
 それが、凶器。それが、ここにいる男の命を、御原という名前の男の命を、奪った力。
 そして、それが、今……彼の、桐生渉の手から、落ちたのである。
 渉は知った。それに、気付いた。今さっきまでの、いや、今を以ってそうである、居並ぶ人々の視線の意味を。
 そこに、悪意、侮蔑、怒り……徹底的な憎悪がこめられている、その理由を。
 それは、リフレイン。いや、むしろリフレクションであろうか。
 渉の中に、込められていた感情。
 彼の前でそれを為した女に、あの白い服の少女に、向けられた憤りと同じもの。
 それが今、自分に向けられている。
 それに気付き、渉は大きく身震いした。
「船長!」目を見開いた渉の前で、声があがる。
 そして、渉は見た。
 血塗られた部屋。老若男女……十人を越える人々がたむろするその中で、皆から少し離れる形で……そう、まさに室内全体を見守るようにして、部屋の入り口と思われるドアの前に立っている姿。
 部屋と違い、廊下は明るい。その光を背に受けた、一人の男。
 彼は、まさに惨状である部屋を凝視したまま、その大きな目をこちらに向けた。
 その眼光の鋭さに、渉は戦慄する。
「深町、乱暴はよせ。彼の拘束など私は命じていない。」静かに……あくまでも毅然と、彼は告げた。「船内セキュリティを束ねる身として、君の職務に対する熱意はわかる。だが、だからこそ、その長たる君が動揺し、とっさの判断で規則を無視してどうする。その人物は、客だぞ。」
 深町、と呼ばれた男……それは、渉を締め上げている男達……そう、複数のそれの傍らにいる、一人であった、らしい。渉からは死角に位置していたその男……深町であろう男が、進み出る。制帽に隠れた細い目とその下の太い唇が印象的な、浅黒い肌の男だった。
「申し訳ありません。ですかキャプテン。先程は緊急時と判断して、とっさの行動に出たまでです。確かに軽率かもしれませんし、その非も認めましょう。ですが船内保安を担う立場として、この現状を目の当たりにしてはわずかな躊躇も許されないと即断し、部下共々直ちに職務を遂行しました。それが船内規約に違反していたことは認めます。ですが、彼の身柄のすみやかなる確保……いや、はっきり言えば、拘束でしょうか。この状況でそれが最優先でないとすれば、何が重要だったのかお教えいただきたい。まさか、彼が先程我々の目の前で行った、悴山医師への暴力行為を見過ごせとおっしゃるのではないと思いますが。」冷たい響き、だった。冷然、とはこういう物言いを指して言うのだろうか。黙々と語られた言葉より、むしろその口調が渉を驚かせる。「彼は確かに船客でしょう。ですが、御原さんもまた船客ではありませんか?この部屋にいる北河瀬さんや、他の方々はどうなのです?まさか、等級に従って客の扱いはおろかその生命的な値打ちも変えろとおっしゃるのですか?」様々な感情を込めた詞だった。その辛辣な物言いに、部屋の空気が震える。
 そして、それを受けた人物……そう、渉ではない、もう一人の人物は、だがしかし表情を変えることはなかった。
「船長……」そして、声を放ったのは彼女だった。そう、先程の白い服の彼女。だが、船長……あるいはキャプテン、そう呼ばれた人物が首を振る。白いものが混じった髭の下で、その口許がかすかにほほえんだように見えた。
「深町。君の言い分の根拠は、ほとんどが確証のない、憶測にも等しいそれではないか。君は身勝手なその場の解釈を部下共に典範と認め、君に与えられた権限を行使するのか?私の船の客を拘束し、不必要な暴力をふるうのか?非を認めると君は言ったな。君の仕事に対する観念とは、非は認めるが何事も自分の判断や価値感でしたい放題にする、そういうものなのかね?それが、君の持つ仕事に対する責任感か?」
 渉は再び戦慄する。互いに努めて冷静なだけに、それが秘める思惟はとてつもなく重く感じられた。
 対して、深町は眉をかすかに動かしただけであった。そして、わずかな沈黙の後に口を開く。「ではセキュリティより現状を鑑み、キャプテンに次に挙げる三項の活動許可を求めます。一つは現場……この108号船室の早急な調査。二つ目は被害者である御原健司氏の安否を含めた状態確認、三つ目は重要参考人としての該当人物一名の身柄の拘束です。」渉は再び、自分に集中する視線を感じる。
 一拍置いて、船長と呼ばれた男は頷いた。「許可しよう。深町、セキュリティとしての君の職務を遂行したまえ。」渉は彼の……船長の顔を見る。そこには微塵の動揺もなかった。
「船長!」だがそこで、彼女が叫ぶ。「聞いて下さい!」それを無視……いや、むしろそれに率先されるように、渉を締めつけ、動かそうとする力が強まる。
 渉は再び、痛みを思い出す。そう、苦痛は決して去っていない。渉は呻き、そして……「深町、待て。」船長、が告げた。深町と、彼の部下……なのであろう、渉を拘束する者達が動きを止める。「ドクター、何か船医として意見があるのならばおっしゃって下さい。」その口調は、反面、職務として以外の言葉は一切受け付けないという強固な意志が秘められていた。先程の深町へのそれと同じく、渉は彼の態度に……そう、感銘に近いものを感じる。
「ありがとうございます。」ドクター……交わされた言葉から察するに医師を指すそれであろう……と呼ばれた白衣の彼女は頷き、眼鏡……傍らの長髪の女性から渡されたフレームの大きなそれをかけると、毅然としてこちらを見た。「私への行為を抜きにしても、彼に対する拘束の正当性は認めます。船長にはその権限がありますし、この室内の状況を一目すれば、責任ある立場の方ならば、深町主任ならずとも誰もが同様に行うでしょう。」まるでコンピュータの分析結果を告知するように彼女は告げた。その声には先程までのそれと違い、抑揚がほとんどない。「ですから私は、彼を加害者扱いすることが甚だ理性を欠く判断であり……事態への認識不足であるばかりか、今の混乱をより一層広げる、という私個人の見解とそれへの根拠には触れないでおきます。」部屋にいる……彼女の周囲含めてすべての者が白衣のドクターを凝視した。だがそれを受けてなお、彼女の面には、一片の……そう、まさに船長や深町と同じように、何の抑揚も感情の色も窺えない。機械のようだ、と渉は思い、ふっと、今目の前で行われているこれは演劇なのかもしれない、と思った。
 そう、知らない場所、知らない人々、そして、何者かわからない被害者。
 そうだ、台本を知らぬのは俺一人で……「ですが、仮にも船医の立場として、これだけは言っておきます。彼、桐生渉さんは後頭部に重度の打撲裂傷を被っています。頭蓋損傷、及び皮下出血の可能性が多大に存在します。さらに頚部左右への裂傷とその未処置による化膿。きちんと診ていないのでそれ以上のことは憶測でしか申し上げられませんが、医師として彼が現在疾患、意識喪失を含む重度の朦朧状態……つまり、外因的な精神障害に陥っているということは確実だと申し上げておきます。このまま放置されればおそらくは数時間以内に心身喪失……危篤状態へと移行するでしょう。」冷ややかな口調。そう告げた彼女はこちらを……渉を見ていなかった。いや、見てはいる。だが、見てはいない。渉には……おそらく渉にだけ、それがわかった。
「付け加えるならば、現在セキュリティが行っている彼への拘束方法は、今私がお伝えした彼の病状を著しく悪化させるものであると警告します。頭部及び意識障害が人体に及ぼす危険性については、専門家でもある保安員の方々を差し置いて今更述べる必要もないと思いますが。私の話は以上です。」悴山は静かに頭を下げると半歩下がった。心なしか、彼女の周囲の船客……なのだろうか、それらが少し距離を開けたような気がする。現実としてのそれではなく、意識的な、それ。
 だが。「No Kidding!」渉の背後から小声のそれが発せられた。
「……ったく、ガキみたいな女が何を偉そうに……」先の英語の声に、同意するような囁きが漏れる。共に、渉を拘束している男達が呟いたようだ。
 そして。「ロバート!」深町の一喝だった。彼の細い目が、渉の背後をいちべつし、船長へと向き直る。「キャプテン、拘束の該当人物を第一保安室に送致します。許可を。」
 船長が頷いた。「許可しよう。ただしドクターより桐生氏の心身状態について無視できない勧告があった。送致は担架により行うこと。君が必要と判断すれば拘束具の使用も許可する。なお、桐生氏の容態の診断としかるぺき処置はこの場における被害者の様態確認よりも優先されるべきと判断する。当時間の勤務船医は彼の送致に同行、患者としての彼の容態と健康保全に留意し、すべからく職務を遂行する旨を私の権限において命ずる。」
「わかりました。」言われたドクターは微笑すらしなかった。そして、脇の女性に首を振る。「大丈夫。怪我は大したことないわ。」
 船長は軽く頷くと、部屋を……未だ光のない部屋を見回して告げた。「この室内の調査と被害者の様態確認は第一船医及びセキュリティの準備が整い次第直ちに行う。その結果と検証についても、追って指示する。それまで現状及び前後の経緯については、この場の全クルー及び全ゲストについて、乗船時に確約された船内規約を以て箝口の旨を命ずる。これに違反する者があれば直ちに国際海洋法に基づき船長の司法権を行使、規約違反者に厳しい罰を与える。」船長は滞ることなき明瞭な口調でそう宣言した。「以上だ。全員の乗組員としての規律ある行動と誠意を求めたい。では解散。」
 緊迫、という雰囲気にずっと包まれていた室内に、騒然とした何かが戻ってくる。いや、それぞれ整然としていたものが、入り混じるようにそれは復旧した。誰かが部屋を出ていく。担架を用意しろ、という叫びが聞こえる。誰かが入ってくる。誰かが小声で何かを呟く。そして、誰かが俺を見ている……
 不意に、渉の身体が持ち上げられた。途端、両足がまるで力を失い……そう、まさに糸の切れた操り人形のように、だらんと垂れ下がる。だが、それは足だけではない。腕にも、そう、腰にも……肩にも、何もかにも力が入らなかった。首だけが唯一、意識を保っている。それが未だ続く焼け付くような痛みのせいなのか、それとも渉の中の何かが抵抗しているためなのか、それはわからなかった。とにかく、苦痛が消えていないことは事実だ。そう、一時たりとも忘れられない。少しでも気が緩めば絶叫してしまいそうな痛みが、いまをもって渉の頭の中で荒れ狂っていた。
 抜けた力とは裏腹に、体が動く。何かの上に寝かされたことがわかった。そして、奇妙な浮遊感のような……感じ始めたそれが、いきなり止まる。
 誰かの声。驚きに満ちた声。女性の鋭い叫び。追随する声。口々に、次第に。騒然と、場が。
 どうしたんだ……?渉は目を開けようとした。そう、いつのまにか目を閉じてしまっていた。目蓋が重い。さっきまで羽根のように軽かった、ということではないが、重さも何も感じなかった自分の四肢が、いや、体の部位のすべてが、今はまるで鉛のように重い。
「なんだ……?おい、もっとよく照らせ!」
「ただの汚れじゃ……」
「そんなことあるか!こんなあからさまに……字だろ?英語じゃないか?えむって……」
 字……?えむ……?
「これは……イニシャル……?」
「どうか、船客の皆さんはお引き取り下さい。スチュワードは各員、担当ディレクターの指示を仰ぐように。船客の皆さんはなるべくキャビンに。おって船長より御連絡があると思います。」年老いた……少ししわがれた男の声。だが、その落ち着いた言葉にもざわめきは収まらない。それでも、渉の浮遊感は再開された。
 駄目だ。渉は必死に力を振り絞る。俺は……俺は、駄目だ。いけない。しっかりしろ……
 どうして、ここまで必死になるのかわからなかった。だが、渉はそれこそ力を振り絞って、自らの意識を……目蓋を開くために集中した。
 そして、それが、叶った。
 それは、ほんの一瞬のこと。
 渉を乗せたキャスター付きの担架が、部屋から出る、その刹那。
 だが、渉は見た。間違いなく、惨劇の部屋を再度騒然とさせた、それを。
 壁に向けられた、一条のハンドライトの光。
 そこに、それが、あった。
 黒々とした、線。
 それが壁紙の模様でないことは、幼子にすらわかるであろう。
 不規則に散っている斑点。それを為したものの正体は明らかだった。誰もが部屋の惨状を鑑み、それを為した材料を……そう、言い方を変えれば、絵の具となったものを知る。
 だが、今照らされる壁のそれは……それだけは、違った。
 偶然だろうか。いや、それにしては、あまりにもそれは見事すぎた。これが故意でなく発生したとすれば、そう、あまりにできすぎている。
 引かれたライン。曲がることはあっても、始点と終点の二つを繋ぐ一本の直線で形成されたそれ。
 そしてそれが途切れ、小さな一つ。
 さらに再び、角度を持つ一本のラインが引かれる。
 そしてまた、途切れて、小さな一つ。
 それらは奇妙にも、酷似していた。
 同じ物を、セットで二つ並べたような。
 相似させるために、丁寧に真似をしたような。
 二つの、印。
 それが正確に何を意味しているのか、おそらく記した者しかわからないであろう。
 だが、誰もがそうであるように、見たものを近似、あるいは類似する記憶がないかと作用するのが、思考の常である。
 どうしてそうしてしまうのだろう。どうして、何かに当てはめようとするのだろう。
 新しい物に対する恐怖?未知に対する恐怖?
 だからなのかは、そのせいなのかは、わからない。
 だが、それでも、それを見た者は、ほとんどがそう思った。
 桐生渉も、例外ではない。
 自らが真に凡庸ならば、それでいい。今の渉はそう認知するにためらいはなかった。
 だから、そう思った。
 二つの、文字。そして、二つの、記号。
 それが、壁に、刻まれている。
 血で。
 赤く、大きく。
 どれほどの量が、必要だったのか。
 何を使って、それを記したのか。
 人の頭ほどもある文字は、記号は、四つ、整然と並んでいた。
 一瞬。
 だがその刹那の間に、渉は、それをはっきりと見た。
 そして、刻まれる。彼の脳に、意識に。
 覚醒。
 すべてが、元に戻る。何もかもが、帰着する。
 忘れようもない、文字。
 桐生渉を呼び覚ます、キーワード。
 魔術師が編み出した文句の如き、ただ彼一人を戦慄させる、それは魔法の呪文だった。
 二つの英字。そして、二つのピリオド。
 M.M.。
 血塗られたキャビンの壁に、その詞が、はっきりと刻まれていた。
 
 


[358]長編連載『M:西海航路 第二十八章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時16分 Mail

 
 
   第二十八章 Malefactor

   「私なら、素直に自白するよ」


 苦痛が和らぐまでに、どれだけの時間が必要だったのだろう。
 桐生渉は、横たわったままそれを自問した。爪先から腰、さらに背から首や両手の先まで、微塵も動かしてはいない。彼は凝固していた。いや、それは形容として正解とは言い難い。固着していた、だろうか。どのみち正しくはなさそうだったが、その方が幾分今の自分を正しく表現していると渉は思う。とにかく彼は静止していた。どれだけだろうか。どれくらい、こうしていたのか。
 そして、気付く。その疑問を抱くということは、既に痛みが治まっているということだ。
 ならば、自分に何ができるか考えるべきだろう。
 そう、思考する。次に進むのだ。今は、それをしなければならない。一刻も早く、それが必要だ。
 理由は簡単だ。何故なら、俺は生きているから。
 したい、したくない。可能、不可能ではない。
 生きているから、考えるだけだ。他のすべては題目にすぎない。そう、本のタイトルのようなものだ。中身とは本来関りない。それに意味があると考えるのは、中身から目を逸らしたいからだ。完成されていない本来のそれを、どうにかして誤魔化したいからだ。本当に自身があれば、本当に確固としていれば、それは必要ない。飾りのようなものだ。はっきり言えば、無駄だ。そう、本末転倒。
 それは、重要ではない。
 渉は目を開いた。天井が見える。暗くはない。スプリンクラーと配置された光源……見慣れた光景だった。見慣れた、客室。
 そう、ここは真賀田研究所ではない。
 ここは船。これは客船。ハワイに向かう、豪華客船の上だ。その名は月の貴婦人。ミストレス・オブ・ザ・ムーン。M.M.号の中に俺はいるのだ。
 その名前が、渉の心の何かを加熱させた。
 M.M.。
 渉は横たわったまま息を吐く。そして、吸った。再び、ゆっくりと吐く。大丈夫、呼吸は正常だ。痛みもかなり治まっている。呼吸するだけで苦悶を生じていた先程までとは違う。今はもう、大丈夫だ。
 ならば、次へ。
 渉はゆっくりと片手を動かす。意外、と言うべきだろうか。痛みはほとんどなかった。自分にかけられた薄手の毛布……乳白色のそれの隙間から、手を出してみる。さらに力を入れると、自分の指が見えた。その途端、何か安堵めいた意識を得る。
 そうだ、俺はここにいる。ならば、これが……ここが、現実だ。
 単純極まる、だが、そうであるからこそ明解と断じられる思考で渉は己を認知した。自分が今の意識をどう評価するか、そんなことは考えない。今はこれでいい。今はただ、身体が欲しかった。そう、自分のために行動し、自分のために生きてくれる肉体が。
 そう、俺は自分が欲しいのだ。他の誰でもない、俺自身が。
 渉は身を起こす。手をつき、そしてゆっくりと上半身を持ち上げていく。途端、鋭い痛みが首筋から背筋へと走った。だが、今はそれを甘受する。そう、無視するのではない。渉はそのまま、ゆっくりと力を入れて……そして、それに成功した。
 息を吐く。首が痛い。とてもではないが回せる程度ではなかった。手で触れると、ギプスが填められているのがわかる。以前も一度経験があった。その時の違和感を思い出し、今の自分の落ち着きようはそのせいかと思う。だとすれば、傍目からは甚だみっともない姿をしているのだろう。だが、渉はそれについて何とも思わなかった。
 どうせここには、俺が案ずるべき人間はいない。今が何時かは知らないが、確実に三日目も終わろうとしているのだろう。だとすれば四日目、七泊の航海にとって丁度中間の位置に至ったことになる。勿論このまま平常に船が進んでのことだが、渉ははっきりと時間の経過を感じていた。
 そう、時は止まってはいない。このまま黙って眠っていれば、おそらくあっという間に残りの日々が経過し……そう、すべてが終わるだろう。そして、俺にとっての日常が戻ってくるに違いない。そして年が暮れる。来年になれば、この船のことなどもう忘れているだろう。出会った人のことも、交わした言葉も、体験した物事も、何もかもが記憶になり、そして思い出になっていく。それが常であり、当然のことだった。
 そうだ。今までが、ずっとそうだったのだから。
 ベッドに腰掛けるように身体を移すと、渉はゆっくりと深呼吸した。寝台はあまり上質とは言い難い。いや、この船に来てから初めて感じる、心地好くないベッドだ。そして、俺は見慣れない白いガウン……下着以外それだけをまとった格好でここに腰掛けている。見回せば、窓一つない六畳程の部屋に、扉は一つだけ。そこにある家具は、背の低いテーブルとそれに合わせた丈の低いパイプ椅子が二脚。そして、備えつけられた洗面台とトイレ。それらの無造作な作りが示すあまりの俗っぽさに、渉は呆れる前に感心した。だが同時に、できすぎている、とも感じる。そう、多くのドラマや映画で見てきたそのままのデザイン。そこに今、俺が存在する。
 渉はもう一度部屋を見回す。非日常……いや、非現実だろうか。どうにもあやふやな感覚がある。それはどうしてかと思い、この船の今までに比して、この部屋の調度が格段の差違を示しているからではと何とはなしに思った。そう、ベッドを含めてこの部屋の備品はどれも誉められたデザインではなく、ただ機能だけを追求した安物のようだ。そう思い、そして普段の自分の感性ならそれをどうとも思わなかったはずではと渉は気付き、驚く。そう、装飾のない調度品としての家具ではない、それに違和感を覚えるなど。桐生渉、お前はどうかしている。
 まったく、変わりすぎだ。渉は自分自身にそう思った。あの豪華絢爛なロイヤルスイート……船室番号001に足を踏み入れてから、いったいどれだけ俺は変わっただろう。今ではもう、感性から外見から何もかも別になってしまっているのではないだろうか。
 そこで渉はふと、昔話の浦島太郎のことを思った。そう、彼は開けてはならない玉手箱を開けて老爺へと変貌したが、それは本当に玉手箱を開けたせいなのたろうか?玉手箱を開ける前に、既に彼が老人に変貌していたとすれば?何も入っていない玉手箱を開けることで、彼は本当の……そう、貧しい漁村の一漁師にすぎなかった自分を思い出したのではないか?そして、今の今まで自分が体験していた竜宮城の華やかさと目の前にした現実のあまりの違いに、精神的なショックを受けたとすれば?いや、そのショックで白髪になるというのもあまりに幻想的だ。そうだ、そもそも、もっと前から……彼が実は、既に老人であったとすれば?物語の始めから彼は年老いた人間であり、玉手箱を開ける……それが空だったと気付いた時に、初めて自分自身が老人だと気付いたのではないか?
 だとすれば、俺もそうだろうか。俺もこの航海が終わって、那古野に……N大学に戻り、犀川先生や研究室の仲間、西之園さんに再会したら……老人になっているのではないか。無論、その場合の老人というのは……そう、歳月が変貌させる容姿や肉体的な特徴のことではないだろう。この場合、老いるとは精神のそれだ。前途を夢見、歩き続けるのが若者的な精神とすれば、前進を拒むように昔を顧み、今後に希望を持てなくなった精神が老人のそれであろう。だとすれば、俺もそうなるのか。過ぎ去った瞬間を顧み、愁い、悔みながら……あるいは懐かしんで生きていくのか。目の前にある現実を疎み、ないがしろにして……!
 渉は目を見開いた。かすかな……いや、はっきりとした震えがその手に走る。手先に走った震えは一瞬にして彼の肩口から胸、そして全身へと駆け抜けていった。
 そう、たった一度、渉の心に訪れた過去。時が刻まれるような、終わりなきそれを報せるような、それは、彼にとっての帰一であった。
『渉はこれから、どうするの?』
 声が聞こえる。思い出の、遥かなる記憶の中の声。
 だが、それは未来への標榜でもある。
 帰るべき、いや、変えるべき、未来。
 渉は顔を上げる。自然、笑みがこぼれた。まったく、おかしい。そうだ。俺は今まで、どれだけ同じように思っただろう。同じように感じただろう。まさに、繰り返している。限りない回数、幾度も、幾度も。
 だが、それが勉強というものだ。学習する、というものだ。修練、というものだ。誰のためにしていることでもない。俺自身が、俺自身のために、そうしているのだ。
 たった一度で、すべてを学ぶ者もいるだろう。いや、一度のそれすらなく、すべてを身につけてしまう者すらこの世には存在するだろう。
 だが、俺は違う。
 俺はそんなに、頭が良くない。
 俺は、優れていない。
 決して自嘲したのではない。卑下したのではない。
 渉は今、それをはっきりと認識した。
 なぜなら、指標がある。俺の中に、はっきりと比較されるべき指標が。それは俺自身にしか通用せず、そして、俺自身しか理解できないものだ。それを誰に説明しようとも、理解されないだろう。
 だが、だからこそ信じられる。それが間違いないと、断言できる。
 他の誰でもない。自分が、自分であること。今までの自分が、そのすべてなのだ。
 ならば。だからこそ、考えたい。渉は己の中のそれを定める。
 今を、これからを。俺が、俺自身が、どうすべきかを。
 そう、俺は生きているのだから。
 視線を向ける。そこに、一枚の扉があった。今まで船内で見た中で、最も無骨で無機的な扉だった。クリーム色というよりは、黄色に近い金属質の扉。しかも、あるべきはずのそれが存在しない。そう、この部屋の中にもそれはない。そして、無造作に置かれたテーブル、二脚の椅子、さらに客室としての美的感覚から桁外れに縁遠いであろう、カーテンによる敷居一つされていない洗面区画。それらを総じて、渉は事態……いや、この部屋の意味を理解する。そう、今更のように、深く。
 俺は、監禁されているのか。
 部屋の壁は淡いクリーム色だった。渉はゆっくりと立ち上がる。足の痛みも、腕のそれと同じく小さなものだった。やはりというか、頚部から上……いわゆる頭部に痛みが集中しているようだ。だが、渉はそれが嬉しかった。何よりも動けることが、今は嬉しい。そう、例え一歩踏み出しただけで、背筋から痛みが這い上がってこようとも。
 だがそこで、渉は気付く。扉と壁、そしてテーブルと椅子と洗面コーナー以外に、この部屋に存在するもの。他ならぬ渉自身も確かにそうだが、それ以外にもう一つ……鏡のような大きな四角の枠が、ベッドと別……扉を差し向かいにする壁に備えつけられていた。
 何だ?渉はそれが気になり、近寄る。横長のそれは、クリーム色の壁とほとんど変わらない……いや、より白い、純白に近い縁取りの四角である。面積はかなり大きかった。縦は120センチ、横は……少なくとも150センチはあるだろうか。額縁のようなそれは、だがしかし中は壁と同じ色に染められ、何もない。注意しないと気付けないような窓枠……いや、額縁、だろうか。とにかく壁の一面を占拠する大きさのフレームであった。渉はじっとそれを見つめ、そして軽く触れてみる。わずかに凹凸がある。壁に備え付けられているというより、構造的に一体化しているのだ。後から設置したようなものではない。
 ならば、これは何だろう。渉は思った。まさか、画面……スクリーンか何かだろうか。比率から考えてあり得ない話ではないが、だとすれば個室用としてはかなり大きなものだ。こんな大画面で映画を鑑賞できたら最高だろう、と何となく思い、だがこの部屋にはあまりに不似合いだとその考えを笑う。だがそこで、まったく別の何かが渉の心を過った。そうだ、これは……
 渉は首を振る。そう、検討するのは他を見てからでも遅くない。あれこれ悩むより、先に行動した方が理解が早い場合もある。渉はその白いフレームをそのままにして、次の目標に進んだ。
 壁よりは濃い黄色のドア。先程のフレームといい、この部屋は全体的として色使いが単調すぎると渉は思う。これでは、生活空間として決して居心地がいいとは言えない。だがそこで自分の置かれた状況と、そうだと仮定した場合のこの部屋の意義を推測し、渉はなるほどと納得する。良好なものが必ずしも正解ではない、という訳か。
 驚くべきことに、扉にはノブがなかった。さらには、ちょうつがいすら見当たらない。ならばどうしてドアだと認識したのだろう。渉は考え、部屋には扉があるべきだという先入観が為し得たことではないかと思わず苦笑した。だが仮にも自分がいる以上、どこかに出入り口があるはずである。そしてこのドアがそうでないとすれば、それこそからくり屋敷のように別の場所に秘密の入り口があることになる。そんな突拍子もない考えを巡らせるより、取っ手のないドアが存在することを認知した方が早い。そう、理論的に納得できる。
 とにかく、渉はドアに手を触れてみた。冷たい金属の感触。無駄だろうと思いつつ、少しだけ……そう、ほんのわずかに力を込めてみる。思った通り、扉には動く兆しはまったくなかった。加えれば、前後左右に上下方向まで含め、このドアがどちらに開くのかも定かではない。
 渉は軽く息をついた。嘆いたのではない。どうせ開くとは思っていなかったのだ。加えれば、その必要すら今はまだ感じない。無論、屈辱的な気分は彼にはなかった。それよりも遥かに順位の高いそれとして、目の前に考えるべき問題があったのである。
 そう、今は考えたかった。そのための、時間が欲しい。
 この船に、何が起こったのか。俺の身に、何が起こったのか。そして…… 
 何よりも、彼女のことを。
 渉はパイプ椅子の一つに腰掛けた。堅いベッドとどちらがまし、という感触だったが、だからといって文句を言うつもりはなかった。今は座れれば何でもいい。この部屋と同じで、取るに足らない。
 腰掛けると、今更のように痛みが伝わってきた。だが、あえてそれを感じる。さらに痛みが増してきたので、勢い脚を組んだ。途端に刺すような痛みが鈍いそれへと変わる。渉はかすかな満足感にほくそ笑んだ。
 さて、と。渉は大きく息を散らす。呼吸が乱れていることがわかったが、そちらは無視する。不思議なことに空腹を感じず、ならばどれだけの時間が経っているのかと自問した。さあ、わからない。相当の時間が経過しているようで、実はそれほど経っていないのかもしれない。
 だがそれでも、時間が過ぎ去ったことは事実だった。記憶が、それを教えている。そう、俺は見た。聞いた。体験した。それらは既に過去のことであり、俺の記憶となってしまったことだ。そしてそれは、その記憶は、変えようもない。
 ならば、どれから考えるべきか。最も近しい記憶からか。それがいいように思えた。過去に戻れば戻るほど、定められる起点はあやふやとなる。下手をすれば自らの出生にまで遡ってしまうかもしれない。勿論それは大袈裟だったが、渉は自分の思考が余計な岐路を経てしまうことを怖れた。ならば、最も近いそれがいい。
 そう、そうだ。あの部屋。あの……赤い部屋の記憶だ。
 俺はあそこで、あれを見たのだ。
 
 


[359]長編連載『M:西海航路 第二十八章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時17分 Mail

 
 
 だがそこで、渉の思考は中断された。外的な因子によるそれである。つまるところ、小さな音がしたのだ。何か、聞き慣れないかすかな響き。ドアからかと思ったが、それは違った。むしろ、それと反対方向……渉が腰掛けた向きから右手を扉とすれば、左手から聞こえてきた音である。
 渉は向く。そして、それを知った。同時に、先程の疑問の一つが氷解したのを感じる。そう、それはまさにそれを目的として作られていたのだ。だが、同時に新たな疑問……新たな謎とでも言うべきものが持ち上がる。
 誰だろうか、この男は。
「桐生渉君だな?」静かな、だがどこか濁りのある重苦しさを宿した声。「どうかね、君。意識ははっきりしているかね?」そう、誰なのだ、この男……大人は。
 壁と一体化した、縦横それぞれ一メートルを越える大きなスクリーンの向こう。そこに、男はいた。
 無論、これは画面を介した映像である。だがその映像は、驚くほど鮮明だった。これほどの大きさでありながらクリアな画質を持つモニタに、渉は感服する。もしかすると……いや、間違いなくこの部屋で最も費用がかかっているであろう。おそらくは、この部分を除く部屋全体の工費と同等か、あるいはそれ以上なのではないか。ある意味で馬鹿げたその物々しさ……いや、映像装置が、渉のどこかをかすかに刺激する。だが今は、この映像の由来よりもその映し出された中身に注意を払うべきだろう。渉は思考力を方向修正する。
 画面の向こうで、男は椅子に腰掛けていた。その椅子は、渉のそれと対照的に立派な物に見える。始めに目に付いたのは男の持つ黒い目だった。それがどこかせわしなく動き、渉……あるいはこの部屋を物珍しそうに見ていた。
 渉は相手をじっくりと観察する。成人男性。東洋人……十中八九、日本人だろう。年齢は……そう、おそらくは五十過ぎ、であろうか。一目で脂性とわかる肌に幾筋も皺が入り、どこかやぶにらみな目とあいまって、お世辞にも男の形容は美的なそれを刺激されるとは言い難い。だがそんなことは関係なく渉の眉根を心持ち寄せさせたのは、男が放つ雰囲気……いや、語る声の中に感じられる、ある種の尊大さのようなものだった。
 そう。まるで、汚らしい何かと相対しているような物腰。
「頭は大丈夫か、と聞いているのだがね。」それは、男が次に発した言葉で確証を帯びたそれとなった。「それとも、自分がしでかしたことの大きさに、口も聞けないのかね?」多くのそれが渉の中で肯定される。男は嫌味……いや、そういった形容を遥かに越えた態度を示して渉を睨み付けた。
「はい。」渉は努めて冷静に答える。そう、渉が相手の素性を思い量らなかったのは、一重に……「船員の方ですか?」そう、相手の衣服……着ている制服にあった。渉が見慣れた……そう、村上船長や芹澤航海士などが身に付けている、黒と白の清潔そうな制服。だがまさにその服を着るために生まれて来たように見える村上船長などと違い、目の前の男が身に付けた制服は制帽共々、お世辞にも似合っているとは言い難い。渉は私意を含む以前に、はっきりとそう感じた。
「船員?」わざとらしくそう口にする男には、さらなる……そして、はっきりとした侮蔑が含まれていた。卑下もあるだろうか。渉に対するそれと同様に、船員という言葉で連想される、水夫……そういったいわば『指示を受ける立場』とでも言うべき人々に対する侮蔑があり余る程に感じられた。「君は、私が誰だかわからないのかね?」順番に吊り上がっていくような響きの声。渉はふと、何か……いや、誰かを思い出す。そう、これと同じような……「まったく、信じられんな。まさに呆れる……」呟き。呆れる、という点ではまさに渉も同意だったが、だからといってそれを発言する気にはなれなかった。
「ええ、俺には貴方がどなたなのかわかりません。」自分でも驚くほど静かに言葉が出る。「それが非礼であるというのならば謝ります。ですが……」その原因……いや、理由はすぐにわかった。どこかに、極めて冷静な自分がいるのだ。意識の中……心の奥底、と言ってもいいだろうか。この状況を完全に理解し、そしてもしかすれば、もっと多くのことを悟っている自分。それが今、この言葉を紡いでいる。「……推測で物を語るのはそれこそ非礼ではないでしょうか。貴方がこの船のクルーの中でも指折りの地位にいる方だというのは察しが付きます。ですが俺はあいにくと、船舶の乗務員についての専門家ではありません。当てずっぽうな指摘をして、それこそ貴方に不快感を与えるのは得策でないと判断しました。」何をしているのだろう、と渉は思った。そう、立ち尽くしている自分を感じる。今、冷ややかに語っている自分とは別の自分である。まるで意識が二つあるような……それは意識するだに異様であり、だが同時に、不思議と心地好いそれでもあった。そう、どこか懐かしいような。
「奸佞邪知、か。まさに聞いた通りだな。まったく、救い難い……」吐き捨てるように言うと、画面の向こうの男は渉に笑いかけた。おそらくは、思惟と対極のそれである。「まあいい。犯罪者とまともに接しても仕方あるまい。」渉は眉をひそめた。それを見越してか、笑いが強まる。嘲り。「ほう、図星を指されるとひねくれようもないかね?人間、常に素直であらねばならんよ。特に、お前のような世間知らずの若僧はな……」笑い。これ以上に気味の悪いそれに出会ったことはないかもしれない。渉は心底からそう思った。あらゆる意味で、不快である。
「時間の無駄だとは思いませんか?」渉は不意にそう切り返す。「正直、俺には何もかもがさっぱりなんです。考えたいことは山のようにある。それに比べれば、貴方の正体なんて取るに足りません。こんな下らない会話をする暇があったら、計算問題の一つでも考えていた方がましです。」懐かしく感じる物言いだった。渉はこれみよがしに肩をすくめる。「要点だけ教えてくれませんか?」
 まさに自分が自分でないようだ、と渉は思った。だが、それが小気味好い。言いたいことをはっきりと告げ、そしてなお悠然と構える自分。そうしたいと常に思い、そして本来ならばそうできない……できなかったはずの自分。それが今、面に出ている。意識している、でいいだろうか。そう、自意識の一つ……そんな形容があればだが……それが、渉本来の性質を無視して身勝手に行動しているのを渉は感じた。だが、それは不快ではない。むしろ、とても愉快だ。そう、こんなに楽しいことはない。
 案の定、画面の中の男は目を剥いて渉を睨み付けた。大きめの制帽がなければ、怒髪天を衝く、という形容が最もふさわしかったであろう。拳を握り締めて、そして唇がわなわなと蠢く。それが自分にとって一片の不安も呵責も産まないことを渉は驚いた。
 そう、俺はこの男がどう思おうと気にならない。俺は、俺だ。むしろ、こういう対応をされて当然の言葉を吐きながら、そうされて心外だというこの男の態度が興味深い。
「よかろう……」冷たい響き。渉はほくそ笑むように画面を見上げる。まさに、敵愾心というものが肉眼で見える……いや、肌で感じられるようだ。一瞬、画面越しに二人は見つめあい、沈黙した。その最中、渉はまた自分に呆れ、そして嘆く。見ず知らずの人物を相手に、何をしているのか。「桐生渉、君を御原健司氏に対する殺人犯として断定する。」呼び捨てか、と思い、そして続く言葉に渉は片方の眉を持ち上げた。
 殺人犯?
「該当者の身柄は国連の定める国際海洋法に基づき、次回寄港地に至るまで当船にて拘束、留置する。同時に船内規約による乗員監督権限を以って該当者と当船との旅客運送契約を破棄し、該当者の持つ旅客資格と一切の権利を剥奪する。これに違反する行為があれば直ちに船内規約により処断、あるいは断罪する。この場合には拘束、留置以上の処置も当然含まれる。」
 どうしてだろう、と渉は思った。先程と違い、こうして冷徹に語っている時には、むしろこの男に好感を覚える。そう、まさに懸命な意識が感じられた。今は一流の公務員……いや、まるで政治家のようだ。
「なお、次回寄港地及びその領海に入り次第、該当者の身柄は該当国家の司法機関に引き渡され、該当国家の法を以って事前事後に関わるすべての司法処理が行われる。結果の如何に関わらず、当船とその船主及び全乗務員は該当者に関して一切の利害関係を主張あるいは追求、加えて責任の権限を有することはなくなる。ただし事件時の船客による裁判を含め別個の司法交渉についてはそれに該当せずとする。」
 読み上げているのではない、記憶しているのか。渉は今一度、じっと相手の顔を見た。しわの濃い、男の顔を。
「以上、現時点での当船最高責任者より通達、直ちに執行する。該当者に現時点での否認権は存在しない。発言は認可されるが、後の司法処理時に重要証拠として船主側が提出する可能性をここに通告する。桐生渉君、よろしいかね?」
 挑戦的な……いや、形容しようのないほど残酷な邪気で満ち満ちた笑い。まさに見下ろす者の優越感だろうか。渉は努めて冷ややかにそれを……画面の男を見返す。今語られたことを理解できない訳ではなかった。むしろ、これ以上はないと言える程にわかりやすい。
「拒否できないのに、よろしいもよろしくないもないんじゃないですか?」渉は静かに答えた。「ただ、一つだけ質問があります。いいですか?」
「何だね?言ってみたまえ。」寛大な素振り。自分のそれに、自分で満足している。だが、それは人として当り前か。渉は思う。
「貴方は誰ですか?」男は絶句したようだった。渉は構わず続ける。「今、現時点での最高責任者と言いましたね?村上瑛五郎船長はどうしたんです?更迭でもされたんですか?」
 渉は至って真面目な質問をぶつけたのだが、それはこの相手にとって、なぜか逆鱗に触れる一言だったらしい。「ふざけるな!」渉は再びデジャヴを感じる。「どこまでも、まったく……」どうも世の中には、自分の名前がすべからく既知されていなければどうにも我慢できない人種が存在するらしい。渉にはどうにも理解できなかった。そんなに名前を知らしめておきたいのならば、胸に名札でも下げていればいい。渉は真摯にそう思い、そして、ふっと思いつく。
 そうか、確かにそうなのかもしれない。だとすれば、この男は何もおかしい訳ではない。
 だがそんな渉の思いをよそに、どうやら画面の向こうの男は堪忍袋の緒が切れたらしかった。あまりにも単純である。
「いいか、私は北河瀬粂靖だ!」クメヤス、という名前に不思議なアクセントを付けて男は叫んだ。だが渉を驚かせたのは、その名字だった。そう……北河瀬?「いいか、若僧!貴様が殺した御原先生は、私とT大同期……いいか、三十年来の親友だったんだぞ!」爆発したように叫ぶ。憎々しげな瞳。脂ぎった頬に汗が流れ落ちているのが見える。渉はその剣幕に何も感じなかったが、別の場所で何かが閃くのを感じた。そう……だとすれば、だ。
「いいか!先生の器ならば、将来は大臣……いや、もっと先すら夢ではなかった!」怒号だった。心底からそう思っているのだろう。「それを、国家として大切な人間を、よくも、お前は……絶対に許さん!いいか、覚えておけ!金輪際、日の下を歩けなくしてやる!万が一無能な司法処置などで、軽い刑罰が下ろうものなら……いいか、私の持つすべての力を使ってお前を破滅させてやる!いいか、絶対にだ!若僧、貴様がしたことの罪の重さを、徹底的に、一生涯、永遠に償わせてやる!いいか!覚えておけ!」いいか、という言葉は、この男の口癖なのだろうか。渉は数を数えておけばよかったと思い、そしてそんな渉の目の前で、男は振り上げた手をブルブルと震わせ……
 そして、唐突にすべてが消える。画面が一瞬明滅し……そして、白色の縁の中に、クリーム色を取り戻したスクリーンだけが残った。一瞬前まで、そこで指を付きつけ、激情に唾を飛ばしていた男はもういない。
 北河瀬粂靖、か。
 渉は座り心地のよくない椅子に腰掛け直した。深々と息をつく。コーヒーが欲しい、と強烈に思った。吸いはしないが、煙草でもあればいいな、と思う。なるほど、こういった時に欲しくなるものなのだろうか。勿論試してみようとは思わないが、喫煙する人間の思考を少しばかり理解できたような気がする。ふっと、大学で指導を受ける二人の人間を思い出した。例えようもなく対照的な、それでいて似ているところもある、二人の男女。
 まあ、とにかく……と渉はもう一度目の前を見上げた。そこには何もない。たった今まで怒れる男を映していたスクリーンは、もう既にただの壁としての姿を取り戻している。その変わり身はあまりにも見事だった。見事すぎて、今の対話の現実味がほとんど感じられないほどだ。
 だが。渉は笑った。そう、それも当り前だ。奴、北河瀬粂靖が何者かは知らないが、元より彼が目の前に直接相対していた訳ではない。あの映像が本物であり、彼が現実として存在する『本物の人間』であるという証拠も、今はまだどこにもない。少なくとも、俺には。それはテレビの中でしか見たことのない数多くの有名人……スポーツ選手やタレント、俳優やアイドルなどのそれと酷似していた。そう、彼らもまた現実味がない……それが希薄なことでは同じだ。
 だが、それはどうしてだろうか。目の前に存在し、視覚、あるいは触覚、聴覚、嗅覚、果ては味覚……五感と呼ばれるそれらの感覚すべてによって確認できなければ、どうしても認知できないというのか。ならばそれは、見方によっては俺の意識の問題で……そう、矮小とでも言うべき視野の狭さを示しているのではないだろうか。だとすれば、俺にとっての『現実』とは、あくまで自身の肉眼で見える範囲のことだけなのだろうか。
 なら、どうしてそれが変わるのか。移動するからか。移動することによって、俺は今まであった『現実』という世界を捨て、新しい世界……別の『現実』へと入っていくのだろうか。なら、今の俺にとって、『現実』とは何だろうか。N大学の日々も、先生や西之園さん……先輩や後輩達とのゼミでの生活も、既に今の俺には現実ではないのか。だが、確かに、ある面でそれは正しい。今の俺には、この小さな部屋がすべてだ。望む望まぬ、ここに至る理由はどうあれ、こうなってしまったのは事実だろう。なら俺は今から、この状況をただ一つ……唯一絶対の現実として受け入れ、他のすべてを現実感に乏しいとして無視……いや、軽んじていくのだろうか。
 だとすれば、過去とは何だ。形もないただのそれに、今はもう存在しないそれに、どんな価値がある。そうだ。今、俺が抱いた考えをこれほどはっきりと拒絶、あるいは否定しようとする強烈な意識は、どうして……いや、何を根拠に存在するのか。どちらが正しいのか。俺にとっての、現実とはどっちだ?
 いや、そもそも……現実とは、何なのだ?
 渉は息を吐いた。乳白色の閉ざされた部屋。そう、まさに密室だ……窓一つないその環境に、今、渉は初めて圧迫感を抱く。どうにも息が苦しい。どうしてかと思い、そして、痛みに気付いた。いや、思い出したのだ。そう、今ようやく、頭も首も、そして身体のあちこちもずきずきと痛みを訴えていることに気付く。
 不意に、渉は疲労を感じた。転がるようにして椅子から……ベッドの上に横になる。それだけでも苦痛はさらに強まった。どうしてだろう、と思う。今まであれほどの言葉を……意識を交わしながら、まったく感じなかったのは。どうして平気だったのか。集中していたからか。だがだとするとそれは反面、意識していなければ感じなかったということになる。それは当り前のようでいて、そしてとてもおかしな気がする。
 ならば、意識しなければ痛みも感じないのか?
 いや、痛みだけではない。
 意識しなければ、現実すら感じないのか?
 渉はごろりと横になった。堅いベッドだった。輝く天井が見える。それを見上げて、そしてなお、渉は考えた。だが、痛みは消えない。その事実が、今の自分の抱いた示唆を、はっきり否定する要素のように思える。
 どうにも、わからない。何もかも、不明瞭だ。
 そう、わからないことが多すぎた。その半面、一方的に宣告され、引きずられ、気が付いてみればということが多すぎる。まさに芝居、誰かに操られているようだと渉は思った。まるで自分の意志を持たぬ人形のように、誰かの手に……思惑によって、俺は動かされているのではないか。だとすれば、いつからか。どの時点からそうなのか。記憶を巡らせ、そして刹那の瞬間を越えて、渉はある名前を思い出した。
 真賀田四季。
 震えが走る。畏怖。まさに、畏れ。
 そうなのか。
 本当に、そうなのか。
 いや、わからない……
 助けが欲しい、と渉は切実に願った。誰でもいい、迷夢のような世界を、直面すべき行く手を補完してくれないだろうか。そう、誰でもいい……
 考えながら、渉は瞳を閉じた。眠りに陥ることはなかった。それが怖かったのではない。ただ目蓋を閉じるだけで、さらにおびただしい疑問が彼の前に現れ、そして、果敢なく散っていった。
 尽きることのない、意識の輪舞。
 桐生渉の航海四日目の朝が、まもなく訪れようとしていた。
 
 


[360]長編連載『M:西海航路 第二十九章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時18分 Mail

 
 
   第二十九章 Method

   「卓見ですこと」

 
「おはよう、桐生君。よく眠れた?」開口一番、彼女はそう言った。
 桐生渉は口を開く。「おはようございます。」表情を装う必要はなかった。自分でも驚くほど自然に、渉は笑うことができた。「そちらの人は?」考える前に問いが出る。
「よかった。元気そうね。」月の貴婦人号の船医である悴山は、手にした帳面のような紙の束を小脇に抱え直すと渉にほほえみ返した。当然のことながら、首にギブスをはめた渉のそれより数倍チャーミングなそれである。縁の大きな眼鏡の下で、大きな目が本当に嬉しそうに笑っていた。「この人はロバート・グロス。この船のセキュリティ・クルーよ。階級は一等。」そこで、片目をウインクさせる。「まあ一等と言っても、その上に上等、警長、副主任、主任ってあるみたいだけれど。一等の下は二等で、しかもどうやら形骸化してるようだから、つまり彼は平社員、軍隊の一兵卒ってとこかな。チェスで言えば、ポーンね。まあ、その他大勢……大して偉くはないってこと。」
 意味ありげに目配せを送る悴山のすぐ脇で、渉が正体を尋ねた人物……金髪を短めに刈り揃えた見るからに体躯のいい男が眉をひそめた。渉が初めて見るその制服はポケットが多く、何やらバッジやマークの入った刺繍などが山ほど付けられている。まさにというか、映画などで見る軍隊や特殊部隊の兵士そのものだった。これで銃を下げるホルスターでもあれば……と思った矢先に、渉はスクリーンの下縁ぎりぎり……男の腰に下げられた何かの武器に気が付いた。灰色の、長い棒のような……おそらく、アメリカの警察で使われるナイトスティック、つまりは警棒ではないだろうか。渉は過去に読んだミステリィの知識からそう察する。
「でも、安心していいわよ。実は彼、日本語がてんで駄目みたいなの。」画面の向こうで、悴山が肩を軽く持ち上げて笑った。「だから今、私達が話していることの半分……ううん、三割程度しか理解していないでしょうね。うーん、それも無理かな?拾えて一割?」おかしそうに、傍らのいかめしい男……ロバート・グロスをいちべつする。彼、ロバートの顔は現れた……いや、スクリーンに映った時から険しく、何事も見逃さないといった様子である。だが、その青い視線は渉を直視してはいない。
「とにかく、安心して。」悴山は渉に向き直って声を出さずに笑った。「彼の態度に文句があれば、いつでも言っていいわよ。ロバートさん、その顔面神経痛みたいなこめかみの張りは見苦しいです、なんとかして下さいっ!とかね。あははっ。」
 まさにほがらか極まる悴山の話に、渉の緊張はようやくほぐれた。いや、自分が緊張していたことを今の今まで渉は自覚していなかった。そして同時に、この画面の向こうの女性……悴山という女医の第一印象を思い出す。そう、とにかくお喋りで……
「わかりました。」だが、そこでふと思う。何か、違和感がある。
 渉はわずかに黙した。その違和感は、小さな……だが、どこかはっきりとしたそれだった。何だろうかと画面の二人を見て……そして、最初に浮かんだ疑問で、その理由に気付く。
 そうか、さっきの……そう、あの北河瀬粂靖の時と状態が違うからだ。悴山、彼女は一人きりではない。差し向かいの対面ではない……きっと、俺はそれを疑問に思ったのだと渉は納得する。そう、俺が仮にそういった事件……渉は自身の思考に苦笑する……それの犯人だとしても、別に実際に面と向かっている訳ではない。現実に相対するならば確かに彼のようなセキュリティによる護衛も必須だろうが、そうではないこの場で、どうしてそうなのか。おそらく、俺はそれを違和感として感じたのだろう。
 だが。渉は笑う。それこそ、当り前だ。おそらくこれが普通で、さっきのあの男……そう、北河瀬粂靖が例外なのだろう。仮にも……そうだ、仮にも船の責任者を名乗っていた男である。
 渉はそこで、胸中にある疑問の一つを呼び覚ます。あの男は何者だったのか?一方的に現れ、一方的に逆上し、まくしたて、そして……一方的に、消えていったあの男は。
「桐生君、眠くない?意識ははっきりしている?」先手を打つように悴山が尋ねた。渉は頷く。そうだ、今は……「はい。どうにか……というか、さっきの話……北河瀬さんですか?あの人から話を聞いて……」悴山が何か困ったように口許を結ぶ。渋味のある表情で、渉は思わず笑いを浮かべそうになった。「その、大方の経緯は察することができますけど。もっとも、ここが俺の部屋かどうかは、今一つ自信がありません。」下手なジョークだった。いや、ジョークにもなっていないか。渉はそう思い、そして悴山を見る。
「ふふ、でしょうね。」画面の向こうで悴山は笑った。「ねえ、座ってもいいかしら?」今の今まで彼女が立っていたことに気付き、渉は慌てて頷く。渉自身も、悴山の来訪……壁に作り付けられたスクリーンの作動によって横たわっていたベッドから跳ね起き、椅子に腰掛けたばかりだった。勿論、寝ていた訳ではない。あれからどれくらい経っただろうか。渉は思う。そう……二、三時間?
「ありがとう。」おそらく北河瀬の時と同じ部屋で、椅子が用意されているのだろう。悴山も会釈して、椅子に腰掛けた。前回とまったく同じ構図で、画面越しに二人が相対する形になる。違うのは第三者が……ロバート・グロスがいることであった。彼はといえば、悴山のすぐ背後に下がると、そこで不動の姿勢を取る。見えないし聞こえないが、靴のかかとの音が聞こえてきそうな見事な動きだった。
「さて、と。」悴山は手にしていた帳面……それは横文字、おそらくは英語で書かれていたようである……を面倒くさそうに脇に放ると、軽く脚を組んで渉を見た。彼女は相変わらず白衣である。「とりあえず、単刀直入に聞いておきましょうか。まわりくどいのも何だし……ね、渉君。御原健司さんを殺害したのは貴方?」
 瞬間、渉は頭から冷水をかれられたように息を詰めた。心臓が萎縮……いや、畏縮、だろうか。そうなったのがはっきりとわかる。時間が止まった、という形容が最もふさわしいであろう。そう、確かに渉の時間は止まった。思考の停滞をそう称して構わないのであれば、それに間違いない。
「御原健司さんを殺害したのは貴方?」
 再度のそれだったのか。胸中で再認識されたそれか。渉は判断できない。ただ、視界が凝固する。目の前のスクリーン……少しばかり見上げる位置にあるその大画面の向こうに、脚を組んだ白衣の女医。その背後、渉から見て左奥に体格のいい男。その二人がいる、部屋。ここと同じく、その部屋に装飾はほとんどなかった。無機質な、白い部屋。
「あ、あの……」渉は必死に自らの凝固を解こうとする。そして、それが叶った。いや、解こうと思った時点で、凝固は終わっていたのだ。「御原さんは……亡くなったんですか?」愚かな口を聞いている、と渉は思う。だが、その質問は必要なものだった。渉は北河瀬が現れてから今までの自分を……今再び、思い出す。言い方はともかく、そう、俺にはその事実を瞭然とするための確証がない。
 だから、必要だ。生死の確認はされなければならない。
 渉の問いに、悴山は大袈裟に両手を持ち上げた。「ええ、そう。もしかすると、覚えていない?彼の部屋で……」考え込むように口許を引き締める。「ね、渉君。意識はまだ、はっきりしていない?」無邪気な表情と、こういった歳上の……いわば、姉のような顔をする悴山の二面性を渉は思い出す。そして同時に、あえて今の問いを否定しないでおこうかと考えた。そう、それも一つの道だと感じる。確実に存在する、目の前の選択肢の一つ。
 だが。「いえ。覚えています。所々……特に、前後の経緯はかなり曖昧ですけど……」渉は首を振ろうとして……痛み、いや、むしろギプスのもたらす圧迫感に顔をしかめた。「ただ、御原さん……あの人が、本当に亡くなっていたかどうか。それが、気になって……」嫌な感覚はすぐに治まった。そう、許容できる範囲だ。
「そう。」悴山はにこりともせずに言った。「ええ、彼は……あの部屋で倒れていたのは、正真正銘の御原健司さんに間違いないわ。そして、彼は死亡した。当り前というか……あの状態ではね。すぐに見つかれば違ったかもしれないけれど……」相変わらずというか、映像と同期する声は実に鮮明だった。まるでそのまま……このフレームの向こうにいる彼女と相対しているようだ。スピーカーはどこにあるのだろう。渉はそう思ったが、目を逸らすことはできなかった。
「時間が経っていたんですか?」渉は聞き返す。「御原さんの死亡時刻は?いや、それより今は何時……何日です?俺は、あれから……」
「ストップ。」悴山は軽く手を挙げて渉の問いを封じる。「桐生君、貴方の質問には全部答えるわ。私が答えられる限り、一つ残らずね。だから今は、先に私の質問に答えて。フィフティ・フィフティで行きましょ。ね?」質問?渉は怪訝にそれを思い、そして、その問いが何であるかを思い出した。
『御原健司さんを殺害したのは貴方?』あっけらかんとした、あまりにも明々白々な悴山の問い。そう、まるで、それが当り前……当然であるかのような、問いかけ。
 渉は息を吸った。そして、吐く。「違います。」あの場の有様を思い出す。「俺は、殺していません。」今を以って、あの状況における記憶は完全に鮮明とは言い難い。「そもそも、どうしてあの部屋にいたのか……それが、わからないんです。」それはまぎれもない真実だった。だが、その後の……いや、要所要所のそれははっきりと記憶している。
 怒号。罵声。そして、悲鳴。血塗られた室内と、ソファに腰掛け、力なく屈した男。その背中にあった、幾重もの無残な傷口。自分が……そう、渉自身が握り締めていた、ナイフ。そして、最後に見た……
「わかったわ。」悴山の表情は読み取れなかった。「ごめんなさい、桐生君。とにかく、答えてくれてありがとう。でも、今は念を押しておくわね。」微笑する。「ねぇ、桐生君。本当に、御原さんを殺していないと言い切れる?絶対に違うって、確信がある?」
「えっ……」渉は唖然とする。一瞬、再び思考が停止しかけ……そして、悴山は微笑したまま話し続けた。
「考えてみて。いい、他人に対する答えじゃない。自分のそれを、自分に問いかけてみて。」どこかゆっくりと、韻を踏むように話す。「あの部屋を思い出して、そして、貴方の心を探ってみて。記憶と感情……あの時のそれらを、よく吟味してみて。」悴山はどこか妙な……そう、甘い響きとすら感じられる声を放ち、渉を見つめた。「ね、渉君。御原さんを殺したいと思ったことはない?彼の背中に、ナイフをふるった覚えはない?」その甘い笑みから出てきた言葉だった。「絶対に、殺していないと言える?本当に、断言できる?そこまで、自分の意識を信じることができる?」
 渉は戦慄した。「な……」この女……いや、彼女は何を言っているのだ。「じ、冗談じゃないです……そんな、覚えなんて……!」だが、そこで、彼はふっと思う。
 いや、思い出す。何かを。そう、何か、強烈な意識。いや、意志だろうか。
 そうだ。本当に、ないのか?本当に、覚えはないのか?
 俺は、人を殺していないか?
 いや、殺したいと……そう、思ったことはないか?それを、思っていないか?
 ナイフを……それを握った腕を、ふるっていないか?
 本当に、確実に……
 絶対に、そうであると……お前は、言えるか?
「理性的にね、桐生君。そして、できれば客観的に。」画面の向こうで、悴山は渉を諌めるように首を振り、眼鏡を外した。「人間、そう誰もが記憶を残らず鮮明にしている訳じゃないわ。勿論例外的に、そういう人もいるけど。例えば五歳の夏、どこで何をしていたか尋ねられて、貴方は簡単に答えられる?」静かに語る。その瞳……不可思議なきらめきに包まれた悴山のそれが、渉を見つめた。「昨日のこと、ついさっきのこと、それが簡単に思い出せるのは当り前のようだけれど、でもね、それって結局は個人の記憶力の問題よ。もし一年や十年前の出来事が簡単に思い出せたからって、決して頭が良い訳じゃないわ。過去の記録が必要なら、アルバムやフィルムみたいな機械的なデータで十分。私が聞きたいことは、それとは違うことなの。」悴山はそこで一旦区切る。
「どういう……ことですか?」渉は聞き返す。悴山は頷き、眼鏡をかけて渉を見つめた。
「記憶なんて、あくまで精神の指標の一つ。そんなもの、ほとんどは自意識を量る目安としての役にしか立たないわ。私が聞きたいのはね、桐生君。貴方自身が、御原健司……彼を殺したと、意識しているかどうかよ。」眼鏡の奥の瞳が、スクリーン越しに射抜くように自分を見据えている。渉は、悴山という女性の新たな一面を見た気がした。そう、ずっと気付かなかった……「勿論記憶と同様に、感情的なものもあくまで指標の一つとしてくれると助かるわ。つまり、貴方が御原健司という個人をどう思っていたか、それも、はっきりいってどうでもいいの。誰でも、好き嫌いはあるもの。その対象が人間でも人参でも、大した違いはないわ。」軽く指を持ち上げる。白い指だった。「私が知りたいのは、貴方の意識に彼、御原さんを殺害したと思っている部分……つまり、意思が存在するかどうか。それだけよ。」また、微笑する。「そういう意識はね、本当に強固なの。堅固って言った方がいいかな?とにかく、心に刻まれて……ずっと、消えないものなの。記憶よりも遥かに鮮明で、感情より何倍も明瞭。つまり、純粋な……ピュアなそれね。人の持つ記憶や感情は、それを導き出すための副因でしかないわ。ううん、それがむしろ邪魔に……時として、個人の本当の気持ちを隠してしまう原因にもなる。私が知りたいのは、桐生君の意識……自意識そのものよ。」ゆっくりと、噛み砕くように。だがそこで、悴山はクスッと笑った。「そうだ。理系の渉君には、方程式でも挙げた方がいいかな?」小さなえくぼが現れ、そして、消える。「そうね、この場合は……y=f(x)ね。渉君、意味がわかる?」
「え……」渉は突然女医の口から出た問いに当惑する。「関数……ですか?」わからないはずもない。だが、悴山の微笑は明らかにそれだけではないという示唆を含んでいた。
 渉は考える。そんな彼に、画面の向こうで悴山が目が細める。「うん。わかりやすいわよね、この方程式。私、とても気に入ってるの。」少女のように無邪気に悴山は笑う。渉はいぶかしみ……そこで、ふと気付く。どこか、懐かしい感覚。
 そうだ、確か……「つまり……」そして、思い付く。「この場合のyは、俺の意識……?」いや、それは思い付きなのだろうか。渉は目の前……スクリーンの中の女性を見つめながらそう自問した。心なしか、その瞳がきらめいた気がする。黒い……いや、違う。何か……「だったら、fは……俺の、記憶……?」そう思い、式の解を顧みる。「いや、違いますね。この場合はきっと、包括されるxが記憶だ。だとすれば、fは……そう、俺の感情……ですか?」
「ピンポーン。」悴山は指をピッと一振りして、嬉しそうに頷いた。「さすが、桐生君。うんっ、冴えてるわね。どう?そう考えると、わかりやすくない?」
 わかりやすい、か。渉は思う。y=f(x)。子供でも……いや、中学か……とにかく、数学を少しでもかじったことがあれば理解できるであろう、一次関数の基本式だ。二つの変数であるxとyがあり、xの値を定めればyの値が決定される。それを、この女性は人の意識……自意識を考えるに適していると言っている訳か。
 y=f(x)。つまり、変数xを個人の記憶として……それに自分の感情、つまりfを包括する形でかけ合わせれば、結果としてy……つまり、人の意識が算出される……?
 渉は顔を上げた。「確かに……そうかもしれませんね。」考察を続けながら、ゆっくりと答える。「でも、記憶と感情だけで……人の意識、それとも自意識、ですか?それが、本当に計算できるんですか?」言いながら、自分でも考えていた。そう、y=f(x)。変数としてのyとx、そして……
「できない?」あっけらかんと悴山は聞き返した。まさに無邪気な様相である。「人の意識なんて、結局は過去の記憶とその場の感情で組み上がっているだけじゃない?」何とも捉えどころがない、渉はそう思った。さっきは意思、いや自意識を何よりも大切そうに言っておきながら……
 だがそこで、渉はふと気付く。そうだ。彼女もまた、誰かに似ている……「意識、の定義が曖昧じゃないでしょうか?」反論しつつ、渉は妙な感覚に軽く片手を握った。何を考えている。俺は……「つまり、人の心ですか?心は、記憶と感情で成り立っていると……」
「心というより、精神……いや、心理ね。」悴山は肩を小さく持ち上げた。「まぁこの場合の心理は、働きというより、内なるそれの方がわかりやすいかな。あ、勿論まことの方のシンリじゃないわよ。そんなものは哲学者にでも考えさせておきましょ。」笑う。スクリーンの向こうで、楽しそうに。
 渉は唸った。「うーん。数式、ですか……でも、関数はあくまで関数で、心理の問題とは……」考える。ふと、また懐かしい記憶を思い起こした。
 そうだ、『変化』と『運動』。関数が関数として生まれた理念は、そこにある。確か、俺は……
『運動でもして、健康に留意しましょう、だって?』なつかしい記憶。そう、ある日の午後だった。研究室で……『まったく、ばかばかしいったらないね。考えてもごらんよ。肉体的なそれが、本人の意識にとりどれだけの価値を持つって言うんだい?煙草を吸ったって、一日中デスクの前で腰掛けていたって、それこそ人それぞれなんだ。何をどうしようと構わないじゃないか。』だだっ子のように、眉を寄せて……煙草を吹かす、人物。『僕は毎日、運動をしてるよ。それがどれだけ膨大なエネルギーを消費する方向性を持つ……つまり進んだ距離に換算してのそれか、言葉なんかじゃとても表せない。勿論、その後は疲れてへとへとになる。そんな時は、コーヒーと煙草があれば最高だね。』深く、煙を散らす。『スポーツをする人だって、動けば飲食物を摂取するだろう?それと同じさ。いや、消費される要素が少ない分、思考によるそれの方が遥かに経済的だ。つまり、人類の未来に役立っていると言えるね。ただ、それがその他大勢の目に見えるか、見えないか……知覚されるかどうか、その違いだけだ。ただそれだけなのに、どれだけ不公平だろうね?』俺は、それに……
「桐生君?」渉は顔を上げる。「やっぱり調子、悪いかな?ね、後にしようか?」画面の向こうで女性が尋ねる。心配そうな顔だった。渉はそれを見、相手を確認して……ゆっくりと、首を振った。
「いいえ。ちょっと今、前に聞いた話を思い出して……」記憶、か。確かに、考えてみれば記憶ばかりだ。おびただしい量の記憶が、俺の中に存在する。その量は想像を絶した。
 いや、考えてみれば、すべては記憶なのかもしれない。そう、たった今、彼女が俺に大丈夫かと尋ねたことも。そうだ、俺がそれに対して前の話を思い出したと答えたことも……二つとも、今はただの記憶だ。
 だとすれば、人の持つすべては記憶なのか。記憶だけなのか。途方もない数量のそれをそれぞれが内包して、人は生きているのか。俺は、記憶だけを持ってここにいるのか。俺には、それしかないのか。
 そう思い、渉は呆然とする。それは信じ難く、だがしかし、実に真相めいて感じられるそれであった。だが、だとすれば記憶は……今のようにその一つをふと思い出すまで、どこにあるのだろう。意識していないだけで、きちんと俺の中に、記憶の一つ一つがしまい込まれているのだろうか。だがしかし、人はそれを常に見定め、吟味している訳ではない。それでは、過去をひたすら振り返っている……そうだ、老人と同じだ。
 ならば、記憶とは思考するまで役に立つことのない、分厚い百科事典のようなものか。個人個人の事典として……そう、それを開いた、つまり意識がそれを望んだ時にだけ、役に立つもの。まるで図書館の壁に積み上げられた本……それが収まった本棚のように、その場その場で必要な記憶だけが取り出され、使われる。もし手が届かなければ、脚立を使わなければならないだろう。古くなったものは、ブックライトやルーペを使わなければ読めないかもしれない。いや、もしもそれが、既知の言語で書かれていなかったらどうだろうか。古語……そうだ、昔の子供時代の記憶など、大人になった者が……今の俺が、感じ取れるのだろうか。小学校で、家で、友達と遊び、取るに足らないことを巡って喧嘩をし、言い争った……そんな誰もが持つ当り前の記憶。それらを今、俺は思い出すことが……いや、記憶という書庫から探し出し、再読できるだろうか。そんなものは、もう懐古……そう、ノスタルジーとしての意味しか持たないのではないだろうか。ただ振り返って、そんなことがあったと思うだけの、意味のないもの。
 
 


[361]長編連載『M:西海航路 第二十九章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時19分 Mail

 
 
 だとすれば。渉は思う。そう、だとすれば、悴山が言ったもう一つの要素……感情とは、何だろうか。感情もまた、記憶の一つであるように思える。何かに対して怒り、嬉しいことがあれば喜ぶ……それが持続するというのも、その感情に……いや、感情の発生に起因する物事の記憶があるからだろう。誰も、十年前に嬉しい出来事があったからといって、その思いをずっと抱き、十年後も喜び続けてはいない。勿論、昔のそれを思い出し、嬉しがることも……今と比べてどうだ、あの時はどうだったと感じることはあるかもしれない。だとすれば、感情もまた記憶、思い出にすぎないのではないだろうか。
 だがそこで、渉は気付く。違う。そうだ、記憶と感情は違う。だが、どちらがそれかは、決められない。感情は常にあり、その感情が記憶を変化させ、記憶が転じて感情を変化させるのだ。嬉しい時は、過去の辛いことも、すべてはそのためにあったのだと前向きに考えられる。悲しい時は、過去にいくら楽しいことがあっても……いや、それがむしろ今の不幸を助長してしまう場合すら、多々あるではないか。
 記憶と感情。二つはよく似ているが、だがそれでもはっきりと異なるものだ。だが、決して別個のそれではない。過去は感情と共にあり、感情は過去と共にあるのだ。共存……まさに、二つはかけ合わされるのが必然の関係だ。写真を見て昔を懐かしむのは、写真という触媒によって自らの記憶を鮮明にし、その時の自分を回想して……あるいは、その時より転じて今を思い、それぞれに喜怒哀楽の感情を現出させるためだろう。同様に、怒り……あるいは嘆き悲しんでいる時に昔を顧みれば、それらの記憶によって、新たな喜怒哀楽を生じるであろう。
 ならば感情もまた、記憶と同様に……使われるまでは、意味がないのか。怒りや悲しみ、嬉しさや楽しさも、そう思うまで、感じるまでは意味がないものだろうか。いや、そもそも感情を抜きにして、思考が可能だろうか。意識には常に、何らかの感情がかぶるのではないだろうか。そうだ、喜怒哀楽を抜きにした意識、思考などあり得ない。冷静、あるいは平静とされるそれがあったとしても、それらもまた『落ち着いている』という精神の……つまりは感情の状態を表しているのだけではないのか。喜怒哀楽の四つだけが感情、つまりは人の精神の作用ではないであろう。だとすれば、誰にでも感情はあるのだ。それを抜きにすることはできない。それは意識せずとも、必ず存在する。
 そしてどのような感情も、過去の記憶なくしては成り立たない。過去の個人のイメージ、知識へのイメージが、感情を形成する要素の一つとなり、今の思考への指針となる。誰でも、目の前にした何かに対しては知識を以って判断する。そして、そこには感情が必ず付加されている。例え既知でない……未知の物に対してですら、それは同じだ。自分が知らない、記憶にない、カテゴリーに当てはまらない……だからこそ人は興味を覚え、あるいは恐怖し、それに相対するのであろう。
 そうだ、記憶は人間の精神に必須だ。そして、感情もそうだ。感情が記憶になるのか、記憶が感情を作り出すのか、その最初が、主人がどちらか……それは、まるでタマゴと鶏の関係のようであり、皆目見当も付かない。両者の関係は、個人が生きている限り延々と続き……過去の生誕、個人が個人として生まれ出でる時にまでさかのぼっているのかもしれない。
 ならば、その二つが作り出しているものは、何だ?
 個人の持つ意識とは……記憶と感情、それらをかけ合わせることによって表される心理とは、それは、何だ?
 俺は……「あらあら、ごめんなさいね。余計なことを言っちゃったかな?」渉は再び我に返る。「それとも桐生君、意外と理屈っぽいタイプかな?こういう話、実は結構好き?」見上げる先の女性……悴山は、整った自分の鼻筋を細い指で弾くようにして、軽く息をついた。渉は今更のように彼女の白い指……手に填められた白い手袋に気付き、出会った時からそうだったことを思い出す。そう、白い指が……「とりあえず、いいかしら?そろそろ、答えは出せたんじゃない?」渉の中の小さなざわめきを消すように、彼女がほほえむ。
 答え、か。渉はその教師の如き悠然とした態度に好感を持てることに驚いた。「数式の解、ですか……」考える。それは自然と、悴山が口にした先の数式を以って為された。そう、渉が持つ、御原健司の記憶。そして、抱いていた……いや、抱いている、感情。それから導かれるのが、彼に対する、俺の意識……
「ありません。」渉は静かに返答した。「俺が御原さんをどう思っていようとも、俺には御原さんを殺害したという記憶がありません。俺が御原さんと会ったのは二度だけです。一度は昨日……いや、一昨日ですか?航海二日目の朝食の時に、グリルで。それが初対面です。そして二度目は……」渉は記憶を甦らせた。そう、それはまさに、記憶である。「……あの部屋で、俺の目が覚めた……気が付いた時です。だから俺は、生きている御原さんには一度きりしか会っていません。ですから、数式の答えは実数では表せられません。つまり、肯定はおろか否定のそれも……答えが出ないのです。感情であるfが包括する、記憶x……つまり、前提となるべき一方の変数が存在しないのですから。勿論、そういう言い方を……するならですけど。」小さく、何かがざわめく。何だろう。渉は思う。何か……笑い、だろうか。俺の……?
 そう、笑い声が聞こえる。誰かの……かすかな、笑い。無垢で、純粋で……だからこそ、正しいと思える、声。
 渉は息を吸った。軽く、首を振る。「とにかく俺には、自分が御原さんを殺したとはどうしても意識できません。それが貴女の問いに対する、俺の答えです。」俺の答えは間違っているだろうか。渉はまさにキャンパスにいる如くにそう思った。目の前のスクリーンの向こうの相手……それが誰であるか、一瞬錯覚する。そう、ここはN大ではない。
 数秒間、悴山は黙ったまま渉の目を見つめていた。渉も自分のそれを逸らすことなく、そして、その時間が過ぎて……彼女が口許を緩める。「ありがとう、桐生君。よくわかったわ。」悴山は、躊躇することもなく一本の指を振った。「それじゃこれで、私の質問はおしまい。そっちは、何か聞きたいことがある?ね、たくさんあるんじゃない?」
 正直、渉は拍子抜けした。問い詰められるのではと思っていたのだ。屁理屈もいいところ、とか……「え、ええ……そうですね。」だが、渉はその動揺をあえて無視した。「なら、教えてもらえますか?とりあえず、その……今は、いつですか?あれから俺は、どれくらい意識を失っていたんですか?」渉は思い出す。「いや、そもそも……あれは、部屋の騒ぎは、いつだったんです?俺が意識を失って……」意識を失う、か。渉はその形容がもたらす皮肉めいた響きに苦笑した。
「桐生君の言う、『あれ』というのがいつのことかはわからないけど。」悴山は笑いを堪えるような顔で彼を見る。「今は、十一月の三十日。時刻は午前五時……そうね、三十分にはなっていないかしら。つまり、早朝よ。おはよう、って言ったでしょ?」悴山は脚を組み直す。目は渉に向けたままである。瞬きをするたびに、眼鏡の向こうの……そう、悪戯っぽい目が細められた。「桐生君への処置が終わったのが、昨日の……二十九日の十九時十五分。もっとも桐生君は、その前に気を失っていたから……そうね、保安室に運び込まれた十七時二十四分の段階で、既に意識がなかったわね。つまり、渉君が意識を失っていたのは約十時間かな?」何か昨日のスポーツの試合結果を語るかのように悴山は首を傾げた。
 渉はスクリーンの向こうからもたらされた情報に眉根を寄せる。いや実際、無理もなかったであろう。彼にとっては、半日以上自分の意識かなかったのだ。とんでもない事実である。
「その間に、何があったんですか?」首を振ろうとして……新たな痛みに渉は顔をしかめた。悴山がいたわるように首を振る。「いや、昨日の、三日目の昼から……一体、この船に何が起こったんです?俺は何も知りません。起こったことを教えて下さい。」渉は訴えた。「お願いします。」
「いいわよ。本当に、色々なことがあったの……」悴山は考え深げに言った。「桐生君は、どこまで覚えているの?意識を失う前……御原さんの船室で気が付く前は、どこで何をしていたか覚えている?船内放送があった時は?」
 船内放送?「いえ……知りません。」一瞬渉は、ここが本当に船の上か判断できなくなった。いや、確証が得られない、と言うべきだろうか。だがそれは、随分前から……そう、ここで目覚めてから漠然と渉の中に存在していた疑念である。
 窓一つない場所だ。しかも、相手も現実に目の前にいる訳ではない。何か、確証が……外気か、景色が欲しい。ここが嘘偽りない空間で、まぎれもなき船上、つまりはお前にとっての現実であると、誰かに教えて欲しかった。その意味では、それが偽物でも構わない。錯覚でもいいと思う。そう、騙されるなら騙されたかった。「放送なんて……あったんですか?」
「あらあら、かなりとんでもないわね。」まさに人ごとのように悴山は呆れる。「桐生君、まさか昨日は私に言われた通り、部屋でずっと寝ていたの?彼女と二人、楽しく?」首元で切り揃えた自分の髪を軽く撫で付ける。「もしかして、渉君……私と別れてから部屋に戻って、あの美人さんと仲睦まじく寝て……それで、目覚めたらあの部屋?そういうパターン?」
 渉は唖然……いや、困惑を遥かに越えた何かのショックに抗するために首を振った。「違います。」いったい、この緊張感のなさは何だろうかと自問……詰問する。いや、だがそれは俺のせいではない。そうだ。この女性、彼女が……「俺、昼までの記憶はちゃんと……」思い出す。いや、今更のように再認識した。そう、俺が覚えている最後のビジョン。それは……
 白い部屋で、笑う少女。
 渉は目を凝らす。そこに、彼女がいる。
「瑞樹……」口にして、それをつぐむ。スクリーンの中で、悴山は怪訝な顔をしていた。よかった、気付かれなかったようだ。いや、わからなかったのか。知らなかったのかもしれない。渉はそう思い、安堵しかけ……そして、自分のその感情の流れに愕然となった。
 なぜだ?どうして俺は、安心した?自分と、瑞樹が……俺と、彼女、が……!
 閃光のような、一瞬。
 再び訪れた、フラッシュバック。
 それは苦痛ではない。だが、何物をも陵駕する、研いだばかりの剃刀のような、鋭利さを有していた。それが渉の中に、意識に……深々と、入り込む。
 結論、だった。それが、答え。100%確実な、それである。
 渉は認める。それを、確かに。
 それが、俺の記憶。それが、俺の感情。
 だからこそ、それが、意識。
 渉は身震いした。そうだ、そうだったのだ。
 俺はそれを、わかっていた。とっくに気付いていたのだ。
 だが、俺は認めなかった。いや、認めることが……いや、受け入れることが、怖かった。そうしてしまうことが。
 彼女と、彼女は……
 渉は顔を上げる。「悴山さん。この船で、昨日起こったことを話して下さい。貴女の知っている部分だけでいいです、できるだけ詳しく……どうか、お願いします。」そう、渉はそれを望んだ。渇望とも言えるだろう。今は、知りたい。自分のことではない。外の……他の、あらゆることが、知りたかった。
 そうだ、自分のことはどうでもいい。それは、いわば自明だ。知りたいのは、望むのは、自分以外。
「私の名前、覚えていてくれたの?」彼女の返事は意外なものだった。「嬉しいわ。どうも、ドクターとか先生って呼ばれるの、昔から苦手なのよね。ほら、がらじゃないでしょ?」渉は苦笑する。ある部分では確かにそうかもしれない。彼女はまさに不可解だ。
 だが、それは人なら誰でもそうかもしれない。理解できる他人が一人でもいるかと尋ねられて、いると断じられるほど、渉は他人を知らなかった。そう、それは例え肉親相手でも同じである。「私の場合、名字がもう滑稽なくらい本業を示教しちゃってるでしょ?そりゃ、アメリカで『ドクター悴山』って言われるならまだましだけど、日本だと、どうなるかわかる?」渉が考え、答える前に彼女は続けた。「『悴山博士』、よ?まったく、山本山じゃないわよね。ハカセヤマハカセなんて、語呂が悪いったら……略してハカセハカセ、とか言われたらどうしようって思うわよ。ハカセ二乗?とか。あははっ、でもちょっと面白いわね。そう思わない?」
 喋り続ける悴山に、渉は今更のように圧倒されかけた。それをフォローするように、笑みが浮かぶ。「なら、名前で呼べばいいんじゃないですか?悴山さんの名前、俺は知りませんけど……」
「あっ、ごめんごめん。」悴山はスクリーンの向こうでこめかみを軽く指で押した。「そうか、まだ教えてなかったわね。ごめんなさい。私は貴美。貴族の貴に、美人の美。悴山貴美が、フルネームよ。」含んだように笑う、女性。ハカセヤマタカミ。渉はその名を心中で反復した。「ありがちな名前よね。うん、そうなの……実はこっちがね、もう、どうにも気に入らないのよ。ねぇ、渉君。何かいい名前、ない?悴山って名字に、ぴったり来るような名前……ね、何がいいかな?」
 渉は笑った。「そうですね……貴美子、とか……?」それはまさに思い付いただけの返事であった。だがそれを聞いた瞬間、悴山は眼鏡の奥の瞳を丸くして彼を見つめた。
 そして、吹き出す。丸二秒、いや、もっと長く……だろうか。「あははっ……!いいわね、それ。傑作!キミコ、だなんて。うん、いい感じ……改名するにも簡単よね。何しろ、最後に一文字加えればいいんだから。子供の子、って漢字を付けて……あははっ!それ、最高!」本当におかしそうに悴山……悴山貴美は口許に手を当てて、ころころと笑い続けた。椅子から落ちるのではと、心配になる程である。
 渉も思わず笑う。だがそれは、はしゃぐ子供を目の当たりにした親が感じるそれに近かったかもしれない。「そうですか?」もっとも、渉にそんな経験があるはずもなかったが。
「うんっ、決めた。今度改名の機会があったら、そうするわ。絶対よ。」涙目だろうか、悴山は眼鏡を落としそうになりながら身体を傾けて笑っていた。「サンキュ、渉君。」どうにも緊張感がないな、と思う。まさに今更だが、この相手……悴山貴美にはそういう能力があるのではないかと思える。良い意味で言えば、人を和ませ力を抜かせる……悪い意味では、気勢を削ぐ、あるいは真剣味が足りない……だろうか。それが身振り手振りを含めた彼女の(主に量的な)話術の為し得ることなのか、それとも個人が持つ雰囲気といったものが作用しているからなのか、渉には今一つ判断できなかった。
 だがそこでふと、ある女性を思い出す。行動も、言葉も、常に他人より先んずることを好む、実に活発な女性……そうだ、確かにどこか彼女は似ている。キャリア・ガールなどと言うと目を剥かれるかもしれないが、こういった女性は得てしてこういったタイプになるのだろうか。渉は何とはなしにそう思った。どこが似ているかと問われれば返事に窮するが、双方共に実に落ち着きがない……いや、相手をすると疲れる、だろうか。
「桐生君?」画面の悴山が不意に顔をしかめた。笑っていたそれが急に変貌したので、どうしたのかと渉は思う。まさか、自分が考えていたことが伝わった訳ではないだろうが。渉はそんな、あり得ない考えに苦笑する。「あ、ううん。とにかくごめんなさい。また脱線しちゃったわね。身体にもよくないし……ねぇ、渉君、気分はどう?頭は痛くない?体調や……待遇に文句があれば、すぐに言ってね?」背後の異国人……今を以って不動の姿勢を保ったままのロバート・グロスをいちべつして、悴山は言った。
 渉は首を振りかけ……そして、苦笑いをする。「ええ、大丈夫です。今のところは……」
「動作には気を付けてね。身振りは意識して止めて、言葉だけで表すようにしないと……桐生君は、経験あるでしょう?」渉は頷いた。夏の短い時間を過ごした、白い病室の記憶。
 短い?渉は、そう思った自分に呆然とする。
 短い……?
 本当に、そう、思っているのか?
 渉は何かを払うように首を振りかけ……そして、それを止める。「はい。でも、駄目ですね。学んだことなのに、一年経つとすっかり忘れてます。」笑った。本物の苦笑いが出る。そう、俺はどれだけ繰り返せば覚えるのだろう。本当に、どうしようもない奴だ。「転んで頭は打つし……」そう、西之園萌絵。元々、彼女にそそのかされてあんな目に遭い、今また、俺は彼女に半ば……いや、完全に騙されて、ここにいる。そして、このていたらくだ。
 一体、何度こんな目に遭うのだろう。一度経験すれば、それを身に付けるのが人ではないか。いや、人に限らない。野性の動物も一度経験したことは決して忘れないと言う。ならば、俺はどうなのか。騙された記憶はある。憤りも、失意も、反省も、その時、確かにあったことを俺は記憶している。いや、思い出せる。これほど、鮮明に。
 だが、どうしてそれを活用できないのか。そうだ。さっき俺は、どうして短いなどと思ったのか。あの病院、あの白い部屋で、俺は……
 渉は目を閉じる。首を振ろうとして、また、笑った。
 まったく、その通りだ。どうして、できないのか。何度繰り返せば、できるようになるのか。「頭が悪いんですね、きっと……」何の気なしにそう呟く。そして、渉は自分に呆れた。「あ、いえ……」人前で何を言っているのか。これでは本当に馬鹿ではないか。「ははっ、本当に馬鹿みたいですね。」口を開く先から、間抜けさを広げていく。渉は自分が愚昧だと感じた。「卒業旅行とか、そんな気分で乗り込んで……こんな姿になって……」まさに、呆れる。他人に聞かせると……いや、言葉にしてみて、これほど身にしみることはない。「あはは、どうしようもないですね。馬鹿丸出しです。」どこで間違えたのだろうか。意識すれば、未だずきずきと痛む身体。心身共に自分が荒廃しきっていると渉は認めた。
 ならば、原因は何だ。そもそも、どこで間違えたのだろう。どこかの選択肢からだろうか。たった一つ、どこかでそれを間違えてしまったために、俺はこうなったのだろうか。シャツのボタンをかけ間違い、最後に至るまでそれに気付かなかったように、俺は今、こんな部屋でこうなってしまうまで、自分の失敗に気付かなかったのか。だとすれば、とんだ愚挙だ。俺はどうしようもない奴だ。まったく……
「桐生君。」悴山が静かに言った。「ね、この世で一番恐ろしい病気って、何か知ってる?」耳に届いた言葉。
「えっ……」見上げると、無機質な部屋の中に一枚の画面。その向こうに腰掛けた、彼女がいる。「恐ろしい、病気……ですか?」悴山貴美、だったろうか。
「そう。」その悴山は、いつになく真剣な顔で頷いた。「感染力、死亡率、症状、治療難度、発症診断……それぞれ、最高度に位置する病気があるわ。でも、それらすべてにおいて極めて高い位置にある……いえ、おそらく確証さえ得られれば、あらゆる面で最高に間違いないであろう、危険極まりない最悪の病気が一つあるの。その病気って、何だかわかる?」
「いえ……わかりません。癌、ですか……?」口にしてみた。土台、医学などまったくもって専門外の渉である。
「違うわ。癌が難病であるという意識のほとんどは、知識のない偏ったイメージによる認識不足からのそれよ。」悴山は冷ややかに答える。「同じことがAIDSやその他の難病……多くの病気に言えるわね。総じてかかった本人の自業自得として済ませることが多い現状に、問題があるのよ。まあ、あくまで私見だけどね。」さらりと語った悴山は、肩をすくめて微笑する。
「だとすると……どうも、わかりませんね。何か、知られていない病気ですか?ウィルス性の……」
「そうね。そうでもあり、そうでないとも言えるかな。」悴山の言い回しに渉は当惑する。「とにかく……あぁ、ごめんなさい。また脱線しちゃって。どうも、駄目ね。でも、桐生君のせいよ。前も言ったけど、渉君は話しやすいって言うか……ふふ、面と向かっていないのに、妙なものね。」
 渉はさらに眉を寄せる。「そうですか……?」面と向かっていないのは事実だった。だが目の前の画面に映し出される悴山の映像は、どこまでもクリアである。そして、声もまさにその中から……悴山自身から聞こえてくるように思える。おそらくはそういった音響が施されているのだろうが……とにかく、背後に立つ金髪の男を含めて、見まがうことなどあり得ないほど現実感がある。
 ふと思う。今、俺と彼女の距離は、どれだけ開いているのだろう。それを考え、そして、渉はそんな自分に苦笑した。目の前にいなければ、駄目だというのか。彼女は存在している。そこに今、確かにいるではないか。少なくとも、俺はそう知覚している。それを否定するのか?それを、受け入れたくないのか?俺は、現実を……
「それじゃ、雑談はおしまい。そろそろ、話を戻しましょうか。渉君の知りたいことは、昨日何が起こったかね?」渉は黙って頷く。そうだ。それが知りたい。他は、まだ後でいい。「オッケー、わかったわ。じゃあ、順を追って行くわね。一応、オフィシャル……というか、資料は手元にあるから。ほら、乗務員用のデータよ。打ち出してもらったの。」少し屈んで帳面を手に取ると、軽くウインクする。渉は笑った。「それじゃ……えっと、まずは昨日の午前中か。記録によると、一番最初は朝の、七時四十分ね……」
 悴山は黙々と語り始めた。そして、その説明が、渉の顔色を変える。
 そう、まさに、それは発生していたのだ。
 ただ、気付かなかっただけで。知らなかっただけで。
 それは、既に過去となっていたのである。
 
 


[362]長編連載『M:西海航路 第三十章(1)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時20分 Mail

 
 
   第三十章 Mind

   「約束」


 静けさを桐生渉は感じた。だがそれはあくまで、外因としてのそれである。
 心中はそうではない。穏やかではない……いや、嵐が荒れ狂っている、という形容が正しいだろうか。
 確かにそうだったと、渉は思う。だった、という過去形であるのは、今は不思議とそれが薄いからだ。いや、落ち着いていると認識すべきだろうか。永遠に続く嵐がないのと同じく、人の心も放っておけばいつか落ち着くのだろうか。ならば、それはどうしてだろう。渉は考える。
 おそらく、それが過去となるからだろう。渉はそう思い、そして再び、深く黙した。
 見上げるのは天井。顔を向ければ、四面に淡い乳白色の壁。ここは、部屋だった。たった一つの部屋。最低限の生活設備で成り立つ場所。俺一人……そう、自分だけがいる、自身だけの空間。
 まさに、俺は孤独な状態なのだ。
 渉は薄く笑った。だがそれは、自嘲のそれではない。今は、静かな自分が嬉しかった。そう、落ち着いて考えられる時間がある。他者から干渉されることもない。それが、素直に嬉しい。例えその孤独が、自身が望んだことではなくとも。この静寂を、平静を、受け入れている……許容している、自分がいる。
 そうだ。今、俺には何もない。そして、俺には何もできない。少なくとも、行動的なことは。勿論、それは見方によっては違うだろう。叫び、暴れ、あるいは別の意図を以って何かを行うことも可能だ。そういう意味では、拘束というより、行動が抑制されていると称した方が正しい。
 だがそれは、誰でも……どんな状況においても同じことだ。完全に動きが取れない、何もできないという状態はない。例え四肢すべてを縛り付け五体の動きを封じようと、個人の身体機能は活動しているはずだ。それを停止させることはできない。いや、方法は当然ある。だがそれは、たった一つしかない方法だ。それ以外、人の行動を……活動を止めることはできない。ただその一点だけを重視する限り、人は束縛されない。人間は、永遠に自由だ。
 ならば今の俺もまた、確かに自由だろう。考えてみればそういった極限として挙げられる過酷な状況に比べ、遥かに快適と言える。そう、少なくとも生存のための諸問題について考える必要はない。生活は保証されている。渉はそう思い、少し前……そう、確か一時間ほど前だろうか、不意に訪れた食事の時間を回想する。
 それに気付いたのは偶然だった。悴山貴美との長い会話が終わった後、一人ベッドに腰掛け……クリーム色の壁を背にして考えを巡らせていた渉は、いつのまにか置かれていたそれに気付いたのだ。
 扉。少なくとも、彼がそう認識していたもの。そのイエローの一面の前に……壁と同じ硬質の床に、無造作に置かれていたトレイ。そこにはプラスチック製の食器が並べられ、パンとバター、そしてサラダやスープ、コーヒーなどが整然と乗せられていた。
 朝食。そして、渉はそれを食べた。食べない理由はなかった。空腹でもなかったが、何もない部屋で『現実』としてそれが起こったことに興味をひかれて……そう、それが最大の理由だろう。俺は、食べた。
 とにかく、食事はまずくはなかった。むしろ上質と言えるかもしれない。食べながら、いつのまに部屋の扉が開いたのだろうと思った。やはりと言うか、あの把手一つない黄色の凹面はドアであり、短い時間だけその扉が(どこかの方向に)開き、食事の乗ったトレイが差し入れられ、そして、締まったのだろうか。だが俺は考え込んでいたので、その音に気付かなかった……あるいは、よほど消音性に優れた開閉機構を備えたドアなのだろう。
 渉は今再び、ベッドからドア……黄色いそれを注視する。その前に、トレイは置かれていた。奇麗に食べたな、とふと思い、かすかに苦笑する。結局、空腹だったのだろう。まだ、トレイは片付けられていない。それが消える時はぜひ確認したいと渉は思った。無論それ以上のことは考えていない。そう、そのはずだ。それは、まだ必要ない。
 また、渉は笑う。何を考えている。今は、もっと考えるべきことがあるだろう。朝食もそうだが、必要なことは既に告げた。後は、対応を……いや、反応を待つだけだ。
 そういえば、今は何時だろう。長い話を終えた悴山が去ってから、かれこれ何時間も経っている気がする。だが、今が何時かはまったくわからない。渉は周囲を見回した。しかし、あるべきはずの手がかりはない。
 あるべきはず、か。渉は今度こそはっきりと苦笑する。それが当然、常にあるもの……存在するのが常識だと俺は思っている訳か。時間を告げる、否が応にもそれを教えてくれる……教示してくれる自然という環境が、見回せば確実にあるというのは。
 そうだ、見上げれば空があり、太陽があり、月がある。そこは晴れ渡り、曇り、時に風が吹き、そして雨や雪が降る。朝と夜が来て、歳月が過ぎ去る。それは日常で、常識で、当り前のことだ。ずっと、そう思ってきた。自然という言葉自体が、それを表している。
 だが今、俺にとってそれは自然ではない。俺自身の状態を不自然としてしまえばそれまでだが、俺にとって……俺自身にとっては、もう今のこの状態はそれほど不自然ではない。どうして俺がこうなってしまったか、それはわからない。だが、どうして俺がこうなったのか、それは理解できた。
 渉は笑った。白い部屋の中で、静かに。
 そう、矛盾している。
 だから、俺は要求した。そして、こうして待っている。ならば今は、今の時点で手に入れているものを……情報を、考察するべきだろう。
 そうだ、俺は情報を手に入れた。この船で何が起こったか、だ。そして、それは……そう、まさに想像を絶するものだった。だから今も、それを考えている。ずっと、もう何時間も、そうしている。どれだけ時間が経ったのだろう。渉は再び、ふっとそう思う。今は四日目の午前……いや、既に昼近くかもしれない。そうだ、時間は経っていく。どうしている間も、何をしている間も、ただ、刻々と。
 再び、渉は部屋を見回す。この部屋は空調されているようで、温度も湿度も、不快な程度のそれはまったく感じなかった。また、輝く照明も強弱はまったく有してない。そのためだろうが、時間の感覚が本当にない。既に望みとしてそれを解消するべきものを要求してあるが、やはりというか、それが来ない今はどうしても不安になる。
 今が知りたい。そう、知ってしまった過去ではない。それは、考えるべきものだ。渉はそう思い、そして、再びそれを甦らせた。あれからもう幾度となく、延々と繰り返したことである。だが、ためらう理由はなかった。
 悴山貴美のもたらした情報。それは、渉に尋常でない衝撃を与えた。それらすべてが本当に発生したことだとすれば、まさに驚愕の事態である。
 実際、初めて聞いた時は信じられなかった。その話の中で自分自身……桐生渉という人物が占める大きさを考えれば当然であろう。
 だがしかし、肝心の俺にそこに至る記憶はないのだ。いや、勿論すべての記憶がない訳ではない。だが、その事態が発生したほとんどの間自分の意識を失っていたとして、果たしてそれを、自分にとっての現実として受け止められるだろうか?事実だとして、許容できるだろうか?
 それは、到底無理であるように思われた。今をもってすら、そうである。
 だが、それは事実だった。例え、渉にとって現実ではなくとも。
 それほど、そのあらましは信じ難い出来事に満ちていた。
 渉は、伝え聞いたそれを反芻する。
 航海三日目、月の貴婦人号で発生した奇怪なる事件。
 それは、この船の第一デッキ……十を越えるデッキの中で、そう呼ばれている上部階層の一つ……主に、特等船客の船室によって構成される空間で発生していた。

 航海三日目(十一月二十九日)

07:40 最初のトラブルと思われる事件が発生する。第一デッキにある自分の特等船室(127号室)に戻って来た船客が、自分の持つゲストカードで部屋のドアが開かないと訴えたのだ。担当スチュワードが駆けつけるが、彼らの持つクルーカードを使っても127号室の扉は開かなかった。
08:25 127号室のドアの開閉装置の故障と同じ症状が、同デッキの別の特等船室(103号室)でも発生する。モーニングコール・サービスのスチュワードが、該当客室内よりの返事がないためにそれに気付いたことであった。
09:00 127号室、及び103号室のドアの開閉装置の故障と同じ症状が、さらに同デッキの五つの特等船室で発生する。朝食を終えて帰室した客が部屋に入れなくなったというもの、あるいは朝食に誘われ知人の部屋を訪ねた別室の客が、その部屋の客からの応答がないことに気付くなど、原因は様々。
09:28 システム・エンジニアにより、この故障はいずれも該当客室のドアの開閉装置だけでなく、客室内との通信を含めた船内ネットワーク・サービス機能の停止にまで及んでいることが確認される。
10:10 他のデッキの客より、第一デッキの特等船室テラスにおいて、船客数名が助けを求めているとの連絡が入る。これ以後、多くのそれが寄せられる。この時点で、客室の機能異常はさらに七室で発生していることが確認、合計十四室が閉鎖状態となる。
10:27 該当症状、さらに五つの客室で発生、確認される。第一デッキのフロア・マネージャー、現時点での船内最高責任者である副船長と話し合い、この開閉機構の非作動を含めた船室の機能不全が、今まで正常だった客室にも徐々に進行していると断定、第一デッキ全域に臨時の船内放送を行う。スチュワードに命じ、第一デッキ全客室(四十室)の機能チェックが行われる。
10:50 客室機能の異常に対し、最初の電子的な処置が行われる。システム・エンジニアは問題が発生した客室の全ドアの開閉、及びネットワーク・システムを含めた客室機能の回復を行おうとするが、失敗する。該当症状、この時点で第一デッキの二十二室にて確認。
11:00 該当症状、二十七室にて確認。フロア・マネージャー、第一デッキの特等船室を利用する特等船客すべてに対して船室よりの退室を指示。臨時の船内放送により、上部デッキ全域に第一デッキで発生した機械的トラブルが通報される。
11:30 エンジニア、機能異常が発生していなかった船室が、次々と該当症状を発生していくことを追認する。この時点で第一デッキ特等船室四十室の内、三十六室が機能不全に陥る。
11:32 第一デッキ特等船室117号室に機能異常が発生。
11:39 第一デッキ特等船室107号室に機能異常が発生。 
11:46 第一デッキ特等船室122号室に機能異常が発生。
11:53 未だ機能異常を発生していなかった第一デッキ特等船室110号室のドアが閉鎖、機能異常が発生。この時点で第一デッキ特等船客用客室四十室のすべてがドアの開閉を含めた機能不全に陥る。
12:00 突如として第一デッキ124号室のドアが開き、閉じ込められていた船客一名が解放される。同時刻、船長勤務復帰。直ちに副船長より現状が報告される。
12:07 第一デッキ122号室のドアが開く。客は既に避難していた。
12:14 第一デッキ103号室のドアが開き、閉じ込められていた船客三名が解放される。これ以後、七分に一室ずつ扉が開き、問題が解消されていく。また、開放客室はネットワーク機能を含めて完全に復調していることが確認される。だが、システム・エンジニアはドア開放について関与を否定。
12:45 現時点で七室が開放。船長により、船内すべてのデッキに対する緊急放送が行われる。全船客及び乗務員に、現在第一デッキで発生しているトラブルについてその事態の旨を説明、陳謝が行われる。船長、第一デッキを含めた船内全デッキに対し全機能の再確認を指示。第一デッキ及び、その直上デッキである『オリンピア』デッキを一時閉鎖を決定、その旨を放送。該当上部デッキの船客、客室より退室開始。
12:56 この時点で第一デッキの九室が開放。
13:00 船長、スチュワードに対しすべての乗客及び乗務員の直接点呼による人数確認を指示。セキュリティ・チームには物理的な救出活動を、エンジニア・チームには電子的な復旧作業を指示。
13:30 この時点で第一デッキの十三室が開放される。第一デッキ以外のデッキにおいて、機能不全やネットワークの停止などを含めたトラブルは一切発生していないことが確認される。
13:55 『月の貴婦人』号の全乗務員1001名の全員と、船客1239名中の1224名が確認される。未確認の十五名は未開放の第一デッキ残り二十三の特等船室に閉じ込められた特等船客であると推定される。
14:00 セキュリティ・チームにより、トラブルが発生してなお客が現存すると思われる船室に対し、テラスを含めた外部よりの救出活動が開始される。
15:00 この時点で二十五室が解放、セキュリティによる救助活動と加えて合計十名の未確認船客が救出、確認される。内、体調不良を訴えた船客二名、医務室に運ばれ治療を受ける。
15:20 エンジニア・チームにより、二度目のネットワーク及び客室制御機能の復旧作業が行われる。結果は成功し、未だ機能不全である特等船室十一室の内、108号室を除いた十室が機能を回復、開放される。加えて、未確認であった船客四名が確認。
16:00 未だ開放されない第一デッキの108号室を開放、中に閉じ込められていると推定される最後の未確認船客一名を救出するために様々な手段が尽くされる。だが、該当客室は窓を含めすべてが完全に閉鎖されていたために失敗。船長、船室開放の最終推定時刻となる16:33をもって扉が開かぬ場合は、ドア及び窓の破壊による船客の救出を決定する。
16:33 12:00より始まった七分置きのドアの開放トラブルの最終推定時刻。だが、108号室は開かず。
16:40 突如として108号室の扉が開く。中に特等船客であり最後の未確認船客であった御原健司(58)を確認。さらに、部屋に一名の船客を確認、桐生渉(22)。同時刻、セキュリティによって桐生渉の身柄が拘束される。 
17:24 桐生渉、保安室に送致。直ちに治療が開始される。
17:45 セキュリティ・チームにより108号室の調査が行われる。
18:30 船医によって、御原健司の死亡が確認。
19:15 桐生渉への救急処置が完了する。同時刻、特例をもって該当人物を特別拘置室に留置。

「そして翌日の十一月三十日、午前三時七分……桐生渉君、特別拘置室にて覚醒……と。後は、だいたいわかるわよね。うん、私が語れるのはどうやらここまでかな?」悴山貴美はたっぷりと抑揚を凝らしてすべての出来事を告げると、ふうっと息を付いて渉に微笑した。「どう、桐生君?何か疑問点はある?」英字がびっしりと書かれた帳面を片手に、悴山が尋ねる。巨大な……画面越しに。
 ある、どころではなかった。「それは……」ほぼ、そのすべてが疑問である。しかし、だからこそ、渉はどれを最初に尋ねるべきか迷った。いや、はっきり言えばほとんど信じられない。そんなことが、現実として起こったのか。「結局、扉の開閉ができなくなった原因は何だったんですか?それが、病気みたいに段々と進行していって……それが、どうしていきなり、十二時……ですか?それから、いきなり開き始めたんです?しかも……」そう、定期的に……七分置きに、である。
 七分。渉は未だ伝え聞いた事実に呆然としながら、その、どこか最も深く、遠い場所……いわば、自己の体奥からにじみ出てくるような何かにかすかに身震いする。
「うーん、それは皆目見当も付かない、ってところかしら。エンジニアの皆さんも、お手あげみたい。ふふ、あんなに偉そうなのにね。まあ、セキュリティの人だって偉そうだけど。」軽く背後……そこに彫像のように起立しているロバート・グロスに視線だけ送って、悴山はクスッと笑う。「私に言わせれば、ハイテクゆえのバグ、そんなところかしらね。この船、竣工を急がせたって話もあるし……色々と、あちこちに問題があるんじゃないかしら?」あくまで他人事のように……それは仮にも乗務員の一人である立場の者として誉められた態度ではないと渉は思ったが……彼女は笑った。「……って、あくまで想像だけどね。きっと、航海しながら、出てくる問題点に一個一個修正を……つまり、パッチを当ててるのよ。ほら、実際に稼動させてみないとわからないことって多いじゃない?でも、そうすると……何だか、テスト航海みたいな感じよね。一応、**航海って言っても……うーん、事前にそれは終わってるはずなんだけど。えーっと、なんだっけ……海上公試運転、だったかな?」
「わかりませんけど……そんなことで、いいんですか?」渉は相手が違うと思いつつも、かすかな怒りを感じてそれを口にした。
「うんうん、そうよね。」悴山が、我が意を得たりという顔で頷く。「まあ、コンピュータの世界じゃよくあるのよ。バグを治すつもりで修正プログラムを当ててはみたけれど、どっこい、それで新しいバグが出ちゃうって。」肩までの断髪を軽く撫で付けて、悴山は笑った。「ほら、修正する側……プログラムの開発をしてるところは、目先の……つまり、治す必要があるバグだけを重視するじゃない?そうして書き換えたプログラムが、バグを消したのはいいんだけれど、本来正常だった他のプログラムに影響を及ぼしてしまうの。で、しばらくすると、それに端を発した新しいバグが出る訳。すると今度は、それを治すためにまた新しいパッチを当てて、元のプログラムを書き換える。ところが、それでまた別の場所に影響が出る……こんなことを繰り返していると、どうなると思う?」
「大変ですね。」渉は話題がずれ始めている気がしつつ、肩をすくめて笑った。「元々の問題は、何だったかわからなくなるんじゃないですか?」この会話もそうかもしれない、とふと思う。
「そうなのよ。もう、気が付いたらどれがどれやら。」悴山はわざとらしいしかめ面をして見せた。「原因は何?問題は何?だいたい、何が悪くて、何が正しかったの?って、もう訳がわからなくなってしまうの。気が付いてみたら、既にプログラムが当初の企画と外れたそれ……つまりは、もう役立たずのソフトになってしまった、とかね。うん、ゲームとかじゃ本当、よくあるのよ?」思い付いたように、悴山は唇を結んだ。「前評判含めて、発売段階でもいい!とか思っていたゲームが、発売してから、どんどん仕様が変更されて……気が付いたら、特長も何もなくなって、どこにでもあるつっまんないゲームになっちゃった、って。」嘆く悴山に、渉は眉を少しばかり寄せる。「結果、そうなるともうそれを楽しむ意味がないじゃない。プレイするこっちとしては、そのゲームに対する興味自体がなくなる訳。そうなった時にね、ふと考えちゃうのよ。いったい、何がいけなかったんだろうって。ねぇ、桐生君はどう思う?」悴山は今にもこちらにしなだれかかってきそうなポーズで訴えた。画面越しのそれは、まさに映像……ドラマのシーンのようにすら思え、渉は苦笑する。
 だが、ふっと気付く。繰り返される行為。必要だからそうして、だがしかし、それで新しい何かが発生する。そして、それはきりがない。
 ならば、何がいけないのか。
「うーん……わかりません。俺は、ゲームとかよく知りませんし……」だが、それはゲームのことだけだろうか。渉は思う。そう、例えば……好きだったミステリィならばどうだろう。
 書籍で発行される小説などの作品の場合は、後日、本文を大幅に書き直すという行為はあまり聞かない。だが、連続して刊行される……そう、シリーズ物のそれなどではどうだろうか。読者の望みに答えて次々に出てくるシリーズ。始めは、もうたまらなく面白い。だが、ふっと……そう、どこか新鮮さがなくなったように感じることがないだろうか。本を開けば、そこにあるのは同じパターン。凝り過ぎて訳がわからなくなったトリックや、いつまでも変わらない……いや、あるいは変わり過ぎてしまった、登場人物。そういったことが次々に現出し、自分にとってつまらなくなって……いつか、読むのを止めてしまう。そういったことは、渉も何度か体験していた。だがそれは、何も本のミステリィに限らない。テレビのドラマや、映画……何もかも、そうだった気がする。
 だが、何がいけなかったのか。渉は考える。どうして、そうなったのだろうか。「わかりません……商業主義、とか……?」笑いが出た。「うーん……」
「確かにそれも、要因の一つとしてあるでしょうけど。」悴山もまた笑う。「でもね、金銭的なものを抜きにしても、創造的な活動を止めることはできないわ。それは、人間本来の欲求として当然だし……それに、誰だって生活しなくちゃならないものね。」手袋を填めた白い指が、かすかに揺れる。白衣の悴山は、笑っていた。「勿論、受け手がそれを求めているということもあるわ。作り手もそうだけれど、受け手はさらに大勢で……つまりは、細かい好みはみんなが違う訳でしょう?だから、その両者のどちらが悪いなんて決められないわよ。だけど、できてしまったものに対して、それをどうするべきかという話はね……ちょっと、違うわ。」悴山は、考え深げに言った。「思うに、ね。双方が、どこかで妥協……つまり、許さなくてはならないの。」
「許す……?」渉は怪訝に聞き返す。
「そう。例えば、桐生君があるゲームにはまっちゃったとするわね?」悴山は片目を閉じる。「もう、そのゲームが面白くてたまらない。家に帰れば……ううん、大学のゼミでも勉強そっちのけで、時間さえあればそのゲームをプレイしちゃう。周囲からは注意されるけど、やっぱり面白いから止められない。自分でもまずいなって思うけど、面白いのは本当の気持ちだから、それを裏切れない。もう、寝食も忘れてそれに熱中する訳。ね、そう思ってね?」悴山の悪戯っぽい瞳に、渉は思わず頷いていた。「でもね、ある時……そのゲームがね、いきなり面白くなくなるの。」悴山は残念そうに……そう、まるで自分のことのように肩を落とした。「その理由は、開発側が何かの理由で……そうね、ゲームバランス、とかいうのでいいかな?とにかく、ゲームをみんなに公平にするって勝手に宣言して、問答無用で仕様を書き換えてしまったから。で、桐生君は愕然とするのよ。だって書き換えられたそれによって、桐生君が楽しくて仕方なかったそのゲームが……もう、まったく面白くない物に変わってしまったんだから。そうなったら、ね、渉君はどうする?」
 勢い問われて少したじろぎながらも、渉は考えた。先程のそれではないが、ミステリィとして考えれば簡単かもしれない。例えば、気に入った作品の好きな登場人物……主人公でも、ヒロインでもいい……それが意に反する、そのキャラクターらしくない行動を取り、そういった展開に……そう、例えば死亡する、あるいは結婚する、どんな形でもいいから、話から脱落したり……もしくは気に入らないキャラクターが入ってくる、などだろうか。ドラマや映画で、俳優が変わってしまう、でもいいだろう。そうなったら、どう思うか。
「たぶん、ショックですね……」渉は首を振る。「……見なくなる、と思います。いや、ゲームだから……プレイしなくなる、でしょうか。」
「そうなんだ?」悴山は笑う。「桐生君、割り切るのがうまいのね。」悴山の言葉に、渉は面を上げる。画面の向こうで、彼女は表情を険しくしていた。「私だったら、もう、そんなこと絶対に許せないわ。いくら仕様が変更される可能性があるって事前に告知されていても、そこまで完全に面白くなくなったら、論外。もう、怒り心頭よ。」そう、眼鏡の下の鼻息も荒く……「きっと、頭をかきむしって暴れちゃうわ。ネットで他のユーザーにその旨を伝えて、有志を募って、抗議文を長々と書いて、発売元に怒鳴り込んで……」悴山の言い回しには、尋常でない真剣味があった。渉はたじろぐ。
「そ、それは、凄いですね……」
「だって、渉君。本当に、心から好きなゲームだったのよ?」確かに、悴山は見るからに熱を帯びていた。まるで、それが本当にあったことのような……「そのゲームのためだったら、どんなこともできたわ。仕事も何もかも、どうでもいい。ただ、それだけプレイしていられればよかった。他のことなんて問題外。そのゲーム一つが、私にとっては真に大事だったのよ?それを、権限を持ってるとか、作り出したか知らないけど……向こうの勝手でそんなに酷く変えられて……それでつまらなくなって、すべてを台無しにされて、我慢できる?ああ、だったらもういいやって、そんな風に思える?桐生君、本当にそう思う?」
「それは……」渉は怯んだ。悴山の訴えは、まるで絡んでくるように続く。
「そんな風にできるくらいなら、元々、熱中なんてしないわよ。そうじゃない?どんな形にしろ偶然そのゲームと出会って、プレイしたら、もうたまらなく好きになって……寝食も忘れて、何もかも放り出して、ただひたすら熱くなったから……そんなに好きだったから、それがすべてだったから、だから、どうにも腹が立つんじゃない?違う?渉君は、そんなこと絶対にないって言える?そんな風に思うのは、おかしいかな?子供みたいだ、馬鹿だって思う?」激しい……いや、必死にすら見える形相で、悴山が問いかけてくる。
 渉は黙した。画面の向こうで、こっちを険しい……いや、嘆願するが如き視線を向けてくる相手を見つめ返して……そして、頷く。「そうですね……すみません。」どうしてか、謝ってしまう。「俺は、ゲームってわからないので……」そう、ミステリィとかそういうものでも、足りない気がする。昔ならともかく、今は……「そういった、何か……本当に夢中になれるものって、あまり経験が……」いや、経験も何も、一度もないのではないか。渉はそう思う。悴山が訴えたように、俺には、何かがあるだろうか。
 渉は考えた。何でもいい。今、悴山が訴えたように、まさにそれだけに熱くなれるもの。それだけあればいい、他はいらない、そう断じられるほどのもの……それが自分にないか、考える。ミステリィでなくていい。今の生活や、大学、コンピュータや……!
 渉は思う。いや、気付く。そう、そうだ。
 一つだけ、あるとすれば。
 今の俺が、そう思うとすれば。
 それは、きっと……
 
 


[363]長編連載『M:西海航路 第三十章(2)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時20分 Mail

 
 
 渉は沈黙した。何かが沈み込んでくるような感覚に重なって、小さな何かが弾け、ほのかに散っていくような……そんなイメージが、彼の中に発し、そして、ゆっくりと消えた。
 いや、消えてはいない。渉はまだ考えている。そうだ、それが……
 それが、もしも……
 そうだ、許せない程に、変えられてしまったとすれば。変わってしまったとすれば。「わかりませんけど……でも……」そう、俺の……自分の意に、反して……「気分が悪くなる、かもしれません……」それだけか?渉は考える。「……怒る、と思います。」怒る?
 何に、怒るのだ?
 変わってしまった相手にか?それを知った、自分にか?
 だとすれば、それはどうしてだ?何と違うから、怒るのだ?
 俺の、思い……
 記憶と違うから、怒りを覚えるのか?
「うん。だからね、どこかで許すことが必要なの。許容する……妥協が必要なのね。」悴山が、静かに言う。「ゲームであれば、開発した側の言い分と、プレイする側の言い分。共に、それぞれ根拠も正さも、間違いも当然あるわ。はっきり言えば、両者の求める形は元から別々のもの。それを双方に気に入る形にしようという考えが、そもそも矛盾してるのよ。それが、一対一の関係でも、何千、何万人が相対する関係でも、ね。」肩をすくめる。
「誰もがどこかでそれを認め、妥協しなければいけない。そうしなければ、どちらにとっても良い結果にはならないもの。作り出す側にとっては、受け手がいなくなってしまう。受け手は、作り出す側がいなくなってしまう。どちらが欠けても、駄目なのよ。そうしなければ、互いに必要なものが、必要でなくなってしまう。作り手は、受け手のことを考えて、できるだけ本来の良さを変えないことが必要だし……」笑った。「受け手は、何かと文句ばかりつけずに、一つ一つの修正をきちんと見つめて、良いものは良い、悪いものは悪い、と認めること。双方がそれができれば、きっと良い関係で成り立っていくわ。本来、すべてはそうなるのが一番なのよ。つまり、何か嫌なことが……バグがあっても、どちらもそれを許容することができればいい。だって、それ以外は普通に……楽しく、できるんだから。勿論、バグが致命的ならばそれは修正されなければならないわ。でも、完全にバグを消してしまおうとして大掛かりな何か……そうね、患部の切除手術みたいなことをすれば、それが新たなバグを産み出し、さっき説明したような延々と続く修正の上書きになって……作り手も受け手も、本来欲していたそれを失ってしまうかもしれない。だから、そうならないように……バグはバグとして、認めてあげることも必要だと思うわ。」悴山は語るようなそれでなく、まるで自分に言い聞かせるようにそう締めくくった。それを見て、渉は思う。口から出る言葉は……「ああ、ごめんなさい。また脱線したわね。」悴山が口許を手で抑えて、悪びれた表情になる。「もう、どうにも駄目ね。一体、何度脱線するのかしら。これじゃ、完全にダイヤ遅延どころか、鉄道員失格ね。ふふ、桐生君ももっと突っ込んでくれなきゃ。悴山博士、また論拠がずれてます!とか。あははっ。」何度も頷き、反省するようなポーズを取りながらも、悴山は笑う。「うん、つまりね、ドアの問題だっけ?トラブル発生の理由?」渉もそれを思い出そうとする。「私の見解は、とにかくそういうこと。この船、ネットワーク機能がやたら凄いから……すべてにおいて完璧を期する、とかエンジニアの人達がふんぞり返ってるんじゃないかしら。だから、小さな問題を修正しようとして当てたパッチが、別の問題を引き起こして……昨日みたいな、大変な問題に行き付いたんじゃないかしらね。うん、我ながら強引な推理だけど、そんな感じかな。」ころころと笑う悴山。まさに、こういう時はティーンエイジの少女のようである。
「とにかく会話がずれちゃったけど、ま、これも許容……妥協してくれると助かるわ、ね、渉君。」ウインク。渉はその切り替えの早さに戸惑う。「まあね、安全第一、防犯至上主義、というのもわかるけど……ほら、お年寄りのお金持ち……特に、お偉いさんばっかりがターゲットの、こんな派手な豪華客船じゃない?」意味ありげに、口許が少し持ち上がる。「現金にパスポートまで預かって、御大層なカード管理システムにしてるんだもの。もう少し、しっかりして欲しいわよね。セキュリティの皆さんも、エンジニアの皆さんも、ね。あははっ。」
 カード……ゲストカードか。そういえば、俺のカードは……渉は思い、そして笑った。
 そうだ、俺のカードなど、もうない。あの北河瀬粂靖の言葉を思い出せ。旅客資格を剥奪、停止する……そう、俺はもうこの船の客じゃない。御原健司の殺害者、殺人犯……容疑者として、護送されているところだ。次の寄港地、つまりは……「悴山さん、今この船は……やっぱり、ハワイに向かっているんですか?」
「え?」悴山は驚いた顔である。「それは……勿論、そうだけど。どうして?」
「いいえ……」渉は考える。そうなのだろうか。それで、正常だろうか。仮にも……いや、現実として、殺人事件が起こったのである。そんな船が、平然と……平常通りに、航海をするものだろうか。船の中には、まだ殺人者がいるというのに……!
「渉君?」渉は目を見開いた。
 そうか、俺が犯人なのだ。俺が犯人……そうだ、犯人はもう、既に捕まっている。だから、それは、船内は、安全なのだ。
 もう、何も起こらない。殺人犯は捕らえられた。だから、船は平然と、航海しているのだ。
 ぞっとするような何かが、渉の背中に流れた。
 そうだ。誰も、知らない。何も、知らない。誰一人、知らないのだ。
 そう、俺以外、誰も……
 渉は首を振る。口を開き……今にも震え出しそうな舌を抑えた。「あの……」必■に、言葉をしぼり出す。「それじゃ、その……部屋が開いた順番は?閉じたのも、時限……次第に閉じていったって言いましたよね?それって、何か意味があったんでしょうか?」渉はようやく、息を吐く。「開いていく時は、きっかり七分置きで……」
「閉じてるのも、七分置きね。」悴山が告げ、渉は驚く。「だって、そうでしょう?最後の扉……四十室目にエラーが発生して閉じたのが、二十九日午前、お昼直前の十一時五十三分。その前の三つの扉は、全部七分置きに閉じてる。それも全部、エンジニアが確認してるわ。そして、最後の扉が閉まった七分後の、十二時きっかりからドアが開き始めた。それも七分置きで、最後の扉である四十室目が閉じたのが、夕方の四時三十三分……とはいかなくて、七分ずれたんだけど。」頷き、彼女は続けた。「とにかく、計算は簡単よ。四十室が七分置きに開くんだから、かかる時間は16800カウント。つまりは280分で、4時間40分ちょうどよ。」悴山はさらりと数字を並べて微笑する。「開いたのがそのタイミングなんだから、閉じたのもたぶん同じでしょ。だから十一時五十三分から逆算して……最初の扉が閉じたのが、午前七時二十分じゃないかしら?ほら、最初にドアが開かないって訴えた人は、朝の七時四十分じゃない?その時には、既に三つの部屋が閉じていたのよ、きっと。少なくとも、エンジニアが出した開閉……トラブルの計測データによれば、それで間違いないと思うわ。」渉はなるほどと思う。考えていなかった訳ではないが、明確に数字を上げられると唸ってしまう。
 そう、すべてが七分置きに……「それじゃ、部屋が閉鎖されたり、機能が回復した順番は……」
「それについては見当もつかない。私が見る限り、完全なランダムじゃないかしら。それも、おそらくは最後の扉に至るための演出みたいなものじゃない?言い方は悪いけど、ムードを盛り上げて劇的にする……そんな理由じゃないかな。」渉は眉をひそめる。ムード……劇的?「実際、あの時の緊張感は半端じゃなかったわ。ライブでいなかった桐生君には、ちょっとわからないかもしれないけど。ほら、ホラーとかスリラー映画って、ほとんど一度目……初見の時が勝負じゃない?二度目って、もうネタがわかっちゃってるから……全然怖くないのよね、ああいうの。」
 吐息を散らす悴山の前で、渉は考える。最後の扉……「そういえば、途中で……午後ですか?エンジニアの作業で、扉が開いたって言いましたね。その方法は?それまで開かなかったのに、どうして開いたんです?それに、どうして最後の扉……108号室だけ開かなかったんです?それだけ別だなんて、おかしくないですか?」
「エンジニアが頑張ったんでしょ。」悴山は他人事のようにそう言った。「多分、プログラムを大幅に書き換えたりしたんじゃないかしら。それでも、御原さんの部屋が開かなかった原因は……流石にわからないわ。勿論、最後にそれが開いた原因もね。しかも、どうしてか七分遅れで。まあそれらも、演出って思えばわかりやすいけど。」悴山は考え深げに言う。「ほら、エンジニアが他の部屋のドアを開けてしまわなければ、最後の扉まで、四時間四十分じっくり使って……順番に、一つずつ開いていった訳でしょう?そこで最後のドアが開くのを待って、いざ開かなかったら、やっぱりね、こっちは驚くわよ。」その場にいたように、悴山は両手の手のひらを天井に返す。「そして、七分ずれて……十四分後に、おもむろにそれが開く。こうやって説明するとたいしたことはないけど、その場の人に……」だが、渉は気付く。そうだ。彼女は……悴山貴美は、あの部屋にいたのだ。そして……「観客にしてみれば、演出効果として抜群よね。私も、正直驚いたわ。」
 観客?
 渉はその、悴山が口にした一言に耳を疑った。まさに他人事の……殺人事件を面白がっているような口ぶりに、何かを覚える。怒りだろうか。それとも憤りだろうか。懐かしいようで、それでいて初めてなような……不思議な感覚が、渉の中に広がる。
「それじゃ、御原さんの■因は……」どこか憤るように渉は尋ねた。喧嘩腰のつもりではないが、画面の悴山はそれを察したように、今度は大袈裟に視線で天を仰ぎ、肩までの艶のある髪を揺らした。
「見たでしょう?鋭利な刃物を使った、背中への刺し傷によるものよ。専門的に言うと、背部刺傷による出血多量■。」表情を戻し、顔色一つ変えずに悴山は言う。彼女のいる部屋と共に、着ている白衣がやけに白く感じられる。
 白、か。渉は思う。「なら、御原さんの■亡推定時刻は?」赤い、部屋……
「わからないわ。」悴山は即答する。「でも、私達が部屋で貴方と御原さんを見つけた時刻……昨日の午後四時四十分の段階で、■亡からかなりの時間が経っていたでしょうね。」そこで悴山は、少しだけ口許を緩める。「専門外だし、よく検証した訳じゃないけど、たぶん……そうね、コロンブスの生タマゴぐらいまではさかのぼるんじゃないかしら?あはははっ。」
「え……?」渉は声を失う。画面の向こうで、悴山が笑っている。何がおかしいのか、渉はいぶかしんだ。
 何だって?コロンブスの、生……タマゴ?
 ゆでタマゴじゃなくて?
「なら……」だが、渉は質問を続ける。何かを振り払うように。「御原さんは……」
 誰が、殺したんです?
 そう尋ねようとして、そこで、渉は口をつぐんだ。
「ん……?」画面の向こうの悴山が、何?という風に眼鏡を持ち上げる。縁の太い……琥珀色のフレームを持つ眼鏡のせいでそう見えるのだろうか、彼女の大きな瞳がきらめいていた。あくまでも、傍観している……一歩離れて見聞している、そんな無邪気な、無垢とも呼べそうな輝き。
 そうだ。渉は冷静に判断する。そう、観客……あくまでもそうなのだと、気付く瞬間。
 ならば、どちらがそうなのだろう。彼女か、俺か。
 同じ映像。お互いが、お互いを、こうしているのだろう。向こうの部屋の悴山と、その後ろにいる、ロバート・グロス。そして、こちらの……この部屋の、俺。
 間違いない、観客なのだ。画面越しに、互いを眺めている。ただ、互いに関与しない、干渉しない、別の個人として。
 ならば、どちらが観客なのだ?
 渉は笑った。心の底から。だが、顔には出さない。そんな必要はない。
 そう、それは同じだ。先程の、俺の問いと。口に出されなかった、問いと。 
 それは、おそらく、自明なのだ。
 俺以外の人間には、わかりきっていること。
 そうだ。渉ははっきりと、それを自認する。
 子供でも判断できるだろう。
 血まみれの部屋に、二人の人間がいる。一人は■んでいた。もう一人は、凶器を持って生きていた。
 そして、部屋は閉ざされている。少なくとも……いや、半日の間は、間違いなく誰も出入りしていない。
 その状況を鑑みて、どう結論を出すか?
 確かに、自明だった。あまりにも、完璧に。
「俺は……」渉は呟く。「俺が……」右手を見る。そこにある、自分の腕を。その手のひらには、何もない。あの時、おそらくは赤く染まっていたであろう腕。それは今、奇麗に洗浄されて、何もないようにそのままだった。
 俺の手。渉は自然、それを握った。感触を確かめる。そう、拳が握られる。堅く、強く。
 そこにある、何かを掴むように。
 それは、凶器だろうか。いや、そうではない。あんなものではない。
 渉が感じたのは、確かな何か。
 彼しか知らない、そこにあったもの。
 今は、もうない。だが、だからこそ、確かに信じられるもの。
 ないからこそ、あるもの。
 失われた、確証。
 存在する、虚構。
 そうだ。誰も、理解してくれなくていい。理解されようとも、理解して欲しいとも思わない。
 俺が、俺一人が、そうであるならいい。
 渉は口を開く。決意を以って、画面の向こうの彼女を見つめた。
「悴山さん、お願いがあります。」
「何?」悴山はわずかにほほえんでいた。「いいわよ、聞けることなら。何かしら?」
「船長に……」渉は、静かに告げる。「村上瑛五郎氏に、会わせて下さい。」ゆっくりと、その名を口にした。
「船長さんに?」悴山が驚いたように言う。「どうして?」あくまで、ただ興味をひかれたように付け加える。
「すみません。それは、話せません。」渉は一瞬、視線を外す。「ただ、どうしても……俺は、船長に話さなければならないことがあります。お願いします。どんな形式でも構いません。この、ディスプレイ越しの面会でもいいです。」そこで、気付く。「でも、できれば……直接、二人だけで直に話したい。俺には、そうしなければならない理由があるんです。どうしても……」渉はうずくような感覚を必■に自制する。そうしないと、叫び出しそうだった。「俺を疑うなら、ぐるぐる巻きに縛っても構いません。どんな形でもいいです。村上船長と、話をさせて下さい。短い時間で構いません。二人きりで……頼みます。とても……この船のために、本当に大切なことなんです。お願いします……」これほど人に頼みごとをしたのは、生まれて初めてかもしれないと渉は思った。
「桐生君……」少しの間考えていた悴山は、そこで、小さく頷いた。「わかったわ。私から頼んでみる。たぶん……ええ、きっと大丈夫だと思うけれど。」ほんの一瞬、その口許に小さな笑みが浮かび、そして消える。
「ありがとうございます。」
「いいのよ。一応、仕事だし。それに、桐生君は私の患者よ?」悴山は笑った。「私、一度診た患者はね、絶対に忘れないの。昔気質って言われることもあるんだから。ふふ、嘘じゃないわよ?」渉も、思わず笑う。
「わかります……なんとなく。悴山さん、面白い人ですね。」言って、とんでもないことを口にした自分に気付く。渉は赤面した。「すみません。その……そう思って。」
「ううん、嬉しいわ。」悴山はチャーミングに眉間を指で払う。「つまらないって言われるの、最悪なの。嫌いだ、の方が遥かにましよ。良いも悪いも、立派な感情だけれど……興味をそそられない人間って言うのが、一番つっまんないものね。笑わたり呆れられたりするのって、とっても嬉しいわよ。ありがと、渉君。」
「笑うつもりじゃないですよ。ただ、時々……どうしても、おかしくなるっていうか。悴山さん、その、よければ……」
「あ、年齢についてはノーコメントよ。」渉は驚く。まさに、それが渉の知りたいことだった。「それは、絶対の秘密。桐生君だって、人に気安く歳なんて教えないでしょう?」
「え……どうしてですか?俺は、二十……」
「あー、こら!」悴山が勢い立ち上がり……本当にガタンと音を立てるように椅子からそうして……叫ぶ。「ストップ!そこで、止めっ!」両手を振り上げた白衣の女医に、渉は焦った。「はい、それでよし。いい、桐生君?男と女で楽しく語らっていて、互いの年齢の話をするほど不毛なことがある?どう、ちょっと君、考えてみて?」
 呆れながらも、渉は真面目に考えた。どうだろうか……「確かに、そうかもしれませんね。」だが、それでもやはり、どこか滑稽だ。そう考えて、渉は気が付いた。「でも、さっき……」そうだ、彼女は堂々と俺の……
「うん、でしょう?」そんな渉の様子を……目の前の画面を見ていないのか、悴山は鼻を鳴らすような剣幕で腕を組み、ふんぞり返る。そんな子供のようなポーズがあまりにも白衣の格好と不釣合いで、渉は思わず吹き出しそうになった。「そんな話をするくらいなら、哲学書やら漢字が山のように乗った辞書やらを読んでいた方がまだましよ。そうね、学会のおじいさんの演説の方がずっとましだわ。」まさに子供のように首を振り、悴山は指をピッと立てた。「とにかく、年齢だけは駄目。だって、そんなのわかったって、全然面白くないじゃない?私、今まで男の人とそんな話をして……いい結果になったことって一度もないのよ?」渉は眉をひそめた。また、異質な……異様な感覚になる。だが、それでもおかしい。笑いそうになり、渉は首を振って……そして、再び痛みを感じた。
「はい、わかりました……どうも、すみません。マナー違反ですね。」だが、そこでまたふと思う。「なら、悴山さんは……そうだ、何が専門なんですか?」
「ん?医科のこと?内科とか外科とか、そういうの?」
「はい。前に、外科は専門外って言ってましたよね……すると、内科ですか?」らしい……かもしれないと渉は思う。甚だ好い加減な判断だったが。
 もっとも、彼女の言い回しを聞いていると内科よりもむしろ外科、しかもメスを握って手術などをしている姿が似合うかもしれない、と渉は思った。だがそれは、漫画のようにも思える。
「うーん、聞きたい?聞いちゃうとつまらないかもしれないわよ?」悴山は何やら無頓着に笑う。本当に表情が豊かだ、と渉は思った。「ネタバレ、ってよく言うけど……手品の種明かしみたいな感じでそれを見たり聞いたりしちゃうの、私、嫌いなんだ。ほら、さっきも言ったでしょ。展開を知ってるホラー映画と同じ。ドキドキするはずのシーンで、登場人物がどうなるのかわかっちゃってたら、もう、つまんないじゃない。私の医科も、きっとそんな感じよ。」そこまで言って、ふと思い付いたように悴山は渉を見た。「ねぇ、渉君。それでも、聞きたい?」悴山は眼鏡の奥の瞳を細めた。
「それだけ言われると、余計に気になります。」渉は笑う。
「あっ、それはそうよね。うん、いっつもそうなのよ……私。」悴山はポン、と自分の額を白い手で叩いて見せた。「言わなくてもいいこと、片っ端から口にするから……結果、何だか宙ぶらりんな関係で終わっちゃうのよね。でも、どうしてかそれに満足しちゃったりして……ゲームだと勝つまで絶対止めないのに、現実だとすぐに割り切っちゃう。本当、変よね、私って。」あまりに子供じみた物言いに、渉はたまらず吹き出した。「あ、桐生君……ひどいわね、ちょっと、それは何?ねぇ、何がおかしいの?」
「すみません……でも、悴山さん、今のは……」まだ、笑いが漏れる。頭が……首筋が痛かった。だが、おかしい。どうしてか、渉は笑い続けた。
「まあ、いいけど。」悴山はそんな渉を仕方ないといったように手を上げ、ふと気付いたように周囲を見回した。帳面を手にして、そして、渉に向き直る。「随分長く話し込んじゃったわね。ごめんなさい、桐生君。私もそうだけど……貴方も、少し休まないと駄目よ。渉君の怪我は、本物なんだから。」医師としての顔なのだろうか、眼鏡をかけ直して微笑する。
 渉も真顔に戻った。「いえ……その、色々と教えてくれて、ありがとうございました。」
「そう?足りないとは思うけど……また、機会はあると思うから。その時までに、色々とね。」軽くウインク。渉も、自然に会釈を返す。「さっきも聞いたけど、足りないものはない?欲しいものがあったら、言ってね。とりあえず、食事は必要よね?」
「あ、はい……そうですね。」空腹かどうかはわからなかったが、渉は頷く。「あ、そうだ……よければ、時計をいただけませんか?」
「時計?」
「はい。大きさは別に……腕時計でも、何でもいいです。時間のわかるものなら。ここにいると、時間の感覚もなくって……」
「了解。」悴山は頷いた。「そうよね。ネットワークも使えない訳だし……ごめんね、桐生君。」渉は面食らったように頷く。悴山が、クスッと笑った。「とにかく、わかったわ。目覚まし付きのがいいかな?とにかく、すぐに用意させるわね。そうだ、渉君、モーニングは和食と洋食、どっちがいいかな?私は断然、洋食だけれど……桐生君は、和食が好きそうよね。実は、目玉焼きとか得意じゃない?ほら、一人暮らしの男の料理の定番じゃない?」渉は思わず吹き出しかける。悴山は楽しそうに片目を閉じて見せた。「薬も処方するから、ちゃんと飲んでね?苦いかもしれないけど……ふふ、デザートにアイスでもつけておきましょうか?」今度こそ、渉は笑い返す。「うん、待っててね。それじゃ……」
「あ……」渉は気が付く。「あの、悴山さん。さっきの話……」
「え?あ、ええ……あれ、ね……」照れたように悴山は赤くなった。「うん、わかったわ。あのね、私は……その、専門はね……」
 渉は目を瞬かせる。「いえ、その、違うんです。俺が、村上船長と話がしたいっていう……」
 悴山はきょとんと目を丸くした。渉にとってはまさに呆れる一瞬である。「あっ、な、なんだ。うん、そっちのことね。はいはい、勿論忘れてないわ。次に会った時に聞いてみるから。」照れたように、頭をかく悴山。「でも、船長さんも忙しいみたいだから、すぐにとは行かないかもしれないけど。流石に渉君、北河瀬さんには会いたくないでしょう?」
「えっ……」渉は思い出す。そう、北河瀬……「粂靖さんですか?」それ以外に誰がいるの?という調子で悴山が肩をすくめて見せる。
 その仕草で、渉は思い出した。「そうだ、悴山さん。彼は、俺に……」そう、宣告だった。「……いえ、その、あの人は、誰なんです?船員の……乗務員の、どういった立場の人なんですか?」そう、現時点での……
「ああ、北河瀬さん?」渉は頷く。「あの人は、副船長よ。船長さんと交替で、クルーを統率してる人の一人。まあ、偉い人ね。チェスで言うなら、ビショップかな。」疑問が一つ氷解した。だがそれは、決して面白くはないものだった。だが、問題はまだある。そう、北河瀬……
「そうだったんですか。でも、北河瀬さん、彼は……」だが、もう一人の名前を告げようとして、渉はためらった。言ってもいいことなのか、そもそも関係はあるのか。それが、わからない。
「気にしないで、って言っても気休めにもならないかもしれないけど……」渉の沈黙をどう解釈したのか、悴山は元気付けるように笑った。「まあ、色々あるわよ、人生は。前向きに生きないとね。そうでしょう、桐生君?」
 渉は、そんな彼女の態度に笑う。自然に……そう、あくまで普通に笑えたと思う、そんな瞬間。「はい。わかってます。」
「よろしい。」まさに教師のように悴山は言葉を切った。「村上船長の件は任せて。何とかしてみるわ。」軽く、片目を閉じる。
「はい。でも、できるだけ早くしてくれると助かります。その……」渉は笑いを止めて唇を結び、息を詰める。「……一刻を争う、かもしれないんです。」
「わかったわ。それじゃまた、桐生君。ロバート、長い間お疲れ様。」今をもって銅像の如くに背中に立っている男。渉も今更のように彼の存在に気付く。まったく、部屋のオブジェのようだ。悴山はそんなロバートに何事か……そう、あまりに早すぎて聞き取れない英語を発し、そして、思い出したように渉に振り返った。「そうだ、桐生君。あのね……」
「何ですか?」渉も立ち上がりかける。
「うん、その……笑わないで聞いてね?」
「はい。」何だろうか。渉は少しばかり緊張する。
「さっきの話だけど……」言われて、渉はいぶかしげに眉を寄せる。そんな彼の前で、悴山は声を潜めて……画面越しに、囁くように言った。「……実は私、精神科医なの。」
 渉は笑わなかった。そして、悴山の映像が消える。
 
 


[364]長編連載『M:西海航路 第三十章(3)』≫すべF: 武蔵小金井 2003年06月02日 (月) 23時21分 Mail

 
 
 それから、彼女が消えてから、どれだけの時間が経ったのか。
 渉は、現実を取り戻す。
 いや、過去でない、今を思う。
 今の、自分。ここにこうしている、自分を思う。
 その切り替えは、信じられないほど容易に可能だった。
 自分の現在を考えることが、過去のそれと等しく感じられる。
 渉は笑った。だが、それは当り前だ。
 そう、これほど客観的になれることもないだろう。
 何しろ、自分自身のことでありながら、その記憶がないのだ。
 何もかも自分を置いて、その半面、自分を中央に据えて行われている。
 渉はさらに笑った。何という、滑稽極まる状態だろう。これでは、自分と同じ名前の主人公が活躍するミステリィを読んでいるようなものだ。どこまでも客観的なくせに、どうしてか、自分が物語の中心にいるような気がする。それは、仮想現実、という言葉を用いて考察してみれば、まさにリアル……どこまでも、真に迫っていた。
 そうだ、これがすべてバーチャルリアリティであると言われても、今の俺なら、間違いなくそれを納得できる。今しも、その黄色いドアが開いて、そうだ、昔あったテレビ番組のように、派手なプラカードを持ったスチュワードや船員達が現れて……『桐生渉さん、ロイヤルスイートのお客に、船会社から臨場感溢れる船内ドラマをプレゼントです』そう、スタッフもぞろぞろと出てきて……そこには、悴山女史も、俺がこの船で知りあったすべての人々がいるのだ。『いかがでしたでしょうか、桐生さん。豪華客船で発生した謎の殺人事件。しかも、お客様が犯人にされてしまうという驚異のストーリー。濡れ衣を着せられ、冤罪を受ける身となって苦悩する気分。他のどこでも味わえない、迫真のミステリィ体験はいかがでしたか?』
 渉は苦笑する。もしもそうだったら、それが事実となったら、どうだろうか。勿論、そうなった方が遥かに現実味があるが、許すか許さないかという問題としてはまったく別な気がする。きっと俺は、烈火の如く怒り……その半面、どこかで安心するだろう。よかった、やっぱりそうだったんですか。でも、あまりに趣味が悪いですよ。こんな大がかりに行えば、誰だって引っ掛かります。ここまでしなくちゃならなくて、しかも、ここまでされて喜ぶ相手なんて、よっぽど普通じゃない神経の……!
 渉は目を見開いた。身体に、本物の震えが走る。
 そうだ。
 そう、違う。
 そうだ、もしもこれが、違ったとすれば。
 これが、俺でなかったら。
 ここにこうしているのが、俺でないとすれば。
 これが、そのために作られた虚構だとしたら……
 そう、現実としての、虚構だ。本人にとって、事実かどうかは関係ない。勿論、それを演じる者達にとっても。
 体験してしまえば、それが現実となる。
 それは、これは、ただ一人の人間にとってのみ、虚構なのだ。世界の誰も、そう気付かないかもしれない。だが、ただ一人……唯一、それがわかっている者がいる。いや、いたとすれば、どうなる。
 その手によって、これが為され。そして、用意された状況だとすれば。
 それは、間違いなく、違う。
 そうだ。俺ではない誰か。
 このすべてが本来、俺のために準備されたことではなかったら。
 だとすれば、どうなるのだろうか。
 間違いなく、俺ではない。
 そうだ。元から、そのはずではなかった。
 俺の代わりに、いや、俺と共に、ここにいたはずの人物。
 誰よりも謎を好み、誰よりも好奇心が強く、そして……
 誰よりも、そう、超然とした、人物。
 そうだ、彼女……西之園萌絵。
 彼女が、ここにいたとしたら?
 あの日、あの時間、俺とここに……この船に、乗り込んだとすれば?
 全身に震えが伝わるのを、渉は抑え切れない。
 首が疼く。ギプスを填めたそこだけではない。今更のように、全身の傷が疼いた。乾くような、それでいて熱くなるような感覚。激しく、そして、強く。
 そうだ、何もかもが、納得がいく。それならば、理解できる。
 もし、そうだとすれば。
 だとすれば、どうなったか。
 俺ではない。そうだ、俺などであろうはずがない。
 俺が、そうであるはずはない。
 そう、そうだ……
 天才が……
 彼女が、それを望むか?
 否、あり得ない。
 そんなことは、絶対に、ない。
 ならば、今、ここにこうしているべきは。
 それは、俺ではない。
 呆然として、渉は首を振る。
 用意された、ステージ。
 配置された、人物。
 発生した、事件。
 ただ一つ、違うこと。
 それが、あるとすれば。
 それが、あったとすれば。
 それは、俺が……
 俺が、ここにいることだ。
 いや、違う。それは、正しくない。
 彼女が、西之園萌絵が……ここに、いないことだ。
 そうだ。彼女は、想像を越えているのだ。
 計れない存在。絶対によってすら、統轄できない存在。
 俺などでは、否、そういった次元ですらない。
 だから、用意された。準備されたのだ。
 すべてが、彼女のために。そうであるとすれば、どうだ。そう、どうなったのだ。
 渉は息を吐く。全身からの痛み、それは耐え難かった。だが、それよりも遥かに……そう、心の動悸とでも言うべき激しい振動が、彼を震わせ続けている。
 そうだ、だが。
 ここに、彼女はいない。
 存在しない。どこにも、いない。
 いるのは、俺。俺しか、自分自身しか、ここにはいない。
 ならば、俺は……
 俺は、どうする?
 渉は目を閉じた。信じ難い認識が、だがしかし、だからこそ確かな真意となって、彼の中に……意識に流れていく。とくとくと、まるで、血の流れのように。あの時垣間見た、鮮血のように。赤く。
 赤い部屋。壁に刻まれた、文字。
 M.M.。
 渉は息を吐く。自分……桐生渉という個人にとって、許容するべき度合を越えるが如き勢いを伴う、苦痛に。
 そう、大きすぎる。深すぎる。到底、思えない。そんなことが、可能とは思えない。そんなことは、不可能だ。
 彼は震えた。どうしようもなく、震えた。まさに、子供のように。
 怖れ。畏れ。ただ一人の部屋で、だがそれとは無関係に、彼は震えた。
 そうだ。できるはずがない。
 いや、そもそも可能なのか?できるという、可能性があるか?1%……いや、100%、絶対に……
 お前には、不可能ではないのか?
 何故なら、俺は、それを認めた。それが、たった一つの確証。俺が、認め……そして、心に刻んだ、現実。
 それが、あの夏の記憶だった。
 病室で、永遠の時を感じながら、ただ一つ認めた、真実。
 俺は、それを。
 自分のそれを、知っている。
 それでなお、俺に……
 この俺に、それが、できるのか?
 自問。
 だが、答えはない。答えられない。
 答えは、出ない。
 可能か、不可能か。
 成功か、失敗か。
 是か、否か。
 答えが、どちらか。
 それが、出ない。
 わからない。
 渉は、周囲の……空間の広大さを感じた。目を開ければ、そこには絶望的な空間。それすら、今の自分に越えることは不可能に思える。その先に、何があるのか。それもわからない。何も、わからない。すべては未知だった。そして、道は、どこにもない。
 そうだ。無理だ。無謀だ。そんなことは、できるわけがない。不可能だ。行うことが、いや、考えること自体が無意味だ。
 数多くのそれが、聞こえる。それは、だが間違いない。すべてが正しい。間違っていない。本当に、そうなのだろう。
 ならば、どうするのか。
 行動しないことは、あり得ない。
 そうだ、座することも、顔を背けることも、また、行動だ。
 終わらせる方法は、一つしかない。それが、最後の選択肢だ。そうだ。渉は笑う。乾いた心で。
 もう、何もできない。既に、すべては終わった。到底、無駄なのだ。俺は無力だ。無能だ。だがそれでも、最後の選択肢を選ぶことだけはできる。それを選べば、それでいい。それ以外は、もう嫌だ。何もかも、そこには何もない。行き付く先は、ない。俺には、何もない。すべては、無理だ。
 だから、そうする。そうすればいい。そうだ、簡単じゃないか……
 渉は笑った。そうだ。お前はずっとそうしてきた。あれから、あの夏から、ずっと。
 だから、それでいいのか?
 このまま、そうなっていいのか?
 何もかも、無駄かもしれない。そうだろう。確かに、そうかもしれない。
 それで、だから不可能だと思い、俺は、このままでいるのか?
 完璧を……
 絶対を相手に、歩を止めるのか?
 それが、桐生渉。お前が、自分で……決めたことか?
『渉はこれから、どうするの?』
 三度。その声は、聞こえた。
 いや、違う。
 ずっと、聞こえている。
 聞こえていた、声。
『じゃあ、今度は、そっちが決める番だね』
 渉は、笑った。
 嗚咽だったのか。
 それとも、嬉しかったのか。
 流れ落ちたものは、何か。傷の痛みが、背筋に響いたのか。
 声もなく、音もなく、彼は、笑った。
 ずっと、ずっと、彼は笑い続けた。
 そうだ。
 忘れてはいない。
 約束、だった。
 約束、したのだ。
 ならば、今。
 俺は、
 それを、果たそう。
 遅すぎたかもしれない。
 もう、何もかも無駄かもしれない。
 到底、不可能かもしれない。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 可能性があるか、そんなものはないか。
 そんなことは、二の次だ。
 可能だから、行う。
 できるから、するだけだ。
 結果など、無意味だ。
 どうなるかなど、関係ない。
 彼は、顔を上げる。
  
 それが、桐生渉の出した答えだった。
 
 
 



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